聖夜 二幕

「聖夜」 二幕

ライトコートから射し込む柔らかな陽射しが塗装の褪せたフローリングに小さな陽だまりを造り出している。
窓外の落葉樹の葉擦れだけが微かに聞こえる閑散とした家の中で、何故か辺りの気配を窺うようにしている自分が可笑しかった。
眩い天窓を見上げ開け放った窓から入り込む乾いた寒気を深く吸い込んだ後、エプロンのポケットに差し込んだ携帯を取り出した。
幾度見返しただろう。
『昨日は、ありがとう─』メールに残されたったそれだけの短い文面に浮足立つ程ときめいている自分が信じられなかった。じっと文字を見つめていると、まだ記憶に新しい男の声が耳に蘇る。

「─また、会えるかな」少し掠れた響きの良い低い声で男が言った。
声には出さず下着を着けかけた手を止め、後ろ向きに頷いた。
男の声に反応し本能のまま即座に頷いてしまったことが恥ずかしく、思わず耳朶までが紅くなるのを感じた。
躰の芯が重だるく火照っていた。火照りは快楽の代償で、躰の奥底に眠りかけていた女の性を確実に目醒させた。
「心は─伴ってるか?─」晶子の乳房を愛おしそうに弄りながら言った男の言葉を思い返す。
数十年の時を超えた言葉だ。
貪るように互いを求め合った若い情事の際、男の背に爪を立て喘ぎながら晶子が時折求めた言葉を憶えていたのだ。
「─うん」荒い息遣いの中短くそう応え、頷いた。
老齢に差し掛かった肉体が意思を超え悦楽に浸り切ろうと貪欲に男を欲していた。
男の動きに身を任せながら目を閉じていると遠い日の激しい恋をしていた日々の記憶が一気に押し寄せ蘇って来る。
同時に何故か切ない気持ちが迫り上げ涙がこみ上げてきそうだった。

 昔の仕草そのままに半身を起こして旨そうに煙草の煙を吐き出す男の横顔を見つめている内に、晶子の心に罪の意識がぽつりと浮かび頭をもたげてきた。
「─こんなつもりじゃなかったのよ」思わず詭弁めいた言葉が口をついた。
「─悪いな─、強引に誘って。─けど、また会って欲しい」男はそう言ったが言葉に悪びれた響きはなかった。
「─長い間夢見てきたんだ。こんな再会を」男は吸いかけの煙草をもみ消すとベッドから起き上がり、全裸のまま近づき改めて晶子の躰を包み込むように抱きしめた。
「─無理だよ。わたしには家庭があるもの」寄せてくる煙草の匂いの残る唇を人差し指でそっと制して晶子が言った。
「─憶えてないか。あの日、別れ際に言った通りずっと待ってたんだよ。─漸く叶った夢をもう簡単には諦められない」男は耳許でそう囁くと、もう一度唇を求めてきた。
晶子は今度は抗わなかった。
隔ててしまった隙間を埋め尽くそうとする様に男は再び執拗に晶子を求め、背徳の罪を意識しながら晶子も男を受け入れた。
求められる言葉が、行為が甘く心を誘った。
 もうかなりの年月、夫は躰に触れてさえ来なくなっていた。
数年前、早期退職を勧告されたと項垂れて帰宅した姿を見た時、初めて夫の老いに気づき同時に十離れた歳の差を認識した。その頃を境に夫はすっかり精気を失くしてしまい夫婦の営みも無くなってしまった。
隠されていた性格だったのか気難しさが前面に出るようになり、細かい愚痴も多くなった。
子どもたちが独立した後の広い家の中の食卓で夫と二人きりで向き合って食事をしていると時折、介護の不安に因われるようにもなった。
朝起きて洗面台の鏡に映る自分の素の顔に迫る老いを認め、女としての季が幕を閉じようとしている現実に日々惜春の焦りも募る。
想いの丈を吐き出すように、緩慢だが熱を帯びた腰の動きに呼応しながら晶子は男の背に強く爪を立て迫り上がってくる快楽に身を預けた。

