(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)③

(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)③

③綻びる心

日中は商人を装ったキャラバンで荒野を渡り、陽の沈んだ後は幕舎をたて夜営する。エジプトからの追手はなく、イズミルは確実にナイルの姫を自国に運んでいた。

「いまだエジプトに動きはないか」

「はい、王子。ナイルの姫が連れ去られたという報せもなく、平時となんら変わらぬ様子です。」

オアシスの外れ、人目を避けた草むらで、ヒッタイトの王子イズミルは、控えるふたりの間者にエジプトの近情を報告させていた。ひとりは二十すぎの青年。もうひとりは十四、五の少年だった。
イズミルは少年の方の臣下に目をやった。

「ルカよ」

「はっ」

「そなたがエジプトからナイルの姫を手引きした際の経緯について、今一度話せ」

「はい王子」

ルカと呼ばれた少年が顔をあげる。痩せた体躯に薄汚れた衣をまとっているのは、下僕のふりをしているからだ。顔立ちにはまだ幼さが残るが、その瞳には隠者特有の隙のない光が宿る。

「まず、ナイルの姫はメンフィス王と仲違いされて、テーベの都を出たがっておられました。わたしがお連れしますと進言しましたところ、喜んで同意されました。
折しも、メンフィス王が遠方の炭鉱へ視察に向かったため、その隙をついて砂漠へ出ました。」

「そなたの行動を怪しむ者は。」

「いえ。わたしくしは姫がお怪我をされた際、治療を施したことで信頼を得ており、以来、姫君を側近く守れとファラオに命じられておりました。」

忠実な部下は、主人に曇りのない目を向ける。

「周りの者には、キャロル様が下エジプトをご覧になりたいと申すゆえ、お連れすると告げて出て参りました。ついていこうとする侍女もおりましたが、なぜかナイルの姫はこれを強く拒みました。」

いまごろメンフィス王は、姫は下エジプトの宮殿にいると思い込んでいるはずだ、というルカの返答に、イズミルは満足げに目を細める。まだ年端のいかぬ子供だというのに、抜け目のない働きをするルカを王子は買っていた。

「そなたはあの姫に信頼されている。ここでは決して姫に姿を見られぬようにせよ。よいな。」

「はい」

命じられて返事をする声が、わずかに揺れた。
イズミル王子の臣下であるルカは、キャロルと共にエジプトをでたあと、ヒッタイト軍の襲撃に遭い、はぐれたことになっていた。
なんの疑いもなく自分を信頼し、連れ去られる直前までこの身を案じてくれた姫のことを思い返し、少年の胸はじくりと痛んだ。
しかし他国の間諜<かんちょう>の役目を背負う少年は、すぐにその罪悪感を振り払うと、影に徹しきれない自分を恥じた。

王子は、改めて臣下の若者ふたりに向き直る。

「ここまで動きがないというのは逆に油断がならぬ。あのメンフィス王は本当に姫の足取りがつかめていないのか、あるいは…」

生い茂るパピルス越し、オアシスの蒼い湖面を睨む。

「すでに我が懐近くまで潜んできているかだ」

控えるふたりの間者は思わず息をのむ。今度は青年の方の間者がおずおずと口を開いた。

「お、恐れながら王子。我々が得た情報では、メンフィス王はいまだ我々が姫君を連れ去ったことに気づかず、宮殿でナイルの姫の帰りを待ちわびているとか。それにもし気づいたとして、あのエジプト王がそのような真似をするものかどうか」

先の戦で、待ったなしの真っ向勝負を挑んできたメンフィス王を思えば、王子の懸念に疑問を持つのも道理だ。だがヒッタイトの嫡子は険のある表情を崩さず、部下を諭す。

「メンフィスは王座について間もなく、我らが手にしている情報は少ない。
たった一度の手合わせなどで、相手の力量は推し量れぬもの。まだ年若い王だとて油断はするな。」

「はっ、申し訳ありませぬ、王子。」

富国エジプトのファラオとは、その領地を流れる雄大なナイル河に似て、大局に構えて戦を好まず、鷹揚な者が多いとされていた。だが、メンフィス王はそれだけでなく獅子のような勇猛さと鷹のような鋭さを併せ持つ。
あの戦で負けたのは、彼の王の手腕だと認めざるをえない。一辺倒の直線攻撃と思わせて、大胆にも敵陣奥深くまで潜んでくるとは、完全に自分の落ち度だった。
敗戦の辛酸を思い返し、奥歯をぎしりと噛む。

「だが、わたしはナイルの姫をメンフィス王に返す気はない。引き続きエジプトの動向に注視せよ。遅かれ早かれ、やつは必ず姫を奪い返しに来る。」

主の言葉に常にはない熱を感じ、ふたりの部下は身を引き締めると、その場に深々と平伏した。

そのころ当の姫はといえば、最初の覇気なくやや疲れたようすだった。食事はあまり喉を通らないらしく、相変わらず頑な横顔もひどく儚なげだ。

イズミルは気づかれぬよう姫の天幕をそっとのぞいた。
こちらの姿が見えないので気をゆるませているのだろう、膝を抱えて座り、腿に顔を埋めて休んでいる。夜、彼女が眠っているのを見たことがない王子は眉をひそめた。

エジプトを守ろうと、健気にミタムン王女の死の真相を伏せ続けたナイルの姫。愛しい娘の胸中を憎きエジプトが占めているということが、イズミルを苛立たせ、同時になんとしても手にいれたい、という気持ちにさせた。
それに、エジプト国民が愛する姫を奪えば、同時にエジプトは色を失い我が国に屈する。そんな政略的な野望も胸中にはあった。
だが、実際に彼女を目の前にすると、そんな怜悧な認識も雲のように曖昧になる。

(姫、そなたはいったい何者なのだ)

神の娘だというが、まるで町娘のように表情はくるくるとよく変わり、口煩くさえずる物言いも、貴人の振る舞いとは言い難い。
誰も知りえぬ未来を語り、賢く、一国の王にも屈せぬ強い意志を持つ娘。それなのに手に抱けば身体からは柔らかなひとの匂いがする。
王子はつかみきれないキャロルの存在に心奪われ、翻弄され始めていた。

宵闇のベールがオアシスの街を覆ってから数刻。イズミルは、天幕の隅で所在無げに座っている娘に近づいた。

あの日以降、キャロルは王子が一定距離に近寄ると、慌てて腰を浮かし、逃げようとする。そのため忍耐強く警戒が解かれるのを待っていたのだが、とうとう我慢できずに逃げ惑う娘を追い詰める。

「こ、こないでください、イズミル王子!」

「いい加減にいたせ、ナイルの姫よ。わたしからは逃げられぬ。」

「わかってるわ。逃げないわよ、逃げないから近づかないでったら!」

衣裳の裾が翻るのも構わず、限られた幕内を、王子が向かうのと反対方向に走る。垂れ下がる天蓋の影に身を隠し怯えるのに、決して幕の外には出ようとはしない。周りは衛兵が取り囲んでいるため、逃げられないと諦めているのかもしれない。

「姫」

腕を伸ばし、天蓋にしがみつく指に、細かく震える肩に触れる。ぎくり、とその身が一層大きく揺れる。

「ふっ、これはまるで捕らえられた砂漠ぎつねのよう」

冗談めいたことを口にしても、思い詰めた表情でこちらを向かない娘のことを、しかしイズミルはもっともっと知りたいと思った。幼少の頃、ひとり宮殿の書物庫に籠り、わくわくと文字を目で追っていた。あの頃のように、ただ純心にナイルの姫のことを追い求める自分がいた。

「ミタムン王女のことを、」

ふいにキャロルが押し殺した声で呟く。

「ヒッタイト王に報告するのね。」

震える声音のなかにも険がある。ミタムンの名を聞いた途端、どす黒い憎悪が炙り出され、甦った清い幼心はさっと胸の奥深くに仕舞われた。

「ああ」

当然のことだ、と言わんばかりに答えた王子を、キャロルは恨みがましい目で見上げる。

「そんな目をされるいわれはないぞ、ナイルの姫よ。
ミタムンは、わたしの大事な妹姫だった。わが父ヒッタイト王にとっても、王妃の母上にとっても」

そう言い含めて、極めて冷酷な目を向ける。娘の咎めるような眼差しは、王子の中の獣に血の匂いを嗅がせるようなものだった。

「わが妹ミタムンを殺したエジプトへは、いつか必ずや報復を果たす。」

「ち、ちがうわ!エジプトがミタムン王女を殺したんじゃないわ!アイシスが…。聞いてイズミル王子。
メンフィスはなにも知らないのよ。エジプトと戦ってはだめなの。」

「わたしの前でエジプトの…メンフィス王の名を口にするな。」

肚の底から響くような声音に、キャロルは震え上がった。それに追い討ちをかけるように彼女のうなじに手をかけるとぐいと引き寄せて、低く囁いた。

「そして、そなたもわたしがもらう」

碧い瞳にうっすらと泪の膜を張り、唇を噛んで屈辱に耐える娘のことを見ても、憐れみはなかった。ミタムンのことを思い返すとエジプトとナイルの姫は憎い敵でしかない。だが自身はナイルの姫を愛してしまった。その矛盾をイズミルは苦く感じる。

「もうこの話はよい」

しばしの無言の後、王子は浅く息を吐くと再びナイルの姫を見つめた。細く壊れてしまいそうな肩をいますぐに抱きすくめたいと思うのに、彼女の目がそれを否と訴えている。
愛しい娘はいつものように、挑むようにじっと王子を見返していたが、やがて悔しげに目を伏せた。

イズミルはもう話したがらないが、キャロルはまだミタムン王女のことで溜飲が下がらない。炎にからめとられ、泣き叫ぶ少女の姿が眼の裏に甦って苦しい。思えば、王女の柔らかそうな淡茶の髪は王子のそれによく似ていた。
肉親を奪い取られた悲しみ、怒りはいかばかりだろう。その心を思うとやはり胸は痛む。

それでもキャロルはイズミルを説得することを諦めてはいなかった。

最初と同じ位置に戻り、キャロルの監視を続ける王子をちらりと見やる。
膠着した空気が重く息苦しい。しかし事態を動かすため、娘は自分を奮い立たせるように息を大きく吸い込む。
まずなんでもいいからこちらの要求をきいてもらおう。お腹がすいたでも、水がのみたいでもなんでもいい。

「あの…」

彫刻のような冷たい横顔がついとこちらを振り向いた。

「そとに出でたいの。」

たちまち眉をひそめて、眼光鋭くなる貴人を怯まずに見据え、さらに声を連ねる。

「逃げないわ。」

「わたしに嘘は通じぬぞ。」

「そとの空気が吸いたいだけよ。今日は風がないから、」

少し考えて、息を吐き出した。

「星が見たいの。」

深い紺青<こんじょう>の絨毯に、金剛石をまぶしたかのように天の川が横たわる。中空には白銀の月がその姿をあらわにし、瞬く星々が神の降りる大地を厳かに照らし出していた。
キャロルは白く煙る星々の集合に息を呑んだ。どこまでも汚れを知らぬ原始の空。それを目の当たりにしていることに、心震える。
両の腕を大きく広げ息を吸い込んで、吐く。喉の奥に詰まった鬱屈な気持ちが天に吸い込まれていく。冷厳な砂漠の夜、しばし捕らわれの身の上を忘れる。

天を振り仰ぐ娘から目を離さぬまま、イズミル王子が不思議そうに問う。

「そなたは星を読んで未来を知るのであろうか」

再び、ナイルの姫を探ろうとする目に戻っている。

「私は未来など読めません。」

きっぱりと言って、口ごもりながら付け足す。

「もし未来がわかるのなら、あなたなんかに捕まってないわ」

「ふ、それもそうだな」

自然と笑みが零れ、目元が緩む。すぐに憎まれ口を叩くのに、それすらいとおしくてならない。透き通る白いうなじを、珊瑚色の頬を、唇を、ずっと眺めていたい。

自分の言葉に柔らかく笑う王子に驚いて、キャロルは視線を天空から王子へと戻す。

「そなたは不思議だ」

満天の星空を背負う男の、優美な立ち姿が目には入る。美しいが冷たく残酷だった。同じ人間のはずが、キャロルの目には彼が別の生き物に見える。
ときに躊躇いもなく人命を奪い、欲望に忠実な古代人たち。彼らを束ね、神々の大地を統べる王となる存在。
現代の少女にとって、メンフィス王もイズミル王子も自身とはかけ離れた異質の存在で、それを受け入れてしまうことは恐怖だった。

ときおり波のようにやってくる孤独感に、キャロルはぎゅっと目をつぶることで耐える。次に目を開けたら、全部夢だったらいいのに。

さくり、と土を踏む音がしてはっと我にかえる。

「いかがいたした」

目の前に王子の覗きこむ顔が現れる。思わず身を退こうとすると、さっと肩を掴まれる。

「そらすな、ナイルの姫」

すべてを見透かそうとする透明な瞳がじっとこちらを見据える。

「そなたはいったい何者なのだ。これほどまでにわたしを惹き付けておきながら、なぜいつもこの腕から逃がれようとする。」

感情的になるのをかろうじて封じながら、王子は娘ににじりよる。

「叡知を持ち、エジプト王に愛され、民の信心をも一身に集めるそなたは、いったい何から逃げようというのか」

「お、王子、わたしを手に入れてもエジプトは手に入りません!わたしは神の娘でもなんでもないわ。もうやめて…」

キャロルの言葉を聞いて、王子はそっと瞼を伏せた。告げるべき言葉を探すように、足元に視線を巡らせ、やがて娘の手をとると、真剣な目を向けながら続ける。

「エジプトのことを置いてもそなたがほしいのだ。彼の国は憎いが、わたしは真実そなたを愛してしまった」

思いがけない告白にキャロルは唖然とイズミルの顔を見た。

「そんな…」

「メンフィス王には二度と返さぬ」

握られた手に力が込められる。
キャロルは固まったままだった。
王子は本心から自分を愛しているわけではなく、エジプトへの謀略、侵略のための道具としか考えていないのだと、そう思い込んでいたキャロルは、いよいよ動揺を隠しきれない。

「信じないわ」

「ならば信じるまで何度でも言う。わたしはそなたを愛している。」

「わ…わたしはあなたを愛してないわ」

「さもあろうな。だが必ずわたしになびかせる」

「いいえ!いいえ!」

依然として頑なな態度を崩さないのをみてとったイズミルは実りのない舌戦を切り上げ、一転して説き伏せにかかる。

「わたしの元を去って、そなたになんの益があるのだ。メンフィスから逃げたいというのなら、匿ってやる。だからこのわたしから逃げようなどと…無謀な真似をするでない。」

「王子!」

「いくらそなたが賢いとはいえ、ただひとりで逃げ切れるような幸運はそう続くまい。彼の王が知れば、たちまちあちこちに検問が敷かれ、通行証を持つ隊商以外は国外へは出られぬ。」

「……」


「このうえは、おとなしくわたしに従うのだ、姫よ。」

なんとか言い返そうと口を開きかけるも、唇が凍ったように言葉がでない。

ここで生きるためには、結局誰かのものとなるしか方法はないのだろうか。絶望の雲が揺れるキャロルの心を暗く侵していく。
強がって見せても両の目に悔し涙がにじんだ。それをイズミル王子は見逃さず、

「姫、泣くでない。」

両腕を背中に回し小さなその身を引き寄せた。

「な、泣いてないわ。はなして」

「なにを不安がる。なにも考えずこのわたしに身を委ねればよい。」

「やだ…やめて…はなしてください王子…!」

「そなたが何者でも、どこへ逃げようとも、わたしはそなたを離さぬ。」

意図せず、心臓が跳ねた。

「どこへも行かせはせぬ」

強い想いを込めた言葉は、しかし優しい声音で響く。だが、わけもなく求愛されることが、キャロルは恐ろしくてならない。

エジプトの民たちやメンフィス王の強い想いも、現代からやってきたキャロルにとって重荷でしかなかった。だから逃げた。それなのにここでまた新たな愛にからめとられてしまう。
どんなに拒んでも、逃げても逃げても追いかけてくる。
愛されることから逃れられない。

なせ逃げるのかと問われ、言葉に詰まった。自らの尊厳を守るつもりが、実際は多くの人を巻き込んで傷つけ、苦しめている。
ならば自分はいったい、なんのためにここにいるのだろう。

ふいにぐらりと視界が揺らいだ。同じところをぐるぐると巡る思考に、心身の疲弊は限界に達していた。睡眠の足りていない脳が貧血を起こし、鈍痛が走る。

(いっそこのまま、この腕にすがってしまえたなら)

一瞬の気の迷いを見抜いたかのように、イズミルはキャロルをその腕のなかへと引き込む。
石英のような瞳が間近に迫った。

「あ…」

「そなたのその碧き瞳に…わたしだけを映せ」

やがて形のよい唇が近づいてくる。
けれど、まじないをかけられたように動けなかった。

「姫」

途端、神に自らを贄として捧げているような不思議な感覚にとらわれる。 王子の伏せられた長い睫毛、風になびく一筋の髪、そしてその向こうに広がる光曜とした夜空が見える。キャロルはそのまま静かに目を閉じた。すべてが遠く、なにも聞こえない。

二人は身じろぎすらせず、草木のように夜の景色のただなかに溶けた。合わせられた唇から漏れる互いの温もりだけが、空気を震わせる。

幕舎の暗がりにそっと潜む人影があった。気配を悟られぬよう用心して、二人の様子を静かに見守る少年。
自らがそそのかし、大切に護りながら連れ帰った少女、キャロルを見つめるその瞳は水晶玉のように無垢だった。
重なりあう二つの影を、彼は酷く美しいと思った。
きりりと澄んだ夜気のなかで、それはまるで神殿でおこなう厳かな儀式のようだ。

イズミルの腹心、ルカはキャロルが好きだった。無邪気で愛らしく、ときに驚くべき賢さと行動力を見せるキャロルに、ルカ自身も惹きつけられた。
しかし恋を知らぬ少年は、イズミルが狂おしく彼女を求める様を見ても、胸の痛みを感じない。 主君イズミルがナイルの姫を得ることは、彼の心願でもあるからだ。

だがもしも正体を知られ、裏切りが暴かれ、キャロルに嫌われるのは怖かった 。自分へ向けられた彼女の屈託のない笑顔が壊されることを思うと、言い表せない哀しみが彼の小さな胸を締め付けた。

それは、ルカが初めて主君に対して感じる、矛盾した思いだった。イズミル王子の命令は絶対だ。背くことなどあり得ない。しかし本心では、その命によってキャロルに疎まれることを恐れている。なんと愚かなのだろう。彼女は王子が愛する娘なのだ。自分が彼女にどう思われようとなんの問題もないはずなのに。

途端にこれ以上、主君と姫の姿を見てはならぬような気持ちになる。ルカは音も立てずに、再び影となって夜の闇へ消えた。

いつしか雲がたなびき月が翳る。夜が更けて、衛兵の灯す僅かな明かりのみを残しつつ、砂漠の陣営は闇と静寂に覆われた。
王子は暗闇でナイルの姫を腕に抱いたまま、己の欲望が膨れ上がるのを自覚した。手をこまねいて、エジプトに取られるくらいならば、一刻も早くヒッタイトに連れ去り自分のものにしてしまいしたい。
小さく可憐な姫に対して、我ながらあまりに獰猛な感情だとおもったが、いまさらどう抗ったところで、この想いは戻れない。

愛する妹を屠(ほふ)ったエジプトより生まれ、日没のナイルのように光輝ける姫。
憎むべき姫をこうして愛してしまったのは、自身の神々への裏切りなのかもしれない。しかしそれでも、例え神に背くとしても、イズミルはキャロルを手にいれたかった。

清白を抱く刻が王子の熱によって破られる。軽く触れていただけだった口づけが、次第に求めるように深くなり、キャロルにかけられたまじないをひとつ、またひとつとほどいていく。

ついに彼女ははっと我に返ると、自由になった腕を動かし王子から身を引き離そうとした。
だがイズミルは抵抗するキャロルの腕を掴み、もう片方の手でうなじを強く引き寄せると、己のしるしを刻むかのように何度も何度も唇を奪った。
執拗に襲いくる熱に呑まれて、キャロルの意識は引きちぎれそうになる。

やっと王子の唇が離れると、キャロルは渾身のちからを込めて男を突き飛ばす。

「やめてください!」

自身をかき抱き、その場にうずくまる。

キャロルは怯えていた。
殺されるかもしれない、辱しめられるかもしれない、という怯えではなく、この男を受け入れてしまいそうになった自身の心弱さに。

「そんなにもわたしが嫌いか」

威厳を保ってはいるがその声音には哀しげなものが混じる。キャロルは必死で言葉を探し、震える唇を動かす。

「どうか許して…わたしは何者でもないし、誰のものでもない。なりたくない。ほうっておいて…」

「それはできぬ。わたしの心は…」

「わたし…わたしこのままだと、自分が自分でなくなりそうで…」

少女はいまにも折れて崩れそうな自我を守ろうとする。

「怖いの」

思わず口にしてしまってから、キャロルは自身の言葉に驚いた。握りしめ冷たくなった指先を唇に当て、断罪されるのを待つかのように頭を垂れた。
だが王子は自分を拒絶し、すべてを閉ざしたがっている娘を見ても、責めることをしなかった。ただ少し驚いた様子で呟いた。

「わたしが怖いのではないのか」

「え…」

いつもと違う様子の王子に顔をあげると、突然、風にさらわれるように抱き上げられた。

「あ!」

イズミルがキャロルの碧い双眸を覗きこむ。

「王子?」

「そなたは、エジプトより生まれた姫。ゆえに、このヒッタイトの王子であるわたしを嫌い、恐れているのだと思っていた」

確かめるようにじっと見つめると、

「だがそうでない。そなたは、わたしに愛されることが怖いのではないか?」

と訊いた。
愛されるのが怖い。知らない場所で、知らない人間に愛されて、自分が自分でなくなるのが怖い。
胸のうちを言い当てられて、言葉を失う。

「キャロル…」

王子が甘く娘の名を呼んだ。
少女は戸惑って思わず青い瞳を泳がせる。
じっと熱を帯びた眼差しを投げかけられると、逃げるように固く目を閉じた。すると、キャロル、と再び囁く声が熱い吐息と共に鼻先を掠める。

もうだめだ、王子に心のなかを晒してしまった。
もう逃げられない。
キャロルは男の腕に力なくもたれたまま白い頬を背けた。

イズミルは娘のいたいけな姿に心を揺さぶられる。彼女の本当の姿をついに見つけ出した気がした。
この娘が抱える不安、悲しみ苦しみをすべて消し去ってやりたい。
そんな思いをこめて、彼女の震えるまぶたに口づけようとしたときだった。

ひゅ、ひゅ、と空を切る音がして、漆黒の闇に無数の灯火が降ってきた。
そのひとつが3歩ほど先の地面にざくりと音をたてて突き立ち、ばちばちっと不穏な火花を振り撒いた。

「敵襲だ!」

見張りの兵がすぐに気づき、声をあげる。
静寂は突き破られ、怒声と、兵士たちが右往左往と走りまわる足音が辺りを埋めつくす。

「火矢だ!」

「くそ!どこからだ!」

「落ち着け!もっとかがり火を増やせ!」

あちこちから上がる怒号が示す通り、何者かがイズミルの陣営を見破り、夜襲をかけているようだ。
乾いた空気に、着けられたいくつかの小さな火種はあっという間におおきく燃え広がる。

キャロルは目の前でめらめらと立ち上る火炎に瞳をみはった。

「敵?まさか…メンフィス?」

怯えて身を固くする娘を、王子は一度だけ抱き締めてから、地面に下ろす。

「心配いたすな。そなたはおとなしく身を潜めるのだ。決して出てきてはならぬ。」

直属の臣下に大事な娘を預ける。

「王子!」

「ナイルの姫を手はず通り隠せ!」

「はっ」

去り際、キャロルの不安に揺れる瞳がこちらを振り返る。王子は案ずるな、と言うように首を振って見せる。そして踵を返すと、炎に包まれた自陣へと向かう。辺りに目を凝らすと、矢は陣営から少し離れた高台から放たれているようだった。
イズミルはその高台の前に立ちはだかり、闇に紛れ攻撃の手を緩めない敵に向かって吠えた。

「隠れずに、出てくるがいい!」

降りしきる炎の矢を剣で叩き落としながら、腹が煮えるほどに憎いエジプト王の名を叫ぶ。

「メンフィス王よ!」

(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)③

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更新日
登録日
2017-07-23

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