千年花

 君は、なぜ生きているのだろうか。

 君はコンクリートの瓦礫に埋もれかけ、そのわずかな隙間から顔をのぞかせている。
 空はもう長いこと薄汚れた靄に覆われていて、おひさまの光はほとんど地上に届かない。
 しかしそれでも、君は元が何色だったか分からなくなってしまった花弁を、必死に空へ向けている。
 ということは、君はまだ生きていて、なおも生きようとしているのか。
 君の周りにあるのは、倒れた建物の残骸と、ひび割れたアスファルトの上に点在する鉄くずの山。君の持つ葉や茎の色も、すっかり大気を覆う土気色の靄と同化してしまった。そして、あたりには動物どころか、草や木すら見当たらない。君を除いては。
 時折強い風が吹きつけて、君は飛ばされてしまいそうになる。風は塵を空中に巻き上げて、広がる靄を更に濃いものにする。
 しかし君は、汚れきった地面に深く生やした根を強張らせて、風の攻撃を辛うじてやり過ごした。風はそんな君をあざ笑うかのように、一度止んだと見せかけてまた力強く君に向かって吹きつけて来る。君は今度もなんとか地面にしがみついて、無情な風から自らの身を守る。
 やがて風は止み、底なしの静寂が辺りを覆った。
 突然薄暗い空からおぼろげに見えていたおひさまの姿が消えて、わずかな光さえない不気味な暗闇が垂れこめる。粉塵を多分に含んだ一筋の雫が花弁を濡らし、それは君から滑り落ちて乾ききった地面に沁み込んだ。すぐにもう一滴、またもう一滴と水滴が空から落ちてきて、それらは君にぶつかり、あるいは君を掠めて地面へと沁み込んでゆく。
 雨はしばらく降り続いて、一段と強くなった風が君に向かって来る。暴風雨の襲来に抗えず、君の花弁が一枚飛んで行ってしまった。
 それでもなお、君は地面にしっかりと留まっていようとする。自らの持てる力すべてで、荒ぶる自然に対して抵抗を続ける。
 なぜ君は生きようとするのか。
 放射能にまみれた暴風雨は辺りに点在する建物の残骸や鉄くずの山にも襲いかかり、すでに汚染されている廃墟をよりいっそう貶める。人や動物はとうに死に絶え、君以外の植物も姿が見えない。果てはこの地球さえ、生きているのかどうか分からない。汚れきった雨や風は、地球が生きていることの証になるのであろうか。
 なぜ君は、生きようとするのか。
 分からない。とうに死んでしまったこの土地で、今まさに死のうとしているこの地球で、なぜ君はそこまでして生き続けようとするのだろうか。
 激しい雨が当たり続ける中でも、君は花弁を空に向ける。それは花弁が下を向いてしまった時、君は自分が死んでしまうように思っているからのように見える。そしてまた一枚、君の花弁は薄暗い宙に舞った。
 君は、それでもまだ生きようとしているのだね。
 まさか君は、まだ、信じているのかい?

 君のことを知ったのは、あの雲ひとつない青空が広がった春の日だったよ。
 空の上から地上を見渡していると、ふと薄暗い縁の下で空に向けて萎れかけた花弁を向けている君の姿が見えたのだ。
 そして君を見つけたあの日、君はあの小さな男の子に見つけてもらった。
 男の子は近所に住む少女と一緒に家の庭を駆け回っていて、縁側に置いてあった大きな石につまずいて転んでしまった。
 男の子が泣き顔になりかけたまさにその時、男の子は視界のなかに君を認めたのだ。
 長いこと満足におひさまの光をもらえなかった君は、家の庭に咲いている他の花々に比べると元気がなく、きっと男の子の目にはみすぼらしく映ったはずだ。だが男の子は、すぐに家の中にいた女中を呼んで、園芸用の小さなこてを持ってこさせた。
 そして一緒に遊んでいた少女が見守る中、男の子は陽あたりの良い軒下の土を掘り、日陰に咲いていた君をそこに植えかえたのだ。
「ねえ、どうしてそんなことするの。花なんてどうせそのうち枯れちゃうんだよ」
 年上で少しだけませた少女がすましたようにそう言うと、男の子はこう言い返した。
「おかあさんがね、草も木も、花も大事にしなさい、って言ってたから」

