星子

星子(第2稿)
                (星子とカメ太郎の悲しい恋の物語)

                      

                                     カメ太郎


 (序編)        

 僕らは天国への階段を手を携えて登りつつあった。     
『カメ太郎さん。天国はまだなの。遠いわ。私、もう足が疲れたわ』
 僕は座り込もうとした星子さんを背負って再び階段を登り始めた。僕の背中に星子さんの柔らかい躰と体温が伝わってきていて僕は幸福だった。
『でも、僕ら早過ぎたのかもしれないね。お父さんやお母さんが悲しんでいるよ。天国へ旅立って行った僕らをとても悲しんでいるよ。僕ら、あんまり早過ぎたのじゃないのかな?』
『カメ太郎さん、何処なの、天国の門は何処なの、見えないわ、ずっとずっと階段が続いているだけで天国の門なんて見えないわ』
(僕も星子さんを背負いながらいつまで経っても見えて来ない天国の門に疑いの心を持ち始めていました。僕が今巡っているのは本当に天国への階段なのだろうかという疑いがありました)
----もう僕はどれ程この階段を登ったことでしょう。もう千段も、少なくとも数百段は登ったようでした。僕の目の前の光景はだんだんと薄暗くなりつつありました。
 僕は足が疲れているだけでどうでも良かったけど、星子さんは僕の背中ですすり泣いていました。天国だと思った処がどうも天国ではないようでした。それで星子さんは泣いていました。僕は歯を食い縛りながら一歩一歩と登り続けました。
『カメ太郎さん、何処なの。天国は何処なの?』
(僕も星子さんを背負っていて疲れ切っていました。もう星子さんを降ろそうかな、とも思いました。そうして一人で走っていって天国へ辿り付こうかな、とも思いました)         



 海の中で君の苦しさと僕の苦しさが溶け合って、黒い水の中に僕らは沈んでいっていた。星空がそんな僕の目にぼんやりと映っていた。何度も海面へ浮かび上がり助けを求めた。僕の意識は喪われてきていた。そしてもう一息もう一息と僕は水を飲んでいたようだった。



(ある者の証言)
『ズボンッ』
と桟橋から海に何か大きいのが落ちる音が聞こえました。それは何か人魚か何かが月夜に浮かれ出て桟橋に上がり月見をしていたら人が来たのでやっぱり海の中に戻ったのだと私には思われました。何かが落ちたのではなく何かが海の中に戻ったのだと私には思われました。
 春の夜の幻聴のようにも思われました。私は再び縁側からテレビのある部屋へと戻りました。テレビでは「プロゴルファー猿」があっていました。
 やがて寝転がってテレビを見ていた私の耳に今度はかすかに再び桟橋あたりから『ボスッ』と海の中に飛び込む音が聞こえました。私は何気なく立ち上がり再び襖を開けて遥かに桟橋あたりの海を眺め始めました。海面を何か河童のようなのが泳いでいるようでした。私は再び夢見心地のような気分になりふらふらとしながら襖を跨ぎテレビの部屋に戻りました。そして再びごろっと横になりテレビを見始めました。



(本編)


※※(これらはカメ太郎の家の本棚の片隅にずっと置かれていたA4版の本のようなノートである。寂しげに何年も打ち棄てられていた。カメ太郎の書きかけの手紙および星子さんの手紙が日記とともに順序正しく整理されている。カメ太郎と星子さんの青春の葛藤を凝縮したものだ。なお、これにはそれに含まれないものも含まれている。また、カタカナや平仮名や数字などを漢字に変換している処も多々ある。
 舞台は昭和40年代後半から昭和52年に亘る。)※※



(夢の中で) 
 青い海辺に僕らは腰かけている。星子さんはさっきから『幸せは何処なの。幸せは何処にあるの』と聞いている。僕は黙って海を見つめている。ゴロも僕の横でさっきから黙って海を見つめている。でも星子さんだけは、さっきから『幸せは何処にあるの』と尋ね続けている。僕は答える方法もなく、海を見続けている。でも星子さんはさっきから泣きながらそう尋ね続けている。僕には答えることはできなかった。



(夢の中で)
『私たち、なぜ小さい頃から障害をもって苦しまなくてはならないのか、カメ太郎さん知ってる?』
----突然、星子さんがそう言った。僕らの間にできた気詰まりな雰囲気を消すために星子さんはそう言ったような気もした。でもなんとなく星子さんの表情は険しかった。
『私たち、魂を清めるために障害を持つことになったのよ。私たちの魂ちょっと良くなくて、障害でも持って苦しまなくては魂を清められないと神さまが判断なされたの。だから私たち障害持っているからって、いじけたりひねくれたりしてはいけないの』
 星子さんの声は最後は激した様子に変わっていた。僕はうなだれて聞いていた。
『私たちの魂の故郷は、湖みたいな処なの。とても綺麗な処で周りを林に囲まれていて輝いているの。みんな綺麗。宮殿があっていつもそこでパーティーが開かれているの。綺麗な音楽が流れていてそれヴァイオリンみたいな音楽だわ。宮殿じゅう香水が撒かれているみたいでそれ花の匂いなのかな。宮殿のまわりに咲いているたくさんの花の匂いなのね。みんな微笑んでいるわ。暗い顔した人、一人もいない。ワインなのかな、紫色の液体を男の人が飲んでいるのが見えるわ。小さな女の子がライオンに寄り添ってうたた寝しているし、湖に船を浮かべているカップルもいるわ。空を飛んでいる人もたくさんいるわ。白鳥がいて、とても大きなランの花が湖畔に咲いているわ』
 そう言って星子さんは涙ぐんでいた。そして手を顔に押しあてて必死に嗚咽が漏れるのを防いでいた。僕は傍に寄っていって肩でも抱いてやろうと思うのだが体が動かない。神さまが僕のうしろにいて僕の両肩をものすごく強い力で押さえていて僕は身動きができないのだろう。そして神さまが呟いた。『放っておきなさい。放っておきなさい』
 僕はなぜ神さまがそう言われるのか解らなかった。手を伸ばせばすぐ届く処にいる星子さんなのだが、やはり煙っていて今にも消え入りそうだった。


----僕がこれを書いて五年経って星子さんが死んだ。その頃、僕らはまだ文通を始める前だった。僕らはそのときすぐ近くに住んでいた。夕暮れどき、いつも見渡す僕の家の窓辺から星子さんの家がすぐ近くに見えていた。
 僕はすぐ近くに住んでいる星子さんの家の窓を毎日よく見続けていた。僕が市場の二階にまだ住んでいた頃のことだった。
 狭い六畳二間の市場の二階に僕たち一家は住んでいた。一階で果物店と衣料品店を僕の家はしていた。僕が小学四年の頃までは経営はとても苦しかった。
 小学六年の頃だから僕の家にも光が差し始めたばかりの頃だった。僕は小学五年の一月頃から再び勤行唱題をするようになっていた。だからそれから三ヶ月ぐらい経った頃、書いたものだと思う。
 ときどき僕らは道ですれ違っていたし、窓辺から星子さんが車椅子で星子さんの家の傍の道を通っているのを見ていた。僕はよく夕暮れどき窓辺に腰かけて星子さんがその道を通るのを哀しげに見つめていた。



 暗くて良く解らなかったけれど、星子さんがいた。車椅子の上で何かを囁いていた星子さん。星子さん、あのとき何を言っていたのだろう。夜六時の闇が僕らを覆い尽くそうとしていた。    
(僕が小学六年、星子さんが小学四年のとき、『巨人の店』の前で) 
 今も解らない。あのとき、星子さんは何を言おうとしていたのだろう。



※(僕が小学六年のことだ。昭和四十七年のことになる)
 僕は吃り吃り喋った。そして悲しい視線が桃子さんたちから帰ってきた。
 それ以来、桃子さんたちは僕を振り向こうともしなくなった。それまでいつも廊下ですれ違うたびごとに僕に好意の視線を送っていたのに。
 でも星子さんだけは、車椅子の可哀想な星子さんだけは、廊下ですれ違うたびごとに僕を見つめていた。でも、その視線はあれ以来、哀しげな視線に変わったように僕には思えるのだけど。



(カメ太郎、出さなかった手紙)
 星子さんへ
 星子さん、小学校の卒業式の日、ごめんね。『ありがとう』の言葉もろくに言えなくて。
 僕は言語障害なのです。以前、僕に桃子さんたちが喋りかけてきたとき僕はひどく吃り吃り喋って桃子さんたちは笑いながら走り去っていったことを。もう半年以上も前のことになると思います。
 僕は喋るのが怖かったから、だからこのまえ花束を奪うようにして持っていったけどすみませんでした。でも僕はとても嬉しかったです。あんなに一杯胸に抱え込んでいて大丈夫でしたか。真っ白い薔薇でとても綺麗でした。それもあんなに綺麗な花を(その花束の向こうに星子さんの顔が見えて僕は今でも瞼の裏にあのときの光景を想い浮べることができます)。
 白いたくさんの薔薇の向こうに恥ずかしげに俯く星子さんの顔がありました。
 でも、あの白い薔薇、刺がたくさんあってそのとき星子さんの着ていたセーターに傷が付いたような気がしてあとでとても悩みました。僕はそのことあとで発見しました。誰もいない体育館の裏で。星子さんから貰った大きな一抱えほどもある白い薔薇に星子さんの着ていたセーターの毛が付いていました。僕はそれを指でつかんで、ふっ、と吹いてしまおうかな、と思いました。僕は薔薇の刺に付いていた赤い毛糸の切れ端を指で取ってふっと風に乗せました。するとどんどん上に浮かんでいってだんだんと中学校の方に見えなくなってゆきました。
 僕は『ありがとう』と呟くように言って奪うように取ってきたのだけど。
 赤い毛は僕と星子さんを繋いでいる幸福の赤い糸のようにも見えました。星子さんの着ていた赤いセーターの毛玉、僕と星子さんの恋を乗せてゆくようにゆっくりと動いてゆきました。
 そう言えば僕、このまえ変な夢を見ました。僕と星子さんが結婚式を挙げたあと新婚旅行に出かけるときの光景でしょう。木製の船に乗って僕らが何処かに旅立つ光景が浮かんで来ました。星子さんはまっ白なウェディングドレスを着ています。僕は髭をモジャモジャとはやしていて何処かの王子か何かなのかなあ。
 あの花束、名前何と言うのだったんですか?
 白い花で、裏庭で喋りきれなかった悔しさに苦しみながら、僕、ふっと息を吹きかけました。すると白い花びら、雪のように風に舞い始めました。ちょうどそのとき吹いてきたつむじ風に花びらはまるで僕と星子さんがダンスを踊るように舞いました。とても不思議でした。つむじ風のなかで踊る僕たちは白い花びら。白い小さな王子とお姫さまのようでした。
 僕たち不思議な花びらで、誰もいない裏庭で誰にも気づかれないように踊る恋人どうし。白い白い恋人どうし。



※(カメ太郎、中学一年。星子さん、小学五年の時のこと。春の日。昭和48年)
 その日、僕は学校から帰ってくるとじりじりと照らす西陽を階段の上の小さな窓から見つめていると青春の衝動というのだろうか、何かに胸を突き上げられるようになってランニングするときの服に着替えて家から駆け出し始めた。不思議な抑えようもない熱感が僕にはあった。
 また一日の苦しみに満ちた学校が終わった解放感が僕にはあった。
 網場の海のあの浜辺まで1kmぐらいだろうか。その1kmは短かった。僕はいつものように小さな獣道を駆け降りて、いつも星子さんが海を見ている浜辺のうしろの林の中に倒れ込んだ。
 僕の目の前には激しい僕の息で揺れる青い雑草。そして吹き荒ぶ砂のような土。そして僕の躰の下には草と土の塊。僕はいつも苦しい息の下そうして倒れ伏しながら車椅子の星子さんの姿と歌声なのだろうか、それとも何かに(妖精か何かに)喋りかけているのだろうか、星子さんの声を聞き取ろうと耳を澄ませた。
 あっ、歌っている。星子さん、何を歌っているんだろう。

『カメ太郎さん、出ていらっしゃい。カメ太郎さん、私、解っているのよ』
 私は何度もこう言おうと思いました。私には解っていました。後ろの蜜柑の木などが植わっている林のなかにカメ太郎さんが隠れているのを。
 夕暮れで周りは少しずつ薄暗くなっていっていました。波の音と小さな小鳥たちの声が私とカメ太郎さんを包んでいました。
 私は恐る恐る車椅子を動かし始めました。とっても恥かしくて心臓がとても激しく打っていました。
 私、静かに車椅子を動かしていました。なんだか頬が火照ってきて私わざとこうしているのがカメ太郎さんに解りそうでとても恥ずかしかったわ。
 車輪が暗い穴のなかに「チャリンッ」という音をたてて落ち込みました。
『カメ太郎さん、助けて! カメ太郎さん、助けて!』
 私は必死に心のなかでそう叫びました。恥かしくて顔をまっ赤に染めて俯いていたと思います。
 一分ぐらい経った頃でしょうか。私、泣きかけていました。カメ太郎さん、なかなか来なかったから。カメ太郎さんの意気地なし、カメ太郎さんの意気地なし、と心のなかでそう言いながら泣いていました。
 私が本当に泣き始めようとしているときでした。カメ太郎さんの隠れている林の方に音がしたと思ったらカメ太郎さんが林の中から私の処に走ってきてくれてました。私、嬉しくて嬉しくて頬をまっ赤にして泣いていたと思います。私、それからそのあとのこと、あまり憶えてないのです。カメ太郎さん、駆けてきてたわ。わざと車輪を穴に落とした私のために走ってきてくれてたわ。私、恥かしくて恥かしくて、もう目の前が涙で見えなくなってカメ太郎さんの走ってきている姿も、もう見えなくなりました。ごめんなさい、カメ太郎さん。
 やがてカメ太郎さん、私の処まで来てくれました。私の車椅子の把手を持って、そしてカメ太郎さん、力強いのね。持ち上げて舗装された道の方へと運んでくれました。カメ太郎さん、ごめんなさい。カメ太郎さん、ごめんなさい。こんなこと私わざとカメ太郎さんにさせてしまって。ごめんなさい。カメ太郎さん、ごめんなさい。
 涙で曇ってよく見えなかったけど、もう少しで私が楽に進めるコンクリートの道でした。カメ太郎さん、ごめんなさい。こんな大変な思いをさせちゃって。ごめんなさい。
 やがて私、コンクリートの道の上に静かに降ろされました。私、じっとしていました。コンクリートの白い道の上に降ろされたまま私、じっとしていました。私、どうしていいのか解らなかったのです。私、目にいっぱい涙を溜めて、じっと俯いていました。
 ごめんなさい、カメ太郎さん。ごめんなさい。
 私、五分くらい経った頃でしょうか。わんわん泣いていました。振り向くとカメ太郎さん、もう消えていました。なんだか林の奥を駆けてゆくカメ太郎さんのうしろ姿がゴロ君と一緒に見えたような気もするけど。
 ごめんなさい、カメ太郎さん。ごめんなさい。
 私、そうして駆けてゆくカメ太郎さんのうしろ姿を涙に曇りながら見送っていました。ごめんなさい、カメ太郎さん。ごめんなさい。
 カメ太郎さん、幻のように消えていって、あとにはカメ太郎さんが駆けていった林が木の葉の音を微かにたてていました。カメ太郎さん、幻の王子さまのように現れて、やっぱり幻の王子さまのように消えていったわ。そして私、王女さまだったの。海辺で泣いていた王女さまだったの。



      (僕は唖の旅人)
 星子さん、このまえ浜辺で君を救った人を知ってるかい? 彼は唖の旅人でその日、風に乗って東望辺りからやってきたんだ。仙人のように風に吹かれて漂ってきたんだ。
 僕は以前から君を好きだった仙人で、学校から帰るとすぐ家を飛び出して来たんだ。
 ごめんね。友達になるチャンスだったのに。僕もあとでものすごく後悔しました。ごめんね。
 でもこうやって文通できるようになったから僕は幸せです。この頃、一日のうち半分は星子さんのこと考えていて、これが初恋なんだなあ、と思っています。胸がわくわくしてきて、授業中もにやにやと笑ってしまいます。でも僕は仙人のように誰にもこのこと話していません。僕は今日も一日中にやにや笑いながら授業を受けてきました。斜め前の女の子がそんな僕を見て『プッ』と笑いました。



(夢の中で)
 夕暮れの海の上を星子さんは幽霊のように漂う。僕に微笑みかけながら、星子さんは東望の方へと風に吹かれるように行っていた。青い海の上を、夕暮れで暗くなりかけた海の上を。
 僕もゴロも夕暮れの海の上を東望の方に揺れながら動いてゆく星子さんの姿を見つめていた。ゴロも無言だった。僕らはそうしてずっと星子さんの姿を見送り続けた。缶詰工場の裏の防波堤に僕らは立って、風に吹かれるようにして動いてゆく星子さんの姿を見えなくなるまで見送っていた。


 雨がポツポツと降っています。星子は一人です。カメ太郎さんは何をされていますか? 今、学校ですか? 星子は家にいます。一人寂しく家にいます。
 星子、今日、学校休んじゃった。だって、行っても、おもしろくないもん。このまま家で一人、のんびりしていたかったもん。
 ゴロくんはどうしていますか?
 星子は一人です。星子はいつもいつも一人。
 星子は一人で寂しくないのです。慣れているから。いつも一人だから。
 星子は一人。いつもいつも一人。
 星子は一人で海の中に溶けてゆくの。
 一人で、たった一人で溶けてゆくの。
 わんわん、泣きながら溶けてゆくの。
 たった一人で溶けてゆくの。
『カメ太郎さぁ~ん』と叫びながら溶けてゆくの。

 溶けていって星子、また一人なの。
 何処か解らない処に星子、また一人なの。
 ここは何処? ここは何処?
 ここは一体、何処なの?
 ここは何処? ここは何処なの?
 誰も居ないわ。誰も居ないわ。
 星子、一人。星子、一人だわ。
 誰も居ない。誰も居ないわ。
 カメ太郎さぁ~ん、カメ太郎さぁ~ん。
 誰も居ないわ。誰も居ないわ。
 カメ太郎さぁ~ん、カメ太郎さぁ~ん。
 カメ太郎さぁ~ん、カメ太郎さぁ~ん。
 星子、一人なの。カメ太郎さぁ~ん。
 カメ太郎さぁ~ん。


   (僕たちは負けない)
 僕もだけど星子さんもだけど、みんな愛されて生きている。とくに両親に。
 その愛が過剰に感じられることもあるけれど、僕たちは愛されて生きている。
 その愛に答えようとするけれど、答えきれないことも多い。
 愛に、期待に、応えきれなくて、僕たちは苦しむこともあるけれど、
 愛と、期待が、過剰に感じられることもあるけれど、
 でも僕たちは負けない。
 本当に過剰に思えることが良くあるけれど、
 僕たちは負けない。



(カメ太郎、中二、六月)
 もう夏になりかけているこの頃です。星子さん、お変わりありませんか。僕はこの日曜日、朝起きてからずっと勉強していました。そして窓辺から外の景色を眺めたら、星子さんの顔をした入道雲が出ていて僕はとてもおかしくなりました。
 何故、その雲は星子さんによく似ているのかなあ、と不思議に思いました。
 ゴロが散歩に連れていってくれるように窓辺から顔を出して外の光景を見ていた僕を見て吠えていました。
 白いヨットが海の上に浮かんでいます。幾つ浮かんでいるのかなあ。その白いヨットはスイスイと気持ちよく海の上を動いています。





 僕とゴロはてんてんと家へ向かって走りながら泣いていた。星子さんを見た悲しさと、悲しそうだった星子さんの姿と、寂しげな夕暮れの景色と、僕は悲しかった。道を行き過ぎる恵まれた人たち、何も悩みのないようなクラスメート、幸せなクラスメート、苦しむ僕や星子さん、僕は悲しかった。



 星子さんの涙と僕の涙が解けていき、そうしてこの雨になっているのだろう。星子さんの涙と僕の涙が一つになって、この寂しげな雨になっているのだろう。窓から星子さんの家を眺めながら僕はそう思っている。



 砂が盛り上がってきて、君が現れてきて、僕に『こんにちは』という。
 あどけない君。無邪気な君。幸せな君。
 そして幸せな君を見て喜ぶ僕。
 不幸な人が居ない社会ができたらどんなに良いだろう。
 僕はそんな幸せな社会ができることを切望する。
 不幸の無い社会。幸せな社会を。



(夢の中で)
『僕らの青春は何だったのだろう』
『私たちの青春は苦しんで苦しみ抜くだけ。みんなの冷たい視線や同情を受け続けるだけ』
『でも僕らには希望が、希望がないのだろうか』
『カメ太郎さんにはあるかもしれないですけど、私にはあまりないわ。ただ、カメ太郎さんと結婚できることが私の夢なの。たぶん駄目だと思うけど、それが私の夢なの』
----僕は無言になってしまった。



 僕らは悲しい恋人どうし
 海を見つめる恋人どうし
 やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて
 無言の僕らを慰めてくれる



(夢の中で)
 線香花火を僕と君は桟橋の上でしていた。ゴロも寂しげに僕らの傍に立って同じ線香花火を見ていた。
『僕らの人生って、この線香花火のようだね』
『ええ、この線香花火、私みたい』
 ゴロが悲しげに遠吠えをした。ゴロの人生も、僕の人生も、君の人生も、線香花火のようだった。
『線香花火って、可愛いけど、寂しいわ』
『うん。可愛いけど、寂しい』
 お月様が桟橋の上の僕らを照らしていた。悲しげに悲しげに僕らを照らしていた。
『私たちの人生って、ほんの少し、明るい時があるの。でも、いつもは暗いの』
『うん、そうだ。僕らの人生って、線香花火のように、明るいときもあるけど、ほとんど、いつも、暗い』
 ゴロが再び遠吠えをした。線香花火の悲しさを打ち消すように、ゴロは何回も何回も遠吠えを繰り返していた。



 夏の海の上に君の姿が見える。まるでカゲロウのように、君の姿が浮かんで見える。



 僕は一日の睡眠時間がもう五時間を切っていた。毎日十二時まで題目を挙げていた。七時半にクラブから帰ってきて、それからゴロの散歩にいって、八時くらいに帰ってきて、それからお風呂に入ったりご飯を食べたりして、それから勤行して唱題を一日五千遍(一時間四十分、朝のと合わせて)挙げている。それから教学(創価学会の勉強)を二、三十分すると、もう十二時になっている。それから中国語の勉強や学校の勉強を二時半ぐらいまでして寝て、朝は七時ごろ起きて急いで朝の勤行と唱題をして三分ぐらいでご飯を食べて学校へ走っていっていつもギリギリで(いつも遅刻になる鐘が鳴っているときに、いつもその鐘の音が鳴り終わる寸前に、いつもそのチャイムの最後の鐘の音の余韻が響いているときに、いつも今にもその最後の鐘の音の余韻が消えようとしているときに、いつもゴボウ(僕の友達)と一緒にギリギリで教室に入っていっている。(サンカクはでも僕とちがって、そのチャイムの最後の音の余韻が消えた寸前に教室に入って来て、先生(ゴリラ)から半分冗談に怒られているけれど)、でも僕は四回か五回に一回しか最後の鐘の音に遅れません。




 カメ太郎さん、吃るから電話しちゃ駄目だって言うけど、私もたまにはカメ太郎さんとお話してみたい。カメ太郎さん、どんなに吃たっていいから電話してみたい。


  窓の外をぼんやりと眺める
  何も考えず、ぼんやりと眺める
  ウルトラマンが飛んでいる
  怪獣ガメラも飛んでいる




 不幸な人、苦しみに喘ぐ人を救うのは何かと僕は煩悶する。それは大聖人様の仏法なのか、それとも別の何かなのか、僕には分からない。恵まれた幸せな人はそれで良いだろう。でも、社会の底辺で喘ぐ人たちを救うにはどうしたら良いのだろう。自分は救われたい。でも、不幸な人たちを救わなければ。そのためには何をするべきか? 僕は煩悶する。苦しむ人を救わなければ。でも、その方法が何なのか分からない。その方法が解れば自分はそれに命を懸けて邁進するだろう。
 真実が分からない。真理が分からない。
 苦しむ人の居ない世界。不幸な人の居ない世界。そういう世界を造らなければ。天国のような世界を。
 苦悩が消えて、喜びに満ちている世界を。
 そういう世界を僕らは造らなければならない。


(夢の中で)
 幸せは、幸せはどこにあるの? 
 幸せは、雲仙岳が見えるだろ、天草の島々が見えるだろ、その向こうに阿蘇岳だと思うけど見えるだろ。あの阿蘇の山々の向こう在ると思う。
 幸せの国々が。みんなが幸せに仲良く暮らしている国々が。人を憎んだり、陥しめたり、いじめたりすることなんて全然ない国々がそこに在る、と僕は思う。


 星子さんへ
 僕は苛められているデビルマンとよく遊んでいます。デビルマンはみんなから嫌われています。でも、可哀想だから、可哀想だから僕はデビルマンと付き合っています。僕もデビルマンと付き合っていて厭になることも多いけど、でも可哀想だから付き合っています。デビルマンと付き合っているのは自分しか居ません。でもやっぱり可哀想だから付き合っています。こちらも厭になることが良くあるけど。友達はデビルマンとは付き合うな、とよく言うけど。


 星子さん、こんばんは。夜、勉強していると(君へ手紙を書いていると)、僕の家は君の家と違って山の方にあるから、カブトムシやクワガタが飛んできます。網戸にドシンッと音がしたらカブトムシで、ガシャンッと音がしたらクワガタです。ポニョッと音がしたらカナブンです。


    (もしも私に足があったなら)
 もしも私に足があったなら、
 そうしたら私、カメ太郎さんと海辺を歩いてみたいわ。
 手をとり合って歩いていて私たち夕陽で紅くなった水平線を見つめながら話をするの。
 私たち、夕方五時にその浜辺で会う約束をしているの。
 カメ太郎さん、学校が終わるとすぐにランニング姿でやってくるの。
 私、薄くお化粧して自慢の白いドレスを着てくるの。
 私、いつも約束の五分ぐらい前までには約束の場所に来るのに、
 カメ太郎さん、いつも五分ぐらい遅れて来るの。
 そしていつも走ってきて肩で息をしているの。
 風がピューッと海から吹いて来るの。
 カメ太郎さんの髪も私の髪もその風になびくの。
 髪が目に掛かって私たち髪を手で払って、
 再び、さっきの話を始めるの。
 『遠くに三味線島が見えるだろ、
  俺、そこまでこのまえ泳いで行こうとしたんだ。
  友だちの水泳部のカッパという奴と。
  でもみんなが止めろ止めろと言うし、
  僕らもなんだかやる気がなくなってきて止めたけど、
  もしそれを実行してたら今日こうやって二人でここを散歩することなんてできなかったかもしれない。
  実行しないで良かったのかな』
 私たち、そして抱き合うの。
 カメ太郎さんの躰、いつも熱いの。
 そしてとっても力が強くて私、身じろぎもできないの。
 カメ太郎さんの胸、汗でちょっと濡れていて、私の頬、その胸に思いっきり押しつけられるの。息ができないくらい。
 でも私たち倒れ伏すの。私たち世間の荒波に揉まれて倒れ伏すの。私たち、足が悪くなくても倒れ伏す運命だったの、私たち。


 私はくるくると空中を飛んでいました。母の悲鳴が聞えてきます。空が青くてとても綺麗だわ。小鳥が私と同じ高さの処を飛んでいるわ。それに車や家の屋根が見下ろせるわ。私、鳥になったのかしら。
 私、鳥になったんだわ。躰がふーっと空中を飛んでいるもん。気持いいわ。とっても気持ちがいい。私、天使になったみたい。羽が生えて私、飛んでいるのかな。私、鳥みたい。躰が軽くなってふわふわと飛んでいるんだわ。
 さっき腰の処が急に痛くなって、そして『どすんっ』とものすごい音がしたと思ったらこうなっちゃった。私、どうしたのかな。私、どうしたのかしら。
 私、道の向こうで立ち話をしている母の処へよちよちと走り出したの。すると急に目の前が真っ暗になって私は空中に飛んでいたの。真っ青な空と大きな白い雲がすぐ近くに見えたわ。
 私、何処に行くのかしら? 私、天国に行くのかしら?
 とっても気持ちが良くて私、神さまの手の平に乗って空を飛んでいたみたい。小鳥が私を不思議そうに見つめていたわ。
 やがて私はふわりと落ちてゆき始めました。私の羽、何処に行ったのかしら? 私、落ちてゆこうとしているわ。
『ばきゅんっ』、私の頭と手足は叩きつけられて波のように跳ねました。私は意識が遠くなって目の前がとてもまっ暗になり何も見えなくなりました。


(星子さんへ)
 るるる、と朝早く電話のベルが鳴ったから誰からだろう?と耳を澄ましていたら担任のゴリラからでした。父が出て、熱が39℃も出ていることを話していました。僕はそっとベッドに戻り再び『熱よ上がれ。熱よ上がれ』と念じ始めました。


 僕が死ぬと天国へ行くのか地獄へ行くのか解んないな。たぶん両方の中間ぐらいの処に行くと思うよ。窓から見える網場の海の上空と海の中間辺りに漂うようになるんじゃないかな?



