地の濁流となりて #7
第二部 辺境の地編 湾岸都市マール
湾岸都市マール。「辺境」と呼ばれる地にありながら,マンガラたちの故地ルーパや,二千年の歴史を持つヴァルタクーン王朝の諸都市,さらには遠く離れたラスーノ国とも交易のある,ラユース大陸の海の拠点である。海産物の取引はもちろん,各地の様々な物品,生産物,また,辺境の地に住まう諸部族の作物も,この港に集まる。
その外観は,イスーダとはまったく異なっていた。モレスコの幸いを思わせる,石を積み上げて白い漆喰を塗った壁は,あまり見当たらなかった。レンガや焼いた粘土,それに木材などを様々に組み合わせた建物が大半で,それらが遠目にも,色とりどりのモザイクを成していた。また,イスーダが平地に開けていたのに対し,マールは山肌に家屋が軒を連ね,それらを縫う路地は,さながら傾斜のついた迷路だった。
「はあ,これはまたすごい街だね。イスーダとぜんぜん違う。」
船着き場が近づくにつれて,全貌を見せていくマールに,早速マンガラが嘆声をあげた。パガサもイスーダの街を思い描いていたので,驚きに言葉を失っていた。カタランタだけが,やはり何の感慨も示さずに,帆が降ろされ,櫂の数を少なくして減速した船が,港に着くのを静かに待っている。
甲板は,荷を背負う支度を始める商人たちのどよめきで,にわかに乗船のときの盛況を取り戻していた。これからルーパで仕入れた物品で商いを行う者,ルーパでの商売を終えて帰途についた者,いずれもが,船上での無表情を忘れてしまったように,いろいろな想いに逸り,はやくも荷を背負って勇んでいる。
桟橋は赤茶色のレンガを重ねて作られ,重ねた隙間には腐食を防ぐため,白い漆喰が塗りこまれていた。ルーパの交易船の船着き場の細い板ではなかったことに,マンガラとパガサは胸をなでおろした。アイクセル号から遅れて,焦げ茶色の,幅の広く長い物を曳航している船がパガサの目に入った。
「あれは。」
思わずパガサは声を出したが,すぐにそれが何であるか判明した。このアイクセル号ほどの長さもあろうかという太い木材が,筏に束ねられて,船に曳かれて港に入ろうとしていたのである。アスワンたちが言っていたのは,あのような巨木なのだろう。パテタリーゾに入ってくるのは,すでに加工された物が多い。
商人たちの大きな荷と押し合いをしながら,桟橋から降りたところで,カタランタが厳粛な顔つきで言った。
「いいか,ここはお前たちが住んでいたルーパとは違う。いろんな所から,いろんな奴が入ってくる。人の物を盗む者もいれば,喧嘩をふっかけてくるのもいる。だから,俺のそばを離れるな。とくにマンガラ。」
ことさらに名指しされたマンガラは,「ぼく」と言うように自分を指差し,それから不満気に頬を膨らませた。そのやり取りに,パガサはつい吹き出しそうになったが,カタランタが自分を睨んでいるのに気づいて,真面目な顔をつくろった。その間にも,続々と商人たちが桟橋を離れ,埠頭の先を,船から見えた大通りへ散り散りになっていった。
「それで,ここの王さまはどこにいるの。」
マールの「若き賢王」エル・レイ。評議会に左右されない彼ならば,「輝石」について何か知っているかもしれない。それがアスワンの提案だった。マンガラの言うように,まずは王の居場所を探さないと。しかし,王ってどこにいるのだろう。このような大きな街で,今回は「時を旅する人」ブッフォの指示もない。どうやって探したら。
「おい,乾燥パテタあるか。」
突然,カタランタがぶっきらぼうに言った。
え,乾燥パテタ。乾燥パテタが一体何に。港が見える前に,アスワンたちから貰った貝の干物を食べた。まさかカタランタに限って,マンガラみたいに食い意地が張っているなんてことは無いと思うが。
「へえ,カタランタ,まだお腹減っていたの。」
案の定,マンガラが嫌味を込めて,笑いながらカタランタを見やる。
「いいから,出せ。」