『今日、少しでいい。会えないか』昼過ぎに男からメールが入った。
男は晩くに見合い結婚したが直ぐに離婚した、と言っていた。
「─女と付き合う度いつもどこか物足りなく感じてさ。お前を求めていた時みたいに、あんなに熱く焦がれることはなかった─。駄目だな男は。いつまでもガキでさ─。いつまでもお前の面影を追いかけてた気がする。俺は結局あの頃を、お前を卒業できないままこの歳になった─」積年の心情を吐露するように男が神妙に言った。
若い頃から時折危うさを感じる程繊細な神経を隠さない性格をしていた。長い時間向き合っている内に余りの繊細さに疎ましさを感じる様になり、抱かれる度耳許で囁かれる愛の言葉さえ次第に薄らぎ心に響かなくなった頃、取るに足らない事が元で口論の末、男から別れ話を切り出して来たのだった。
─わたしには好意を寄せてくれている、あなたよりずっと大人の男がいるのよ─。勿論言葉にはしなかったがそんな気持ちが余計に男を子供じみて感じさせたのだった。

「─今日は早く帰るから。ケーキは俺が買ってくる」朝、出掛けに夫がそう言っていた。
晶子はクリスマスの料理を並べた食卓を思い浮かべた。
夫々早い歳で世帯を持ち、遠方で暮らす子どもたちが訪れる訳でもなく、食べ切れない晩餐を挟んだ夫婦二人が会話も少なく向き合っているいつもの風景だ。
『─少しだけなら』晶子は考えた末、男のアドレスにそう短いメールを返した。

 ピンクのリボンを外し淡いブルーの大きな包みを解くと、直ぐに浮き出すようなタッチの絵が目に飛び込んできた。
「─クロード・モネ!」晶子は思わず声を上げた。
「いつだったか欲しいって言ってただろう?この画集─。もしかして。もう持ってるのか?」
男の言葉に晶子は大仰に首を振ると、目を輝かせてページを捲った。
絵画に魅せられ憧れ、自らも絵描きを志した学生の頃─。きっかけになった作家が印象派の主格でもある「モネ」だった。
中でも「睡蓮」と云う作品には惹き込まれ心底傾倒した。
「─綺麗ねえ。やはり素晴らしいわ─。繊細で緻密、萌えるようなこのタッチ─」興奮気味に男を見上げた。
画集であれ、絵画をじっくり目にするのは本当に久し振りだった。日々に忙殺され自分の趣味さえすっかり忘れていた。
「─もう、描いてないのか?」男が言った。
晶子は目を落として頭を振った。
「当たり前じゃない─。自分の時間なんてありえなかったもの─」呟くようにそう言うと小さく溜め息をついた。
「─まだ、持ってるよ。ヴィーナスのデッサン」
男の言葉に、晶子はあからさまに驚いた目を上げた。
高校の卒業を間近に控えたある日、部室のイーゼルに掛けた拙い描き差しのデッサン画を男が欲しがり、半ば無理やり取り上げられた事があった。
「卒業証書と一緒に、大事にしまってある」男が言った。
「─あ」晶子は思い出した。
卒業式の日、二人は初めて結ばれたのだった。
男の部屋で初めて口づけを交わした時、男の唇が震えていたのが意外だった。
抱きあう形も不自然でお互い余りにもぎこちなく稚拙な初体験だった。
「─結婚しよう。いつも、いつまでも一緒にいたい」狭いベッドの上で優しく腕枕をしてくれながら男が耳許で囁いた。

 青の季を、確かに男と共有していた─。
数十年の歳月が流れて今、改めて男と巡り合った。
縁と云うものにに理りがあるのなら長い時を隔てても尚、関わりは繋がり続けていたのかも知れない。
「睡蓮」の憧憬を夫は知らない─。志した「夢」の形もこの人にしか分からない─。
晶子の中に今、晩春の風が吹こうとしていた。
おもむろに肩越しに回してくる男の手に指を添えながら、晶子は振り向く形で男の唇を受け入れた。

