月がミチル

 真夜中に鳴る携帯電話の着信音ほど、心を揺さぶられるものはない。

「もう、私たち、無理かも……」アユミから届いたメールに私は、「大丈夫。彼を信じようよ。まだ、わからないじゃない」と、打ち返した。心配はしたのだけれど、でも、その時何かが私の中に宿ったんだ。急に降りてきて居すわられた感覚?ざわざわとしていて、ずっと溜まっているみたいな。あの時なのかな。私の心が支配されたのは。

◆一 アユミ
アユミとは三ヶ月前、今流行のソーシャル・ネットワーキング・サービス、SNSで知り合った。私と同じ二十八歳で、同じ血液型で、同じ小説が好きで、同じドラマを見ていた。まさに奇跡みたいな出会い。でも、同じコミュに入っていた訳だから、運命とまでは言えないのだけれど。
私達はすぐに仲良くなった。音楽、旅行、映画、写真、ファッション。共通の話題はあふれていた。そして、お決まりと言えばそれまでだけど、今付き合っている彼の話題に進む。恋バナというやつ?

「彼は、同じ歳で同じ職場なの」とアユミ。
「つきあって、どのくらい?」と私。
「もう、二年になるかな。ミチルは?」
「私はまだ二ヶ月」
「これからって感じだね」
「そう。まだこれから。アユミは結婚を意識してる?」
「うん。早く結婚したい。でも彼はどうなのかな?まだ若いし」
「そうね。男の二十八歳は若いわね。まだ結婚って歳じゃないかも」
「ミチルは結婚を意識しないの?」
「どうかな。それほどでもないかな。でも、彼の方がしてるのかも。もう四十五歳だし」
「四十五歳かあ。随分、年上だよね」
「うん。でも、良いものだよ。包容力あるし、経済力あるし、安心できる」
「そっかあ。でも」
「でも?何?」
「怒らない?」
「怒らないよ」
「あっちの方はどうなの?」
「あっちって?」
「あれ」
「あれ?」
「うん」
「変わらないわよ。若い人と。むしろ、良いんじゃないかな?」
「良いって?」
「濃くて、まったりとしていて」
「そうなんだ」
「うん。いつも、イッちゃう。深く」

会話は突然終わる。いつもの事。あまり気にしない。何らかの事情で、文字を打つことが出来なくなったのだろう。
私の名前、ミチル。本名は別にある。ネット上の架空の名前。潮が満ちるみたいで、満たされるみたいで、割と気に入っている。ミチル。
再びメールの着信音が鳴る。

「マサト君が来ない」マサト君というのは、アユミの彼の名前。
「今日来るって言ってたの?」
「うん」
「電話にも出ない?」
「うん」

アユミは、私と同じで一人暮らしだ。両親は健在。それが私と違うところ。私の父親は、私が五歳の時に亡くなった。母は今も生きている。息苦しいほど元気だ。これが逆だったら今の私はどうなっていたのだろうと、何度も思う。父が生きていて、母が死んでいたら、私は、私の人生は、今とは随分違ったものになっていたのかもしれない。

「何時に来るって?」
「十時には来るって」
携帯の時計を見る。約束の時間を二時間過ぎている。
「仕事で遅くなってるんじゃない?」
「違うと思う。今日は接待もないし、私よりも早く、会社を出たし」
「何処かに行くって、言ってなかったの?」
「一度、家に帰って、それから泊りに来るって」
「だったら、家に居るんじゃないかな?」
「あ、来た。またね」

会話はそこで終わった。アユミは二十八歳の割に子供だ。自分の事しか話さない。たまに質問されても、それは自分の話しの伏線だったりする。
SNSのトップ画面には、自分の画像を公開している。容姿は端麗で、胸が大きく、男が放っておかないタイプ。非の打ちどころがない。まるで芸能人のブログでも見ているようだ。きっと、学生の頃は、モテていたのだろう。何人かの男が彼女の事を密かに想っていたのかもしれない。あるいは、そのうちの何人かが、告白したのかもしれない。最近、親元を離れて、一人暮らしを始めた。それまではずっと、親に守られてきたのだ。
彼とのツーショットの写真は私の個人アドレスにメールで送られてきた。ネット上で出会って間もない、見ず知らずの私に。
今頃アユミは、彼との甘い夜を過ごしているのだろう。何かが彼のスケジュールを狂わせ、でも、アユミに会いに来た。一件落着なのだ。
私はパソコンの画面の中のアユミを見た。長い髪、色白の肌。大きな目。長いまつ毛。ふっくらとした唇。大きな胸に不釣り合いな細くて長い手足。そして身体。それは私にサバンナで一人たたずむ、小動物を思わせる。無防備で危うく、そのくせ挑発的だ。彼とのツーショットの画像を開いてみる。彼の手が、アユミの手に絡まっている。ごつごつとした手は、アユミの細くて白くて長い指を乱暴に扱っている。それなのにアユミの全てを許したような笑顔。彼の事が絶望的に好きなのだ。左手の薬指には銀色に光る指輪。でも、それはアユミ自身が買ったものだ。いつか、彼に買ってもらうんだと言っていた。そして、このまま順調に行けば、現実のものになるだろう。
再び、アユミの顔に目を戻す。画像を拡大してみる。黒い瞳に何かが映っている。アユミは何を見ているのだろう。安心しきって潤んだ瞳の先にはこの画像を撮るマサト君が居るのかもしれない。いや、きっと居るのだろう。さらに顔を拡大してみる。目じりに小さなしわを見つけた。少しずつ忍び寄る、老い。それは確実に私たちを取り込みつつある。二八歳。決して若くはない年齢だ。この気持ちは十代の頃には微塵もなかった。そして私の中にもアユミの中にも確実にあるのだ。

「おはよう。昨日はごめんね」アユミからのいつものメールが届く。
「仲直り、ちゃんと出来た?」
「うーん。微妙。何だか、彼、いつもと違う気がした」
「気のせいだよ」
「そうかな。いつもより疲れてた気がする」
「仕事が忙しいんじゃない?」
「そんなことない。だって、今は、暇なはずだし」
「男は、色々あるんだよ。きっと」
「そうかな。ホント、元気なかったんだ。すぐ寝ちゃうし」
「なんだ。しなかったんだ」
「してないよ」
「ホントに?」
「ホントだよ。誘っても、全然」
「ははは。朝から、ちょっとエロいね」
「ミチルのエッチ。じゃあ、行くね!」

まるで私たちは、恋人同士だ。いつも、一緒に居る感覚。手を伸ばせば、いつでもアユミを感じる事が出来る。アユミの生活が手に取るようにわかる。SNS上に書かれているアユミのプロフィールをもう一度見てみる。好きな音楽、感動した映画、今見ているドラマ。アルバムには最近行った温泉の写真が貼り付けてある。はじける笑顔。アユミは、誰に向けて笑いかけているのだろう?誰に見て欲しいのだろう?自分の情報を躊躇なく公開出来る幸せ。私が失くしたものだ。私は文字の羅列だけの殺風景な自分のページを見ながら、小さくため息をついてパソコンの電源を落とした。

◆二 鮎川さん
私は一日の始まりを、毎日スタバで過ごしている。朝、タンブラーをバックに入れ、開店したばかりの店内に入る。客もスタッフも僅かだ。顔見知りのスタッフ。でも必要以上の挨拶はしない。スターバックスカードで支払い、タンブラーにコーヒーを注いでもらう。そしてショーウインドウの一番端の、外からは目立たない場所に座る。外を見ると、急ぎ会社に向かう人の群れが見える。ショルダーバックを小脇に抱え、ハイヒールをアスファルトに突き刺しながら歩くOL。ヨレヨレのスーツを引きずるように歩いている若いサラリーマン。新調したばかりのスーツを着心地が悪そうに歩く中年の男。交差点で信号待ちをしている人たち。見知らぬ者同士が、一堂に横一列にたたずんでいる。その組合せは、天文学的数字のはずなのに、運命的だと感じている人は誰も居ない。そして信号が変わると一気に横断歩道になだれこむ。工場のような、いつもの風景。
かつては私も、この中の一人だった。そして、いつかはこの中から抜け出したいと思っていた。単調で、同じ時間に同じ場所に向かって歩き、同じことを繰り返す世界から、私を支配する全てのものから。そしてその機会は思いがけない所からやってきた。

事の始まりは間違いメールだった。仕事上の業務的な内容。でも切羽つまったもの。困るだろうと思って丁寧に教えてあげた。それからなんとなく個人的なメールを交わすようになって、価値観みたいなものが合って、何よりも彼が書く穏やかな文章が気に入って、気持ちが傾いてきて、温めあって、運命的なものを感じ始めて、どんどん加速していって、お互いの顔写真を交換して、そしてその直後に届いたメールがこれだった。
「僕の愛人になってくれませんか?」
正直、がっかりした。愛人?恋人ではなくて愛人?
「まだ、会ってもいないのに、いきなり愛人だなんて……」
「ごめんなさい。大変失礼しました。でも、僕、子供が出来ない身体なので……」
この馬鹿正直な男が、鮎川さんだった。四十五歳で独身。写真を見た時、とても四十五歳には見えなかった。とは言え二十八歳にも見えなかった。何処かで過ぎてしまったのだろう。若さという山を越えて、老いという坂道を歩き始めた。でも、何処で過ぎたのかは、わからない。

「どうして、子供が出来ないの?」聞いてはいけない事なのだろうけど、前に進むしかなかった。
「精子が少ないみたいなんだ。見合いして、結婚して、でも子供が出来なくて、調べてもらってわかったんだ。努力したけど結局は無理で、そしたら妻の実家から一方的に離婚させられた。だから、ちょっとは金を持ってる。でも、結婚は無理で、だから、恋人も無理で、恋人ってその先に結婚があるから恋人でしょ?だから……」
新説だと思った。結婚があるから恋人。独身同士の恋愛でも、結婚がないなら愛人。
「鮎川さんって、正直な方なんですね。ごめんなさい。変な事、聞いてしまって。嫌な思いをしたでしょ?」
「いや、良いんだ。それに、こんなことは最初に言っておかないと、後からだと言いにくくなるし」
「で、いつ会いましょうか?待ち合わせはわかりやすい場所がいいな。私、方向音痴だから」