その剣幕にマンガラはパガサの後ろに飛ぶように隠れた。パガサもカタランタの説明もない命令口調には,不信感を抱いたが,しぶしぶ一塊を腰の袋から出した。カタランタはそれをひったくると,埠頭の方へさっさと歩き出す。離れるなと言ったのは自分なのに,とパガサは思いながら,マンガラの手を引っ張って追いかけた。
埠頭には,イスーダの市にも劣らぬ店が軒を並べていて,降りたばかりの船客や,これから桟橋を目指す者に,さまざまな格好をした露天商が大きな声をかけていた。その一隅に,帽子を目深にかぶった少年が,柱に寄りかかっている。誰かを待っているのか。カタランタの足はその少年に向いているようだった。
マンガラとパガサが追いついたときには,ちょうど乾燥パテタをその少年に渡していたところだった。なぜ乾燥パテタを。なぜ知らない者に貴重な乾燥パテタを。パガサはさすがに腹を立てた。
「カタランタ,どうして大事なパテタを知らない子に渡すの。ぼくたちの食料は限られているのは知っているよね。アスワンたちがくれた干物があるとはいえ。」
叫ぶパガサを手で制して,カタランタはつぶやいた。
「エル・レイはあの高台にある王邸に住んでいるが,普段はいないそうだ。念のために,王邸も覗く。」
え,いつの間に。マンガラも不思議な顔をしている。見兼ねたように,カタランタが説明した。あの少年は,「情報屋」の下っ端で,だいたいどんな街でも,人が出入りする辺りをうろうろしている。ここはイスーダと交易があるから,魚介の干物よりもパテタの方が珍しい。だから乾燥パテタを使った。
「何事もこれからは引き換えだ。王の居場所を知るのもな。」
それならば,そう先に教えてくれれば良いのに。イスーダからずっとそうだ。自分は知っているから文句を言うな,みたいな風を吹かせて。そうでなくてもパガサは何事につけ悔しいと思っていたが,今回もけっきょく王の居場所が引き換えに分かったと考えると,口の中に残る貝の干物の苦さが,さらに苦くなるような気がした。
埠頭から石畳の大通りに入ると,両脇にイスーダのそれよりも高い建物が連なっていた。船客を引き込む酒場,市場の産物を調理し,おまけに宿も提供する旅籠屋,それらの間に奥へと伸びる細い路地には,マンガラやパガサの知らない,いかがわしい街の暗部が口を開いていた。
「ねえ,王さまがいないってどういうこと。王の家なのでしょう。」
マンガラは,ルーパの長老の例を念頭に言っているのだろう。長老が不在なのは評議会が開催されるときだけ。常に里の民の相談に乗り,里を見回っても必ず戻る。エル・レイという王は,どうして自分の住まいに戻らないのだろう。パガサも不思議でならない。しかし,それにしてもこう行き交う人が多く,建物で遮られ,空が狭くなると心細くなる。道も石が敷き詰められている。土がない。
「さあな,「賢王」と呼ばれるくらいだから,理由があるのだろう。」
カタランタは無関心にそう言いながら,人混みをかき分けてすいすいと進んで行った。引き離されないように懸命に歩むマンガラたちにも,やがて,左手に少し傾斜のある石畳の道が見えた。その先に大きな黒い塔が空の稜線をかすめていた。尖塔の下には,剣を持った拳のレリーフが施されている。
「カタランタ,それで王邸はどこにあるの。」
そう尋ねたパガサに,その黒い塔をカタランタは指差した。
「古い火薬塔だ。あの下に王邸がある。」
火薬塔。それにあの壁面に描かれた絵は何だろう。武器のようなものを持った大きな手。どうせカタランタは,あの正体も知っているのだろうな。パガサは,ふと,旅をしているのが,本当はマンガラと自分ではなく,カタランタであるような気がしてきた。埠頭での口の苦味をまた感じる。ぼくらだけでは,きっとイスーダからも出られなかった。これからも,カタランタの世話になりっぱなしなのかな。
