聖夜 一幕

聖夜 一幕

「聖夜」第一幕

 舗道を冷たい雨が叩いている。
傘から滴り落ちる雨粒越しに、街の橙色の灯りが滲むように店の格子柄のガラス窓にぼんやりと映っている。
すぐ目の前の駅に向かう大きなスクランブル交差点は青の点滅を繰り返し歩行者を促していたが、晶子は立ち止り歩めずにいた。
「─あの人だ」そう口の中で呟くと傘をあみだに傾け雨に濡れた窓ガラスの向こうにそっと目を凝らした。
白髪混じりの男は細いタバコをくゆらせていた。
少し色あせたエンジのニットのカーディガンにも何となく見覚えがあるような気がする。
掛けている眼鏡は以前より度を増している様にも見えた。
細面の頬はこけ頭髪も薄くなりかけてはいるがすぐにその面影に行き当たった。
不意に蘇る記憶とともにドキドキとせり上がってくるような胸の鼓動と芯が火照るような躰の感覚に自身がたじろいでいた。
窓ガラスについた雨雫が寒風に震えている。
どのくらいそうしていたのだろうか。気がつくと低いヒールの足元が冷たく凍えるようだった。
男は窓外に気を遣るはずもなくじっと手元の本に目を落としていた。
晶子はもう一度雨に濡れる店のウインドウに目を向けると今度は自分の顔を映して見つめた。
濃い目の化粧がかろうじて目尻の皺を隠しているように見える。
控えめに引いた紅いルージュの口元を確かめるように人差し指でなぞった後、軽いため息をついた。
もうじき五十路を迎えようとしている。重ねてきた歳月は隠しようがなかった。
晶子は考えあぐねたように小さく頭を振ると思い切るようにウインドウから目を背け、交差点に向かって歩き出した。
「帰っていいの─」半ばまで歩いた時不意にそんな声が問いかけてきた。
でも、会ってどうしようって言うの─。
わたしは一体、何を望んでるの─。
そうだ─。話なんてできなくてもいい。ただ確かめたい。あの人であることを確かめたい─。
そう自答すると同時に踵を返した。

「喫茶 茶咖」と書かれた黒塗りの吊り看板の下に立ち止まり古い真鍮の造りの大きめな把手に触れるまで少しだけ間がかかった。
ドアチャイムのカロンコロン、と乾いた鈴の音が何故かひどく懐かった。
心地の良い温かさの空気が店内を満たしている香ばしいコーヒーの芳醇な匂いとともに一瞬で冷え切った身体を包み込んだ。
低めのトーンでジャズのクリスマスナンバーが流れていた。
そういえば喫茶店のような何と言うか、日常から少し外れたゆとりのある空間を訪れるのは本当に久しぶりだった。
二十三歳の時妊娠し今の夫と結婚した。
夫は仕事場の上司で七つ年上だった。入社当時から何かと気遣ってくれその年の七月の誕生日に突然、好きだと告白して来た。何をするにも真っ直ぐな人だった。
晶子もそんな人柄には好感を抱き尊敬もしてはいたが恋愛の対象としては考えもしていなかった。何より十八の頃から交際している恋人がいた。その時は考えるまでもなくその場で丁寧に断った。彼は、
「─大丈夫。僕は待てるから」そう言って笑った。あまりにも屈託ない笑顔が何だか眩しく見えた。その瞬間、自分の内の感情が初めて彼に向かって揺らいだような気がしていた。

イヴの前日だがあいにくの氷雨もあってか店内は空いていた。
やはり真鍮と思われるしっかりした造りの傘立てに傘を置くと伏せ目がちに席を物色した。
窓際から少し離れた席に男は座っていた。
ドアチャイムの音にこちらへの気配を気にしていたのだがカウンター向きに腰掛けている男は別段振り向くこともなかった。
男の注意が本から逸れないようにさりげなく男の様子が窺える離れた斜向かいの席にそっと腰掛けた。
コーヒーを注文し淡いベージュのコートを脱ぐと晶子はほうっ、とまだ冷たい両の手の指に息をかけた。
店内の造作はログハウスの仕様になっていた。
老舗のようで所々がいい色合いに褪せた太い支柱の一本一本が年輪を感じさせる。カウンターの横に年代物と思われる大きなコントラバスが立てかけてあった。
入口に掛かっているレトロな振り子の大きな時計は午後七時を回っていた。
まだ、大丈夫─。夫の帰宅は早くても九時を過ぎる。
そっと男を窺い見た。
男は何本目かのタバコに火をつけるところだった。ライターではなく店のオリジナルマッチで火をつける。つけたあと吐き出した煙でマッチの火を消す。
数十年前、あの時から変わらない仕草だった。
晶子は少し笑った。キザっぽいところは変わらないのね。そう思うとなんだか可笑しかった。
男が眼鏡越しにこちらに視線を向けた気がして慌てて目を伏せた。

運ばれてきたコーヒーに口をつけた。何とも言えない深くふっくらした味わいに思わず目を閉じる。
「一口目はブラックで。─二口目は砂糖を入れてから、こう─」コーヒー好きだった男のこだわりだった。低くて響きのいい声が耳の奥に蘇る。
砂糖を混ぜカップに端から少しずつ、そっとミルクを入れると熱い褐色の液体に綺麗な白色がクルクルと渦を巻いた。
「─二つでいい?」そう言いながらシュガーポットから砂糖を入れてくれた。男性にしては華奢で細い指先だった。
─優しかった。いつも。細やかな心遣いのできる人だった。そう思い返しもう一度男を見た。
別れを切り出したのは男の方だった。些細なけんかが原因だった。
自分にとっては思いもかけない突然の、呆気ない別れ方だった。燃え盛っていた炎を唐突にかき消されてしまった。そんな思いだった。あんなに激しく燃えるような恋をしたことはなかった。
別れた後間もなく男は謝り、もう一度よりを戻したいと言ってきた。しかしそれは晶子の中で全てが冷え切ってしまった後だった。
 やはり冷たい雨の降る日だった。
男が駅の改札口で晶子の帰りを待ちぶせていた。あの日のことははっきりと覚えている。
駅から程ない喫茶店で二人は向かい合っていた。
店内には長渕剛の「順子」が流れていた。
「─ごめん。悪かったよ、本当に」冷めかけたコーヒーを挟んで男が言った。
晶子は俯いたまま自分の指先を見つめていた。
「─もう一度、やり直そう」男が懸命に言葉を重ねた。
長い間の後、
「─無理だよ。もう、私は」晶子はやっと言った。
「─別れるって言ったのはあなたじゃない」目を見てはっきりと続けたその言葉に男は返す言葉を探しあぐねている様子だった。
「もう、帰らなくちゃ─」そう言って立ち上がる素振りを見せた時、
「─言ったじゃないか。俺じゃなきゃ、ダメだって─」上目遣いで詰問するように男が言った。
「─その時は、そう思ったのよ」驚く程冷めた自分がそう言い放った。
長い沈黙が流れた。
「─待つから」半ば懇願するように男が言った。
「─いつまでも、待つよ。待ってるから」言い掛けた時、
「それはあなたの勝手でしょ─」被せるように突き放す言葉がまた不意をついて出た。
「─なんで、いつも言葉にするの?待ってるなんてあなたの勝手じゃない。どうしていつも自分の想いだけを、言葉を押しつけようとするの?─」晶子の中で何かが弾けた。堰を切ったように吐き出した凍りつくような冷たい自分の言葉に思わず泣きそうになった。
立ち上がるとそのまま振り返らずに店を出た。
傘をさしていることが幸いだった。
溢れ出る涙を隠しながら闇雲に冬の雑踏を歩いた。

 ─若かったわ。本当に─。甘酸っぱい、ちくりと胸を刺す記憶だ。
詰まるところ最後に突き放したのは自分の方だった。
別れてから三つ月も経たないうちに夫の子を身籠った。
後は本当に忙しい日々に追われた。甘く切ない青春の過去を振り返るゆとりなどなかった。
出産から子育て家事に追い立てられ、ひと年がめくるめく過ぎていった。
男の子と女の子二人の子を授かり長女が嫁ぎ二年前に長男が結婚、独立し家の中は夫婦二人切りになった。
夫は優しい人だった。仕事にも実直で何一つ不自由も不満もなかった。
けれど何かが抜け落ちている。
日々暮らしながらそんな気がしていた。
その思いは懸命で多忙だった日常にかき消されていたような気がする。

 長男が独立した後荷物の整理をした時だった。数枚の古い写真が出てきた。
少し黄ばんだプリントの中でまだ若い夫と見知らぬ女が頬を寄せ合い微笑んでいた。
何気ない夫の青春を垣間見、同時に彼の過去など殆ど知らないでいた事実に初めて気づいた。
そうだ─。家族になる前のあの人のことはよく知らない。
晶子は呆然と写真を見つめた。
どこからかすきま風が入り込み自分の心の中を通り抜けて行くのを感じた。

 そうだ─。恋ではなかった。大事な人で尊敬もしてる。けれども恋ではなかった。恋をしてはいなかった─。
香り高いコーヒーを啜りちらと男を見ながら晶子は自分の心に改めて気づいた。
わたしはまだ、この人に恋をしてる─。
昔別れたことを後悔はしていないけれど、まだ恋心を遺していた─。
愕然とする思いだった。
なぜか頬から耳たぶまでが熱くなるのを感じた。
思わず目を落としテーブルに置いた自分の手指を見つめた。
「─歳をとったわねえ、わたしたち。女は、手の甲に歳があらわれるんですって─」そう言い、深くため息をついた友人の言葉を思い返す。
毎日の生活の中でいつに間にか刻まれた無数の皺と荒れてしまった肌。
寂しいような虚しいような気持ちが急激に押し寄せ俄かにいたたまれなくなった。
その時、ふと視線を感じた。
目を上げると男が眼鏡を外しじっとこちらを見ていた。
喉から心臓が飛び出るほど驚いた。
どぎまぎと男の視線を逸らせずにいた。
─まさか。分かるわけないわ。何十年も経って肌もたるみわたしはこんなに歳をとってしまった。
あなたの知らないところで年を重ねた─。
置こうとしたカップがソーサーに触れ、カタカタと音を立てた。
男は本を閉じタバコを消すと立ち上がって小さく手を上げ、晶子をまっすぐ見たままはにかんだように少しだけ笑った。



以下、二幕へ

聖夜 一幕

聖夜 一幕

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-26

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