SIGN
1、プロローグ
ゴールドベルグ変奏曲 アリアを聴きながら
親愛なるどなたかへ
おそらく、あなたは今戸惑っているんだと思います。
こんな手紙を見せられて…。
2020年6月21日、私は自殺しました。
他の多くの人が、この行動をとる根拠はわかりません。
私の場合は、ある「頂点」に達してしまったからだと思います。
その「頂点」に達した時、もう何もかも意味が無くなってしまったのです。
あらゆるものが、既に見たり聞いたり知っているもののようでした。
あなたは私のことを異常者だというかもしれません。
でも私からすれば、本当に理解ができなかったのです。
このような世界で、楽しんで生きることが…。
私はもうそちらにはいませんが、死ぬ前に何かをこの世に残したいと思い立ちました。
私は特別何か作れるわけではなかったので、このように手紙という媒体を通して
後世の人達に、私が生きた証と、私が追い求めた真実を伝えたいと思います。
これから書くことを受けて、世の中と人類が真っ当な方向に向上していかんことを、切に願います。…
ここまで書いて、手紙を折りたたんで、机に置いて、私はビルの屋上に上った。
そこから見る夜景。人工の光。本当に美しかった。
よくこんなものを人は作ったものだと思う。
その頑張りは何? そしてどこへ向かっているの? こんなにまで作って…。
ビルのフェンスを越えてみる。流石に足がすくんだ。
でもこれはただの生体反応。心の準備はできている。
あとは一歩踏み出すだけ。
そう、一歩踏み出すだけ。
この時、涙が溢れてきた。
涙の意味がわからなかった。 でも、そう。
「悔しい」
私は人生に負けたのだ。なんたること。自分で納得して生まれてきたはずなのに、自分で自分に負けるとは。
私は負けず嫌いでもあった。
天を指差す。神様。本当に憎い神様の方向を。そして叫ぶ。
「あと1日だけチャンスをあげる!明日何も起こらなかったら、私は本当に幕を降りる!」
そしてあとの記憶が残らないまま、この日は終わった。
2、大学院
その日は何か起こる期待を秘めながらも、いつも通り用事も無いのに研究室を往復する。
勉強しているフリさ。
時間だけが過ぎていく。気がつけば夕方。このままいけば、今日は本当に死ななければならないけど…。
研究室に戻ると、机にメモが置かれていた。教授からの呼び出し。
ドアをノックする。入る。
毎回思うけど、教授はバカみたいに美人。こんな人、そうそういないと思う。
「就活は進んでる?」
進んでない。
「進んでます。」
やる気がない。なんでもいい。
「どういう道に進みたいの?」
「…プログラマーで就職口を探しています。」
「皆そう言うわね。」
教授はどこか遠い所を見つめる。
「あなたの成績は分かっているのよ。数字だけではない部分もね。だから、本当にもったいない。社会はあなたの使い方がわかっていない。」
教授の手から、招待状のようなものが差し出された。
「ICL、世界一の哲学研究所からあなた向けよ。場所はドイツ。興味はあるかしら?」
3、ICL
古びた建築だった。ここに歴代の世界中の賢者達が集い、この世について問い、叡智を蓄積させていったそうだ。その雰囲気がひしひしと伝わってくる。
通称「ジャコメッティの階段」。彫刻家のジャコメッティとは関係があるかどうかはまだ知らない。けど、多分そう。確かなのは、そう呼ばれてるってこと。
一段ずつ上っていく。
頭の中で、カンタータが鳴り始める。ここで歴代の哲学者は語り合い、世の中を解き明かそうとしたのだ。なんとロマンチックなこと!
アリストテレス、プラトン、カント、ヘーゲル、デカルト …
最高の頭脳が宇宙の真理に挑んだ遺跡。その思念が、この場所に溶け込んでいる。
ここで働ける幸せ。これからどんなドラマが待っているのか。
湧き上がる期待を胸に、通称「集会所」と呼ばれる部屋に飛び込んだ。
既に何人か集まり、円形に並んだ椅子で向かい合って座っている。
なんだ、大学のゼミのような雰囲気じゃないか。何をするんだろう?
突如として、会議が始まった。
テーマは「この世の構造について」。未だ人類が解き明かせない命題。
どれも聞き飽きた理論ばかり。 世界一のレベルでもこの面白くなさ。
でも、ゲーム説、ループ説、神説あたりは面白いと思った。 神説はなんでもアリなところもあるけれど…。
話す順番が回ってきた。 私の番だ。
「私は…」
全員の視線が集まる。
「…私は…、小さい頃からあんまり現実感というものが無かったんです。ひとつのイメージがあって、近くの小さな公園で私はたったひとり、ブランコに座っていました。その時、まだ経験として聴いたことのないゴールドベルグ変奏曲が頭の中ではっきりと鳴っていました。何を見て何を考えていたのかは覚えていません。でもすごく孤独だったのを覚えています…」
全員がこちらを凝視している。
私は一体何を話しているんだ? 話をまとめよう。
「…なので…そういった経験もあり…私が思うことは……、この世は夢のようなものではないかということです。私の体感としては、夢に似ているんです。何かの拍子に目覚めてしまうような…」
「じゃあ目覚まし時計を用意しないとね」
全員がどっと笑う。 さっきの神説の人か。 嫌な人だ。
「そう、目覚まし時計はあると思います。」
私は反射的に負けじと答えてしまった。 特に考えがあったわけではなかった。
私は負けず嫌いでもあった。
急いで説を付け足す。
「どこかに用意するはずなんです、目覚まし時計を。私達も普段の睡眠で、ずっと寝ているわけにはいかない、出勤があるからといって、睡眠に限度を設けるでしょう?
