僕らの日常生活と青春ごっこ
馬鹿じゃないの、と洋子は長い髪を風にに揺らした。
「馬鹿ってなんだよ」
息が上がる。気持ち悪い。吐きそう。水が飲みたい。汗のせいで額に張り付く決して長くない前髪を掻きあげて、僕は目をつぶった。
「……ホント、馬鹿」
「さっきからそれしか言ってないな」
乾いた笑いしか出ない。洋子はしゃがんで、僕の顔を覗き込み、そして僕の頬に手を当てた。その手は、ひんやりしている。体のどこかで『みーんみーん』なんて蝉が鳴いていそうなほど熱い体温を、吸い取っていくみたいだ。大きな彼女の目が、落ちてきそうだった。
洋子と僕は、恋人とかいう甘ったるい関係じゃない。幼馴染なんてトキメク関係ですらない。俗に言う友達だった。
だけれども、ただの友達かと言えばそれは違ったと思う。互いの好きな人を知っていたし、互いの嫌いな物や好きな物も知っていた。誕生日も、血液型も、家族構成も。
付き合っている人も。
もっとも、僕には付き合っている人なんていなかったけど、洋子は違う。洋子は美人で、性格はちょっと悪くて、でも気遣いが出来る――そんな女だったから、一つ年上の高校3年生の優等生男をチャッカリ彼氏にしていたのである。
洋子がその男と付き合い始めて約半年。ベタにも忘れ物を取りに学校へ戻ってきた僕がきいたのは、優等生の笑い声だった。
「お前らがナンパしまくってるからだろ」
「ナンパしなくてもいい女が捕まえられた橋本には言われたくねえよ。…ホント羨ましいぜ。あーんな綺麗な彼女が居てさ」
――洋子の話か。
のろけ話を聞くなんてまっぴらごめん。早く家に帰ってゲームでもやろう。汚い廊下を一歩進もうとしたその時だった。
「しかも、遊びときた」
一瞬、思考が止まった。遊び?遊び。遊び。…遊び?
3年の教室をこっそりと覗き込む。ドアの小さな窓から、お行儀悪く机に座っている二人組が見えた。一人はもちろん、優等生でイケメン、僕が勝てる要素なんて一つもない――橋本竜太。くそ、名前すらかっこいいじゃないか。
「一体いくら貢がせたんだよ?なあ」
「さあね。知らねえ。だってあっちがかってに買ってくるんだもん」
「申しわけねえとか思わねえのかよ」
笑いながら尋ねたイケメン先輩の友達の狐顔男。しかしその目は自分の手元に落ちたままだ。あ、PSP。いいなあ、その色。僕、白なんだよね。なんでよりによって僕が買いに行ったときに黒売り切れてたんだろ。
「思うも何も…。そんな風に思うほど入れ込んでねえから」
狐顔からPSPを取り上げ、橋本は代わりにゲームをやる。何をやってるのかは分からない。エロゲとかギャルゲとかだったら笑えるな。『イケメン先輩!まさかのエロゲプレイ!』なんてみだしで校内新聞でも作ってやろうか。
「っていうか、なんで洋子ちゃんぐらい可愛い子を遊びに出来るかなぁ。普通惚れるだろ。何で惚れないの?」
「えー…だって好みじゃないもん」
「じゃー、別にお前金に困ってねえんだし、付き合うなよ。もったいねー!他の奴に譲ってやれって。つか寧ろ俺に譲れ!」
「ばっか。ありゃ自慢できるだろ。『俺の彼女です。美人でしょ』ってさ」
――まあ、別に怒ったわけじゃない。
親友のために先輩に喧嘩を売るほど、僕はお人よしでもないし。しかも相手は二人だし。
「あの」
そんなことを考えながら教室のドアを開けて、イケメンの前に立つ。おお…やっぱ眩しい。目が潰れちまうぜ。
「橋本先輩」
「……誰、こいつ?」狐顔が首をかしげる。別にアンタがやっても可愛くねえよ、って突っ込みたい。でもできない。そんな弱虫の弱虫心。誰か察してくれ。
「洋子の……友達?うん、友達」
――おい、なんだよこの野郎。ちゃんと覚えろよチクショー。悲しくなっちゃうだろ!
「えーっと、何の用? …えっと名前なんだっけ?」
「……鈴木です」
「鈴木君ね。あ、もしかして今の話聞いてた?」
「バッチリです」
馬鹿正直に答えた僕の前を凝視して、橋本先輩は「ふうん」とPSPを机に置き、ニッコリ笑う先輩。ここらへんで慌てないところがまたクール。そういうのがモテるポイントなんですかね、うん。
「それで、もっかい聞くけど、何の用?」
「はい、えっと、僕弱いです」
「…何が?」
「喧嘩」
言い終わるか終わらないかのうちに、パンチ一発。イケメン男の頬の骨にぶち当たる感覚がした。そういや、人を殴るのって初めてだなあ。ふう、あんまり気持ちいいもんじゃない。
狐顔はしばらく呆然としてたが、我に返ったようにふいに、尻もちをついた橋本先輩のところに駆け寄った。
「橋本!おい、だいじょぶかよ!?」
「…ったー」
頬を片手で押え、狐男の手を振り払い、橋本先輩は立ち上がる。どうやら後輩に殴られたのがよっぽど癇に障ったようで、眉間のしわがハンパなくなっている。
「…なにすんの、鈴木君」
「すいません、先に言っときますけど、怒ってるとかじゃないです」
「は?」
「怒る役目は、僕じゃないんで。それすんのは洋子、なんで」
「意味分かんないんだけど」
「今日って、寒いですよね」
「……ナメてんの?」
「寒いんで、体あっためんのに付き合ってください」
――まあ、負けたんだけど。
このざまなんだけど。
あちこち痛いし、狐男まで参戦しやがったし。挙句の果てに、晒しものにしやがって、あの症悪三年坊主ども。
痛すぎて喋れない僕を見下ろして、20分ぐらい前、橋本先輩は携帯を取り出した。ブランドもののキーホルダーが付いてたのが羨まし過ぎた。
「洋子? ……うん、なんかさ今変な男が喧嘩しかけてきて。なんかね、お前の知り合いっぽいんだ。ちょっと来てよ」
それからすぐ、『塾だから』と告げて帰った狐男と入れ違いに洋子は来た。僕と違ってちゃんと部活に入っている洋子は、陸上部の活動が丁度終わったところのようだった。
「……なに、してんの?」
勢いよく扉を開けたアイツが最初に浮かべたのは、怒りと困惑だったと思う。
「おー、来たね洋子。なんなの、コイツ。お前の友達だったよね? 確か」
「……うん」
「それでさ、鈴木君いちゃもんつけてきたんだよ、俺に」
床に転がったままの僕は、どれくらい無様なんだろう。どS心がくすぐられるよ、まったく。
橋本先輩の言葉に、僕は訂正を入れなかった。本当のことだからだ。「寒いから」なんて理由で殴りかかるなんて尋常じゃない。まあ、それでも僕はいいけど。後悔してないし。
「洋子、言ってやってよ。もうこういうことすんなって。……にしても、鈴木君って洋子のこと好きなの?」
好きじゃねえよ。
突っ込んでやろうかと思ったが、緊迫した雰囲気に口を出せなかった。意外と空気読めるんだな、僕って。
「なんで、こんなことになってるの?」
少し悩んだようにしてから、優等生は笑った。
「鈴木君がさ、寒いんだって。寒いから殴ったって言うんだよ」
おお、都合の悪い部分は隠したな。まあ、僕のいい分通りだからいいけど。
「……別れよう」
先輩の言葉に二・三度頷いて、洋子が言った。
「は?」
橋本竜太が、間抜けな顔をした。
「別れて、竜太」
「おい、よう――」
「帰ってください、先輩」
洋子の、明確な拒絶が耳に焼きついた。
「私、薄々気付いてました。竜太先輩が私のこと、どうとも思ってないんじゃないかって。でも、信じたくありませんでした」
「洋子、勘違いしてるよ」
「だって、ホントに先輩のこと好きだったんですもん」
「だった、ってなんだよ」
「もう好きじゃないって意味です。コイツが――」
チラリと僕の方を茶色の目が見た。
「コイツが、先輩に喧嘩売ったから、好きじゃなくなりました。……コイツは、頭おかしいです」
おいおい。馬鹿にしてんのか。そこは誉めろよ。
「寒いなんて理由で殴るような奴です、多分。だけどコイツ、先輩の言うとおり私のこと大好きです」
自意識過剰だぞ。いつ僕がそんなこと言った。睨みつけてやるけど、洋子はひるまない。っていうか、先輩しか見てなくて、そんなことに気付かない。
「だから、私が困るような真似しません。だからきっと、殴っても私が困らない理由があって、そんでもって『寒くて』殴ったんだと思います」
「洋子……お前まで頭おかしくなったんじゃねえの?」
「先輩が、私に釣り合う男じゃないって、コイツが判断したってことです」
すう、と彼女が息を吸った。覚悟を決めたみたいに、強い目で。
「私に釣り合わない下衆野郎なんかに、興味ありません」
橋本先輩は、荒々しくバッグをとって舌打ちして教室を出ていった。多分、自分の評判が下がるからだ。洋子を殴ったら、橋本先輩の評判はガタ落ちだ。僕なら男だし、僕が悪いから殴ったって蹴ったってリンチしたっていいんだろうけど、別れ話をされて、それで暴力を女子に振ったなんて皆が知ったら、困るのは自分だから、大人しく帰ったのだ。
「さっきからそれしか言ってないな」
声が出るようになった。
「洋子」
「名前呼ばないで」
「なんで?」
「ホントに好きだったのよ、私……竜太のこと。竜太が好きそうなネックレスとか、ベルトとか、じゃんじゃん買っちゃうくらい」
「自分で振ったんじゃん」
「そうだけど。……そうだけど、アンタが倒れてたらああいうしかないじゃない」
「なんで?」
「アンタがアイツに怒ったってことは、アイツ、アンタの前でボロ出したんでしょ」
「……さあ」
「本当だったんだ、私って遊ばれてただけなんだって、分かっちゃったら、別れるしかないじゃん」
ボロ、と熱い物が顔に当たった。涙だった。洋子の、瞳から透明でしょっぱい物が溢れては落ち、溢れては、落ちた。
ああなんだか、何が何だか分からなくなってきた。
よくよく考えれば、本当に僕は馬鹿だったのだ。だって、あそこで怒ったって、ほら――こうやって洋子を泣かせるだけだった。正義のヒーロー気取ったって、負けるんじゃかっこわるいし。そもそも、あそこで『馬鹿を倒したかっこいい俺』をアピールするために橋本先輩が洋子を呼ばなかったら、僕は『お前は遊ばれてるんだ』って自分でコイツに言わなきゃならなかっただろうし、だけれどそんな勇気もなかっただろうし。
ああ、でも、どうすりゃ正解だった? あそこで何もしないで、洋子が遊ばれてる事実を隠して、洋子が貢いでるのを知ってからも、止めないで、そんなことしてて、良かったとも思えない。
何が正解だったのか、赤ペン先生に聞いてみたいもんだ。
「アンタ、ホント馬鹿」
だけれど、きっと明日には洋子は笑っているだろう。涙の跡なんて綺麗に消して、橋本先輩の話題は一つも出さずに。
「……でも、ありがとう」
洋子は、いい女だ。
僕から見たって、そう言える。
「帰ろう」
立ち上がる細い足。ばかやろー、たてねえんだよ。そう思ったのが、目線で伝わったらしい。洋子はクスリと笑った。
「体はあったまった?」
「……まあね」
白い手を差し伸べられる。かっこ悪いけど、今更だ。やけになって、僕は彼女の手を取った。
思ったより洋子の力は強くて、意外とすんなり立ち上がることが出来る。……いや、膝が笑ってるのはこの際無視してほしい。
僕が間違ったことをしたのか、どうか。
分かるのはきっとまだまだ先だ。洋子に尋ねればすぐわかるだろうけど、きっと僕は弱虫だから聞けない。
たくさん経験を積んで――そう例えば、素敵な女性と結婚するとか、出産にかけあうとか、部長になってみるとか。
今から五十年ぐらいたったら、そういうことをして経験値MAXとはいかずとも――半分ぐらいはいってるだろうし、きっとわかるだろう。
洋子を泣かせない方法はあったのか。
今の僕は間違っていたのか。
答えは今すぐでないけど、気長に待ってみることにしようと思う。
「洋子」
「なに」
「五十年後、謝るかも」
間違ってたら、謝まんなきゃならない。事前にいっとこう。
「は? 何に対して?」
「さあ。それもまだ分かんない」
まるつけの途中なんでね。
「ふうん」
僕らの日常生活と青春ごっこ
初投稿です。
いつもは3人称ですが、恋愛小説を書くにあたって1人称にしてみました。
感想・アドバイスを頂けると嬉しいです。
よろしくお願いします。