王邸は,火薬塔と建造された年代が近いらしく,似たような黒いレンガを積んだ重厚感のある建物だった。正面の鉄の巨大な扉の奥に,さらに太い鉄格子を備えている。少し開け放たれた隙間から,そのずっと向こうに続く暗い通路が見えたが,扉の中へは入れなかった。門衛のいかつい男が,簡単に「王は不在」と伝え,三人を遮ったのである。
「王は不在。これでは,最初に戻ったみたいだね。」
マンガラが杖を持ったまま,両腕を頭の後ろで組んだ。王邸を後にしたぼくらは,再び石畳の大通りに戻っていた。カタランタには何か思惑があるのか,樽の焼印が入った板を掲げた酒場を,一つ,また一つと覗いている。と,ちょうどカタランタが別の一軒のなかを覗いているときに,路地から出てきたのか,男たちがマンガラとパガサの前にぞろぞろと現れた。何か嫌な予感がする。
「おい,そこのお前さんたち。ちょっと顔を貸してくれないかい。海の民の格好をしているが,海の民じゃないよな。悪いことは言わないから,持っているパテタを全て出せ。おっと,リーゾもあるなら,そいつも置いていけよ。」
そう凄むでっぷりした男を先頭に,マンガラとパガサは,またもや男たちに囲まれた。ただ,イスーダのときと違って,パガサは命の危険を感じていた。この感じは,カタランタに貫を後頭部に当てられたときに似ている。男たちの背後に一瞬,あの埠頭でカタランタが話しかけた少年の帽子が見えた。あれは。
「ここの街の情報屋は,「おいた」するらしい。子どもも油断ならない訳か。まったく。やめておけ,そんな脅しは効かない。」
酒場を覗いていたカタランタが,ゆっくり男たちをかき分けてマンガラとパガサの前に来た。
「若いの,威勢が良いねえ。どれ,少し遊んでやるか。」
カタランタが,不意にマンガラの杖を取り上げた。両手で器用にくるくる回すと,鉄が打ち込まれた先端を相手に向け,杖の中ほどを脇に抱える。それを合図とするように,相手の男たちは,各々が腰に差していた短剣を抜いて,じりじりとカタランタに迫ってくる。と,一人がにやけた顔をして,カタランタに躍りかかった。しかし,カタランタの方は,動きを察知していたかのように,きれいに身を翻して,鉄の先端で男の背中をしたたかに打ちつけた。
「すごい,カタランタ。」
杖を取られた空手の姿勢のまま,マンガラがつぶやく。本当にすごい。動きが早くて,どうやって相手を打ったのかが分からなかった。二人目の男の顔は,にやけてはいなかったが,その男も腹の辺りを打たれて,苦しそうな声をあげながら,その場にうずくまった。
「おいおい,やるじゃないか。いいか,お前たち,よく見ておけよ。こういう相手には,戦法というものが必要だ。」
先ほど凄んだ男が,短剣を二つ抜き出し,一つは刃先をカタランタに向けて,もう一つは柄を前に出し,切っ先は自分に向けている。それを見たカタランタが,杖を捨て,例の卍に手をかけた。そのときだった。横の路地から,鞘に入った長剣をぶらさげて,無精髭を生やした男がふらりと姿を現した。長衣を着流し,縦縞の袴を履いている。
「情報屋,その流し斬り,まさかお前,この子を殺るつもりか。まあ,盗人に詐欺まがい,脅かし,それくらいはマールも目をつむるが,人の命を取るのはご法度だ。それに,どうやらお前の方が,だいぶ部が悪そうだぞ。」
そう言うと,男は長い柄に手をかけた。柄と鞘の間から少し覗いた銀色が,眩しく陽を反射する。その仕草と,男の指に嵌(はま)ったものに気づいた「情報屋」は,軽く舌打ちをすると,仲間たちに引くように指示した。負傷した者を抱え,石畳をぱたぱたと散ってゆく男たちを見送ると,無精髭の男が柄から手を離し振り返った。
「これはまた面白いものを持っているな。それは卍に,そっちは貫か。とっくに失われたと思われていたが。古王朝時代は,ハカリスに,ラパイスティと呼ばれた武具を,二つも身に帯びるとは,お前。」
と,男はカタランタを興味深そうに見つめていたが,武具の名を言われたカタランタは,一瞬驚きの表情を見せ,卍から手を離すと,すぐに視線を逸らした。
「まあ,いいか。俺は何かと詮索する奴は好かんからな。それより,このマールの者として詫びを入れさせてくれないか。」