それと同じで、何かしらの形で用意されているはずです。」
「根拠は?」
その他大勢のうちの誰か一人が、どこから声を発したのかもわからない程度に言った。
根拠? そんなものはないよ。 あなた達の説だって、根拠以前の問題で、既に基本的なレベルで論理が破綻している。複雑なだけで。
そう言いたかったけど、わざと沈黙を通してみる。
沈黙が流れる。
「そういえば、ちょっと違うけど、こんな話を聞いたことがある。」
ループ説の人だ。この人は一番面白かった。ちょっと狂気じみた神経質そうな雰囲気だけど、やはり天才はこのような雰囲気を纏うものだ。
「全ての説に共通することになると思うけど、実際にこの世に『しるし』のようなものが確認されていることは事実だ。何かに気づかせようとしているように。遺伝子の構造だってそうさ。あんなものが自然にできたとは考えにくい。誰かが作ったとしか思えない。完全に暗号さ。それぞれの目線で目に入ってくるものの情報の中に、それは潜んでいる。何気なしに書店に行った時に目に入ってくる本のタイトル、ネットで見たセンテンス、出会う人々、その人が発する言葉。その中に『しるし』が含まれていて、私達に何かを伝えようとしている。」
ここで一呼吸置いて。
「ここからは余談なんだけど、最近ホットな話題があって、『SIGN』っていう本があるらしいんだ。どこで手に入るかはわからない。誰が手にするかもわからない。ただこの本、読んだ瞬間からその人の人生が一変してしまうほど強烈なものらしい。つまり、限りなく真理に近いことが書かれてある。」
「宗教では?」
「そんなんじゃない。ただの小説なんだ。それも名もしれぬ一般人が書いた。こういうところにこそ、真実は潜んでいる。仮にも哲学をやっている者なら、ピンとくることだと思うが。」
空気を壊すようにドアが乱暴に開かれた。
浮浪者みたいな出で立ちの人が入ってくる。野蛮人みたい。
エスニック風のファッションで装飾も多く、歩くたびにジャラジャラ鳴ってる。
何この人? この人も研究所の人? だったら最悪。 近づきたくない。 だって…
…クサい。
「おいマサ、今日も遅刻か。 で、考えはあるんだろうな?」
「…」
「勘弁してくれよ。 一体何の為にここに勤めているんだ。」
神説の人も便乗してマサと呼ばれる彼を攻撃する。
「マサ、真剣にそれじゃ失礼じゃないか。 皆何かしら考えを持ってるんだ。 もっと積極的に参加してくれよ。」
「何か喋れよ」
怖い。なんだかこの人は皆から毛嫌いされているようだ。どういうことなのだろう?
…クサいから?
「なんもない。 無だ。」
はぁー、といった感じで皆が頭を抱える。
「またそれか。それじゃ議論にならないんだよ。発展性をもった説を持ってこい!」
「色即是空、有無同然。これが答え。以上! せいぜい狂えよ。」
「マサ!」
ブザーが鳴る。 ブレイクタイムだ。
余韻を残したまま、皆方々に散らばっていく。
「ドゥンドゥドゥンドゥンドゥン、ドゥンドゥドゥンドゥンドゥン」
何か近づいてきた。
4、仲間たち
「ハーイ、ミサ」
ミサ? 聞き覚えのある単語。
あぁ、私のことか。 私の名前はミサだった。
「夢説、面白かったよ」
彼女の名前はエミ。ゲーム説の子。この子もそこそこクレイジーだ。ゲームばっかり。噂では、ネット界の女王様。金髪におさげ、変な眼鏡をかけ、チュッパチャップスを口に突っ込んでる、ジャンキーな子だ。
「今日オフ会あるんだけど、一緒に来ない?」
「あー、私…ゲームとかあんまりやらないし…用事もあるから…」
「そっか、じゃあまた今度。『Another World』っていうゲームなんだけど、興味あったら教えてね!」
過ぎ去る。意外とサッパリしている。深くまで来ない。流石は、君子の交わり水の如し。
「やぁ、ミサ」
今度は誰? 神説の人だ。
「さっきはごめん。君に恥をかかすつもりはなかったよ。」
纏っている雰囲気が全体的に、白い。 王子様のように上品なイケメン。
「僕は、リク。この後、どうかな、君がよければ、お茶でもどう?」
そうか、結局そういうことなんだよね。
「いや、今日はちょっと用事があるので…」
全力で振り切り、そそくさとその場を撤退する。
帰路に立つ。 この道が、これから何年かお世話になる道だ。
ドイツの街並みは、日本よりも芸術的だけど、どこか仄暗さを感じさせた。
そういえば、こちらに着いてから、まだお店なんか探索したことがなかった。
でも今日は初日でクタクタだし、探索は今度にしよう。
とか思いながら歩いていると、一軒妙に気になるレトロな雑貨屋さんを発見した。
導かれるままに、入ってみる。
魔女のような人が、レジに座っていて、こちらをじっと見つめている。
品揃えはめちゃくちゃ。 ガラクタのようなものばかり。 何に使うかわからないようなものもある。 好きな人は本当にハマってしまいそうな店だ。
絵本コーナーがあった。ドイツの絵本なんて読んだことないけど、表紙からだけでも想像が膨らんで面白い。
そうだ、私、そういえば絵本が好きだった。空想の世界。こことは違う、どこか遠い世界。
そういう世界の存在を、私は小さい頃から知っていたんだ。
はじめから、わかっていたんだ。
埃まみれの絵本を順番にパラパラめくっていっていると、一冊の小さな本が棚から転がり落ちた。
拾いながら、タイトルを見た。
『SIGN』
と書いてあった。
久々に、背中が凍りついた。
レジを振り返ると、魔女のような人が変わらぬ視線でこちらをじっと見つめていた。
私はこの本を買わざるを得なかった。
この数週間、一気に濁流を下っている感じがした。
でもこれは、私が望んだこと。
平凡な毎日を終わらせる為に、私が望んだこと。
激動の時空間に、自ら足を踏み込んだんだ。
お金を支払い、店を出る。
しまった、レシートを忘れた。 私はどこか抜けている。 その店で買ったという証明だ。