 僕はこういう日(こういう悲しい日)ふと君の胸に抱かれることを思います。君の胸の中、温かいだろうなあ、そうして心配でこの浜辺にゴロと震えながら佇む僕の心をきっと癒してくれるだろうな、と思ってしまいます。
 君は今ごろ学校なんだろうな、と思います。純心のポプラの木の向こうで、明るく楽しそうに授業を受けてるんだろうなと思うと、そんなに楽しい授業なんて受けたことのない僕には、(苦しい苦しい授業ばかりを受けてきた僕には)ちょっと妬ましいほどです。


 本当は僕はこの浜辺に悲しげに佇まなくてはいけないのだけど、夏の残り火と言うか、夏の青い輝く海面が僕の目を幻惑し出し、僕はいつか幸せな心地に浸っていました。ゴロも辺りを呑気そうに歩き回っています。とても幸せそうです。
 この浜辺は、本当は悲しみの浜辺のはずなのに、僕の心は、何故か慰められて、磯の香りかな、それとも細波の音かな、それとも君が車椅子にぽつんと座って寂しげに背中を見せて海を見つめている幻影が浮かんでくるからかな、僕はいつか元気になっていて、僕の心は晴れ晴れとしてきます。まるでこの青空や海のように。
『死なないで、カメ太郎さん』
 九日ほど、熱に呻されていた。その間、ずっと心の中で題目を挙げ続けていた。調子がいいときには仏壇の前へ行って唱題したり勤行したりしていた。
 厳しい冬の九日間はそうして過ぎていった。僕の布団の下は熱でカビだらけになっていた。九日後、僕はまっ白な顔で学校へ出て行った。


 美しい湖の底に僕らは抱き合いながら沈んでいって、そうしてそこは白い砂に覆われていて、そこで僕らは始めてキスをするのだろう。僕らは森の中のその湖で始めて抱き合い、そして始めて会話を交わすのだろう。
 僕らはそこでいつまでも抱き合いつづけるだろう。
 白い砂に埋まってしまうまで、
 僕らはいつまでもいつまでも抱き合いつづけるだろう。
(幸せなそんな日が僕らにも来たらいいのだけど、きっと来ないだろう。僕らはずっと孤独で、きっとそんな幸せな日は来ないだろう)


 窓辺を見ていると悲しげな星が一つ、また一つ、と流れていっていた。僕や星子さんの涙のようだった。愛し合っているけれど会えない僕らの悲しみの涙のようだった。


 窓辺から君の家が見えるけど、悲しい。僕の頬には涙が溢れてきそうだ。ずっと学校を休みつづけている僕。喉の病気のため大きな声が出なくて文化祭の劇の先生役をできないから。
 僕は悲しく窓の外を眺めつづけている。熱が自然に39℃まで出て、家の人に学校を休む理由ができてるけど、夕方にはこの熱も平熱になるし、このまえ病院に行ったときも平熱になっていました。
 星子さん、お元気ですか。僕はこのように学校を休みつづけていますけど、星子さんは元気でしょう。僕は苦しんでいます。病気は熱が出るだけで全然苦しくもなんともありませんけど。
 星子さん、本当にお元気ですか。僕は午前中はいつも熱が39℃まで出ています。母が心配して店を父に任せて昼には水枕やタオルなどを替えたり、リンゴを擦ったのを食べさせたりしてますけど。




 燃える 燃える 地球が燃える そして僕の心も灰になる

 星子さんの家を眺める風景は前面が海 そして後面が立ち並ぶ家並み その家並みの間に潜むある苦悩の魂

 僕が始めて星子さんを見たのは夕暮れ、二階の窓辺に腰かけて口を開けボンヤリと涼んでいるときだった。(つまり僕たち一家が現在の家に引っ越す前の借家でのことだ) 
 目の前を車椅子に乗った女の子が通り掛かった。乗っているのは小さい女の子で、その女の子が車輪を回していた。
 車輪が回るとグルグルとどっちの方向に回っているのか解らなくなる。まるで車椅子の上の女の子は魔法使い。回る車輪を見つめる僕はキラキラと輝く車輪に窓辺から落っこちそうになったほどだった。まるで星子さんは魔法使い、テレビで見る西洋のサーカスに出てくる女の人のようだ。
 でも魔法を使うのは小さな五歳ぐらいの女の子。必死に車椅子の車輪を回す女の子。
 車椅子の上で必死に車輪を回す女の子は西洋人のような容貌をしているんだなあと思った。
 道は僅かながらも上り坂だったためか女の子の表情は真剣だった。
 夜、僕は考えた。昼間見たその女の子のことが気になって眠れなかった。必死に車椅子を漕いでいたあの子。異国人めいてとても美しかった。目がとても大きくて色が白くて。
 あの女の子は何処の女の子なんだろう。
 そう思って僕は星子さんを始めて見てから数日して偶然、道で擦れ違ったあと彼女のあとをつけていった。
 その女の子はこのまえと同じように僕の家の裏側から見える道を車椅子を動かして進んでいた。
 やがてその女の子はその道を登り終えると大きな道を右に曲がってそのすぐの処にある家へ入っていった。表札は『野口』と書いてあった。



 僕が星子さんを愛し始めたのはいつの頃からだろうか。あれは赤い夕陽が沈もうとしている夕暮れのときだった。たしかにあの頃の夕暮れのことだった。
 あれは僕が中一の春、僕が魚釣りから帰りながら浜辺をゴロ(僕の家の犬)と歩いていると浜辺に佇む車椅子の少女が海を見つめていた。僕はゴロと大きな瞳のその少女の僕らを意識したような横顔を見つめた。
(星子さん。あのとき僕らを意識していたのだろう。僕とゴロを横顔で。僕、ちゃんと解ったんだ。とても意識して微笑みかけているその横顔を)
 僕、ちゃんと解っていたんだ。僕に話し掛けたがっているその様子を。でもごめんね。僕、そのまま通り過ぎて。いつものように下を向いて足早にすごすごと通り過ぎて。ごめんね。
 赤い夕陽が僕らを照らしていた。僕の足元からサクッサクッと砂を踏んでいる音がしていて僕のうしろからゴロの息が聞こえていた。そして黙って俯いて星子さんのうしろを通り過ぎてゆく僕らをまあるい背中で見送る星子さん。ごめんね、星子さん。
 僕とゴロはあの日、夕陽を浴びて微笑みながら帰った。もう陽は沈もうとしていて、さっき見た車椅子の女の子の美しい横顔が僕とゴロの瞳にまだありありと映っていた。僕らは幸せ一杯に歩いていた。家まで幸せ一杯に帰っていった。
 赤い赤い夕陽だった。僕らを結びつけていたその夕陽は。今までに見たこともないような大きな赤い夕陽だった。そうしてユラユラと揺れながら沈んでいっていた。僕らに手を振って別れを告げるように。



 朝、僕はいつも後悔の念と自分の長い長い風邪に疲れ果てたようにして床を出ます。外は寒く、小雪が舞っています。もう四ヶ月にもなる僕の風邪はこの頃は咳が止まらなくて食べていたものを咳とともに吐いてしまうほどになっています。
 でも具合いは何処も悪くなく、熱が7度台と喉がとても蒸せていることぐらいで学校にはちゃんと行けます。でも授業の後半になると痰がたくさん喉の奥にたまって早くトイレに行って吐きたくて苦しくなります。
 こんなのが三ヶ月近く続いています。僕は幼稚園の頃は病弱でハシカとか三日バシカとかいろんな病気に次々と罹って半分も幼稚園に行きませんでした。でも小学生になると途端に元気になってほとんど病気はしなくなりました。(でもよく風邪をひいたらすぐに休んでましたけど)
 幼稚園の頃、僕は呪われていて(それに僕の家も本河地から日見町に引っ越してきて今までサラリーマンだったのに店を開いて、そうして経済的にとても苦しく、僕は病気にばかりなるし、それにとても泣き虫で毎日一回一時間くらい泣いていました)あの頃は地獄のような毎日でした。今も苦しいけどあの頃の苦しさに比べると今は天国のようなくらいです。
 窓を開けると冷たい外の空気が僕を哀しげに包み込みます。星子さんの家を見ようとしてもあまり長く窓を開けていると部屋が寒くなるからほんの少しの間しか開けていられません。今日も学校を休んでしまった罪悪感と母や家族の人に心配かけている罪悪感に僕は落ち込んでしまいます。
 僕の喉の病気は気管支炎なのだと思います。「家庭の医学」という本を読んでいてそう気づきました。
 この頃はゴロの散歩は姉や父が行っています。星子さんも冬なので寒いから浜辺に出ていることはないと思っていたけど、土曜や日曜には出ていると書いてあったのでびっくりしました。寒くないですか。僕はずっと風邪をひいてるし、当分の間、ペロポネソスの浜辺に行くこともないと思います。



 寂しい流れ星が、風邪でずっと寝込んでいる僕の目に誰かの涙のように見えました。母の涙なのかなあ、誰の涙なのかなあ、と思います。もう九日も寝込んでいる僕の目に始めて見た流れ星は何かを僕に告げるように見えました。
----僕はこの流れ星を見た翌々日から熱も下がり学校へ行き始めた。クラスのみんなは色がまっ白になり痩せた僕をとても不思議そうに見て、でも喜んでくれてました。先生(ゴリラ)は『カメ太郎、色の白うなって良か男になったな』と言っていました。



 僕は一度、星子さんの家に電話したことがある。中学二年の十月のことだった。その日、僕は学校を休んでいた。学校で文化祭があるのだが僕は劇で先生役になっていた。僕はみんなに人気があったからどうしてもそんな役をするようになってしまったのだった。でも大きな声が出ない。
 ふとメロディーが止み、一瞬打ち震えるような沈黙が訪れた。星子さんが受話器を取ったのだろう。そしてやっぱり星子さんの声が聞こえてきた。
『はい。変わりました』
 その声はあまりにも事務的だった。少しの色気も感じさせないものだった。でも電話の向こうで実は僕以上に打ち震えている様子がいじらしいほどに感じられた。
 僕も受話器を強く握り締めたまま顔をこわばらせて震えていた。僕は熱に浮かれたように、偽りの熱に浮かれたように、して電話をかけたのだったが、星子さんの声が現実に聞こえてきて、あまりにも容易く僕が苦しんで苦しんで求めていたものが出てきているという不思議さとともに倒れました。こんなはずはあってはいけないことだとさえ思いました。あまりにも容易すぎる。僕がよく日暮れどき見渡している星子さんの家への光景のあの神秘に満ちた神聖さはここにはなかった。失望みたいなものが僕を襲った。



 星子さんへ
 僕はさっき不思議な夢を見ました。巨大な蟹のお化けのようなのが僕の部屋に入ってきて寝ている僕を心配げに見つめて、そしてやっぱり横の方向に歩いて壁の中へとスッと消えてゆきました。肩幅のとても大きい、人間と蟹を合わせたようなお化けでした。そして何故か顔が僕にそっくりでした。そう言えば僕も肩幅がとても大きいけど。
 あれは僕だったのかなあ、と思います。僕の家に住んでいる何かの霊だったのかなあ、と思います。でもちょっと寂しげな表情をして心配そうに風邪をひいて寝込んでいる僕を見下ろして壁の中へ消えてゆきました。
                  (カメ太郎、中二、十二月)



 星子さんへ
 今、国語の授業中です。でも僕には今朝(夢の中で)見た顔が僕にそっくりの、そしてものすごく肩幅の広かったお化けが僕を心配げに見下ろしていた姿とその表情が今も忘れられないでいます。
 蟹のようだった、と書きましたけど、手はやはり人間の手で、蟹のようにはさみではありませんでした。そして腕はものすごく長かったです。
 でもとても可哀相な幽霊のようでした。歳は僕と同じくらいで、そして格好というか姿がとても醜くて。
 でも相撲を取らせたら肩幅がものすごく広くて強そうだったな、あいつ、と思って僕はちょっと微笑んでいます。お相撲さんになったら大関ぐらいになるんじゃないかな、と思って。



       ----私はスフィンクス----
 私はスフィンクス。
 胴体と顔だけ人間で下半身はライオンのスフィンクス。
 私は近代化されたスフィンクス。実はスフィンクスも車椅子に乗っていたのです。あるとき夢の中で見ました。自分も実は車椅子に乗っていたんですって。王子で身分の高い人だったのです。とってもハンサムな。カメ太郎さんとどっちがハンサムかわからないくらい。
 あるとき彼は手術されそうになったのですって。当時エジプトで流行っていた移植手術を親から(つまり王様から)強制的に受けさせられることになったのですって。下半身をライオンにするっていう。
 それで何百頭ものライオンが殺されて王子に合うライオンの下半身が捜されました。そしてやっと王子に合う若いライオンの下半身が見つかりました。でも王子は山のように積み重ねられた若いライオンの死体の山を目にして涙ぐみました。
 王子は手術を受ける決意を為されました。自分のために死んだたくさんの若いライオンの魂を慰めるために。
 やがて王子は死にました。手術後、敗血症を起こして間もなく亡くなったのです。そして王子の死ぬ前の姿、下半身がライオンで上半身が人間という像ができあがったのです。
 やがて王子は天国で王子のために供されたたくさんのライオンの魂と会いました。悪いのは王子の親、そして当時権勢を振るっていた外科医たちです。
 王子は一つ一つのライオンの魂に詫びを言ってゆきました。とぼとぼと歩いて王子を恨めしそうに見ている若いライオンの魂の前を歩いてゆかれました。何百と続くライオンの魂の群れの中を。
 そして今、私はスフィンクス。鋼鉄のスフィンクス。誰もが仰ぎ見る砂漠のスフィンクス。
                    (星子、小六、十二月)



   (もしも私に肢があったなら)
 もしも私に肢があったなら、
 そうしたらカメ太郎さんと春の野山を思い切って駆けてみたいわ。
 綺麗な黄色い花などが咲いていて、
 太陽が一杯で、
 虫さんたちも盛んに歌を歌っていて、
 私たち、その中を手を繋いでお弁当持って思い切って駆けているの。
 野いちごがあって、湧き水があって、
 カメ太郎さん、食いしん坊だから私が持ってきたお弁当だけでは足りなくて、
 (たった十分間でカメ太郎さんすべて食べちゃったのよ。
  私が朝早く起きて二時間かけて一生懸命つくったお弁当を、
  私に優しそうな声もかけてくれず、一人でパクパクと食べちゃったのよ)
 カメ太郎さん、まっ赤な野いちごを次から次に見つけ出しては口に入れているの。
 私もカメ太郎さんの真似して野いちごを食べてゆくの。
 私、カメ太郎さんが面白い話をしてくれないかなと期待してたくさんお弁当つくってきたつもりだったのに。
 カメ太郎さん、暗いのね。頬を頬張らせて景色を眺めながら食べつづけるだけなの。
 カメ太郎さん、女の子の心が解ってないのね。
 でも私、そんなカメ太郎さんが大好き。
 素朴で暢気なカメ太郎さんが大好き。
 夕方になって足がくたくたになって山を降りていたら、
 突然、カメ太郎さんが抱きついてきたの。
 カメ太郎さん、痩せているのに力がとっても強くて、
 私、少しも抵抗できずに、
 野原の上に押し倒されちゃった。
 そして私たち、キスしたの。
 熱い熱い草の上で私たち燃えるようなキスをしたの。



※(カメ太郎、書きかけの手紙)
 星子さんへ
 もう二月も半ばを過ぎて冬も早く終わればいいのにまだとっても寒いですね。夕方、ゴロの散歩に行くのにも根性が要るくらいです。今日なんか心のなかで『南無妙法蓮華経』と題目を唱えながら玄関を出たくらいです。
 真冬で寒いから寒がりやの星子さんはやっぱり浜辺には出てきていませんね。それともまだ学校から帰ってきてないのかな。僕は今日もゴロと二人っきりであの浜辺を散歩しました。北風が東望から吹いてきていてとても寒かったです。
 帰り際、星子さんの家の前を通りました。するとテレビの声が聞えていました。今日は金曜日だから星子さんはまだ学校なのではないのかな、と思いながらも、もしかしたら星子さん、もう帰ってきているかな、それとも星子さんのお母さんがテレビを付けっ放しにして夕食の準備をしているかな、と考えました。
 星子さんはいつも何時ごろ帰ってきているのですか? それにいつもお父さんと帰ってきている訳でもなさそうだし。僕はなんだか従兄のお兄さんのことを考えると少し心配になってきてしまいます。僕は星子さんにとって夢の中の存在だけど、従兄のお兄さんは現実の存在だから。僕は儚い儚い夢の中だけの王子さまで(そして本当は言語障害で喉の病気で大きな声が出ないのに)僕はそのことを考えると胸の張り裂けるような思いにとらわれてしまいます。
 僕は冬の夜空に輝く儚い儚い存在で、もう一年半も文通だけを僕らは続けているけれど、僕はとても残念というか、もし僕が喉の病気でさえなかったら寒いけどあの浜辺で土曜日や日曜日にでもデートできるのにと思うと悔しくて悔しくてたまりません。
 僕は冬の夜空に星子さんの家の上に輝く寂しがりやのお星さまで、きっと喋ったら星子さんから幻滅されて嫌われる悲しい悲しい存在なのです。



※(下書きの手紙)
 返事がまだなのにまた書いてごめんね。この頃、ずっと風邪ひいて学校を休んでいるので暇だからまた書きます。父は今日一人で魚釣りに行きました。岩崎電器の人と釣り船で行くそうです。そして僕もゴロも家で日曜日なのにボケーッとしています。もちろん僕は一週間近く(五日)学校を休んでいる訳だから魚釣りには行けないけれど。
 ゴロは久しぶりにポカポカとした暖かい日なので小屋の外で日向ぼっこをしています。僕はときどき窓から顔を出して外の景色を眺めています。もう冬は終わって春がすぐそこまで来ているのかもしれません。春になると十一月からずっと続いている僕の風邪も治るのかもしれません。そして喉の病気もそのときには治っていて僕は星子さんと喋れるようになっているのかもしれないなあと想像しています。



(カメ太郎、中二の二月)
 僕はこのごろ土曜日にはいつも夜二時ごろまでテレビの映画を見ている。星子さんの家も土曜日にはいつも遅くまで灯がついている。星子さんも映画を見ているのだろうか。いや灯りがついているのは居間だし、たぶん星子さんのお父さんが見ているのだろう。 
 冬の真夜中の凍てつくような闇の下に僕は星子さんの家の灯を眺めながらこの頃よくボンヤリと時を過ごしている。部屋を出て階段の上の小さな窓から凍てつく寒気など忘れて橙色に照っている星子さんの家の灯りだけを見ている僕の心の中はいろんな空想で一杯だ。
 でも外は凍えるような寒さなのである。まるで拷問のような、明治の初期、浦上のキリシタンたちが今の長野県に連れていかれ、五歳くらいの子供まで雪の降る戸外に裸で置かれたという話がまた浮かんでくる。
 その子が星子さんであったり、星子さんはそのために足が不自由になったのだと思ったり、そしてそのことの周りに浮遊する浮かばれない霊たちが僕と星子さんの間に立ってそうして僕たちを苦しめているのだと思ったりする。
 でも、たしかに僕らの間に何かの霊が居て僕らを引っつけようとしたり、引っつけるまいとしているように僕には思える。そして僕の思念もその霊は筒抜けに読み取っているようにも思える。
 明治の初期、信州(今の長野県)で小さな子供がクリスチャン故に今のような寒い戸外で真裸でさらされている、という話がまた浮かんでくる。僕はどうもそれが星子さんの前世の姿ではないのかと思って仕方がない。苦しむ星子さんの姿がそれに似ているようだ。また僕の喋り方や喉の病気もその呪いの故なのだと思えたりする。
 僕は黙然としてまるで僧のように、凍てつく夜に祈る僧のように、雪の降る戸外を見つめるのであった。 



(外は猛烈な吹雪だった。ストーブが赫々と照っていた。僕はおもむろに起き上がって便箋と万年筆とインク瓶を取り出して吹雪の向こうに埋もれようとしている星子さんに手紙を書き始めた)
 僕はよくうたた寝をしながら『生きること』を考え耽っています。
 外は猛烈な吹雪です。窓を開けたら吹雪で星子さんの家の灯りが見えません。いつもは見えるのに。
 なんだか星子さんの家、吹雪に埋もれて海の中に沈んでしまうのではないかなあ、と心配です。
 そして僕はそっと窓を閉めました。そして赫々と輝くストーブを背にこの手紙を書き始めた訳です。                              
                   (カメ太郎、中二、二月)



(夢の中で)
『あれが北斗七星。あれがカシオペア。そしてあれが北極星。見えるだろう。僕の指先をずっと見ていくとその星が見えるだろう』
『南十字星は? 星子の好きな南十字星は?』
『南十字星は僕もどこにあるのか知らない。たぶん、日本からは見えない。インドや南極近くの国に行かなければ見えないと僕は思う』
『星子、南十字星が見たいわ。星子、南十字星が見たいわ』



『明るく朗らかに、みんなの犠牲になって生きよ』
 みんなが厭がることを自分から進んで引き受け、そして自分だけ苦しみ、それでも微笑み続けて、みんなが楽をしていても、自分だけ苦しみの中に居て、それでも心のなかは朗らかで、自分の心のなかには太陽があって、どんな寒さや苦しさにも耐えて、人のために喜んで苦しみ続け、何の代償も求めないで、



 僕はハッと目を覚ました。朝だった。もうスズメやツバメたちが僕の家の桜の木にやって来て鳴いていた。僕は急いで布団から出た。



 星子さんの足の上に、神さまは鉄杭を打ち下ろしになって、そして星子さんは足が不自由になった。僕も中一の冬に喉が悪くなった。



 僕はこの頃よく日見峠を自転車に乗ったり、歩いたりして通っている。もちろんあそこからは日見町も網場もみんな見えて、星子さんの家の屋根もちっぽけだけどよく見える。
 日見峠から星子さんの家は夢の島のように浮かんで見える。いつも日見峠から網場や日見町の方を見るときは夕暮れどきだけど、いつも夕陽に映えて海の中に浮かんでいるように見える。
 悲しげに家の中に居る君の姿も。廊下に転がしてある車椅子も。



 いつも塀に足を乗せて僕が帰って来るのを待っているゴロ。僕が夜の散歩に連れて行くのをいつも心待ちにしているゴロ。とても走るのが速いゴロ。



 いつも散歩は十五分ぐらいだ。散歩の終わり頃になるともっと散歩を続けたいのか僕に噛みついてきたりして困らせるゴロ。一日じゅう桜の木に繋がれたきりで(2mぐらいの長さのロープに)そして夜まで小便を耐えているゴロ。散歩に連れて行ってくれないととても悲しい声を挙げて泣くゴロ。僕が疲れきって散歩に行きたくないとき



(星子、消印;昭和50年6月16日)
 こんにちは、星子です。
 今日は日曜日です。でも朝から雨がシトシト降っています。カメ太郎さん、何をしておいでですか? 今日は外で遊べないし、でも、もしかしたら魚釣りに行っているのかなあ? この前、新しいゴムボートを買ったのでしょ。それでお父さんと一緒に魚釣りに行っているのでしょ。雨の日にも魚釣りに行くって凄いですね。雨合羽を被って。
 カメ太郎さん、バスケット部なのに全然、練習に行ってないのでしょ。魚釣りの方が大事なのね。普通の日も遊んでてバスケットの練習には滅多に行かないのでしょ。
 星子は日曜日は午前中はスター誕生を見ています。絶対に見ています。11時から12時までだけど絶対に見ています。星子は歌が巧いのですよ。歌手になろうかな?って考えています。
 車椅子の歌手だけど、でも良いの。そっちの方が良いの。
 星子は車椅子の歌手なの。みんなから同情される車椅子の歌手なの。でも良いの。
 大晦日の紅白歌合戦にも出るの。最優秀新人賞にも選ばれるの。最優秀歌唱賞にも選ばれるの。
 星子は長崎のスターになるの。長崎の片田舎の出身のスターになるの。
 小さな船がポコポコと進んでいるの。小さな漁村だから。でも私の家は漁師ではないわ。
 パパは小さな会社の重役なの。でも小さすぎるの。小さくて今にも無くなってしまいそうなの。
 パパは重役だから自由が効くから月曜から土曜まで私を中学校まで連れて行ってくれるの。帰りも迎えに来てくれるの。
 中学校に行き始めて2ヶ月余りが経ちます。カメ太郎さんの中学校に行けなかったけど、でも良いの。こうやって文通しているのだから。
 本当はカメ太郎さんの中学校に行きたかったけど、行けなかったから、仕方がないの。友達とも別れちゃったけど、今の中学校に新しい友達ができたし。
 カメ太郎さん、今年、高校受験なのに勉強しないで良いの? カメ太郎さん、頭が良いから勉強しなくても大丈夫なのね。日曜日にはいつも魚釣りにばかり行っていて。普通の日も遊んでばかりいて。
 カメ太郎さん、中学2年の時はとても真面目だったのに、中学3年になって変になったって従姉のお姉さんが言ってました。本当に大丈夫なの?
 

(第1章終わり)


(カメ太郎の書きかけの手紙)
 僕は変にはなっていない。
 ただ、ちょっと、変になっただけだ。
 みんなは「カメ太郎が馬鹿になった、馬鹿になった」と言うけれど
 僕はちょっと馬鹿になっただけだ。
 友達が変わってしまった。友達が変なのにばかりなってしまった。
 喉の病気がこうさせたんだ。喉の病気が。
 大きな声が出なくなったから。小さな声しか出なくなったから。
 だから以前の僕のように振る舞えない。僕は苦しんでいるんだ。
 僕は苦しんでいるんだ。
 僕は苦しんでいるんだ。
 
 


※(星子、書きかけの手紙)
 お盆の海に大きなゴカイみたいなのが網場の港に居たってカメ太郎さん言ってましたけど、私もこのまえ見ました。桟橋の近くから親戚の人たちと海を眺めていて、私の従弟が見つけました。本当に大きな大きなゴカイのような不思議な魚でした。私の従弟はそれを採ろうと家まで網を取りに行きましたが従弟が帰って来たときにはもういませんでした。



 バスケットをしているカメ太郎さん。テニスをしていたカメ太郎さん。とっても頭が良くて二枚目だからとてもモテると思うのに。とっても素敵なカメ太郎さんなのに。
 夏の体育館はとても暑いのでしょう。私の学校の体育館もとても暑いみたいです。そしてみんな汗一杯になって練習しています。私もそんなに汗一杯になってスポーツしたいなあ、って思ったりしますけど。     



 夜になると唸されます。なぜ私の足がこんなになったのかって。そしてそのためにカメ太郎さんと同じ中学校に通うことができなくて。
 そんな思いばかりをしているからだと思います。このごろ毎日のように悪い夢に唸されるようになったの。
 でも目を覚ますと波の音が聞えてきて私を慰めてくれます。悪い夢に悩まされた私の心を波の音が慰めてくれます。
                         (八月七日) 



 星子さんへ
 僕は今日、友達と牧島で魚釣りをしていて遥かに水平線の上に星子さんの家の屋根が眺め渡されました。青い水平線の上にポッカリと浮かんでいる星子さんの家の橙色の屋根、とっても綺麗でした。青い水平線ととてもよくマッチしていて。
 友達は相変わらず三味線島の岩の上から魚釣りをしていましたが、僕は釣れないため三味線島の根元の岩のごろごろした処に寝そべって蟹と戯れていました、と言うのは嘘で紫色のアメフラシを突っついたりして遊んでいました。今年はアメフラシが異常繁殖していて一つの水たまりに十匹も居たり、大きな水たまりには五十匹ほども居るのじゃないかな、食べられないのかなあ、それともこれを餌に使ったらでっかい石鯛というかサンバソウが釣れないかなあ、と僕は考えました。
 大きな水たまりには十cmぐらいの小さなサンバソウがいました。それでも釣れたらいいのですが今釣れているのは八cmぐらいのハグロばかりです。だから僕は面白くなくて魚釣りするのを止めて泳ごうかなと三味線島の根っこの方にやって来ていました。
 紫色のアメフラシの肌ってとっても柔らかくて星子さんの頬もこんなのかな、と思っていました。
      (カメ太郎、中三、八月)



 君が眠っている。浜辺に眠っている。幸せそうに眠っている。でも僕は苦し紛れに今日もこのペロポネソスの浜辺に走ってきた。辛い学校生活のやるせなさと、自分の宿命への苦しみと、人間の生き方と、僕はとても迷っている。これではいけない、と思いつつ、僕はどうすることもできないでいる。僕の呪いは強くて、君も、誰も、僕の呪いを解いてはくれない。毎日毎日、朝と夜に二時間ぐらいお題目を挙げたりしているけれど、僕の苦しみは、立山の青い空の中に、虚しく、とても虚しく消えてゆく。絶望の思いとともに消えてゆく。



 僕は必死に題目を挙げ続けた。星子さんの幸せのため、自分の幸せのため、僕は必死になって題目を挙げた。一時間、二時間、と続いた。僕の声は枯れ、虫のようなか細い声しかもう出なくなっていた。
『御本尊様、一日も早く、早く星子さんと僕をお救い下さい』と願いつつ僕の声はもうほとんど出ないようになっていた。僕は線香の立ち込める部屋で題目を挙げ続けた。



 寂しさが込み上げてきても、僕はゴロを連れて海へ行けばいいから、あの懐かしいペロポネソスの浜辺へと行けばいいから。



(ゴロと、夕方)
 ずっと昔、君が生まれる以前から、江戸時代の頃から、この桟橋はあったそうなのだけど、そしてその頃は、木でできていた桟橋だったんだそうだけど、そして今よりも小さな桟橋だったそうなんだけど。



(夢の中で) 
 きっと何処かに幸せな世界があるのだと
 星子さんは僕に呟いたような気がする。
『カメ太郎さん。カメ太郎さん』
----海の上から呼んだって無理だ。僕はもう以前の僕ではなくなっている。(僕はそうして浜辺に寝転んでいた。ゴロが辺りを忙しそうに駆け回っていた。いつもの夕暮れの光景だった。寝そべる僕と、蟹や小石と戯れるゴロと)
 君はとても速く走っている。僕がいくら追っても捕まえきれないくらいに、とても速く走っている。信じられないくらいに、春の野山を駆け回っている。捕まえきれないでいる僕を笑いながら、君はずっとずっと走り続けている。
 以前、見えていた君の笑顔も、今、見えない。遥か向こうに雲仙岳と天草が、ぼんやりと見えている。
 遠く海の向こうに君が煙って見えた幸せな世界は何処に行ったのだろう。遠い遠い海の向こうで僕に微笑みかけていた君の美しい笑顔は、今はいったい何処に行ってしまったんだろう。



 僕は中国語を勉強しています。英語が苦手だし、英語のほかにも外国語を勉強しよう、と思って、毎晩夜十二時から二時か三時まで中国語の勉強をしています。このまえ『聖教新聞』で中国語のコーナーを見て手紙を出した。すると日中友好のバッジと手紙が来た。そうして一生懸命、中国語を勉強しています。将来、中国と日本の架け橋の役目を果たそうと、必死になって中国語を勉強しています。眠たい目をこすりこすり毎晩勉強しています。



(夢の中で)
 僕は星子さんと一緒に花火を見ていた。ゴロも一緒だった。ボーンッ、ボーンッと花火が上がっていた。
『人生とは----人生とは----この花火のようなものだね』
 僕はポツリッとそう言った。
『ええ、そうですね。人生とは花火のようなものですね』
 星子さんが寂しげに答えた。ゴロは僕らの傍で悲しげに泣いていた。
『僕ら、一生懸命に今まで生きてきたけど、僕らの人生って、花火のようだね』
『ええ、花火のようですね。一時は花が咲くように幸せで、----でも、いつもは暗いの』
 ゴロが悲しげに遠吠えをした。ゴロの悲しげな遠吠えを打ち消すようにドーンッ、ドーンッと打ち上げられる花火。
 僕らは網場の桟橋の上で花火を見ていた。他の人たちは桟橋でなくて近くの土手の上から花火を見ていた。そちらの方が良く花火が見えた。
 ボーンッ、ボーンッと夜空に煌めく花火。ゴロは何回も悲しげな遠吠えを繰り返していた。花火の音も、ゴロの遠吠えも、悲しげだった。



(夢の中で)
 線香花火を僕と星子さんは桟橋の上でしていた。ゴロも寂しげに僕らの傍に立って同じ線香花火を見ていた。
『僕らの人生って、この線香花火のようだね』
『ええ、この線香花火、私みたい』
 ゴロが悲しげに遠吠えをした。ゴロの人生も、僕の人生も、星子さんの人生も、線香花火のようだった。
『線香花火って、可愛いけど、寂しいわ』
『うん。可愛いけど、寂しい』
 お月様が桟橋の上の僕らを照らしていた。悲しげに僕らを照らしていた。
『私たちの人生って、ほんの少し、明るい時があるの。でも、いつもは暗いの』
『うん、そうだ。僕らの人生って、線香花火のように明るいときもあるけど、ほとんど、いつも、暗い』
 ゴロが再び遠吠えをした。線香花火の悲しさを打ち消すように、ゴロは何回も遠吠えを繰り返しているようだった。



(夢の中で)
『私たち、なぜ小さい頃から障害をもって苦しまなくてはならなかったのかカメ太郎さん知ってる?』
----突然、星子さんがそう言った。僕らの間にできた気づまりな雰囲気を消すために星子さんはそう言ったような気もした。でもなんとなく星子さんの表情は険しかった。
『私たち、魂を清めるために障害を持つことになったのよ。私たちの魂ちょっと良くなくて、障害でも持って苦しまなくっちゃ魂を清められないと神さまが判断なされたの。だから私たち障害持っているからって、いじけたりひねくれたりしてはいけないの。私、死んでからやっと解ったわ。でももう遅かったわ。私、それで神さまから信用なくしちゃった。私、魂が汚れたままで、暗い暗い霊界をさ迷いつづけているの。自殺したから神さまから見離されたから。
 私、だから天国へ帰れないの。そこは何にも苦しいことなんてなくて楽しいこと、おもしろいこと、楽なことばかりで、そして少しも苦労なんてしなくっていいのです。そこは私たちの魂の故郷で、私たちそこから生まれるとき出てきたんです。この世で修行しなくちゃ駄目だ、と神さまから言われて。だからこの世は修行の場なんだから苦しいことが多いんですって。
 でも私は自ら命を絶って、苦しさに負けてしまって、修行を放棄してしまったの。神さま、私を見捨てなさったわ。私、少なくとも千年は暗い暗い霊界をさ迷い続けなくてはならないの。冷たい冷たいとても淋しい霊界を。暖かい天国に私、少なくとも千年は戻れないの。千年もよ』
 星子さんの声は最後は激した様子に変わっていた。僕はうなだれて聞いていた。
『私たちの魂の故郷は、湖みたいな処なの。とても綺麗な処で周りを林に囲まれていて輝いているの。みんな綺麗。宮殿があっていつもそこでパーティーが開かれているの。綺麗な音楽が流れていてそれヴァイオリンみたいな音楽だわ。宮殿じゅう香水が撒かれているみたいでそれ花の匂いなのかな。宮殿のまわりに咲いているたくさんの花の匂いなのね。みんな微笑んでいるわ。暗い顔した人ひとりもいない。ワインなのかな、紫色の液体を男の人が飲んでいるのが見えるわ。小さな女の子がライオンに寄り添ってうたた寝してるし、湖に船を浮かべてキスをしているカップルもいるわ。空を飛んでる人もたくさんいるわ。白鳥がいて、とても大きなランの花が湖畔に咲いているわ』
 そう言って星子さんは涙ぐんでいた。そして手を顔に押しあてて必死に嗚咽が漏れるのを防いでいた。僕は傍に寄っていって肩でも抱いてやろうと思うのだが体が動かない。神さまが僕のうしろにいて僕の両肩をものすごく強い力で押さえていて僕は身動きができないのだろう。そして神さまが呟いた。『放っておきなさい。放っておきなさい』
 僕はなぜ神さまがそう言われるのか解らなかった。手を伸ばせばすぐ届く処にいる星子さんなのだが、やはり煙っていて今にも消え入りそうだった。命日にかこつけて、特別に僕の前に現れてきてくれたんだと思えた。きっとまたすべてを犠牲にして現れてきてくれたんだと思えた。
 星子さんは今にも消え入りそうだった。



 真夏の太陽が照っていた。僕は草の上に倒れていた。ゴロが僕の周りを周っていた。遠くに波の音が聞こえる。大きな草原には僕とゴロだけで誰もいない。
 過ぎてゆく夏への悔しさにいたたまれなくなってゴロと家を飛び出してきた。自分には青春がないような、もう僕には楽しい日々は訪れないような気がした。この喉の病気のために僕は今からもずっと苦しまされていくのかと思うと堪まらなかった。
                    (カメ太郎、中三、夏)



 僕らは悲しい恋人どうし
 海を見つめる恋人どうし
 やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて
 無言の僕らを慰めてくれる



 ときどき僕もふと思う。
 ゴロと一緒に夕暮れ海を見つめながらふと思う。
 僕らの存在って何なのか?って。
 そして木や岩や草の存在って何なのか?って。
 すると風がビュンビュン吹いてくる。
 僕らの髪をなびかせてビュンビュン吹いてくる。
 ゴロの黄土色の毛も波打っている。
 まるでモンゴル地方の草原のように。
 僕がそっと手で触ると、ゴロは不意に僕を見返る。何事が起こったのか訝しむように。
(ペロポネソスの浜辺の夕暮れはそうして暮れていっていた。ペロポネソスの浜辺は赤く夕陽に染まっていて、僕とゴロはそこに寝転んでいた)
                        (十月三日) 




 僕はこのまえ友人と東望の海岸の新しく出来上がったばかりの道を自転車で行っていた。すると対岸の星子さんのいつもいる浜辺に星子さんの車椅子に乗っている姿が見えた。僕は友人に『俺、やっぱり帰る』と言って急にスピードを上げて星子さんの居る浜辺へと向かった。いつものように裏のみかん畑からこっそりと眺めるだけなんだけど。
 僕は友人と別れて寂しくその浜辺へ自転車を走らせていた。頬に打ち寄せてくる風が涙のようで友人と急に別れてきた悲しさがあった。そして口もきかず隠れて黙って星子さんのうしろ姿を見つめているだけである虚しさと悲しみと。



 もう浜辺も、足を入れると冷たくて、もう秋になったことを、もう冬になろうとしていることを、僕に感じさせてくれます。でも星子さんはこのごろ風邪をひいていてもうずっと浜辺に出ていませんね。僕とゴロはだからとても寂しいです。



(カメ太郎、中三の十二月十一日。星子、中一)
 カメ太郎さんが泣いていたわ。今日パパと帰り掛けにちょっとパパの友だちの家に寄る用事があって日見中学校の前を通っていたら私、まさかと思ったけど、ちょうどカメ太郎さんが中学校の入り口の坂を降りて来ていたわ。あっ、カメ太郎さん! 私、とっても嬉しくてとっても幸せな気持ちになりました。でもカメ太郎さん、泣いていました。目をまっ赤にして何故か泣いていたみたい。
 カメ太郎さん、どうしたの? 何故、カメ太郎さん、泣いているの?
 私はパパに『ちょっと止まって』と言って俯いて広い肩を震わせながら歩いてゆくカメ太郎さんを見つめました。『どうしたの? カメ太郎さん?』私は車の窓越しにそう呟いていました。十二月なのに春のような暖かい日でした。そして周りには何人か帰っている人と十人ほど箒を手にした掃除中の人たちがいました。
 なぜ泣いているの? カメ太郎さん? そうだわ。カメ太郎さんはいま級長で、そして喉の病気で大きな声が出なくて。きっとそうだわ。そのために泣いているんだわ。
 大きな声が出なかったの? でも私はもっとひどい障害があるのよ。泣くなんてカメ太郎さんらしくないわ。
 泣かないで、カメ太郎さん。カメ太郎さんが泣くなら私はどうなるの? 私の苦しみとカメ太郎さんの苦しみは全く種類が違うけど。

 僕はあの日、大きな声が出なかったんだ。六時間目の授業が終わって掃除が始まったとき突然、先生から呼び出されて職員室へ行くと先生が伝言をくれた。今頃になって、今頃になってなぜ伝言くれるんだい、先生。僕はそう言いたかった。椅子に大きく腰かけて呑気そうにそう言う先生に向かって。
 僕は教室へ戻った。そして僕は力一杯伝言を伝えようとした。
 でも僕の声、教室のみんなの喧騒に虚しく消されていった。僕の声、誰にも聞かれなかった。僕はただ口に両手を当てて、もぐもぐと教室の前で口を動かしているだけだった。みんな、クラスのみんな、楽しそうに放課後わいわい騒いでいるだけだった。僕はそうして伝言を伝えきれないまま悲しく一人で教室を出ていった。
 校門を出るとき学校の裏の山に夕陽が懸かっていた。星子さんには全く気づかなかった。でも視界の端に見覚えのあるクルマが停まっていてその中にいたいけな生命がガラスの向こうで必死にもがいているらしく感じたような気もする。



 僕は浜辺で海に向かって発声練習をしていた。
 でも大きな声は出なかった。
 いくら大声を出そうとしても僕の声は波の音、そして風の音に消されていっていた。
 どんなに力いっぱい声を出そうとしても、大きな声は出なかった。
 ただ声が涸れ、ガラガラとした声になっただけだった。
 絶望感が僕を覆っただけだった。

 そして僕はゴロと家路に就いた。
 絶望の闇が僕を覆っていた。
 そして冷たい北風が走る僕に吹きつけていた。

 僕は学級委員になって、大きな声が出ないことでとても苦しんでいた。
 冬で波は荒く、僕はペロポネソスの浜辺の先の立石の岩場で発声練習をした。大声を張り上げようとする僕を訝しげに見るゴロ。冷たい北風。口に手を当てて海に向かって叫ぶ僕。でも僕の声はとても小さくて、僕がどんなに大声で叫んだって普通の人の話し声ぐらいの声しか出ない。僕は落胆し打ちひしがれ、痛くなった喉を我慢しながら家路に着いていた。
 立石から僕の家までの道は長かった。でも僕の躰は燃えていた。僕はあまり寒くなかった。北風も僕には何でもなかった。授業の始めと終わりの号令をもしかするとまた友達に頼まなくてはいけないかもしれない悲しみが僕を襲っていた。それは大きな大きな苦しみだった。
                  (カメ太郎、中三、一月)



 カメ太郎さん、元気ですか? 星子は元気です。でも、今日、ずる休みをしちゃった。
 一週間前に日見中学校の前をパパのクルマで通りかかったとき、カメ太郎さんを見ました。でも、カメ太郎さん、そのとき泣いていたみたい。それで心配になってこの手紙を書いてます。
 カメ太郎さん、何か悲しいことがあったの? カメ太郎さん、今、学級委員長で、そして大きな声が出なくて、それで泣いていたのでしょ。星子には解りました。星子はカメ太郎さんの心を見通す力があるのです。
 でも、星子にはカメ太郎さん以上の病気があるのです。障害があるのです。でも、星子は負けてはいません。星子は強いんです。
 大空のトンビのようになりたいとカメ太郎さん、手紙に書いていましたけど、あれ、カメ太郎さん、現実から逃げたいのね。きっと、そうよ。カメ太郎さん、現実から逃げたいのよ。
 星子の障害は治りません。でも、カメ太郎さんの病気は治るんでしょ。カメ太郎さんが医者になって治す方法を見つけるんでしょ。
 ですからカメ太郎さんは耐えていらっしゃるんですね。負けないで耐えていらっしゃるんですね。
 星子の障害は病気ではなくて事故で成ったものだから治らないの。どうしても治らないの。




 星子、もう一ヶ月以上も前のことになるかな、学校をお昼ごろ抜け出してすぐ近くの産婦人科の病院に行ったことがあるの。車椅子の私がそんな処に来たものだから病院の看護婦さんたちも目を白黒させていたわ。でも私、必死だったから。あとで校長先生たちからどんなに叱られるか覚悟して来たんだから。
 星子、カメ太郎さんと結婚できるのかどうか悩んでいました。私、子供を産めないなら、もうどうしてもカメ太郎さんと結婚できそうにありませんもの。両肢が悪くて、それに子供を産めない私なんかと、誰が結婚してくれるでしょう。          
『先生、私、子供産めるんですか。産めないんですか。はっきり言って下さい』
 星子、怖かった。先生の返事を聞くのが怖かった。たぶん『産めない』って言われると思えてたから私、耳を抑えて頭を下げて蹲りました。   
                    (星子、中二、四月)



 カメ太郎さんへ
 草陰に不思議な花がありました。コスモスの花みたいで、でも秋に咲くコスモスの花がなぜ今こんな処に咲いているの。
 私、体育の時間になるといつも一人で運動場の隅っこをうろちょろするんですけど、このまえ(一昨日)とても不思議な花を見つけました。花壇のブロックのすぐ外に咲いていてちょうどみんなから一人離れ離れになって体育の時間を過ごしている私みたいでした。みんなが咲いている花壇の中に咲いてなくて、なぜこんな処に咲いているの。どうしてなの。寂しいでしょう。寂しくないの。可哀想。私とっても不思議でした。
 でも綺麗。とっても綺麗。
 その花は花びらが紫色をしていて普通のコスモスの花とは違っていたのよ。コスモスの花は黄色い花びらをしているのよ。それにいつも秋に咲くものなのよ。
 私、とっても不思議で茎を手に取って折り取りました。やっぱりコスモスの花みたいでした。形はやっぱりコスモスの花で、でも不思議な色。
 私、その花を先生に見つからないようにそっと胸の中に隠しました。まるでこの花、私みたい。私、胸がジンッときちゃって、この花を家に持って帰って花瓶に植えよう、と思いました。
 でもその花、私の胸のなかで私とカメ太郎さんの間に生れた赤ちゃんみたいに動いたわ。私、子供産めないからこの花を子供にしようかな、って思ったほど。
 辺りの花壇には一面にチューリップやヒヤシンスの花が赤や青や紫色に咲いていてとても綺麗。目がクラクラとするみたいなほど。でも私、胸のなかに隠したこの花の方がもっと好き。まるで私みたいだもん。それにもしかしたら私とカメ太郎さんの間にできる赤ちゃんみたいだもん。
 私、でも小学校の頃もよくこんなことしていました。私、なんだか小学校の頃を思い出してきてちょっぴり感傷的になって涙が出てきました。
 この花を胸に抱えて目を閉じると私の悲しい小学校時代のことが夢の中のことのように思い返されてきます。
 それはとっても悲しい思い出で、私、この頃、二年近く忘れていたことなのに。私、小学校の頃も体育の時間にはいつも運動場の隅っこで見学していたんです。
 私、その頃もよく運動場の片隅の花壇の傍で時間を潰していました。誰も話相手がいなくて何もすることがないからいつもそこへ行っていたのです。
 そうして私、運動場の隅っこでヒマワリの花やヒヤシンスの花やコスモスの花などと戯れていました。
 私、目に涙を浮かべながら、嗚咽を漏らすのを必死に堪えながら、みんなと戯れていました。
 みんな、私の友だちで、私、笑いながら、みんなと戯れていました。とっても綺麗。みんな、とっても綺麗。黄色や青色や紫色が織り交ざっていて、とっても綺麗。みんなみんな、とっても綺麗。一生懸命に咲いていて、とっても綺麗。
 



(浜辺での夜の会話)
 細波の音が僕らを包んでいる。それに星子さんの家の方からか電線に止まった雀の鳴き声が聞こえてくる。そして白いカモメが飛行機のように黒い大気の中を海面目がけて垂直に降ちて来ようとしている。
『カメ太郎さん。黒い大きな不安ってなあに。黒い大きな不安って』
『それは僕を包み込もうとする巨大な津波のようなもので僕は毎日の学校生活の苦しさについ負けそうになったとき、そう思ってしまう。教室の中や学校からの帰り道のときなんかに良く。でも僕はそれを跳ねのけて生きなければいけない。どんなに辛くたって明るい振りをして頑張って毎日を送らなくっちゃいけない。僕らは、本当に僕らはとても辛い境遇にあるけれど決して負けたり挫けたりしないで生きてゆかなくっちゃいけない。僕らは決して負けないで』
(カモメはやがて魚を銜えて海面を飛び立ったようだった。赤い窖に小さな可哀想な魚を銜えて)


(星子さんの手紙、消印;昭和51年4月19日)
 カメ太郎さんへ
 カメ太郎さん、レスリング部に入ったんですって。カッコイイ。でも、なんだか、星子からカメ太郎さん、ますます遠くなってゆくようで寂しい気もします。でもレスリング、頑張ってください。早く試合に出られるように練習に頑張ってください。
 カメ太郎さんの学校、勉強も大変なのにスポーツも大変だから大変ですね。星子の学校はスポーツも勉強も中ぐらいです。星子の学校は先生からノンビリしています。
 レスリングと勉強の両立、大変でしょうけど頑張ってください。星子、応援しています。
 もし、あのまま、野球部に入っていたら勉強との両立はもっと大変になったのでレスリングで良かったと思います。本当にレスリング部で良かったと思います。レスリング部は日曜日は休みだから、カメ太郎さんの好きな魚釣りにも行けるし。野球部だったら球が頭に当たったら痛いし。
 野球は中学の頃からしていないとなかなかレギュラーになれないってパパが言ってました。パパは野球をしていたことがあるんです。よほどセンスが良くて、厳しい練習にも耐えなければ野球は高校からではレギュラーになれないってパパが言ってました。とくにカメ太郎さんの高校は強い方の野球部だから難しいってパパが言ってました。
 野球は日曜日も朝から日の暮れるまで練習だし、普通の日も朝練(朝の練習)が有ることが多いし、とても高校からではやってゆけないとパパが言ってました。それに魚釣りなんて野球やってたら絶対できないって。朝練で午前中は授業中は眠ってしまうんだってパパが言ってました。硬球は軟球と違って当たったらとても痛いんだって。その硬球を逃げながらでなくって突っ込みながら取らなければいけないので、とても怖いんですって。
 レスリングはカメ太郎さん、足が短いし力が強いから向いてるだろうってパパが言ってました。
 パパはスポーツのこと良く知っているのです。
 それから朝は7時20分のスクールバスに乗っているんでしょ。網場を7時20分だから水族館前には7時24分ぐらいですね。間に合ってますか? 中学の時のようにいつもギリギリで間に合っているのではありませんか?と思います。遅れてはいないでしょうね?
 中学の頃に比べて1時間10分ぐらい早く家を出なければならないんですね。大変だと思います。
 でも、それから1時間以上もバスに揺られなければいけないって大変ですね。でもカメ太郎さんは強いから。
 星子は相変わらずパパのクルマで7時50分頃に家を出ます。行きは山道の空いている道を通りますから早いです。8時半前に学校に着きます。帰りもパパのクルマです。帰りは駅前の混んでいるところを通りますが朝と違ってあまり混んでいません。星子は本当にノンビリしています。
 学年が変わったけど私の処は去年と同じ顔ぶれです。カメ太郎さんはクラスのみんなに慣れましたか? いろいろな中学で勉強のできる人ばかり集まっているから静かなのでしょうね。勉強ができる人は静かですから。
 魚釣りにはあまり行かないようにして休みの日には勉強した方が良いと思いますけど。
 それからゴロ君の散歩は今は誰がしているんです。カメ太郎さんはレスリングの練習が終わって帰ってきてからでは大変ですし。土曜日と日曜日はできるでしょうけど。中学2年の時のようにカメ太郎さんが未だ行っているのかな?
 では、このへんで。



 三日前、僕は星子さんとすれ違った。クルマの中から身を乗り出して僕を見つめた君と、バス停でぼんやりと立ち尽くしていた僕と。
 星子さんは全然変わってなかった。僕も全然変わってなかっただろう。僕は中三の頃から全然身長も伸びてないし(でも体重は中三の冬の受験期間中に57Kから62Kへ5K太ったけど。もう痩せていることをあまり気にしなくていいようになったのだけど。遊べなくて、アッという間に5K太ったけれど。でも僕は
 君の目は寂しげだった。クルマから身を乗り出した君の目はやっぱりほかの誰のよりも大きくて美しくて、もしも君が両足が不自由でなかったら、僕は恋焦がれて、きっと今のようにお互い手紙を一週間に一度ずつ出しあうようなことはしなかったと思う。僕はきっと君と会っていたと思う。でも君が見た僕は現実には、クラスのある女の子を好きになったり、中学の頃のあるクラスメートのことを思い出して感傷的になったりしている僕だ。でも僕は君を幸せにしたくて、一生懸命、中学の頃の僕のままであり続けるつもりで君に手紙を書いているけど、君も薄々気づいているだろう。僕の手紙が短くなっていることを。君は僕が高校へ入ってからクラブや勉強で忙しくて中学の頃のようにあんまり手紙を書くのに費やす時間がなくなったのでしょう、と君から書いてきたけれど、実は本当はそうではないんだ。僕の心は君から少しずつ離れていっているようなんだ。少しずつ、でも確かに君への情熱が薄れつつあるのを自覚している。でも君を悲しませたくないから、僕は今も一生懸命、週に一回ぐらい夜を費やして手紙を書いてるけど、本当は僕の心は君から少しずつ離れていっている。何故か情熱が湧いて来なくて、僕はこの前のような薄っぺらな手紙を書いてしまう。本当にもう夜、手紙を書いていても以前のような情熱が湧いて来なくて、僕は君が可哀想なため、ただそれだけのために、僕は君に手紙を書いているように思う。君が美しくて、いつも僕を愛してくれてるなんて、それは僕の心のわだかまり。君は
                   (カメ太郎、高一、六月)

(第2章終わり)



(星子、出されなかったか、下書きとなった、手紙と思われる。星子の死後、星子の机の中より発見された。涙が万年筆のインクに滲んでいて、判読し難い処が幾つもある)
 今、津波が襲ってきて私やカメ太郎さんを呑み込んでゆく夢を見ました。カメ太郎さんの家、小学校の近くだからとてもカメ太郎さんの家まで津波はやって来ないと思いますけど、夢の中で私もカメ太郎さんも大きな波の中に居ました。
 今、救急車のサイレンの音がしています。何台も何台も走っているみたい。私、きっとその音で目を覚ましたのだと思います。今、夜の一時四十五分です。今日は疲れていて九時半ごろ寝ました。よく考えるともう四時間寝ています。私、この手紙をベッドの上で書いています。この頃、よく夢を見るから。不思議な不思議な夢ばっかり。でもいつもすぐ忘れてしまうから。だから日記に書いておこうとして枕元に日記帳を置いていたんですけど、寂しいから、だから私、手紙を書き始めました。
 カメ太郎さん、勉強もレスリングもとても忙しいでしょう。だから私、考えました。これからは月に一回の手紙の往復に止めましょう。私から月一回、カメ太郎さんから月一回に止めましょう。このこと、四月から提案するべきだったのに今まで遅れてすみません。カメ太郎さんの優しさに甘えていた私は馬鹿でした。すみません。
 そしてカメ太郎さん、高校で誰か綺麗な女の人を見つけて下さい。私のことなんか、忘れて下さい。
 私、カメ太郎さんの幸せを独り占めにしてはいけないと思っています。とっても素敵なカメ太郎さんだから、私と違って、誰か、美しい女の人から何人も何人も言い寄られて来るはずです。私にはもったいなさすぎます。
 そしてカメ太郎さん、楽しい高校生活を送って下さい。私のことなんか忘れて。私、今までの三年間の文通でとてもとても満足しています。本当にありがとうございました。
 もう、文通、止めましょう。あまりにカメ太郎さんは私にはもったいなさすぎます。カメ太郎さんの優しさに甘えていた私が馬鹿でした。カメ太郎さん、今まで本当にありがとうございました。三年間、とても楽しかったです。
 カメ太郎さんの手紙を私はずっとずっと大事にしてゆきます。カメ太郎さん優しすぎるから。優しすぎるから。私のようなの忘れて下さい。カメ太郎さん、優しすぎるから。カメ太郎さん、優しすぎるから。
 私、今までの三年間の文通の束を宝物にしてゆきます。私、死ぬまで、このカメ太郎さんからのたくさんのたくさんの手紙を宝物として大切にしてゆきます。本当に今までありがとうございました。
 ときどき、辛くなったら、取り出して読みます。
 カメ太郎さん、私のこと忘れて下さい。カメ太郎さん、高校生活をエンジョイしてください。レスリング、頑張って下さい。勉強も頑張って下さい。私は、私は、空の彼方に消えていったと思って下さい。カメ太郎さんを束縛しているようなことが私は苦しいのです。カメ太郎さん、高校生活をエンジョイしてください。
 私は空の彼方に消えてゆきました。カメ太郎さんのたくさんのたくさんの手紙を胸に抱いて空の彼方に消えてゆきました。幸せでした。
                           (六月二十一日)



(これも涙の後がたくさん有って、判読し難い処が多い。星子さんの出されなかった手紙)
 カメ太郎さん、私は思います。カメ太郎さん、いつもレスリングの練習から七時半頃、帰ってくるのでしょう。それから勉強もしなければいけないでしょう。私、文通を控えようと思います。だって、カメ太郎さん、時間が無いでしょう。中学校の時のように時間が有ればですけど、高校になってとても時間が無いでしょう。
 カメ太郎さん、レスリング頑張って下さい。勉強も頑張って下さい。
 レスリングしてて勉強もするの、とても大変でしょう。ですから文通はもうしないことにしましょう。私から出すだけにします。カメ太郎さんは手紙書かなくて良いです。私から出すだけにします。
 カメ太郎さん、予習をして無くて、このまえのように怒られないようにして下さい。カメ太郎さんの学校、とても厳しいから、とても頭の良い人しか入れないから。
 私でなくて、綺麗な女の人とつき合って下さい。それがカメ太郎さんの幸せのためですし、カメ太郎さんなら綺麗な女の人からたくさん言い寄られるはずです。私ではあまりにももったいないです。
 私はカメ太郎さんからの手紙を胸に抱いて旅立ってゆきます。いいえ、これからの毎日をカメ太郎さんの手紙の束を心の支えにして生きてゆきます。三年間の文通、本当に楽しかったです。思い出、ありがとう。
 本当に私のようなのと三年間も文通して下さってありがとう。とても楽しかったです。思い出、ありがとう。私はカメ太郎さんと三年間文通できた思い出とともにこれから生きてゆきます。とっても楽しかった。本当にカメ太郎さん、思い出ありがとう。私、これから明るく生きてゆけると思います。みんなにカメ太郎さんと三年間も文通したことを自慢してゆけます。私、これから強く生きてゆきます。
 カメ太郎さん。私のことはもう忘れてください。カメ太郎さん、優しすぎるから。カメ太郎さん、あんまり優しすぎるから、だから。だから私、カメ太郎さんのことが少し心配です。あんまり優しすぎるから。
 カメ太郎さん、もっと厳しくなった方が良いと思います。そうしないと世の中を渡ってゆくのが大変だと思います。もっと厳しくならないと私、心配です。
 カメ太郎さん、自分には厳しいのに、他人にあんまり優しすぎると思います。もっと厳しくならなければならないと思います。世の中って、そんなに甘いものではないと思います。世の中って、競争競争で弱肉強食で厳しい処です。カメ太郎さん、考え方を少し変えなければならないと思います。みんな、良い人ぶって仮面を被っています。カメ太郎さんの考え方、あんまり理想的すぎるから、ちょっと危ないと思います。みんな、仮面を被っているのに、カメ太郎さんは全然、仮面を被ってなくて、それ、危ないと思います。みんな、偽善者ぶっているのに、カメ太郎さん、全く仮面を被ってなくて、本当に危ないと思います。
 カメ太郎さん、仮面を被って下さい。そうでないと私、心配です。



(これも涙の後がたくさん有って、判読し難い処が多い。これも星子さんの出されなかった手紙。短く終わっている)
 カメ太郎さん、仮面を付けてください。本当に仮面を付けてください。そうしないと私、心配です。
 カメ太郎さん、生きるの下手だから、カメ太郎さん、生きるの下手だから。
 カメ太郎さん、本当に仮面を付けてください。カメ太郎さん、仮面を付けてください。
 私、そうでないと心配で心配で。カメ太郎さん、仮面を付けてください。
 仮面なしで生きてゆくのは駄目だと思います。カメ太郎さんより年下の私が言うのは変ですが、カメ太郎さん、仮面を付けてください。
 カメ太郎さん、仮面を付けてくださいね。それでないと私、心配です。


(これも涙の後がたくさん有って、判読し難い処が多い。これも星子の出されなかった手紙。短く終わっている)
 カメ太郎さん、卑怯者になって下さい。カメ太郎さん、あんまり人が良いから。カメ太郎さん、卑怯者になって下さい。
 カメ太郎さん、あんまり人が良いから、星子、心配しています。カメ太郎さん、卑怯者になってね。それでないと、星子、心配です。とても心配で。
 人が良すぎて、カメ太郎さん、失敗ばかり。カメ太郎さん、人が良すぎて失敗ばかり。
 カメ太郎さん、卑怯者になってね。卑怯者になってね。



(星子の机の中から発見された手紙。書かれたが出されなかったものと思われる)
 カメ太郎さん、星子も卑怯者になることにしました。ですからカメ太郎さんはきっと卑怯者になってね。星子も人の良いところがかなり有るような気がします。昨夜、考えていて、そう思いました。星子、卑怯者になります。ですからカメ太郎さんも卑怯者になってね。まだ中学生の星子が成るのだから、高校生のカメ太郎さんは絶対、卑怯者になってね。
 卑怯者は楽なのだと思います。だって、人を犠牲にして生きるのですから。かなり楽な人生になると思います。
 カメ太郎さん、卑怯者になってね。絶対に卑怯者になってね。星子も卑怯者になるのだから、まだ中学2年生の星子も成るのだから、もう高校一年生のカメ太郎さんは必ず卑怯者になってね。今までのように、あまりにお人好しで損ばかりするカメ太郎さんでは無くなってね。
 あんまり損ばかりし過ぎよ、カメ太郎さん。お人好し過ぎよ、カメ太郎さん。カメ太郎さん、もっと自分を見つめて下さい。自分をもっと厳しい鏡で見つめて下さい。すると分かると思います。あまりにもお人好しすぎて損ばかりしてきているのを。
 そこがカメ太郎さんの良いところかもしれません。だからカメ太郎さんは人から好かれるのかもしれません。でも、あんまり人が良すぎるもの。中学生の星子が見てもすぐに分かるぐらいだから。あんまり人が良すぎます。もっと卑怯者に成って下さい。そして今までのように損ばかりの人生ではないようになってください。カメ太郎さん、もっと楽しい、格好良い人生を歩んでこられたはずです。もっと楽で華やかな日々を送って来れたはずです。
 でも、でも、だからカメ太郎さんは星子と文通して下さっているとも思えるし、星子、正直言って複雑です。もし、カメ太郎さん無しの毎日だったら、どんなにつまらないものになっているだろうと考えると星子、複雑です。会えてはいませんけど。電話で話をしたりもしてはいませんけど。文通してますから。
 星子の心はそんなに考えると複雑です。昨夜は必ずカメ太郎さんに卑怯者になってもらおうと固く決心していたのに、今、揺れ動いています。昨夜は卑怯者になった格好良いカメ太郎さんの姿を思い描いていたのに。お人好しでない、格好良いカメ太郎さんの姿を思い描いていたのに。今になって、星子の心は揺れ動いています。
 人のためにばかりのカメ太郎さんでは無くなって、今まで損してきた分を取り返して貰いたいと昨夜は強く強く思ったのに。今、星子の心は揺れ動いています。
 今までのカメ太郎さんの方が星子にとっては良いのかな。お人好し過ぎるカメ太郎さんの方が良いのかな。星子のことを考えると、星子のことを考えると、つい、そう思ってしまいます。昨夜はあんなに強く決心したのに。今までのお人好し過ぎるカメ太郎さんの方が良いのかな。
 星子の心は今とても複雑です。昨夜、絶対に卑怯者のカメ太郎さんになってもらおうと強く強く決意したのに。カメ太郎さんが卑怯者になって華やかな人生を送る姿を夢見ていたのに。格好の良い人生を送る姿を夢見ていたのに。あんなに強く強く夢見ていたのに。その夢は星子の醜いエゴとともに崩れてしまいました。星子は、星子は、エゴイストです。星子はエゴイストです。


 カメ太郎さん、お人好し過ぎるんだから。
 カメ太郎さん、お人好し過ぎるんだから。
 カメ太郎さん、あんまりお人好し過ぎるんだから。
 カメ太郎さん、あんまりお人好し過ぎるんだから。



(これも星子の机の中から発見された手紙。これも書かれたが出されなかったものと思われる)
 カメ太郎さん、私も卑怯者になります。ですからカメ太郎さんも絶対に卑怯者になってください。卑怯者の心は冷たいものかもしれませんが、生きてゆく上で必要なものだと思います。カメ太郎さん、私、卑怯者になります。卑怯者になって生きてゆきます。卑怯者の方が生き易いと思います。卑怯者でなければ生きてゆくのが大変です。ですから私は卑怯者になります。
 私は卑怯者になってカメ太郎さんにも冷たくするの。そんな私になります。カメ太郎さんもきっと卑怯者になって下さい。
 カメ太郎さん、卑怯者になって、楽しい人生を送って下さい。本当に卑怯者になって楽しい人生を送って下さい。本当に卑怯者になってね。
 カメ太郎さん、自分を殺して、人の犠牲になってばかりだから。あんまり人の犠牲になってばかりだから。もっと楽しい人生を送って下さい。私の念願です。
 いつも損ばかりして、苦労して、苦しい思いをするカメ太郎さんでは、もうなくなってください。卑怯者の要領の良いカメ太郎さんになって下さい。本当に私の念願です。
 カメ太郎さんは今まで15年半、苦しい人生ばかり送られてきました。あんまりお人好しすぎたからです。あんまりお人好しすぎたからですよ。これからはお人好しでなくて卑怯者になって下さい。お願いします。そうしないと私、耐えきれないから。
 



(書きかけで終わっている手紙)
 今日はずっと雨が降っていました。僕は授業中、教室の窓から、純心中学校で授業を受けている君のことをずっと考えていました。
 なぜ人には幸不幸の別があるのだろうと考えていました。外はどしゃ降りの雨でした。
 人は不公平になるように生まれてきているのだろうかとも思いました。幸せな人は幸せなことが続いて、不幸な人には不幸なことが続くという。
 これではいけない、こんなことであってはいけない、と雨を見ながら僕は思っていました。
 どうすればみんなが公平で、幸せな社会が出来るのかな、と考えていました。不公平のない世の中は、と考えていました。
 たとえ物質や金銭的に平等になったって、僕や星子さんのような病気や身体障害を持った人はどうなるんだ、と思っていました。
 たとえ、お金がみんな平等になったって、その人の持って生まれた宿命(カルマ)が良くなる訳ではないのに、と思っていました。



(書きかけで終わっている手紙)
 僕はあの日、一人で学校から帰りながらつくづくと考えました。僕ら、恵まれない運命を持って生まれてきた者は一生不幸なんじゃないかって。そう思って僕はとても悲しかった。なぜ世の中はこんなに不公平があるんだろう、と思って。
 僕ら、運命に流され弄ばされてきた僕らは、経済的に平等になったって、どうしたらいいんだろう。僕らは、お金よりももっと、健康な体が欲しい。お金よりも病気を治したい。 



 夜、僕は起き上がると星子さんへ手紙を書き始めた。夜の十二時だった。今日は七月一日で外は雨上がりの夜景だった。悲しみの涙の雨が辺り一杯に滲んで濡れているようだった。そして明日の学校への不安と一緒に。
 窓辺から雨に濡れた夜空を眺めながら、僕の心のなかは不安で一杯だった。夏になりかけているのに僕の心の中は寂しかった。一月の氷の日のような夜景に僕の目には映った。

 海を見ていると
 自然と微笑みが湧いて来る
 七月になった真夏の海が
 僕らを微笑ませてくれる

 君の悲しさと僕の悲しさとどっちが悲しいだろうかと僕は思う。きっと僕の方が、毎日の学校がとても辛いから、僕の方が悲しいと思う。

 ゴロが泳いでいる。 
 ペロポネソスの浜辺で、
 ゴロが気持ち良さそうに泳いでいる。
(ゴロはまるで首を潜水艦のOOOのようにして楽しそうに泳いでいた)



(書きかけで終わっている手紙)
 冬の間、あれだけ悲しかったこの浜辺も、もう夏になると悲しみをあまり感じさせないのは何故なんだろう、と思います。
 冬の間、あれだけ悲しかったこの浜辺も、もう夏になると悲しみをあまり感じさせないような、そんな浜辺に変わっています。以前と全然変わらないのに。

 真夏の赤い陽炎が
 僕の心を楽しくしてくれているのかもしれない
 吹いてくる風は熱く
 僕を夢見心地にさせてくれる

 窓を開けて海を見回しても、もう誰もいない。
 真夏の海が輝いていて、駆けてくるゴロの姿と、微笑んでいる星子さんの姿が、哀しく思い描かれるだけだ。
 とても哀しく、とても寂しそうに。

 寂しいとき、寂しくてたまらないとき、僕はよく海を見ます。すると青い海が僕を慰めてくれます。真夏の八月の眩しい海が。

 真夏の青い海ってとても綺麗。でも私はいつも一人でしか眺められないの。ベッドの上からや、車椅子の上からしか眺められないの。

 僕も一人だ。僕も一人でしか眺められない。ゴロが居るけれど。ゴロがちょっぴり僕の孤独を慰めてくれるけれど。

 私は一人なの。私には誰もいないの。パパやママがいるだけなの。いつもカメ太郎さんの家を涙で曇らせて見るの。いつも少しカメ太郎さんを恨みながら。喋ってくれないカメ太郎さんを恨みながら。
 高台にあるカメ太郎さんの家をいつも見るの。いつも夕方、悲しくて寂しくてたまらなくなりながら見るの。
 私、夕方になると悲しくなるの。昼間は元気なのに、パパと夕方、クルマに乗って帰りながら、私、必死に悲しみを堪えているの。助手席で涙がこぼれてくるのを必死で耐えているの。
 私、悲しいの。自然と涙がこぼれてくるの。クラスのみんなは幸せなのに、なぜ私だけ不幸なの。私も幸せになりたいの。

 僕も同じだ。僕も一人だ。僕も毎日一人で立山の坂を降りながら、泣きたくなってくる。寂しさと惨めさと、僕の喋り方や病気のことで。
 もう夏も終わろうとしているのに、僕は一度もこの浜辺に来ていなかった。もう夏も終わろうとしているのに。
                   (カメ太郎、高一、七月)




 君の微笑みは、僕に哀しい思いしか起こさせなかった。君の微笑みは、赤い薔薇のようだった。哀しい哀しい薔薇のようだった。

 赤い気球に君とゴロが乗って、盛んに僕に手を振っている。
 僕は浜辺で君たちを見上げている。
 君たちは気球の上で、でも寂しそうで、その寂しげな雰囲気が僕には解る。
 熱い熱い太陽の光が僕らを照らしているけれど、僕らは笑っているけれど、心の中はとても寂しい。

 カメ太郎さん、虹が見えるわ。私たちの未来のようなの。七色のように綺麗に輝いてはいないけど、でも私たちの未来のような虹なの。美しい虹なの。

 海の上を君が歩んでいる、君が動いている。いつも一人ぼっちの君が、海の上を漂っている。まるで幽霊船のように、夕暮れの海の上を漂っている。
 孤独な僕の目に映った錯覚に違いなかった。もう夏も終わろうとしているのに僕の心は孤独だった。

 僕が夢見ていた浜辺はこんなものではなかった。僕が夢見ていた浜辺は、僕が君の車椅子を押して、ゴロが傍に付き添っていて、君がいつまでもいつまでも喋っていて、僕はときどきただ『うん』とうなずくだけで、君が一人でずっと喋っていて。
 僕は深い悲しみに沈みながらこの浜辺に佇んでいる。もしも君がいてくれたら、もしも僕がちゃんと喋れたら、と思いつつ。
 そうしたら僕は明るくこの浜辺に佇むことができるのに。
 恥ずかしがる君と、息をひそめる僕と、どちらが苦しいだろう。君はどうしても僕の前には現れたがらなくて、僕は息をこらえながら海面へ海面へと何回往復しただろう。
 君の方が苦しいのかもしれない。夏の終わりの夕方の海はもう、少し薄暗くなっていて僕を少し不安にさせたし、君をも心細くさせていたと思う。
 潜っていてとても寒かった。三十分も潜っていたら寒くて寒くてたまらないようになってきた。もう秋になってきた。寂しい秋になってきた。
 大きな海のなかに溶けていって、何も考えなくていいようになって、のんびりと毎日を、全然時間を気にせずに過ごせたら、どんなに幸せだろう。