初めてのデートは、鮎川さんの住んでいるマンションだった。海の近くのタワーマンション。隣の街の、誰でも知っている場所。
エントランスホールには、制服を着た受付嬢が二人いて、ガードマンが一人いた。天井は高く、大きなシャンデリアが床を照らしていた。壁は大理石で、所々にポップアートが飾られていた。エントランスホールに面してクリーニング店と美容室、コンビニまであった。そしてその奥にセキュリティーシステムがあり、鮎川さんの部屋の番号を押すとインターフォン越しに「はい」という声がした。初めて聞く鮎川さんの声。低くて心地良かった。カメラを見ずに「ミチルです」と言うと、自動ドアが静かに開いた。さらに奥に進むとエレベーターホールがあり、さっきのエントランスホールよりもシックなデザインが施されていた。そして重厚な扉のエレベーターが三基、一番奥にあった。そのエレベーターに乗り込むと二五階の鮎川さんの部屋まで、あっという間に着いた。
玄関のドアを開けると、鮎川さんが出迎えてくれた。初めて会う鮎川さんはとても穏やかで、優しい笑顔で、想像通りで、私の緊張はゆっくりとほぐれた。
リビングのドアを開けると、直ぐに大きな窓が目に飛び込んできて、海が一望出来た。水平線がくっきりと見えその手前を大きな船が横切ろうとしていた。なんだか少し、自分が偉くなった気がした。私は促されるまま、リビングの真ん中にある白くて大きなソファーに座った。鮎川さんはアイランドキッチンの前に立つと、
「ここは、慰謝料としてもらったんだ」とコーヒーメーカーに豆を入れながら言った。まるでコーヒーメーカーに説明しているみたいだった。
「眺め、良いですね。すごい雲」私は、水平線の上に湧き上がったばかりの積乱雲を見ながら言った。だけど、それに対する答えは何もなかった。やがてコーヒーの柔かい香りが部屋中を包み、そうする事が前もって決められていたみたいに、沈黙が訪れた。ただ、うるさく動いているのはコーヒーメーカーだけだった。
 完ぺきな沈黙が訪れると、鮎川さんはコーヒーを持って私の斜め前に座り「ここに来て五年になる」と私と同じ雲を見ながら言った。積乱雲は天に向かって成長を続けていた。私は雲を見つめる鮎川さんの横顔を見た。目立たないけれど、目じりにしわが深く刻まれていた。そして五年も経つのだと思った。
「このマンションには新築で住み始めたんですね。海外の有名な建築家が設計したんですよね。テレビで見たことあります。こんな高価なマンションに住める人が居るんだなって、いつも思ってました」五年前だと私は二三歳だ。若かったけれど、生きているだけだった。砂を噛むような毎日。心休まる日が無かった。そして鮎川さんはここで幸せな生活をスタートさせた。
「高いよ。びっくりするくらい高い。でも、金なんて、汗水たらせば貯まるものではない。やり方を知っている人のところにしか入ってこない。最低なのは、僕がその連中から恩恵を受けているということだ」相変わらず鮎川さんは雲を見ていた。さっきとは形を大きく変えた、勢いの衰えない雲。
「私も、受けつつありますけど」と私は言った。言うべきではなかったのかもしれない。でも、放たれた。鮎川さんは、私の方に視線を向けた。まるで私がそこに居ないかのような、無遠慮な眼差し。それは私の頬に刺さった。
「そうだな」と鮎川さんは言った。私も鮎川さんの顔を見ながら、「そうですよ」と答えた。そしてその日、初めて二人の目が合った。真っ黒な澄んだ瞳。それから直ぐ鮎川さんは、何かに許されたみたいに、大きな声で笑った。
「そうだな。まあ、そういうことだな。他にも、色んな物をもらった。あるんだな。金持ちには。こっちが要求もしないのに、いくらでもくれたよ」言い終わると鮎川さんは再び私をじっと見つめた。眼差しが強くてちょっと恥ずかしかった。私は目をそらせ、雲を見ながら「たとえば?」と聞いた。
「現金。預貯金。株券。賃貸のマンション」鮎川さんも雲を見た。
「マンション?ここ以外で?」
「ああ、六階建のこぢんまりとした鉄筋コンクリートのマンションだけど」
私はその建物の事を思った。小さく奥まってたたずみ、緑に囲まれた密かな場所。エントランスの前にはベンチがあり、木漏れ日が射しているかもしれない。やさしい空間。落ち着ける場所。私を守ってくれる?
「どこにあるんですか?」私は少し前かがみになりながら聞いた。
「割と良い場所だよ。ここから、歩いて二十分のところかな」鮎川さんはちょっと小声で答えた。
「空室あります?」私も小声になった。
「あったと思うけど」
「そこ、貸してください。格安で」
「無料でいいよ」
「無料で?」
「だって僕たち、これから契約をするんだから。愛人の契約」
「そうでしたね。私は愛人になるんですよね。気持ち、関係ないですね」
「気持ちは、あるよ。ちゃんと、ある。手に取って触れるくらい、確かなものなんだ。でも、線を引いておかないと、ダメになるから」
「ダメって、何が?」
「僕たちの、これからの関係が」
「どうして?」
「バランスの問題なんだ」
「バランス?」
「僕自身の心のバランス。そうしないことには先に進めない」
「大人は複雑なんですね。私には理解出来そうにけど」
鮎川さんは、下を向いて寂しそうな顔をした。寂しそうというか、ちょっと困った顔。この人は、困った時にはいつもこんな顔をするのかと思った。そして私は買われるのだと思った。金銭の見返りに私は身体を提供する。特別な事ではない。誰でも何らかの形で行っている。ただ私達の場合、あからさまなだけだ。急に、心の奥の深い場所に閉じ込めていた黒いものが、目の前に現れた。私は鮎川さんの顔を見続けた。バランスを保つために。確かに必要なのかもしれない。心のバランス。鮎川さんの顔は私が今までに知る男性のどんな表情とも違っていていた。欲望とはかけ離れたところにそれはあった。そして段々と、鮎川さんに私が買われるのは正しい事だと思えてきた。
「では、大人の話しをしよう」と鮎川さんは姿勢を正して言った。私は鮎川さんの顔を見ながら次の言葉を待った。
「そのマンションの一室と、月二十万でどうかな?」鮎川さんの声は更に小さくなった。
「そんなに、たくさん?」私も更に小声になった。
「たいしたことはないよ。マンションの家賃収入があるし。その位が相場なんじゃないかな」
「こういうのも、相場ってあるんですね」
「どうかな。よくわからないけど」
「それで私は鮎川さんに何をすればいいのかしら」
「週に一度、僕が望む日に、君を自由に出来るというのはどう?」
「週に一回?」
「そう、週に一日」
「なんだか、本当の愛人契約みたい」
「本当の愛人契約をするんだよ」
「そうですね」
「そうだよ」
「だから?」
「え?」
「だから、さっきから小声で話してたんですか?」
鮎川さんは「あっ」と小さな声を上げた。そして普通の声で
「一応、法律で禁じられてるからね」と真面目な顔で言った。
「それじゃあ共犯という事で」私は微笑み、手を差し出した。その手を鮎川さんが握った。大きな暖かい、でも思ったよりもゴツゴツとした手だった。
「じゃあ、いつから始めます?」と私は言った。
「今日からなんて、どうかな?」と鮎川さんは言った。
「良いですよ。今日これから、明日の朝まで」私は鮎川さんの手を握り返した。そしてその日以降、私は鮎川さん所有のマンションに住み、一週間に一度、鮎川さんのものになった。

人の流れも、まばらになって、歩道を歩いている人種も変わってきた。私のわずかな優越感も薄らいでいった。
さて、買い物に行こう。今日は鮎川さんとの約束の日だ。結局彼は、一週間に一度と言う約束を律儀に守っている。私としては、どうせ暇なのだから、別に週に何度でも構わないのだけれど、そこが鮎川さんの真面目なところだ。週に一度と決めたら一度なのだ。今日は、何か美味しいものをたくさん作ってあげよう。でも、仕事は辞めてしまったのだから、そんなに贅沢は出来ない。愛人の手当として貰っている二十万は生活費と貯金に消えてしまう。このままでは、何も変わらない。次のステップが必要だ。何か新しい手法。新しい生き方。新しいプラン。そんなことを考えていると、あっという間に、二時間が過ぎた。私は痛くなったおしりをさすりながら立ち上がり、すっかりメンバーの変ったスタバをあとにした。

◆三 リアル
お腹を満たして横になっている鮎川さんを見るのが好きだ。それは正しい姿勢で眠る正しい生き物に見える。正確な呼吸をし、正確な時を刻んでいる。年齢より綺麗に見える肌は、きっと気苦労が少ないせいだろう。正直なこの男は、無欲で野心もない。私の母親が再婚した相手とは全然違う。あの男ときたら、貪欲で何でも欲しがり、そのくせ何の計画性もなく、ただただ欲望の赴くままに生きていた。そんな男との共同生活から抜け出せたのも、鮎川さんのおかげだ。
鮎川さんと私は、この先どうなるのだろう?このまま、一生を愛人として過ごすのだろうか。子供が出来ないという問題を抱えた男と私はずっと一緒に生きていくのだろうか。この奇妙な愛人契約を結びながら。解っている。ここが正しい場所でない事は。そしてこんな事が長くは続かない事も。今は人生の踊り場に過ぎない。ちょっとの間休んでいるだけだ。そして初めて穏やかに暮らしているだけなのだ。
私も深い眠りに落ちようとしていると、アユミからのメールが届いた。アユミだけの特別な着信音。だからすぐにわかる。覚醒された脳みそを揺さぶりながら、ディスプレーを見た。
「もう、私たち、無理かも……」
マサト君と何かあったのだろう。最近、あまり上手く行っていないと言っていた。約束の時間も守られていなかった。理由があるのだ。どんな結果にも理由がある。それは私が今まで生きてきて得た数少ない教訓の一つだ。でも、これだけの情報では、何とも答えようがない。
「大丈夫。彼を信じようよ。まだ、わからないじゃない」と打ち返す。アユミが何か他の情報をくれるだろう。次のメールを待つしかない。私はセックスの後の気だるい身体を起こした。さっきまでまとわりついていた微かな快楽が、流れ落ちるみたいに消えていった。そして、あとには現実的な肉体だけが残った。不意に何かが宿った。私の身体の中で、何かが変わる予感。この瞬間に、時の結び目があって、変化が起こる気配。再び、性欲が沸いてきた。ふつふつとにじみ出る様に。あとからあとから止めどもなく。頭はボーっとしているのに、ある部分だけが冴えている。いつか体験した感覚。隣の鮎川さんは小さな寝息を立てている。私は鮎川さんの身体に腕を回した。鮎川さんは私に向き直り私を抱き寄せた。
「もう一度抱いて」私は鮎川さんの耳元でささやいた。

朝、アユミからの返事は来ていなかった。鮎川さんと一緒にマンションを出ると、私は家路についた。徒歩で二十分。最初に鮎川さんが教えてくれた。これも律儀に正確。一度歩いて測ったらしい。そのとき、どんな気持ちで鮎川さんはこの道を歩いたのだろう。彼は今、幸せなのだろうか。プライドとは縁遠い人。可哀そうな人。でも可愛い人。利用されることに慣れているのか、自己主張がないのか、いずれにしても使われる側の人。そしてそんな男に私は囲われている。この立派な社会の仕組みから生み出される不労所得で。その事に何の感慨もなかった。特に悲しいとも思わなかった。ただ出口が必要だった。一人で立って歩けるだけの力が必要だった。シフトしなくてはいけない。いつまでも鮎川さんに囲われているわけにはいかないのだ。そうしない事には鮎川さんと対等になれない。そしてあの男から完全に逃れる事も出来ない。でも今は家に帰ってシャワーを浴びたかった。そしてもう一度、頭の中を整理する必要があった。昨日の夜、私に宿ったものを確かめるために。
主婦のために作られた害のないテレビ番組を見ていたら、いつのまにか夢の中に居た。夢の中で、誰かが私の為に料理を作っていた。私は食欲がなかったけれど、出来上がったものを見たら、無性に食べたくなった。でも、箸もフォークもナイフもスプーンさえも無かった。仕方なく手で食べようと決めたところで、目が覚めた。携帯にメールが来ていた。アユミからだった。

「マサト君。彼女が居るみたい」
送信時刻を見た。十二時四十分。アユミは昼休みにメールをくれたのだ。現在、五時十分。随分時間が経っている。「寝てた」なんて言えない。鮎川さんに養ってもらっている事をアユミは知らない。知られたくない。僅かな私のプライド。せめてアユミにだけは、対等で居たい。

「ごめん。ずっと会議中だった。大丈夫?」
慌ててメールを打つと、仕事中にも関わらず、すぐに返事が来た。
「今日、会えないかな?」
「え?」
「ちょっと急だけど」
「うん」
「ちょっと相談。マサト君の事で」
「良いよ。今夜は予定ないから」
「良かった。残業ないから、七時には出られる」
「わかった。どこで会う?」
「じゃあ、ミチルがいつも使っているスタバで」
私は急いでシャワーを浴びて、化粧をした。そして鮎川さんと初めて会ったときと同じ服を着て鏡の前に立った。
これからアユミと会う。いつもメールで話しをしている。私の最も近くにいる、そして唯一の女友達。でも会った事も声を聞いた事もない。せめて初めて会う前に一度、電話で話しておけば良かった。鮎川さんと会う前よりも落ち着かない。もう一度鏡の中の自分を見る。同じ女性なのにアユミとは随分違う。背は小さいし、髪は縮毛。それを鮎川さんは私の素敵な個性だと言ってくるけれど、せめてもう少し身長は欲しかった。顔のつくりもアユミに比べたらシンプルだ。一般的には地味と言うのかもしれない。鏡の中の私をもう一度見つめる。男が女を品定めするみたいに、つま先から頭のてっぺんまで舐め上げる様に。そして私は鏡の中の私と目を合わせた。そこには昨日までの私は居なかった。中身がそっくり入れ替わっている気がした。そしてそれはたぶん、その通りなのだ。