引き返すと、もうその店は無かった。
あるのは、隣の普通の店と、隣の普通の店に挟まれた、狭い隙間だけだった。
5、部屋
家に帰る。なんという安心感。
一階にいる大家さんも、とても温かみのある良い人だ。 軽く挨拶をしてから、階段を登って自分の部屋に向かう。 通り過ぎる時に、今日の晩御飯であろう、カボチャのスープの甘い香りが漂っていた。
食事付きの物件を選んでよかった。
料理なんてしない。 する必要もない。
人間に必要なのは、炭水化物と、タンパク質と、ビタミンC。
部屋に入り、電灯をつけ、ベッドの上にバタンと仰向けになる。
このまま死にたい。 永遠に眠っていたい。
とんでもない疲労感。
でも今日はやることがある。 この本を読むという「作業」だ。 そちらの関心の方が、疲労感を上回った。
ベッドの上で足を組み、一気に読破する。
だいたい、私は小説というものが嫌いだ。
余計なことばかり書いているからだ。 素直に本質を言えばいいのに。
エビフライの衣ばっかりついたものが小説だ。 だから要点だけさらっと読む。
一語一句に拘らない。 どうせ大したことは書いてない。
案の定、取り立てて真新しさはない、どこにでもあるようなストーリーだった。
ごく普通の女子大生が、世界の真理を探す為に奔走する。少し興味を惹かれたのは、世界の真理を解明する際の引き金になる存在が、タイトルにもなっている「SIGN」という名前の本であったこと。つまり、この本は「ネバーエンディングストーリー」のような、入れ子構造になっている。うまい方法だけど、でも全然面白くはないよ。使い古された手法。
あとは、この女の子がラストシーンで放った言葉が印象的。
「さぁ、次はどんな夢を見ようかしら」
本を閉じ、同じセリフを小声で唱えてみる。 ちょっと気に入った。
「さぁ、今日はどんな夢を見ようかしらー」
なんて陽気な感じで、シャワーを浴びに行く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
水。
水を全身で感じる。
水は神聖なもの。 原初の記憶。
水は全てを洗い流してくれる。 嫌なことも、辛いことも。
全ては清潔さからスタートするんだ。 クサい人はダメ。
シャンプー。 目を閉じる。
よく、小さな頃から、次に目を開けた時に何かいるんじゃないかと思って、怖かった。
私は霊感が無い方ではなかった。
本当にいる時は意識できるし、ゾクゾクする。
いない時は意識しすらしない。
傍にいると思った時でさえ、目を開いた時には何も変わりない光景だった。
霊だって善人なんだ。 無闇矢鱈に人を脅かしやしない。
こういうわけで、今まで何か変化があったことは、一度もない。
おそらくこれからも無いだろう。
髪を洗い流し、パッと目を開く。
・・・
何か違うものが、そこにいた。
記念すべき日である。 こんなの初めてだ。
でもなにか様子がおかしい。 ガスマスクなような被り物に、手に持っているのは…斧。
斧? まさか。
斧がスローモーションみたいにゆっくりと持ち上げられ、
一気に振り下ろされる。
目の前の鏡がバリバリに割れて、破片がそこら中に散らばる。
私は奇跡的に避けた、間一髪で。 すぐ横で風を切る音を聞いた。 切れた髪の毛がパラパラと落ちた。
この不法侵入者は完全に私を”殺そう”としていた。
「ミサちゃーん、一緒にゲームしようよー!」
正直、頭がパンクした。 奴はエミなのだ。
エミがどうしてここに!? なぜ私を殺そうとしているの!?
いろんな疑問が一気に頭に集中する。
こちらの都合なんてお構いなしに、次の斧が振り下ろされた。
シャンプーがまだタイルに残ってヌメっていて、殆ど這うような形で避けた。
鏡の破片が何片か刺さり、赤い水が排水口に流れていった。
私ってこんなに運動神経が良かっただろうか。
いや、これは奇跡である。 つまり2度はあっても3度目は無い。
タイルに凄い形で突き刺さった斧を、エミは全身で取ろうと踏ん張る。
シャンプーのせいで滑ってうまく歩けない。 腰も引けている。
体よ、動いてくれ! 今動かないと、本当に死んでしまうのよ!
脳の指令とは裏腹に、体は立ち上がることを拒否する。
浴室のドアノブまであと数cm、手が届かない。
背後から、次の斧が振り下ろされた。
終わった、と思った。
でもエミは、シャンプーで滑って転倒した。 3度目はあったんだ。
斧は浴室のドアに放り出され、滅茶滅茶な風穴が開けられた。
私は狂いそうになりながら、その通り道を四つん這いで通り抜ける。
とりあえず部屋を飛び出す。
階段を降りたけど、足が動かずほとんど転がり落ちた。
キッチンで大家さんが、デザート用の果物を切っていた。
大家さんの腕にしがみつく。
なんて叫んだのかは覚えてない。 言葉になっていなかったと思う。 とりあえず、助けが欲しかった。
でも次の瞬間私が感じたのは…、お腹のあたりの強い灼熱。
刺された。
思いっきり刺された。
視界が揺らぐ。 意識が遠のいていく。
お腹からドバドバと血が流れ出し、果物ナイフがカランと床に落ちた。
意識が遠のくのに抵抗しながら、少しでも遠くへ逃げようと玄関へ這っていく。
息ができない。 苦しい。 もう、いよいよ死んでしまうんだ。
顔は涙でボロボロだった。
大家さんは、もっと切れ味の良さそうな出刃包丁をスッと取り出して、私の左腕をギュッと掴んだ。
ぼやける視界の中で、何者かが大家さんに飛びかかり、一撃をかました。
大家さんが、視界から消えた。
その者に体を支えられて、玄関まで歩いていく。
体が鉛のように感じられて、本当にしんどい。 これが出血多量の症状なんだろうか。
玄関前に停められていた車に乗せられて、応急処置を受ける。
「怪我は大したことない。心的ショックが大きいんだ。」
遠くで聞こえる声。
怪我が大したことない? 冗談じゃない、思いっきり刺されたのよ!
