愛子(長野より)

      愛子(長野より)

 愛子。出さないつもりの手紙だけれど書く。もう僕たちの手紙の交換がなくなってから何年が過ぎただろう。もう10年にもなるのかもしれない。
 僕は一人で長野に来ている。僕の病気はそのままで、今も昔と同じように苦しんでいる。でも治る道を僕は見つけかけている。
 僕は33になった。愛子はもちろんもう結婚したろう。愛子は僕より5つ年下でそして誕生日が4月3日だったかとても早かったから愛子はもう29になっている。
 僕はまだ結婚していない。病気でまだ苦しんでいるから結婚できない。仕事も長崎でできずこんな遠いところまで来た。ここしか就職口がなかった。
 たしか僕たちの文通が途切れたのが愛子が福岡へ就職して行って半年後ぐらいじゃなかったかな、と思う。僕は馬鹿だから無茶苦茶な手紙を書いた。常識知らずの僕だから僕は滅茶苦茶な手紙を書いた。
 もう遠い遠い過去のことになっている。愛子が福岡の空のなかに私の手紙は消えて行ったの、と書いていたのを思い出す。そうだ。僕が統一教会の姉ちゃんに魅かれ愛子への手紙を書かなくなったのだった。
 あれは僕が大学の4年目のことになると思う。僕たちが出会ったのが僕が大学二年目が終わり3年目にはいる前の春休みのことだった。柔道部の春の合宿の時だった。僕が夕方の練習が終わり家まで留年の通知が届いてないか自宅の郵便受けを覗きに行ってみんなより遅くなってしまって愛子たちと一緒に夕ご飯を食べたときだった。
 創価学会の組織にも長野ではまだ付いていない気がする。もう負けられないせっぱつまった今なのに自分は呑気すぎるのだろうか。パソコンばっかりしている。でもパソコンでゲームしているのではなくてパソコンの研究や医学の論文や手紙を書いたりしている。
 
 もう届かない手紙と知っていながら僕は寂しくて書いているのかもしれない。このゴールデンウイークも僕はたった独りで過ごした。長崎から遠く離れたこの長野で僕は独りで寂しく過ごした。
 一日が経った。もう明日からいつも通りの日々が始まる。来週が勝負だと思う。来週立派にやり通せば僕を見る目もかなりいいものとなるだろう。来週で僕の評価が、一応の評価が決まるのだと思う。
 独りっきりも今日で終わる。明日からは平常通りの日々が始まる。朝8時半に1分も遅れずに出社してそして夕方5時までの仕事が始まる。夕方5時までだから楽だ。
 
 愛子にはまだ知らせてないように思うけど、僕は今から3年9ヵ月ぐらい前に交通事故にあって脳挫傷で4日半意識を失った。2ヵ月入院していた。それ以来、人の名前とか覚え切れなくなっている。記憶力障害に自分は陥っている。そしてよく頭がポヤーッとする。
 僕は愛子に手紙を時々出していたと思う。でもすべて届かずに届出人不明のまま僕のところに2ヵ月ぐらいして戻ってきていたと思う。あれは僕が3度目の留年の時だった。僕が精神病院から出した手紙を愛子は僕が精神病院に入院していてそしてそこから出しているのだと思ったのだろう。実際は精神病院でアルバイトしながら書いた手紙だったのに。
 あれ以来だった。僕がいくら手紙を書いて出しても愛子からは何の返事も来なくなったのは。それ以来、愛子に出した手紙は届出人不明のまま戻ってくるようになった。
 
 この長野には野口五郎岳というものがある。3000mもする高い山だ。長野ではないけどこの北アルプスには高見岳というのもある。でも愛子山とか愛子岳なんていうのはないようだ。そして長野には川中島合戦場というのがちゃんとした地名になっていて川中島町@@というのがいくつもある。いや、よく地図を見ると川中島合戦場という町の名前はない。でも川中島@@や川中島@@@という地名はたくさんある。
 もう遠くなってしまった愛子。長野の僕のところに飛んできてくれないかな。渡り鳥では哀しいからジェット機のような愛子になって飛んできてくれないかな。 
 