 カメ太郎さん。元気にしてますか。もう夏も終わりに近づいています。もう八月も二十日を過ぎてしまって、あと一週間余りでまた学校が始まるのかと思うと少し憂欝になります。カメ太郎さんたちはもう補習が始まっているのでしょう。それにカメ太郎さん、毎日、レスリングの練習があっているのでしょう。
 もしも私が元気な躰をしていたら、カメ太郎さんたちのレスリング部のマネージャーをしてあげるのにね、と思っています。
 私、この夏も海へ行きませんでした。いいえ、毎日のように夕方頃、浜辺に出ていました。カメ太郎さんがゴロを連れて来ないかな、とも思いました。でもカメ太郎さん、この夏一回も来ませんでしたね。やっぱり中学の頃と違って暇ないんでしょうね。去年まではよくカメ太郎さんの姿を浜辺でときどき(いつも遠くからでしたけど。それにいつもカメ太郎さん、ゴロ君を連れて、すぐ走って去っていってしまわれていましたけど)見ていられたのに。
 この夏も何事もなかったように過ぎてゆきます。お盆も終わって、このまえ台風が来て、そして夏も終わりに近づいてきました。夜もあんまり暑くなくなりました。
       (星子、中二、夏)






      (星子の日記)

 私だけのピノキオ いつも不安そうに俯いている可愛いピノキオ
 寂しげなピノキオ でも笑顔はとても楽しげなピノキオ

 私のピノキオは
 実はとっても力の強いピノキオでした
 外見はとっても痩せているように見えるけど
 裸になると筋肉と骨だけ

 やがて私はピノキオから抱かれる時が来るのです
 嵐の夜にたなびく腕で
 息ができないほど強く強く抱きしめられるのです
 強く強く

 カメ太郎さんの不思議に光る白い裸体。私の裸体も白くてやがてそのうち私たち重なり合うんです。そして溶けてゆくの。波の音を聞きながら。
 私たち蝋人形なのです。小さな可愛い綺麗なとっても綺麗な。でも燃えてゆくんです。私たち。
 炎の中で私たち始めて一緒になれるんです。もだえながら、焼かれてもだえながら、私たちやっと一緒になれるのです。叫びながら。断末魔の喚きを挙げながら。
『苦しい? カメ太郎さん? 熱い?』




(星子さんへの手紙の下書きだろう)
 青い、青い海だけが見える。もう夏も終わりに近づいた九月の海が見える。
 もうあまり暑くなくなってきてやっと夏も終わった感じです。ゴロもこの頃はあまり暑くなくて過ごしやすそうです。それより暑がり屋の僕や父は暑くなくなってとても嬉しいです。
 星子さん、お変わりありませんか。僕たちは二学期が始まったけど、もうずっと前から補習があっていたしクラブがあっていたので以前と全然変わりません。中学の頃は本当に四十二日間ずっと休みだったのに、そうして友だちと自転車で長崎へ行ったり大村湾一周をしたりしていたのに、本当にあの頃は暇があったのに。今は英語や古文の予習なんかをしなければならないし、いろいろ宿題があるし大変です。
                  (カメ太郎、高一、九月八日)



 少し肌寒くなってきたこの頃、カメ太郎さんいかがお過ごしですか。
                   (星子、中二、九月)



 僕は苦しみ始めた。今までこんなことはなかった。高校に入ったばかりの頃、スクールバスの中で友達に話し掛けようとしたとき言葉が出て来ず不思議に思ったことがあった。でも今まで(一学期のとき)現国の時間、一文読みで言葉が出てこないで苦しい思いをしたことがあっただろうか。一学期のとき、たしかに何回か最初の言葉を二、三回言ったりして吃ったことがあったようにも思う。でもこんなに苦しんだことはなかった。
                         (カメ太郎、高一、九月)



(星子さんへの手紙の下書きだろう)
 今日の三時間目、現国の時間、自習になって僕は現国の本を読んでいました。みんなはトランプをしたりワイワイ喋ったり騒いでいました。でも三分の一ほどの真面目で大人しいのは宿題をしたりしていました。
 現国の本に面白いのがありました。授業のとき飛ばしたものですが『OOOOのジプシー』というものです。畑正憲っていうムツゴロウで有名な人が書いている報告記のようなものでした。
 海の上に小さな船で一人で出て何日も何日も一本釣りの手釣りで魚を釣るのです。僕は魚釣りが大好きだし、それに小さな船に一人で生活するのだから喋らなくていいし、僕は高校辞めてそれになりたいなあと、ずっと思っています。すると僕の苦しみや悩みはすべてなくなります。僕の大好きな魚釣りを毎日してゆけます。
 弟子入りしようかな、と思ったりしています。
        (カメ太郎、高一、九月)



 僕はこの頃、学校を辞めて加津佐の父の実家へ戻ってそこで農業しようかとも考えてきました。後を継いでいる父の弟夫婦は僕の父と母のように町へ出たいと言っているそうです。だから僕が後を継ごう。そして花を栽培したり外国の果物を作ったり新しい品種を作ったりしよう、と考えたりしています。でも農業をやっていくにしてもやはり近所の人とは喋らなければいけないし、それがちょっと嫌な気がします。いろんな寄合いなんかに出なければいけないようだし。
 でもミカンや米なんか喋らなくても肥料や農薬をちゃんとやっていたらできるだろう。
                       (カメ太郎、高一、九月二十七日)




    ----僕は悲しいトラック運転手----

 僕は悲しいトラック運転手。無線で喋れない悲しいトラック運転手。まっ暗な闇の中、トラックを猛スピードで走らせている、怒りを込めて。
 僕は無言の運転手。一人ぼっちの運転手。怒りが僕を支配していて路傍の雑草が僕のトラックのたてる風に揺れている。
 僕は無口な運転手。無線にはいろいろな処からトラックの運転手の話し声が入ってくる。みんなとっても元気で中にはヤクザっぽい人もいる。
 僕は唖の運転手。高校中退の言語障害の運転手。
 僕は涙のトラック運転手。僕の涙とともに降り出した雨の中を走る運転手。
 長崎から遠く離れて東京へと高速道路を行く運転手。僕は哀しい運転手。
 トラックのタイヤは僕の足で僕の怒りを表わしたものだ。ヘッドライトはもちろん目でその光も僕の怒りだ。
 僕は涙を堪えてひたすらに走り続ける。ふとハンドルを右に切って中央分離帯を越え向かってくる大型トラックと正面衝突したいという誘惑に駆られるけど僕にはやはり父や母がいる。僕は死ねない、懸命に生きていくしかないのであった。そして父や母の前ではさも楽しそうに振る舞わなければならないのであった。生きるのや仕事がとても楽しいといったふうに。
 僕は涙を流しながら運転する。生きてゆくのが辛い。早く死にたい。早く何かの死病に取り憑かれるかして。
 でも僕の病気は死病ではなく人から笑われるだけの人から軽蔑されるだけの病気であった。
 雨がシトシト降っている。僕は悲しいトラック運転手。
 真夜中、君が立っていた。雨がシトシト降っている国道のまん中に。
 僕は急ブレーキをかけた。(キュルキュルキュッ)
 君が消えた。でも君らしい人影は何処にもない。
 夢だろう。重なる疲労の果てに見た夢だろう。
 夢だったんだ。そうだ。夢だったんだ。君は立って歩けないんじゃないか。それにこんな真夜中に。また長崎から遠く離れた処に。
 この雨は君の涙なのだろうか。それとも僕の涙か。僕の両親の涙か。
(ギッ、ギッ、と鳴るワイパーの音。雨の音とともに際限もなく鳴り続けている)




 星子さん。僕は今日、魚釣りしながらつくづく思った。明日からの一週間の学校のことを心配したりしながら僕はつくづく思った。もう暮れゆく太陽。もう日曜日も終わりに来ている。一日の休憩ももう終わり明日からまた六日間の辛い日々が始まることの悲しさ。※(カメ太郎の高校のレスリング部は日曜や祝日は休みであることが多かった。その代わり、休みでない日はハードだった)※
 また続く六日間の苦しい日々。他の人には楽しい日々かもしれない。朝、僕の心は軽やかだった。でも夕暮れが近づくにつれて憂欝になってくる。
 楽しい一日ももう終わり、苦しい六日間が明日から続く。夕暮れは僕の心を悲しみで満たす。午前中は楽しかった。 
 夜、家に帰ると僕は風呂に入るまえにゴロの散歩に行く。魚釣りで疲れているけど、いつもクラブで疲れているから。
 悲しい夜の闇が僕とゴロを包んで僕とゴロはその闇の中を必死で走る。僕の心は明日からの学校のことへの不安で一杯でそれで一生懸命駆けているのにゴロは何故そんなに駆けているのだろう。僕は不安ではち切れそうな胸の中を癒そうと必死に走っているけどゴロは何故そんなに走っているのだろう。
 僕は一度、君の家の前で立ち止まった。不安ではち切れそうな胸。でも君はいない。僕がこうして君の家の前で立ち尽くしているのも知らないで君も寂しくテレビを見ているか宿題をしているかしているだろう。
 僕もこんなに不安と寂しさで胸を一杯にして立ち尽くしているのに僕のこの心は君に伝わらず君も寂しさで胸を一杯にしていると思う。



 僕は飛んでいました。長崎港を見下ろしながら鳥になっていました。高校に入ってからよく願い続けたことが遂に現実になったのでした。
 僕は高校に入って以来、グラウンドから空を見上げては飛行機のように飛び回るトンビを見てよく不思議なもの思いに囚われていました。ああ、自由そうだな、何にも縛られてなくて自由そうだな、と。
 高校の始めの頃、その頃、教室は静かで僕は幸せだったから単なる憧れを覚えただけだった。でも七月八月と経ち、喉の病気のことで僕の憂愁は深まり、九月になり吃りがひどくなってから僕は大空を飛行機のように飛び回るトンビを憧れというのか解らない気持ちで見つめるようになりました。
 僕は現国の授業に帰りたくなかった。このまま現国の授業が終わるまで大空を飛び回り続けたかった。僕には帰れる処がなかった。僕はさっき現国の授業のとき一文読みの順番が回ってきたときに突然窓際へ走っていって窓から大空へ飛び立ったのでした。みんなびっくりしていたようでした。
 それで僕は教室に帰れないのでした。
 僕は飛んでいました。眩しい眩しい青空でした。
 トンビがいます。みんな黒い色をしていて、みんな遠く離れてジェット機のように飛んでいます。みんな僕に知らないふりして悠々と一人一人飛び回っています。
 ところどころ薄く雲が懸かっていて何処までも大きい空でした。小さな教室の中と違って目の眩むような大きな空です。あっ、あそこに浮かんでいるのはUFOかな。僕はゆっくりと旋回して近づいてゆきました。UFOの母船なのかな。ゆったりと動かないで葉巻みたいな形をしていて、まるで空のクジラのようだな。空のシロナガスクジラのようだな。
 僕はキューンとその母船から離れて、ますます高く高く上空へと舞い上がっていきました。
 やがて僕は純心中学と高校の木立ちの中に舞い降りました。僕はウルトラマンの格好をしたまま辺りを見回しました。
 もう長く見ていない星子さんでした。僕は中庭を身を屈めながら星子さんの教室を捜し始めました。星子さんの教室は一階の窓から池の見える教室と手紙に書いてあったことを想い出していました。
 僕には久しぶりの星子さんの姿でした。やっぱり可愛いな、と思いました。車椅子の少女だといってもこんなに可愛いなら、ほかにも星子さんを好きなのがいるかもしれないと思って心配になりました。
 星子さんは同じ教室のどの女の子よりも可愛く思えました。
 僕は帰らなければいけないと思うようになってきました。僕は飛び立とうと空を見上げました。
 僕は泣いていました。再び飛び立ちながら泣いていました。なぜこんなに涙が溢れてくるのか解りませんでした。
 僕は星子さんが車椅子の少女であることが悲しいのだろうと思いました。なぜ星子さんが車椅子の少女でなければいけないのだろう、と思って悲しくて僕は泣いているのだろう、と思っていました。
 僕は空を飛び始めました。早く学校に帰らなければいけないと思ったからでした。僕は飛んでいました。飛びながら僕はさっき見た星子さんのことを思い出していました。でも星子さんも泣いていました。星子さんも僕と同じように悲しくて泣いていました。僕も空を飛びながら悲しくてたまりませんでした。
----それは三分間の夢だった。周囲のみんなは言葉が出て来ず、もじもじしている僕に振り向くことなく、じっと背中を見せていた。それは哀れみの背中だった。打ち震える僕。




 星子さんへ
 もう秋になり、寒くなってきました。朝なんか起きるのが辛くなってきました。特に僕は学会員だから朝の勤行をしなければいけないので。だいたい三十分は掛かります。七時二十分のスクールバスに間に合うためには六時半には起きなければいけません。でも中学の頃なんか、ずっと冬の間、風邪をひいていたのに、毎朝一時間、勤行唱題をして学校へ行っていたのだから。
 寒さが身に応えてくるようになると、中学の頃の厳しい日々や星子さんと出会った頃のこと、貧乏だった小学四年の頃までの辛かった日々、病気ばっかりして半分も行かなかった幼稚園時代、小学校に上がるまで毎日一回は必ず泣いていたこと、幼稚園のスクールバスから降ろされて家までの僅か50mぐらいの距離を歩けなくていつも泣いていたこと、小学校の頃、春休みや夏休み、冬休みには必ず加津佐に行ってそうして休み一杯、加津佐に居てとても楽しかったこと、中一の冬に喉の病気になって大きな声が出なくなって今までずっと悩んでいること。



(星子さんと夜の浜辺で語り合いながら。空想。日記より)
 僕らを取り巻く周囲はとても暗いけど、夜の空はこんなに明るい。
 あれがカシオペア、あれがオリオン座。星が僕らに語りかけてくるようだ。
 冬の夜の星たちが、僕とゴロと君を、暖かく包んでくれているようだ。
 僕らを取り巻く周囲はとても厳しいけど、でも僕らは負けない。



『カメ太郎さん。幸せは何処。幸せは何処にあるの』
『幸せは、幸せは遠い星の向こうか、目の前の僕たちのペロポネソスの海の中にあるのだと思う』
 僕には、そうとしか言えなかった。



 波の音が聞こえてくる。
 君の哀しげな歌声とともに、波の音が僕の耳に聞こえてきている。
 哀しげな君の歌声が聞こえてくる。
 一人ぼっちの僕の処に君の歌声が不思議に聞こえてくる。
 十六歳になった孤独な僕の耳に哀しげに聞こえてくる。
(カメ太郎、高一、十一月)


(第3章終わり)





 夜、家に帰って来たとき、僕の心は寂しさで一杯になっています。それに明日の学校への不安と。
 だから僕は毎晩、二時間ぐらい創価学会のお祈りをしています。勉強は寝る前に三十分と、四時ごろ起きたとき三十分ぐらいするだけです。四時ごろ目が醒めて三十分ぐらい勉強してまた寝ています。
 幸せになりたいなあ、みんなのように何の不安もなく学校生活を送りたいなあ、という気持ちで一杯です。幸せは何処にあるんだろう。僕にとって幸せとは何なのだろう。そして世の中の不公平のことなんかを考えると。僕だけでなくって不幸な人は僕の身近にもたくさんいるから。
 君の家の前の青い海、細波の音、潮の香り、僕らが出会ったペロポネソスの浜辺。
                      (カメ太郎、高一、十二月)



(星子、日記、中二、十二月)
 私、カメ太郎さんと一年二ヶ月も会ってないわ。去年の十月、カメ太郎さんが泣きながら帰っているのを見たきりで、それから全然会ってないわ。そうだわ。私、今日、カメ太郎さんの学校帰りを待ち伏せしてやるわ。
 今日は私たちの学校の創立記念日なのです。それで私、朝からそんなこと考えていました。
 カーテンを開けて空を見たらとっても綺麗な青空で冬とは信じられないくらい。きっと神さま、私が今日、カメ太郎さんと会いに出かけて行くのを見透して冬なのにこんな不思議な青空を拡がらせてくれたのね。
 私、十時に起きましたけど、それから『何を着ていこうかな、お化粧はどうしようかな』と考えてもう大変でした。三時に出ても充分間に合うはずなのに私、テレビも見なかったわ。
『お母さん、私ちょっと散歩に行ってくる。心配しないでいいからね。六時ごろになったら帰ってくるわ』
 ママは私がいつもになく化粧して家を飛び出したのでびっくりしたでしょうね。私、カメ太郎さんに会うつもりだった。このまま文通だけしていたって駄目だもん。やっぱりデートなんかをしたいもん。カメ太郎さんに車椅子を押してもらってあちこち散歩したいもん。
 私の家から水族館前のバス停まで四十五分も掛かりました。十二月なのに空はまっ青でちょっと暑くて汗をかきました。せっかくのお化粧も汗の跡が付いたみたいでコンパクトを取り出してお化粧をし直してしまいました。
 カメ太郎さんはたぶん四時にいつも練習終わるから五時前にはここを通るはずね。まだ一時間もあるわ。でもいいの。
 私、日見公園のなかに入っていって、そこで日向ぼっこをし始めました。ときには陽に照らされないとビタミン不足になってしまうって先生が言ってたから日向ぼっこしちゃおう。ちょっと色が黒くなるかもしれないけどちょっとぐらい黒くなったっていいわ。
 でも私やっぱり駄目なのかな。私のような身体障害者とカメ太郎さん一緒に歩いている処を人に見られたくないのかな。私、やっぱり駄目なのかな。
 僕は土曜日、部活で疲れた躰をゆらゆらと網場道の長い階段で揺らしていた。夕暮れが僕の足元や灰色の階段を包み込もうとしていた。
 この冬は暖冬で十二月なのに春のような毎日だった。僕は鞄を持つ手も大変なほどでバスの中で立ちながら、僕はいつも入り口の人一人だけが立てるくらいの空間に立つのだったが、鞄を手から落としてしまいたいほど疲れていた。土曜日なのでいつもより練習時間が長くてこんなに疲れていた。
 網場道の長い階段を下っているとき前方の日見公園の前の辺りに僕は不思議なものを見た。
 なんだろう。あの正六面体のものは。頭の処が赤々と炎を上げて燃え盛っているようで不思議だった。なんだろう、あの奇妙な物体は。
 最近、勉強をし始めてきたため急に目が悪くなりかけた僕には始めそれが何なのか解らなかった。でも階段をもっともっと進んでいくうちにそれは車椅子で、そしてその上に乗っているのは華やかに化粧した若い女の子だということが解った。とてつもなく大きな目と艶やかな服が白銀の車椅子の上に赤い炎のように揺れている。
 それは正六面体の鮮彩色に彩られたtexture。白銀が夕陽に煌めく不思議なtexture。その上にまんまるいとても大きな瞳をした少女を乗せている不思議なtexture。
 僕は階段の途中でやっと気づいた。
 ああ、星子さんだ。やっぱり星子さんだ。
 僕の魂は一気に崩壊したようになり僕の足は突然『frozen gait』という言葉が浮かんで来るとともに歩くのがやっとになった。
 だんだん近付くにつれ僕の目にはっきりと映ってきた星子さんの姿はライオンに乗った女騎士のようにも思えた。僕にとって一年半ぶりの星子さんの姿だった。艶やかな化粧とよそ行きの服が夕暮れの日見公園横の風景によく映えていた。
 星子さん何を眺めているのだろう。さっきから公園を取り巻く桜の木のてっぺん辺りをずっと眺めている。
 雀がそこに十羽ほど留っているけど、その囀る姿に熱心に見入っているようだった。幸せそうに頬を輝かせて車椅子に背をもたれ掛けながら熱心に見入っている。
 星子さん、何見ているんだい? 僕は目でそう星子さんに話しかけた。星子さん、何見ているんだい?
 だんだんと近づいていった僕の姿に星子さん、まだ気づかないのだろう。僕は急いで大きな道路を渡り始めた。星子さんが向こうを向いている隙に。そうして僕は星子さんから大きく遠ざかった。
 すると星子さん、もしかすると僕に気づいていたのかもしれない。僕に恨めしげな悲しげな視線を振り向いて送った。星子さん気づいていて、わざと桜の木の上を見続けていたのかな。いや、きっとそうだろう。本当は僕が網場道の階段を下りている頃から気づいていて、そのときから僕に気づかない振りして黙って桜の木の上を見続けてたのだろう。
 でも僕には君を無視するしかなかったんだ。僕は幽霊で誰にも見えない幽霊で、君が見たのは僕の幽霊で、背中しか見えなかった幽霊で、逃げるように立ち去っていった幽霊で。
 僕の後ろ姿は陽炎のように揺れていた。僕の後ろ姿は蜃気楼のように朧ろげに黒いアスファルトの上を歩んでいた。実は僕は苦しんでいたのです。星子さんを無視する苦しさが僕の後ろ姿を陽炎のようにも蜃気楼のようにもしていたのです。
   僕は揺れる陽炎  苦しむ蜃気楼
   僕は揺れる陽炎  苦しむ蜃気楼
 そして僕、早足で星子さんに背を向けて橋の方へと歩き去ってゆきました。星子さんに気づかれないようにと必死でした。
  僕の背中は苦しむ背中。まっ黒い苦しむ背中。星子さんを置き去りにする黒い背中。
  僕の背中は非情な背中。星子さんを無視する非情な背中。
 僕は背中から星子さんに手を振っていました。僕のまっ黒い背中に僕の手の平があって星子さんに『さよなら』と手を振っていました。『さようなら、星子さん』僕は静かに手を振っていました。『さようなら、星子さん』
 僕はまっ黒い手を静かに、でも力強く振っていました。『さよなら、星子さん、さようなら』



 僕は昨日、白い船が空を飛んでいる夢を見た。空と言っても天国みたいな処の空で、白い船には君とゴロが乗っていて、何故か僕は乗ってなくて僕は地上から手を振っていました。そして君やゴロも白い船の上から僕に手を振っていました。



 浜辺へ行こう。浜辺へ行ったらきっと僕を慰めてくれるものがあるだろう。もう十二月になって寒いけど、学校の授業で傷ついた僕は、ゴロを連れて浜辺へ行こう。久しぶりにあの浜辺へ、寒くて君は出ていないだろうけど。
 僕は四時半ごろ家に帰って来るとゴロを連れて僕と君のペロポネソスの浜辺へと走った。もう辺りは薄暗くなりかけていた。通り過ぎる誰も彼もコートやジャンバーに首まで身を包んで足早に歩いていた。僕は涙が流れてくるのを必死に耐えながらゴロと走っていた。ゴロは蒸気機関車のように白い息をたくさん出していた。
 僕は薄暗くなった戸外を必死に駆けた。早くペロポネソスの浜辺に暗くなるまで着いて、そして海へ向かって石を投げたりしたかった。風がとても冷たかった。冷たくて悲しくなるほどだった。学校で苦しんで、そして今もこうして風の冷たさにとても辛い思いをしなければいけないのかと思うと、とても悔しくなって泣きたいほどになっていた。
 十分ぐらい走っただろう。僕らはペロポネソスの浜辺へ来た。もう辺りはすっかり暗くなり始めていてあと二十分もしたらまっ暗になりそうだった。僕は足元を用心しながらまだ駆けていた。
 やがて僕は砂浜に辿り着き、立ち尽くすと『バカヤロウ!』と大声で叫んだ。
 僕はそうしてゴロと夜になってゆく浜辺で抱き合うようにして過ごした。僕は涙を浮かべていた。そうしてやっぱり医者になるんだ、自分のこの病気のために自分のような病気で苦しんでいる人たちを救っていくために医者になるんだ、と決意した。そうしてやっぱりレスリングを辞めよう。明日にでもマグロ先生の処へ行って『レスリングを辞めさせて下さい。』と言いに行こう、と思った。
                        (カメ太郎、高一、十二月)



 ときどき湧いて来る。もしも僕が創価学会の信心をしていなかったら、この喉の病気に罹らなくて、僕は君と友達になれて、毎日のようにあの浜辺で(ペロポネソスの浜辺で)ゴロと一緒に、いろんな話を楽しくできたのにと。
 でも僕は毎晩、そして毎朝祈っている。君の幸せを、一日一時間ぐらい、懸命になって祈っている。他の人のも合わせると一日二時間ぐらい祈っている。
 君は幸せだ。僕にはそうとしか思えない。この頃、国語の本も読めなくなった僕には。
               (ペロポネソスの浜辺にて、カメ太郎、高一、一月)



(----夢の中で----)
 波の音が聞こえている。そして歩いてくる君の姿が見える。もう辺りは夜の帳が降りようとしていた。
 ゴロがそうして走っている。君のずっと後ろをゴロは浜辺をものすごいスピードで走り回っている。
 ゴロは波が打ち寄せる処と浜辺の奥の林の中を行ったり来たりしている。
 生きるのが辛いときよく眺めていたこの海も、以前と同じようにエメラルド石のように輝いている。まだエメラルド石のように輝いている。



 もう裏山にも雪がコンコンと降り積もっています。僕はもう四日続けて学校を休んでいます。現国の授業が厭だし、クラブも厭だから。
 僕は雪の中を、白い鳩になって君の部屋の窓辺まで飛んで行きたい。
 もう辛い日々はこの辺で終わりにしたい。僕も幸せになりたい。アマゾンか何処か喋らないでもいい処へ行って生活したい。
 僕は船に乗ってアマゾンへ旅立つだろう。遠い遠いブラジル行きの船に乗って、僕は秘かに旅立つだろう。雪の降る夜、誰にも見送られずに、僕は一人で旅立つだろう。
自分がこんな病気になったこと、



 君が泣いている。外はとても寒く小雪が舞っている。それなのに僕は窓を開け君の家の方を見た。見えない。雪の向こうに微かに君の家の橙色のカーテンが光っているのが見えるけど、それだけだ。そのカーテンの向こうで君が泣いているのだろうけど、僕には何もできない。手紙を書くことも、電話をかけることも、もう今の僕にはできない。
 勉強しなければいけないのに手紙なんて書けない。電話だったら少しも勉強の妨げにならないけれど、僕は喋れない。雪の向こうに微かに見える君の家まで走っていけばいいのだけど、僕は風邪で学校を休んでいる。本当は風邪でも何でもないのだけど、現国の授業が辛いから、だからずっと僕は休み続けている。
 手紙を書くと今夜、勉強できないし



 星子さん。青い海です。僕は昨夜、悪夢に唸されつつ、何度もこの海を心に描きました。僕を力付けてくれる青い海。僕に勇気を与えてくれるこの青い海。
 海は輝いています。とても僕に元気をつけてくれるように。
 でも僕は
『カメ太郎さん。黒い大きい不安って何?』
『それは僕らを包み込もうとしている黒い大きな悪魔のようなもので、僕らは』
『星子さん、寒くないかい?』
 僕はブルブルッ、と震えながら私さんにそう囁いた。
『ええ、寒いわよ。でも、今、とっても夕陽が綺麗』
 耳を澄ますと聞こえてくる波の音は、君が僕の誕生日にくれたオルゴールの鐘の音のようだ。寂しくて心配で圧し潰されそうになっている僕の胸を慰めてくれるオルゴールの音のようだ。



  私たち、悲しむマンボウ
  私たち、寂しいマンボウ
  私たち、涙を溜めたマンボウ
  でも私たち、決して泣かないの



 十二月の暮れに重いみかん箱を肩に担いで冷たい風に吹かれながら夜、遠く芒塚や朝日ヶ峰の坂や階段を登りながら借金のために配達していた母の姿。僕はそういう母の姿を見て育ってきたから、だからこんな強迫的な性格になったのだと思います。
 だから僕は必死に創価学会の信仰をしました。中二の頃、もうすでに睡眠時間は五時間を切っていました。毎晩十一時か十二時まで題目を挙げていました。
 寒い夜、僕の母は重いみかん箱を肩に担いで朝日ヶ峰や芒塚の坂を登っていった。僕や姉に食べさせるため、一家のため、母は凍えるような風に吹かれながらも題目を唱えながら、芒塚や朝日ヶ峰の坂を登っていった。


 でも僕たちの人生はいつも冷たかったじゃないか。暖かい日は一日もなかったじゃないか。少なくとも僕にはなかった。辛い毎日ばかりだった。だから僕は小学三年生のときに自分から勤行を始めたんだし。


 冷たい夜ね。ああ、でも僕らはいつもこんな夜に耐えてきたろ。明日の学校のことが心配で、とても心配で。


 君がゆっくりと歩いてゆく。北風の吹く道のない処を、君の髪は風に吹かれ、僕はただ涙を溜めて見送ることしかできない。君の愛を感じながらも、現実に負けてしまった僕には、ただ明るそうに振舞うことだけしか、君になるべく心配をかけないようにしか僕にはできない。
(僕はこの頃、学校へ行かなくなって、とても自分を卑下していた)
 僕は医者になって、僕は僕と同じような病気で苦しんでいる人たちを救っていくんだ。
遠い海の向こうに君が居る。青い海の向こうに君が居て、僕を見つめている。一人ぼっちの僕を、寂しい僕を。
 カメ太郎さん、虹が見えるわ。私たちの未来のようなの。七色のように綺麗に輝いてはいないけど、でも私たちの未来のような虹なの。美しい虹なの。

『カメ太郎さん、何処へ行くの。そこは森の中よ。カメ太郎さん、何処へ行くの』
 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼
『カメ太郎さん、その森の中、危ないわよ、谷間に落ちるわよ、足元に気をつけて。カメ太郎さん、その森の中、本当に危ないのよ』
 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼 僕は揺れる陽炎 冬の蜃気楼
『カメ太郎さん、カメ太郎さん』
 僕はハッと目を覚ました。また夢だった。この頃、毎夜見る夢だった。

   僕は揺れる陽炎 迷える蜃気楼
   僕は揺れる陽炎 迷える蜃気楼
『カメ太郎さん。負けないようにしなくては。カメ太郎さん。負けないようにしなくては』
 僕は森の中を吹かれゆく。僕は森の中を吹かれ歩く。
『カメ太郎さん、負けないで。カメ太郎さん、負けないで』
 僕は森の中を吹かれ歩く。冷たい冷たい北風に吹かれ歩く。
『カメ太郎さん』
   僕は夢の陽炎 迷える蜃気楼
   僕は夢の陽炎 迷える蜃気楼



 不思議な鳥や魚たちがたくさんいるあの島は僕らのすぐ目の前にあるけれど、僕らには遠くて、僕らは眺めているだけしかできない。もしも僕らがあの島に船で渡って行けたら、岸辺には鳥たちがたくさんいて、水たまりには大きな30cmぐらいの魚もいて、アメフラシやイソギンチャクもたくさんいて、そして僕らは、一緒に手を繋いでその浜辺を、楽しくお喋りしながら(僕は吃って喋れるか解らないけれど)ゴロと3人(いや、2人と一匹かな?)で楽しく歩き回ると思う。朝から夕方まで僕らは2人と一匹(いや、3人かな?)で、その浜辺でとても楽しい時を過ごすと思う。



 少女の思い描いていた僕に対する美しい幻影は僕が喋り始めると途端に崩れ去ってしまう。それは中世の湖畔に聳える美しいお城が崩れ去るのを想像するときっといいと思う。


  僕らは悲しい恋人どうし
  海を見つめる恋人どうし
  やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて
  無言の僕らを慰めてくれる


『嵐のような海ね、カメ太郎さん』
『ああ、僕らの幼い頃からの人生もこのようだったね、星子さん。僕も小さい頃からたまらなく辛い日々の連続だった。小学校時代は家は貧乏のどん底でいつも夜逃げを考えるほど厳しかったそうだ。
 それに、学校でも辛かった。家でも辛かったけど学校の方がもっと辛かった。僕は八方塞がりだった。でも僕には信仰があった。いつも御本尊様の前で苦しみ、悲しみに耐えてきた。
 今は嵐のように世の厳しさを受けている。『でも負けない。でも負けない。自分より苦しんでいる人たちだって居るんだ』と自分に言い聞かせながら。
 冬なのに真夏のような太陽が照っていた。見渡すかぎり青い空だ。そして今日は二月の日曜日だった。
 雀が僕の目の前を唸りを挙げて飛んでいった。細く黒い電線が見える。そして彼方には小さい頃から見慣れた山が見える。
 いつも後悔ばかりしてきた僕だった。いつも運が悪くて、苦しんで、損ばかりして、そうして親に迷惑をかけてばかりいた僕だった。
『カメ太郎さん、負けちゃ駄目よ。きっと立派なお医者さんになってね。今、とても苦しいかもしれませんけど、星子にはカメ太郎さんの苦しみがあまり良く解りませんけど、頑張って負けないで高校を辞めるなんて思わないで下さい。
 本当にカメ太郎さん、頑張って下さい』


※(昭和52年当時は、大学検定は未だ一般的ではなかった。高校を辞めることは大学に行けないことと同意に近かった。特に地方ではそうだった)※



 僕は窓からの風景のなかの青い海が急に盛り上がって巨大な波となって僕をも呑み込もうとしているように錯覚されました。
 生きるのに辛くてたまらなくなったとき僕らはよく浜辺から海を見るけど、僕らが見るのはいつも寂しげな夕暮れの浜辺ばっかりで、僕らは

 僕はこの手紙を家で書いています。家で僕の小さなストーブにあたりながらノホホンと何も考えないようにしようと思いながら書いています。
 頭がとても重いです。何故なのだろうかな、と思います。もう八時半です。今日もまた学校を休みました。
                           (カメ太郎、高一、二月)


   僕は死に
   君は永遠に生きるかもしれない
   この耐え忍び難き人生を



(夢の中で)
 寒い丘の上に少女が身を震わせながら立っていた。星子さんだった。
『星子さん。寒いのに、寒いのに何故そんな処にいるんだい?』
 僕は夏に見た星子さんのあの哀しげな姿しか見てなかったので僕は久しぶりに星子さんを見た。
 寒い丘の上で星子さんは風に吹かれて寒さに震えていた。
『カメ太郎さん。カメ太郎さん』
 星子さんの言葉はあきらめにも悲しみにも似ていた。
 僕は泣き声一つたてないで、苦しみに耐えている星子さんのことを思って涙ぐんだ。可哀そうな星子さん。苦しくて辛くて寂しくてたまらないのだろうに泣き声一つたてずに堪えている星子さん。



      (苦悩の少年)
 苦しい少年時代を送ってまいりました。毎日毎日地獄の苦しみに耐えてきました。人知れず苦しんできました。自分ほど不幸な少年はいないと信じていました。
 毎日の学校が苦痛でたまりませんでした。学校さえなかったらといつも思っておりました。毎朝毎朝、学校へ行きたくないので寝坊ばっかりしていました。怠け者だから寝坊するのではありません。苦しいから寝坊するのでした。
 まだ小さかった頃は、学校行きたくなくて、ダダをこねるのでした。大きくなった頃、学校行きたくなくて、朝、寝床の中で、布団を噛んで声をたてずに泣いたこともありました。
    ※(途中、逸損)
 幼心にも、地獄を感じておりました。人生の非情さを感得しておりました。しかし、人の心だけは信じてきました。僕は盲目的なほど、人の心を信じてきました。僕の周囲の人たちは、みんないい人ばかりでした。
                       (未完)
                        二月二十三日記


 小さい頃、苦しんでいた時、僕には宗教しかなかった。だから僕は自分から勤行をするようになった。僕が小学三年のときだった。
 通信簿の全体の成績が(その頃は1から5までの5段階評価だった)いっぺんに5あがった。2が3に、3が4に、4が5にというふうに7科目か8科目あったうち5つ上がった。
 僕は学校で鼻の病気のことでとても苦しんでいたし、僕に心休まる暇はなかった。



(星子の夢)
 海が燃えているみたい。カメ太郎さん、海が燃えているみたい。
 車椅子の私はそうしてカメ太郎さんを見上げました。強い浜風がカメ太郎さんの髪をなびかせていました。私の髪も強い浜風になびいていました。もう寒くなくなってきて少し熱気を帯びた浜風に変わっていました。
『カメ太郎さん、なぜ私たち生きているの。なぜ私たち、こうして生きているの。カメ太郎さん、私たちこんなに苦しんでまで』
 昨夜のことを私は再びカメ太郎さんに尋ねていました。カメ太郎さん、ちょっと困ったような表情をして私を見下ろしていました。そうしてカメ太郎さんの目、とっても悲しそうでした。今までの苦しかったカメ太郎さんの一日一日がその瞳の中に刻まれているようで、とってもとっても悲しそうな目でした。
 潮風がますます強く吹いて私とカメ太郎さんの髪を炎のようになびかせていました。そして海は沖の方に白い波が立ってまるで海が燃えているようでした。私とカメ太郎さんの今までの苦しかった悲しい過去を忘れさせるように海が今、燃え上がっているようでした。悲しく、悲しく、燃え上がっているようでした。




(書きかけの手紙)
 星子さん、お許しください。
 僕は医学部に行くと決意して勉強に打ち込んでいます。僕と同じ病気で苦しんでいる人のために、僕は医者になる決意をしました。
 この頃、手紙、書いてなくてゴメンね。でも、僕の心の中は焦燥感で一杯になっている。勉強しなければ勉強しなければ、ととても焦っている。今まで、ほとんど勉強をしたことのない自分には勉強の仕方もまだ解りません。中学の頃は中国語の勉強ばかりやっていた僕ですから。普通の勉強の仕方が解りません。
 星子さんに手紙を書いてたら勉強ができないので書かないことにしました。僕が医学部に行ってから文通を再開しましょう。これを書きながらも僕は疲れ切っています。レスリングが大きな負担になっているし、星子さんへの手紙も負担になっています。すみません。
 レスリングは辞めます。辞めるつもりです。レスリングを辞めないと勉強に集中できません。そして星子さんとの文通も辞めます。許してください。
 自分で決めたことです。生きるか死ぬかの瀬戸際で決めたことです。
 僕は孤独を好む少年です。



(書きかけの手紙)
 星子さんへ。
 レスリング、やっと辞めることができました。マグロ(レスリング部の先生)が粘って辞めさせるまいとしましたけど、僕は決意強く辞めました。
 これからは毎日のように県立図書館で閉館まで勉強するようにしようと思っています。家では勉強する習慣が付いてないからか、どうしても勉強しませんから。
 僕たちの高校はちょうど帰り道にすぐ近くに県立図書館があるから便利です。大森神社を突っ切ったらすぐに有るから。
 家では勉強できない(勉強しない)自分は本当におかしいなあと思います。でも県立図書館ではめちゃくちゃ気合いを入れて勉強します。
 家でも勉強しなければいけないのだけど、どうしてもできません。でも、たしかに県立図書館では3時間ぐらい、ぶっ続けで勉強しています。これで良いのかなあと思っています。



 星子さん、さようなら。僕、今日一日がんばらなければなりません。君のことなんて忘れて勉強にがんばらなければ。
 今日も夜の七時五十分まで県立図書館で勉強するつもりです。そして帰ってきたら勤行しようかな。二時間も三時間も。そうして寝ようっと。そうやって僕の一日は終わってゆくんだ。


 授業中はずっと僕は内職するんだ。先生の話聞いていても能率が悪いし、いつも僕は授業中内職してるんだ。それはとっても能率が良くて先生の話を聞くよりも2倍も3倍も能率がいいな。


(今日一日のいろいろな負担が僕を重く覆っている。重く重く覆っている。それは黒い雲で昼間もずーっと僕を苦しめつづけるだろう。
 そして僕はすーっと起き上がった。今日こそ朝の勤行をしなければならない。時刻はもう六時二十分だった。
 そして僕は幽霊のように階段を下って行った。今日一日の苦労がずっしりと僕の両肩に乗っかっていた。
 また暗い一日が始まる。また一日が)



(夢の中で)
『あ、星子さん』 
 寒い寒い県立図書館の片隅で星子さんが勉強していた。僕の座っている向こうの方の壁の前の席に星子さんは座っていた。もう七時過ぎで外はまっ暗だった。そして今日は雪が今にも降り出しそうに寒かった。
 星子さん、寒そうだった。僕も寒かった。図書館の中にはあまり人は居なくて、そうしてイチョウの木の向こうに白いボタン雪を見たようにも思った。    
 厚い靴下を履いてくれば良かったのだけど、朝、急いでいて持ってきてなかった。寒かったけど僕は一生懸命、勉強していたし、星子さんも僕の帰るまで勉強するようだった。
白いボタン雪は星子さんの涙のようだった。
いつも閉館まで勉強している僕だから閉館まで星子さんは僕を待っていてくれるようだった。
 寒い寒い図書館の中で、星子さんは赤いマフラーにくるまって寒さに震えながら僕を待ってくれているようだった。
『カメ太郎さん、勉強頑張ってね。私、図書館が閉まるまで待ってるから、私もそれまで勉強しているから、カメ太郎さん勉強頑張ってね』
 僕が立ち上がったとき星子さんも立ち上がった。でも僕はそそくさと本やノートを鞄に入れて立ち去っていった。星子さんを置いて雪の降る戸外へと走るように出ていった。
 僕は逃げるように走っていった。星子さんがあとを追って来るのじゃないかと雪の降る中をバス停まで逃げるように走っていった。
 僕は走った。星子さんと喋るのが恐かった。星子さんとまだ喋ったことはなかった。僕は幻滅されることが何よりも恐かった。
 雪の中を僕は走った。星子さんが僕と喋って幻滅することが、そして笑われることが、僕はとても恐かった。
『寂しかった、寂しかったからなのよ。だから私、現れ出てきたのよ。寂しかったのよ。カメ太郎さん。
 寂しかったからなの。寂し過ぎたからなの。カメ太郎さんの勉強の邪魔になると思ったけど私、寂しかったからなの。
 寂しかったから私、カメ太郎さんの前に現れてきたの。早く行かないとバスに遅れてしまうでしょ。私、歩けるから、駆けることもできるから。カメ太郎さん、立ち止まらないで。早くバス停へ向かって』
 僕は県立図書館の閉館の七時五十分まで一生懸命、勉強して今、大森神社前のバス停へと向かっていた。粉雪が舞っていた。粉雪がまっ黒い夜空から舞い降りてきていた。とても不思議な光景だった。
 冷たい夜の闇に星子さんが立って僕を見守ってくれていた。寒くて寒くて雪が舞っているのに、星子さんはバス停へと駆ける僕を見守ってくれていた。




  (カメ太郎さんには新しい未来が待っています)
 カメ太郎さん。カメ太郎さんには明るい未来が待っています。カメ太郎さん。カメ太郎さんはもう過去の思い出にとらわれているようでは駄目。とくに私のことなんか。つまんない私のことなんか忘れて、新しい未来へと羽ばたいてください。カメ太郎さん、とっても立派なお医者さんになって、たくさんの悩んでいる人たちを救っていって下さい。
 カメ太郎さんは今まで自分が苦しんできたことを生かすチャンスがあるのではないですか。



 図書館に居ても波の音が聞こえてくる。悲しいゴロの駆けてくる姿と、車椅子の上で僕を見つめている君の姿が、波の音と一緒に思い出されてくる。



 もう僕の頭は疲れきっている。でも君の頭もゴロの頭も全然疲れきってない。ただ僕の頭だけがもの凄くもの凄く疲れきっている。



 あっ、海辺で君が歌っている。
 僕はさっと窓を開けた。外は凍てつくような寒さだった。でも確かに聞こえた。君の歌声が僕の耳元まで遠いペロポネソスの浜辺から聞こえてきていたようだった。
 闇が辺りを支配していて、夜の十二時だった。君が海辺に出て歌を歌っていることなんて(こんな寒い、とても寒い夜なのに)ある訳がないのに。
 でも耳を澄ませば、凍てつく夜気を突くようにして浜辺の波音が僕の耳に届いていた。海辺から300mも離れているのに波のせせらぎの音が僕の耳に聞こえてくるはずはなかった。でも僕は聞いた。久しく行ってないあの浜辺の波の音が一人ぼっちの孤独と勉強に疲れきった僕の耳に聞こえてきていた。
 でも、なぜ君が今頃。それにゴロと一緒に僕を呼んでいるなんて僕はとても訝しかった。 



 浜辺の裏の森の杪も昔と少しも変わっていない。今、僕が見た幻も、そして僕も、僕らが始めてペロポネソスの浜辺で出会ったときとちっとも変わっていない。僕らはちっとも変わっていない。
 明日の朝、もう私は居ないかもしれないわ。もう死んでしまっているのかもしれないわ。布団の上で私、安らかに息を止めてしまっているのかもしれないわ。
 一ヶ月余りも返事を出してなかった僕に、今日、君はクルマの中から手を出して僕の名を呼んだ。でも僕は喋りきれないから、喋ると幻滅されてしまうのが怖かったから、僕は君を無視して、大森神社の坂道を、君に気づかなかったようにして歩いていった。



 あの大森神社の横のあの急なアスファルトの坂道で君はお父さんと待っていた。君のお父さんは神社の方向を見ていた。坂道を降りてきた僕にすぐ気づいた君は悲しげに僕を見つめてその小さなか弱い手を振った。僕は気づかない振りして友人と喋りながらそうしてそのまま君のお父さんのクルマの横を通り過ぎて行った。



『カメ太郎さん、生きてね。これからは明るく生きてね。早く美しい女の子を見つけて、そして幸せになってね。カメ太郎さん、これからはきっと幸せになってね』
『カメ太郎さん、きっと幸せになってね。カメ太郎さんのお父さんやお母さんのためにも幸せになってね。明るくなってね』



(ペロポネソスの浜辺にて、ゴロと)
 遠くに小さな星が見えるだろ。小さな小さな星が見えるだろ。天草か阿蘇の方に見えるだろ。僕が生まれた加津佐のてっぺんの方に。僕が三つまで育った加津佐のてっぺんの方に。小さな小さな星が見えるだろ。とても哀しげな星が見えるだろ。


『カメ太郎さん、帰ってきて。私の処へ帰ってきて。お願い』 
 僕はハッとして顔を上げた。夜の二時だった。僕はつい一ヶ月余りも君に手紙を出していないことを思い出した。勉強が忙しくて手紙を書いている暇が、いつも一晩じゅうかけて書いている手紙だけど、惜しかったから。だから手紙を書かないでいたけどごめんね、でも。


 カメ太郎さんへ
 雨がポツリポツリと降っています。こういう日曜日、私は一日じゅう家に閉じ込められてるわけね。テレビを見たり、カメ太郎さんへのマフラーを編んだり。
 私たち、自殺したら木になるのですって。そしてその木が枯れるまでその木にいるのですって。お寺にある大きな木なんか何千年も生きているでしょ。そしてよく濡れてるでしょ。あれ涙なのね。私、ようやく解ったわ。なぜ濡れているのか、ようやく解ったわ。


 海の底から聞こえてくるの。私たちを呼んでいるの。私たち苦しんでいるから、『早く来なさい』って、呼んでいるの。


 私、何処に向かって歩いているんでしょう。私、何処へ向かって歩いているんでしょう。
 私、以前よく行っていた浜辺へも行かないで桟橋の方へ来ました。これからカメ太郎さんの家の近くへ行こうかな。そしてカメ太郎さんを驚かせようかな。でもカメ太郎さんの家、坂の上にあるし。
 私、坂の下でカメ太郎さんの家を見上げて泣いていました。なあに、小鳥さん、私の車椅子に泊りに来るなんて。私、怖くない。小鳥さん、私、怖くない。
 孤独の風がスーッと吹いてきたわ。四月なのに二月みたいな風だわ。
 僕はその日、県立図書館も休みで一日じゅう家にいた。お昼過ぎ、昼ごはんを(いつもの目玉焼き3コと白御飯だったけど)食べたあと僕は何気なく自分の部屋の窓から海の見える景色を見渡した。あっ、すると坂の下に銀色に輝く車椅子があって乗っているのは君だ。そしてこっちを見ている!
 僕はとっさに身を隠し、カーテンの隙間から僅かに目だけを出して君の方を覗いた。幸運にも気づかれなかったようだ。スズメの囀りと四月の太陽が粲々とこんな僕を照らしていた。
 あっ、あれは銀色の戦車に乗ったポセイドン。僕の魂を縛りつけるポセイドン。海の方からやって来たポセイドン。
 僕の家にまでやってくるなんて。僕、出られないじゃないか。僕、土曜日なのに何処にも出られないじゃないか。
 僕には僕の家のまえの坂の下に待っている君が楽しそうに、幸せそうに、明るくなんとなく微笑んだように、頬を春のそよ風に気持ちよく吹かれながら佇んでいる光景を何処かで見たような気がした。もうずっと行っていない君の家の近くの君がよく夕暮れどきに行っていたあの浜辺での光景だな、ペロポネソスの浜辺の光景だな、と僕は気づいた。
 僕の家の前の坂の下に待っているあどけない君の姿は喉の病気や言語障害を忘れさせて何もかも打ち捨てて君のもとへ走ってゆきたい気持ちに僕をならせた。僕、何もかも打ち捨てて君のもとへ走って行こうかな! とても天気のいい土曜日だから。


(第4章終わり)




    (私、お化粧ばかりしています)

 私は悲しいカメ太郎さんの愛人です
 小さなマンションに囲われているカメ太郎さんの愛人です
 カメ太郎さん、週に一回か二回私の処にやってきます
 そして私を抱いて帰っていきます

 私、お化粧ばかりしています
 カメ太郎さんの奥さん、とてもグラマーで美人なの
 とっても色っぽくてカメ太郎さんそこにひかれたのね
 私には色気はないけれど
 誰からも美人って言われる顔だけがあるわ
 だから私、お化粧ばかりしています
 いつも鏡に向かいながらカメ太郎さんに抱かれることを想像しているの

 でもお化粧していたら涙がポツンと落ちてきて
 お化粧しても駄目な処に気がつくの
 私は両肢とも不自由で
 それ、お化粧しても駄目なのね

 私、お化粧ばかりしています
 朝から晩までお化粧ばかりしています
 ときどき涙が落ちてきて
 そしてお化粧を最初からやり直すの
 私、お化粧ばかりしています



(青い便箋に書いてある星子の机の引き出しから出てきた手紙)
 私は今日学校を休んでいて、そしてきっと今日、カメ太郎さんと会います。三週間も手紙をくれないカメ太郎さんにどうしたのか聞きます。(カメ太郎さん、ほかに女の子ができたのね。きっと、そうよ。カメ太郎さん、ほかに女の子ができたのに違いないわ)そう思って三時過ぎ頃、家を出て、カメ太郎さんがいつもバスに乗っている水族館前のバス停まで出かけて行きました。カメ太郎さん、五時頃になったらバスから降りてくるから。いま学年末テストがあっていて、今日で終わりだから。
 カメ太郎さん、このごろ手紙の量も以前よりずっと少なくなったし(以前は便箋にびっしり五枚くらい書いてきていたのに)今は一枚か二枚だし。
 私、風邪のふりして休んだのにママが出かけている隙に家を出ました。あとでママからどんなに叱られるかわからないけど私、もうどうなってもいいわ、それにカメ太郎さんが手紙くれないからよ。私、泣きそうな顔をして家を出ました。
(カメ太郎さんの馬鹿馬鹿。カメ太郎さんの馬鹿馬鹿)
 私もいつかこういうふうになるときが来ることを予感していたようです。カメ太郎さんからふられる日が来ることを。でも本当にそんな日が来たみたい。
 私、今日、カメ太郎さんと会って、そしてカメ太郎さんの気持ちを確かめて、カメ太郎さんの気持ちが私の心配していた通りだったら、私、帰り際に桟橋に寄って海に落ち込んで死んでしまうの。
 私、渦に巻き込まれながら死んでしまうの。そして私、くるくると渦に巻かれながら『カメ太郎さぁ~ん』と叫ぶの。私のその声、カメ太郎さんを今苦しめている病気をますます強くするの。そしてカメ太郎さん、私の死んだあと、前以上に苦しむことになるの。
 私、途中でママに会わないかな、会ったらどうしようかな、とびくびくしながら車椅子を動かしました。ママと会ったらどうしよう。泣き被って許して貰おうかな。
 私、二ヶ月ほどまえ創立記念日のとき同じように三時ごろ家を出て水族館前のバス停まで行って、そこでカメ太郎さんを少しだけだったけど見たことを思い出してなんとなく心がうきうきしてきました。おかしいわね。このまえと違って今日は悲しいはずなのに。おかしいわね。
 でもやっぱり半分も来ないうちに悲しくなってきたわ。手が痺れてきて。何故こんなに苦しまなくてはいけないの。手がとてもきつくて怠いわ。
  カメ太郎さん、あんまりよ。
  カメ太郎さん、あんまりよ。
 私は空に向かってそう呟いたわ。青い空がそんな私を見て笑っていたみたい。
 カメ太郎さんの馬鹿。カメ太郎さんの馬鹿。
 すると涙が出てきました。青い空が海のように揺れたわ。涙が私の耳の後ろに落ちたみたい。
 私、泣きながら道を進んでたら、道端に紫色をした小さな可愛い花があるのに目がつきました。岩や雑草の間に一人ぼっちで咲いていて、まるで私みたい。でも可愛い。それは小さな菫の花のようでした。私、近寄って屈み込んでそれを手に取りました。鼻につけるととてもいい香りがしました。
 私、カメ太郎さんと手を取り合って野原を走っていました。カメ太郎さん、王子さまのように素敵で、小さな私、とっても幸せ。 
※(この日、星子はカメ太郎と会えなかったのである。カメ太郎はこの日、いつものように夜七時五十分の閉館まで県立図書館で勉強していたのであった。星子は二時間も待って六時頃、家路に就いた。この日、星子はもう少しで網場の桟橋から身投げをする処であった。家路に就く星子の目には涙が滲んでいた)※



 星子さんなのでしょうか。中学生ぐらいの色の白い女の子がさっきから川原で盛んに石を積み上げては倒し、そして泣きながら再び積み上げては倒していました。星子さんなのでしょう。いや絶対に星子さんだ。
 川原の石を積み上げては倒し、積み上げては倒し、を繰り返していました。もう何年そうしているのでしょう。僕には何十年にも、いや何百年にも思えます。
 星子さん、いつまでそういうことを続けているつもりなんだろう。
 僕にはあと何十年も、いや何百年もそういうことを続けてゆくように思えて哀しくて涙ぐんでしまいました。



(カメ太郎の日記帳より抜粋、手紙の下書きだろう)
 星子さん、憶えていますか? 僕らが文通を始めるきっかけとなったあの浜辺のこと。星子さん、この頃、全然そこに出ていませんね。でも僕、昨日そこまで走ってきました。そこで僕、緑色の不思議な石を見つけました。ちょうど星子さんの車輪がはまり込んで動けなくなった処でです。それ、とっても不思議な石で。
 もう遠い過去のことのように思う。波の音も変わってしまったように思う。君が車椅子で海を見つめている幻影を僕はゴロと一緒に見つめているみたいだ。もう遠くなってしまった過去のことのような気がする。
 僕には遠い道が続いている。夕暮れの浜辺から僕の家までよりもずっとずっと長い道が(年月が)続いている。僕はそれを一人ぼっちで耐えながら歩いてゆかなければならないのだと思う。
 寂しく昨夜と同じように窓辺から夜空を眺めたとき、カシオペアとオリオン座が輝いているのが僕の目に止まった。もう夜の九時半だった。勤行を終わって勉強をし始めているときだった。とても悲しくなって僕は思わず窓を開けて海を見た。
 いつ頃からだろう。僕がカシオペアや北極星を見なくなったのは。あれはたしか勉強が忙しくなった十一月ぐらいだったと思う。オリオン座も見なくなったし、僕は毎晩七時五十分まで県立図書館で勉強し始めていた。毎晩七時五十分まで県立図書館で勉強していたけれど僕の心にはもう夜空を見る余裕はなかった。焦りと悔しさだけしか僕にはなかった。でも帰りのバス停で南の空のオリオン座を何度も何度も見た。寂しく一人、バスを待ちながら、僕は北極星やカシオペアは見えなかったけど、南の方にあるオリオン座だけは見ていた。夜の八時頃、バスを大森神社のバス停で待ちながら、僕は唇を噛みしめながら見ていた。
 もう春になろうとしている夜空を僕は自分の部屋から眺めている。カシオペアがあって、あれが北極星で、そうしてあれがオリオン座で。僕は久しぶりに夜空を眺めた。窓辺に座りながら僕はとても懐かしかった。
 小学校や中学時代、僕はよく夜空を見ていた。でも高校に入って、僕はほとんど夜空を見なくなった。南十字星はどれなのかな、と捜していた。あの頃の僕はとても素直だった。あの中学時代の純粋だった僕は、今はもう勉強に追いたてられて星を見る時間もない。僕の胸の中は焦りと悔しさで一杯だ。僕の胸は今にも爆発しそうだ(喉の病気のことなどで)。



 星子さんへ
 勉強に疲れきったとき、僕は東の方の空を見上げます。そして楽しかった文通のことを思い出して泣き出してしまいそうになります。
 僕らが育った日見町は本当に自然がいっぱいで、山があったし海があったし公園もたくさんありました。僕が小学生の頃は空き地がいっぱいで、でも今はもうほとんど空き地がないくらい家が建ってしまいました。僕の小さい頃は僕よりも背の高い草が空き地を覆っていて、僕はよくその間の近道を通って学校へ行ったり家に帰ったりしていたものでした。
 僕らの懐かしい思い出はただ僕らの記憶の中だけに蔵い込まれているんですね。



 海の底から聞こえてくるの。私たちを呼んでいるの。私たち苦しんでいるから、だから『早く来なさい、早く来なさい』って、私を呼んでいるの。カメ太郎さんを呼ばなくって、私を呼んでいるの。
 海の精が呼んでいるわ。『早く来なさい、早く来なさい』って、海の精が呼んでいるわ。
 パパの愛、ママの愛。私、それを思うと泣けてくるの。今まで苦労して育ててくれたパパとママと。
 涙が流れてくるの。自然と流れてくるの。もう駄目だわ。私、もう駄目だわ。



 僕らを覆っていた魔の勢力は強くて、僕も挫けがちになったことが幾度もあった。でも僕は信仰の力でその危機を幾度も乗り越えてきた。夜の十二時まで祈っていた時が何度あっただろう。僕はそのために喉の病気になったのかもしれない。でも僕は少しも後悔していない。こうなったのは僕の宿業(カルマ)の故だと思うし、この喉の病気になったために君との純粋な恋を続けてこられたのだし少しも後悔していない。
 僕は中学の頃は君の幸せを毎日、一生懸命、御本尊様に祈ってきた。でも僕は高校に入ってからはクラブも勉強も忙しくて君のことをあまり祈らないようになってきた。そして十二月頃から『僕のような病気で苦しんでいる人たちのために医者になるんだ』と思ってそれからひたすら勉強するようになっていた。君との文通が煩わしく思えていたほどだった。
 僕は君のことを御本尊様の前であまり祈らないように変わっている。僕は君のことよりも自分の成績が上昇することばかりを祈るようになっている。
 僕はクラブも辞めたし二年生になって一年の頃、とても僕を苦しめた現国の先生から習わないようになったし理系の大人しい静かなクラスになって僕にひとときの幸福な季節が訪れている。
 人間って何のために生きているのだろう。それにゴロなんかの動物や昆虫など。生きるって何なのだろう。そうして苦しむことって。僕らが努力したり苦労したりすることがいったい何になるのだろうかって、僕は悩みました。



(夢の中で)
 君の苦しさを僕は解らない。君も僕の苦しさがあまりよく解らないとよく手紙に書いてきている。僕らはお互いに苦しみがよく解らないでいる。今でも君よりも僕の方がずっと苦しんでいるものとばかり思っている。
 君は僕に四年間、希望と喜びを与えてきてくれている。僕も必死になって君に希望と喜びを与えてきたつもりだ。でも僕の心の緊張が緩んだ頃、君の心も悪魔に支配されてきていた。馬鹿な僕は勉強に没頭し、君に手紙を書くのも止めていた。



 とても強いカメ太郎さんでした。でも私はこうして宿命に負けて死んでゆきます。私にもカメ太郎さんのような芯の強さがあればいいのですけど、私にはそんなカメ太郎さんのような強さがありませんでした。
 ごめんなさい、カメ太郎さん。カメ太郎さんを裏切るように死んでゆくことお許し下さい。私、もう耐えきれませんでした。私、カメ太郎さんのような芯の強さがなかったのです。



 僕は決して君の言うように強くはなかった。でも僕には御本尊様があった。僕はだからどのような苦しみにも耐えきれたのだと思う。信仰が僕の心の支えになっていた。



 君は悲しみの中で白い鳩になって旅立っていった。僕にさよならを言いながら、僕らの思い出のペロポネソスの浜辺から、白い鳩になって悲しく悲しく旅立っていった。



 ペロポネソスの浜辺に、来るときに道端で取ってきた白い野菊を一輪植え付けた。その花は君のように白くて、とても美しかった。少しも汚れてなくて純粋な君の心のようだった。君の心のように汚れのない白い白い花だった。



(夢の中で)
 寒い丘の上に少女が身を震わせながら立っていた。君だった。
『星子さん、寒いのに、寒いのに、何故そんな処にいるんだい?』
 僕は夏に見た君のあの哀しげな姿しか見てなかったので僕は久しぶりに君を見た。
 寒い丘の上で君は風に吹かれて寒さに震えていた。
『カメ太郎さん、カメ太郎さん』
 君の言葉はあきらめにも悲しみにも似ていた。

 僕は泣き声一つたてないで、苦しみに耐えている君のことを思って涙ぐんだ。可哀そうな君。
 苦しくて辛くて寂しくてたまらないのだろうに泣き声一つたてずに堪えている君。



(カメ太郎さんには新しい未来が待っています)
 カメ太郎さん。カメ太郎さんには明るい未来が待っています。カメ太郎さん。カメ太郎さんはもう過去の思い出にとらわれているようでは駄目。とくに私のことなんか、つまんない私のことなんか忘れて、新しい未来へと羽ばたいてください。カメ太郎さん、とっても立派なお医者さんになって、たくさんの悩んでいる人たちを救っていって下さい。
 カメ太郎さんは今まで自分が苦しんできたことを生かすチャンスがあるのではないですか。
 カメ太郎さん、頑張ってね。私の分まで頑張ってね。



 遠い海の向こうに消えてゆこうとしている僕らの思い出は、雲仙岳を望む遠い景色とともに春の訪れとともに消えてゆこうとしているような気がする。そして僕はこれから大学入試へ向けて一生懸命に勉強に頑張らなければいけないような気がする。浜辺に打ち寄せる波も、以前と全然違わないけど、
 僕らが文通を始めた中一の春、そして中二、中三、高一と続いた僕らの文通。あの頃は楽しかった。苦しいこともたくさんたくさんあって僕はだから一生懸命、お題目を挙げてきたけれど、あの頃は楽しかった。僕は君のためを思って毎日祈ってきた。一日、三十分ぐらい、君のためだけを思って。もっともっと祈ってきたようにも思う。
 僕らは誰からも愛されなくなったとき死ぬのだと思う。でも君はたくさんの人から愛されてきたじゃないか。みんなから大切にされて大事にされているじゃないか。



 カメ太郎さんへ
 カメ太郎さん、これが私の最後の手紙になるのかもしれません。カメ太郎さんが人生のピンチを切り抜けられたあと、今度は私が人生の岐路に立たされたみたい。カメ太郎さんは中二の頃にもそういうことがあってそれも切り抜けられてきた強い強い人でしたけど私は、私は弱い人間なのでしょうね。それとも私は苦しんだり悩んだりしているふりをしていながら実際は少しもカメ太郎さんのように苦しんでいなかったのかもしれません。
 カメ太郎さん。私、本当は弱い人間だったのです。それとも女の子だから、女の子だから弱いのかな?
                           (四月二十六日)



 君も苦しんできたのかもしれない。でも僕ももっと、たぶん君よりももっと苦しんできた。君はみんなから同情されて、いつも君の家の近くの同級生の女の子たちと楽しそうに帰っていた。でも僕は一人だった。僕の苦しさを誰も分かってくれなかった。
 僕は泣きたくなったとき、いつも仏壇の前で一時間も二時間も勤行唱題をした。不思議と力が沸き上がってきて元気が出てきていた。僕は君にもっと創価学会の信心を勧めるべきなのかもしれない。君は神はいないと言ってるし、そのくせときどき日曜日には教会へ行っている。君は親の勧めるままにキリスト教を信じようとしているのかもしれない。
 僕はただ、大学入試に向けて一生懸命、勉強することしか、僕には毎日、学校帰りに県立図書館で閉館まで勉強することしかできない。また一生懸命、勉強することが自分の心の安らぎになっている。
 僕は君のことを煩く思ってきていたのかもしれない。また僕の心から君の姿は消えつつあった。君の姿は僕に罪の意識と、そして良心の呵責と、海辺の君の悲しげな表情が僕の瞼に焼き付いていて離れなかった。僕は君を捨て去ることはとてもできなかった。でも僕には君は僕を肉欲へと走らせることを妨げていた。君は僕に禁欲的な生活を強いてきた。
 君は僕には邪魔になりかけていた。僕は変わりつつあった。僕は以前の純粋な僕ではなくなりつつあった。僕もまた他の男と同じような男だった。僕は自分の胸の奥から湧いてくる欲望にどうしても耐えることができないようになりかけていた。
 僕も普通の人間だったし、僕も欲望に負けてしまう弱い人間だった。僕は聖人にはなれなかった。



 君からの悲しい別れの手紙を僕は土曜日、夕暮れの寂しげな夕陽に照らされながら読んだ。僕はこれで勉強に熱中できる、とも思った。また、きっと僕が医学部に上がってから手紙を書こう、とも思っていた。もうこれですべてを勉強に賭けられる、と思った。また、少し寂しくて、涙が溢れてきそうにもなった。
『僕は今まで君のことだけを考えて幼い頃から生きてきたし、これから何年間か文通を中断することになるけれど、きっと僕が大学に入ったときには、文通を再び始めて、そうして少し経ってから、会おう。僕が大学に入ってからは、もう文通だけでなくってちゃんと会って話をしよう。大学に入ったら僕は喉の病気や言語障害の研究に身を捧げて、そうして君とも喋れるようになるんだ。きっとそうなるんだ。
(僕は星子さんに一ヶ月以上も手紙を書いてなかった。こんなことは始めてのことだった。僕は一週間に一度は夜二時ぐらいまで懸かって星子さんに手紙を書いていた。だから僕の出す手紙はいつもぶ厚いものになっていた。でも僕は医者になろうと決めて勉強に熱中するようになってから、星子さんへの手紙を書くのがとても時間が勿体ないように思えてきていた。また僕はそれほど勉強に焦っていた)
 僕は僕と同じような病気で苦しんでいる人たちのため医者になろうと思って君に手紙を書く時間も惜しんで勉強に打ち込み始めてきた。僕は一生懸命だったんだ。もう君と文通するのを止めようとさえ思っていた。僕が医学部に合格するまでは君と文通するのを中止しよう、と思っていた。
 僕は君が思っている以上に学校で吃りなどのために苦しんでいた。一ヶ月以上も手紙を出さなかったのはそのためなんだ。短い手紙でも書けば良かった。便箋にたった一枚でもいいから手紙を書けば良かった。
 本当に医学部に合格するまで文通を止めておこう、と考えていた僕は馬鹿だった。それにせめてその理由を書いた手紙を出すべきだった。



 悲しい訣別の手紙は四月の終わりのある日、僕が六時ごろ図書館での勉強に疲れて帰ってきたときポストの中に入っていた。いつもはぶ厚い君の手紙が今回はとても薄っぺらかった。そして僕は一ヶ月以上もまだ返事を出していないのに気づいてハッとした。僕はその夜、次のような詩を書いた。

 悲しい訣別の手紙は僕を、遠い昔へと連れて行った
 僕らが文通を始めるきっかけとなった四年前のペロポネソスの浜辺の光景がそのときのままで思い出された
 悲しい出会いだったのかもしれない
 でも僕らはそれから色とりどりの便箋や封筒の中に
 僕らだけの幸せを築いていった




 僕は君から別れ(訣別)の手紙を貰った次の日、朝いつものようにご飯を頬に膨らませながらバス停へと走っていながら漠然とした言いようのない不安に襲われた。
 僕の今からの人生はどうなるのだろう、僕の今からの人生はどう変わってゆくのだろう、と。僕は高校二年になったばかりだったし。



 僕は休みの日、寝ていて『世の中が変わっていく、どんどんどんどん変わっていっている。小さい頃から僕の心を支配してきた君の幻影が闇の中をクルクルクルクルと舞いながら何処か奥の知れない暗い処に吸い込まれていっている』と気づいて僕はハッとして飛び起きた。五月五日の子供の日のことだった。僕はいつもよりちょっと遅く七時半ごろ目が醒めたけど、それから十二時近くまで布団の中で物思いに耽ったりウツラウツラしていた。そしてさっき君の悲しげな姿が見えたのだった。でも飛び起きた僕にはとても哀しい不安があった。
 以前は窓を開けると、オレンジ色の屋根をした君の家が見えていた。でも今は見えない。途中にビルが建って、君の家は隠れてしまって、もう見えない。
 以前は見えていたのに、そうして寂しくなりがちな僕を慰めてくれていたのに。
 もう僕も一人きりなんだなあ、という気持ちが悲しく湧いてくる。僕は一人で、今からは一人で生きてゆかなければならないのかと思うと、寂しくて、夜空を見上げながら涙が、僕の頬を伝わっていこうとしている。
 今からは僕は一人で生きてゆかなければならないのだろう。誰にも頼らず、ただ自分一人で、僕は自分一人で。
 もしもまだ僕が君と文通を続けていたならば、そしてゴロと一緒に君の車椅子を押してあげて、僕らは今頃とても楽しい夕暮れを迎えることができただろう。でも今、僕の目に映るのは、寂しい、もう暮れかかった夕暮れの海だ。僕の周りには誰も居ないし。
 君に手紙を出さなかった三月、四月のときに※(ああ、これは三月十四日に書いたことになっている)僕は君に手紙を書いた。でも僕は出さなかった。手紙が短かったし。
 (三月十四日)と最後に書かれたこの手紙はたった一枚の手紙だけれども僕のあの頃の苦しい心境を書き綴っていて、とても君に見せるのもはばかられるほどだった。
 僕はすぐに医者に診せて、喉の病気を治していたら、そうしたら僕も君と楽しい少年少女時代を送れていたと思う。
 君とこの浜辺を歩いてゆく後ろ姿が見えている。辺りはうす暗くて、僕と君しかいなくて、僕も君も全然口をきかないでいる。
 僕は君に手紙を書かずに遊んでいたのではなかったのか。たしかに一生懸命勉強もしていたけど魚釣りに行ったりゴボウと遊びに行ったりして遊んでいた。君に手紙を書く暇は充分あったはずだった。
 僕からの手紙の来ない間、君は寂しかったのかもしれない。でも僕も寂しかった。勉強に追われ、心に何の余裕も持てなかった。その頃、僕の胸の中は、勉強とその疲れによる寂しさだけしかなかった。
 僕は君のことをほとんど忘れ去っていたようだった。たしか一度、手紙を書いたけど、出さずに机にしまい込んでいた。君のことを忘れよう、という衝動が僕の胸の中で働いていたのかもしれない。
 君の方がいいと僕はずっと言ってきた。苦しさを理解してもらえる君の方がずっといいと僕は言ってきた。でもそれは僕の一人よがりだったんだと今ようやく気づいた。
君が『カメ太郎さんがきっと医学部に受かりますように』と書いた七夕の紙が僕の机の中にある。君が綺麗な紙に習字で書いてくれたその紙を僕はいつまでも持っているつもりだ。この言葉を心の支えにして僕は勉強してゆくつもりだ。



 もう眩しい朝日が照りつけているのに、もうこれからの日々は君の居ない今までとちがう日々になるのか、と思って僕は悲しくなってきていた。
 今日の朝日は今までとちがう朝日のようで、僕の胸にポッカリと空洞が空いたようで、僕はとても寂しくてたまらなかった。



(カメ太郎さんは強いかたです)
 カメ太郎さんは強いかたです。二月のあのピンチをくぐり抜けられてきたカメ太郎さん。私だったらとっくに死んでいたと思うのにカメ太郎さんは堪えてこられて、今明るく生きていらっしゃるようです。本当にカメ太郎さんは強い方だと思います。
 それなのに私は弱い女です。私の苦しみは二月のカメ太郎さんの苦しさに比べたら何分の一にしかならないと思います。それなのに私は苦しくて明日カメ太郎さんに電話してから死のうと思っています。
 カメ太郎さんは本当に強い方です。カメ太郎さん、小さい頃から苦しんできたから、だから強いんでしょうか。私は小さい頃、パパやママにとても甘やかされて育ってきたから弱いのでしょうか。



 
 
 夜、キラリッと星が光って流れ星となって消えていった。あれは星子さんの星のようだった。ゴロも星子さんと永く会っていない。
 海辺は、久しぶりに来た僕とゴロを悲しげにいつもの波の音や浜辺の香りとともに迎えていた。図書館で勉強してからの散歩なので辺りはもうまっ暗だけど、哀愁というか、星子さんが霊になってこの浜辺にとけ込んでいるような気がしていた。
 月の光だけに照らされたこの浜辺は、浜辺じゅうにいっぱい星子さんの霊が満ち溢れているようだった。そして浜辺全体が螢のように輝いているような気もしていた。


(第5章終わり)




※(星子さんの死の前の日のことである)
 星子さん。そんなに謝らなくっていいんだ。僕が悪かったんだから。二ヶ月近くも手紙を書かなかった僕に星子さんが怒って当然だ。(小鳥になって星子さん、僕の部屋の前の桜の気の枝に止まって鳴いてるけど)僕が悪かったのだから、だからこんなことしなくて良かったのに。僕が悪かったのに。
----星子さんの小鳥は鳴いていた。悲しげにとても悲しげに星子さんの小鳥は鳴き続けていた。



(高二の五月のこと)
(星子さんから別れの手紙の来た一週間後の日のことである)
 その日、僕は学校が終わるといつも行く県立図書館へも行かずまっすぐ家へ帰ってきた。土曜日だった。星子さんからの別れの手紙が来てからちょうど一週間が経っていた。いつも学校帰りに県立図書館へ行っていたので五月の青空の眩しさに青春を思わせるものがあったけれど、失恋、初めて味わった失恋に、失恋とはこんなものかとため息をつき続けていた。
 白痴のようになった僕の心はそれでも星子さんの住む網場の光景へと名残り惜しそうに飛んでいた。そんなに悲しくはなく甘美な思い出への哀感があるだけだった。
 僕は家へ帰ると目玉焼きをつくって昼食を食べたあと夏目漱石の「心」を読み始めた。二時間ぐらい読んだだろう。いつの間にか眠ってしまった。
 電話が鳴っていた。でも完全に暗くなっていて、そしてまだ父と母が帰ってきていなかった。電話のベルは僕の耳には虚しく消えるように『ああ鳴ってるな』という一個の無機的心象を起こしただけだった。
 再び電話が鳴った。さっきから30秒ほどしか経ってなかった。そのとき僕はなぜか立ち上がった。いつもなら寝たままのはずだった。そして僕は立ち上がっても夢遊状態に近かった。
 これは根性ではなかった。不思議な力が僕に働いているようだった。僕は階段を急いで下りた。足元がおぼつかなくて踏みはずすにちがいないと思ったのにちゃんと降りた。そして受話器を取った。
『あっ、カメ太郎さん、カメ太郎さんですか、星子です、このまえは手紙でごめんなさい、ごめんなさい、あれは嘘です、私はカメ太郎さんのためにならないと思ってワザと嘘を書いたのです、許してください、ほんとうは私、カメ太郎さんのこと好きなんです、でも怖かったし』
 僕は何と言っていいか解らなかった。また喋らない方がいいと思った。喋って変に思われるよりも喋らない方がいいということを僕は日頃、身に染みて感じていたから。僕からは空白だった。
『カメ太郎さん。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください』
 星子さんの声は始めは明るかったが次第に泣きそうな声になっていた。
『ウッウッ(星子さんの泣き声が聞えてきた) 
 カメ太郎さん、いま桟橋の前から電話しているの。ごめんなさい。許して下さい』
 僕は何か言うべきであろうかと迷った。また、言おうと思うが言葉が出てこなかった。僕は激しく緊張していた。震えていたほどだった。口を開けても言葉が出てこなかった。
『カメ太郎さん、駄目ですか、私、家からは電話しにくかったからここまで出てきたんですけれど。カメ太郎さん』
『ウッ、ウッ』
 僕はやっと声を発したがやはり言葉は出てこなかった。冷や汗が出ていた。あまりにも出てこないので僕は喋るのをあきらめかけていた。こんなにも言葉が出てこないのは始めてだった。
『カメ太郎さん。私、死にたい。もう耐えきれません。なぜ私だけがこんなに苦しまなくっちゃならないの』
 君の声はもうほとんど叫び声に変わっていた。
 電話がバタンッと切れた。僕はすぐに駆け出した。いや、君の最後の叫びが発しられているとき、既に僕は君の処に走っていくことに決めていた。電話では僕は喋れない。それに君の最後の叫びが発せられている途中で君の死の決意を僕ははっきりと感じ取っていた。
 電話の切れる前に僕はもう走る姿勢に移っていた。僕の躰は一気に走る弾丸のようになっていた。ものすごいダッシュだった。
 僕の耳にはこの世のものとは思えない極限の苦しみのようだった君の最後の言葉がまだ鼓玉していた。

『馬鹿だ。君は。馬鹿だ』
 僕は走っていました。風のように。風になっていました。僕の情熱が風に変化していました。すっかり暗くなって闇になった道を運動会での100m競争のように力一杯走っていました。いつか小学校の頃、学級対抗リレーで走っていた僕を車椅子から手を叩いて喜んで応援してくれていたまだあどけなかった君の姿が思い出されてきます。あの頃からすでに五年経っているんだね。あの不思議なほどに明るかった君がこうして自殺しようとしているなんておかしいな。何かの間違いじゃないのかな。と必死に走りながら僕は思うのでした。

 僕は風になっていました。君へ、君のいる網場の桟橋へと僕は風になり僕はまっ暗な夜道を風として素早く移動していました。誰も見えない闇の中を僕は風になって君を救うため、可哀想な君を救うため、僕のためにこんなになってしまった君を救うため、風になっていました。

 大きな大きなどろどろとした鈍黒色の津波が走る僕を押しとどめようとしているようでした。それは港の方から押し寄せてくる僕を君のもとへ来らせまいとする怒涛のような魔力でした。

『星子さん、死んじゃいけないんだ。死ぬことだけは止めなくっちゃ。死ぬことだけは』
 網場の桟橋までは1kmほどあるでしょうか。僕は七時半の暗くなったばかりの闇の中を必死で駆け続けていました。髪を振り乱しながら。

 走りながら僕に君とのずっと以前の思い出が今鮮やかに描き出されてきていました。ほとんど忘れてしまっていたことなのになぜ今こうやって鮮やかに蘇み返ってきたのだろうかと僕は訝しんだ。
 僕が小学四年のときだった。ある夕方、僕と君がドングリ山商店の前の道ですれ違ったことがあった。そのとき君が僕に呟いたのだった。何を呟いたのか良く聞き取れなかったけどあれはこういうことだった。
『カメ太郎さん、三船カメ太郎さんというのでしょう』
 僕はそのときよく聞き取れず少し無視して歩いたあとやっぱり気になってふっと君の方を振り向いたがそのとき君の車椅子は動いてなくて君の背中が心なしか震えていたのが感じられた。震えていなかったのかもしれなかったけど僕はなんとなくそう思えた。
 それから僕は俯いて歩いていった。その頃はまだ喉の病気にも罹ってなかったし喋ろうと思えば喋れたのだけど喋り方がおかしいと自分でもうすうす自覚し始めていた僕はそのまま無視して通り過ぎた。車椅子の上に乗っている譬ようもなく光り輝いている美しい女の子だったけど。
 そして五年生のときだった。僕が海岸縁の道で友だちとキャッチボールをしているときちょうど君が通りかかった。頬を赤らめて俯いて通り過ぎようとしている君を見てタコ太郎(僕の友達)は一瞬----

 ああ、僕はやっぱり小さい頃から君を一番好きだったし今もそうだ。だから今こうやって君を救おうと必死に走っているんだ。これは責任感じゃないんだ。君を好きだから、君を愛しているからこうして走っているんだ。

 走りながら僕は考えた。あれは一昨日のことだった。僕は図書館へ行かず久しぶり早く帰ってきて、ゴロと散歩に行った。目指すのはもちろん君の家だった。手紙を永いこと書いてないで四日前、君から絶交の手紙を貰ったばかりだった。この四日間、僕は学校へ行くのがやっとだった。家に居るときは悶々とした心も学校へ行けば何故か晴れていた。
 そして一昨日、僕は学校帰りに交通事故を目撃した。一緒に帰っていたタコ太郎が『カメ太郎。可愛かとの歩いて来よる。』と指差して何秒か経ったときのことだった。その女の子が横断歩道でクルマから跳ねられた。そして十mぐらいも飛んでいった。
 その女の子は君にそっくりだった。僕は人々がその女の子の方へと群がるなか、僕にはそれが何かを暗示しているように思えてとても不気味だった。
 そのとき小さな金属性のものが僕の方に転がって来た。もうタコ太郎は女の子が飛ばされた処へと走って行っていた。少し弧を描いてそれはちょうど僕の足元まで転がって来た。丸いワッペンのようだった。手に取ってみるとそれはカスタネットの片方だった。赤いカスタネットだった。
 丸い金属性の紋章の入ったワッペンが転がって来ていると思ったのは僕の間違いだった。でも転がって来るときアスファルトの道の上でたしかに金属性の音をたてていたみたいだった。
 僕は訝しげに僕がワッペンだと見誤ったカスタネットの千切れた一つを拾い上げた。
 救急車の音と十mも先へ飛ばされた女の子の周りに集まる人々の喧騒が片手に千切れたカスタネットを持った僕を包んでいた。



 走りながら僕は水の中に潜む君の死の前の悲しい僕の名を呼ぶ声が聞えてきたように思った。喋れなかった僕。遂に一言も出てこなかった吃りの僕。僕はその悔しさを走り続ける根性へと変えていた。今にも倒れ込みそうで道端の青い草群にどっと身を投げ出したい衝動を何度も感じた。
 でも僕は走り続けた。闇が走り続ける僕を覆い尽くそうとしている。僕は何度も立ち止まろうとした。でも僕は空を見上げながら走り続けた。すると黒い夜空に流れ星が君の涙みたいに流れたのを見た。ああ、星子さん死んだのかな。

 その星は君の涙のようで天空を桟橋の方へと落ちていった。星子さん。星子さん。僕は何度も躰じゅうに力を込めて躰の中からそう叫んだ。星子さん。星子さん。
 僕の躰は熱気になり一気に君の待つ桟橋へと飛んでゆけたら、と思った。



 僕は走りながら君との電話を思い出していた。
『カメ太郎さん、私をからかっていたのですか? カメ太郎さん』
 僕は君のその言葉に一瞬、自分の心を疑った。もしかしたら僕は君をからかっていたのかもしれなかった。いや、少なくとも僕は君を自分の慰みものにしていたような気がして僕は暗然とした心持ちになった。
『カメ太郎さん、本当のことを言って。カメ太郎さん、本当は私をもて遊んでいらしただけなのね。私、ちゃんと解っているわ』
 悪魔が君の心に忍び込んでそう思わせているんだ、と僕は思った。
『カメ太郎さん、なぜ、なぜなの。なぜ、私だけがこんなに苦しまなくっちゃならないの』
 僕は何も答えられなかった。受話器から聞こえてくるその声に僕は絶句したままだった。僕は毎日、君の幸せを祈ってきた。少なくとも君はこの四年間は幸せだったはずだった。却ってこっちの方が励まされていたくらいだった。魔が君の心に忍び寄り、君の魂まで黒く塗り潰され始めてきていた。


 星子さん、死んでだけはいけない。死んでだけは。僕たちは何のためにこうして今まで励まし合ってきたんだ。星子さん、死んでだけはいけない。生きなくっちゃ。僕らはお互い辛い障害を持って幼い頃から生きてきたけど僕らはその分ほかの人たちよりも一生懸命になって元気に生きなくっちゃいけないんだ。僕らは本当に生きるのが辛くて毎日毎日死んだ方がいい、と思ったりしてきたけど、でも僕らは辛いからこそ負けないで歯をくいしばって生きてゆかなければいけない。それに僕らは今まで何のために生きてきたんだい。それにこれまで育ててきてくれた両親に対してどうするんだい。
 僕は泣いていました。僕はこの頃、自分のことしかあまり考えないようになって(それに勉強が忙しくもあったので)君のことを放ったらかしにしていたことをとても悔んでいました。
 僕は自分のことだけを考える人間にいつか堕落してしまっていたのです。


 闇の中をひた走りながら君との四年間の楽しかった文通のことを思い出していた。僕たちは手紙でだけ結ばれていたけれど、



 石に跌づいて転んだ僕はやがて肘から血を流しながら立ち上がった。まっ暗な闇の中に君が待っている網場の桟橋の光景が僕の目には見えていた。きっと君は僕が来るのを待っていて海の中に飛び込むのをためらっているのだろう、と思った。僕が走ってくるのを、僕が走ってくるのをきっと僕が来る方を眺めながら見つめているのだろう、と思った。
 僕のジーパンは膝の処が赤黒く染まり、そこに泥が付いていた。肘にも泥と砂が付いていた。僕は君がきっとまだ海のなかに飛び込んでなくて、僕が走って来る方を眺めていると信じていた。
 きっと君は僕を待っている。だから僕は転んで血が出てとても痛くても走らなければならなかった。君は悲しそうな表情で僕が来るのを待っているようだった。僕が来ないかもしれないと悲しみながらも。
 桟橋の停留所の薄暗い街灯の下で、僕が走ってくる方を寂しげに眺めている君の姿を思って僕は泣きそうだった。だから僕は懸命に走った。悲しげに僕の方を見つめている君のことを思うと僕は痛みや苦しさに負けずに走らなければならなかった。
 星子さん。僕は『これでは駄目だ、これでは駄目だ』といつも思ってきた。でもどうしようもなかった。どう努力しようにも、どうしようもなかったんだ。
 僕は最後の努力を、君を救うために必死に桟橋へ向かって走り続けていました。僕の今の苦しさは、僕が小さい頃から受けてきた地獄のような日々の苦しさを凝縮したかのような苦しさでした。
 死んじゃいけない、星子さん、死んでだけはいけない。僕も今まで、どれだけ吃りなどのため苦しんできただろう。でも僕は死ななかったし、へこたれなかった。少なくとも親には元気なような顔をして見せてきた。死ぬことだけは、死ぬことだけは負けなんだ。自分の人生に、自分に、負けることなんだ。そして僕らが苦しみを背負って生れてきた価値が全く無くなるじゃないか。
 僕らは、苦しい宿命を持って生まれてきたからこそ、他の人たちよりも明るく逞しく生きなくてはいけない。また、そのことが他の普通の人たちの励しにもなるんだ。
 僕は夜の闇を、太古の世からの闇を破るような勢いで走っていました。僕はもの凄く速く、そして一生懸命に走っていました。僕や君を小さい頃から、物心がついた頃から、覆ってきた暗い不幸な運命を吹き払うように僕は走っていました。
 僕の頭に『僕らは何のために、僕や星子さんのような不幸せな人は何故生まれてきたんだ?』という激しい疑問が湧いてきていました。『僕らは何故、生まれてきたんだ。人は何故、生まれてくるんだ。この世は何なんだ。生きるって何なんだ』
 僕の葛藤は激しく、今にも走りながら気が狂いそうになっていました。
 僕らは暗い宿命を持って生れてきた。でも、僕らはそのために二人だけの、二人だけのだったけど幸せな恋を育むことができた。もしも僕らが五体満足な体で生まれてきていたら僕らは欲情だけの、虚しい恋しかできなかったに違いない。
 星子さん、身を投げちゃ駄目だ。
 僕には今にも桟橋の欄干から身を投げようとしている君の姿を、苦しい息の中に垣間見ることができていました。桟橋はまっ暗で、静かに波が打ち寄せているだけです。
『君を死なせてなるものか。君を死なせたら僕は』
 僕はいつもいく垂水床屋の前を通り過ぎていました。僕は懸命に走っていました。でも胸元から込み上げてくる何かを、僕は感じ取りました。そのとき僕にはそれが何か解りませんでした。
 僕と君は手紙の中で青春を造ってきた。迫りくる暗闇。夜光灯がなくて足元がよく見えない道を、僕は懸命になって走っていた。川に架かっている橋、神社の岡、僕はただ闇の中を、やみくもに走っていた。足元に注意する余裕なんてなかった。
 早く桟橋へ着かなければ君が死んでしまうと思って、僕はもう息ができないようになりながらも走った。喉の奥に何かが詰まっていて、こんなに息ができないのだろう、とも思ってきていた。
 君のもとへと走りながら僕の胸には『君よりも僕の方が苦しかったのに、それなのに君は死んでゆこうとしている』という思いが拭い切れないでいた。

 もう死んで水の上に横たわっている君
 君のもとへと走りながら苦しみ抜いている僕
 まるで僕らの今までの人生の縮図のような気がする


 君は真面目すぎた。真面目すぎたから自分というものをあまりにも見つめ過ぎて死んでいくのだと思う。君は真面目すぎた。だからだと思う。
 走りながら僕は、君の苦しみと僕の苦しみとを比べてみていた。君の方が僕よりもずっと苦しくて辛かったことを僕は走りながらこのとき始めて知った。君の苦しみは僕の苦しみと全然違っていて、僕は君の苦しみを理解してあげることができなかった。そして僕の方がとても苦しんでいるのだ、と僕は思ってきた。
 いつも一人きりで海を見つめていた君。いつも寂しそうだった君。いつも寂しげに浜辺を車椅子で通っていた君。水溜りの道や貝殻や砂利の道を苦労しながら通っていた君。僕は女の子と喋るといつも傷付いてきた。だから僕は君と喋っても笑われるばかりで傷付けられると思ってきた。馬鹿な僕だった。
 僕らは何回、同じようにして生まれ、そして死んでゆこうとしているのだろう。いつの世でも僕らは不幸せだった。でも僕らは僅かな幸せを、他の人たちは快楽と呼んでいるのかもしれない、でも僕らには快楽はあまりなかった、僕らにあったのは苦しみの間の僅かな憩いのひとときだけだった、拷問のような時間の間の、ほんのひとときの安楽の時があるだけだった。そしてそれで幸せだった。
 僕らはでも幸せだった。最後の四年間だけだったのかもしれない。でも僕らはこの四年間、たしかにお互い苦しかったけれど幸せだった。手紙でお互い慰め合ってきたし、僕らは学校で本当に苦しかったけど頑張り抜いてきた。
 悪魔はこうして僕の心にも君の心にも巣喰い始めていたらしい。いや君よりも僕の方に悪魔は巣喰っていたらしい。走りながら僕ははっきりとそう感じた。
 僕らは前世、ムー大陸で恋人同士だったんだ。でも僕らは神さまをあざ笑ったり神さまの悪口を大声で言ったりしたため、こうなったんだ。
 僕らを取り巻く闇は魔の闇で、僕らは毎日震えおののいているけど、僕は今まで負けてこなかったし、君も明るく強かった。君はときどき泣いて手紙を書いていたけど、でも次の日には明るく学校へ行っていた。君は明るく強かった。
 中学の頃、僕は挫けそうになる心を励まして、君の幸せのために毎晩十二時ぐらいまで題目を挙げていた。しかし、僕はもう、君のことをほとんど思わないようになっていた。
 僕もやっと大人になったのかもしれない。また性欲に目覚めてしまったのかもしれない。でも僕は毎日のお祈りの中で君の幸せを祈ることは止めてはいなかった。たしかに以前より、君のことをあまり祈らないようになっていたけれど。
 僕は毎日のお祈りの中で自分の醜い心と葛藤していた。君のことをもっと祈るべきだったけど。
 僕は信仰を心の支えにして生きてきたし、君にも僕の信仰をするように勧めてきた。でも僕の真心が足りなかったのか、もっと強く君に勧めなかったのが悪かったのか、今、こうして君は死んでゆこうとしている。僕の真心が足りなかったんだ。僕の真心が足りなくて、君はこうしてむざむざと死んでゆこうとしているんだ。僕の真心が足りなかったんだ。
 僕は血を道端へと吐きながら走っていた。僕の白いシャツにはまっ赤な血が僕と君を覆ってきた悪魔の呪いのように、べったりと付いていた。僕はもう、気が遠くなりかけてきていた。もう、倒れてしまいそうにも思えた。でも僕は依然として走り続けていた。
 僕の祈りが足りなかったのだと思う。僕はこの頃、あまり君のことを御本尊様に祈ってなかった。自分の成績の上昇のことを、主に祈るようになっていた。自分の病気のことも、それに君のことも、あまり祈らないようになってきていた。
 でも、僕が医者になることは、僕と同じような病気で苦しんでいるたくさんの人たちを救うことにもなるし、それに君と同じような病気で苦しんでいるたくさんの人たちも救うことになるんだった。だから僕は一生懸命勉強していたし、毎日学校がとても辛くても休まずに真面目に行っていた。辛くて堪らないとき僕はいつも御本尊様の前に座って祈っていた。
 でも、僕はたしかに中学の頃や高校一年の頃のように君の幸せを願って夜遅くまで題目を挙げることをしなくなっていた。3分の2は自分の成績の上昇を願っていた。そして、3分の1の中で自分の病気や君の病気のこと、僕の家の幸せのことなどを祈ってきた。
 僕には御本尊様があった。でも、君には頼るべきものが何もなかった。僕は苦しくてたまらないときにはいつも、御本尊様の前に座ってお祈りをしていた。学校がとても辛くてたまらないときには。でも君には無かった。君には、僕と文通していることだけが、君にとってただ一つの心の支えだったのかもしれない。それなのに勉強に忙しくて手紙を書くのが億劫になっていた僕は愚かだった。苦しんでいる君のことを忘れて。そして僕は自分のために、自分の将来のためだけに勉強していたのかもしれない。
 君が疲れていたとき、僕はノホホンと毎日を送っていた。僕は君がそんなに苦しんでいるとは知らなかった。それにもう君の心は僕から離れていった、と思っていた。
 カメ太郎さん、私、生まれ変わりたいの。健康な足をもって生まれ変わりたいの。
 海の中に君が沈んでいく姿が見えていた。でも僕は一生懸命走っていた。君のため僕は桟橋までどうしてでも辿り着かなければならなかった。
 君は素直すぎた。春の風のように素直すぎた。あんまり自分を見つめすぎて、そうして木の葉のように死んでいこうとしている。
 網場の桟橋まであと400mと近付いた頃でしょうか。僕は遂に胸の辺りの痛みに耐えかねて立ち止まりそうになりました。
 でも、やはり僕は駆け続けました。次々と湧いてくる小さい頃から今までの君との出来事が、僕を肉体的苦痛から解放したようでした。僕はもう魂だけで走っているようでした。
 僕は、魂だけになっているようでした。駆けている足が自分のものでないような気もしていました。君の桃色の顔が闇にぽっかりと浮かび、微笑んでいます。その笑顔は譬ようもなく美しくて。
『カメ太郎さん、私、幸せになりたかったの。でも、なれなかったわ。それになれそうもないの』
 君は桟橋の上で、夜空を見つめてそう呟やいていた。僕は闇の中を、一生懸命、走ってきていた。君が海に飛び込むまでに桟橋に着かなくてはいけない、と一生懸命、一生懸命走ってきていた。
『カメ太郎さん。私、幸せになりたかったわ。カメ太郎さんと文通だけでなくって、電話でも喋りたかったわ。私、寂しかったの。でも、カメ太郎さん、吃りだし喋るのが苦手だから電話は絶対、掛けちゃいけない、っていつもいつも、手紙の中に書いているから、私、電話しなかったの。私、手紙よりも、電話の方がずっとずっと良かったの。カメ太郎さんの声を聞きたかったの。カメ太郎さんがどんなに吃ったって、どんなに喋り方がおかしくったっていいから私、カメ太郎さんと喋りたかったの。でも電話をしたらもう文通もしないってカメ太郎さん言うから、私、電話もしないで来たの』
『カメ太郎さん。私、カメ太郎さんと喋りたかったわ。どんなに吃ったっていいから、どんなに喋り方がおかしくったっていいから、私、カメ太郎さんと喋りたかったわ』
 君は涙を一しずく一しずく落としながら夜空に向かってそう呟やいていた。僕は桟橋の方向に大きな一しずくの流れ星が流れたのを見た。本当に、君の涙のようだった。僕は緩くなりかけていた疾走を、また力の限りの疾走に変えた。しかし、胸の中から何か温かいものが込み上げて来るのを感じた。
 それは血だった。電灯の光りに照らしてみると、まっ赤な血が僕の手の平にたくさんたくさん溜っていた。
 僕は思わず近くの草叢に倒れた。胸が掻きむしられるほど、痛くなったからだった。
 でも、僕は熱い血の塊を両手に抱いたまま、立ち上がらなければいけなかった。僕は君の居る桟橋まで走っていかなければならなかった。胸の痛みや、血に汚れている自分の躰のことなんて、どうでも良かった。
 僕は走らなければならなかった。君の居る桟橋まで、たとえ気を喪ってまでも僕は走らなければならなかった。
 僕は走らなければならなかった。どんなにしてでも走らなければならなかった。
 僕の足は再びよろけ出し、膝から激しく倒れた。口から出てきたのはやはり血だった。僕は、もう駄目だと思った。走れないし、それにもう走っていったって、君が海に飛び込むのに間に合わない。
 哀しい哀しい浜辺の光景が、君の姿とともに見えてきていた。可哀想な君。ごめんね。傷つけて、そうして自殺にまで追い遣ったのは僕だし、それに僕の病気だった。ごめんね、星子さん、ごめんね。
 悲しい海辺の光景しか見えなかった。何故、君はそんなに悲しそうなんだろう、と思った。君の表情はとても哀しく僕に涙を出させた。
 悲しい海辺の光景は、僕がこのまま草叢のなかで死んでゆくことのようにも思えた。口から溢れてくる血はものすごい量になっていた。咳とともに、僕の胸は痛み、そして口一杯に、熱い血が溜った。
 君の髪は潮風に吹かれて、僕の方に揺れていた。悲しげな君。僕は人は何のために生きるのかと思い、横たわりながら身じろぎしていた。
 春のタンポポだろう。倒れ伏してもがいていた僕の目の前に、タンポポが月夜に照らされていた。僕は意識を喪いかけていた。夢を見た。君と春の野原で手を繋いで駆けてゆく夢だった。黄色いタンポポやレンゲの花が咲き乱れていた。
 美しい儚い夢だった。一分か二分ぐらい見ていただろう。僕は起き上がった。そして胸に溜まっていた血を吐くと再び走り始めた。僕はもう泣いていた。胸の痛みに僕は耐えかねていた。
 僕も辛かった。でも、僕はその度に仏壇の前に座った。そして、一時間も二時間も題目を挙げた。明日の学校での苦しみのことを考えると僕はとても辛くなっていた。でも僕は耐え続けた。
 僕は再び倒れた。
 野原に倒れ伏しながら僕は思っていた。エゴイストになっていた自分。もう君と文通するのを止めようとさえ思っていた自分。自分の幸せだけを追い求めようとしていた自分。手紙を書くのが煩わしくて、手紙を書いていなかった自分。君の悲しみを考えられなくなっていた自分。
 草の原に倒れ伏していた僕の目に、君が空へ舞い上がってゆく夢を見た。
『苦しかったの。カメ太郎さん。私、苦しかったの。だから先に天国へ行きますけど許して下さい。もっともっと、カメ太郎さんと文通して、そして落ち込みがちなカメ太郎さんを励ましてやりたかったけど、私、苦しかったの。もう、こんな惨めさや苦しさに耐えきれなかったの』
 僕は涙を溜めて天へと登ってゆく君の姿を見送っていた。
 僕は眠り込んでしまおうと思った。快い眠りの中に僕は浸り込んでしまおうか、と思った。また、起きて走り続けたら、今度こそたくさん血を吐いて死んでしまいそうだった。
 自分を取るか、正義を取るか、エゴイズムに浸るか、人のために不幸な人のために苦しさに立ち向かって行くか、とても厳しい道かもしれない、死ぬ可能性はかなり高い、自分のために生きるべきか、親のために生きるべきか、それとも、今、死のうとしている不幸な君のために立ち上がって走り続けるべきか、僕は迷った。
 僕は立ち上がった。でも気力も体力も僕は喪っていた。しかし君への「恋」の力があった。君への「恋」のため僕はそのまま倒れ伏してしまうのを立ち上がったのかもしれない。
 君は僕に生きる力を与えていた。挫けがちになる僕に、君の手紙は、僕に生きる勇気を与えていた。もう明日からは学校へ行くまい、と何度思ったことだろう。でも、君の手紙を読んで、僕は学校へ行った。そして、学校というものが本当は楽しいことを、君は僕に教えてくれていた。
 僕はまた駆け始めていた。自分は自分の虚栄心のためか、それとも本当の自分の正義感のために走っているのか解らなかった。君を救おう、可哀想な君を救おう、という虚栄心なのかもしれない。
 虚栄心のために走る僕、君のためでなくって、自分の虚栄心を満足させるために走る僕、醜い僕、自分のために走る僕、醜い僕。
 君は僕が走って君の元へ来ているのを朧げな意識の中で感じ取っていたのかもしれない。でも、君はそのときにはもう、安らかな眠りに入っていて、僕の駆けて来る足音も、苦しい呼吸の音も、聞えなかったに違いない。
 僕は道端に再び激しく倒れた。
『星子さん』
 横たわった僕に、君の涙のように、悲しみの涙が流れた。流れ星が流れていた。僕の哀しみの涙のようだった。
『星子さん』
 でも、僕は寝ている訳にはいかなかった。僕のために死んでゆこうとしている女の子、とてもとても純粋な女の子の心を裏切らないためにも、どうせ間に合わないような気がしていたけれど、僕は起き上がって走らなければならなかった。
 僕は草の間に立ち上がった。走り始めなければならなかった。胸の中がとても痛くて去年の冬に罹った風邪のためだろう、と思った。
 僕は走らなければならなかった。しかし再び胸の痛みに耐えかねて座り込んでしまった。
『星子さん。僕の青春の全てみたいだったような星子さん』
 僕は悲しみと苦しみに打ちひしがれながらも再び立ち上がろうとしていた。
 君が海に飛び込んだ『ザブンッ』という音が倒れ伏して、もがいていた僕の耳に聞こえてきた。でも、僕は胸が痛くて苦しくて、野原の中で転げ回っていた。春の野草の上で、僕は途方もない苦しみと、僕は君をもて遊んできたのではないのだろうか、という思いと、そして、僕は少なくとも君を自分の慰みものにしてきたのではないか、という懺忌の思いと、戦っていた。僕は君を苦しめただけではないのかという思いと、そして『僕が、僕が今、君を殺そうとしているんだ』という思いと戦っていた。
 僕は君に何をして来たんだろう。僕は四年間、君と文通してきて、そうして今、君を死に至らしめようとしている。
 僕は君を苦しめただけなのではないだろうか。四年間も文通してきて僕は、君を心配させ続け、君に迷惑をかけ続け、そうして君は今、僕のために死のうとしている。僕が君に二ヶ月近くも手紙を出さなかったため、君は今、死のうとしている。
 でも、僕は電話をできたら、僕は君を喜ばせることができた。もしも、僕が電話で話すことができたなら、こんなに君を苦しませ悲しませることなんてなかったはずだった。僕はもしかすると、君を苦しめてきただけだったんだ。君を慰みものにして、僕は君をもて遊んできただけだったんだ。
 君と僕は桟橋の上で劇的な再会をして、僕らは抱きあって、今までの辛く寂しかった日々のことを温めよう。五月のまっ暗な桟橋の上で、僕らは五年ぶりに出会って。
 走りながら僕は思っていた。僕は本当に君を好きだったのだろうか、と。可哀想な君、車椅子の君、僕の思いは単なる同情だったのではないだろうか、と。僕は君には恋ではない、単なる性的なものではない、友情と同情の入り混じった、思いしか抱いていなっかったのではないか。いや、きっとそうだ。そうして僕は君を疎ましく思い始めていたのだ。もう僕は中学の頃のあの優しかった、一生懸命、一生懸命、創価学会の信仰をしていたあの頃の自分ではなくなっていた。きっと、そうだ。僕は堕落しかけていたんだ。エゴイストの僕。中二の頃の純粋だった僕はいったい何処に行ってしまったんだ。純粋だった僕、心の清らかだった僕は。
 僕はそうして走り疲れ、また激しい後悔の念によって道の脇のコンクリートの溝に足をとられそうになりました。でも僕は依然として一生懸命、走り続けました。
 純粋だった僕。あの頃の僕。そしてまだ幼かったゴロと君。潮風に吹かれた風が頬に懸かり、とても美しかったあの横顔。
『僕は中学生の頃から一生懸命に君の幸せを祈ってきたつもりだった。でも僕は最近、真実が何なのか解らなくなりかけてきていた。勤行も怠りがちになってきていた。僕はこの世の何もかもが馬鹿らしくも思えてきていたし、僕は心が狭い人間になりつつあった』
 僕は迷っていた。僕は君なんかと、足の悪い君なんかと付き合ってられるか、と思いつつあった。僕の心はそれほど荒み始めていた。
 僕は心の狭くなりつつあった自分、自分のことしか考えることのできなくなりつつあった自分を、叱咤するように走り続けた。僕は罪を走ることの苦しさで償おうとしていた。ひたすら走り抜くことで償おうとしていた。この冬の二月頃、また再発した気管支炎で胸がとても痛かった。
 僕は本当に何が真実なのか解らなくなりかけていた。自分を犠牲にすべき人生が正しいのか、それとも、他の人のように生きてゆくのが正しいのか、自分は一度は自分の幸せは全て棄て去る決心をした人間だった。でも、環境が楽になるにつれて、僕はその決意をいつか忘れ始めていた。僕は心の狭い人間になりつつあった。
 君の今にも桟橋から海の中へ音をたてて落ちてゆく様子が暗い闇の中に見えていた。僕の一人よがりのエゴイズムのために僕は君を傷つけ、むざむざと死に至らせつつあるのだった。
 僕の後悔の念は激しい身の苦痛と戦うことによってどうにか消されつつあった。
----僕は解った。人間は走るために生きているんだ。人間は走るために生きているんだ。走り抜くために生きているんだ。----
『カメ太郎さん、苦しい。苦しい』
 僕には波に揉まれて、今にも暗い海の底に沈んでゆこうとしている、君の苦しげな姿が、ありありと見えていました。
『星子さん。負けては駄目だ。星子さん、負けては駄目だ。死んではいけないんだ。僕が来るまで、僕が来るまで負けては駄目だ。死んでは駄目だ』
 僕は更に必死になって夜の闇の中を走り続けました。桟橋までもう少しの処でした。僕はあまりの苦しさにへこたれそうになりました。二年前、患った胸の病気が痛くて痛くて血が滲み出ているようでした。そして今にもその血が吹き出してきてしまいそうでした。僕は座り込もうとしました。
----君が海に飛び込んだ時、たくさんの海の精が泣き哀しんだような気がした。日が暮れて夜になった海の中で海の精は、死を選んだ君をとてもとても嘆き哀しんだと思う----
 君は卑怯な僕を愛してくれていた。喋れなくて君を避けてばかりいる僕を、君はそれでも愛してくれていた。
 僕は走りながら堕落しかけていた自分を反省していた。僕はもう昔の自分ではなくなりかけていた。あの中二の頃のような、とても信仰篤かった僕では今はもう違う。僕は堕落し、自分のことで精一杯の自分になっていた。
『ごめんね、星子さん』
 僕は走りながら、人格的に堕落し果て、自分のことしか考えない自分になっていたことを思って、頭をポコポコと拳骨で叩きながら走った。
 中三の頃から僕は次第に堕落しかけていた。僕はもう中二の頃の聖人のようだった僕ではない。僕はエゴイストになっていた。少しずつ少しずつ僕はエゴイストになっていた。
 僕の後悔の念は、数年に渡る信仰心の惰性と、それによる自らの人格の堕落と、そして君を幸せにできなかった、自分のエゴイズム故に君を避けてきた自分を、激しく叱咤しながら走っていた。
 僕は君と喋ることを極力避けてきた。それが僕のエゴイズムの為の故だなんて僕は今やっと気が付いた。僕はエゴイストだった。そしてこんなエゴイストと何年も文通してくれた君への感謝の念と。
 僕の涙は、----