私はその後ローブをかけられ、車は発進した…らしい。
6、Room No,1050
「やっとお目覚めかい?」
私の前に、見たことのない壁がある。
いや、壁じゃない、これは天井か。
ここはどこだろう? いまいち記憶が整理できないまま、首を持ち上げた。
目に映ったのは、真っ白な人。 …王子様?
あぁ、神説の人か。 確か名前は…リクさん。
「もう24時間くらい寝てたんじゃないかな」
辺りを見回すと、どうやらここはマンションの一室らしい。私はベッドに寝ていて、リクさんは椅子に座っている。
「僕の家だよ。緊急時だから仕方なかった。」
割と小ざっぱりとした綺麗な部屋だ。整頓もされていた。
突如として、今までの記憶が甦る。斧で襲ってきたエミ、ナイフで刺してきた大家さん…そうだ、お腹。
と思って恐々お腹を見てみると、包帯が丁寧に巻かれてあって、そんなに違和感が無かった。
え? あんなに深く刺されたのに…?
私がキョトンとしていると、リクさんが吹き出した。
「大丈夫さ、君が思ってるほどじゃない。」
そうか、そうなんだ。 なんだかよくわからないけど、とりあえず助かったんだ。
良かった。
…いや、違うでしょ。 そういうことじゃなくて!
「どういうことなのよ! 一体あの人たちは何なのよ!」
ほんとに。
「何がどうなってるの!? なんで私が…!。 そしてあなたは…」
「まぁまぁ、落ち着いて聞いてくれ。 君の好きな哲学だ。」
「何が哲学…! この際どうでもいいわ! 警察沙汰じゃないの!」
「いいかい、重要なことなんだ。君は昨夜のディスカッションを覚えているかい?」
「なんの話?」
「皆の説さ。 僕の神説、ラビのループ説、エミのゲーム説、君の夢説。昨日は歴史に残る名会議だったのさ。」
「何が言いたいのか、さっぱりわからないわ。」
「まぁ聞けよ。 ICLに集まるメンバーがどういうメンバーか…。君は、自分の事すらイマイチわかってないようだね。」
「?」
「世界指折りの頭脳が間違ったこと言うわけがないってことだよ。全員正解ってわけさ。」
「…だから?」
「いいか、ラビがあんなに人をフォローするのも珍しかった。君は大天才から一目置かれているよ。何かの拍子に、この世に隠されたトリガーが引かれたらどうなる? お祭りの始まりってわけさ!」
「クレイジーね」
「そうさクレイジーなんだ。コペルニクスが地動説を唱えた時もそうだった。誰もが疑いもしない事実が、まるっきりひっくり返されたんだからね。人々は恐怖のあまり、彼を異端者とした。君は真実を知る勇気があるかい?」
「…だいたい何となくわかったわ。…でもちょっと待ってね。 身近なところからいきましょ。 まずあの人達は何だったの? どうして私を殺そうとしたの?」
「奴らは……”ウルフ”だ。」
「”ウルフ”?」
「主に”ドリーマー”を守護する”ガーディアン”を狙っている。」
私は頭を抱えた。 彼を信じていいの? 大丈夫?
私も大概だと思うけど、この人の言っていることは…まるでゲームじゃない…。
…ゲーム?
「もうお気づきかもしれないが…順を追って説明すると、まずこの世はゲームというのは正しい。皆、生まれた時にそれぞれの役割を充てがわれ、それぞれの役を演じる。ただその使命みたいなものは、皆だいたい忘れて生まれてくる。後になって何かの拍子に思い出すんだ。それから…君の夢説も実は大当たりだ。この世はたった一人の夢の中の世界なのさ。」
「まさか。」
「受け入れられないだろう。最初は皆そうさ。だけど、これは事実だ。 そのたった一人が目覚めてしまえば、この世はパッと水泡のように消えてしまう。そんな儚い世界なのさ。」
考えた事がないわけではなかった。死とかこの世の構造とか、人一倍小さな頃から興味があった私には馴染みのある仮説だったが、この状況下でここまではっきり自信たっぷりに言い切られてしまうと、かなり面食らってしまう。
「そのたった一人が”ドリーマー”と呼ばれる存在だ。ドリーマーは人生の経験を通して、次第にこの世が自分の夢であることを自覚していく。そんなドリーマーを温かく見守り、目覚めのお手伝いをするのが”ガーディアン”だ。でも、彼が目覚めるのを良く思わない者達がいる。それが…」
「”ウルフ”?」
「そう。なぜなら、彼が目覚めてしまうと、自分達まで消えてしまうからね。誰だって自分が消えてしまうのは嫌だろう。でもそれは自然な事なんだ。 ウルフ達は、ガーディアン達を排除し、できるだけドリーマーを真実から遠ざけ、何も考えさせないように日常を消化するように仕向ける。」
キャパテシィオーバーだった。 世の中、知らない方がいいこともある、とはよく言ったものだ。
「あなたは…何なの?」
「僕かい? 僕が夢見る少女に見えるかい?」
わざと手をバッと広げ、おどけた調子で物を言う。
そういうの、いらないから。
「僕はガーディアンさ。」
「私は…?」
「皆、自分のことは自分で気づかないといけない。相手を変えることはできない。他人が相手にできることは、ただ気づかせてあげることだけさ。」
「…ちょっと休みたいわ。」
