ROOM

信州の片田舎、小さな、小さな村の物語。

 僕は小説家。小説家といっても、まだ一冊も本を出した事はない。ただ、暇さえあれば何か書いている。僕はお気に入りの黒ぶち眼鏡をひょいと直した。小説のタイトルが決まらない。普段はタイトルありきで書き出すのだが。まぁ焦ることもない。締め切りがあるわけでも、待っている人がいるわけでもない。自称「小説家」なのだから。
 この町に引っ越してきて、そろそろ1ヶ月が経つ。ここは僕のおじいちゃんの家。おじいちゃんは僕が小学校の頃に亡くなっている。それ以来ここには誰も住んでいない。親戚の人も住むつもりはないらしい。物好きか、変わり者しかこんな場所には住まないと思う。なにしろ僕が勝手に住み着いているのだから。若い人が住む所ではないと親、兄弟には反対されたけど、僕はここが気に入っていた。僕はここに来る前はオーストラリアに3年住んでいた。自由に、のんびり、解放された自分をやっていたけれど、でも、今は絶対にここの「空間」のほうが好きだ。太陽の光がここでも燦々と届くし、風が飄々と吹く。
 ここは静かな場所ではない。実はとてもにぎやかな場所なのだと、気づいた。人工的な音といえば飛行機が残していく一本の筋雲音。あとは太陽が草や地面を焼くじりじり音。草むらを動く何かのうろうろ音。自然の大合唱。幼い頃は何か理由があってもここに来るのが嫌いだったのに、今ではこの「空間」にいることが僕の全てになっていた。
 「回覧板でーす」と戸が開き、玄関に投げ込まれる。
 「はーい」と返事をするも、戸はすでに閉まっている。わざわざ顔を合わせることもないのだ。警戒心ではなく安心感からなっているのだ。戸締まりは外出時以外は開けっぱだ。夜寝るときも、お風呂に入っているときも。僕は風呂上がりのビールを心から愛している。常にストックを欠かさないが万が一にも切らしてしまったときは気が狂ったように取り乱し、慌ててスーパー「生鮮市場」まで買いに行く。車で10分ほどあるそこまで行くのに、必ず湯冷めする。それでも必要なのだ。僕はまったくといっていいほどテレビを見ない。同じような番組しかやっていないから、つまらない。天気予報すら気にしない。そのほうが返って毎日を楽しめることを知ってしまったからだ。もちろん、明日を予想する楽しみ方もあったりする。着ていく物を選んだり、出かける場所を考えたりと。ただ僕はその日暮らしなのだ。昼間っからビールを飲むときもあれば朝の5時に起きて畑に行くときもあるし、太陽に挨拶をしない日もある。繰り返される毎日だけは決して過ごさない。今日はどんな夢を見よう。そして、今日も誰とも話していない。

 最高級に天気のいい日曜日。玄関に鍵をかけた。小説を書くのに必要な物を詰め込んだ愛用の大きめのボストンバッグとショルダーを肩にかけ、蔵の裏手に出た。駐車場に、古いサニートラックが停めてある。
 トラックにはすでに寝袋、ランタン、常備のジャックダニエル。中身の少し入った魔法瓶、それに荷台には友人から貰ったギターケースが積んであった。ボストンバッグは助手席に、寝袋は床に置いた。荷台のギターケースは洗濯ロープで固定する。
 僕はトラックの運転席に乗り込んで、頭の中で持ち物を点検した。眼鏡、ボロボロのジーンズ、チェックのネルシャツ、大好きなTシャツ数枚。いける。忘れ物があっても途中で買えばいい。僕は色褪せたリーのジーンズに、白のハイカットのオールスター、真っ赤なTシャツ、もう10年以上も身につけているレザーのブレスレット、レイバンの白ぶちサングラスというスタイルで。
 トラックのエンジンは3度目でかかった。ジャック・ジョンソンのイントロを聴き、バックで道路に出て、ギアを入れ換え、まぶしい朝の光のなか、通りをゆっくり走りだした。朝日に向かって。
 僕は海のない信州が気に入っていたし、山に囲まれたこの地域がどこか偉大な感じにさせてくれた。急ぐ理由もないし、ましてや時計もない。ときどき車を停めて面白そうな場所をメモしたり、詩を書いてみたりした。日が傾きかけた頃には僕はできあがっていた。田んぼ道をただひたすらのんびり走らせていた。
 もう何度目になるかわからないけど、ときどきこんな旅をする。こんなときは、犬が、ラブラドール・レトリーヴァーが欲しい、しかも黒、と僕は思う。こんなふうに車を運転しているとき、僕はいつも自分の人生の棚卸しをする。犬のこともその一つだ。僕は孤独だった。携帯電話も持たず、周りとは音信もなく、親しい友人も多くはなかった。
 山間部のキャンプ場で一泊することにした。だいぶ夜が更けていた。荷台にマットを敷きランタンを灯した。荷台に寄っかかりジャックダニエルを飲みながら今日書いたものを読み直す。
 翌朝、トラックのステップに腰をおろして、珈琲を飲み、信州の県木、白樺の樹間を吹きぬける風の音に耳を澄ました。
 「本屋でもやろっかな」と、僕は池の上を飛んでいる小鳥達を見ながら考えた。いまさら言うまでもないことだけど、商売は難しい。

 信州に来る前に付き合っていた女性がいた。愛しているわけでもなく、いつか愛するとも思えなかった。ときどき、お互いにちょっぴり寂しくなって、夜をともにすることがあった。映画に言行って、お酒を飲み、そのあとで慎ましい営みをする。彼女は経験豊かな女性ではなかったが、いっしょにベットに横たわっていると必ずこう言った。「あなたは最高よ」
 そう言われるのは、悪い気分はしなかったけれど、女性の本心はわからなかった。

 いま、僕は30歳だが、相変わらず夢を、光を見つめていた。すでに、少年時代に読めと言われた本は部屋の本棚に積まれている。そろそろ自分の番だ。自分の現実がそこに来ていることを感じ取った。
 車を前庭に乗り入れると、蔵の前に一人の女性が座っていた。彼女はなにか涼しそうなものを飲んでいた。車を見ると、腰をあげて、近づいてきた。僕はトラックを降りて、彼女を見た。何度も見た。さらに見た。彼女はきれいだった。それとも、まだきれいになるかもしれない。僕はすぐにむかしのチャラい感じを取り戻した。

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  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-16

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