TAXI

 雨が降っていた。激しい雨。アスファルトに跳ね返った雨が足にかかった。風も強い。
 タクシーの空車を見つけた。救われたおもいで乗り込んだ。同室のような安心感がある。
 僕はネームプレートを見る癖がある。そして、顔と見比べてしまう。データを取っているわけでもない。
 ただ名前を知ると存在感がグット近くなる。

 「お客さん名前は?」
 「その質問は初めてです」と僕。タクシーでは聞かれない質問だ。
 「沢村俊輔です」

 学校に通う幼い俊輔君の後ろ姿がふわっと思い浮かんだ。山は高く、風は気持ちよく、細い道を行く幼い俊輔君。

 「まいったな。お客さん渋滞」すぐに現実に引き戻される。
 「5、10日だから」遠くでクラクションの音がする。
 「どうします?降ります?」
 元気もない、濡れた靴、折れた傘。
 「いえ、このままで」僕はしばらく安心していたかった。

 「事故かね」
 「はい。雨ですし」このままでいい。このままで。

 幼い頃は雨が好きだった。正確には黄色い長靴が好きだった。怖くない、泥道も、わざと用水路を歩く。
 走る、飛ぶ、そして転ぶ。傘とセット。
 「どうしてここまで汚してくるの?」と母に言われる。ふわふわのタオルに包まれる幸福感。母の手の匂い。お風呂に直行。
 明るい内に入るお風呂がよかった。湯船に浸かり、雨の音を聞く。
 「ちゃんと肩まで浸かりなさいよ」
 「はーい」大きな声で。

 「お客さん、声がいいね」後ろを振り向いて。
 「私ら、長くこの仕事してると声で色々わかるんだよ」チラッと笑った。前歯が二本しかなかった。
 「声は誤摩化せませんから」雨はますます強くなってきた。
 前を行く車のテールランプが赤く滲んだ。

 「もういいかげん。ってイライラしているおじいさんの車になんて乗りたくないってね。足もしびれる。でもお客さん、私ら人間にとって一番大切なことって何だと思います?」
 いきなりの質問で、窓ガラスが曇る。
 「働くって事だよ。心身。働くって事は、働が楽になるって事。畑を楽にする。動ける内は人様の為に働く」
 また前歯二本で笑った。
 少しずつ、少しずつ車が進み始めた。テールランプが点いたり消えたりしている。

 「私が心身深くなったのは、兄貴のことがあったから。戦争で死んじまった親父の代わりをしてくれて。弱いものいじめが嫌いで。そんな兄貴の声がいいわけよ。なんかすごくいいわけよ。わざと隠れたりするわけなよ。もっと聞いてたくてな。人に探してもらううてなんかいいよな」
 兄貴の一言に「この本を書いた人が一番言いたかったことはな、人にしたことは全部自分に返ってくる。善いことも悪いことも全部」

 信号を越えると急に車が流れ出した。
 窓を伝う雨粒が後ろに流れ出した。
 雨の日に浸かったお風呂みたいに。
 
 目的地に着いて、ハザードの音がリズミカルに鳴った。

 「運転手さん、声を褒めてくれて嬉しかったです」

 また、前歯二本で笑った。

TAXI

TAXI

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-16

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