「名案だね、僕はその間に食事でも買ってこよう。」
出て行こうとするリクに向かって、最後に残った疑問を投げかけた。
「ねぇ、どうして病院に連れて行ってくれなかったの?」
「病院かい?」
リクは、落ち着いた微笑みを浮かべながら振り向く。
「病院は、すでにウルフに占領されているよ。」
7、覚醒
雄大な草原を歩いていた。
とても懐かしい光景だった。
ここは、私たちが帰るべき場所。
風がとても心地よく、背の高い草花が揺らめいていた。
私は片手に剣を携え、光の方へ歩いていった。
雲間から差す光。 導かれるままに。
声が聞こえる。 私の使命。 地上で果たすべき役割。
守ること。 守るべきもの。
私が選んだ…
とてつもなく、爽やかな目覚めだった。
カーテン越しに差す朝日と、ポットのお湯が沸いた音、それに続くコーヒー豆の香り。
私はローブ姿のまま、音の聞こえる方へ歩いていった。
リクの背中姿が見える。 野菜を切る包丁の音がリズミカルに響いていた。
リクが気配に気づき、振り返る。
私は壁にもたれ、微笑みながら告げた。
「ガーディアンだったわ。」
二人で丸テーブルに向かい合い、朝食をとる。
高層マンション10階から見るドイツの眺めは、良いものだった。
改装の工事中なのか、時折金属音が響いてくるが、それもまた良いアクセントとなっていた。
こんなところを手にいれたリクは、きっと高級志向なのだろう。 できる男だ。
そして驚くべきことに、リクは料理もうまかった。
取り分けられたオードブルを口にしていると、そのセンスの良さを感じる。
そして、ミステリアスなまでな潔白感と端正な顔立ち。
「ごめんね、男物の服しか無くて。」
「ううん、いいのよ。 緊急時だし。」
「でも良く似合ってるよ。」
恋人でもないのに、一緒に過ごしていると好感度が上がっていく不思議。
まぁ楽しいからいっか。
「それで?これからどうするの?」
ベーコンを突きながら聞いた。
「僕らガーディアンの使命は、唯一つ、ドリーマーを守ることだ。」
ポテトを頬張りながら言った。
「ただ…ドリーマーが誰なのかはわからない。」
ベーコンを落とした。
呆れた。
「何それ?」
ちょっと笑ってしまった。
「それじゃ、何にもできないじゃない! せっかく思い出したのに!」
「まぁ落ち着いて。 君はすぐ叫ぶ…。これは公平なルールなんだよ。その人の役割はその人が自覚するまでわからない。 確率は70億分の1だ。」
せっかく良い雰囲気だったのにブチ壊しだ。 能天気なヤツめ。
「いいか、ウルフ達がこんなに動きを顕にするってことは今まで無かったんだ。つまり…キーパーソンは君だよ。君の周辺で何かが起きてる。君の近くにいるはずなんだ。」
私? なぜ私なの? なぜ私に全部返ってくるの?
「何か心当たりはないか? こう…ずっと夢を見ているような…」
夢? 現実? これは何? …夢? …現実? … 頭、イタイ … 。
ピーンと、耳鳴りがした。
「大丈夫か?」
こめかみを押さえる。
「…うん、大丈夫。 いえ、思い当たったの。 私の弟…。」
このことを話すと、いつも憂鬱な気分になる。 話が重すぎて。
「重度の疾患があって…。 ここまで来たら話さなければならないと思うけど…。 精神的なものなの。」
私は弟が大好きだった。 私から言わせれば、この世という地獄に生まれた天使だった。
その純粋無垢性ゆえに、人並みからは外れていた。
君はよく言っていたね。
「生まれてくる世界を間違った」って。
お姉ちゃんも、時々そう思うよ。でも君の場合は、もっと鋭敏なアンテナで受け取って、人の数十倍強い感度で感じているんだと思う。だから生きづらくなって、今は…
「…寝たきり。ほとんど起きないし、言葉も交わさない。もうこの世界に幻滅してしまったんだと思う。」
「もし彼がそうなら、目覚め方を知らず、夢の中で夢を見ている状態ってことか…。興味深いな…。」
「弟は昔から不思議な力があって。 予言みたいなことが出来るの。 自分が想像したことを具現化する才能があったみたい。」
「ドリーマーの特徴だ。自分の夢なんだから、自分の思うように出来るんだ。彼は今どこに?」
「京都の施設よ。」
リクは立ち上がり、ノートパソコンを開き、何かを打ち始めた。
「モタモタしている時間はない。今日のフライトで日本へ飛ぼう。ウルフ達に先を越される前に。」
その時、急に外が騒がしくなった。階下から激しい物音を立てながら、何者かが駆け上がってくる。 リクの表情が険しくなった。
「奴らだ。エレベーターがメンテナンス中だったのが不幸中の幸いだったな。」
「…私たちは!? どうやって逃げるの!? ここは10階よ! 外には出られないわ!」
「まぁ落ち着いてくれ。」
リクは不敵な笑みを浮かべながら、とんでもないことを私に聞いてきた。
「ミサ、映画ってよく見るかい?」
「何言ってんのよ、こんな時に!」
「映画説ってのもあってだね。僕らは一人一人、壮大な”人生”というストーリーの映画の中にいる主人公なんだ。」
外の足音が大きくなり、いよいよ下の階まで登って来たことがわかる。
この人は本当に何を言っているの!?
