影のない足音 新宿物語(2)
影のない足音 新宿物語(2)
(5)
しかし、そこには、漠然と女を待つというよりは、より積極的に、女を探す、という強い気持ちが込められるようになっていた。あの時、確かに聞いたと思った足音へのこだわりと共に、女への未練のようなものもまた、幾分かはあった。
女はだが、なかなか来なかった。四週間、五週間、六週間・・・・
依然として、女は現れなかった。わたしは時の経過と共に次第に、女はあの時、後を付けられた事に気が付いたのではないか、と考えるようになっていた。奇妙な足音を聞いたように思ったのは、空耳ではなかったのだ。わたしが後を付けた事に気付いた女が、何処かでわたしの様子を探っていたのだ。それで女は警戒して、姿を見せなくなったーー。
こんなに長く姿を見せないのが、その何よりもの証拠のように思えた。
そして更に、七週間、八週間と過ぎていた。わたしは、もう、女は来ないものと、半ば諦めていた。
それだけに女の姿を「蛾」のカウンターに見い出した時には、奇妙な胸の高鳴りを覚えていた。懐かしい人に再び会えたような、あるいは、どこか謎めいた女に対する警戒心のような、自分にも分からない複雑な感情が沸き起こった。
わたしはそれでも、努めて何気ない様子で女に近付くと、
「今晩は」
と、軽い調子で言った。
女は多分、この前と同じように鏡の中で、わたしが近付くのを見ていたのに違いなかった。が、今度は振り返ってわたしを見た。そして、
「今晩は」
と言った。
女はだが、今度もそれ以上の事は言わなかった。笑顔も見せなかった。
わたしはかまわず女の隣に座った。
女が二度も同じ夜を過ごしていながら、親しみのこもった笑顔一つ見せない事に、少しの困惑と共に戸惑いを覚えた。
わたしはその戸惑いを隠すように、
「ウイスキー」
と、初めてわたしが女に出会った夜、わたしの相手をしたバーテンダーに言った。
わたしはすぐにタバコの箱を取り出して一本を抜き取り、口元に運んだ。
バーテンダーがカウンターの向こうでマッチを擦って差し出した。
わたしはタバコに火を付け、深く吸い込んでから一気に煙りを吐き出した。ーー
その夜も、いつも通りだった。わたしはだが、今度は眠ってしまうようなヘマはしなかった。わたしは二度、女を求めた。
女はわたしが心配し、あれこれ推測した足音については、何も知らないらしかった。それらしい気配はまったく見せなかった。しばらくベッドの上でわたしと並んで休息したあと、女は体を起こした。
「帰るの?」
わたしは聞いた。
「ええ」
隠す事もないかのように女は言って、ベッドの上に投げ出されていた下着を身に付けた。
「朝までいたら?」
わたしは言った。
「だめよ」
冷ややかに女は言った。
「寝起きの顔を見られるのが厭?」
女は答えなかった。
ベッドを降りると浴室へ向かった。
シャワーを浴びる音がして、女は間もなく戻って来た。
わたしはベッドに足を投げ出したまま、タバコを吹かして座っていた。女のスリップ姿を見ると、何かしら親しみに似た感情が沸き起こって来て、
「おれ、悪いと思ったんだけど、この前会った時、あんたの後を付けたんだ」
と、言わずもがなの事を言っていた。
ーーわたしは予想もしていなかった。みるみる変わる女の表情が、わたしを驚かせた。シャワーを浴びたばかりの顔が蒼白になって、女は硬直したようにその場に貼り付き、動かなくなった。
「なぜ、なぜそんな事をしたの?」
怒りに満ちた、腹の底から絞り出すような声で女は言って、鋭い視線をわたしに向けた。
「なぜって・・・、意味なんかないよ。あんたが何も教えてくれないからさ」
わたしは思いがけない女の様子に驚きながら、居直って答えた。
「いったい、わたしの何を知ろうっていうの?」
激しい口調で女は言ったが、その眼には憎しみの色が浮かんでいた。
「何をっていう訳じゃないけど、あんたが好きだからさ」
わたしは言い訳がましく言った。
「うそよ !」
女の怒りは収まらなかった。
「うそじゃない」
「うそじゃなくても、そんな事をしたって、なんにもならないでしょう !」
叩き付けるような言葉遣いで女は言った。
「どうして、なんにもならないんだ ! たっぷり遊んで、あとは、さよなら、って言うのか? 有閑夫人の火遊びっていう訳か?」
「そんなんじゃないわ」
「そんなんじゃなければ、どうだって言うんだ。おれを金で買っていい気になっているだけじゃないか !」
女は突然背中を向け、姿見の前へ行くと乱暴にストッキングを探し出し、ベッドの端に腰かけて脚を通した。
再び、姿見の前へ行き、スカートをはいた。ブラウスに腕を通し、ボタンを掛けた。
その間に女は、一度もわたしの方へ顔を向けなかった。頑なに背中を見せていた。
女はハンドバッグの中を探ると小さなブラシを取り出し、乱暴に髪に当てた。手早く荒い動作だった。
「あんたには、おれが信用出来ないんだ」
わたしは、女のわたしを無視した態度に苛立ち、責めるように言った。
「あなたの何を信用しろって言うの?」
女はわたしに背中を向けたまま、髪を整える手を動かし続けて言った。
「じゃあ、なぜ、おれと寝た?」
女は答えなかった。
「おれがワルなら、あんたを強請(ゆす)る事だって出来るんだ」
女は一瞬、怯えたように息を呑む気配を見せた。それからすぐに、
「男なんて、みんなそんなものよ !」
と、吐き捨てるように言った。
手にしていたブラシを放り込むようにバッグにしまうと、姿見の前を離れた。
「あんたが信用しないからだよ」
「信用しない訳じゃないわ、信用出来ないだけよ」
「なぜ、信用出来ないんだ」
女は答えなかった。
「それだから、一回一回、金でけりを付けていたって言う訳か」
「そうよ、それだけのものよ。それ以外に何があるって言うの?」
女は嘲笑するように言った。
「男に飢えながら、男を信用出来ない哀れな女か !」
わたしは女の嘲笑に対抗するように、それが女に対する最大の侮辱だと知りながらも、あえて口にした。
女はその言葉で、明らかに感情を乱したようだった。それでも強気に、
「あんたなんかに、分かりはしないわよ」
と言ったが、最後の言葉は嗚咽の中に埋もれていた。
影のない足音 新宿物語(2)