 こうしておひさまの光を存分に受けられるようになった君は、みるみるうちに元気になった。萎れかけていた花弁は生気を取り戻し、茶がかっていた茎や葉はすぐに鮮やかな緑色になった。
 男の子は毎日君の様子を見ていて、日照りが続いた時には君に水をやっていたね。そして男の子はそのうち、君に自分のことを話すようになっていった。
 男の子の母親が去年亡くなったこと、でも厳しくて優しい父親と世話好きで自分を包み込んでくれるような女中がいるから寂しくはないこと、“せんそう”が始まって小学校で習うことが少しずつ変わってきてあまり面白くないこと……。
 それを聞き、君は何を思ったのだろう。
 分からない。ただ君は、一言も聞きもらすことなく、男の子の話を聞いていた。そして男の子が君に話しかけた時、君の花弁の黄色は決まって微かに色濃くなっていた。
 男の子はまた、近所に住む少女と家の庭でよく遊んでいたね。男の子は少女にも君と話すように勧めたが、ほんの少しだけ大人びていた少女は、そんなのくだらないよ、と男の子を一蹴した。男の子は一瞬すねた表情を少女に向けるが、またすぐに笑いだして少女と追いかけっこを始めた。
 夏になると祭りが行われて、御囃子の音が近所中の人々を陽気にさせた。男の子も例外ではなく、父親や女中と共に御囃子のする方向へと興奮しながら走って行った。夏はまた、君の姿をより魅力的なものにした。君は放射状に降り注ぐおひさまの光を全身で浴びて、葉の緑は深みを増した。茎はより太く、力強くなり、そして花弁は一枚一枚がより厚くなり、その色はおひさまの光を強く強く反射して、微かに透明にも見える黄色へと変身した。
 君と男の子が話をしていると、時折男の子の低い鼻が空気を吸い込むことがあった。その時君の匂いを一緒に吸い込んだ彼は、顔をくしゃくしゃにして笑い、君の花弁を優しく撫でた。君もまんざらでもない様子で、何か彼の目に見える反応を示したかったようだが、君には何もできなかったね。きっと君は、自分が人間でないことを恨んだだろう。だが男の子はおかまいなしに、ただただ幸せそうな笑顔を君に見せていた。
 君は、そんな男の子をたまらなく愛おしく思った。そうだろう?

 月日が過ぎて、時代は更に暗くなっていった。
 “せんそう”が本格的に始まった。君はよく近所から“万歳”の声を聞くようになったね。軍服姿で家の前の通りを歩いてゆく若い男と、それに小さな日の丸を振りながらついてゆく親族らしき一団を見ることも、二度や三度ではなくなっていたね。
 男の子が君に話す内容も、近所の若いお兄さんが何人も“せんそう”に行ったこと、“せんそう”の状況が有利に進んでいること、そして近所に住んでいたお兄さんが“せんし”してしまったけどそれは名誉なことなのだということなど、“せんそう”に関する話が多くなってきた。
 君は“せんし”がなぜ名誉なことなのかよく分からなかったし、男の子が“せんそう”のことを喜々として話すのはなぜなのかもよく分からなくなってきてしまっていたようだが、男の子の天真爛漫な笑顔を見ると、君は男の子が楽しいならばそれでいいと思うようになっていたようだね。それだけ君にとって、きっと男の子が笑っているのは嬉しいことだったのだろうし、君が美しく咲き続ける理由にもなったのだろう。
 でも、別れは突然やってきた。
 男の子の父親が、家を手放して農村部へと家族で移住することを決めたのだったね。
 男の子は君のことを連れて行きたがった。だが父親は男の子の思いを、犬や猫じゃあるまいし、と一笑に伏してしまった。
 別れの朝、女中に手を引かれて家を出てきた男の子の顔に君の大好きな笑顔はなかった。男の子は女中の手を振り解いて、君の前でいつもと同じようにしゃがみ込んで、君を見つめて唇を歪めた。元から大きな目をさらに見開いた男の子の目尻から、涙が溢れて落ちた。
 君は男の子の涙を葉に受けて、初めて見る男の子の泣き顔を、どうにかして笑い顔に戻してあげたいと思ったはずだ。しかし君は案の定何もすることができず、ただ男の子の方を向いているしかなかった。
 男の子は微かに震える手で君の生き生きとした黄色い花弁をなでた。男の子は口を僅かに開いて白い歯を君に見せ、涙の溢れ出る目を少し細めて見せた。泣き笑いの顔になった男の子は、すっと立ち上がって目元を拭った。
 そして、優しく君に笑いかけながら、君を見つめてこう言った。
「僕のこと、ここでいつまでも、待っていてね」