アユミは七時を少し過ぎてやってきた。奥のテーブル席からでも直ぐにわかった。スーツに身を包みレジの前に立つアユミには華があった。凛としていて周りの客が霞んで見えた。私はアユミを目で追った。一つ一つの動作が可憐で、とても男の問題を抱えているようには見えなかった。スタッフから手渡された飲み物を受け取ると、アユミは私を探し始めた。右に左に首を振り、長い髪が大きく揺れた。そして私に気が付き、大輪の花のような笑顔を見せ、すぐに涙ぐんだ顔になり、キャラメルマキアートを手に持ちながら私の前に座り、携帯で撮った写真を私の目の前に差し出した。
「どうしたの?これ」テーブルの下でアユミの膝頭が私の脚に触れた。
「マサト君の携帯の中に入ってた。それを私の携帯で撮ったの」画像は、マサト君と彼より幾分若そうな女性が、頬と頬を寄せあい、意味のある含み笑をしつつ、携帯で自分撮りをしていた。膝頭はずっと私に触れたままだ。
「隣の女は?」アユミは首を横に振った。髪がテーブルの上に落ちてはじけた。光沢と弾力があった。
「綺麗な髪」
「え?」
「髪。黒くて豊かでしなやか」
「ありがとう。でも、マサト君は何も言ってくれない」
「気が付いてないんだね」
「そう、毎日手入れしてるのに、髪型が変わった事さえも気が付いてくれない」
私はその髪を触りたいと思った。唐突な、もやもやとした感情。振り払おうとしてもなかなか取れない。
「私たち、初めましてだね」私は、こんな言葉で誤魔化した。
「うん。そうだね。全然そんな感じしないけど」アユミの照れた笑顔。
「アユミ、って呼んでいいのかな?」
「私もミチルって呼ぶ」
メールでは何度も話したけれど、会ったことも話したこともなかった二人。少し、現実的になった。そしてアユミは現実的な提案を私にした。

「マサト君に聞いてくれないかな?どちらを選ぶのか」
「え?だって私、マサト君の事、知らないし」
「SNSのアドレス、教えるから。友達になるの、簡単でしょ」
確かに簡単だった。ネットの世界で、女が男に近づくこと程簡単なことはない。女が圧倒的に有利なのだ。そして現実世界では、同じくらい圧倒的に女が不利だ。これも教訓のひとつ。
「私がマサト君に近づいて、他人のふりをして本心を探るっていう事ね?」アユミは自分を説得するように大きくうなずいた。
私はその夜、検索をして簡単にマサト君にたどり着いた。そして非現実世界の友達になった。ネットの世界で男ほど簡単な生き物はいない。そう思った。私の脚は熱を帯びたままだった。
◆四 鮎川さんの心
一週間が過ぎた。鮎川さんの日だ。買い物を済ませ、昼過ぎに合鍵を使ってマンションに入り、掃除をして、夕食を作り彼を待つ。たったこれだけの作業に鮎川さんは金を払う。セックスをする日もあればしない日もある。私を囲わなければ、贅沢さえしなければ、働かなくても暮らしていけるだけの収入はある。だけど私を手に入れて、普通の生活を維持するために、働いている。たいして大きくもない会社の営業。そして年齢の割には安い給料。もっと効率のいい暮らし方がありそうなものだけれど、彼はそうしている。鮎川さんは私に何を求めているのだろう?私にどんな価値があるのだろう?探してみたけれど、何処にも見当たらない。
鮎川さんには色んな友達がいる。これが私と大きく違うところ。だから鮎川さんは、自分の友達に私を紹介したがっている。それを私はいつもやんわりと断っている。まだ鮎川さん自身に馴染んでないというのも理由のひとつだけれど、他にも理由がある。リスクをおかしたくない。人目に付く行動はしたくない。あの男に見つかる可能性を限りなくゼロにする為に。
私は友達が少ない。アユミが唯一と言っても良いかもしれない。そのアユミでさえ、最近やっと友達と呼べる関係になったのだ。現実的な同性の友達。その友達のために私はひと肌脱いでいる。マサト君にコンタクトを取り、メールで彼の内心を探っている。

「鮎川さんの友達に独身の人いる?」
私は未だに鮎川さんと呼んでいる。下の名前は知っているけれど、どうしても呼ぶことが出来ない。「あゆかわ」という響きも好きだ。そしてセックスのあとの会話も好き。そこにはその時にしか話せない、特別な言葉がある。
「同級生が何人か居るよ。結構みんな、出世してるんだ。僕の出た高校はね、進学校だったんだよ。だから、社長や取締役になってるね。僕も中学生までは成績良かったからさ。それなりの高校に入れたんだ。まあ、今はあまりあれだけど」
鮎川さんは自分の事を僕という。育ちが良いのだ。そこも私とは違うところ。正直で謙虚なところも鮎川さんの良いところ。きっと前の奥さんもそんなところが好きになったのだと思う。ある意味、養子向きなのだ。
「今でも奥さんに会ったりする?」鮎川さんはベッドの上で一瞬固まった。
「どうして、急にそんな事聞くの?」ちょっと上ずった鮎川さんの声。
「深い意味はないよ。ただ、なんとなく、まだ、奥さんは鮎川さんの事が好きなのかなと思って。だって嫌いになって別れた訳じゃないでしょ?」
「そうだね。僕は彼女の事を嫌いになったわけではない。彼女も僕が嫌いになったわけではない。でも、別れた。僕に男として問題があったから。結婚の目的が子孫の繁栄であったから。そのための養子だったから。だから僕は、彼女の家には不向きだった。とてもシンプルだ。標本にしても良いかもしれない。でも、と思う。そういうのって正しい事なのかって。人としてどうなのかって。だって、僕らは一度、愛し合ったんだ。出会いは見合いでも、逢瀬を重ねて、心を積み上げていったんだ。それなのに当初の目的が果たせなかったという理由で、男と女の別れに繋がる。それは正しい事なのだろうか。大人的であっても、社会的であっても、それは人間的ではない。頭では解っていても、身体が受け付けない。問題は、誰もがそれぞれの立場において、正しいという事なんだ。誰もが間違ったことはしていない。だけど、間違っている。決定的に」
私は鮎川さんの胸に手を当てた。心臓の鼓動が伝わってきた。ドクン、ドクンと。
「鮎川さんの中で、まだ終わってないんだね」と私は言った。
「終わったよ」と鮎川さんは言った。「だから君がここに居る」

私は鮎川さんの頭を胸に抱き寄せた。使えないとわかったら、まるで雑巾でも捨てるみたいに簡単に捨てられた鮎川さん。まだ、癒えていないのだと思った。傷ついているのだ。私にお金を払うことで、鮎川さんは私を傷つけようとしているのかもしれない。そうやって、バランスを取っているのかもしれない。だとしたら、それはそれで構わない。私は、自分の役目を見つけた気がした。
「大丈夫。私も同じようにたくさん傷ついてきたから」
鮎川さんは私の胸の中で少しだけ、反応した。何かに応えようとした。私は彼の頭を抱いて、髪に唇を付け、強く抱きしめた。
「特に意味はないから」と私は言った。
「私の言う事なんて、気にしないで」
その日は朝まで、ずっと鮎川さんを抱きしめた。

◆五 ドロドロ
マサト君とのメールのやり取りも佳境に入ってきた。
「つきあってる女性がいるんだ」
「そうなんだ。私も」
「そっか。どんな人?」
「年上かな。随分。でも、良い人。マサト君は?」
「ああ。良い娘だよ。綺麗だし」
「綺麗なんだ。良いね。他に良いところは?」
「綺麗以外、だよね?他には、そうだな。何かあるかな」
「そんなに綺麗なんだ。他の良いところが霞むくらい」
「そうかな。いや、決してそんな訳じゃないんだ。他に、あの女の子に良いところがあったけなと思って」
「それって、ひどいよね」
「そうだね。確かにひどい。でも、思いつかないんだ」
「たとえば、髪は?髪型とか気に入ってる?」
「どんな髪型をしてたかなんて、思い出せないよ」
「ひどい。最低だね」
「そう、最低なんだ。よく言われる」
「自覚してるだけ、まだましね。いつも、デートでどんな事をしてるの?」
「マンションに行って、ご飯食べて、寝る、みたいな」
「まるで夫婦じゃない」
「そう、長年連れそった夫婦みたいなんだ」
「相性が良いのよ」
「いや、相性は関係ないと思う」
「そうかな。じゃあ、何が原因かな。その、セックスをしない理由」
「明確なんだよ。理由は」
「それって、何?」
「それは言えないな」
「他に彼女が居るとか?」
「どうかな」
「良いじゃない。教えてよ。そういうやり方良くないわよ。もったいぶるの」
「そうだね。でもこういう微妙な事、メールではなかなか伝えられないよ」
「微妙なんだ」
「そう、とても微妙。だから顔を見ながら話したい」
「顔を?会うって事?」
「そう、会って、少しずつ、正確に話したい」
「もっともな理由だね」
「とりあえず、何をするにしても理由が必要だろ?」

 次の日、私はいつもの場所で、アユミと待ち合わせをした。仕事帰りのアユミは少し疲れた顔をしていた。それが一日の仕事の疲れのせいなのか、マサト君のせいなのかはわからなかった。でも、私へのすがるような眼差しに、私は心が締め付けられた。
「マサト君に会ってみようと思うの」私は言葉を選ぶようにゆっくりと話した。アユミは小さくうなずいた。
「もう、そんな関係になったの?」アユミは少し不安そうだった。
「会いたいって、私から誘ったの。そしたら、僕も会いたいって」私は嘘をついた。アユミは下を向いて、何か言葉を探しているようだった。でも、何も見つからなかった。
「良いかしら?」と私は聞いた。アユミはもう一度、うなずいた。
「変な関係にはならないでね」とアユミは言った。
「ならないよ。安心して。マサト君、ちゃんとつきあってる彼女が居るって言ってたよ」アユミは顔を上げて、その日初めて笑顔を見せた。
「他に彼女が居るって言ってなかった?」再びアユミの不安そうな声。
「それはまだ、わからないの」
「でも、ミチルには会うんだね。男って、何を考えてるのかしら」
「会うの、やめておいた方が良い?」
「大丈夫。決着、つけたいし」
私が関わることで、ガラス張りになったアユミとマサト君の関係。これから先は全て私が握っていた。私だけがアユミの細い首に手をかけることが出来た。あとは、私次第なのだと思った。

