Fate/defective c.13
第9章(2/2)
「マスター!」
叫んで彼のもとへ走り出すが、すでに手遅れだった。彼の頭をしっかりと抱え込んだ黒い腕は、ぐにゃりと形を変えてさなぎの様に彼の身体を包みこんだ。槍で思いきり突いても、ピクリともしない。
「くそっ……何だこれは! 投影魔術か!」
「ああ、惜しいね。これはただの黒魔術だよ、紫紺のランサー」
「黒魔術……?」
アーノルドは楽しくて仕方ないという風に目を細めて笑う。俺は無言で睨み返す。
「これはね、対象者の深層意識に潜り込んで、その固有結界の中の目的物を投影する黒魔術だ。老人には骨の折れる仕事だがね……その威力は大きいのだよ、ほら。キミも例外じゃない。あんなものが出てきた」
俺はアーノルドの指す方向に一瞥をくれた。夜闇の中、ごそごそと黒い霧のようなものが蠢いている。電灯の明かりを受けて、それの姿がはっきりと目に映った時、俺は無意識に一歩足を退いていた。
「あ……」
あれは。
「ほう、キミの深層意識にはまだあれがいたのか……面白い。愉快じゃないか、無名の英雄よ!」
その声をかき消すように、『それ』は遠吠えした。それの声は夜を切り裂くように鋭く、遥か遠くまで響き渡るように思えた。手のひらが妙な脈を打っている。
まだ、いたのか。とっくに切り離したと思っていたもの。俺の人生を終わらせた、忌々しい因果そのものだ。
「あの黒犬……! コンガンフネスの犬か、くそ、そんなものを引きずり出しやがって」
俺はその黒い巨犬に向かって槍を構えた。いつもより上手く力が入らないのは、気のせいだ。
「ほう、キミが『最も恐れるもの』はやはりあの黒犬だったんだねぇ」
アーノルドが黒いさなぎに寄りかかって頷いた。俺は犬から目を離さずに尋ねる。
「……どういうことだ」
「この魔術はね、対象者が最も恐れるものを投影するんだよ。すなわち、英雄ケルトハル・マク・ウヒテルが最も恐れるものは、あのしがない黒犬一匹だということさ」
俺は槍の柄を握る手に力を込めた。俺が最も恐れるもの? それがあんな犬っころ一匹なわけがない。そんなことがあっていいはずがない。
あれは、ただの幻だ。
俺は思いきり地面を蹴った。
暗い水中のような空間に、幾つもの紙が並んでいる。縦長だったり、正方形だったり、形は様々だ。だがすべてに共通していることがある。
「僕の絵だ」
拾い上げてよく眺めても、それは間違いなく僕の絵だった。幼少期に描いたと思えるもの、つい最近描いていたもの。僕が今まで描いてきた絵が、幾何学的に、隙間なく敷き詰められている。僕は辺りを見回して、それ以外には何もないことにがっかりした。
一体僕は何をしていたんだろう。ここに来るまでの記憶があいまいで、もしかしたら僕はずっとここにいたんじゃないかという気さえしてくる。そしてこれからも、ずっとここにいるような気がした。
そんなことを思っていると、ふと、ざわざわと声が聞こえることに気が付いた。見渡せば、つい先ほどまで誰もいなかったこの空間に、無数の人々が歩いてくる。僕は少しうれしくなった。あの中の誰かが、僕のことを見つけてくれるかもしれない。
だが、それは間違いだった。彼らはざわざわと、敷き詰められた僕の絵の上を歩いていく。誰も僕や僕の絵のことなど気にしていない。
僕はたまらなくなって声を上げた。
「誰か、ねえ、誰か」
群衆の中に、ろくに口をきかなかった父親がいた。暇さえあれば僕に絵よりも魔術の道を進めた母親がいた。多くの知り合いがいた。時計塔の同僚がいた。それらは有象無象の人々の群れの中に当然のような顔で混ざって、無表情のうちに全てを決めてしまったように見えた。
丁寧に磨かれたローファーが踏んだのは、ああ、それは五歳の時に友達に贈るために描いた絵だ。綺麗なハイヒールが踏んだのは、それは時計塔で暮らしているとき、気に入っていた中庭の景色を描いたもの。そのブーツが踏んだのは日本に帰ってきて最初に描いた絵、ああ、今踏まれたのは――
たくさんの絵が、たくさんの靴に蹂躙されていく。誰も気にしない。だってそうだ。誰も僕の絵など必要としていない。すべては無関心のうちに、すべては僕の知らないところで執り行われる。
恐ろしいと思った。僕が人生のうちで本当に恐ろしいと思った数少ないものだ。
誰にも関心を持ってもらえない。誰にも認めてもらえない。一人きりで、これだけ膨大な量の絵を生産して、僕は何がしたかったのだろう。
こんなものが、何の役にも立たないものだと知っていたはずなのに!
