捧ぐ女(ささぐひと)

捧ぐ女(ささぐひと)

「捧ぐ女(ひと)」

 「銀座通」と書かれた年季の入った大きなアーケードを潜ると洋品店、靴店、乾物屋といったそれぞれ専門の老舗が立ち並んでいる。
商店街と称されてはいるが平日は勿論休日でさえ閑散とした通りだ。
大手のチェーンストアに地元客を吸い取られてしまい閉めてしまった店半分、開店休業の様相の店舗が半分だった。
通りを中途まで行くとそこだけ窪んだ入り口がありその左の奥に質屋はあった。
人影のまばらな分人眼を気にしなくていいが足を踏み入れながらやはり周りに気を配ってしまう。
 手許の包みを確認しながら窪みに入ると千代は素早く店の引き戸を開けた。
入るとすぐに防護ガラス板越しのカウンターがありいつもの店主が座っていた。
「─オ、いらっしゃい」銀縁の眼鏡を少しずり下げるようにして店主は笑顔を向けた。
常連としての応対を受けてしまうことに抵抗はあるがそのおかげで多少高値で品物を買い取ってくれる。
「今日はなに?」値踏みを待ち受けてこちらの手元に視線を注いでいる。
「あの、これなんだけど─」そう応えおずおずと包みを差し出した。

「─千代ちゃん。あのさ、これ、どこで手に入れたの?」単眼鏡をかけて質草の腕時計を凝視したまま店主が訊いて来た。少しの間宙に眼を上げ、
「─え、あ、あの、─銀座だったかな」思わずそううそぶくと、
「一体、いくらしたの?」かすかな嘆息交じりに店主が問いを重ねた。
「─え、確か、五、五十万くらいだった」適当な値段がまた口をついて出た。
「本当─?」気がつくと店主がじっと自分を見ていた。千代は慌てて目線を外すと店内を見回す素振りをした。
本当は数年前アメ横で買った。「ロレックス」と言う高級ブランドに惹かれ、一万円で購入した。
『─コピーやけどね、これ。けんどNコピーって言うてな、プロの鑑定士でも見まがう優れもんだや。持ってて損はねえだや─』迷っている千代に向かって年配の売り子の男が嗄れた声を絞り出すように胡散臭い訛りでそう言った。
まあ、一万円ならいいか。そう思って購入したのだった。
「あのさぁ─。駄目だよ、これ」単眼鏡を外しながら店主が目を上げた。
「え─」思わず聞き返した。
「真っ赤なニセモンだよ。これ─」黙って上目遣いで立っている千代に店主が続けた。
「─大体、箱自体がいかんなぁ─。メンズ仕様の外箱よ、これ─。文字盤も微妙に歪んでて位置もずれ込んじゃってる─。まあ出来のあまりよくないコピーだねえ」その言葉に思わず耳から頬までが熱くなった。
「本当に、五十万も出しちゃったの?これに─」店主が訊き直すと、
「─う、うん」もう一度そう曖昧に頷いた。
店主は大きくため息を吐いて再び丹念に紛い物の装飾を見ながら、
「─随分、災難だねえ。そりゃ─。その買ったお店に掛け合ったほうがいいよ」心底気の毒そうにそうつけ加えた。
「─ごめんなさい」真っ赤になりながら腕時計を受け取ると逃げるように店を出た。

『─わりいなあ。どうしても、二十万要るんだ』
男の言葉が去来する。
住宅地の公園のブランコに揺られながら途方に暮れていた。
バイト先からは既に前借りしていて、無心できそうな友人からも借り尽くしている。
他のあてを探して携帯のアドレスを開いてみたがやはり見当がつかなかった。
お金になりそうなものは全て入質していて最後に残ったのが今手許にあるニセのブランド時計だった。
消費者金融で借りようか、とも思ったが健康保険証も車の免許も持っていない。
万策尽きた思いで千代は大きく嘆息をついた。
仕方なく男の携帯の番号を押した。
『─わりいなぁ。都合ついた?』弾んだ調子の男の声に、
「─あのね。あの、ごめんね。ダメ、みたい。─ちよ、借りられなかったの」哀願するようにそう言った。途端に、
『そうかよ─』冷たい口調の声が返って来た。
「─ごめんね。あの、ホントに」今にも泣き出しそうに言った。
『─あ、そ。いいよ。別に。俺の問題だからな。あ、そんでよ─もう、会えねえかも知んねえから』
突き放した男の言葉に千代はうろたえた。
「え─、ど、どうして─」
『事が片づかねえと、やべえんだよ、マジでよ。多分、もう会えねえから』
瞬時に顔が歪んだ。
「そんなこと言わないで。お願いだから、ね?会えないなんて、言わないで。ホントに、何とかするから、ね?」
砂場で遊んでいた親子連れが驚いてこちらを見ていたが、その目をはばかることもなく声高になり上擦った。
『─何とかなるのか?本当に』いつもの優しい声が返ってきた。
「うん。ぜったい、何とかするから─」懇願するように電話口で何度も頷いた。
『頼んだぜ。俺にはお前しかいねえんだからよ─。愛してるよ』深く囁くような声に千代はじっと目を閉じた。
「愛してる─」そう男に言われるだけで躰の芯が溶けてしまいそうだった。
その一言のため、それだけのために男と出会ってから三年間、自分の全てを捧げてきた。
それが例え金目的でも良かった。請われるものは何でも差し出したかった。
男の存在だけが自分の全てだった。
 「トロい」よく、そう言われてきた。いつもぼんやりした感じとのんびりして少したどたどしい話し方をすることから小学校の時そのまま「トロ子」と言うあだ名をつけられた。
家は母子家庭で本当に貧しかった。着たきりすずめみたいにいつも同じ服を着ていてよく汚い、臭いといじめの標的にもされた。勉強する環境からも程遠かったため小学校六年生になっても掛け算の九九の暗証すら怪しい学力しかなかった。
泣きたくなるといつも絵を描いた。
広い庭がある大きな家に自分がいて旦那様がいて、子供が二人。犬まで飼っている。
旦那様には王子様みたいにキラキラした冠をかぶせた。
「幸せ」を夢見るとき傍にはいつも王子様がいる。
男は今、自分にとってかけがえのない王子様だった。