 君はそれからもその場所に咲き続けたね。冬になると一旦は萎れてしまったが、完全に枯れてしまうことはなかった。そして一度茶色くなった花弁の色はまた春になると目の覚めるような黄色に戻った。
 君の周りはにわかにざわめき始めた。男の子の住んでいた家は空き家になり、だだっ広い庭には人が集められるようになって、頻繁に竹槍や突棒を使った戦時訓練が行われた。男の子と一緒に遊んでいたあの少女も、母親と共に訓練へと参加していた。そして君のいる庭には大きな穴が掘られ、空襲に備えた防空壕が作られた。
 時には遥か遠くから破裂音が聞こえてくることもあった。君は遠くから聞こえる得体の知れない音に、何か底知れぬ恐怖を感じていたようだね。
 季節が巡って、君がまた枯れかけていたある日、突然けたたましくサイレンが鳴り響いたかと思うと、人々が慌ただしく君のいる家の周りを駆け回り始めた。
 それはすぐに終わったが、間もなく暗い空が騒がしくなり始め、すぐに空の上から夜闇よりも暗く大きな影が落ちてきた。
 爆弾だった。それは道を挟んで君のすぐ目の前にある家に直撃して、炸裂した。
 君は初めて火を見たね。それは君の目に、無慈悲で、巨大で、残酷な存在に映っただろう。すぐに家の中から、炎に包まれた人がよろめきながら現れ、家の前まで出てきてからその場に倒れこんでしまった。
 爆弾は雨となって空から降り注ぎ、辺りは人々の悲鳴で溢れた。何人か君の目の前に掘られた防空壕に逃げ込んで来る者も居たが、大半のものは逃げ遅れてしまって火だるまとなった。
 やがて炎は重なり合って大きな火球になり、それは君のいる家も巻き込んだ。火球はすぐに家を飲み込み、それを食べつくしてしまおうとした。
 炎は君の周りにあるものを焼き、崩れ落ちて来た家の瓦礫は君にも容赦なく襲いかかった。炎は君の目の前に迫り、熱を持った瓦礫は君を焦がしてしまいそうになった。
 その時君は、初めて根を強張らせてその苦痛に耐えたのだね。そして、その苦痛が彼方へと消え去ってしまうのをじっと待ったのだね。