金曜日の夜、マサト君に会った。彼はアユミから見せてもらった写真通りの男だった。綺麗な顔立ち。スタイルも良く、何を着ても似合うタイプ。アユミと同じで、異性に不自由したことが無いのかもしれない。身長は百七十八センチで鮎川さんと同じだった。でも、若さと言う点では圧倒的な差があった。大きな溝というか海溝に近い隔たり。マサト君が選んだ場所は、初対面の男女が、しかも二十代後半のカップルが行く店にしてはちょっとチープな場所だった。別に場所なんてどうでも良いのだけれど、彼のスタンスを知るには十分だった。店を出るとマサト君は「さて、次はどこに行こうか」と言った。
「決めてないの?」と言うと、「ああ、いつもその場の雰囲気で決めるんだ」と言った。
「いつもそうなのね」
「ミチルに決めてもらおうかな」
「もう満腹だし、どこかゆっくり話の出来るところに連れて行って。さっきの店は周りがうるさ過ぎて、ろくに話しも出来なかったでしょ。マサト君が彼女とセックス出来ない微妙な話しもまだ聞けてないし」
「だったらホテルに行こうか。ゆっくりと話しが出来る」
「ホテル?会ったばかりで?」
「ただ、話しをするだけだよ」
「そんなの信じられないわ」
「信じてよ」
「絶対に変な事、しない?」
「絶対にしない」
「約束する?」
マサト君はうなずいて、私の手を取った。そしてたぶんいつも使っているであろう安っぽいラブホテルに私を連れこんだ。もちろん約束は守られなかった。世界中で使われている常套句なのだ。マサト君は部屋に入るとすぐに私をベッドに押し倒し、上から覆いかぶさり、キスをしてきた。私はがっかりした。ちょっとは手の込んだ企てがあるのかと思ったけれど、何も無かった。本当に何も無かった。苦労知らずで、全ては自分の思い通りになると思っているのだ。
彼のセックスは頭の中と同じだった。単純で空っぽ。もちろん愛情のかけらもなかった。そういうものを求めていなかったからこそ、それが良く見て取れた。せめて特別な何かを探してみたけれど、それも無かった。
結局、ここに居るのは私でなくても良いのだ。ただ女でありさえすれば、いつもと違う女でありさえすれば、その目的を達することが出来る。服の下にどんな胸が隠れていて、それはどれくらいの大きさでどんな色の乳首で、そしてどんな喘ぎ声を出すのか。それが解ってしまえば関心を失ってしまう。そんな一連の作業。私が誰で、どんな人生を歩んで、どんな事を抱え、どんな事に傷つき、何を大切にして生きているのか、彼には全く関心がなかった。私の上で「いきそうだよ」とマサト君が言った。「ちゃんと避妊してね」と私が言うと「あっ」という声をだして私の腹の上に精子を出した。
「中に出さなかっただけまだましだけど、これって避妊とは言わないのよ」と私が言うと、マサト君は特に悪びれた様子もなく「我慢できなかったんだ」と言った。
「別に、ピルを飲んでるから良いんだけど、お互い病気とかあるから、気を付けた方が良いよ」と言うと「今まで病気をもらったことはないんだ」などと自慢ともつかないようなことを言うので、「私はたまにもらうけどね」と言うと、一瞬真顔になり、「嘘でしょ?嘘でしょ?」と何度も言い、「最近、やったのはいつなんだよ?」などと言い、「男とやるのが仕事なの」と言うと「マジで?マジで?」と何度もしつこく、子供みたいで可笑しくなって、「冗談よ」と言うと、飼いならされた犬みたいにおとなしくなった。そして私が「じゃあ、そろそろ本題に入りましょうか」と言うと「え?」という変な声をあげて「アユミの事なんだけど」と言うと、一瞬考えて、急に真顔になり「何で彼女の名前を知ってるんだ?」と大声を出した。

 私達は、安っぽい内装のラブホテルのベッドの上で対峙した。二人とも裸で、ちょっと馬鹿っぽかったけれど、彼は藪から棒に窮地に立たされ、物理的にも精神的にも丸裸で、全くの無防備だった。
「アユミを私にくれないかな」と私は言った。マサト君は言葉の趣旨が上手く理解出来ない様子だった。
「アユミと別れてくれないかな。何も言わずに。あなたが彼女と別れたがっている事は、十分にわかったわ。そしてその目的も見当がつく。他に彼女が居るのね。何人も。私を抱いたみたいに、他にも色んな所で同じ事をやりたいんでしょ。世の中にそんな男が居る事を私も理解出来るわ。今までにどんな過去があったかは知らないけれど、そういう人種がいるのよね。でも、アユミは真剣にあなたを愛しているの。あなたとのこれからがはっきりしないと何処へも行けないのよ。だから、白黒はっきりして欲しいの。そして、私の見立ては間違ってないと思うけど、あなた達は似合わない。美男美女で端から見ると、人もうらやむカップルだろうけど、未来はないわ。そうよね?」
マサト君は、私の言う事を黙って聞いていた。そして一通り考えるそぶりを見せた。でも頭の中が空っぽなのは明らかだった。ただ考えるふりをしているだけだ。そしてこの当座の窮地をどうやってやりすごそうか、それだけを巡らしていた。
「アユミとは、別れない。絶対に別れない。だいたい、君は誰なんだ?何の権利があるんだ?僕には彼女が必要なんだ。彼女の事を愛してる」
愛してる。この男が言うと、美しい台詞が安っぽく聞こえた。
「君はアユミの何を愛してるの?アユミの何を知ってるの?」
「僕たちの歴史の何がわかるって言うんだ?」
「アユミが最近、前髪を切った事に気が付いた?それについて何か言ってあげた?何も知らないでしょ。何も関心ないでしょ?あなたが関心あるのは自分だけじゃないのかしら。それにね、私は彼女の父親から依頼されたの」
「父親から?」
「そう。だから、諦めなさい。事が大きくなるまえに。彼女をここで選ぶと言う事は、結婚をするということよ。彼女の父親、知ってるでしょ。あなた達の会社の親会社に居るのよ。敵には回さないほうが良いわ。サラリーマンを長く続けて行くつもりならね」マサト君はさっきまでの勢いを何処かに置き忘れたみたいに静かになった。自分の思い通りにならないことがあるという事実に今日初めて、出会ったのだろう。そしてばれない嘘は真実となる。
「そんなにがっかりしないで。やれる女が一人位減ったからって、どうって事はないでしょ。確かにアユミは良い女だけど、分相応というものがあるのよ。アユミは結婚をしたがっている。これは家の事情でもあるの。あなたにはそれに応えるだけの愛がない。残念だけど、事実よね。惜しいという気持ちはわかるけどマサト君から終わらせてくれないかな。お礼は出来ると思うけど」
「お礼って?」何でこんな台詞に食いつくのか。開いた口が塞がらない。
「お金は上げられないけれど、それ以外で私に出来る事。きっとこれから役に立つわ。教えて上げる。本当のセックスのやり方を」
「君は一体、何者なんだ?」私はマサト君の言葉を無視して、作業に取り掛かった。私はマサト君のペニスを口に含みながら、これからの事を考えた。そして私があの夜に、鮎川さんと交わした夜に私に宿ったものについて考えた。鮎川さんにはお金持ちの友達が何人かいる。裕福で独身で結婚にぴったりの男。アユミは結婚をしたがっている。安定を望んでいる。そして私にはお金が必要なのだ。しかも、大きなお金。さらにネットの世界にはアユミみたいな女が大勢いる。そして簡単に近づける。悪魔のささやき。私はマサト君の精子を口で受け止めながら我に返った。しょんぼりとしたマサト君のペニス。私は放心した顔のマサト君に顔を近づけ、私の口の中のものを全てマサト君の口の中に戻した。彼のひきつった顔。私はお腹の皮がよじれるくらい笑った。とても久しぶりに。

次の日、アユミと再び会う約束をした。約束の時間の十分前にスタバに着くと、カウンターに座り外を眺めながらアユミを待った。私は何か動くものを見るのが好きなのだ。不規則にでも一定に。夜の通りは恋人たちのものだった。注意してみるとそれは溢れていた。彼女たちの笑顔が幸せの尺度だった。広い歩道で手を絡めあう男女。どちらかがより強く好きなはずだ。全く同じなんてありえない。そしてそれが明るみになった途端、ほころびが始まる。運よく結婚までたどりつけてもそこがゴールではない。でもそれは私の人生とは無関係に動いている。私なしで成り立っている。それは救いでもあるし、寂しさでもある。ふと見ると新しいカップルが私の前を通り過ぎようとしていた。白い手と手が絡まっている。視線を上に移すとそれは女の子同士だった。しっかりと絡まった白くて細い指たち。それは私の目の前に唐突に現れ、一瞬で夜の中に消えて行った。そしてその方角からアユミが現れた。時間通りだ。アユミの顔はやつれてみえた。そして間近で見ると実際にやつれていた。でもそれが、とても色っぽかった。アユミは私を見つけると力なく笑い、私の横に座った。そして小さくため息をついて、私の手に手を重ねた。しばらくそのままだった。二人とも言葉を探していた。でも言うべきことは決まっていた。ただタイミングを見計らっているだけだ。再びさっきの女の子同士が私の目の前を通り過ぎた。今度は腕を絡めあっていた。彼女たちは何処へ向かっているのだろう?私はアユミの顔を見た。彼女の苦悩は、私のせいなのだ。

「昨日、マサト君に会ってきたよ」と私は言った。
「知ってる」とアユミが答えた。小さな沈黙があって「そうなんだ」と私は答えた。
「マサト君から、連絡があった。おまえとは別れたいって」アユミの小さな声。
「うん」
「もう、終わりにしたいって」
「理由、言ってた?」
「好きな人が出来たって」
「うん」
「でも、それが誰だかは教えてくれなかった。ねえミチル、それはミチルじゃないよね?」控えめな、でも責めているようなアユミの声。
「違う。マサト君、他の誰かに相談したかったんだと思う。自分の気持ちを言葉にして、誰かに聞いてもらって、確認したかったんだと思う。だから、私に会ったんだよ。ただ、話を聞いてもらいたくて」嘘。全部嘘。でも全部本当。本当にしなくては。アユミの頬に長い髪がかかっていた。そして、目にいっぱいに溜まっていた涙が、頬を伝った。
「私たち、別れちゃったんだ」そういうと、また一筋、頬を伝った。
「私のせいだね」
「違うよ。ミチルには感謝してる。なんだかね、そうなるんじゃないかって思ってたんだ。結論が早く欲しかった。だから感謝してるよ」
「そういう風に言ってもらえると、気が楽になる」
「うん」
「ありがとう」
「ミチルは悪くないよ。悪いのは……、誰だろう?私かな。マサト君を繋ぎ止められなかった、私の魅力の無さ」
「それは違うよ。アユミは魅力的だよ。ただ、マサト君にはアユミの魅力がちゃんと理解出来なかっただけだよ。だって」
「だって?」
「彼はまだ若いし、余裕がないのよ。見えてないの。自分の事が精一杯で。言ってしまえば子供なのよ。確かに見てくれは良いけど、中身が伴ってない感じがした。こんな事、アユミに言うのは酷かもしれないけど。アユミはさ、もっと年上の人と付き合った方が良いよ」
「ミチルの彼みたいな?」
「そう、鮎川さんみたいに、ちゃんとアユミの事を理解してくれる大人の男性」
「そんな出会いないよ」
「アユミなら、歩いただけで声を掛けられるんじゃない?」
「もう、それほど若くはないわ」
「誰か、紹介しようか?」
「今は、そんな気分じゃないな」
「新しい恋が辛い事を忘れるには一番だよ」
「そうだけど」
「アユミはさあ、マサト君とのセックスに満足してた?」
「してたと思う」
「ちゃんとマサト君の事、理解できてた?」
「理解って?」
「セックスってさ、綺麗なものじゃないと思うんだ。好きな人同士がする行為だけどさ」
「うん」
「ドロドロしていて、色んな液で溢れているのよ」
「そうだけど、そんなふうに考えたことない」
「もっと綺麗なものだと思ってる?」
「そうは思わないけど」
「本当のセックスはさ、もっと色んなものが混ざり合うものなのよ。二人でもっと突き詰めるものなの。手や唇や舌を使って、お互い刺激し合って、色んなネバネバする液体を出し合って、ドロドロに混ざり合って、果てるだけ果てて。そしてその先に快楽以外の理解みたいなものが、芽生えたりするの」
「なんだかすごいね。聞いてるだけでぞくぞくする」
「でも簡単に理解できる訳ではないの。少しずつ積み重ねて行くものなの。そうしたら奥の方にある今まで見えてなかったものが見えたりするの」
「鮎川さんと、そうしてるんだ?」
「ええ」
「理解出来た?」
「少しは」
「そっか。私、今まで何も考えてなかったのかもしれない」
「ドロドロじゃなかった?」
「うん、いつもサラサラだった」
「サラサラかあ」
「そう、サラサラ」
アユミに笑顔が戻った。さっきまで涙で濡れていた瞳が艶やかになった。アユミは頬杖をつきながら夜の街に視線を移した。私はその横顔に向かって、
「今度さ、私達、温泉旅行に行くんだ」と言った。
「鮎川さんと?」
「そう。鮎川さんと」
「うん」
「この前、行った温泉、静かで雰囲気も良くて、また行きたいねって言ってたんだ」
「うん」
「良かったらさ、四人で行ってみない?」
「鮎川さんとミチルと私と誰かで?」
「そう。鮎川さん、顔広いし。鮎川さんの友達を交えて」
「年上の人と?」
「うん、たぶん、年上になると思うけど」
「いきなり?」
「わからないけど」
「こわいな」
「それは大丈夫だよ。私達も一緒だし、いきなり変な事にはならないだろうし」
「部屋は私とミチルが一緒だよね?」
「もちろん」
「でも鮎川さん、がっかりするよ」
「それは大丈夫。多い方が楽しいし」
「そうかな?そんな人?」
「そう。そんな人」
「ふーん」
「鮎川さんに聞いとくから」
「うーん」
「行こうよ」
「考えとく」
「うん。考えといて。まだ時間はたっぷりあるし」
家に帰ってあそこを触ると、たっぷり濡れていた。今までにないくらいたくさん。その日の夜、一人でした。とても久しぶりに。何度も。
二週間後、アユミは私の提案に承諾した。毎日マサト君と顔を合わせるのは辛いと言って、最後はアユミの方から頼まれた形だった。鮎川さんも私の提案にはとても乗り気だった。私を自分の友達に紹介する事が嬉しくてたまらない、そんな感じだった。