僕は一枚の絵を手に取った。かつて何度もそうしたように、破り捨てようと思った。だけど出来ない。出来るわけがない。ここにある、誰かに踏まれていった、無関心のうちに沈んでいったこの絵たちは、全部が僕の分身であり、僕自身なのだ。親が子供を簡単に殺せないように、僕は僕の絵を破り、捨てることなどできない。
僕がそうやって逡巡している間も、たくさんの人が通り過ぎる。僕に興味や関心のない人たち。この群衆の中で、切に願ったのだ、僕は。
……何を?
「あれ」
暗い水中のような空間に、ぽつりと僕のつぶやきが漏れた。
「何だっけ」
紫槍が一閃して、黒い犬の体を裂いた。それは想像していたよりずっとあっけなく、塵となって霧散する。
「ハッ、本当にただの幻じゃねえか」
「そうだとも。これは呪術と黒魔術と投影の複合魔術でしかない」
アーノルドが言った。俺は嘲笑する。
「三つの魔術を同時に使う?そんな大仕事をやってのけた割には、大したことは無かったじゃねえか」
「物理的には大した威力は無いんだが―― 精神になると、どうかね? この通りだ」
老魔術師はコンコンとマスターを取り込んだ黒いさなぎをノックする様に叩いた。黒曜石のように艶やかな表面には、傷一つついていない。
俺は槍をもう一度アーノルドに突きつけた。
「てめえ、マスターに何をした。答えるか死ぬか、選ばせてやる」
「おお怖い怖い、そう血走った目で迫るな。これはただの呪術の一環だとさっきから言っているだろう? 対象の意識の底から『恐怖』だけを掬い上げ、顕現させる。このマスターは……この中で、自分が最も恐れるものの夢を見ているはずだ」
「マスターが恐れるもの……?」
俺は初めて気が付いた。俺は、俺自身のマスターが何を恐れる男なのか、全く知らなかったのだ。気弱で、優柔不断で、どこか頼りなげな雰囲気はあったが、だからと言って何かを恐れているような青年ではなかった気がする。
ならば、あの中で、マスターは何を見ている?
その時だった。視界の隅で、霧散したはずの黒い霧がどよどよと蠢き始め、再び何かを形成し始めたのが目に入った。少しも休ませる気はないということか。
「そんなモン、何回作ったって無駄だ」
「ああそうだ。何せこれはただの幻。だが―― 時間稼ぎにはなったろう?」
は? と聞き返そうとして、次の瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「な―――」
わけもわからず吹き飛ばされ、そのまま地面に転がる。肩甲骨から腰にかけて、熱を帯びたように痛烈な感覚が走った。ダメだ。後ろから襲われた。どうして、気配すら無く、いつの間に。
俺は混乱する頭で、かろうじて槍を地面に刺して体勢を立て直す。穂先が刺さった場所の芝が青黒く変色して腐り落ちるのが見えた。
「……ッ、やってくれたな、バーサーカー」
傷は深くない。俺は口に入った泥をぺっと地面に吐いて、たった今俺の背中を斬りつけた黒衣のバーサーカーと対峙する。バーサーカーは赤毛を風になびかせながら、皐月の葉のような瞳でこちらを見下ろした。遠くで雷鳴が響く。そういえば、いつからか雨がぽつぽつと降り出していた。
雨水で滑る槍の柄を握りしめ、俺は地面を蹴って跳んだ。真正面から突っ込む姿勢になったが、そんなことには構っていられない。
一刻も早くあの魔術を解いてマスターを助け出さなければ、俺もマスターも消滅行きだ。
槍がもう少しでバーサーカーの心臓に届くというところで、彼の大鎌が瞬時に姿を変え、湾曲した剣になった。
「そんなのもアリかよ、卑怯だなァ」
穂先を剣先で捉えられ、拮抗する。ぎりぎりと金属音が鳴って、刃と槍柄が擦れあう。お互いの視線が厳しく混じり合った瞬間、バーサーカーが口を開いた。
「果てまで逃げるんだ。あのマスターは諦めて。そうすれば苦痛無く、君の戦いを終わらせてやれる」
俺は奴の顔を見る。奴は本気だった。緑色の目がすぐ間近で訴えかけているように見えた。
俺は一瞬虚を突かれたが、すぐに気を取り直してニッと笑みを浮かべる。
「随分親切なバーサーカーだな。何だ? 俺と戦ったら死ぬ気がするのかよ」
「違う。聖杯は既に顕現している。もはや君の死には何の意味もない」
勢いよく腕を上げて、剣の刃を振り払う。雨水が飛沫を上げた。
「英霊の魂も無いのに聖杯が顕現するわけねえだろうが。それに、マスターを諦めろだと?」