 夜が明けて、辺りから物音が消えた。
 君は生きていた。花弁が二枚焦げてしまっただけで、根や葉や茎は奇跡的に無傷だった。
 君のいる家はもう形をほとんど残しておらず、広大な敷地に燃え残った柱や黒焦げになった古箪笥などが散乱していて、唯一ほとんど焼けなかった母屋の屋根だけが、それがかつて家であったことを物語っているにすぎなかった。
 もう君は自分が生きているのか死んでいるのかもよく分からなくなってしまっていたのだね。朝靄の中で君の目にぼんやりと映る変わり果てた日常の光景は、きっと君にとってひとつの悪い夢のようなものだっただろう。
 やがて一滴の雨粒が空から落ちて、君の葉を濡らした。その感触で、君は自分が確かに生きていることを噛みしめたようだね。
 不意に君の近くで物音がして、庭にあった防空壕から人が続々と這い出してきた。皆が口々にお互いの無事を喜び合う中から、微かにすすり泣いている音が聞こえた。
「お母さんが……お母さんが……」
 それはあの少女だった。少女は周りの人から抱き留められながら肩を小さく震わせていた。君はあの少しだけ大人びていた少女がそんな表情を見せたことなどなかったからさぞ驚いたことだろう。
「どうして……どうして……」
 小さくその言葉を繰り返していた少女は、周囲の大人たちに慰めの言葉をかけられながら君のいる庭を後にした。
 降り続いていた小雨が止んで、暗い雲に覆われた空の下からはまた音が無くなった。

 月日が過ぎて、“せんそう”が終わった。君の周囲には人が少しずつ戻り始めて、次第に人々の笑い声が君の耳にも入ってくるようになった。
 あの男の子が君の元に戻ってくることはなかった。男の子の家族も、“せんそう”が激しくなる前にこの町を出て行った人たちも戻って来ず、君の目の前の道を通り過ぎる人々は“せんそう”が始まる前のそれとはかなり違ったものになってしまっていた。
 何度も季節が巡り、むかし行われていた夏のお祭りがやっと戻ってきた頃、崩れかけた君のいる家が取り壊されて、新しく小ぢんまりとした家が建てられた。君は工事の時に根元から引き抜かれてしまいそうになってかなり焦っていたね。だけど君は難を逃れて新しく出来た家の軒下に陣取ることができた。燃えてしまった花弁もすっかり元通りになって、鮮やかな黄色の花弁はおひさまの光を存分に浴びられるようになったね。
 そしてすぐに、出来た家には一つの家族が住むようになった。家族がやってきた日、君はわが目を疑ったことだろう。あの少女が、大人になって夫と娘を連れて君の元へと戻ってきたのだから。
「またこの町で暮らせるんだね。お母さんも、一緒に」
 君の元にやってきた日、少女は天を向きながら夫にそう言うと、夫は穏やかに笑いかけて少女の肩を柔らかく抱いた。
 君はまた、毎日のようにすぐ近くで笑い声を聞くことができるようになった。少女の娘は優しい性格をしていて、軒下に君を見つけるとほとんど毎日水を与えてくれるようになった。少女は娘に対して、君には見せたことがなかった慈愛に充ち溢れた笑顔で接し、彼女の夫はそれをいつも温和な表情で見つめていた。
 そんな日々はすぐに終わってしまった。少女の娘が小学校へ入学すると、家から頻繁に口論する声が聞こえてくるようになった。君はあの笑顔をした少女や柔和な表情をした彼女の夫と、家の中から毎晩聞こえてくる泣き叫ぶ声や怒鳴り声がどうしても繋がらずに途方に暮れてしまっていたようだね。
 やがて少女の娘が君の前で滅多に笑顔を見せなくなった頃、少女は自ら命を絶った。
 最初にそれを発見した少女の夫は、家の中で変わり果てた姿になっていた少女を見て泣き叫んだ。その声は悲痛に歪んでいて、君はあれほど少女を責めていた彼女の夫がなぜ泣き叫んでいるのか分からなくなってしまったようだね。
 そして君は、あの焼きつくされた恐ろしい一日を生き延びた少女が、なぜ簡単に自ら死を選んだのか、理解ができなかったのだね。
 数日が経って、少女の夫は娘を連れて家を出ることになった。
「おかあさんはね、おほしさまになったんだよ」
 去り際、そう君に話しかけた少女の娘は、君の前で薄い唇を少しだけ緩ませた。そして彼女は、父親に手を引かれて去って行った。君はその背中を視線で追ったが、二人は家の入口をすぐ曲がったので、君の目の前から一瞬でいなくなってしまった。