独身で戸籍の綺麗な鮎川さんの高校の時の同級生、柏田さんは、大手外食チェーンの取締役。私達はアユミを柏田さんに紹介する前に三人で会った。柏田さんは真剣だった。そしてアユミの写真を見せるとより一層、身を乗り出した。
「綺麗な人ですね」と柏田さんは写真を握りしめながら言った。鮎川さんも写真を手に取ったけど、たいして興味がなさそうに「ミチルも綺麗だよ」と言ってくれた。
「あ、ごめんなさい」と柏田さんは私に向かって言った。
「良いんですよ。気にしなくても」と私は言った。
「そういう意味ではないんだけど」と申し訳なさそうだった。
そういう態度を取られる方が意識してしまいそうだったけれど、誰がどう見ても、アユミは私よりも遥かに綺麗だった。
「アユミは私と同じ二八歳だけど、幼い部分があるんです。だから……」
「だから?」柏田さんは、再び身を乗り出して、私の次の言葉を待った。
「だから、安心させてあげてください。大人の魅力で」
「大人の魅力ねえ。仕事は自信あるんだけど、女性に関してはほとんど経験ないからなあ」なんとも頼りない柏田さんの返事に私は、「しっかりして下さい。レクチャーしましょうか?」と言ってからかった。
柏田さんは、いつも人に指図をしている。そんな印象だった。だから、鮎川さんよりも大人に見えた。言ってしまえば、四五歳そのものだった。
「まずはその服装、どうにかした方が良いですよ」と私は指摘した。だけどそれはファッションとさえ、呼べなかった。
「明日、一緒に見に行きましょうか?」と言う私の提案に、柏田さんは、「心強いね」と言った。

次の日、柏田さんはグレーのスーツで、私の指定した店にやってきた。全てグレー。ネクタイもシャツも靴下も全て。唯一、靴だけが黒だった。私はそれを見てしばらく笑っていたけれど、柏田さんはどうして私が笑っているのか理解できない様子で、そんなにおかしい?と何度も言うから「大丈夫ですよ。そのために今日来たんでしょ」となだめた。
 私達は数件の店を廻り旅行用の服を買って、それが仕上がるまでの時間、柏田さんには髪を切ってもらった。店から出てきた柏田さんは、鮎川さんの家で会った時よりは幾分まともになった。
「あと足りないものは?旅行用のカバンは持ってます?」と言うと「持ってるとは思うけど」と、とても曖昧な返事だった。
「どんなものを持ってます?」と聞くと更にしどろもどろになった。
「本当に仕事ばかりしてきたんですね。これからは、ちょっとはおしゃれにも気を使わないと」と私が言うと、柏田さんは頭をかきながら「そうだね」と言った。大人の男は困った時に本当に頭をかくのだと妙に感心しながら「今から柏田さんの家に行きましょう。何が足りないのか、全然わからないし」と私は言った。
 柏田さんの家は二LDKの分譲マンションだった。独身男性が住むにはちょっと贅沢な広さだけれど、それ以上に不要なものが多すぎた。不要というかゴミに近かった。こんな部屋にアユミが来たら、がっかりするだろう。アユミは毎日掃除機をかけるような綺麗好きなのだ。しかも、物を多く置くタイプではない。良いものを少しだけ。でも、この部屋のソファーだけはまともだった。
「このソファー、この部屋にぴったりですね」
「ああ、これはこの部屋に備え付けてあったんだ。ここはモデルルームでさ。家具付きで買ったんだ」なるほど、納得。世の中、ちょっとは不可解に見えても、答えを聞いてみたら案外単純なものが多いものだ。私はソファーとテーブルの上を片付け、とりあえずくつろげる空間を確保した。その間、柏田さんはコーヒーを入れた。この部屋からは、鮎川さんの部屋みたいに海は見えなかった。見えるのは隣のビルだけだ。外はまだ明るかった。私はレースを閉め、それからドレープも閉めた。しっかりとした織り込みの生地で遮光用の裏地まであった。全てのカーテンを閉じると部屋は思ったよりも暗くなった。生地の色はこの部屋の内装に合っていた。これもモデルルームとしてコーディネートされたものだろう。私は再びソファーに腰を下ろした。柏田さんもコーヒーを持って私の横に座った。座りながら「汚い部屋だろ」と言ったが、私は否定も肯定もしなかった。その言葉を無視して私は柏田さんに向き直り「提案があるの」と言った。柏田さんは私の意外な言葉に、ちょっと戸惑いながらも私に向き直り、「何だろう?」と言った。
「私、お金が必要なの」そういうと柏田さんは、眉をひそめた。さっきまでの親しさは影をひそめ、あからさまに警戒を強め「どういう事だ?」と言った。
さて、と思った。ここからが本番なのだ。しくじる訳にはいかない。マサト君の場合とは違うのだ。相手は鮎川さんの友達だ。失敗は許されない。もしも失敗すれば、全てを失う事になる。私は慎重に言葉を選んだ。
「私と鮎川さんの関係は知ってるわよね?」
「どういう意味だ?恋人だろ?」
「もちろんそう。でも、微妙に違う」
「どういうことだ。何が言いたい?」
柏田さんは更に疑いを強め、私との距離をひとつ空けた。私は空いた空間をひとつ詰めて、柏田さんに近づいた。膝頭同士が、微妙に触れ合った。
「私はあなたと手を組みたいの。もちろん、鮎川さんには内緒で。ビジネスパートナーになりたいの。その為にクリアにしなくてはいけない事がいくつかあるわ。腹を割って話さなくてはいけないことがある。ただしこれ以上話すと後には引けない。だからまず確認しておきたいの。あなたの望みを。あなたはアユミが欲しいんでしょ?」
「欲しい?まだ、会ったこともない女だぞ。欲しいもなにもない」
「写真を見たわ。あれじゃ不満?」
「不満はないさ。問題は向こうがどう思うかだ。私がどう思うかではない」
「じゃあ、アユミが柏田さんの事を気に入ったら?」
「私をからかうな。もう四五歳だぞ。私なんかを相手にするはずがないだろう。まあ、キミと鮎川は特別なんだろうけど」
「私は鮎川さんに買われてるの」
「え?」
「私は鮎川さんにお金で買われてるの」
「嘘だろ?」
「嘘ではないわ。でも、真実でもない。そうする必要があったのよ。お互いに。でも、そこから抜け出したいと思ってる。その為にはお金が必要なの。私が全て段取りをするわ。アユミをあなたのものにしてあげる」
「あの女を手に入れられるという事か」
「そう。いくつかの課題をクリア出来たら」
「課題ね。それは何かな?」
「それはお金とスキル。現金で一千万。あなたの役員報酬からすると訳もないお金でしょ?私にとっては大金だけど」
「調べたのか。まあいい。金は問題ない。高額だけど、悪くない数字だ。君はビジネスのセンスがあるんじゃないかな」
「褒めてもらってうれしいわ。でも、あなたには決定的に足りないものがある。女を扱うスキル。品物は店で簡単に手に入るけど、これだけは簡単には手に入らない」
「そうだな。それは認める。利害が一致したわけだ。俺とあんたと。じゃあ、どうすればいい?どうやったらそのスキルとやらを身に着ける事が出来る?」
「それは私に任せておいて。これからここで、教えて上げるわ。最初に何処を触れたら女が喜ぶか。どういうふうに攻めたら、女が言いなりになるのか」
「そんな方法があるのか?」
「黙って電気を消しなさい。それからシャワーを浴びてきて」
私は全てを柏田さんに教えて上げた。何から何まで。その後の段取りまで全てを。