「僕らは見えない視聴者によって、僕らの活劇を見られている。そう、視聴者はワクワクするような展開を望んでいるのさ、映画みたいにね!」
私はその戯言をほとんど聞いていなかったけど、彼が棚から黒塗りのスーツケースを引っ張り出して来た時に、何かしら考えがあることはわかった。
中を開けると、不思議な形の金属の塊が幾つか入っていた。
リクは手慣れた様子でそれらを組み立て、最後にシリンダーのようなものを2つセットした。
「なんだか随分用意がいいのね。」
「ガーディアンは常に狙われる危険性がある。 備えあれば憂いなしさ。」
ベランダのドアを開けるリク。
遥か真下の地上に向かって、ワイヤーがシュルシュルと音を立てて伸びていく。
「アメリカの特殊部隊も御用達のカーボンナノチューブ製だ。 1km伸ばしたって切れはしない。 レディーファーストだ。来なよ。」
嫌な予感がしたけど、他に考えがあるわけでもなかったので言われた通りベランダに出てみる。
10階ともなると、すごい風だ。
「下を見てごらん。」
風にかき消されないように、殆ど叫んで喋るリク。
下を見るのは嫌だったけれど…恐る恐る見ると…想像はしていたけれど目が眩むような高さ。歩く人が米粒程度の大きさだ。
「あそこにダストボックスがあるだろ? 今からこのワイヤーを伝って下まで行って、あそこに飛び込むんだ。」
「無茶よ! そんな映画みたいなことできるわけないじゃない!」
私はシリンダーを手渡そうとするリクを振り払い、部屋に戻ろうとする。
…が、とうとう玄関で物凄い音でノック…いや、ドアを蹴破ろうとしている音を聞いて、止まってしまった。
リクがシリンダーを指で突きながら、真剣な表情で見つめてくる。
「中に熱と反応する化学合成物質が入っていて、速度はある程度は調整される。 あとは君の反射神経次第だ。 できないと思ったらできない。 できると思ったらできるんだよ。 僕もすぐに行く。」
今度はがっしりと、シリンダーを手渡すと同時に手を握ってきた。
まるで映画のワンシーンみたい。
リクが話すように、この場を安穏と観察している視聴者という存在がもしいるなら、本当に恨んでやる。 今の私の心境を小一時間語ってやりたい。
再度、下を見下ろす。 非現実的なまでの距離感。
ここまでくると、何に気をつけるべきかがわからなくなってきた。
第一に、なによりもまず、絶対にこのシリンダーから手を離さないこと。
と、ここまで思った瞬間に、玄関のドアが物凄い音を立てて蹴破られ、はっきりよく見えなかったが、黒い男達がぞろぞろと部屋になだれ込んできたように見えた。
リクに肩を強く叩かれる。
勢いで飛び出してしまう。
飛び出してしまう?
飛び出しちゃったの!?
この時の感覚は、未だにどう表現すればいいかわからない。
自分が自分で無くなってしまったような、空気にポンと体を置いていかれるような。
ほとんど飛んでいたんだと思う。
何にしろ、私は10 階から1階まで、一気に急降下した。
そして恐るべきことに、私は真面目に言いつけ通り、2階分くらいの高さからはダストボックス目掛けてアクロバットしたのだ。 できたのだ。
ゴミ溜めの中で成功の余韻に浸っていると、真横で凄い音と共に衝撃が来て、リクが隣のダストボックスからひょっこり顔を出した。
私の肩を持ち、唖然とする通行人の間を縫いながら、逃亡した。
走りながら、手の平の感覚がおかしいので見て見ると、今まで見たことないくらいグロテスクに腫れていた。
摩擦を感じる暇もなかったのだ。
8、ウルフ
私たちは公園の茂みに身を潜めていた。
先ほどからウルフ達が何回も行き来し、私達を探している。
インカムのようなものでやり取りしているのも見える。
スーツ姿で、ガタイのいい屈強そうな男達ばかりだ。
「この調子じゃ、しばらく動けないな。」
リクがこちらを見つめてくる。
なんだか変な雰囲気になった。
確かに、ここまで刺激溢れる体験ができたのは、リクと出会ってからだった。
地面に置いていたお互いの手が触れ合う。
「ねぇミサ」
顔を近づけてくるリク。
まるで映画のワンシーンみたい。
恥ずかしいけど…この人となら…!
あとは、自然の成り行きに任せよう。
と思ってリクの顔がスレスレまで近づいた時、とてつもない違和感が身体中に走った。
ー この人じゃない! ー
次の瞬間、リクの頰を思いっきり引っ叩いていた。
唖然とするリク。
私の額に、冷たいものが当たった。
これは…銃口?
「なーんちゃってね! 夢見心地なガーディアンちゃん一匹、いただきまーす!」
まさに”豹変”という言葉が当てはまった。
つい先ほどまでリクだった人が別の人物となって、引き金を引き…
銃声が轟いた。
頭がカチ割れ、目の前が一面赤に染まる。生暖かいものがあちこちに当たるのを感じた。
私のお腹にドッと倒れこむリク。
その後ろから姿を現したのは…見覚えのある男の人。
確か…マサさん? あのクサい人か。
もう何が何だかわからない。
「こんな風にガーディアンを装って近づく”トリッカー”って奴もいるから気をつけな。」
マサさんは手早く死体の後処理をしている。何かを被せたり、呆然としている私にかかった鮮血まで拭いてくれた。
「ドリーマーについて、何か喋ったか?」
生まれて初めて人が死ぬのを見た。 しかも目の真ん前で。
ありえない死に方で。
私は平手で打たれ、無理矢理立たせられる。
「しっかりしろよ! ガーディアンだろ! 遊びじゃないんだ!」
何、この人、怖い。 リクさんとは正反対。 私もう限界。
「あなたは…」
「わかってねぇな! 俺が本当のガーディアンだ。 おい、質問に答えろ!」
「…」
「喋ったな…まずいことになったぜ。 おまえの弟の命が危ない。」
「…どういうこと?」
「ウルフがドリーマーを目覚めさせない方法は第一に、自信喪失させ、思考停止に陥れることだ。だがドリーマーが真実に触れる可能性が大きくなると話が変わってくる。ウルフ達はドリーマーの…命を奪おうとする。」
「…どうして…」
「ドリーマーは真に目覚めない限り、死んでもその世界を繰り返そうとするからだ。いわゆる”輪廻転生”だ。 ウルフ達からすれば、永遠の命を手に入れたも同然になる。」
ここまで頑張って理解しようとしたけど、でもどうしても私には限界だったみたいで。
私は意識を失った。
9、ドリーマー
私は車の後部座席で目を覚ました。
窓の外を覗くと、見慣れた光景が目に飛び込んで来た。
神社を車が通り過ぎる。 どうやらここは日本らしい。
「あとの細かい場所は案内してくれよな。」
マサさんの声が前から聞こえる。
何とか記憶をより戻してみる。
そうだ、弟だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
施設の受付でリストに名前を書き、部屋に向かう。
ここ数日、私の頭の容量を超えたことばかり連続で起こって正直疲れていたんだけど、
久々に弟の顔を見れることが心の支えとなった。
マサさんはぶっきらぼうだけど、悪い側ではなさそうだ。
部屋に入る。
弟は、昏々と眠っていた。
弟の手に触れる。 思い出す過去。
「これで、満足?」
「あぁ、ここじゃ危ない。 もっと安全な場所に避難させよう。」
マサさんが弟の腕を強引に掴む。
その瞬間、寝ていたはずの弟が、目をつぶったまま、およそ人間の声をとは思えないような金切り声をあげた。
「ちょっとやめて!何するの!?」
「時間が無いんだ。」
「どうしてそう雑にしかできないのよ!」
慌てて弟をかばう。 マサさんは呆れた表情を見せた。
たちまち窓の外が夜のように暗くなり、天候が悪くなった。 どこかで雷も鳴っている。
弟が叫んでいる。
「弟はねぇ、被害者なのよ! あなたにそのことが理解できる!?」
「…彼がドリーマーなら、本当はもっと良い夢が見れるはずだ。 そこまでウルフ達の勢力が強まっていたってことだ。 今からでもガーディアンが頑張れば…」
「良い夢ですって?」
お腹の底からグツグツと怒りが噴き出して来た。
「良い夢見ようにも、見れなかった結果がこれじゃない! 弟がどれだけ夢想家だったことか! ドリーマーに環境を変える力はあるの!?」
「この世は全てドリーマーが作り出している。障害も、逆境も、幸運も不幸も。すべて。
ドリーマーが生まれる前は、善や光しかなかった。ドリーマーは満たされた世界をよしとしなかった。 だからこの世界に負の要素を混ぜ、自らも…逆境の道を歩むことを選んだ。 …そういうわけだろう。 全てはドリーマーが望んだことなんだ。」
「嘘よ!」
気がつくと、私は泣き叫んでいた。
「こんなにまでなるのは…あんまりだわ。 こんな世界を自ら望むはずがないわ! 私も感じ取れない方ではなかった。 でも弟の感覚はそんな比じゃなかった。 欺瞞、不正、愛に反すること、なんでも見抜く目を持っていた。」
どうしようもなく悶々と溜まった何かが溢れ出てくる。
「私はねぇ、今の日本とか周りの人なんて、大っっっ嫌いなのよ!!! 弟がおかしくなってしまうのも当然のことよ。 みんな汚れきっているわ! 弱肉強食!? それが人間が出した答えなの!? 違うでしょっ! 実現不可能な理想論でも、もっと高みを目指していく。 どうして皆そういう方向に物を考えられなくなって… 自分の生活のことばかりで…」
私は弟のベッドの横に、思いを吐き出しながら、泣き崩れていた。
大泣きをしていた。 何年振りだろう。 子供みたいに。
マサが、ゆっくりと肩を掴んでくれた。
自然と、マサの胸に体をもたれかけていた。
もうずっとこうしていたい…。 誰かの体温を肌で感じて。 もう何も考えたくない。
でも
現実が、そうは許さなかった。
けたたましい破裂音を立てながら、壁の至る所に次々に穴が空けられていく。
完全に、本格的に、撃ってきていた。
割れて飛び散るガラスを背に、マサに庇われながら、私は狂い叫びながら弟を抱っこして施設を脱出した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
おそらく100kmは出ていたんだと思う。私達は京都の街並みを奔走していた。
施設から出て、ずっとバックミラーに映っている無数のパトカー。
「どうして警察まで登場するの!?」
マサが、まだ言っていなかったのかと言わんばかりに説明する。
「ウルフは増殖するんだ。 ウイルスみたいにね。 極めて原始的な方法で…。 多分国のトップが完全にウルフ側に落ちたんだろう。」
パトカーをかき分け、黒塗りの高級車が飛び出してくるのが見えた。
物凄いスピードで距離を詰めてくる。
マサの運転テクニックも常軌を逸するものだったが、あちらの性能が良いのか、すぐ横につけられる。
その時私は見た。
助手席に座る私のすぐ横の車の窓から、黒いハットとサングラスをかけた人が…私の幻想でなければ……大砲のようなものをこちらに向けているのを。
「冗談!」
マサを振り返る。
マサが気づき、0,01秒の状況把握の後、
「伏せろ!」
爆音。
振動。
時間が飛んだような感覚だった。
耳鳴りがして…耳が潰れてしまったんだろうか。
私達はゆっくりと体を上げ直す。
背中に乗っていたガラスの破片や細かな部品が、バラバラと落ちた。
こんなことって、現実にあるんだろうか。
私達の車はまだ、何事もなかったかのように走行していた。
車の上半分が吹き飛んで、オープンカーのようになっていた。
もう満身創痍だ。 体の節々が痛い。
ススだらけになりながら、二人会話も無かった。
突然
「ミサ、運転できるか?」
と聞いてくるマサ。
「免許は持ってるけど…もう何年も運転してないわ。」
「緊急時だ、替われ!」
運転席と助手席を素早く交代できたかと思いきや、車体に火花のようなものが数発散る。
撃たれている。
マサが銃に弾を詰め、応戦する。
5発目くらい撃ったところで運転手を仕留めたようで、黒塗りの高級車は道端に大破して、遠くの方で派手に爆発した。
爆炎を掻き分けて、更にスピードを上げて迫り来るパトカーの群れ。
「だめだ、もっとスピードを上げろ!」
「無理よ! それになんだか…アクセルが重いわ!」
マサがインジケータを確認する。
「…ガソリンが漏れてるんだ。 しょうがない、あそこに停めるぞ!」
車が使えなくなった。
どれくらい走ったというのだろう。 なんと私達は、海辺の近くまで来ていた。
多分、ここは大阪か神戸あたりの港。
私達は半壊したボロボロの車を放り出し、大きな倉庫のような建物に入っていく。
海の流通関係の倉庫なのだろう。コンテナが無数に積まれ、遠くでクレーンが動いていた。
パトカーのサイレンが大きくなり、警察がぞろぞろと駆け寄ってくるのが聞こえた。
「こっちへ!」
二階だ。 二階と呼ぶべきなのか、停止中のベルトコンベアーを伝って上の通路まで駆け上がった。
これは、弟をおんぶしている私には、体力的にきつかった。
息がとんでもなく上がる。
「交代だな。」
弟を背中から降ろし、息を整え、マサに委ねる…
見知らぬ手が横から伸びて来た。
弟がぐっと捕まえられ、特攻服のようなものを着た人が私達の目の前に現れた。
「マサ、あれは痛かったよぉー」
リクだった。 いや、私の知らないリクの顔をした別人。 でもどうして? 死んだはずじゃ…。 死んだのを間近で見たのに。 その後ろにいるのは…エミ?