 
 愛子と文通したりときどき合ったりしていたあの愛子が高校生だった頃、僕は小さい頃から続けていた創価学会の信仰を忘れていた。そして宗教なんてないんだ、迷信なんだ、と言ったりしていた。その頃の自分には宗教心が全くなかった。
 精神科の病院でアルバイトをしていた年の次の年に僕は7年半ぶりに創価学会に戻った。精神科の薬を貰い始めて3年が経っていた。
 その僕が7年半ぶりに創価学会に戻ったのは医学部最後の年にあたる病院実習が始まっていたときだった。自分はいじけ果てていた。そのことを教官からも注意されたりしていた。
 あの春休みの3月、僕は創価学会の学生部のところに電話をした。そしてそれから7カ 月、僕は再び少年時代を思い出したようにして信仰をした。
 しかし自分は10月頃行き詰まってまた退転した。それは病院実習が終わって卒業試験が始まろうとしているときだった。自分の病気が自分を苦しめ続けていた。そしてどうしようもなかった。
 自分はキリスト教の教会に通い始めた。そして洗礼を受ける直前に至った。しかし自分は創価学会の信仰を忘れてはいなかった。自分の病気故に“自分には創価学会の信仰が向かないのではないだろうか。創価学会の信仰が向かないものも10人に1人ぐらい居るのではないだろうか”と考えすぎていた。
 5ヶ月経って自分は再び創価学会に戻った。そのときは4度目の留年が始まっていた。再び落とした科目は病院実習をしなければならなかった。つまり患者さんと喋らなければならなかった。患者さんと喋るためには自分には創価学会の信仰が必要だった。
 しかしその年も7ヵ月後同じように退転した。前の年もそうだったが病院実習があっているときは自分は創価学会の信仰をする。しかし病院実習が終わり卒業試験に突入すると人間性なんかどうでもいいから退転し他の宗教に自分の病気を治す道を求めてしまう。
 そしてその年も自分は呪われたように1科目だけ引っかかり卒業延期になった。そして8月終りに行われたその1科目の試験のあと僕はバイクで事故ったのだった。4日半、夢の中をさまよい続け、夢から覚めたあとも1ヵ月はぼんやりとなっていて
 
(火曜日)
 愛子。今日は朝2時間題目をあげて行ったからとても元気だった。明日からずっと朝2時間の題目に挑戦しようと思っている。何事をするのも自信があってそして充実していた。もちろん院長と2人で長野県の医師会主催の講演会に行って始まって2分ぐらいしてからずっと寝ていて院長に恥をかかせたと思えて少し不安にもなっているけど。
 院長はその講演会の始まる前、時間があったのでいろいろ喋ったとき、僕に誰かお嫁さんを紹介すると言っていた。僕も相手が良かったら結婚しようと思っている。でも僕は創価学会の女子部の人と結婚するのがいいような気がする。だから迷っている。
 講演会の終わったあと新しいスポーツジムに行き、そこにはサンドバックもあった。そこのスポーツジムでいつものように限界近く運動した。そして今はとても疲れている。
 
(土曜日)
 僕は愛子と手を握ったこともたしかないと思う.僕たちはただ公園を歩いたり,バス停まで歩いたりしただけだった. 
 いろいろ喋った.喋ることはたくさんあるはずなのに僕たちは意外と無口だった.本当に喋ることはたくさんたくさんあるはずなのに僕たちは静かに公園を歩いたりバス停まで歩いたりした.
 
(日曜日)
 一人ぼっちの僕は今日午前中は布団の上でごろごろしていて本を読んだりしていた.そして昼ごろから勤行したりして元気が出てパソコンしたり3時ごろからスポーツプラザへ行ったりした。でもなぜか今日は自分にどうしようもない抑欝感がついてまわっている。
 長野の県立図書館にも見物に行った。いつも行くダイエーはやめてソゴウというダイエーの前にある大きなスーパーに行ったが電化製品などはなく僕の買いたいものはなかったので760円のコーヒーを4本買って駐ðヤ代にした。
 昨日、ダイエーでテレビとビデオデッキを買った。今夜F1が見られる。久しぶりにF1を見る。
 テレビは3万円した。20型のテレビだ。ビデオデッキは9、900円だった。モノラルのビデオデッキだ。昨夜ビデオデッキやテレビの調整をした。今日のこのどうしようもない憂鬱感はテレビは見るまいと心に硬く決めていたその決意を忘れたからかもしれない。
 
 遠い昔に僕らの間にはかない愛があったこと、愛子はまだ憶えているだろうか。僕はまだ憶えている。長野の独りぼっちの夕暮れに佇みながら、まだぼんやりと遠い過去のことを懐かしく懐かしく思い出している。
 
 悲しい過去の思い出も、愛子とのことを考えると、懐かしく懐かしく思い出されてくる。僕の少年時代は決して明るいものではなかった。暗く苦しいものだったと思う。でも愛子とのことを思い出すと何故か微笑んでしまうほど楽しい思い出のように思えてしまう。
 
(火曜日)
 もう夢の中に消えてしまった愛子.はかない手紙を僕は書いている.届かない手紙,長野の寒い空の中に消えて行く手紙,愛子は今どこに住んでいるのかなあ.福岡かなあ,それとも長崎に帰っているのかなあ.
 たぶん,愛子は福岡で結婚して今は福岡か何処かに住んでいるのだろう.もう子供も二人ぐらいいるのかもしれない.そして僕のことなんて忘れ去ってもう思い出せないようになっているのかもしれない.ああ,ずっと昔にそういう人が居たわ,としか思い出せないようになっているような気がする.
 
(水曜日)
 愛子.今日は疲れている.今日,学会の部長が僕の住む古いでも上等で鉄筋コンクリートで丈夫な僕の住んでいるところに来た。部長はここは男子部の拠点にしたいと言っていた。僕もそれで大喜びだ。何かで広宣流布の役にたちたいと思っていた僕はここにずっと住もうと思った。
 
(木曜日)
 悲しみに耐えろ。自分より不幸な人がいる。その人たちのために生きれ。屈辱に、屈辱に、耐え抜け。
 不幸な人を救うんだ。人から馬鹿にされる自分だけど、不幸な人を救ってゆくんだ。
(土曜日)
 愛子。また、孤独な2日間が始まっている。土曜、日曜とほとんど誰とも喋らないような気がする。でも僕は今一つの決意をしかけている。中学生の頃、中学2年の頃、その頃の自分に完全復活するんだ、と。
 中2の頃の自分に完全復活しないと、今の自分は挫けてしまう。あの頃の元気いっぱいでとても明るかった自分、すでに喉の病気に罹っていて苦しんでいたけど明るかった自分。とっても明るかった自分。創価学会の信仰に一生懸命だった自分。元気いっぱいだった自分。
 
(夕方)
 愛子。もう夕方になった。僕には今の仕事を首にならないかという心配や悩みがたくさんある。
 精神科医のくせに精神安定剤を多量すぎるほど飲んでいること、飲まなければ喋れないし対人緊張が緩くならない。喋り方を治したり対人緊張を緩くするため、自分はいろんなことをしてきたし、今もいろんなことをしている。
 自分の病気が治らない。どうしても治らない。
 テンプレート療法で治そうとさっきテンプレートをはめたままスポーツプラザで一時間近くサンドバックを打ってきた。もう一カ月近く続けている。でも僕の病気は一進一退でなかなか良くならない。
 
5月24日(水曜日)
 愛子。長野も暑い。仕事は今のところうまくいっているようだ。でもやはり心配だ。でも題目をたくさんあげて成功していこう、うまくやっていこうと思っている。
 1日2時間は最低でもあげなければならないし、あげるべきだし、実際1日2時間の題目を続けていると思う。でも本当は一日3時間を目指すべきなのにと反省している。
 学会活動をあんまりやってない。その代わりに題目をたくさんあげなければいけないのに。もう自分には敗北は許されない、またこの病院でならなんとか医者としてやってゆけると思う。
 ほんとにこの手紙、愛子に出すべきかと悩んでいる。どうしようかと思っている。
 
5月26日(金曜日)
 愛子。僕は今、酒を飲んでいる。長野に来て始めての酒だ。自分一人で自分の部屋で飲んでいる。寂しいお化け屋敷みたいなこの家で自分一人で飲んでいる。耐えきれなかった。ワインが目の前にあって遂飲もうという気になってしまった。
 何カ月ぶりだろう。いや、長崎にいるときは晩酌でよく飲んでいたから1カ月ぶりぐらいだと思う。長崎から来てちょうど1カ月が経とうとしている。まだ1カ月経っていないような気がする。
 今、5月の26日だからたしか自分が長崎を飛び出してきたのが4月の24日ぐらいではなかったかと思う。1カ月ぐらい、毎日パンばかり食べてきたけど、今夜遂に紐が切れたような気がする。
 
5月27日(土曜日)
 愛子。僕は今も苦しんでいる。愛子とのときの苦しみが今も続いている。僕の病気はまだ治ってない。全然治ってない。ただ薬を飲んでその場しのぎをかろうじてやっているだけだ。それもその場しのぎにはなってなく、僕は周りの人からおかしいと思われているし、自分自身も苦しくてたまらない。
 星状神経節ブロックに少し望みを持ったり、テンプレート療法に賭けてたり、πーwaterに望みを持ったり、いろいろやっているけど、自分に一番あった治療法はテンプレート療法だと思う。そのため毎晩スポーツプラザでボクシングのサンドバックを叩き続けたりしている。いつも1時間ぐらいしている。佐賀にいた頃はもっとすごくて毎晩1時間半、フラフラになってアパートに帰ると勤行するのがやっとというぐらい毎晩サンドバック叩きなどスポーツプラザで走ったりなど運動していた。長野のスポーツプラザには走るところがなくてサンドバック叩きぐらいしかできない。
 
 愛子。僕はパンばかり食べて生きている。本当に毎日食パンと水だけしか少なくともアパートでは食べていない。でも病院で昼飯に食堂で食べているからなんとかなっているのかもしれない。今も食パンを口にくわえたり食べたりしながらこれを書いている。
 
愛子へ(6月8日)
 愛子。僕は4年近く前のバイクの事故で今日が何日であるのかがあんまり解らない。もしかしたら6月の9日かもしれない。何日も手紙を書かなかったけど僕は題目に挑戦していたし、(つまり信仰の惰性に気付いて題目だけでもたくさんあげようと思って)パンを食べてすぐ寝てしまうというのが続いてしまった。それに幽霊屋敷のようなところからちゃんとしたアパートへ引っ越してきてまだあんまり片付けてもいない。
 僕はこの前、びっくりしたけど、長野市は標高450mしかないことを知った。このこともう書いたかもしれない。でもこんな山奥に思えるところが標高450mだなんてびっくりした。
 ”長野沈没”とか、太平洋から大津波が来たら長野までやられてしまうんではないかと思って僕はちょっとびっくりしている。
 新しいアパートは2LDKというのかなあ、大きくて夫婦で住めるぐらい大きい。そして出窓があって僕はそこに一本50円で買った母の日のプレゼントの花をたくさん買ってきて飾っている。
 
6月15日(木曜)
 本当に僕は長野に来て始めてお酒を飲んでいる。この前は飲む寸前でワインの蓋を開けるのがなくて飲まなかった。でも今日は壁に物を吊すのに使うハンガーのソケットのようなのでうまく抜けて始めて長野に来てお酒を飲んでいる。長野に来てもう1カ月半は経っている。
 飲むための刺身も何もない。ただワインと食パンしか僕のアパートにはない。そして僕の部屋は何故か痒い。アパートの壁か絨毯か何かと僕の皮膚がアレルギー反応を起こしているようだ。
 ワインはアルコール分が14%で750ccある。つまみも何もないからもうこのへんで飲むのをやめようと思っている。
 長野に来てはいろいろなことが虚しくて愛子に手紙を書いたりすると長崎のことが思い出されてきてなんだか楽しくなる。
 もうワインを飲むのはやめようと思う。体じゅうが痒くて痒くてたまらない。
 
 本当に何もない。まだ長野に来て何もない。長崎に帰ろうかとこの頃思うようになってきた。そう思う余裕ができたのかもしれない。
 
6月19日(月曜)
 愛子。思い出のなかの愛子。僕は結婚するかもしれない。相手ðlはあまり好きではないと少なくとも現在はそう思っている。将来の出世のための策略的な結婚を僕はしようと考えている。長野で一番大きな個人病院の娘と結婚しようかと考えている。策略的なロマンも何もない疲れはてたような走り続けて疲れはてたような結婚だ。
 現在僕は、疲れはてている。毎日パンと水の生活からなのかもしれない。いやそれよりも4年前の交通事故の脳挫傷の後遺症で体がきつくてきつくてたまらないのだと思う。毎朝題目を2時間ぐらいあげている。勤行もしているから2時間20分は仏壇の前でお祈りをしている。そうでないといろいろなことが心配で心配でやりきれない。夕方5時半には仕事は終わるがそれからの憂鬱も僕は仏壇の前で題目を唱えたりまたは一人ダイエーまで買い物に行ったりして過ごしている。買い物がたくさんたくさん家に溜まっている。
 
 生きること、それを僕は再び長野に来て考え始めている。
 
7月22日(土曜日)
 愛子、愛子はまともな人間だった。でも僕は毎日を生きるのに精いっぱいの人間だ。障害がある。どうしてでも治らない病気がある。長崎から長野までやってきた。就職口が他になかったからだ。
 親も寂しいと思う。こんな親不孝な自分であることに罪悪感を感じてしまう。毎日パソコンに凝っている馬鹿な自分だ。創価学会の活動に凝ればいいのに僕はパソコンに凝っている。でもちょうどいいところでバランスをとってやってゆこうと、またそれが一番広布のためにもいいんではないかと思っている。でもやっぱり信仰の熱心さが今一つ足りないと反省している。これでは佐賀での失敗を繰り返すことになるような気がしてならない。
 信仰一筋になることだと思う。もう自分は33歳で、もうすぐ34歳だ。冗談はもう通じない。佐賀の時よりも今は信仰が惰性に陥っているような気がする。
 
7月23日(日曜)
 愛子。思い出の中の愛子。もう会わないと思うけど、何故か書いている。人恋しさに、長崎恋しさに、書いているのかもしれない。どうせ出さない。そして今、仕事に少し行き詰まってきている。信仰の甘さからだ。信仰が惰性に流されかけているからだ。信仰に頑張らなければ佐賀での失敗をまた繰り返してしまう。
 今、夜2時半なのに起きてきてこれをワープロで打っている。眠れない。 
 
         完

愛子(長野より)

愛子(長野より)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-28

Public Domain
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