◆六 旅行
良く晴れた土曜日の朝、私達四人は柏田さんの車に乗って、温泉地へ向かった。初対面のアユミと柏田さんは、事前に私がお互いの情報を事細かく伝えていたので、自然に打ち解ける事が出来た。
旅館へ着くと、私達はそれぞれの部屋に荷物を置いた。アユミと私が同じ部屋で、鮎川さんと柏田さんが同じ部屋だ。
二人で露天風呂に入るとアユミはとてもリラックスしているように見えた。
「ねえ、どう?柏田さん」私が聞くと
「感じの良い人ね。おしゃれだし。それにいかにもお金持ちって感じだね」と言って赤くて長い舌を出した。
「そうね。車はメルセデス、時計はロレックス。嫌味はないけど、持ってるって感じだよね」と私は言った。感じが良いのもおしゃれなのも私のお陰だけど。
時刻は午後三時で太陽の光がアユミの白い肌に淡く射した。アユミの肌に影が出来て、一層スタイルを際立たせた。
「来てよかった」とアユミは言った。
「その後、マサト君とはどう?」と聞いてみたけれど
「別に、もうどうでもいいわ」とアユミは興味がなさそうに言った。マサト君は綺麗に上書きされていた。跡形もなく。
食事は、鮎川さん達の部屋で一緒にとった。別々の部屋と言っても、私たちの部屋とは襖一枚で繋がっていて、襖を開けると広い一つの部屋になった。
私は鮎川さんの隣に座った。必然的に柏田さんの隣がアユミになった。テーブルは奥行きがあって、料理が隙間もないほど並べられ、私達とアユミ達との間は、隣の国みたいに遠かった。アユミの肌は、日本酒を飲むと淡く赤らんだ。その事を私が冷やかすと、アユミはとても照れた。
「鮎川さんは、酔うとどうなるんですか?」とアユミが話題を鮎川さんに向けた。
「どうにもならないよ。ちょっと陽気になるだけかな。それにそれほど強くはないし」
「柏田さんは、お酒強そうですね」と今度は私が柏田さんに振った。
「そうだね。職業柄、強くもなるね。接待したりされたり」
「そういうの、カッコいい」とアユミが言った。
「かっこいい?」ちょっと照れて柏田さんが答えた。
「ええ。仕事の出来る男って感じで」
私はそっと、鮎川さんを見た。ちょっと寂しそうな顔をしていた。
「ミチルはどうなるの?」とアユミが言った。
「私?私はお酒、あまり飲まないわ。それにたくさん飲む人、それほど好きじゃないし」
「お酒に、嫌な思い出あり?」と柏田さんが聞いた。
「嫌な思い出というよりは、嫌な体験かな」
「え?どんな体験?聞きたい!聞きたい!」アユミの無邪気な声。目がとろんとしていて、すでに酔っている。
「楽しい話じゃないわ。私の父がお酒を飲むと、人が変わってしまうという話し。何処にでもある話しよ。私の母は再婚したの。私の本当の父が亡くなってしばらくたってから。私が高校生の時だったわ。その時母は四十歳でその男は一回りも年下。酔うと気が大きくなって、乱暴するの。手が付けられなかった。色んな事をされたわ。私の最初の男なの。最近まで一緒に暮らしてたわ。ごめんなさい。こんな話」
鮎川さんは、「もういいよ」と言って私の肩を抱いた。私は鮎川さんの肩に頭をあずけた。何故か涙が流れた。一筋頬を伝うとそれは止めどなく流れた。鮎川さんは私を抱き寄せた。私は鮎川さんの胸に顔をうずめた。涙はなかなか止まらなかった。鮎川さんは私の背中に手をまわした。しんとした部屋に背中をさする音だけが響いた。私はその音をしばらく聞いていた。
顔を上げると私の鼻に鮎川さんの首が触れた。私はその首筋にキスをした。首筋は熱く私の唇も熱くなった。私は鮎川さんの首や耳や顎や頬を熱くなった唇で吸った。そして鮎川さんの唇にキスをした。アユミが見ていると思ったら、下半身が熱くなった。そしてさらに私は鮎川さんの唇を求めた。鮎川さんに舌を絡めると、ちょっぴり日本酒の味がした。その甘美な液体を私は舌で求め吸い続けた。切ない音が広くて静かな部屋に響いた。私は鮎川さんに向き直り、鮎川さんの頬を両手で覆い、唇を貪った。私は鮎川さんに馬乗りになった。そして、ねっとりとしたものを求めた。私の荒い呼吸がこだまして私の耳元に届いた。その音を聞くと、尚更に興奮した。私の熱くなった股間に鮎川さんの太ももが当たった。私はその太ももに、熱くなったものを押し付けた。こすり付けた。私達は、崩れ落ちるように横になった。そして何度も絡み合い、隣の部屋に敷かれた布団までたどり着くと、その中にもぐりこんだ。
「カチリ」という乾いた音がした。さっきまで明るかった部屋が薄暗くなった。私は布団の中から、アユミを見ていた。柏田さんの顔とアユミの顔が重なり合っていた。柏田さんの腕が、アユミの首に絡まっていた。アユミは身動きが取れず、かといって抵抗もせず、身を任せていた。鮎川さんの手が、私の浴衣を脱がせた。そして大きな手が私の胸を鷲掴みした。痛いほどの快感が身体に流れて、私は大きな声を出してしまった。柏田さんの手が、アユミの胸をまさぐっていた。でも、上手く届かない。アユミは自ら体を入れ替え、柏田さんの手を自分の胸に導いた。アユミの短い喘ぎ声が聞こえた。その声に私の下半身は更に熱くなって、ぐっしょりと濡れた。その時、アユミの事が理解出来た気がした。私達は繋がっている。どこか深い場所で、ずっと昔から。アユミの喘ぎ声が大きくなった。それは私に向けられていた。心が震えた。何故かはわからない。でも心の深いところにそれは直接届くのだ。私も声を上げた。アユミの深い場所に届くように。そして音楽を奏でるみたいに確認し合った。私は何度も果てた。果てながら私はアユミの事を想った。何故だかは解らない。どんな感情かもわからない。でも今までとは異質な何か。怖かった。何処か遠いところへ連れて行かれる感覚。そして帰れない。私は恐怖と快楽の狭間を彷徨いながら浅い眠りについた。

◆七 結婚
朝、私は鮎川さんの腕の中で目を覚ました。鮎川さんは小さな寝息をたてて、ぐっすりと眠っていた。私達とアユミ達の部屋はいつの間にか襖で隔てられていた。隣の部屋の気配は無かった。私は鮎川さんを起こさないようにそっと布団を出た。裸だった。私は布団の中でくしゃくしゃになっていた浴衣を着て、朝風呂に出かけた。湯船にアユミが居た。「おはよう」と言って隣に腰を下ろした。
アユミは恥ずかしそうに、照れ笑いをしながら「おはよう」と言った。
「昨日は、酔っぱらっちゃった」と私は言った。
「みたいね。私も、あんまり覚えてないんだ」
「私も」
嘘だった。私もアユミも明確にそれを覚えている。アユミの喘ぎ声が耳の奥にこびりついている。私はアユミの方に、身体をひとつ寄せた。わずかに肩が触れ合った。
「どうだった?」と私は聞いた。
「うん」と言ってアユミはうつむいた。そして顔を上げ私の方を見て、「良かったよ。とても良かった。混ざり合った気がした」と言った。
「ドロドロに?」と私は聞いた。
「うん。サラサラではなくて、ドロドロに」
私は、湯船の中でアユミの手を握った。いつもと同じ繊細で華奢な手だった。
「良かったね」と私は言った。
「良かった」とアユミは言った。
 でも、私の中で本当に良かったのかどうか、よくわからなくなっていた。転がる石のように物事は進み、私の手には負えなくなっていた。私の安易で浅はかな目的が霞み始めた。どうしてこうなったのだろう。重要な何かが私の前に現れた。私の前に立って声をかけた。でもその重要な何かがわからなかった。そしてこれ以上考える事が怖かった。今は、前に進むしかなかった。心を閉ざして。今ある道を真っ直ぐに。

アユミと柏田さんの結婚式が執り行われたのはそれから半年後の事だった。結婚式は流石、柏田さんだけあって、一流企業の代表が招かれていた。誰も歳の差なんて気にしなかった。二八歳と四五歳。いまどき、よくある話だ。そしてこれもやっぱり柏田さん。新婚旅行はヨーロッパ一周、二十日間。人生で最初で最後のイベントなのだ。奮発するだけ奮発する、そんな感じだった。私達はその派手な結婚式に二人で呼ばれて鮎川さんは慣れないスピーチまでしたけれど、終わってしまうと嵐が去ったみたいに静かになって、二人で家路に着いた。鮎川さんはちょっと寂しそうだった。あれから、私とアユミが二人きりで会う事は、最後までなかった。

◆八 過去
私は相変わらずだった。週に一度、鮎川さんのマンションに行った。それ以外は身を潜めて暮らした。あの男に見つからないように。あいつの事だから、今頃私の事を血眼になって探しているだろう。以前私が働いていた会社にも行っているはずだ。このマンションの住所は誰も知らない。鮎川さんから直接借りているのだ。実家からも遠い。解るはずがない。
あの男にずっと脅されていた。私たちの関係を母に話すと。私は抵抗できず、給料のほとんどを手渡していた。奴隷だった。金銭的に、肉体的に。あの男は私を見逃すだろうか。いや、絶対に諦めない。必ず探し出すはずだ。あの男にとって私は最高のオモチャなのだから。ずっと弄ばれてきた。出会ったその日から。
母があの男を連れてきた時、私はまだ高校生だった。好きな男の子がいた。隣のクラスだった。ちょっとナイーブな子。いつも本ばかり読んでいる。決して女の子にはもてないタイプ。でも私は好きだった。図書館で私達はたまに会話を交わした。お互いに読んでいる本の話し。私は彼の細くて白い手にときめいた。たまに手紙も交換した。彼の書く文章が好きだった。角張った文字も。私に好意を持ってくれていた。それが文章から手に取るようにわかった。でも、直接的な言葉で伝えようとはしなかった。その痛々しさが好きだった。
友達に彼の事が好きになりそうだと話すと、ちょっと変わってるねと言われた。でも、良いんじゃないとも。ライバルが居なくて。あの頃は友達も多かった。誰とでも打ち解ける事が出来た。
雨の降る夜、あの男はやってきた。母に連れられて。挨拶もせずに男は母の部屋に入るとセックスを始めた。私が居ることなど構いもせずに。母のあんな声を初めて聞いた。母が私の前で初めて見せる、女の姿だった。二人の行為がどんなものだったのか、上手く想像出来なかった。ただ隣の部屋から聞こえてくる声で、私の手は下半身に伸びた。誰からも教わらずに本能でクリトリスに触れた。下半身がそれを求めた。クリトリスはすでに固くなっていた。先端を指で触れると、一瞬、身体の中心を何かが貫いた。思考が上手く働かず、でもある部分はとてもくっきりとしていた。股の間から今までには体験したことのないものが溢れてきた。私はクリトリスに触れながら、もう片方の指を溢れるものの中に入れた。指に膣のひだが絡みついた。それは指を欲していた。もっと奥へ奥へと要求した。私は欲望に引き込まれるまま、指を奥まで挿入した。ずるずると。指の第二関節まで達した時、指の腹にゴツゴツとしたものが触れた。何かいけないものだと感じた。これ以上触れてはいけない。でも刺激せずにはいられなかった。麻痺した脳みそとは別のものが明確に私をそこに向かわせた。つめを立て、その襞をひとかきした。カリカリとした凹凸があった。そしてその凹凸を爪でひっかくたびに私の中からさらに液が溢れた。それはおっしこみたいに、あとからあとからこぼれ落ちた。私は母の声を聞きながら、襖ひとつで隔てられた自分の部屋の布団の中でその行為にふけった。クリトリスはずっと固いままだった。手はべちょべちょになった。何か得体のしれないものが私を包んだ。それはかつて一度も味わった事のないものだった。これ以上先にいってはいけない。興奮の中で冷静な自分が居た。そして同時にどうしようもなく淫らな自分も居た。もっと先に行きたい。行けば何かがありそうだった。でも、怖い。葛藤が狭い空間にひしめいた。指だけが理性と無関係に動き続けた。突然母の声が止むと、肩をたたかれたみたいに私の手も止まった。やっと止める事が出来た。ホッとして、大きく何度も深呼吸した。そしてその夜は泥のように眠った。

朝起きると、母は既に仕事に出かけていた。夏休みだった私は、遅い朝食を一人で取った。後ろから物音がして振り返ると、昨日の男が居た。男はテーブルを挟んで私の前に座った。上半身は裸で、下はトランクスしか履いていなかった。その男はにやにやしながら私を舐めるように眺め、やがて、「母親には似てないな」と言った。
私は下を向いていた顔を上げずに、目だけを男に向けた。がっちりとした男の上半身は、つややかで、筋肉に溢れていた。腕は太く、日に焼けて黒光りしていた。その太い腕が私に近づき、大きな手が私の顎をつかんだ。
「絹代よりも可愛いな」男は私の顎を左右に振り、太い声で言った。
「やめて下さい」と私が言うと、その大きな手が私の頬を打ち、私の身体は椅子ごと床に叩き付けられた。私が起き上がろうとすると男は私の身体の上に馬乗りになり、両方の手首を上から押さえた。その力は私の力を超えていて、どんなに力を込めても動かなかった。
「おまえ、昨日一人でやってただろう。俺たちがやってるのを聞いて、オナニーしてただろ。俺は耳がいいんだ。声がもれてたぜ」力が出なくなった。恥ずかしさで、顔を覆う事も出来ずに、私は首だけを横に振った。涙が溢れてきた。そしてそれを拭う事も出来ず、声も出なかった。ただ私は首を振り続けた。男は私の髪をつかみ、頭を床に押し付けた。男の大きな手が私の着ているものを脱がせ始めた。私は手で顔を覆うだけだった。男の手が私の色んな場所をまさぐった。それは荒々しく性急で、感情のかけらもなく、ただの排泄行為だった。全てが終わると、男は私の上で仁王立ちになり、記念写真だと言ってパシャパシャと携帯で写真を撮りはじめた。その時、私は失くしたのだと思う。処女だけじゃない。普通の女子高校生が普通に持っているもの全てを。