「─保証人はいない、と。─免許証もないんだっけ?」薄いサングラスの下の嘘くさい笑みを上目遣いで見つめながら、
引き返すなら今だよ。と、どこかから聞こえてくる声に耳を塞いで千代はギュッと目をつぶり頷いた。
簡単な書類を書き署名をし終えると、
「今日から入れるかい?」猫なで声で店の支配人が言った。
黙って頷いた。
「よかった。じゃ、簡単にシステムを説明しようか─」
「─あの」支配人が目を上げた。千代は言葉を続けた。
「─あ、あの、支度金っていつ、もらえるんですか?」
「─ああ、一週間の研修が終わってからだよ」店長を名乗る男はそう言うと千代の華奢な腕を掴み引き寄せた。
強い力だった。千代は端正なつくりの男の顔を思い浮かべながら抗う力を忘れた。

 「─悪いな。無理さしちまってよ」封筒の金を数え終わると男はしれっと言った。
「─よかった。ちゃんと都合できて」言葉とは裏腹に悪びれもしない男を一向に気にしない様子で千代はニコニコして応えた。
「─今日は、時間あるんでしょ?」窺うようにそう訊くと、
「─いや、すぐ行かなくちゃいけねえんだ」男はそう言い吸いかけの煙草をもみ消して忙しなく立ち上がった。
「あ、でも─」追いすがるようなその言葉に、
「─あ?」そう言って一瞬、男が振り返ったが、
「─あ、ううん。─何でもない」言いかけた言葉を飲み込んで千代は笑った。
店を出る男の後ろ姿を見送ったあとふっと小さくため息をついた。
その日は千代の誕生日だった。逆にもらって欲しくてお揃いのハートのネックレスを用意していた。
少しでも通じ合っている印が欲しかった。
ブルーの包装紙につけられたピンクのリボンを指で弄ぶと目を落とし、荒れた自分の掌をじっと見つめた。
冬のあかぎれみたいに痛みが伴っていた。
─憶えてないよね。わたしの誕生日なんて─。
千代は指先にふっと息を吹きかけ自嘲すると小さな包みをハンドバッグにしまった。

肢体を簡単な布で覆っただけの姿で性の欲求を満たしてやる。
覚悟していたとは言え、思っていた以上に心をすり減らしてしまう仕事だった。
直に関係は持たないにしても男以外の異性に四肢を見られたり触れられることに慣れてしまう事は決してなかった。
 初めて客をとった夜、帰宅すると千代はすぐに洗面所に駆け込むと激しく嘔吐した。
そのあと浴室に閉じこもりシャワーを出しっぱなしにして長い時間をかけて躰の隅ずみまでを執拗に洗った。
みそぎし切れない汚れてしまった自らを悔い、悔い切れない思いを泣き尽くした。
支度金をもらったら直ぐに辞めるつもりでいたが男がまたいつ大きな額の金を無心してくるか分からなかった。
男と自分とを繋いでいるものが「金」であるのなら、そのためにもっと貯えが欲しかった。
手鏡を覗くと少しやつれた自分がいた。
目の下にクマを作り顔色も冴えなかった。
このところ気のせいか四肢がだるく熱っぽい感じがしている。
時折、生理でもないのに下腹に鈍痛が走りその度に出血があった。それが数日続くこともあったが単なる生理不順だろう思い市販の薬で痛みを散らしていた。
 千代は飼い始めたばかりの金魚鉢に入った「ベタ」と言う熱帯魚を見つめた。
ネイビーブルーの体に長いヒレを優雅になびかせている。水道水でも簡単に飼育できるが闘争心が激しいので一匹でしか飼うことが出来ないのだと言う。
「─さびしくないの?お前。─いつも、ひとりぽっちだね」餌をあげそう話しかけると侘しさが突然衝き上げ、不意に涙が頬を伝った。

 いつの間にか街には鮮やかなネオンが目立つようになっていた。
あちこちから流れてくるクリスマスソングを縫うように人々が忙しなく行き交っている。
駅前にある大きな噴水の前で千代は男を待っていた。
『─久しぶりに、飯でも食うか?』珍しく男が上機嫌で誘ってきたのだった。
男と知り合って三年になるがそれでも待ち合わせの度にドキドキしてしまう。
鼻の頭は寒風にさらされ紅くなっているのだが頬は待ち侘びる火照りで紅潮していた。
噴水の近くの大時計は七時を少し回ったところだった。
約束の時間にはまだ三十分近くある。
赤いコートの襟を立て寒風の星空をぼんやり見ていた時、
「─あれ?」と声がした。振り向くと風体のあまり良くない二人組の男が立っていた。
どこかで見たことがあるような気がして小首をかしげると、
「─え、と─そうだ、アユだ。アユちゃんだろ?」顎鬚を生やしたいかつい男が言った。
千代はドキっと男を見た。「アユ」は千代が働く風俗店での源氏名だった。
男はニヤついた笑いを浮かべ無遠慮に近づいて来ると、
「こないだは、どうもね。すげえ良かったぜ」耳元でそう囁いた。
「こんなとこで何してんの?」ニヤついた男の言葉に思わず身を固くした。
「おい、誰だよ、この娘?」もう一人の、顔中ピアスだらけの男が訊いた。
顎鬚の男が何か耳打ちすると、
「─マジで?─ホントかよッ、紹介しろよ、おれにも」小躍りするようにその男も近づいてきた。
「─ね、プライベートでどう?遊びに行こうよ」髭の男が言うと、
「おう、行こうぜ行こうぜ、こいつ、今日スロットで大勝ちしてさ─」テンションの高い声を張ってピアスの男が言った。
「─あのね、ごめんね。わたし今、待ち合わせしてるの」千代は小さくそう言った。
「─んな、そんなのいいからさ。ほっといて、おれらと行こうぜ」顎鬚の男が言い、
「そうよ、いいから、付き合えよ」ピアスの男が手荒く腕を掴んだ。
「─痛ッ、やだ無理ッ、─」そう小さく叫んで振りほどいた手が髭の男の頬に当たってしまった。
「あ、─ご、ごめんなさい」咄嗟に必死に詫びたが、
「─へえ、上等じゃねえか。このフーゾク女がよ」髭の男の表情が蒼白に変わった。
コートの襟を強い力で引かれた瞬間、
「─てめえら、何やってんだよッ」背後で声がした。男だった。
「─あ」千代は笑おうとした。
同時に経験したことの無いような強い目眩が千代を襲った。
遠のいてゆく意識の中で男に手を差し伸べながら千代は自分の身体がゆっくり崩れていくのを感じた。

 閉じた瞼の向こうがぼんやり明るかった。
千代はゆっくり目を開けた。
天井の蛍光灯の白色が眩くてもう一度目を閉じた。
「─丸二日寝てたんだぜ、お前」何だか懐かしい声が聞こえた。虚ろに見るとすぐ横に男が椅子に座っていた。
「─ここ、どこ?」吊るされている点滴のパックを焦点の定まらない虚ろな眼で見ながら千代が訊いた。
「病院だよ。お前、憶えてねえのか─」男が応えた。
「─うん。あんまり」首を起こそうとしたが思うように動かなかった。
「─じっとしてろよ。まだ、無理なんだからよ」男が咄嗟に千代の身体を支えた。背中に感じる男の掌の温もりがくすぐったかった。
「─ずっと、いてくれたの?」
男はそれには応えずに、
「─聞いたぜ、あいつらから。─何やってんだよ、お前よ。ったくよ、勝手なことやって迷惑かけんじゃねえよ」千代の視線を逸して独り言のように素っ気無く言った。
「─うん。ごめんね」千代が応えた。
「─知らねえぞ俺は。頼んだわけじゃねえからな。風俗で働けなんてよ」男が繰り返した。
「─うん。ごめんなさい」千代の目に涙が浮かんだ。少しの間の後、
「お前が倒れてよ─。誰に連絡すりゃいいのか、まったく分かんなかったぜ」男はそう言い親指の爪を噛んで言葉を続けた。
「知らねえことだらけだ、お前のこと─。今更だけどよ─」
いつだったか男の親指の爪を噛む癖を子どもみたいだ、と笑ったことを思い出した。
「ダメだよ。爪、噛んじゃ─」そう言ってまた少し笑うと、
「─んだよ。ったく、─その、なんだ。俺はどうすりゃいいんだ?そうだ、何か食いたいもんでもあるか?」男がぞんざいな口調で言った。
「─ねえ、それ、取ってくれる。わたしのハンドバッグ」千代が言った。
中からブルーの小さな包みを出し男に差し出した。
「─もらって欲しくて、買ったの。お揃いのネックレスなんだよ。ハートの形してるの」嬉しげにそう言うと、
「─バカ。いらねえよ、ったく、なんだよ、こんなもん─」男は吐き捨てるようにそう言いながら、ジャケットの内ポケットに包みをしまった。


          了

捧ぐ女(ささぐひと)

捧ぐ女(ささぐひと)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-21

Copyrighted
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