「─旨いな。ここのケーキ」夫が言った。
酒は嗜むが煙草もギャンブルも興じない。無類の甘党だった。
「子供の頃はこんな旨いケーキはなかったな。バタークリームがほとんどでさ─」ワイン一杯で酔ったのか珍しく饒舌だった。
思わず男との時間を過ごしてしまい慌てて買い物を済ませ帰宅した。
時刻は八時を回っていた。
「─ごめんなさい。買い物に手間取っちゃって。まだ何も出来てないのよ」ほとんど差がなく帰宅した夫に、忙しげに料理の支度をするふりをしながら晶子が言った。
「─そうだろうな。どこも混雑してるからな。大変だったな。そんなに慌てなくていいよ」勧告を甘受し早期退職、再就職してから夫は職場の不満を家にも持ち込みちょっとしたことで不機嫌を露わにする様になった。だが今日は穏やかに受け答えをしている。
遅い支度を咎められるかと構えていたが意外な思いで夫の顔を見返した。
「─うん。チキンもいい焼き加減だ」
「─そう?良かった」何かあったのか上機嫌な夫に内心安堵しながら晶子は先刻別れ際に囁いた男の言葉を思い返していた。
『─家庭を壊そうなんて思ってない。このままでいい─。ただもう、離したくない』夫を目の前にして後ろめたさを感じながら今、正に再燃しかけている初恋の残り火の埋み火の前に佇む自分を感じている。
躰の芯にまだ男の存在を感じ思い返す情事に頬が火照った。

「─どうした?気分でも悪いのか?」夫の言葉にはっと我に還ると、晶子は大仰に頭を振った。
「少し酔ったみたい。ワインなんて久し振りに飲んだから─」そう言うと曖昧な笑みを浮かべ両手を頬に当ててみせた。
「─そうだ。プレゼントがある」
晶子は目を上げた。
「二、三日で届くから、楽しみにしててくれ。何年か振りかのクリスマスプレゼントだ─」夫は嬉しそうにそう言うと晶子のグラスにワインを注いでくれた。注ぎながら、
「─仕事、辞めることにしたよ」ぽつり、と言った。
「え─」晶子は一瞬耳を疑った。
「もう、いいだろう─。散々時間に追われて来たんだ。子どもたちも独立して、ようやく二人になれた。家のローンももう直き終わる。後はお前と二人、のんびりやって行こう─」いつになく優しい笑顔を崩さずにそう言葉を重ねた。
 その晩は中々寝つけなかった。
退職する、と言っていた夫の言葉を思い返し毎日広い家に二人きりでいることを想像するとそれだけで気分が塞ぎそうだった。
晶子は隣のベッドにいる夫の寝顔を確かめた後コートを羽織りそっと部屋を出ると冷気に満ちたルーフバルコニーに立った。
見上げる澄み切った星空も何故かいつもと違って見えた。

『─変わってないな』また男の声が耳に蘇る。
「─ほくろの位置まで、よく憶えてる」ラブホテルの薄いライトに晒されたあられもない肢体を見下ろして男が呟いた。
「─やだ。歳を取ったでしょう─。恥ずかしいわ」消え入るような声で晶子が言った。
「─そんなことは、どうでもいい─。俺は、お前の躰を求めてるんじゃない」躰を重ねて来ながら男が息を荒くした。
「お前を失って心から悔やんだ─。永かった─、本当に─。悔やんだ時間を埋めてしまいたい。もう一度心を向けてくれ─」晶子の喘ぎを縫うように、男が絶え絶えに言った。
 埋み火が燃え盛ろうとしている─。
男の顔を思い浮かべると、はしたないと思いながらも女芯が疼いてしまう。
束の間であれ紛れもなく家族のため、私のために勤め上げようとしている実直な夫を裏切ってしまったことの後ろめたさは例えようもない。
いい歳をして身勝手な恋に焦がれ彷徨い始めた愚かな危うさを自覚し恥じてもいる。だが心に後悔はなかった。
本当に初めてのことだ─。過ちは確かなことだがわたしはまだ、足許を踏み外してはいない。
余りにも短い女としての季が終焉を迎えようとしている今、もう少しだけでいい。心のまま甘い誘惑に身を委ねてみたい─。
晶子は夜空に瞬く星々に向かいそんな言い訳を試みていた。