 時代は目まぐるしく移り変わった。時の流れに沿って町並みもどんどん変わってゆき、木造建築の建物が減ってコンクリート造りの建物が増え始めた。
 君の目の前の道も綺麗に舗装されて、一方通行ながら車も走るようになった。君のいる家には何度か人が入ったり出たりを繰り返したが、長く住みつく人はおらず、しばらくすると誰も住まなくなってしまった。そして、あの少女の家族がいなくなって以来、君のことを気にかけてくれる人はとうとう居なくなってしまったね。
 あの男の子が君の元に戻らないまま、月日は止まることなく過ぎて行った。道を行きかう人々の話は慌ただしく変化してゆき、彼らの話の中では色々な人々が生まれ、学校に通い、働き、所帯を持ち、老いてゆき、病気になり、そして死んでいった。
 人々の営みは終わることを知らなかった。毎日誰かしらが君の目の前を通り過ぎてゆき、一日必ず一度はどこからか笑い声が聞こえてきた。君はそれが当たり前だと思っていて、いつまでもこんな日々が続くと思っていた。そしていつかまた、君のことを気にかけてくれる人が現れる、そんな風に思っていたようだね。
 そう、あの日が来るまでは。

 あの日君は、前日に雨が降ったおかげでいつもより少し花弁の黄色を上気させて、おひさまの方を向いていた。
 いつもと変わらずに君の目の前では人が行き交い、まれに車も通った。おひさまが西の空に傾きかけるまでは、“せんそう”が終わってから何度も繰り返された一日と同じ時間が過ぎていった。
 突然、遠くの方で地面が鳴ったのを、君は聞き逃さなかったね。通りを行き交っていた人々がざわついたのも束の間、君は薄く橙色に染まった空に突然閃光が走ったのを見た。瞬間、ゆっくりと何かの裂ける音が聞こえて、矢継ぎ早に強烈な爆風が君を襲った。
 しかし君は、爆風でどこからか飛ばされてきた瓦礫の下敷きになったことで吹き飛ばされてしまわずに済んだ。君の目の前は瓦礫によって見えなくなり、きっと君は辺りから聞こえる壮絶な叫び声に身を震わせていたことだろう。
 轟音と地鳴りは長く長く続いて、そのうちに人々の叫び声は聞こえなくなり、そして辺りからは物音ひとつしなくなった。やがて君は、静寂の中に雨の落ちる微かな音を聞いたね。それは君の上に被さった瓦礫の僅かな隙間から滴り落ちて、君の黄色い花弁を濡らした。真っ黒い一点の闇が、花弁の上に生まれた。
 黒い雨は君の周りの瓦礫や残骸、そして人々の死体を汚して、そのうちに空から落ちてこなくなった。君の周りには、微かに聞こえる寒々しい風の音だけが残った。
 三日、いや君にとってはたぶんそれ以上に感じられるであろう時間が経った。猛烈な風が吹いて、君の上に覆いかぶさっていた瓦礫は若干動き、君はまた空を見ることができるようになった。
 その時、君は何を思ったのだろう。
 君がその時見た空は、あの強烈な光が襲う前に見た一面雲ひとつない濃い水色のものではなくて、均質な厚い灰色の雲で覆われているものだった。おひさまはその輪郭だけをおぼろげに地面へと向けているだけだった。
 空気は淀んでいた。君の目の前を通る道は、空気が薄い靄に覆われているせいでよく見えなくなっていた。時間が経つごとにその靄はどんどん濃くなってゆき、おひさまの輪郭が空からなくなると、君の視界は暗闇に覆われた。
 不意に、闇の中から人影が姿を現した。ぼろぼろになった布切れを纏い、全身を真っ黒に汚して、右足を引きずっている男だった。男は小さな声で独り言を呟きながら、君の目の前までやってきた。
 男は君を見て、独り言をやめて目を丸くした。彼は君の元に歩み寄ってきて、君の姿をしげしげと見つめた。久しぶりに人からの視線を向けられて、君は少し動揺していたようだね。
 男は君の花弁に出来た一点の闇を見ると、舌打ちをして目をつむった。そして君の埋もれている瓦礫から少し離れたところで仰向けになって寝そべり、大声を張り上げた。
「死ぬんだな、俺も」
 声は空気を覆った靄のせいかあまり響かなかった。男は薄ら笑いを浮かべ、もう少し小さい声で続けた。
「俺何のために生きてたんだろ。どうしてこんな風になっちゃったんだろ」
 男の目尻から一筋、涙が流れた。程なくして、男は二度と声をあげなくなった。