弟の顔に銃口を突きつけるリク。
困惑している私にマサが説明しようと何か言いかけたけど、私には何となくわかった。
多分、トリッカーは一度だけウルフに転生できる…。そんなところだろう…。
まるでゲームみたい…。 …でも、なんで私、今、わかったんだろう?
「これで終わりさー。 残念だけど、僕たちの勝ちだね。 ゲームオーバーさ。」
弟がまた眠ったまま、金切り声を上げた。
それを銃身で打つリク。
「うるさい!」
「やめて!」
私も悲鳴を上げた。
「リク、お前達はそれでいいのか? 真実から遠ざけることばかりで、虚しくないのか!」
「マサ、お前はいつもそうだった。 だから皆から毛嫌いされるのさ。 いいか、今という時を生きなくて、何が人生さ。 人生には真実より大切なことがある。永遠に今という時を享受できれば、こんなに幸福なことはない。」
「それは先送りだというのだ! ただの虚偽にまみれた薄っぺらい人生の、何が幸福なことか! 人は真理に向かって常に探求するべきだろう。」
「怖すぎる真理は時として害になる。 今のままでいい。 汚れていようが、表面的だろうが、そんなことは関係ない。 幸いこの世にはガス抜きのようなものもたくさん用意されているしな。 酒やドラッグ、娯楽…」
「リク!」
マサがリクに銃口を向ける。
リクは弟を掴みながら、撃つ準備をした。
「これで終わりだ。 次の人生でまた会おう。」
そして引き金を…
やめてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
倉庫中に私の声が響き渡り、幾つかのコンテナが踊った。
リクの銃が見えない波動に持っていかれ、吹き飛んだ。
銃を構えて周りを包囲する警察、エミ、リク、そしてマサまでもが、全員が私に注目する。
「な、なに?」
とリク。
「おまえは…」
とエミ。
「誰だ?」
マサ。
わたしは…
記憶。
この世を想像した時… わたしは…
「ドリーマー」
ー 真実は、その人が気づくまでわからない ー
手をかざしてみる。
全ての人の銃に意識を集中させる。
”そんなのいらない ” と念じる。
手を振りかざす。
全ての人の銃が移動し、一箇所にゴトゴトと音を立てて落ちた。
弟に、 ”もう起きてもいいんだよ ”って話しかける。
健全な弟が目の前にいた。 二人、抱き合う。
誰かが手を叩いた。
次々に手を叩き、倉庫中が拍手喝采になる。
みんな、一丸となって、私に思い出させる手助けをしてくれていたんだ。
この世界は、笑顔と愛で満ち溢れていた。
どこか遠い国の、誰かがぽつんと呟いた。
「やっとお気づきになったか…」
別の国のどこかのビルの一室で、誰かが誰かに電話をしている。
「やっと気づいたみたいなんだ!」
拍手が鳴り響いている。
”もっと良い世界に ” って全身で念じる。
視界が明るくなり、バラ色に溶け込んでいく。
そう、だから、そろそろ目覚めの時なんだ。
目覚めの合図は…
「覚えてるんだろ?」
マサがきっと、こちらを見つめてきた。
「おまえだけの、目覚めの方法。」
そう、思い出した。 この世に生まれてくる時に、私が自分で設定した、
私だけの
目覚めの ”SIGN ”
私はマサの胸に思いっきり飛び込んで、そして
思いっきり、 キスをした。
10、エピローグ
「女王様の、お目覚めだー」
本当に懐かしい、室内管弦楽が心地よい響きを奏でていた。
豪華な装飾、煌びやかな建築。 背の低い召使いの妖精。
みんな覚えてる。
私はゆっくりと起き上がり、隣の大臣に第一声。
「良い夢だったわ。」
ファンファーレのラッパが城中にこだまする。
大臣達が走り回り、目覚めの後の行事の準備をしている。
一人一人挨拶に私のところへ来るんだけど、みんな覚えてる。 懐かしい顔。
「大臣」
「はっ」
「次の行事の前に、少し部屋で休みたいわ。」
「はっ」
スムーズに取り計らわれ、召使いに囲まれながら部屋まで案内される。
護衛兵が大きな扉を開ける。
「お前達」
護衛兵は驚いたような、感無量のような表情を見せる。 少し涙ぐんでいたかもしれない。
「おひしぶり」
部屋に戻った。 戻ったのだ。 元の世界に。
私は光の差し込む窓に腰掛け、外の自然の風景を眺めていた。
美しい小鳥が、葡萄の木に止まりながら歌っていた。
清らかな心地よさを讃えながら、私は呟いた。
「さぁ、次はどんな夢を見ようかしら。」
END
SIGN