 男は母親の前で、とても良い父親を演じていた。たいしたものだった。露ほども尻尾を見せなかった。私の事を下の名前で呼んで、優しくした。母親はこの男を心底愛していたと思う。父が亡くなって以来、女手一つで私を育ててくれた。いつも働いていた。そして借金を背負って苦労していた。母の屈託のない笑顔を見るのは久しぶりだった。いや、初めてだったのかもしれない。いつの間にか、父の遺影が消えていた。
 だけどこの男は、母が居なくなると豹変した。私を奴隷のように扱った。私の汚れた写真を床に並べ、色んな事を要求した。考えられるありとあらゆる奉仕をさせられた。私の身体は汚れて行った。どんなに洗っても取ることは出来ない。男は母からもらった金が尽きると、知らない男を連れてきて、私に寝るように強要した。隣の町のはずれにあるラブホテルに出向くのだ。一日一人の時もあれば、三人の時もあった。たまに一度に二人と言うときもあった。私の高校三年の夏は、数々の男たちとのセックスにまみれていった。
あの時、もっと大きな声を上げていたら、私はこれほどのものを失わずにすんだのかもしれない。淡い恋。たくさんの友達。進学。青春。セックスをした相手の一人が私だと気が付き(同級生のお兄さんだった)学校で噂になった。好きだった男の子からは「さよなら」と短い手紙をもらった。仲の良かった友達は、私と目を合わせるのをやめた。そしてみんな私から離れて行った。
 高校を卒業して職を見つけ、一人暮らしをしようとしたけど、あの男はそれを許さなかった。既に決まっていたアパートを無理やり解約させた。そしてずっと私をつけまわした。退社時間を見計らい、職場の前にいつもいた。休日の外出は許してはもらえなかった。そのせいで、彼氏はもちろん、新しい職場の友達さえ出来なかった。給料は全てむしり取られた。母が居る時は常に三人一緒の美しい家族で、母が仕事の時は、知らない男と寝る事を強要された。そして客が見つからない時、男は私を抱いた。
ずっと声を上げるべきだと思っていた。誰かに何処かに訴えるべきだったと。でもあの時、私の中の何かが麻痺していたのだと思う。母への想いもあった。でも他の何かが私に抵抗する力を失わせていた。それが何であったのか、今では解っている。だから私は、是が非にでも抜け出す必要があったのだ。

玄関のチャイムが鳴った。TVモニターに男が映っていた。深い帽子をかぶりサングラスをしていた。密かに動き、人目を忍んでいる。そんな風貌だった。私はモニターを見つめた。誰だかわからない。
「誰?」声が震えた。静かな部屋に、私の心臓の音だけが響いた。
「私だ」とその男は言った。機械的な音が混じって誰だかわからない。
エントランスの郵便受けに、名前は出していない。住民票も書き換えていない。ここがあの男にわかるはずはないのだ。全てに偽名を使っている。鮎川さんが裏切らない限り私は、安全なのだ。サングラスの奥からこちらを見ている。私を見透かしている。とうとう見つけたという目をしている。そんな気がする。男は黙っている。視線だけがカメラ越しに届く。
「誰?」ともう一度言ってみる。エントランスホールに私の声が響く。その音に男が反応する。男はモニターに顔を近づけ、「柏田だ」と言った。

◆九 訪問者
柏田は一人だった。私がコーヒーを勧めると、それを両手で抱え込むようにして、ズルズルと音をたててすすった。金を持っていても、育ちが良くないのだ。どんなに取り繕ってもにじみ出てしまう。努力では覆いきれないものがあるのだ。アユミには品があった。凛としていた。小さな頃から良い環境で育つと、いつのまにか品が作られる。そして継承される。

「良かったよ」と柏田は言った。
「何が?」と私は言った。
「旅行。天気。全て」
「アユミの若さ、身体」と私は付け加えた。
柏田は笑った。堪えても、あとから湧き出てくる。そんな笑い方だった。
「良かったよ」ともう一度言った。
「そう」一呼吸おいて、私は答えた。
「君の提案に乗って、本当に良かった。これは約束の金だ」
柏田は、抱えてきた紙袋から、現金を出した。
「空港から直接来たんだ。そういう約束だったからな。土産は、後日、アユミと持ってくるよ」そう言うと柏田はテーブルの上にその四角い塊を積み上げた。百万円の束が五段で二列。一千万円。テレビでなら見たことがある。よくある風景。でも、実際に目にするのは初めてだった。

「私のレクチャーは役に立ったでしょ」と私は言った。
「ああ、最初から最後まで」と柏田は言った。
「あなたという人物を把握するのに、最初はああする方が、手っ取り早かった。よく、解ったわ。あなたのこれまでのつたない経験が。計画も立てやすかった」
「その後の段取りも、申し分なかったよ。今まで俺は、いかに仕事人間だったのか、痛感した。ある部分で俺は無能な人間だ。君が居なかったら、手も足も出なかった。何処から始めたらいいのか、さっぱり見当も付かなかった。一緒に旅行に行くというのは良いアイデアだったな」
「私の喘ぎ声を聞いて、勃起したでしょ」
柏田は一瞬顔を赤らめ、下を向きながら「ああ。シナリオ通りだったな」と言った。
「アユミは私たちがキスをしたり、抱きあったりするのをみて、理性を失った。だから、あとは、簡単だったはずよ。誰がやっても上手くいく。あなたを受け入れる準備も事前にしておいた。年上の男性がどれほど経験豊かで濃厚で安心か、さり気なく確実に、事あるごとにアユミの深層心理に刷り込んでおいた」
「立派な商品パッケージだな。何処にでも飾って置ける。じゃあ、やっぱりあれは作り話しなのか。父親から強姦された話し」
「本当よ。全部本当の話し。酔った勢いというのは嘘だけど。あの男はしらふでも私を抱いたわ」
柏田は私を見上げて、それから再びうつむき、首を横に振った。
「とにかく、客としてこれを置いて帰る。受け取ってくれ」そう言うと、テーブルに積んだ札束を私の前に押しやった。
これまでの私の人生の中で実際に目にした事もない高額な現金。私の殺風景な部屋には場違いなものだった。でももはや、織り込み済みの金。たいして興味も感慨もなかった。

「じゃあ、もうひとつ、これからのビジネスパートナーとして、頼んでおいたリストを頂戴」
柏田は、ビジネスバックから封筒を取り出して私に差し出した。私はその一枚の紙を眺め「いくらでもいるのね。金持ちって」と言った。
「ああ、いくらでもいる。だけど、たいていは土地を持っていたり、遺産を受け継いだりしている連中だ。俺くらいだよ、裸一貫で稼いだのは」と柏田は言った。
「そこだけは尊敬するわ。だから、あなたを選んだのよ」
「鮎川ではなく、俺だったんだな」
「勘違いしないで。鮎川さんは不向きなだけよ。何度か私と寝ただけで、あなたは鮎川さんを越えられないわ。足元にも及ばない。あなたと寝たのは、レクチャーのためだけの行為。アユミをあなたに向かわせるために、あなたには訓練が必要だった。あなたのスキルと経験の無さは、簡単に補えるものではなかった。それはあなたが一番知っているはず。私の男はあくまで、鮎川さんよ。何を外しても必要なの。あたなの代わりはいくらでもいるわ。だから、鮎川さんを馬鹿にするような言い方を私は許さない」
「そう、つっかかるな。君には感謝している。金には代えられないくらい、貴重なものだ。この金でも安いと思っている。この年で諦めていたものが、手に入ったんだからな。それに良いビジネスモデルだとも思うよ。高収入中年男性と若くて綺麗な女の子を結びつける。俺と君が組んだら大きな収入になる。俺は今まで以上の生活が出来て、君は鮎川と十分な暮らしが出来る。適齢期をとうに超えた不幸な中年童貞を救える。良い生活を夢見るけど、出口の見えない若い女性も救える。誰もが幸せになれる。誰も不利益をこうむらない。少子化に歯止めがきく。ブライダル産業にも貢献出来る」
「結婚式場からのマージンは折半で良いわ。紹介してもらった男からは、私が七割もらうけど、それで構わないわよね?教育費込みで。身体を張ってるんだから、それでも少ないくらいよ。あなたは、知人を私に紹介するだけ。楽なものだわ。私がリスクと労力を負うの。問題は無いわよね?それと、マサト君への手切れ金、私が身体で立て替えてるの。今度、持ってきて頂戴。百万円。アユミと土産を持ってきた時に忍ばせておいて」
柏田は、私の言っている意味が上手く理解できない様子だった。しばらく私を生気の無いよどんだ目で見ていた。ようやく理解できると今度は私を、無遠慮な視線で下から上まで舐め上げ「ああ。異存はないよ」と言って、再びうつむいた。柏田は私の足を見ていた。長い間、海を漂流して、ようやく海岸にたどり着いた流木でも眺めるみたいにじっと。そして自分を無理やり納得させるかのように何度も頷くと、ゆっくりと顔を上げて口を開いた。
「ひとつ、聞いていいか」
「まだ何か私に不満があるのかしら?」と私は言った。
「そうではない。ただの素朴な疑問だ。ここへ来て思ったんだ。見ればキミは普通の女性だ。変な意味には取らないで欲しいが、何処にでもいる、真面目で、当たり前のまともな人だ。だけど、やってる事は尋常ではない。友達を裏切り、恋人も裏切っている。まあ、事情があるんだろう。それは私の関知するところではない。ただ、起点というかきっかけがあったはずだ。いつ、何がキミをそこに向かわせた?それが知りたい。ただの好奇心だ。気に障ったら忘れてくれ」
「好奇心?あなたのような職業の人には、必要な事なのでしょうね。そうやって、何でも踏み台にして生きてきたのね。でも、良いわ。教えて上げる。私も似たようなものなんだから。あなたに見せたでしょ。私とアユミが交わしたメールの全てを。最初の出会いから最後の一行まで。あなたに、アユミがどんな女であるかを知ってもらうために。『もう、私たち、無理かも……』というメールが送られてきたとき。あの夜、私は鮎川さんに抱かれながら思いついたの。最初はぼんやりとしたものだったわ。はっきりしたものじゃなかった。ただ私の中に悪意のようなものが降りてきて宿ったの。それは、はっきりと実感出来た。でもなかなか正体が見えなかった。何処に向かえば良いのかわからなかった。だから流れに身を任せるしかなかった。それが何であるか解った時の事を覚えているわ。ぞっとした。自分のしようとしていることが恐ろしくなった。怖くて震えたわ。でも後戻りも出来なかった。
ひどい女。そう思ってもらって、構わないわ。ただ一人の大切な友達を騙すようなことをして。でもね、私は誰も不幸にはしてないわ。みんなを幸せにしてる。マサト君はアユミと別れて自由になりたがっていたし、アユミは結婚をして安定を欲しがっていた。あなたは若くて綺麗で、結婚できる女なら誰だってよかった。それなのに誰も何もしなかった。動かず、指をくわえてじっと見ているだけで、人生を傍観していた。そんな自由さえ奪われた者が居るのに。だから私が動いたの。代わりに必死になって。上手く行ったわ。上手く行ったでしょ?笑っちゃうくらい。あなたはノコノコと金を持ってくるし、アユミは幸せなメールを何通もくれた。マサト君はストーカーみたいなアユミから解放されて、何人もの女とつきあってる。傷ついたのは、私一人よ。これでも傷ついてるの。理解出来ないでしょうけど。これでもぎりぎりでやってるの。限界に近いの。それにね、あなたは誰も不利益をこうむらないと言うけど、私は大切なものを失ったの。本当に心から欲しかったものを失ったの。あなたにこの気持ちがわかる?」