 君はそれでも、信じ続けたのだろうか。周りから人の声が消え、草木もなくなり、地上から大量に舞い上がった塵のせいでおひさまがほとんど見えなくなってしまっても、まだ君は信じ続けたのだろうか。
 君は生きた。生き続けた。強烈な雨風から身を守り、薄暗くておひさまの姿もよく見えない空を向いて、永遠を想わせるほど永い時の間、底知れぬ孤独に耐えて、君は生き続けた。
 そして、千年の時が過ぎた。

 雨と風が止んだ。君は、空を向いている。
 死から抵抗し続けた君は、葉や茎を土気色にし、花弁を皺だらけにしている。それでもなお、君は死から逃れ続けて、千年の時を生きた。
 もう一度、聞こう。君はなぜ、そこまでして生き続けるのだ?
 不意に、空から一筋の薄ぼんやりとした白い光が降り注いだ。光は空気を覆った靄に反射してきらめき、君の像を曖昧なものにした。
 ――まだ、来ないんだね
 きらめく靄の中に映る君の像は、小さな女の子の姿をしていた。長い髪が、君の姿をことさら不鮮明なものにしている。
 薄暗い周囲の景色の中で、君の周りだけがうっすらと明るい。初めて聞いた君の声は震えていて、か細くて、消し飛んでしまいそうだった。
 君の声はしかし、はっきりと聞こえた。周囲を覆い尽くす靄を打ち破って、確かに聞こえた。
――いつ来るのかなあ
 君に、伝える時が来た。死を間近に感じ続け、それでも生きようともがき続けた君に、伝えなければならないときが来た。いつかは伝えなければならなかったことだ。今が、まさにその時だ。
……もう来ないのだ。彼はもう、いなくなってしまったのだ
 強い風が吹いた。鉄くずの山が崩れ、ビルの残骸が軋んだ。靄が風に煽られて光が乱反射し、君の像が揺れる。
――もう、会えないんだね
 風はさらに強くなって、白い光は弱々しくなっていった。君の姿は、暗くなった靄のせいで見えなくなってしまった。
……会えないのだ、もう
 ひときわ大きな突風が起こって、それは辺りの靄を吹き飛ばした。
 君は葉から上を失っていた。
 君の茎は根元から無残に千切れていて、あの黄色い花弁ごとどこかへ飛んで行ってしまったのだ。
 君は男の子がもう現れないことを知った瞬間、耐えることを、生き続けることを止めたのだね。根を強張らせて耐えることも、花弁を空に向け続けることもやめて、君は風に身を委ねたのだね。
 胴体を失った君の葉は、すぐに萎れてしまって、再び吹きつけた風によって消し飛んでしまった。
 やがて風が止み、僅かなおひさまの光が途絶えて、辺りは深い闇に沈んだ。
 永い、永い夜が、やってきたのだった。

千年花

僕の中で確固たるテーマはあるけど、問題は読んでくれる方がどう受け取るか、ということ。
なのであとがきとかは特になし。

千年花

ここでいつまでも、待っていてね――その言葉を信じて、その花は男の子を待ち続けた。 一つの花の一生を通じて描くSFファンタジー短編。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted