影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

(6)

 女はそのまま部屋を出ようとするように、ドアへ向かって歩いた。
「もし、男の方であんたが好きになった時には、どうするんだ?」
 わたしは女の背中に言った。
「あんたには関係ないでしょう」
「関係なくはないよ」
 女の背中が揺れた。が、それも束の間だった。女は部屋を出て行った。
 ドアが閉じられ、外との世界が遮断された。女の遠ざかる足音も聞こえなかった。
 わたしはベッドに座ったまま、女との関係の決定的な終わりを意識した。もう、女が来る事はないだろう・・・・
 微かな空虚がすきま風のように胸の中を通り抜けた。

     五

 わたしは友人の白木がチーフを務めるバーの仕事を手伝いながら、土曜日の夜になるといつも「蛾」へ足を運んだ。例の若いバーテンダーとはすっかり顔馴染みになっていた。
 女はわたしが予想した通り、ふたたび「蛾」に姿を見せる事はなかった。
 わたしは女に入れ込む積もりはなかったが、それでも、ふたたび姿を見せない女を思うと、ある種の寂しさを意識せずにはいられなかった。
 いったい、女はどんな生活をしているのだろう? 女が口にした「あんたなんかに分かりはしないわよ」と言った言葉の裏には、どんな意味が隠されているのだろう・・・・?
 わたしの意識の中には、わたしが最後に言った、「関係なくはないよ」という言葉に、女が一瞬見せた逡巡する気配が未練がましく刻み込まれていた。女がその言葉に引き寄せられるように、また、「蛾」に足を運んで来る事はないだろうか?
 しかし、わたしが「蛾」で過ごす時間は週を過ぎるごとに、月を過ぎるごとに、虚しく積み重ねられていった。わたしはなんとなく未練の残る思いで再度、女の家を訪ね探してみようか、という気持ちになっていた。あの場所の近くへ行き、待っていれば、あるいは深夜に帰って来る女に偶然、出会う機会に恵まれるかも知れない。
 女への愛情と言うのとはまた、違う気がした。それでも何故とはなしに、どこか冷たく、翳りを帯びた雰囲気を持つ女には、心惹かれるものがあった。肉体的に魅せられたというよりは、女の存在そのものが気になった。その存在を身近に感じていたいという、柄にもない感情が沸き上がるのを意識した。
 その土曜日、わたしは午後九時頃「蛾」へ行った。女が来る事はないだろうと思いながらも、十二時近くまでねばった。
 女はやはり来なかった。
 わたしは意を決して、この前、女の後を付けたあの場所まで行く事に決めた。

「蛾」を出るとタクシーを拾った。むろん、やみくもに訪ねて行くだけの事で、女に会える保証など何もなかった。女の家さえ分かっていないのだ。せめて、名前の一部だけても聞き出しておけばよかった、と迂闊さが悔やまれた。
 うろ覚えの道だったが、それでもどうにかこの前、女がタクシーを停めた同じ場所に辿り着く事が出来た。
 女が歩いて行った小路は相変わらず鬱蒼とした樹々に覆われていて暗かった。わたしの足を運ぶ靴音が耳に籠るように聞こえた。
 わたしはこの前来た時、足音を聞いたように思ったのはどの辺りだったのだろう、と考えながら、用心深く周囲に気を配り、ゆっくりと歩いて行った。そして、二本目の外灯の下を通過した時だった。わたしは息を呑んで立ち止まった。
 三叉路に立つ外灯の明かりの下で、微妙な感じで人の動く気配がした・・・・と思ったのだった。
 足音への疑念をまだ、払拭出来ないでいたわたしは、緊張感で凝り固まり、その場を動けなくなっていた。沸き起こる恐怖心と共にしばらくは視線を凝らし、三叉路を見つめ続けていた。
 人通りも途絶えた三叉路にはだが、ふたたびものの動く気配はなかった。
 あるいは、必要以上に警戒するあまりの恐怖心が引き起こした、眼の錯覚だったのか?
 今度もまた、確かな判断が出来なかった。
 わたしはそれで気を取り直し、また歩き出した。
 三叉路まで来るとわたしは、この前と同じように、女が曲がった道へと入って行った。
 周囲に建ち並ぶ家々は、ことごとくが門を閉ざし、樹木に覆われた屋敷の中で黒い影となって静まり返っていた。
 女の家がどれなのかは、依然として分からなかった。わたしはやはり前回と同じように、何度もその道を往ったり来たりした。あるいは、偶然にでも、女が深夜の遊びから帰って来るところに出会えるのでは・・・・そんな期待も虚しかった。
 結局わたしは、この前と同じように、女の家を探し出す事も、女に会う事も出来ないままに、これ以上、うろうろしていても無駄だと判断すると、途端に気が抜けてしまい、小さな坂道が右に折れて曲がる角の家の塀に身を寄せてタバコを取り出し、火を付けた。二本、三本、と立て続けに吸った。あるいは女は今頃、布団の中で気持ちよく眠っているかも知れないのだ、そう考えるとバカバカしくなって、帰ろう、と思った。
 腕時計を見ると針はあと十分ほどて二時になるところだった。
 わたしは短くなったタバコを路上に投げ捨てて、靴の底で踏みにじり、火を消した。今来た道を帰ろうとして顔を上げたその時、だが、わたしは、またしても三叉路の明かりの下を横切り、大通りへ向かって足早に過ぎ去る一つの人影を眼にして、息を呑んだ。ーーそれは決して見誤る事のない確かな人影だった。わたしは咄嗟に、先程、同じ場所で動いたと思った人影を思い浮かべた。
 やっぱりあれは、眼の錯覚などではなかったのだ。誰かが俺の後を付けていたんだ・・・・。
 だが、もしそうだとしたら、いつたい、なんの為に?
 ふと、一つの情景が思い浮かんだ。
「あんたの後を付けたんだ」とわたしが言った時、思いがけなく女が見せた凍り付くような表情だった。
 あるいは女は、身辺を探られたくない為に、俺をどうにかしようとしているのだろうか?
 だが、仮にそうだっとしても、いったい何故?
 俺に知られたくない何かの秘密を隠しているのだろうか?
 わたしは沸き起こる疑念と共に、しばらくは人影の通り過ぎた三叉路を見つめ続けていた。しかし、ふたたびそこに動くもののない事を確認すると、足音を殺し、用心しながらゆっくりと歩いて行った。もし誰かが物陰から飛び出して来た時には、いつでも動けるようにと身構えていた。

 
 
 
 
 
 

影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-07-29

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