無精髭の男が言う「詫び」とは,酒場で一杯奢るという,これまたマンガラやパガサには初めての体験だった。酒場「ジュアプ」の扉を開けると,朗らかな喧騒がマンガラたちを迎えた。何かを薫じた香ばしさが鼻をつく。だが,すでにマンガラは店に漂う濃い空気に頭がくらくらしていた。パガサはこの香りが,パテタ酒と似ているのに気づいた。ところで,マールの「酒場で一杯」と言えば,火酒と通り相場が決まっていた。
「お,旦那。これは珍しいお連れで。」
人懐っこい顔つきの店主が,無精髭の男に声をかけた。男の方は何も答えず,店主の真向かいに座ると,マンガラたちにも座るよう手で合図した。店主がその間に,火酒の瓶と小さなガラスの杯を三つ持って来る。男は無言で,杯になみなみと注いで渡す。一杯,また一杯と,決められた動作のようにすべてが滑らかに進み,マンガラとパガサはそれを右に左に目で追い,渡されるままに杯を手にしていた。
「それじゃあ,マールにようこそ。おい,何をしている。杯を上げろよ。そうだ。俺の合図で杯を打ち鳴らすのだ。初めてなのか。」
マンガラとパガサはその言葉に,とっさに杯をぶつけたものだから,二人とも火酒を長衣にこぼしてしまった。カタランタは少し離れた席で,伏し目がちに杯を差し出した。シュナップスと呼ばれる,酒精の高い度数の酒が,土の民の二人の舌を,文字通り焼いたのは言うまでもない。
無精髭の男は,杯と格闘する三人をよそに,瓶から直にぐいぐい仰いだ。やがて,おもむろに口を開いた。
「昔の話だ。いまルーパと呼ばれる地では,特殊な金属が混じる砂が採れた。鉄ならこの辺境にも出るが,その金属は賦活性(ふかつせい)を帯びると言われ,一度(ひとたび)精製すれば,強度も鋭さも減じないとされた。そんな金属だ,並みの鍛冶屋には扱えない。このラユース大陸広しといえども,その金属を打てる者はなかったと聞く。」
ここまで話すと,男は瓶を傾け,中身を飲み干した。それから,カタランタを見やると,「まあ,生きた者が一人も残っていないくらい年月を経ると,本当か嘘か分からないような伝説が生まれるものさ」と締めくくった。
パガサは,カタランタの「武具」を改めて見た。これらは本当に古のものなのか。「元をたどれば土の民」,「獣を狩っていた」,カタランタはそう言っていた。土の民の祖先が,なぜそのようなものを。
「ねえ,おじさんは,王邸の人なの。」
マンガラが,いつの間にか男の横に立っていた。手を,いや,指を見つめている。その指には,あの「火薬塔」の大きな手を象った指輪が嵌められていた。しかも,全体はくすんでいるが,おそらく黄金でできている。マンガラに虚をつかれた男は,口をあんぐり開け,「こいつは,まいったな」と頭を掻きながら笑い出した。
そのとき,カタランタがすっと席を立ち,笑っている男に近づくと,卍を腰から抜いた。パガサは焦った。まさか,カタランタ,この男の人と。男は急に深刻な顔つきになったが,成り行きを見守るつもりのようだった。カタランタは,抜いた卍の柄を両手で掴み,くるりと回して柄に額を二回当てた。何かの儀礼みたいだ。
「「若き賢王」とお見受けいたします。」
え,若き賢王。この髭面のおじさんが。驚くパガサを尻目に,一連の所作をじっと見つめ,その言葉を聞いた男は,ふうと一息ついた。火酒が濃い酒精の風になって辺りを包む。
「やはり,お前は,そうか。そろそろ動く,ということか。そうだ,俺がマールのエル・レイだ。「賢王」は止してくれ,「若き」はもっての外だが。そういうことなら,まあ,久しぶりに王邸へ戻るか。ここじゃあ,誰が耳を澄ましているか分からないからな。」
酔ったように飄々としていた男は,背筋を伸ばして席を立つと,まるで人が変わったような威圧感のある足取りで,勘定も払わず,店の出口に向かった。愛嬌を浮かべたまま,店主が「まいど」と声をかけた。
地の濁流となりて #7