『─正月は、どうしてる?時間があるなら連絡してくれ』晦日から身重の嫁を連れて帰省する、と連絡があった長男の部屋を掃除していると男からそうメールが入った。
返答を考えあぐねていたその時、玄関のチャイムが鳴った。ドアホンのモニターを覗くと宅配便の業者が立っていた。
一抱えもある大振りな荷の受取人は晶子で差出人は夫だった。
『─何年か振りかのクリスマスプレゼントだ』イヴの晩の夫の言葉を思い出した。
荷は段ボールで二重に梱包されている。丁寧に梱包を解いてみると黄金色の額縁が現れた。額縁の角に大きな赤いリボンが掛けられている。
「─一体、何かしら」そう呟きながら額を引き出してみると鮮やかな淡いブルーの色彩が目に飛び込んできた。
「睡蓮─!」晶子は小さく声を上げた。
十五号と思われる大きなカンバス一面が萌え立つような繊細なタッチで埋め尽くされている。
複製画とは云え瞬く間に迫る憧憬には自然に惹き込まれる。
「どうして─」記憶を辿ってみても絵画についてなど夫と会話した憶えはない。
ふと気づくと品のいい額の裏に封筒が添えられていた。
『晶子へ』表書きはそうあり、封は閉じられていない。開けてみると薄いブルーの便箋に見慣れた几帳面な文字が並んでいた。
『晶子へ─。無事に仕事を続けてこられたのは全て君のお陰だ。本当にありがとう。言葉にするのは照れるけれどいつも大切に想っている。いつもありがとう。 メリークリスマス─』思わず頬が上気した。
翌春には銀婚式を迎える。永い歳月が流れたが夫から手紙をもらったのは初めてのことだ。
決して器用ではない性格が災いし出世も同期に水をあけられ、けれども黙って不遇を耐え忍んできた姿を見てきた。
晶子はライトコートを見渡した。
『─もう直き新しい命が生まれる。自分たちの城を持とう』入籍と同時にそう夫が決断した家だ。
『設計も自分たちの希望を取り入れてもらおう─』そんな提案に晶子は予てから憧れていたライトコートを望んだ。
いつも自分を優先してくれる人だった─。
そう思い返すと不貞への呵責が再び頭を過り、思わず目を伏せた。手紙と合わせて二重のサプライズに晶子は戸惑い狼狽えていた。

『─近くまで来てる。会えないか』男から二度目のメールが入った。
携帯を虚ろに見ながら晶子は返信を躊躇っていた。
目の前の鮮やかな色彩のカンバスが立ち留まる警鐘のように感じた。
不意に落ちてきた甘熟の実に魅せられ、わたしは危うい滑落の淵に立ちかけているのかも知れない。
全てに満たされた人生など到底、ありえはしないのだ─。
「縁がなかったのねえ─」かつて男との交際を知り見守ってくれていた亡き母が別れを驚き、半ば嘆くように呟いた言葉を思い出していた。
 三度目、男は待ち切れなくなったのか直接電話してきた。
鳴り続ける呼び出し音を聞きながら晶子は迷いながらも出なかった。

 その晩、夫は遅い時間に帰宅した。
「─参るな。年末は忙しくて」そう言いながらコートを脱ぎライトコートの向かいに掛けた「睡蓮」に気づくと、
「いい場所に掛けたな。うん─。実にいい絵だ」そう言って晶子を振り返った。
食事の後、
「─知ってたの?わたしの好きな絵」サイフォンのコーヒーを淹れながら晶子が訊くと少しの間を置いて、
「─いつだったかな。銀座の画廊の前で、じっと見てたのを覚えてたんだ。あの時も複製画だったけど。寒空の下取りつかれたみたいに動かなかったんだぞ、お前─」居間で爪を切りながら丸めた背を向けたまま夫が応えた。
「ありがとう─。手紙も。初めてね、手紙なんて。─本当に嬉しかった」素直な気持ちだった。
照れたのか夫は一旦手を止め後ろ向きのまま大仰に手を振ってみせると、
「─まさか本物は買ってやれんからな─。良かった。気に入ってくれて─本当に」そう言葉を重ね、数年前から掛け始めた銀縁の老眼鏡の縁を下げるとゆっくり振り返り、晶子を見て笑った。



         了

聖夜 二幕

聖夜 二幕

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-29

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