20170723-夢
一
「ねえ、嘘でしょ?」
「ごめん……」
夢乃は信じられなかった。あんなに愛し合っていたのに、突然別れを言われるなんて。それを待っていたかのように、粉雪が降り始める。その一粒が夢乃の涙にとまり、夢乃を美しく化粧した。
だが、泣いている夢乃を残して、男は行ってしまった。涙では引きとめられないと分かった瞬間、夢乃の膝は力をなくして、崩れてしまう。呆然と去り行く男を目で追っていたが、やがて見えなくなった。それでも、夢乃の膝には力が戻っては来なかった。いつまでも、いつまでも。
一九七二年一月。世の中は札幌オリンピックに沸いていた。デパートも、至るところで便乗して売り出しを伸ばしていた。それは、やはり札幌が際立っていて、夢乃の勤めるMデパートでも、皆忙しく働いていた。
「夢乃ちゃん。お疲れ」
「千鶴さん。お疲れさまです」
「はい、発注書。よろしくね」
「分かりました。すぐに、発注しますね」
「ねねね。ちょっとこっちへ来てよ」
「はい?」
夢乃は給湯室に引っ張りこまれる。
「はい。定山渓温泉のチケット」
「どうしたんですか、これ?」
「家族四人で行こうと思ったんだけど、急に夫が長期出張になっちゃって。まったく、ついてないわ」
「それでですか」
「それ上げるから、家族で行ってらっしゃいよ。ね」
「え? 五万円! そんな悪いですよ。こんな高価なもの」
そう夢乃が言うと、千鶴は周りをきょろきょろして声をひそめて言った。
「誰にも言わないでね。それ、I商事からの心づくしだから」
言い換えると賄賂ではないかと夢乃は思ったが、この程度のことは皆やっている。けれど、これで損をする人はいないし、かえって仕事が潤滑に流れるのだ。それを、上司も見て見ぬふりだ。夢乃は、このふさぎ切った気分を少しでもすっきりさせようと、チケットを受け取った。
二月の平日、温泉をあがり一人くつろいでいた。定山渓温泉のお湯は肌に染み入り、連日の忙しい仕事の疲れが取れる。そして、お楽しみのお料理は豪華なカニやウニがふんだんに用意されていると、コースの説明に書いてある。夢乃は、母と妹とが風呂から上がるのを待ちながら、ゆっくりと美味しいお茶を飲んでいた。
夢乃は、気が緩むとつい彼のことを思い出してしまう。優しい声、悩みを聞いてくれる時の真剣な眼差し、繊細な指、激しい愛撫……。もう、二度とそんな日々は戻ってはこないと思うと、二か月たった今でも涙が出てしまう。
夢乃が、別れを言われた理由。それは女の魅力がなかったことは分かっている。少しばかり顔はいいが、ペチャンコの胸とお尻。もしも、夢乃が男ならボインを選ぶ。それでも、夢乃を選ぶ人がきっといるなんて夢を抱いてしまう。そんな訳はないのに。
もう、誰かに好かれようと思うのはやめよう。一人で生きて行くんだ。そう、夢乃は心に刻んだ。
廊下からパタパタとスリッパの音がする。続いて勢いよく戸を開けて妹の声がした。
「お姉ちゃん? やっぱりいた。おかあさーん、いたよー!」
「まあ、この子は大きな声で。少しは静かになさい」
妹の照美は、母と姿形がそっくりである。そして、夢乃と違い胸もお尻も豊満だ。小さい頃はいつか私も母に負けないくらい大きくなると夢乃は楽しみにしていたが、高校を卒業するころには、それは叶わないこととあきらめた。夢乃は、スリムな父親似。そして、妹は豊満な母親似なのだ。
それでも、夢乃は妹を嫌いにはなれなかった。人懐っこくって夢乃に甘える妹。夢乃は、太陽のような妹が好きだった。
「さあ、ごはんにしよ。電話するから」
「ほんと、夢乃にはお世話になるね。ありがとうね」
「やだな、他人行儀なんだから。あ、モシモシ。……」
出された料理は皆新鮮で、そして美味しくて、夢乃たちは存分に味わった。母が、残った料理をもったいないと言ってタッパに詰めて、冷蔵庫で冷やす。父の分だ。
「大丈夫だよ、冷蔵庫で一晩冷やせば、一日ぐらい持つって」
そう言って母は、うれしそうに冷蔵庫をしめた。
父は、朝早くの仕事。豆腐屋を営んでいる。日曜の朝も、お得意さんがあるからと言って、旅行には来なかった。昔気質の職人である。母も手伝おうとしたが、父は行ってきなさいと言って送り出した。
食事のあと、マッサージを呼んだ。母は、ありがとうねと言って涙を浮かべた。妹は、球戯場へ行くと言って、誰かをつかまえ卓球に熱中したようだ。夢乃は、母がマッサージを受けている傍らで、読みかけの本を読む。幸せだ、私は。確かに夢乃はそう思った。
その夜、夢乃たちはテレビを観て遅くまで語り明かした。オリンピックで金銀銅を獲得したジャンプ、日の丸飛行隊の雄姿を。笠谷たちの活躍を。何度も、何度も。やがて、皆寝てしまった。
二
翌朝、早い風呂につかり、ビュッフェで朝食を取った夢乃たちは、定山渓温泉をあとにした。だが、その日は昨夜から雪が降り続き、夢乃たちを乗せたバスは、ワイパーをかけてもなお、視界が悪かった。心配性の母が、強く夢乃と妹の手をつかんで離さない。
「そんなに心配しなくたって大丈夫だよ、おかあさん。ほら、飴でも舐めたら?」
そのとき、突然雪が激しくなり、なにも見えなくなった。そして、バスは激しいブレーキ音と共に大きく傾き、雪山に突っ込む。バスは横倒しになり、車内に道路標識が突き刺さる。酷い事故だった。
やがて、母と妹が気が付き、大丈夫? と声をかけ合う。だが、夢乃は肩をゆすっても目を覚まさない。抱き起す母の手には、べっとりと血のりが。母は、夢乃の名を呼び続けた。いつまでも、いつまでも。
夢乃は、事故から六時間後、ようやく救急車で大学病院へ運ばれると、検査されすぐに手術を受ける。十時間におよぶ難手術だった。ICUに入れられて回復がはかられるが、医者に助かる可能性は低いと言われて、父母と妹は覚悟した。疲れ切った顔で、ICUの夢乃を見つめる。いつ、鼓動が止まってしまうかと、心臓をしめつけられながら。
だが、一日たち、二日たち、一週間たっても、呼吸は止まらなかった。ほどなく、夢乃は普通病棟のベッドへ移された。そして、一年がたっても変わらず呼吸し続けた。意識は戻らないのに。医者は、母や父にどうしますか? と聞く。それは、このまま維持するかという意味だと思うが、医者も自発呼吸している患者をどうすればいいのか、判断に困っていた。母は、家で引き取って看病すると決意する。そのときの、ほっとした医者の顔を思い出すたび、母の血圧はあがった。だが、それは大学病院というところは、できるだけ多くの患者の命を救わないといけないと言う使命から、仕方のないことなのだが。
家に引き取られても夢乃は目覚めることはなかった。酸素マスクを着け、栄養剤を点滴されて静かに眠り続けた。
そして、季節をかさね、十年がたち、二十年がたった。母は、夢乃の誕生日が来るたびケーキを買ってお祝いをした。それに合わせて、遠くに勤めている妹が帰省する。やがて、妹の子供たちも。その時の写真は、テープでとめて夢乃のベッドにはってある。
事故から二十八年がたったとき、父が亡くなった。疲れ切った顔だった。そして、二十九年になろうとしていた年、父のあとを追うように母がこの世を去った。心残りだったろう。眉間には深いシワが刻まれていた。
次に夢乃を看病したのは妹の子供、咲枝だった。彼女は、医者になっていて、それは遠からず夢乃がいたからだった。誕生日のたびに眠っている夢乃に会い、いつしか気に病んでいたのかも知れない。
彼女は、夢乃の意識を回復させる方法を考えていて、ある日それを試してしまう。二〇〇五年のことだった。
「うーーん」
「夢乃さん! 夢乃さん!」
「ここは……。ここはどこ?」
「よかった」
「あれ? 照美。なに白衣なんて着ているの?」
「夢乃さん。私は、照美の娘、咲枝ですよ」
「え? なに言っているの?」
実に三十三年ぶりの目覚めだった。
夢乃は、語った。
「私は、長い夢を見ていたみたいなの」
聞いてみると、それは三十三年分の夢だった。
三
あの事故のあと、私が病院で目を覚ますと、おかあさんと妹がよかったと言って泣いています。ああ、私は助かったんだなと思ったら、私も涙が止まりませんでした。窓の外を見ると桜が咲いていたから、季節はもう五月。私は、実に三か月もの間、眠り続けたのですね。起きようとしたけれど、身体中の筋肉が落ちていて、リハビリには苦労しました。
それから、二か月後に退院した私は、Mデパートの従業員の歓迎を受けて職場復帰を果たすのです。千鶴さんが、とても申し訳ないことをしたと言って謝ります。でも、事故は千鶴さんのせいじゃないので、頭を上げてと言いました。そうして、私は以前のように働き始めたのです。
その日は、暑い盛りの八月上旬でした。職場に、私を振った彼が現れました。私たちのただならぬ気配に、皆息を飲んで見守ります。「夢乃」と名前を呼ばれても、私は下を向いて黙っていました。すると、彼は言いました。結婚してほしいと。私は自分の耳を疑いました。しかし、もう一度言われ泣き出してしまいます。こんなことがあるのだなと。
彼の話では、あの事故以来、私のことが頭からはなれなかったそうです。そう、あの事故が私の運命を変えたのです。あの雪に感謝しなくてはいけませんね。
私は、彼と結婚をして、子供を三人授かり、無事成長を見届けたのです。苦労もありましたが、私の誕生日には皆で祝ってくれたりと、たくさんいい思い出もありました。あり難く思っています。
そして、彼の定年もあと少しとなった五年前、あっけなく脳卒中で亡くなりました。私にさよならも言わずに逝くなんて、薄情な人ですよね。
悲しみからようやく立ち直って、静かに日々を送っていると、身体に鈍い痛みを感じて病院へ行きました。その結果、ガンだと診断され、あと半年の命だと言われてしまいました……。でも、いいんです。幸せな人生を送れましたから。
あれ? 全部夢でしたっけ? ふふふふ。
ああ、ひさしぶりに人と話して、疲れてしまいました。少し、眠ってもいいですか?
四
夢乃の妹の子供、咲枝は気になって調べてみた。確かに、夢乃の元恋人は、五年前に亡くなっている。そして、夢乃の身体を調べると、治療が困難なガンが見つかった。
咲枝は、考える。
これは、ただの偶然ではない。現実が、夢に影響を与えたとしか思えない。では、なぜ影響を与えたのかと聞かれれば返答に困ってしまう。夢乃は意識もなく寝たきりだったのだから。
いや、まさか夢が現実に影響を与えたなんてことは。そんな馬鹿なことはありえないと思うが……。
夢乃は、目覚めて半年後にこの世を去った。本人は、いい夢を見れたから、満足して逝ったらしいが、あとに残された咲枝は、どうしようかと悩んでいた。私も、意識不明になってみようかしらと。
(終わり)
20170723-夢