 僕は君の苦しみよりも僕の苦しみの方がずっとずっと苦しいんだと思ってきた。君の苦しみは人に理解して貰えるけれど、僕の病気は人に理解して貰えなくて、だから僕の方が君よりもずっとずっと苦しいんだと思ってきた。
 君の方が僕よりも苦しかったなんて、僕は今、桟橋へ向かって走りながら始めて気づいている。君も手紙で苦しい苦しいと訴えてきたけれど、君の苦しさなんて僕のに比べたら何ともないと思ってきた馬鹿な僕だった。だから二ヶ月近くも君に手紙を出さなかったんだ、と思う。
 君は、そんなに苦しんでいることを、僕に告げなかったじゃないか。君の手紙はいつも夢に満ちていて、とても楽しそうだった。
 君の手紙はいつも夢に満ちていて。僕にロマンと希望を与えてくれていた。そんな君が死ぬなんて、自ら命を絶って死ぬなんて、僕には少しも想像できなかった。


   ----カメ太郎、走りながら----
 僕も生きることに疑問を感じてきていた。でも僕は死ななかった。君はでも今死のうとしている。君はあんまり深く考え過ぎたのだと思う。幸せもほかの処にあるということを君は忘れていたのだと思う。


『カメ太郎さん、もう走るの止めて。死んでしまうわ。カメ太郎さん、もう走るの止めて』
 朦朧とした意識で走っていた僕の耳に、何処からともなく君の声が聞えてきていた。目の前に、桟橋が見えていた。でもまだ遥か先だった。この大きな道を真っすぐに一直線に走ってゆけば桟橋だった。でも距離はまだ500m以上もあるようだった。
『カメ太郎さん。死んじゃうわよ。もうこれ以上走らないで。お願い』
 再び聞えてきたその声は何なのだろう。君がもう死んでしまって、その亡くなったという知らせなのだろうか。僕は朦朧としてきて倒れそうになりながら、その声を聞いた。
 君が白い蝶々になって、天国へと登ってゆく春の野山の景色が見えていた。このまえ遠足で行った唐八景みたいだった。君が唐八景の花の咲き乱れた春の野原を舞い登っていっているように思えた。僕は『ああ、もう星子さん死んでしまったんだ。僕は遅かったんだ』と思って力が抜けるようになって膝から激しく倒れ込んだ。

  倒れるとき僕は見た
  君が白い蝶々となって美しく舞い上がっていく様子を
  君はとてもいじらしく舞い上がっていっていた
  また倒れようとしている僕の姿を見て泣きながら
  君は誰かに手を引かれながら
  空へと舞い上がっていっていた
  五月の、まっ暗い夜の空のなかへ

 僕は夢を見た。僕が君の処まで走っていこうとすると君は逃げるのだった。僕が必死になってここまで走ってきたのに君は僕が近づくと僕をからかうように笑いながら逃げるのだった。もし僕がこんなに疲れていなかったら掴まえられるのに、君は、疲れ切って、もうあまり走れず、今にも倒れようとしながら走ってくる僕から、笑いながら安々と逃げていた。
『カメ太郎さん、ここよ。私、ここよ』
 星の瞬きにも似た君のその声は、黒い夜空に響き渡っていた。僕はどうしても君を掴まえきれないでいた。
 岡の上に、そして今度は神社の祠の前に、君は現われては消えていた。そうして僕はもう力尽きて立ち止まり、もう走るのを止めていた。
 立ち止まった僕は、君の幻想を見ていた。美しく波間に漂う君。まるで人魚のように岩から岩へと泳ぐ君。君は海の中で始めて自由を得て、人魚のように泳いでいる。君の動かないはずの両足が尾びれとなって君は人魚となっている。美しい君。まるで海の中に咲いた一輪の大きな花のようになった君。
----夢だった。気が付くと僕はまだ空地のなかの草の上に倒れていた。胸が息をする度毎に焼けるように痛かった。でも桟橋はもう見えていた。あと少しだった。僕はそうして再び走り始めた。
 小さい頃、僕らが出会ったときのことが思い出されていた。
 それらは走馬燈のように湧いては消え、湧いては消えていっていた。幼かった頃、本当に可愛かった君。車椅子の上の天使さまのようだった君。
 僕は走り続けていたけれど、今にも倒れそうだった。よろよろと、ゆっくりとしか走れなかった。
 桟橋の手前の生鮮料理の旅館の前で僕は吐きそうになってまた倒れてしまった。僕はそして旅館の裏庭で星を見ながら横たわってしまった。
 熱い液体が何処からともなく僕の口の中を満たし、口の端から流れ落ちた。胸から出てきた血だとはっきり解った。もう僕はこのまま死んでしまうのかもしれないな、と思った。僕はまた夢を見た。
----誰も知らない夜の道を僕は歩いているようだった。『何処なのだろう、ここは?』
 僕には訝しかった。前に君が歩いている。君、足が悪くて歩けなくて、だからいつも車椅子に乗っているのに、何故、君、歩けるのだろう。僕は不思議だった。
 それにここは何処なのだろう。僕はたしか旅館の中に入っていって倒れたはずだった。誰も居ない中庭に僕は倒れ込んだはずだった。おかしいなあ、と思っていた。それに君、何処へ行こうとしているんだろう。でも君は今、海の中に居るはずではないのだろうか。それとも君は飛び込むのを止めて近くの神社の森の中に。いや、そんなはずはない。
 赫い夕陽が静かに西の方の空に流れて行っている。君はその雲に乗って何処へ行くのだろうか。さっき見た、君が歩いてゆく幻影は、君が雲に乗って空へと消えてゆく姿だった。君はもう死んで、天国へともう旅立ったらしかった。もう君は死んだ、という僕への知らせのように思えた。


 僕は夢から覚め気がつくと旅館の塀の木の壁にもたれるようにして立ち上がった。一分も寝ていないはずだった。夢は半覚醒状態のまま走馬燈のように僕の頭に浮かんでは消え、また浮かんでは消えていた。
 胸の痛みはそのままだったし、息もまだ切れていた。僕は歩いた。もう歩くしかなかった。桟橋まではもうあと100mほどだった。僕は少し駆けた。でも胸が痛み、すぐに立ち止まった。そしてまた歩き始めた。やはり歩くしかなかった。
 空を見上げれば星が瞬いていた。僕はこんなに遅れてしまってもう君は完全に桟橋から身を投げているだろうな、と思い悲しかった。でも僕はこれ以上早く歩くことができなかった。僕は悲しくて星を見上げながら泣いていた。


 僕は悲しく目を潰った。『ごめんね、星子さん』
 僕の意識は薄れ出し道端の草の匂いをかぎながら眠りに就こうとしていた。でもこのとき僕の胸の中から何か不思議な力が湧いてきた。僕がちょうど中一の頃、ゴロと君と出会ったあのペロポネソスの浜辺の裏の林の中で横になって君の後ろ姿を見遣っていた光景が僕の目に不思議に湧いてきた。僕はいつの間にか立ち上がっていた。四年ほども前になるそのときの光景が暗い夜道を目の前にして蘇み返ってきていた。僕は再び駆け始めていた。やっぱり走るしかなかった。胸の痛みに耐えて走るより他に方法はなかった。
 ごめんね、星子さん。僕は暗い闇の中を再び泣きながら走っていた。ごめんね、星子さん。もうとても間に合わないようだった。激しい罪悪感が僕を襲っていた。


『私、駄目ね。私、駄目なのね。カメ太郎さん、喋ってくれなかった。カメ太郎さん、電話の向こうで迷惑そうにしてたみたい。私、やっぱり駄目ね』
 私はそうして桟橋へと近づいていっていました。ドングリ山商店の前の電話ボックスから桟橋まで緩やかな下り坂です。
『私、駄目ね。やっぱり駄目なのね』
 私、泣いていました。カメ太郎さん喋ってくれなかったわ。カメ太郎さん喋ってくれなかったわ。どうして、どうしてなの、カメ太郎さん。
 カメ太郎さんの意地悪。
 私、悲しくって桟橋に乗ったまま、まっ黒く佇んでいる海面を見つめていました。カメ太郎さんの意地悪。カメ太郎さんの意地悪。
 私は「チャッポンッ」と黒い海さんの口に飛び込みました。冷たい、冷たい、とても冷たいわ。
『カメ太郎さん。カメ太郎さぁ~ん』
 私、水の中でもがきました。『カメ太郎さぁ~ん。カメ太郎さぁ~ん』
 私、死にたくないわ。『カメ太郎さぁ~ん。カメ太郎さぁ~ん』
 私、必死でカメ太郎さんが助けに来てくれるのを祈っていたようでした。そして、なるべく水を飲まないようにと一生懸命、耐えました。
 なんだか、カメ太郎さんの「タッタッタッ」と駆けてくる音が聞えてくるみたい。カメ太郎さん、私を助けに今来てるのかな。でも本当にカメ太郎さんの足音が聞えてくるわ。カメ太郎さん、やっぱり私を助けようとしているのね。カメ太郎さん、すぐ近くに来ているみたいだわ。
 カメ太郎さんの駆けてくる激しい息づかいが聞えてくるわ。カメ太郎さん、とても苦しそう。カメ太郎さんの駆けてくる姿が見えてくるわ。カメ太郎さん、必死に走っている。
 私、チャプン、チャプンと水の面でもがきました。私、生きてなくっちゃ。カメ太郎さんの来るまで生きてなくっちゃ。
 私、水面を両手で叩いてたのよ。チャプン、チャプンと水しぶきが上がっていたのよ。
 私、カメ太郎さんが来るまで生きていて、そうして私を助けるために海に飛び込んできたカメ太郎さんに思いきって抱きついちゃうんだから。私、生きてなくっちゃ。


 (星子 水の中より)
 カメ太郎さん、来て、早く来て。
 私の口に海の水が一口、二口と入ってきています。
 カメ太郎さん早く、早く来て。
 私、死んじゃう。
 カメ太郎さん、早く。
 私、水の中でチャップンチャップンともがき続けました。私、狂ったように水面でもがき続けていました。カメ太郎さん早く来て、早く。
 カメ太郎さんのタタタッと走る音が聞えてきます。でもその足音は遠くてもう間に合わないみたい。
 カメ太郎さん、とても激しい息づかいで走ってきているけれど、
 カメ太郎さん、死にそうなほど一生懸命に走ってきているけれど、
 私、早く水の中に入りすぎたみたい。
 私、もう駄目みたい。
 カメ太郎さん、さようなら。
 今まで楽しい思い出たくさんありがとうございました。
 私、幸せに天国に旅立ってゆけます。たくさんたくさん思い出ありがとうございました。
 小さい頃からのいろいろな思い出ありがとうございます。
 水がまた一しずく一しずく私の鼻や口から入ってきています。
 苦しくって私、自然と泣いてきちゃった。
 カメ太郎さん、さようなら。
 私の涙が一しずく一しずく海のなかに溶けていっちゃってるみたい。
 私、あんまり苦しくって、本当はワンワン泣いてるの。
 でも水の中だから誰にも聞えずに大丈夫なの。
 すると天使さまが現われて、
 光る手の平を私の前に差し出して、
 私をそっと水面から救って下さいました。
 天使さま、ありがとう。
 天使さまはとても優しそうな微笑みを浮かべられて、
 私の手を取って下さいました。
 でも、でも、天使さま。私、カメ太郎さんが好きなの。カメ太郎さんに抱かれて死にたいの。
 カメ太郎さんの走るタッタッタッという音がもうすぐそこに聞えてきています。
 天使さま、ごめんなさい。私、カメ太郎さんに抱かれて死にたいの。

 私、再びチャプンッと水面に落とされて、ワンワンと泣きながらカメ太郎さんの来るのを待っちゃった。天使さま、ごめんなさい。私、地獄行ってもいいのです。でも最後にカメ太郎さんに抱かれたいから、天使さま、ごめんなさい。
 私、ワンワンと水の中で泣き続けました。


 君は幸せに死んでいこうとしているようだ。僕は一人残され、これからは夕方になるとゴロともう君の出ていることもない浜辺を散歩することになるのだろう。
 君は恵まれていたと思う。君は幸せだったと思う。
 浜辺に来ると落ち着かなくなるゴロ。僕の心もこの君と始めて会話をしたこの浜辺に来て揺れ動くのだろう。僕は中二の頃、君が幸せでありますようにと、毎日、朝晩、一生懸命祈っていた。声がかすれて出なくなるまで僕はそう祈っていた。でも僕は高校に入ってからはあまり祈らなくなった。君が遠くの存在のように思えてきたし、僕は忙しくてあまり祈る時間も心の余裕もなかった。僕は高校に入ってからはほとんど自分のことを祈っていたと思う。僕は高校に入ってからは自分の幸せのことで精一杯だった。



『カメ太郎さん、私、もう駄目。カメ太郎さん、私、もう駄目』
 私は薄れゆく意識の中でそう叫び続けました。私の体はだんだんとまっ暗い海の底へと沈んでゆきつつありました。
『星子さん、死んじゃ駄目だ。星子さん、死んでだけは』
 僕も薄れゆく意識のなか必死に歩き続けながらそう叫び続けていました。もう桟橋は見えていました。でも僕の足はすでに鉛のように重たくなりつつありました。僕は一歩進むのももう大変な努力が要るようになっていました。僕はもう疲れ果て力尽きていました。そして倒れました。
『カメ太郎さん。カメ太郎さん』
 僕には薄れゆく意識のなか必死に僕に助けを呼ぶ君の声をはっきりと聞き取っていました。僕は立ち上がると再び走り始めました。いや、よろけるように歩き始めただけでした。
 ずっと前、君の方が元気な時があったのに。それなのに君が今から死んでいくなんて信じられないな。僕には信じられないな。
 君はいつも元気だった。僕には信じられないほど君はいつもとても元気だった。


 君は海の中で叫んだ。『カメ太郎さん、助けて。カメ太郎さん、助けて』
----僕が血を吐きながら必死に走っているとき、君は青い藻に包まれて身動きができないでいた。君の口からはあぶくが立っていたと思う。君は両手を必死に動かして浮かび上がろうとしていたらしい。でも君の意識はだんだんと薄れていってなくなっていっていた。僕は血を吐きながら走っていた。君の居る桟橋へ桟橋へと僕は必死になって走っていた。血を吐きながら僕は、藻にからまれて海へと上がれない君の姿を思って涙にくれていた。

 僕だけの、僕だけの身なら良かった。でも僕は苦労して働いている父や母の姿を思い浮かべて立ち止まった。もう家まで戻ろうか、とも思った。僕は一瞬家への歩みを始めた。でも僕は思い留まって再び桟橋の方へと歩み始めた。
----家までゆっくりと歩いて帰って、ノホホンと父や母のために過ごそう、とも思った。でも僕の胸には君への愛が焼き付いていた。僕は再び桟橋の方へと走り始めた。でも、もう走ることができなかった。倒れるように歩くことで精一杯だった。


『星子さん』
 今にも倒れそうに歩いていた僕の傍に君が居て、君が僕に手を差し伸べているようにも思えました。でも現実は先ほど絶望の声を挙げて電話を切った君でした。十四年間生きてきて死んでいくのは駄目だよ、星子さん、生きなくちゃ。今まで生きてきたじゃないか。僕も今まで生きてきたんだ。一年の三学期、結局、僕はほとんど学校行かなかったけど(読まされるのが辛くて。現国の時間、読まされるのが辛くて)でも、今、僕は生きているだろ。現実に、僕はちゃんと生きているだろ。
 僕は進もうとしない自分の足を----僕の足はもう氷ついて前へ一歩も二歩も出られないでいました----恨めしく思いながらも、僕はやっと一歩、また一歩、と歩き始めていました。
 僕は正義のために歩いているのでした。君のためでも何でもありませんでした。僕は正義のため、歯を食い縛って歩いていました。もう君のためでもありませんでした。僕は正義のため、ただ正義のために力の限界を振り絞って歩いているのでした。
 今にも倒れそうでした。でも僕は正義のため歩き続けました。しかし僕は再び倒れました。
 苦しさに耐えきれず横たわった僕の目に流れ星が一つ明るく輝きながら流れたようでした。ああ、星子さん、死んだのだな、と思いました。桟橋まではあと50mほどでした。でも僕はもう立ち上がることができませんでした。泣きながらその流れ星を見つめるだけでした。
 死んでゆく君。そしてこれからも苦しみながらも生きてゆくであろう僕。息苦しさと胸の痛みに耐えかねて輾転反側しながら、そしてどちらが幸せだろうか、と考えていました。手紙の中で『車椅子の少年の方がずっと良かった』と何度も書いて君を困らせたこともありました。でも僕は体だけは健康に生まれてきて、やっぱり僕の方が幸福だったのかなあ、と思っていました。
 でも僕は立ち上がりました。人生とはやっぱり根性なんだと。根性で生きてゆくんだと。どんなに辛くても、血を吐いても、根性で生きていかなければいけないのだと。そして死んでゆく君はいけないんだと。死んでだけはいけないんだと。
 僕はよろめく足で歩き始めました。もう走ることはできませんでした。桟橋のバス停が夜の燈明に光って見えています。人一人居ないようでした。さっき君が掛けたと思われる電話ボックスの扉が風に揺られてカタカタと鳴っていました。
 死んでだけはいけないんだ。死ぬことだけは止めなくては。僕はきっと死んだら死後の世界があると信じているけど、みんなは死んだらすべてが終わりだと言っている。でも死んだら生きているときに苦しんで償わなければならない罪を放棄してしまうことになる。そうして家の人や親戚の人に償ってもらうことになってしまう。僕も何度も死んだ方が良いと思ったか解らない。でも僕は死ななかった。僕は死んだ方が良いような苦しみと小さい頃からいつもいつも毎日戦ってきた。でも死ななかったのは、そのとき僕はいつも仏壇の前に座っていたからだと思う。そうして題目を上げた。そして甘かった自分に、弱かった自分にその度に気付いていた。
 胸元は息を吸う度に焼けるほど痛かった。僕は歩いた。桟橋まであと少しだった。
 僕たちの愛は結局実らなかったのかもしれない。でも僕らは幸せな恋をしたのかもしれない。この世の誰よりも幸せな恋を。結局一度も手を繋いだことさえ、言葉を交わしたことさえなかったのかもしれないけれど、僕らは誰よりも幸福だったのかもしれない、誰よりも。
 ときどき、自分の生きている価値って何なのだろう、自分は何のために生きているのだろう、と思ってしまう。でも、ふっと僕はその考えを吹き消してしまう。そんなことって解らないんだ、と。そんなことどんなに考えたって解らないんだ、と。
 僕は沈みゆく君の姿を倒れ伏しながら悲しく見つめているようでした。
 力尽きて再び倒れ伏した僕はそうして再び立ち上がりかけました。僕はもう幽霊のようでした。桟橋はもう目の前でした。でも僕は立ち上がれただけでもう前へは進めないようでした。
 でも僕は一歩、また一歩と前へ進み始めました。胸の中には血が滲んでいるようでした。胸の痛みに耐えかねて再び倒れそうになるのを僕は君への愛の力でどうにか我慢し続けていました。もう限界でした。僕は血を吐き再び倒れ伏しました。
 君との楽しい文通やゴロと遊んだ君がよく来ていたペロポネソスの浜辺の情景が僕の目にありありと走馬燈のように映っては消え映っては消えていっていました。君は自分の病気に負け、こうして今、死んでゆこうとしている。僕も自分の病気に負け、こうして力尽きてしまった。
 黒い海の底へ沈んでいった君の姿を再び倒れ伏した僕は悲しく見送っているだけでした。
 君の苦しみはもう星になって消えていったのかもしれない。大きな大きなまっ黒い海の中に、君の苦しみは消えていったのだと僕は思う。
 何とかなる、と思ってきた。でも、何ともならなかった。僕の苦しみは続いた。学校での毎日の辛さはずっと続いた。
 学校での毎日の辛さは、三年間続いた。いつか治ると思ってきた。病院(耳鼻科)にも何軒か通った。クラブを休んだりして一日おきに通っていたときもあった。でも全然治らなかった。喉の病気も吃りも全然治らなかった。
 僕の病気が治って君と話せる日が来ることを僕は祈ってきた。でも君とは話せなかった。
 僕は立ち上がったとき、たしかに君の名を呼んだ。もう桟橋が見えているときに僕は血を吐いて倒れ、もう起き上がれないと思っていたとき、僕は不思議に君の名を叫べば君が助かるような、海面でもがいている君が岸辺に辿り着くような、また今にも海の中に飛び込もうとしている君を僕のこのかすれた声が聞えたならば君を海に飛び込ませないで済むような気がして僕は立ち上がって君の名を呼ぼうとした。
 血で溢れた僕の喉は小さな声しか出ず、桟橋に居る(またはもう冷たい海の中に居る)君の耳に届いたはずもなかった。
 君は凍えるような水の中で聞いていた。僕が走ってくる足音を。冷たい冷たい水の中に沈みながら君は僕が懸命に君を救うために桟橋へ向かっている足音をちゃんと聞いていた。それなのに君は一度浸った海の中から這い出せないでいた。必死に岸辺へと泳ごうとしながらもできずにいた。そうして君は苦しみの中で死んでしまったんだ。
 僕が立ち上がった時、草叢のなかから血を吐きながら立ち上がった時、君も海の中で苦しかったと思う。君より僕の方が苦しかったなんていうことは僕の思い上がりだった。君の方が僕よりずっとずっと苦しんでいた。
 青い海の向こうに、冬の海に揺れながら立っていて僕を見つめている君が見えてくる。孤独に耐えている僕を、僕を見つめている君の瞳が見えてくる。桟橋のバス停の灯りが見えてきたとき、もうそこには君の人影も誰もいる気配もなかった。たった一つの街灯は午後八時の闇を虚しく照らしているだけだった。君の姿はそこにはなかった。
 もう君は海の方へと向かったようだった。
 君は海の方へと向かい、海の中へと消えていったようだった。暗い暗い海の中へ、まだ冷たい五月の海の中へ。
 僕は走る力を喪い、歩こうとした。でもまだ君は海の中へは飛び込んではいないかもしれなかった。それに飛び込んでいても助け挙げられるような気がした。
 僕らの四年間は、いま僕が走っているこの闇のようだったのかもしれない。そして今のように苦しい四年間だったかもしれない。でも道端の所々に見える明かりのように、僕らの四年間は所々明るかった。たしかに所々明るかった。
 手紙の中の君はいつも楽しげだった。いつも夢を語っていて、落ち込みがちな僕に勇気を与えてくれていた。そんな君が自ら死を選ぶなんて僕には信じきれない。
 君はあまりにも自分を真剣に見つめ過ぎていたのだと思う。君はあまりにも真面目で、それに君は自分を真剣に見つめなければならないほど苦しんでいた。そして君は自分をあまりにも責め過ぎていたんだと思う。僕は再び倒れた。
『ごめんね、星子さん』
 僕はもう起き上がれなくなっていた。僕は道の横に倒れ伏したままだった。君との楽しかった文通の思い出の数々が思い出されてきていた。そして僕らが文通し合うきっかけとなった思い出のペロポネソスの浜辺のことなどが。
 辛かったけど楽しかった日々の思い出が走馬燈のように、もう立ち上がれなくて倒れ伏したままの僕の頭の中を駆け巡っていた。
 僕は自分の良心にもそして根性にも敗れ去っていた。僕の心は弱くて僕は裏切り者だった。涙が次々と頬に伝わり落ちていた。
 きっと君は今、水の中で僕よりも苦しい目を受けていると思いつつも僕はもう立ち上がれないようだった。でも僕は立ち上がった。もう桟橋は目の前だった。僕は君を死なせるわけにはどうしてもならなかった。
 僕は泣きながら歩いていた。桟橋が見えてきた。月の光が桟橋を照らしていた。君の車椅子がそうして微かに見えた。
 僕は何のために歩いているのか解らなかった。僕は一度は君を棄てた男だった。僕は愛でもなく、もう死にかけた君への償罪のために歩いているのだった。
 僕が桟橋に着いたとき、僕の頭は朦朧となっていた。たくさん血を吐いたためだろうと思っていた。桟橋のバス停の灯りも僕の目にはぼんやりとしか映らなかった。
 僕は桟橋に着くと陸と桟橋とを繋いでいる鉄の微かな傾斜を降りていった。桟橋には誰もいなかった。でも教室ぐらいの広さの桟橋の上には朧ろに君のものと思われる銀色に灯火に輝く車椅子があった。しかし車椅子には誰も乗ってなかった。僕は駆け寄って車椅子の前に膝まづいた。やっぱり車椅子の上には誰も乗ってなかった。
 僕は海の方を向いて叫んだ。小さな声しか出ない僕の喉がこのとき虎のようになって大きく君の名を呼んだと思う。
『星子さん』
 僕の声は闇の中に哀しく響き渡っていった。僕は涙を流しながら何回も君の名を呼んだ。
『星子さん』
 僕の声は夜の海の中に哀しげに吸い込まれてゆくだけだった。

  『カメ太郎さん、生きてね。私の分まで生きてね』
   君は黒い海から舞い上がりながらそう言っていた。
  『カメ太郎さん、生きてね。私の分まで生きてね』              



 桟橋には君が「白銀の」と自慢していた車椅子だけが寂しく闇の中にポツンッと置かれています。
 星子さん、何処に行ったのだろう。
 黒い海面はひっそりと佇んでいて何も見えなかった。月の光が反射しているだけだった。
 僕は悲しげに海面を見つめた。黒く澱んでいる港の海面を。
 君がボラのように海面を飛んでいないかなと思いました。君がボラになって楽しげに夜の海面を飛んでないかなと思いました。涙とともに僕は海面を見つめていました。
 何も見えません。海面は波音一つ立てていません。一瞬、何かが飛び上がったような気がしましたが、それは本当のボラでした。星子さんではありません。
 カモメらしい白い鳥が鳴きながら僕の視界を通り過ぎてゆきます。
 君は何処へ行ってしまったのだろう。
 星子さん、何処だい? 出ておいで。
 僕は空を見上げた。あっ、空に舞い上がったのかな。今ごろ君はウルトラマンのように空を飛んでいるのかな。
 空は暗く雲が微かに白っぽく見えて星が所々に遠い他国の家々の灯りのように見えます。消えていったんだな、星子さん。あの遠い他国の家々の灯りのなかに。明るい幸せな他国の家々のなかに。今ごろ暖炉にあたって遠い旅の自慢話をしているのじゃないのかな。遠い日本という国の西の果ての長崎の一漁村で儚く短い人生を送った自分の生涯をおもしろおかしく語り聞かせているのかな。そして僕のことも。僕のことも自慢げに話しているのだろうな。
 暖炉にあたりながら暖炉の火が橙色に揺れていて美しいのだろうな。コーヒーが出ていてケーキもある。



 やがて僕の目に沖にたゆたっている砂袋くらいの物体が見えました。今まで沈んでいたけど海底から浮き上がってきたのかな、と思いました。僕に会いたくて浮び上がってきたのだな、と思いました。頬を赤らめて浮び上がってきたのだな、星子さん。
 僕は始めそれが全く動いていなかったため砂袋と思いました。静かな港の海面に浮かんでいる人の背中くらいのものが月の光に反射されて見えていました。
 それは君の背中なのでしょうか。僕はコンクリートの桟橋から飛びました。僕の躰は頭から五月のまだ冷たい水の中めがけて落下し始めました。
 冷たい五月の夜の海の中を君の方へ向かって泳ぎつつあった僕は、『何故、僕らだけがこんなに苦しまなければならないんだ。何故、僕らだけが』と苦しい息の下で思っていました。
 僕らだけ何故こんなに苦しまなければならないのだろう。ほかの人たちは幸せに暮らしているのに何故、僕らだけこんなに苦しまなければならないのだろう。
 君の死の前の涙は、港の黒い水のなかに溶けていって、僕はその水のなかを泳ぎつつあるのかもしれない。君の悲しみの涙は冷たくて、だからこの海の中が冷たく感じられるのかもしれない。
 僕は黒い海の中を懸命に泳ぎつつあった。顔を上げ君の浮かんでいる方向を確かめながら僕は懸命に泳いだ。星子さん、僕が悪かった。僕が君から思われ続けたいという醜い欲望のために君と喋らず、喋ることによって必ず幻滅されることを知っていたから僕は喋ることを極力避けてきたけれど、そうしたらこんな結末になってしまって。
 僕はたしかに桃子さんに性欲によって惹かれつつあった。しかし僕がどんなに桃子さんに心惹かれつつあったにせよ、やはり僕の心の片隅には君の面影が不動のものとして横たわり続けていた。君は僕にとって女神のような存在であり続けた。
 でもこの頃、僕の胸にどうしようもない衝動として湧きつつあった性欲という邪悪なものが僕を君から遠去からせつつあった。君が疎ましく僕には思えつつあったのは事実だ。悪魔の峻動が僕の躰のなかで胎動し始めていたんだ。

(第6章終わり)



 海の中は苦しく君までの距離がとても長く感じられた。水中で靴を脱ぎ少しでもよく進めるようにした。僕は泳ぎは得意なはずだった。しかし桟橋まで全速力で走ってきたためだろう。僕は自分が黒い冷たい海水の中に沈んでいこうとしているのを感じていた。まるで海の中から何者かが僕の足首を引っ張っているように。でも僕は必死に泳ぎ続けた。僕は泣くように海面を叩きつけながら必死に泳いだ。
 君の悲しみの涙は、黒い水の中に溶けていっていて、僕を冷たく覆っている。君の死の前の涙は悲しくて、一生懸命泳いでいる僕にも嗚咽を起こさせている。君の死の前の涙はとてもとても悲しくて。
 夜の海の中は寒かった。まるで僕らの今までの人生のように寒かった。とても寒くて、それにとても苦しくて、僕は沈みかけていた。走り続けて疲れ尽きて沈みかけていた。
 黒い水の中に沈みつつあった僕は、途中でふっと意識を取り戻すと、海面へと海面へと夢中で足を漕いだ。やがて海面へぽつりと浮かび出て、僕は夜空のお月さまに始めて気づいた。走ってくるとき全然気づかなかったのに、丸いお月さまが、ちょうど夜空のてっぺんに輝いていた。
 でも僕は黒い海中から浮きあがると僕の意識はふと現実の世界に呼び戻され僕は懸命に両手を水車のように動かし始めた。僕の両手は水車になっていた。そして僕は今、アメリカ開拓時代の蒸気船のように両手を水車のように回して黒い海面を泳ぎつつあった。僕は今世の新しい黒人奴隷のように自分を思った。
 水車は疲れていました。ここまで全力で走ってきて疲れ切っていました。水車はやがて回転を止めました。そしてブクブクと水車は黒い海中に沈み始めました。意識がだんだんと遠くなってきました。
 でも水車はハッと意識を取り戻すと、海面へ海面へと浮上し始めました。いっときの休息は終わり、黒い黒い海の壁を上昇し始めました。そして海面に浮かび出ました。
 すると黒い大きな波が僕を覆います。巨大な巨大な波で本当は海面は波一つ立ってないはずでした。でも僕の躰は再び沈みかけ君まで辿り着くのに嵐の中の荒波を乗り越えなければならないようです。僕はこのまま再び黒い波の中に呑み込まれてしまいそうでした。
 でも僕は再び海面に出ると両手を水車のように回し始めました。一度、回転を止め沈みかけた僕は、再び動き始めました。
 君までの距離は遠く、僕の周囲に巻き起こる荒波は僕が造っていました。僕が水車のように両手を動かすその波動が僕の周りに荒波を造っていました。


 海の中で、疲れ果てて沈んでゆきながら僕は、『なぜ、僕らだけこんなに苦しまなければならないのだろう。世の中のみんなは、幸せに暮らしているのに、なぜ僕らだけ、身体に障害を持った僕らだけ、苦しまなければならないのだろう』と思って震えていた。『なぜ、僕らだけ、苦しまなければならないのだろう』と思って僕の胸の中は悔しさに煮えくり返ろうとしているようだった。
 僕の胸の中が、お腹の処から湧き上ってくる感情の昂ぶりみたいなものに、浸されてゆく。お腹に感情の昂ぶりみたいなものが感じられる。何なのだろう、これは。僕はそう思って、海の中で躰を硬直させながら震えていた。そして僕は再び思いっきり海面へと出て君の方へ向かって泳ぎ始めた。
 泳ぎながら僕の脳裏には小さい頃からのいろいろな出来事が走馬燈のように思い出されてきていた。それは星子さんとの思い出が多かった。
 小さい頃の星子さんとの出会い。そして口もほとんどきかず僕が中一の春の頃まで過ぎた日々。辛かった小学校時代、あの空白の日々。
 今は取り壊された懐かしい木造校舎。そこで僕は小学一年、二年と過ごした。小学一年の三学期から始まった僕の鼻の病気。
 苦しかった、本当に苦しかったあの頃。そして鼻の病気のことで悩みながらも比較的幸せだった小学三年、小学四年の頃。僕が小学四年の途中から僕たちの日見小学校に転入になった近所の二つ年下の君。車椅子で、でもいつも微笑みを浮かべていた君。僕には幸せそうに見えた。体は元気でも鼻の病気でこんなに苦しんでいる僕よりもずっと幸福そうに見えた。
 君は幸せそうに見えた。僕よりも車椅子の上の君の方が何倍も幸せそうに見えた。
 そして僕は再び力尽きたようになって海面に浮かんでいた。本当に何故自分たちだけこんなに苦しまなければならないのだろうと思いながらも僕は水の上で苦しんでいた。
 僕は力尽きかけていた。でも僕は今度は海の中に沈むことなく再び星子さんの方へと必死に泳ぎ始めた。しかし僕の体力は尽きていた。蒸気機関車は再び泳ぐのを止めた。
 僕は妥協しかけていた。自分の心に。水の中に沈んでゆきながら僕は自分の心に妥協して、そうしてもう疲れ切っていて、泳ぐのを止めていた。まっ暗な水の中に沈んでいきながら意識が薄れてゆくのを僕は感じていた。
 でも僕は水の中に沈んでゆきながらも君の幸せを祈っていた。君はたぶんもう死んでいるんだろうけど、でもそれだから僕は泳ぐのを止め、海の中へ沈んでいっている。君と一緒に死んでいこうと思っているのかもしれない。少なくとももう君は助けられないから僕は泳ぐのを止めているんだと思う。
 僕らはそうして結局結ばれないまま死んでゆこうとしているようだ。海の中では喋らなくてもいいから僕はせめて君と一緒に死にたかった。でも僕は疲れ果てていた。それに暗くて君が何処なのか解らなかった。
 もしも明るかったら、僕はまっすぐに君の処へ辿り着いていたと思う。でもまっ暗だから僕は君が何処なのかよく解らなかった。


 一度、水の中に沈みかけた僕は再び蘇り、海面を必死に君の方へ向かって泳ぎ始めた。ゴメンね、星子さん。僕は激しい罪悪感に責め苛まれていた。君を救おう、間に合わないかもしれないけど今の身の苦しさに耐えて泳ぎ続けよう、と僕は再び思っていた。
 僕は罪悪感の故に泳いでいた。可哀想な君の好意を避け続けてきた(それはすべて自分の利己心のためでした)罪の償いのため僕は海面を叩きつけるようにして肺が破れるような苦しさとともに泳いでいた。
 僕の目からは涙が流れていた。死の苦しみとはこういうものをいうのだろうと思ってきていた。罪滅ぼしなんだ。そうだ。罪滅ぼしなんだ。
 僕は身じろぎもせず浮かんでいる君のもとへ再び一生懸命、泳ぎ始めた。やっぱり僕はもう死んだのだと思うようにした。そしていつの間にか水泳大会のときのようにスムーズに泳ぎ始めた。黒い海水が滑らかに僕の体側を後方に流れてゆく。そして遂に僕は孤島のような君に辿り着いた。



 僕らの苦しみはもう終わったんだね。
----僕は君と抱き合いながら黒い水の中を沈んでいきながらそう思っていた。僕はそう思って安心していた。今までの苦しかった毎日の学校での生活がもうなくなることを思ってとても幸せな気持ちに陥っていた。
----僕ら、生きているとき、とても苦しんできたけど、僕ら、今ようやく苦しみから解放されるんだね。本当に苦しかったね。君よりも僕の方が何倍も何倍も苦しかったかもしれない。君はみんな理解してくれてたけど僕は理解されてなかった。だから授業中なんかとても苦しかった。
----僕らの生涯は本当にほかの人に比べて炎のような生涯だったかもしれない。毎日、炎のように辛い日々だった。
 僕は走りながら何度も倒れて、もう君を救いに行くのは止そう、もう間に合わない、と何度も何度も思った。僕はそのまま倒れていたら良かったのかもしれない。それとも傷ついた膝や肘を抱えて家へと帰っていたら良かったのかもしれない。
 そうしたら僕は少なくとも父や母や姉を悲しませずに済んだのかもしれない。でも----でもそうしてたら僕の苦しい毎日の学校生活は少しも変わっていなかったと思う。


 君には厳しかった十四年の生涯だったかもしれない。でも僕にも厳しかった十六年の生涯だった。僕は君よりも苦しんできたと思ってきた。そしてその考えは今も変わらない。君は弱かったんだ。贅沢だったんだ、と僕は今でも思っている。君は弱かったんだ。贅沢だったんだ。


 カメ太郎さん。今までの日々は何だったの。今までの私たちの毎日は何だったの。
(星子さんは悲しげにそう尋ねていた。でも僕には解らなかった。星子さんにどう答えていいか僕には解らなかった)
 僕らは、僕らは本当に今まで苦しんできたけれど、そうして苦しみ抜いたまま死んでゆくのかもしれないけれど、でも僕らにも楽しい時もあったし、それに


 苦しかったからなの。苦しかったからなのよ、カメ太郎さん。私、苦しすぎたの。
----海の中に沈んでゆきながら目を潰った星子さんからそう言われたようだった。(苦しかったからなの。苦しかったからなのよ、カメ太郎さん)でもそれは僕も同じだった。君よりも僕の方がずっと苦しかったのだと以前も思ってきたし、僕は君が死んでいこうとしている今もそう思っている。



 星子さん、寂しかったろ。僕だよ。やっと僕が来たんだよ。遅れてごめんね。僕、やっと来たんだよ。遅れてごめんね。
『星子さん。星子さん』
 僕が呼びかけるのにちっとも反応してくれない星子さん。星子さん。やっぱり孤島になってもう死んぢゃってるのかな? 
『星子さん。星子さん』
 でも星子さん、ちっとも反応してくれません。 
『星子さん。星子さん』
 僕は拳を造り星子さんの胸を叩いた。 
『星子さん。星子さん』
 星子さんは今、魂が天界へ上昇していっているのかな? 
『星子さん。星子さん』
 僕はなおも星子さんの胸を叩き続けました。
 僕は孤島に辿り着いたばかりで息が苦しくて。それに星子さん、僕にしどけなくもたれ掛かってくるから、僕、息できなくて、苦しいんだよ。とてもとても息が苦しいんだよ。
 でも星子さん、全然動いてくれません。やっぱり星子さん、もう死んでしまっているのかな?
 僕はハッと『あっ、僕、星子さんに触れてる!』と気づき、びっくりしました。今まで気づかなかったのが不思議なくらい僕は星子さんに触れていたのでした。
 星子さん、おかしいな。なぜ僕が今こうやって君に触れているんだろうなって思って僕、不思議だな。僕、なぜ触れているのかな。
 僕は君の胸を引っ張り君を覚醒させようと必死だった。でも君からはさっき魂が抜け出ていったのを感じていたから、僕はやっぱり覚醒させるのを止めたのでした。つねったり、ひっぱったりしてごめんね、星子さん。
 僕は動かない小さな君を引っ張って桟橋へと戻り始めました。僕は息が苦しくて、本当なら君の首に左肘を回して、君の顎を上げてから戻らなければいけないことを解っているのに、僕は息が苦しくてそんな余裕なんてなくて、君の服の端を掴んで必死に平泳ぎをしていました。僕は息が苦しくて、気が遠くなってきていました。僕は息が苦しくって、このまま死んでいくような気がしていました。
 夜空に何かが輝いた。よく見ると星だった。僕の涙と君の涙でできたような大きな白い星だった。僕の思いは君には届かなかった。君はこうして寂しく死んで行き、今、僕の手の中にある。僕の思いは君には届かなかった。
 僕はブクブクと星子さんを抱きしめたまま海中を沈みつつあるらしかった。君は無言だった。黒い海の中に沈み込んでいこうとしている僕を見ても無言だった。僕はもう一息そしてもう一息と海水を飲み込んだ。
 僕が泳ぎ着いたとき、もう君の胸のなかに君は居なかった。僕は始めて抱く君の胸を思いっきり叩いたけど、もう君の胸のなかには君は居なかった。僕が泳ぎ着く前に、君はもう天国へ旅立っていったらしかった。僕が泳ぎ着いたとき、春の月が悲しみに沈む僕をそっと照らしていた。
 海の中で僕らは始めて一緒になり、僕らは抱き合いながら黒い海の底へと沈んでいった。ブクブクと僕の口から漏れ出ている空気の泡と君の柔らかな頬が僕と君の間にあった。
 僕らはお互い悲しい運命を持って生まれてきたけれど、そうして僕らはこうして幼くして死んでゆくのかもしれないけど、僕らは幸せだったのかもしれない。
 僕らはきっと幸せなんだ。こうしてお互い抱き合いながら死んでゆける僕らはきっとこの世の誰よりも幸せなんだ。
 僕らはあの世では一緒に暮らせるんだろう。もう文通だけでなくって、ちゃんとした恋人同士として付き合えるんだろう。



 僕らの苦しみはもう終わったんだね。
----僕は星子さんと抱き合いながら黒い水の中を沈んでいきながらそう思っていた。僕はそう思って安心していた。今までの苦しかった毎日の学校での生活がもうなくなることを思ってとても幸せな気持ちに陥っていた。
----僕ら、生きているとき、とても苦しんできたけど、僕ら、今ようやく苦しみから解放されるんだね。本当に苦しかったね。星子さんよりも僕の方が何倍も何倍も苦しかったかもしれない。星子さんはみんな理解してくれていたけど僕は理解されてなかった。だから授業中なんかとても苦しかった。
----僕らの生涯は本当にほかの人に比べて炎のような生涯だったかもしれない。毎日、炎のように辛い日々だった。
 僕は走りながら何度も倒れて、もう星子さんを救いに行くのはよそう、もう間に合わない、と何度も何度も思った。僕はそのまま倒れていたら良かったのかもしれない。それとも傷ついた膝や肘を抱えて家へと帰っていたら良かったのかもしれない。
 そうしたら僕は少なくとも父や母や姉を悲しませずに済んだのかもしれない。でも----でもそうしてたら僕の苦しい毎日の学校生活は少しも変わっていなかったと思う。



 僕は沈みかけていた。君を抱きながら僕はただ泣いていた。もう疲れ果てていた。君を連れて岸辺まで戻ってゆく力がもう僕にはなかった。
 僕らの苦しみはもう終わったんだね。
----僕は星子さんと抱き合いながら黒い水の中を沈んでいきながらそう思っていた。僕はそう思って安心していた。今までの苦しかった毎日の学校での生活がもう無くなることを思ってとても幸せな気持ちに陥っていた。
----僕ら、生きているとき、とても苦しんできたけど、僕ら今ようやく苦しみから解放されるんだね。本当に苦しかったね。星子さんよりも僕の方が何倍も何倍も苦しかったかもしれない。星子さんはみんな理解してくれていたけど僕は理解されてなかった。だから授業中なんかとても苦しかった。  
----僕らの生涯は本当に他の人に比べて炎のような生涯だったかもしれない。毎日、炎のように辛い日々だった。
 僕は走りながら何度も倒れて、もう星子さんを救いに行くのはよそう、もう間に合わない、と何度も何度も思った。僕はそのまま倒れていたら良かったのかもしれない。それとも傷ついた膝や肘を抱えて家へと帰っていたら良かったのかもしれない。
 そうしたら僕は少なくとも父や母や姉を悲しませずに済んだのかもしれない。でも----でもそうしてたら僕の苦しい毎日の学校生活は少しも変わっていなかったと思う。



 僕も君も一人っ子で親に苦労ばかり掛けてきた。そうしてこのまま死んでゆくことを思うと。
 砂浜が呼んでいる。砂浜が赤く燃えながら僕を呼んでいる。ペロポネソスのあの浜辺が僕を呼んでいる。
 君は早く岡に上げて人工呼吸をしたらまだ助かるかもしれなかった。もうあきらめて真っ暗な海の底に沈みかけていた僕は再び必死になって泳ぎ始めた。再び心の中で必死に題目を唱えていた。
 僕は生き返ったように一生懸命、岡へ向かって泳ぎ始めた。口の中に水を入れては吐いたりしながら必死になって泳いでいた。
 僕の親は僕の小さい頃から生活苦との戦いで僕のことをあまり構ってやれないほど忙しかった。毎日毎日仕事と借金に追われていて僕のことをあまり構ってくれなかった。でもそれだけ僕の親も苦労してきた。忙しい仕事の中、僕のことを懸命になって世話をしてきた。やはり僕も死ねなかった。
 君は小さい頃から足が悪くて君の両親は君に構いっきりだった。
 僕も君も死ねないのに、僕と君は今こうやって死にかけていた。悪魔の仕業のようにも僕には思えた。
 僕は一時あきらめて泳ぐのを止めていた自分をとても恥ずかしく思っていた。このまま君と一緒に死んでいこうと思った自分の弱い心をとても責めていた。僕は親のためにどうしてでも死ぬ訳にはいかなかった。
 薄れゆく意識は僕を、遠い昔へと連れていっていた。僕らが出会った四年前のペロポネソスの浜辺の光景や、夜遅く二時や三時ぐらいまで懸かって書いていた手紙のことを、僕は悲しく思い出していた。



(海の中で。僕が思う)
 君は人一倍頑張ってきた。それなのに今こうやって君が負けてゆくなんて、死んでゆくなんて、おかしいな。僕には解らないな。君は誰よりも負けずに明るく生きてきたのに。
 僕の差し伸べた手は、君の処には届かなかった。君はもう暗い海の底へと沈んでゆきつつあった。僕が走ってきたとき、もう遅かった。
 君は僕が来ないのを羨ましげに思ったのかもしれない。でも僕は、君の電話を貰ってから、自分の体力の許す限りに一生懸命、走った。僕はここまで一生懸命、走って来た。
 冷たい暗い海の中から君を救い出すのは僕には辛かった。僕は疲れ果てていた。また、もう息を止めている君を陸に上げて、そうして大声を挙げて(僕には大声が、人を呼ぶことのできる声が)助けに来てくれる人を呼ぶことができるか、僕は迷った。僕は君を抱きながらもう体力も気力も喪せていた。
 君の手は柔らか過ぎた。始めて握った女の子の手は、僕には柔らか過ぎた。
 君の手は僕から通り抜けて、再び黒い海の中へと落ちていった。僕は潜った。君を再び掴んだとき、もう四メートルほど潜っていたと思う。
 君を掴んでから、再び水面へ浮かび出るのが大変だった。君は疲れ果てていた僕には重たくて、君はとても重かった。
 海面へと君を連れて登りながら、僕は一瞬手を放した。ほんの何秒かの間だったと思うけど、僕には辛かったから。君を、重い君を手にして水面までへと行くのがあまりに辛く思えたから。だから僕は君への手を放した。
 僕にはこの苦しさが、今までの自分の(僕の)苦しかった人生のようにも思えて、僕は手を放した。四つの頃から中一の秋までの市場の二階での僕の人生。狭い六畳二間で僕たち一家四人は生活してきた。毎日辛かった。毎月、月末には金策に追われ、少なくとも僕が小学四年の頃までは、毎日辛かった。
 黒い海の中で君を抱いたとき僕の心の中は、何年も何年も君を理想化し、君を神聖なものと思ってきた僕の誤解が崩壊してゆく、まるで石造りの大きな建物が崩壊してゆくような感じに囚われていた。
 僕は君を抱いて沈みながら四年間続いた僕らの文通の思い出を一つずつ一つずつ思い出していた。君の綺麗な封筒、夜の二時や三時まで懸かって書いた手紙、バレンタインデーや誕生日の贈りもの。君の優しい言葉。
 君が僕の手を引いたと思ったとき、君は沈みかけていた。黒い海の底へ沈んでいこうとしていた。でもたしかに君は僕の手首を握り締めていた。たしかに僕の手を引いた。君が手を引っ張っている。暗い海のなかで、君が手を引っ張っている。



 僕らを覆っていた魔の勢力は強くて、僕も挫けがちになったことが幾度もあった。でも僕は信仰の力でその危機を幾度も乗り越えてきた。夜の一時二時まで祈っていた時が何度あっただろう。僕はそのために喉の病気になったのかもしれない。でも僕は少しも後悔していない。こうなったのは僕の宿業の故だと思うし、この喉の病気になったために君との純粋な恋を続けてこられたのだし少しも後悔していない。
 僕は中学の頃は君の幸せを毎日、一生懸命、御本尊様に祈ってきた。でも僕は高校に入ってからはクラブも勉強も忙しくて君のことをあまり祈らないようになってきた。そして高一の十二月頃から『僕のような病気で苦しんでいる人たちのために医者になるんだ』と思ってそれからひたすらに勉強するようになっていた。君との文通が煩わしく思えていたほどだった。
 僕は君のことを御本尊様の前であまり祈らないように変わっていった。僕は君のことよりも自分の成績が上昇することばかりを祈るようになっていった。
 その頃、僕はクラブも辞めたし、二年生になって一年の頃とても僕を苦しめた現国の先生から習わないようになったし、理系の大人しい静かなクラスになって、僕にひとときの幸福な季節が訪れたように思っていた矢先だった。


 僕が高校一年の終わり頃の厳しい日々を乗り越えてホッと一息ついていたときだった。僕に一生のうちで一番気楽な日々が訪れた矢先だった。
 大きな声を出さなければいけないクラブからも解放され、吃りのためあれだけ苦しめられてきた現国の一文読みの先生からも解放され、僕はそのころ幸せだった。勉強に励んでいたけど勉強はかえって僕には幸せだった。



 君はいつも優しかった。本当にいつも苦しんでいた僕を励ましてくれていた。
 いつも元気だった君。いつもくよくよしていた僕。そんな君が死んでしまうなんて僕には信じられない。あんなに明るかった君が、とてもとても明るかった君が。



(星子、水の中で)
 苦しかったの、私。やっと楽になれたの。苦しかったの。カメ太郎さんもいろんな障害を持った人は明日の来るのが辛いと思うけど、私、今やっと解放されたの。私、やっと自由になれたの。
 星子、自由になったの。これで苦しまないでいいようになったの。
 幸せになりたかったの。カメ太郎さん、解って下さい。死んだ方が楽だって、そう思って星子は死を選んだの。


 僕も苦しんできたのに、僕も苦しいときが何度も何度もあったのに、頑張り屋の星子さんが死ぬなんておかしいな、おかしいな、と僕はもう死んでしまった冷たい躰に抱きついたまま泣いていました。僕だって、僕だって毎日の学校生活は地獄のようだったのに、それなのに死ななかったのに、僕の方がもっと苦しんできたものとばかり思っていたのに。君の方が僕よりずっと楽なように思えていたのに。


 ブクブクと水の中に沈んでいきながら、僕は自分という存在を儚く見つめていた。小さい頃から苦しんできて、そうして今もこうやって苦しみながら死のうとしている。僕の人生は何だったのだろう、と近頃、僕は思い始めてきた処だった。
『ずっと苦しんできたのよ、カメ太郎さん。私、ずっと苦しんできたのよ』
 海の中に沈んでゆきながら君は心の中で僕にそう叫び続けていた。
『カメ太郎さん。私、ずっと苦しんできたのよ。カメ太郎さん。私、ずっと苦しんできたのよ』
 僕も海の中に沈んでいきながら何も答えられなかった。僕も苦しんできた。君だけでなくって僕もずっと(たぶん君よりも)苦しんできたことを僕は君に語りかけたかった。
『僕の方がもっと苦しんできたんだよ。僕の方がもっと苦しんできたんだよ』
 僕は海の中でこう君に語りかけるしかなかった。身じろぎもしなくなっている君にそう語りかけるしかなかった。
 冷たい海の中で君は囁いたようだった。
『カメ太郎さん。私たちが始めて結ばれたとき、私たちもうこうして死んでいこうとしているの。カメ太郎さん、寂しい』
『私たち、死んでゆくの。始めて抱き合ったとき、私たち、死んでゆくの』
 君はもう死んでいた。もう君の魂は天国へ旅立ちつつあった。僕が来るのが遅かったんだ。そうして君の飛び込むのが早過ぎたんだ。
 君は僕が懸命に走っていることを、君の鋭い勘で気づいていた。それなのに君は桟橋からすぐに身を投げた。もし、もう少し桟橋の上で、僕の来るのを待っていてくれたなら、君は死なずに、僕と、涙の中で抱き合っていたと思うのに。悪魔が君の周りを(もしかしたら僕の周りをも)暗躍していたんだ。悪魔が君を死なせたんだ。本当なら僕と君は桟橋の上で劇的な再会をしていたはずなんだ。
 僕はそう心のなかで言いながら、もう死んでしまったらしく動かない君をポコポコと水の中で叩いていました。
 君の魂は飛び上がりつつあった。僕が網場の桟橋に着いたとき、君の魂はもう網場の海の上を、お星さまになろうと、舞い上がりつつあった。
『寂しかったからなの。カメ太郎さん、さようなら。本当にありがとう。カメ太郎さん、さようなら。楽しい文通、本当にありがとう』
 君はそう言いながら五月の暗い冷たい海の中に呑み込まれていった。君は最後まで手を振っていた。小さな小さな不自由な手を、僕の方に、一生懸命に一生懸命に振っていた。
『カメ太郎さん、さようなら。カメ太郎さん、本当に、さようなら』
 君はそう言って暗い五月の海の中に消えていく。いつまでもいつまでも桜の花びらみたいに君の手が僕に振られている。
 僕は笑っていました。僕は君を抱いて君と一緒に黒い水の中に沈んでいっているのを薄れゆく意識の中で感じ取っていて笑っていました。ああ、これで僕も苦しい毎日から解放される。がんじがらめに縛りつけられたような苦悩に満ちた泥沼のような毎日から解放される、と喜んでいました。しかも、君と一緒に白い天国へ旅立てるなんて。星子さん、もう全然意識がないのか少しも動かなくて、もう死んでしまっているようだけど、僕は小さい頃からずっと好きだった星子さんを抱き締めながら死ねることに、とても幸福な思いを感じていた。
 僕は星子さんの肉体の重みを感じ取って幸せだった。僕は何もかも忘れていました。このとき僕は現実の塵埃に満ちた毎日の苦しみを忘れ果てて、何処か湖の岸辺を君と手を繋いで歩いているようでした。
 それは緑色の草や花や木々に囲まれた岸辺でした。いつか君は健康な足を持っていてピョンピョンと元気そうに跳ねていました。君の表情はとても幸せそうで岸辺を跳ね回っていました。



 僕らの苦しみはもう終わったんだね。
----僕は星子さんと抱き合いながら黒い水の中を沈んでいきながらそう思っていた。僕はそう思って安心していた。今までの苦しかった毎日の学校での生活がもう無くなることを思ってとても幸せな気持ちに陥っていた。
----僕ら、生きているとき、とても苦しんできたけど、僕ら、今ようやく苦しみから解放されるんだね。本当に苦しかったね。君よりも僕の方が何倍も何倍も苦しかったかもしれないよ。君はみんな理解してくれてたけど僕は理解されてなかった。だから授業中なんかとても苦しかった。
----僕らの生涯は本当にほかの人に比べて炎のような生涯だったかもしれない。毎日、炎のように辛い日々だった。
 僕は走りながら何度も倒れて、もう君を救いに行くのはよそう、もう間に合わない、と何度も何度も思った。僕はそのまま倒れていたら良かったのかもしれない。それとも傷ついた膝や肘を抱えて家へと帰っていたら良かったのかもしれない。
 そうしたら僕は少なくとも父や母や姉を悲しませずに済んだのかもしれない。でも----でもそうしてたら僕の苦しい毎日の学校生活は少しも変わっていなかったと思う。



 恵まれた者どうしは恵まれた者どうしで幸福な愛をしていたらいい。でも僕と君は、誰よりも幸せな恋をして、そうして君は死んでいった。僕らはとても幸福だった。



 君は岬に向こうに幸せな世界があると言ってたけど 
 僕は岬の向こうにもこの浜辺と変わらないような世界が広がっていることを知ってたけど
 僕は黙っていた
 君の夢を壊したくなかったし
 君を落胆させたくなかった

 岬の先には美しい魚がたくさん居て
 僕らを迎えてくれると君は言ってたけど
 でも本当は岬の先には30cmや40cmぐらいの大きなクロばかりいて
 君の想像しているような処ではないことを
 僕はずっと前に知っていたけど
 たしか中二の頃ぐらいから知っていたけど
 僕は黙っていた
 君の夢を壊したくなかったし
 君を落胆させたくなかった


 苦しみに満ちた年月だったかもしれない。でもそれは僕らにとって、僕らにとって罪を償うためのものだったんだ。それを君は放棄した。いや、僕も放棄しかけた。あの黒い海に自分一人で、そして最後は君と二人で沈んでゆくとき僕の心のなかは安堵感に包まれていた。明日から学校へ行かないでいいという安堵感に包まれていた。
 このまま海の中へ沈んでゆくことは本当に楽な気がした。もし僕が根性を出して君を岸辺まで連れていってたなら君にまた苦しい毎日を送らせることになったのかもしれない。でも僕はもう根性を出し尽くしている。今までこれほどまで根性を出したことがなかったぐらいに。

 君には自分さえ良ければいい、といった考えがあったんだ。君をここまで育て上げてきた君の両親のことを思うと君は死んではいけない。それなのに君は生きることを嫌った。明るく生きてゆくことも辛いと思うようになっていた。
 明るく楽しく生きてゆくように努力することも君は辛いと言い始めていた。明るく振る舞うことも君は辛いと言うようになっていた。君よりもっと辛い絶望的な境遇にある人だってたくさん居るのに君は贅沢にも死を選んだ。それが一番楽な方法だと思って。


(星子の机の中から出てきた手紙)
 カメ太郎さん、本当に四年間ありがとうございました。本当に四年間、楽しかったです。
 私はもう疲れきりました。寂しかったのかもしれません。私には本当の友達はいなかったし(カメ太郎さんだけでしたものね)カメ太郎さんだけが私の親のほかに私のことを本気で思ってくれてました。
 カメ太郎さん、本当にありがとうございました。いつもいつも長い丁寧な手紙ありがとうございました。カメ太郎さんの手紙とっても真心がこもっていて私一番始めの手紙からちゃんと全部大切にとっています。
 カメ太郎さん、ありがとう。私のような女の子のことを相手にしてくれてありがとう。カメ太郎さん、本当にありがとう。私、十四年生きてきて本当に満足です。ありがとう。
 カメ太郎さん、好きでした。とっても好きでした。カメ太郎さん有っての私の人生でした。カメ太郎さん、優しかったし、----カメ太郎さんが居なかったら私の人生はどんなにつまらないものになっていたでしょう。いつもいつも、崩れそうになる私を支えてくれたカメ太郎さんでした。私、カメ太郎さんが居たから崩れなかったわ。いつもいつも文通の中のカメ太郎さんの言葉に支えられてきた私でした。
 私は星になります。そうしてカメ太郎さんをずっと見守ってゆきます。小さな小さな星になって、カメ太郎さんをずっと見守ってゆきます。
 でも星って夜にならないと出られないの。お昼の間はずっと隠れていなければならないの。
 私、やっぱり、小鳥になります。小鳥になって、カメ太郎さんと窓越しに喋り続けるの。私、小鳥になります。
 それに小鳥になって、カメ太郎さんが勉強するのを励ますの。教室の外の木から歌を歌ってカメ太郎さんを励ますの。
 小鳥になって、カメ太郎さんに窓辺から歌を歌ってゆくの。図書館の外の木から歌を歌ってカメ太郎さんを励ますの。
 カメ太郎さん、頑張ってね。本当に頑張ってね。


(星子 最後の手紙)
 カメ太郎さん。愛してます。星子、死ぬ前に一度でもいいから、会いたかった。そして、せめて、少しでもいいから手をつなぎたかった。ここ半年ほど、全然会ってませんものね。寂しかった。カメ太郎さん。星子、とっても寂しかったのよ。寂しすぎたから死ぬのかもしれないのよ。会いたかった。会って、話をしたかった。でも、でも、こんなこと、もうできないのね。星子、もうすぐ、死んでゆくのだから。
 カメ太郎さん。立派なお医者さんになって下さい。星子、天国から応援します。きっと、カメ太郎さんの傍に居続けます。そしてカメ太郎さんを守りつづけます。
 星子の魂は海の中に溶けてゆくんですね。星子がいつも夕方見つめていたあの海の中に。心配しないで下さい。星子は幸せでした。今もとっても幸せです。死ぬのが勿体ないみたい。
 カメ太郎さん、ステキな恋人を見つけてね。星子よりずっとずっとステキな女の人を。そして幸せになって下さい。そして星子のことは『アー、あんな変わった女のコがいたな』ぐらいにしか思い出せないようになって下さい。
 では、さようなら。お元気で。さようなら。



            完

星子

星子

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-28

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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