図書館(Die Bibliothek)
薄暗い書架からは、古い紙の匂いが微かに漂っていた。
明け方の、誰もいない図書館。
彼は何かを探していた。
ほかに誰かがいたのでは、それは決して見つからないことを、彼は知っていた。
だから、わざわざこの時間を選んだのだ。
夥しい本の群れが、ひっそりと読まれるのを待っている。
嘗て、誰かの心を絞めつけた悲劇が。
或いは、冷酷無比の論理が。
無数の殺してきた証拠が。
取り返しのつかぬ過誤が。
膨大な言葉の群れが、じっと押し黙ったまま、ただ待っている。
待っている。
手に取られるのを。
彼は書架をぐるりと見まわした。
薄明りの中で、じっと息を殺している本たちの気配が、彼を見つめている。
耳が痛いほどの静寂の中で、いまだ語り始めていない言葉たちがざわめき始めた。
薄暗い書架の間を、彼はゆっくりと歩む。
灰色の絨毯を踏むその微かな足音が、広大な図書館の建物中に響き渡る。
居並ぶ本たちの背表紙が、彼に静かに喚いてくる。
ほら、お前の探しているものはこれだ、これを手に取れ!
その声ならぬ声に、彼は小さく首を横に振る。
不意に、彼の背後から光が差し込み、絨毯に彼の長い影が伸びた。
好き勝手に喚いていた本たちが、一斉に黙った。
振り返ると、窓を突き抜けた朝日が、彼をめがけて突進してくる。
光を背に、目の覚めるような蒼色が立っていた。
彼は思わず足を踏み出した。
蒼い少女。
腰まである真直ぐな長い髪、ゆるやかに纏った長いワンピース、そして冷たい瞳。
そのいずれもが、秋天の如き、突き抜けるような蒼色。
彼女の白い肌には、窓向こうの景色が透けている。
彼は右手を彼女に向けてゆっくりと伸ばす。
彼女はふっと顔を伏せて笑ったようだった。
そうして、右手を口元に当てると、彼をじっと見つめた。
その双眸に射すくめられて、彼の動きが止まる。
当てがっていた右手を前に差し掛けながら、彼女は大きく口を開いた。
舌の上に、真蒼な蝶が一羽載っている。
陽光を受けて、ぬめるように妖しい光沢を放つ蒼い翅。
蝶は閉じていた翅をゆっくりと開くと、彼女の舌の上から音もなく飛び立った。
蝶の蒼い鱗粉が光の中に散り、細かな輝きを放つ。
蝶はゆるやかに何度か上下しながら彼の目の前まで来ると、光の中にふっと溶けてしまった。
続いて、彼女の口の中から次々に幾羽もの蒼い蝶たちが飛び立ち始めた。
身動きが取れぬまま、彼は目を見張った。
少女の周囲に、蒼色の渦ができる。
蝶が飛び立つ度に、彼女は足元から徐々に薄れていく。
蝶は思い思いの方向に飛び去りつつ、一羽また一羽、昏い書架の間に消えてゆく。
彼女はもう胸元のあたりまで消えかかっている。
最後の一羽が飛び立ち、彼女は開いていた口を閉じた。
口元だけで笑うと、笑みをその場に残して、彼女は宙空に溶けた。
ゆらゆらとはばたいていた最後の一羽は、灰色の絨毯の上にそっと止まるとその場に消えた。蒼い影だけが残る。
光の中に、まだ無数の鱗粉が舞っている。
彼は目を閉じた。
蒼の残像がぼんやりと浮かぶ。
もう何も、彼に語りかけてこようとはしなかった。
了
図書館(Die Bibliothek)