世界はきっともうすぐ終わる
1.子供のお庭
真っ黒い髪をした少年が、上気した声で囁いた。寄せた耳で丁寧に言葉を拾って聞くには。
「ひとは死んでしまうんだって」
いつもは怪訝な顔をされたり笑い飛ばされて相手になどされないが、今日の話し相手は世界のおおごとを一つ頷いて受け止めた。
「実は、俺もそのことを胸に隠していたんだよ」
近い近い距離で視線を合わせる。内緒だよ、と交わされた。真昼の光が流れ込み小屋を埋める。約束はぎゅっと押し固められて本棚にしまわれる。本や瓶や鉢植えが並べられたその横に、少年の居場所が出来上がった。
「お茶でも飲んで行きなさい」
小山の襞から覗くような位置。街外れの小屋に、青年が一人住んでいる。青年は気さくだが変わり者と呼ばれる不器用さも持ち、畏れるでもなくからかうでもないのだが彼は不死なのだとまことしやかに囁かれるもので、少しばかり浮いていた。
少年は世界の内緒を知ったと告げに来た。死をひとは知らないので、空想の動物の名を聞くように曖昧な顔をする。架空の優雅な獣の足が、意識をすり抜けていく。みな持っているのに触れられない。そんな場所がある。死とは海辺の砂。波に揺られては混ざり合い、掬えば溢れ、入道雲の陰に消えていく。劇的な儀式も装置も無い。無へと還るだけなので。人魂のようにふらりと現れては消えていく。そんな生の内の少年が、楔を打ち込もうとしている。即ち不死に片足をかけた。
「ひととは消えるものではない。死を持っているのだ」
急須の中で舞う茶葉は、過ごした春夏秋冬を花開かせてから湯の底に落ちた。草の香りの飲み物を珍しげに眺めていた少年は、茶葉の記憶の再生を見届けた。記憶の溶けた飲み物に口をつけると、音もなく消えていった。
コトンとカップを置いた青年の指に目を移すと、
「天使はいると思う?」
と尋ねられたので、天使とはお伽話の時代のことだよ、と少年は言いかけてからアッと口を閉じた。天使とはおおごとで、つい笑い飛ばしてしまうところだった。空白だった場所に想像を伸ばしていこう。
「そう、きみは今、物語に片足をかけている」
二人でニッと笑って、もう一杯お茶を腹に入れた。
進んでもいい。戻るべきではある。物語とは子供の遊び場。秘密を埋めた地面は忘れられてそのうち一本の木になって子等を見守る。風変わりな青年は街の隅で秘密の庭を手入れし続けている。世界はきっともうすぐ終わる。
「忘れちゃっているだけなのさ」
2.北岸の漂流物
北岸の灯台守は果てを知っている。海と陸を繋ぐ火を目指し来る者はもういない。それでも火を灯し続ける。灯台を守り続ける。
「海から来るのではないのだ」
さざ波が立つ海は、どれほど晴れていようと、高くに登ろうと、向こう岸が見えなくなった。灯台が投げた光を海が拾って押し返す。雲の隙間からも光の梯子が降りて、やはり海に落ち、岸に寄せられる。陰を溶かして暗く沈む海は絨毯だ。絨毯を踏んで、光が音も無くやって来る。
波が弾け魚の群れが散ってまた戻る。北の海は暗く、凍てつく水色に魚の鱗も染まって青い。魚は忙しく行進訓練中。隊列の向きが変わる瞬間チラチラと白い腹が光る。海のあちこちが光る。群れが遠ざかっていき、果てで溶けた。
海の果ては光の溜りだ。水平線からやって来るものがいる。白い群れが海を埋める。海の奥に引かれた一本の線が次第に近付く。寄せては引いて。漂着物が先んじて岸に辿り着く。見慣れぬ機構を持つ道具が岩の浜に散らかる。きっと世界はもうすぐ終わる。終焉が大きな歩幅でやって来る。灯台守は終焉の姿が見えるのを待っている。矢をつがえるでもなく茶を淹れながら。街の人が差し入れを持って灯台守を訪ねるので、世間話をしながら待っている。
「灯台守、何を待っているんだい」
北の浜には誰も来ないよ。海を見ながら人々は涼しい風に吹かれる。灯台守は海上に散らかる光を見ている。
「海から来るのではないのだ」
「あ、こら」
漂着物を子供たちが珍しがって集める。北岸は立ち入りを禁じられているので、今のところ灯台守は、子供たちの守護者だ。浜に降りて、数日後の式典のために異物を回収して歩く。
3.世界すぐ終わる
何度目の目覚めだろう。体は動かず指すら重い。数を数えながら呼吸する。いち、に、さん。それ以上を数えるのはやめた。頭はまだ覚めない。
昨日世界終わったんじゃなくて?
眠りからの復帰ではなく終了からの起動だからこんなに重いんだ。途切れ途切れの記憶。受信の下手なラジオ。稼働限界を越えたコンピューター。ねぼすけの二度寝、三度寝。私の体が重いのではない。世界が意識を失っていたから、私たちも接触不良で消えたり点いたりする電球みたいになっているんだ。
世界が消えてしまえば私たちも消えてしまうので、厄介な話なんだけれども、こんなものだと思ってしまうとこんなものだ。ポンコツな世界だ。
「そうだよ、ねえ」
声が出るようになったので話しかけてみた。横に人が腰掛けていたはずだが消えていた。空白にはすぐに砂が撒かれて穴が埋まり景色を寄せ集めて色が乗るので、誰かがいたのか何かがあったのかもう分からなくなった。
制服のスカートをぱたぱたさせて風を起こす。雑に作った風だが気持ちいい。体も十分に血が回った。講義室に戻ろう。四限目が終わればお昼だ。
4.世界樹アパート
枝を広げた木は世界を支えていたが、終末が近いのでそろそろ朽ちようとしていた。まあ自分一本で世界を支えているわけではなく柱の一つみたいなものだから、役目を終える日だってそれほど慎重に選ぶことはない。西の隅の木はそんな風にして葉を一枚一枚落としていった。
雲を突き抜けた空から葉が降ってきて、鳥は驚くし、瞑想にふけっていた男は半分寝惚けて悟りを放り出してしまった。木の葉は空の色をしていたので、空のペンキが剥がれたと、みなが箒を手に掃除する。ちりとりに山盛りの葉を見ると想像したくなるものだ。雲の向こうの空色は美しいのであろうと。人々は世界の柱を久しぶりに眺めた。身長を刻んだ柱を撫でるように住処を愛でた。
木は世界樹と呼ばれる種で、その背の高さゆえに神話を幾つも抱える身だが、生物だからいずれ朽ちるものだ。巨獣が鼓動を止めて倒れ臥すように、草原が乾き枯れるように、冬が訪れるように、世界の柱も他の木々と同じように朽ちるのだ。ただ少しだけ長く生きていただけのこと。西の隅の木を見た隣の柱が、ああそんな時期かと陸を見渡し、海を見渡し、ふうと息をついた。空がさわさわと鳴った。葉の雨が増える。
当の木が長閑に落葉の先を見据えているので、世界樹に住む生物たちも慌てはしなかった。
「ああ、そんなものだ」
受け入れる声が伝播する。終わり支度を始めた住処に倣う。どれほどの生物が住む木だろう。柱の一本であり一つの世界だ。幹や枝に住む小さな生物たちが、母木に似て長閑なことを知るや知らずや、天に届く木は「世界はもう少しだけ続くのさ」とひとりごちた。葉が落ちきって幹が腐り地に横たわるまで、もう少しだけ時間があると言うが、住人はその長さを予測出来るだろうか。
世界樹の木こりが大きな大きな木食い蟲を呼び起こし、木に歯を入れ始める。朽ちて傾ぐ先を海へ。蟲の咀嚼音を聞いた木の住人は、引っ越すでもなく一足先に終末を迎える準備に入る。カリコリと囓る音は時計の音。秒針が止まるときには、世界にさよならを。ふわり消えゆく命の前に、世界樹アパートの喪失は象徴的であった。
世界はきっともうすぐ終わる