もう一度、右足を踏み込み、左手で槍を突き出す。それをかわしたバーサーカーの横腹に隙が出来たのを見逃さず、軌道を変えてもう一突きする。剣で防がれ、弾かれた穂先を真横に薙ぐ。
俺は吠えた。
「あいつを見捨てて逃げるなんて真似はしない。たとえ死んでもな!」
天井だろうか。その世界の高いところから、金属同士がぶつかる激しい音が響いている。
僕は絵の床の上で膝を抱えたまま、何もない空を見た。もうどのくらいの時間が経ったのかわからない。1時間かもしれないし、1年かもしれない。ずっと長い夢を見ているような気持ちなのに、僕の絵を蹂躙する人だかりは止むことがない。僕はもはや声を上げることにすら疲れて、何もせず座っていた。
金属音が響くようになったのは、ついさっきからだ。僕は腰を上げて、天井の方に目を凝らす。どこまでも暗く、光がない。まるで洞窟の中を覗き込んでいるようだ。
「……誰かいるの?」
返事は無く、ただ金属の音だけが響き渡る。くぐもっていて、今にも消えてしまいそうだ。僕は諦めて足元に視線を下ろした。
その時、一枚の絵が目に飛び込んできた。
「これは」
一番新しい絵だ。まだ色も塗っていない、未完成の鉛筆の絵。その絵はなぜか、足跡の一つもつけずに今まで残っていた。
どうして気づかなかったんだろう。それに、この絵にはなぜか違和感のようなものを感じる。描かれているのは何の変哲もない並木だ。家の近くの桜並木だろうか。びっくりするほどよく描けているわけでもない。なのに、その絵から目が離せない。何かが心に引っかかる。
『なぁ、あの絵ってマスターが描いたのか?』
急に頭の中で声が響いた。知っている声だ。
『そ、そうだけど……』
これは自分の声だ。誰かとの会話の記憶だろうか?
『やっぱりか!絵、好きなのか? あんなにしまいこんでないで、誰かに見せれば…』
『それは無理だ!……下手すぎるし、あんなの見たって誰も楽しくないだろう…』
『そうか? 今まで誰にも見せてこなかったのか』
『誰も見ようとしなかったから…』
そうだ。誰も見ようとしなかった。誰かを喜ばせたわけでもなかった。けれど、彼は尋ねたのだ、僕に。
『マスターは聖杯に何を望む?』
「笑わないで、聞いてくれる?」
彼の碧玉とルビーのような不思議な色の瞳はしっかりと僕を見据えていた。彼が笑うわけがない、と思った。彼はきっと、人の望みを嗤ったりするような英霊ではない。
「人に、関心の目を向けられたい。自分が生きた証拠を残したい。ただそれだけなんだ」
青とも赤ともつかぬ瞳がかすかに揺れた。桜の木がざわざわと揺れる。花のない枝。誰も目を向けることなどない枝たち。
それはほんの一瞬だったのだろうが、僕には限りなく長い時間に思える沈黙の後、彼は目元をふっとゆるめた。
「マスター。……御代、佑と言ったな。俺はあんたの望みを成就すべく戦おう。ケルトの魔槍使い、―――ケルトハル・マク・ウテヒルの名に懸けて」
くぐもっていた金属音が急にはっきりと現実のものになったと思ったら、地面に倒れこんでいた。雨と土の匂いがする。
僕は勢いよく咳き込んで、半身を起こす。すぐそばで、老年の魔術師の声がした。
「やはり精神を支配する魔術はダメか。精神は連続性だ。百の苦痛も一の憩いで癒されてしまう。綻びがあれば、修繕がある……実に小癪な奇跡だ」
僕は頭上を見上げた。温度のない表情でこちらを見下ろすアーノルドの顔は、魔術の酷使の末か、青ざめているように見えた。降りしきる雨が目に入る。
「御覧。キミたちの無意味の死は目前だ」
「何を……」
こんな薄気味悪い魔術師の妄言に乗ってはいけない。僕は力を振り絞って立ち上がると、黒衣のバーサーカーと競り合っているハルの元へ駆けて行った。
「ハル!」
彼は弾かれたように僕を見た。
そしていつものように強気な笑みを浮かべる。
「よう、マスター! 自力で逃げ出すとは流石あんただな! こっちもそろそろ片付くぜ!」
僕は声を張り上げる。人生の中でも、こんなに大きな声を出したのは初めてかもしれない、とすら思えるほど。
「ハル!君の、君の願いは何だ? どうして僕を―― 助けてくれる?」
彼は目を見開いた。そして、見たことも無いような表情を浮かべた。困ったような、泣き出しそうな、それでいて可笑しくて仕方ないというような微笑みを見せた。
それから、静かに答えた。
「俺もあんたと同じだよ、マスター。生きた証拠を残したい。無意味で終わりたくない。誰かに―― 俺を知っていてほしい。それだけだよ」
雨が強くなる。僕は目を閉じた。
ここで、必ずバーサーカーを仕留める。そして、勝ち抜くのだ。
僕と、この英雄が、世界に生きた証拠を残す為に。
「ランサー。令呪を以て命ずる。――― 最大の魔力で、宝具を展開せよ!」
一直線に、僕の魔力が彼へ向かっていく。震える足で地面を踏みしめ、歯を食いしばった。
雨水の打ちつける音の中、バーサーカーの薄い唇が動き、細い呟きとなって耳に届く。
「――― 馬鹿なことを。愚かなことを。人間は……結局、自分の幸しか目に無いのか」
え、と思った時には、既に準備は終わっていた。
「咲き、描き、乱舞し――― 刻み付けん、我が名はケルトハル! 喰らえ、鮮毒の槍―――」
「第三宝具、展開――― 此れは可逆を招き、豪傑を地に堕とすもの。自業を以て不遜を絶て。『鏡像結界』」
流星のように燃え上る紫紺の槍が、バーサーカーの胸を確かに貫いた。
「これで終わりだ」
アメジストのような閃光が幾何学的な模様を描いて黒衣の胸に走り抜ける。ランサーは燃え上る空気の中、槍を一層握りしめた。
その時、バーサーカーが嘲笑うように目を細めた。
「何が終わったんだい?」
刹那、彼の胸を貫いていた紫の槍が、穂先から砕け散った。毒の閃光が悲鳴のようにひるがえり、バーサーカーの心臓から真っ直ぐにランサーの胸へと飛び込む。ランサーはただ目を見開いて、毒に穿たれた胸を見下ろすと、その一瞬後に口腔から血を噴き出した。
「な、にを」
「何って、僕の宝具だよ。『内』と『外』を反転させ、外に向けて放たれた魔術を使用者自身に返還する。つまり君は自分の毒に貫かれているも同然ということだ」
ガランガラン、とけたたましい音をたてて、槍がランサーの手のひらから滑り落ち、地面に落下する。ランサーが膝をつくと、バーサーカーは自分の胸から槍の破片を引き摺り出して興味なさげに泥水の中に捨てた。
「じゃあね、紫のランサー。君のことは、多分令呪が無くても積極的に殺していたよ」
「ハル!」
倒れ込んだハルに駆け寄って体に手を添えると、更に彼の口から血反吐が溢れた。僕は体から血の気が逃げていくのを感じる。
このままでは、ハルが消えてしまう。
「嫌だ、ハル、嫌だ! まだ駄目だ、消えては駄目だ、僕がなんとかする! 治癒魔術でも何でもするから、だから待ってくれよ!」
ハルは血の気の引いた青い顔でふっと微笑んだ。彼は雨の雫に紛れて泣く僕の頬に手を触れ、その雫を払った。
「……悪いな、マスター。少し……ドジった」
「ああ、ああ大丈夫だから、僕が助けるから―――」
ハルは徐々にか細くなる呼吸の中で、最期の力を振り絞って傷に手を当てようとする僕の手首を握った。そして僕に何かを握らせる。
「マスター、御代、祐……あんたは、自分の願いを、叶えろ」
手を開いて見ると、それは召喚の時の触媒にした三角錐のルーン石のピアスの片割れだった。
「これは、傲慢かもしれない。……けれど、俺は、あんたを、信じる。これはその証拠だ。この証がある限り、俺は、マスターに、仕え―――」
手首を握る彼の手がだらりと力を失った。
「ハル!」
呼び声がただ虚しく響いた。
彼の身体は炭酸の泡のように光る幻みたいな粒に包まれ、いとも簡単に、最初からなかったみたいに、全て夢だったかのように、夜の雨の中に散っていった。
「見えたカシラ?」
「ええ、確かに。まずは一騎、といったところでしょうが……彼等の消耗具合は予想外の展開でしょう。今なら好機、かもですよ」
戦いの舞台から少し離れた高層ビルの上で、金髪の女性と白袴の少年が日比谷公園を見下ろしていた。夜の雨が少年の長髪を艶やかに撫でていく。
「聖杯は既に顕現しているのにも関わらず、ナゼ六騎の魂が必要なのか。……一体、こんな時に登場して、ナニをするツモリなのか知らないケド……」
「アーノルド・スウェイン。全て洗いざらい、聴かせて貰いまショウ!首級を獲る準備はいいカシラ、ワタシの親愛なるアーチャー?」
雷鳴が轟く中、アーチャーは紫水晶の弓を携えてうやうやしく跪いた。
「……全ては、マスターの御心のままに」
Fate/defective c.13
to be continued.