私が心から欲しかったもの。あの温泉の夜、目の当たりにした。でも、もっと早くから分かっていたのかもしれない。ただ、気が付かないふりをしていただけなのだ。そんなはずはないと。でもダメだった。目を背ければ背けるほど、それは目の前を覆った。私の心にガンガンと打ち付けた。隠せば隠すほど、くっきりと姿を現し、止める事が出来なかった。出来る事なら、全部壊してしまいたかった。全部壊して、私は取りたかった。私が初めて心から欲しいと思ったものを、鷲掴みにして。
私が本当に欲しかったもの。それを、柏田。あんたは金で簡単に手に入れた。アユミ。綺麗なアユミ。綺麗なだけじゃない。繊細で傷つきやすく、壊れてしまいそうなくらいもろく、不完全なアユミ。私が包んであげたかった。私から溢れるもの全てで覆い尽くしたかった。アユミの全てを征服したかった。二人でドロドロになりたかった。アユミの心の糧になりたかった。愛し合いたかった。アユミ。私はあなたを欺いた。金の為に。こんなものが欲しかった訳じゃない。アユミとは比べものにならない。どうしてこんなことをしたのだろう。間が差した訳ではない。流れに身を任せた訳でもない。ただ、こうなってしまった。逆らえなかった。全ては承知していたはずだ。心のどこかで。止めようと思えば止められた。でも、止められなかった。私の中にある弱い心がそうさせた。冷静な判断を放棄させた。どうしようもなく汚れてしまった心。淫らで逆らえない弱い心。ずっと私を支配し、服従させていたもの。わかっている。わかっているのだ。
あの男の段取りが上手く行かなくて客が取れず私を抱くとき、私は、深くイッた。あの男のやり方は武骨で乱暴で、優しさのかけらもなかったのだけれど、あの男に触れられると、身の毛もよだつのだけれど、あの男の指が膣の中に深く挿入された瞬間、私は涎を垂らし、犬のように鳴きながら果てた。頭では嫌悪していても、身体が勝手に反応してしまうのだ。あの男の指が欲しくて欲しくて、たまらなかったのだ。
深呼吸をした。僅かな新札のにおい。私はその上に手を置いた。暖かかった。ぬくもりがあるのだ。気持ちの無いものでも、暖かいのだと思った。込みあがってきていたものが次第に収まった。そしてゆっくりと降りて行った。

 私は大切なものを失った。やっと見つけたというのに、目の前を通り過ぎたというのに、手を差し伸べる事も出来たのに、何もしなかった。いや、何もしないばかりか、自ら壊してしまった。永遠に葬ってしまった。何故だろう。ずっと考えてきた。ずっとわからなかった。自分が自分でわからなかった。脳みそがぐちゃぐちゃになりそうだった。壊れては再生してまた壊れていった。出口がなかった。何処にも行けなかった。でも、と思う。あの温泉の夜、鮎川さんに抱かれ、恍惚としたなかで私は、選んだのだと思う。アユミの喘ぎ声を聞きながら、アユミを強く求めながらも、私は自分を守るために、新しい自分を築く為に、そして何よりあの男から逃れる為に、鮎川さんが必要だったのだ。鮎川さん。麻薬のようにとりつき、澱のようにこびりついたものを、私から丁寧にはがせてくれた。鮎川さんが必要なのだ。あの男が私を触れる手から、指から、逃れる為に。私の汚れた本能を永遠に封じ込める為に。

柏田はうなだれて、さっきから動こうとしない。私はこの男とも寝た。マサト君とも寝た。でも、もう私は他の誰とも寝たりはしない。今、はっきりと解った。もう二度と、同じ過ちを繰り返さない。鮎川さんを選び、あとは全部捨ててしまおう。そして鮎川さんに全てを話そう。鮎川さんは、どう思うだろう。何て言うだろう。もしかしたら私を拒絶するかもしれない。こんな淫らな私を軽蔑するかもしれない。そして捨てられるかもしれない。でも、それならそれで構わない。鮎川さんに会いたい。今すぐに会いたい。そうしない事には、全てが始まらないのだ。そして何処へも行けないのだ。
私は柏田の前で目を瞑った。この男も、あの夜悪魔に心を売り渡した私の犠牲者なのだ。非は全くないのだ。私が誘い、陥れたのだ。私は目を開け、こみ上げてくるもの全てを押さえながら、目の前の現金を柏田の前に押し戻した。

◆十 この不確かな世界で
 家を出たのは夕方だった。混乱している柏田を追い帰し、私は鮎川さんのマンションに向かった。清々しい気持ちだった。何かが吹っ切れた感じ。もう、こそこそと生きるのは、止めよう。もう何も隠すものはない。失うものは何もないのだ。全てを話す。そう決断したら心が軽くなった。こんな晴れやかな気持ちで、鮎川さんのマンションまでの道を歩いた事はなかった。新しい事が始まる予感がした。こんなふうに誰かを求めたのは初めてかもしれない。私はいつものようにマンションのリビングのドアを開けた。鮎川さんは、リビングの大きなソファーに座っていた。
「今日は、約束の日じゃないだろう?」鮎川さんは私を見るとびっくりした顔で立ち上がった。
「話があるの。とても大切な話しなの」と私は言った。鮎川さんは、私の髪を撫でながら「どうしたの、急に」と言って私の言葉を待った。
「もしかしたら今日で最後になるかもしれないの。でも、最後まで聞いてほしいの。全てを知って欲しいの。本当の私を知って欲しいの。そしてそれでも私を受け入れてくれるって言うのなら、私と結婚して欲しい。気が付いたの。たった今。あなたと一生、生きて生きたいって。私には鮎川さんが必要なの。あなた自身が必要なの。他には何も要らない。子供なんて要らない。お金なんて要らない。私には必要ないの。鮎川さん以外、要らないの。だから聞いてほしいの。本当の私を」鮎川さんは私を抱き寄せた。鮎川さんのにおいがした。いつもの優しいにおい。まだ、何も話してないのに全てを許された気がした。私は鮎川さんの胸に鼻を押し付け、胸いっぱいに吸い込んだ。とても幸せな気持ちに包まれた。
だけど、後ろから物音がした。不自然な音。今までとは異質な、存在する音。私は鮎川さんの胸から身体を離した。そして振り返った。その音を確かめるために。でも、私は解っていたのかもしれない。その存在が誰だったのか、振り返るずっと前から。

アユミの当惑した顔が私の見た最初のものだった。愛しかったアユミ。欲しかったアユミ。そして諦めたアユミ。アユミは、豊かな胸をバスローブで包み、濡れた髪を肩に落とし、顔を上気させ、いつもはくっきりとした目をうつろに泳がせ、私と視線を合わせようとはしなかった。ぽたぽたと、濡れたアユミからしずくが落ちる音が聞こえる。その音を私たち三人はしばらく聞いていた。

「アユミがどうしてここにいるの?」私は誰に向かってしゃべっているのだろう。アユミに?鮎川さんに?私の声は小さく、ただそのしずくみたいに、口からこぼれていくだけだった。
「いつからなの?」しずくの音は、私の混乱とは無関係に続いた。私の声は、そのしずくの音をかき消すことが出来ない。
鮎川さんが私に触ろうとした。乾いた私と濡れたアユミ。私は鮎川さんの手を振りほどき、ガラスが震えるほど大きな声を出した。
「どうしてここにアユミが居るの?」しずくの音は止んだ。時間が膨張し、ゆっくりと流れ、全てが現実的ではなかった。

「愛してるんだ」と鮎川さんは言った。いつもの低い声だった。私を安心させ、私を救ってくれた、声。でも、目の前にはアユミが居た。誰に向かって言っているのかわからなかった。いったい、あなはたは、誰を愛してるの?鮎川さん。
「ずっと前から愛してるんだ」鮎川さんはもう一度言った。私の正面に立ち、私の肩を両手で押さえ、私の目を見つめた。目の奥がちりちりと痛んだ。頭の後ろに突き抜けてしまうような視線。まるで重さを持っているようなその力が私の意識をはっきりとさせた。間延びした時間が収縮し、ちゃんとした時を刻み始めた。
「愛してるんだ。月子」
月子。私の名前。私の過去。私の本当の姿。
「ずっと前から君を見ていたんだ。僕らがメールで知り合うずっと前から。僕は君を知っていた。何もかも知ってるんだ。君が以前、何処に住んでいたのか。父親が誰で、誰とどんなふうに暮らしていたのか」
信じられなかった。今までの鮎川さんとはまるで違っていた。あの純粋で素朴で誠実な鮎川さんはそこに居なかった。今、私の目の前に居るのは、世間の荒波に揉まれ、タフで器用で、一方的な手段で私を欺き、不当な方法で私を陥れ、そして私の心を奪った男だった。

「隣の街に仕事で行ったときに偶然、君を見かけた。君が今、いつも使っているコーヒーショップと同じ名前の店だ。君は泣いていた。通りを見ながら、目に涙をいっぱいに溜めて、こぼれ落ちるしずくを拭おうともせずボロボロと泣いていた。まるで、自分が泣いていることに気がつかないで居るみたいに見えた。僕は隣に座っていた。そして黙って見ていた。見る事しか出来なかった。慰めの言葉は見つからなかった。何も頭には浮かんでこなかった。だけど、それは最初から決まっていたように感じた。朝、起きて、僕はこの場所に来るべきだと感じていたんだ。だから、僕はとても自然に受け止める事が出来た。君が僕の隣で泣いている事実を。僕は君が立ち上がると、後を付けた。足が勝手に動いていたんだ。そこには理性や思考というのもが割って入る事は出来なかった。君をもっと知る以外に僕には取るべき道はなかった。君の素性は興信所に依頼して調べてもらった。とても辛い目にあってる事を知った。どうしても君と友達になりたかった。そして救いたかった。
アユミに頼んだ。君と知り合いになるために。愛人だったアユミを使った。アユミに君と友達になってもらって、僕は君の情報を手に入れた。君のアドレスに間違いメールを送った。君とメル友になってから、アユミとの関係は終わりにしてもらった。でも、君とアユミの友達関係が続いている事は知らなかった。そしてまさか、アユミが旅行にまでついてくるとは。それを知った時、何故か止められなかった。どうしてだろう。柏田に勝てた気がしたのかな。ずっと劣等感のあった柏田に、何か一つくらい、勝ちたかったのかもしれない。柏田はアユミと僕の事を知らない。今日も、こうなるはずではなかった。新婚旅行から帰ってきて、アユミは真っ直ぐここへ来たんだ。柏田に急用が出来たからといって。時間をつぶすために。シャワーを勧めた。とても疲れていたから。ただ、僕たちの間にはもう、何もない。君を裏切るような事は何もないんだ。愛人契約の終わった、ただの友達なんだ。だけど、ずっと君を裏切り続けてきたことも事実だ。君を騙すようなことをしてしまった。でも、運命なんだ。君と僕があの場所で会ったことがそれを証明している。あの場所から全てが始まった。僕には君が必要なんだ。君を救うことで僕は僕で居られた。僕をこの世界に繋ぎ止める事が出来たんだ。君をずっと……」

この複雑な世界で、信じられるものがあるとしたら、それは何だろう?この情報の溢れた不確かな時代に、私は唯一信頼していたものを無くしてしまった。欺いたつもりが欺かれていた。私の手の中に鮎川さんが居て、鮎川さんの手の中に私は居た。そして二人とも、全てを理解出来ずに居たのだ。いや、鮎川さんばかりではない。私はアユミを、アユミは私を、鮎川さんは柏田を、それぞれ欺いていた。それは何処までも続く万華鏡にも、どこまでも膨張する宇宙にも思えた。いつまでたっても実態が浮かび上がってこない。そして最後まで、私がこの世界から居なくなっても見えてはこないだろう。でも、私は真実を追いかけるのだと思う。どんなに世界が危うくても不確かでも、真実なんて存在しなくても私は、探し続けると思う。その中に、彼の中に、少しでも私に向かうものがあるのなら。
鮎川さんは私に向かって、何かを語り続けている。それは言い訳でしかないのだろう。だけど私に向かっている。光を曲げる重力みたいに曲げようとしている。その力が重要なのだと思うんだ。私に向かってくる力。私を変えようとする力。それは私の為なんでしょ?鮎川さん。アユミの顔がみえる。愛しかったアユミが今では、霞んで見える。
「鮎川さん。私もあなたに話さなくてはいけないことがあるの」と私は言った。アユミが私に向かって何か語りかけている。でも、今は、鮎川さんしか見えない。
                              おわり

月がミチル

月がミチル

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2012-08-15

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND