桃子さん(12年)
桃子さん(12年)
カメ太郎
僕は桃子さんの肩を抱きながら遠い昔の長崎での出来事を思い出していた。悲しい思い出が多かった。
桃子さんについては本当に悲しい思い出ばかりだった。でも少年の頃の僕を支えてくれてたのは桃子さんの存在だった。夢の中での桃子さんの存在だった。
『もう十年以上も前のことになると思います。いや、もう二十年近く前のことになるかもしれません。少年時代、あの辛かった少年時代、僕を夢の中で支えてくれていた桃子さんの存在は。
悲しい少年時代でした。でも夢の中で僕は桃子さんと戯れました。桃子さんと春の野原を駆け巡ったり、真夏の海水浴場で遊んだりしました。すべてすべて僕の想像の中での出来事だったけど、僕は幸せでした。
少年時代、中一の秋まで僕たち一家は宿町の日見市場の2階に住んでいました。そしてその頃まで僕たちはすぐ近くに住んでいました。遠く佐賀に来て桃子さんと会うなんて。それもこのなかで会うなんて。
しかし僕は3月には長崎に帰ることが決まっています。4月から長崎の神経解剖学の大学院生になることになっています。僕は佐賀で1年半余り精神科医としてやってきましたが敗れ果て佐賀に居られなくなりました。そして僕は長崎に帰ることを決めました』
『僕は大学を卒業してからの1年間は脳外科で頑張ってて輝いていました。立ちながら眠っていました。座ったら必ず眠っていました。週末ぐらいしか家に帰れませんでした。でも僕は帰っていました。白衣のまま大学病院から抜け出して帰っていました。
またこんなこともありました。土曜日深夜、疲れ果てて家に帰り、お酒を飲んだりした後たくさん食べて眠ったのだと思います。朝と夕方を間違えてしまい、日曜日の夕方を日曜日の朝と勘違いしてしまい、6時40分頃、家を出ました。
クルマの混み方は朝とほぼ同じでした。でも大学病院に着いてからがおかしかった。いつもはみんな忙しそうにしている時間帯なのにみんなちょっと違う。あんまり忙しそうにしていない。そして朝なのに日が暮れてゆく。夕方だったのです。僕は一週間疲れ果て日曜日夕方まで眠っていたのです。
その輝いていた1年間のあと僕は馬鹿にも精神科に移りました。そのまま脳外科に居れば良かった。しかしきつかったし、僕には精神科の病気で苦しんでいる人を救うんだという信念がありました。学生の頃から持ち続けていたその信念を果たそうと僕はみんなからちやほやされる脳外を去り精神科に移りました。精神科ではゴキブリ扱いでした。誰でもできる楽な科だったし、収入も脳外の3倍近くあったし、そのためもあって人手は充分足りていました。
3カ月で僕は放出されました。でも僕には精神科への執念がありました。学生の頃の誓いを果たさなければなりませんでした。
そのため僕は佐賀医科大学の精神科に入局しました。小さい頃から住み慣れた長崎を去ることは辛いことでした。しかし長崎大学の精神科から放出されたからここに行くしかありませんでした。
しかし僕はここでも敗れ去りました。窓辺の人となり外来の一家4人の分裂病の主治医とだけなっていました。その外来の一家は以前からこの大学の精神科の――もしかしたら日本一の――大変なお荷物でした。毎日のように電話が大学まで懸かってきて長時間訴えを聞いてあげなければなりませんでした。その面倒な患者さんを僕は押し当てられました。その一家の面倒を見ることだけが僕に課せられた仕事でした。
しかし寂しい佐賀での生活においてその訴えの多い一家との付き合いは楽しかったです。僕の孤独がその一家との付き合いによって薄れてゆくことができました。その一家の家にガラガラ蛇を退治に行ったこともありました。でもそれは年老いたもう死期の近い大きな大きな青大将でした。
またその一家は様々な内科的疾患にも煩わせられましたが内科の人たちは救急でよく来るその分裂病の一家をよく知っていていつも適当にあしらったりしていました。あとで僕がそれが一家中に伝染したウイルス性の膵臓炎であることを突き止めたこともありました。
僕はその分裂病の一家しか受け持たせてもらえず、そして僕は佐賀医科大学の精神科の当直のアルバイトを全く貰えませんでした。そのため毎晩のように学会の部長のアパートに行っていました。
佐賀でテンプレート療法というものに出会い、僕の小さい頃からの自律神経失調症が始めて軽快してゆくのを経験しました。しかし僕の自律神経失調症はなかなか治りませんでした。それを嵌めて運動することが重要だと教えられていました。そのため腕立て伏せをしたりしました。それを嵌めて腕立て伏せを一日三千回行ったことも何回かありました。しかし腕立て伏せはあまり効果はありませんでした。走るのが一番効果があると言われていました。僕は9月頃から夜遅くそれを口に嵌めて走るのを始めました。一日1時間余り、気が遠くなりそうになるまで走ったことも何回かありました。それでもなかなか良くなりませんでした。そして12月の半ば頃からスポーツプラザというところへ通い始めました。大学の勤務が終わってからその帰りに毎日通いました。毎日1時間半ぐらい、くたくたになるまでテンプレートを嵌めて運動しました。ほとんど80mほどのコースを走ることとサンドバックを打つことのみをしていました。
くたくたになって帰るので学会活動からは自然と遠のいていきました。題目も朝、集中的にあげました。夜は勤行するだけで精一杯でした』
ウイスキーを飲みながら過ぎていった佐賀に来てからの1年半近くのことを思い出していた。桃子さんは他の人と喋っていた。12年前の繰り返しのようだった。
やがて桃子さんは商売柄か独りぼっちでいた僕のところに久しぶりに来た。大きな目で見つめるそのしぐさは12年前と変わっていなかった。
『12年前のことになると思います。僕が21の時ではなかったかと思います。僕が21になったばかりの12月24日のことでした。あなたと合コンで劇的に出会ったときから。
そして僕は4年近く前、バイクで事故って頭蓋骨骨折で4日半意識を喪い2カ月ぐらい僕たちが12年前に出会った丸山の傍の十善会病院に入院していたことを告白しなければなりません。4日半、僕は夢を見続けました。僕は三蔵法師のお供として中国南部やチベットを歩いていました。僕は前世は三蔵法師のお供だったのかもしれません。
そして意識を取り戻してからも僕は今日が何日か、また今日が何曜日か、また見舞いに来た人は何日前に来たのか、それさえあやふやな状態が少なくとも3週間は続きました。いや、もっと続いたと思います。退院してからも僕はよく頭がボーッとしたり道を間違えたり過去を忘れていたり、大変な毎日を送らなければなりませんでした。
事故以来、人の名前を覚えたりすることが非常に困難になりました。国家試験にはその事故までの知識で合格できたのと同じです。僕は大学に5年留年して11年いました』
『僕は長崎を追われて来ました。おまえは医者には向いていない、研究者になれ、と精神科の教授から言われて長崎大学の精神科を追い出されました。しかし僕の精神科に対する執念は強かったです。友を救う、そのために僕はどうしてでも精神科を続けなければなりませんでした。そして佐賀医科大学に来ました。九大の精神科は入局を希望しても断られそうで人手が足りなくて困っていると聞いていた佐賀医科大学の精神科に来ました。しかし僕はここでも臨床失格を言い渡されたのです。教授は僕に良くしてくれました。しかし他の人が冷たかった。教授は病気で仕事が余りされず、他の人たちが実権を握っていたのです。そして僕は長崎に帰る決心を決めた訳です』
『敗北して帰る、でも故郷である長崎に帰るのは嬉しいです。母が居ます、父が居ます。週末にはいつも帰ってはいたけど、やはり一人暮らしは、それも他の県での一人暮らしは寂しいものでした。僕は脳外をやめなかったら良かったのかもしれません。立ちながら眠っていました。3週間大学に泊まりっきりで帰らなかったときもありました。でも教授は僕を大事にしてくれました。“俺は口下手な奴が好きなんだ”と。でも口下手すぎたんです。口下手は駄目だということを精神科に来て厭というほど味合わされました』
『12年間はあっと言うまでした。幻のように過ぎた12年間。いや幻ではなかったのかもしれません。僕がこんなに頭を打って頭がボーッとしてしまうから幻のように思えるのかもしれません。思い出せません。12年の、そしてその前の、ずっと前の出来事も今の僕には幻としてしか思い出せません。
でも僕は中学の頃の君の姿や、ああ君の水着姿やテニス姿、今も僕の目にはありありと思い出すことができます。美しかった。とても美しかった。
今のように頭がぼんやりとなっていても君のあの頃の姿だけは思い出すことができます。昨日のことのように思い出すことができます』
――12年前の時のようだった。桃子さんはいつの間にか去っていっていた。そして他の男のところに行っていた。そしてその男に抱きつくようにしていた。
僕は側の他のホステスに話しかけた。
『人、人の人生とはこんなものなのでしょうか。幻のように過ぎてゆくのが人の人生なのでしょうか。悲しい過去も、そしてほんの少しの楽しい思い出も、幻なのでしょうか』
桃子さんはそうして薄暗闇の向こうでクスクスと笑っていた。変わってなかった。僕が大学2年目の時のタクシーの中での桃子さんと今ここでの桃子さんと変わっていなかった。僕の心も桃子さんの心も変わってなかった。ただ時だけが過ぎていた。12年の時だけが過ぎていた。
完
桃子さん(12年)