(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)②
②抗えぬ業
「いますこし側へ……もっとよく顔をみせよ」
命じられても娘は動かない。仕方なく自分から少女の前に歩み寄る。そっと頬に手を添えると、おびえたようにこちらを見た。
おびえて震えているにもかかわらず、その目は挑むような光を帯びていた。王子は内心その瞳を好ましく思った。
幕舎の外で砂を孕んだ風がびゅうびゅうと鳴いている。
「どうして」
ようやく出た声は掠れて、風の音にかき消えそうだ。
「どうして、みんな私を欲しがるの」
「それは、そなたがエジプトの…ナイルの神の娘だからだ。」
「だから違うって言ってるのに。」
ナイルの姫は呻くように言うと、少しの沈黙あと口を尖らせて呟いた。
「神の娘というのは、自分の思うように生きてはいけないのかしら。」
その様があまりにも幼く愛らしく、イズミルは珍しく笑顔になる。
「どうしても、私を解放してくれないの?」
すがるように訴えかける娘に、しかし王子は笑顔をひっこめて、説き伏せにかかる。
「そなたを追って、はるばるエジプトまで出てきたのだ。そして命を賭してあのメンフィス王から奪ってきたに、それをみすみす手放すわけにはいかぬ。」
何度きいても同じ答えだった。キャロルは粘り強く別の言い訳を考える。
「じゃあ、仮に私が神の娘だったとして、あなたはどうして私を妃にしたいの。私を妃にしてもあのメンフィスがいる限り、真実エジプトは手に入らないわ。それに、未来のことが知りたいのなら、わたしなんでも答えるわ。別にお妃でなくても…」
「そなたは私の妃になるのだ」
否定を受け付けない口調で言って、ぐいとキャロルの細腕をつかむ。
「痛いわ、王子!」
王子の恐ろしく刺すような視線がぶつかる。
怒らせてしまった、とキャロルは震え上がる。普段は物腰の柔らかそうにみえるが、やはり強兵国の王子、感情が高ぶるとなにをするか分からない。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「私は<もの>じゃないわ。あなたがどこの国の王子であろうとも、私の心までは奪えないわ!」
思わず叫んでしまい、はっと身を縮める。
ヒッタイトの若君は両目を剥いて小さな娘を見下ろす。だが次の瞬間、はははは、と愉快そうに笑い出す。
キャロルは気味悪げに王子を見上げた。
「そなたは共にいて飽きぬ。たぐいまれなる娘よ……」
キャロルの、見た目にそぐわぬ毅然とした態度に惹かれている王子であった。先程の切りつけるような眼差しを愛おしむそれに違えると、娘をじっと見つめた。
気をそらせるつもりが、逆にますます興味を抱かれてしまったと、キャロルは肩を落とした。
「さぁ、もう夜も更けた。明日も早い、そろそろ寝むのだ、姫よ。」
「え……寝むって、ここで!?」
「ほかにどこで寝るというのだ」
まさか寝るときまで王子に監視されるとは思わなかった。
「あ、あなたと一緒の天幕でなんか眠れないわ。ほかの天幕に移動させて。」
「ならぬ。ほかの者に監視させて、間違いがあれば取り返しがつかぬ。そなたは私の側で寝むのだ。」
是が非でも抵抗するキャロルと押し問答をするうち、ふいに王子の口角が上がりはじめる。
「姫よ。ではなにか、そなたは私を男としてみている、そうとってよいのだな。」
そう戯れかける王子にさすがのキャロルも口を閉じる。
「眠れぬのなら、わたしが腕に抱いて眠らせてやろうか」
「なに言ってるの!ふざけないで!」
夜の暗さでよくは見えないが顔を真っ赤にして怒っているであろう姫を思い、イズミルは愛しさに我が身を委ねた。すっと立ち上がると、姫の側へ近づく。
あ、と思ったときにはもはや抱きすくめれていた。
「ああ、いや!なにをするの。はなして!」
「そのように叫ぶでない。衛兵どもがなにごとかと騒ぐではないか。」
イズミルは、恐怖に震えながら声にならない叫びをあげてもがくキャロルの耳元にそっと囁く。
「なにも無体な真似などするつもりはない。だが、そのように派手に抵抗されると、無理にでも我が物にしてしまいたくなる……」
押し殺した声音を聴いた娘はぴたりと動きを止めた。
男の心臓の鼓動を感じるほどにきつく抱き締められ、娘は冷や汗をかきながらじっと耐えた。
イズミルはキャロルの髪に鼻を埋めたまま石のように動かない。しかしその分厚い胸の下の鼓動はせわしく波打ち、それが波紋のように広がり、こちらの鼓動までも早くなってしまいそうだった。
刻が止まったかのように長い時間が過ぎ、名残惜しそうにイズミルはキャロルを離した。
「そなたを愛している」
ナイルの姫の白い手をとって自分の胸に引き寄せながら、王子は愛を囁く。
「愛しているゆえに…」
続きを言わないまま、切れ長の美しい瞳でじっと見つめられる。キャロルは、その熱っぽい視線を受け止めきれず、気まずそうにそっぽを向いた。
やがてそっと娘の手を解放すると、イズミルは美しい所作で立ち上って、側にあった灯りを落とした。
かすかな衣擦れの音で男が少し離れたところに身を横たえたことが知れた。
キャロルはほっと息を吐くも、王子の鼓動が胸に残り、身体のこわばりがとれない。ひどく余裕のない速度で脈打つそれが、自分への愛情の高まりだと悟ると、ひとりでに顔が熱くなる。
(みんな、どうして私なんかを……王子も、メンフィスも……)
結局眠れずに夜が明けてきた。天幕の隙間から眩い光が漏れてきた頃、ようやくうとうととしてきた。
そして短い夢を見た。
「いやぁ!誰か……誰か助けて!メンフィス……!」
泣き叫びながら、熱い火のなかを逃げ惑う。
そのとき、どす、という鈍い衝撃を背中に感じ、キャロルは倒れた。
「逃がさぬ。」
炎のなかから現れたのは、冷たい目をした長髪の男。ゆったりとこちらへ近づいてくる。キャロルは恐ろしさですくみ動けない。彼の周囲だけ炎も届かないほど蒼白く冷えきっているかのようにみえた。
そして今度は別の炎のなかから、まさに燃えながらこちらへ走ってくる人影があった。
「キャロル!」
現れたのは漆黒の髪に褐色の肌の雄々しい青年だった。炎を身に纏い、憤怒の表情で先程の蒼白い男を睨みつけている。
やがて戦闘が始まる。剣と剣のぶつかり合う激しい音が火の爆ぜる音に重なって、悪魔が叫んでるようだ。
(やめて……やめて……みんなわたしのために死んでしまう)
肩に激痛が走る。血がほとばしり、着衣を朱にそめていく。炎が迫り、身体をなめる。
(い、いや、死にたくない!兄さん!ママ!パパ!)
「いやぁ!」
自分の叫び声で目覚めた。背中にぐっしょりと汗をかいてがたがたと震えていた。
「いかがいたした。」
ふと横を見ると、イズミル王子が心配そうにこちらを覗きこんでいる。
「王子!」
イズミルの顔をみるなり、キャロルはもつれる足で逃げようとする。しかし、敷布に足をとられて転んでしまった。
「いったいどうしたのいうのか。悪い夢でも見たのではないか。」
王子は取り乱すキャロルに歩み寄るも、彼女は、いや、こないで、と繰り返し、震える自身をかき抱いた。肩のあたりに手をやり衣をぎゅっと握っている。
「わたしから受けた傷がまだ痛むのか」
後悔のにじむ声で言って、いやがるナイルの姫を無理にも抱き寄せた。
「許せ」
その頼りない肩に顔を埋め許しを請うが、キャロルは泣き出してしまう。
「怖い…怖いわ。もういや……こんなところにいたくない。家に帰りたい…ママ、兄さん……」
夢はただの悪夢でなく、紛れもない現実そのものだった。対峙するふたりの男はヒッタイトの王子イズミルとエジプトのファラオ、メンフィス。
ヒッタイトに連れ去られたキャロルは、エジプトで失踪したミタムン王女のことで拷問を受け、逃げるときには瀕死の重傷をも負わされた。
一方、愛する娘を奪われ怒りに燃えたメンフィスは、軍を率いてヒッタイトの城へ乗り込み、同軍と激しく衝突。双方の民の命が多く失われた。
「わたしのせいだわ」
それは、戦争など、血など見ることなく平和に育った少女を呵責の地獄へと追いやるには十分すぎた。
メンフィスによって助け出されたあとも、ナイルの姫、ナイルの姫、とあがめるエジプトの民の声が恐ろしくてならなかった。自分を大切に思い、命を救ってくれたメンフィスには感謝していたが、妃に迎えると迫られ、仕方なく必死の思いで抜けてきた。
もうこれ以上、この世界に干渉してはならない。自分のために罪なき古代人が傷つくことはあってはならない。
キャロルはそう自身に言い聞かせて、エジプトを離れようとしたのだ。
王子は背中から守るように抱き締めてやりながら、娘が泣き止むのを辛抱強く待つ。やがて嗚咽がおさまると、そっと腕を解いた。
「肩が痛むのか」
問われて娘は、弱々しく首を横に振る。
こころが、と涙につまった声を絞る。
「心が、痛いわ」
痛くてたまらない、と顔を覆って再び涙にむせぶ。
「みんなわたしのせいで死んだわ。わたしのせいで……」
イズミルはなぜか自分を責めるキャロルに困惑する。重苦しい空気と裏腹に、幕内はゆるやかに淡い朝の光に包まれていく。
「どうして私ばかりこんな目に遭うのって思ったわ。でも違う、古代の人が悪いんじゃない。ここにいてはいけないのは私の方。」
抑えていた感情が堰を切りとめどなく溢れてしまう。自分を捕らえた男の眼前にあっても、胸の苦しみを吐露しなければ、どうにかなってしまいそうだった。
「わたしが古代になんてこなければ、かのエジプト兵も、セチも、みんな死なずにすんだ!わたしがナイルの姫だと信じて最期まで…
こんなことになるのなら、ミタムン王女の代わりに、わたしがアイシスに殺されればよかったんだわ!」
炎にまかれた少女と、それを眺めて微笑むアイシスの姿がおぞましく甦る。
メンフィスの姉アイシスはメンフィスを愛するあまり、彼に近づくミタムン王女をキャロルの目の前で容赦なく始末した。そしてキャロル自身もその手にかけようとした。
「メンフィスも…いまごろ私がいなくなってきっとまた怒ってるわ。あんなにもわたしのことを愛そうとしてくれたのに、裏切ることしかできない。」
黙ってキャロルの独白を聞いていたイズミルだったが、妹姫やメンフィスの名前が出たところで、さっと顔色を変えた。ぽろぽろと泣き崩れる娘の肩を揺さぶり起こし、詰問する。
「いまなんと…なんといったのだ。ミタムンは女王アイシスに殺されたのか!」
はっと涙に濡れた瞳を見開いてイズミルを見る。
思わず口をついて出た言葉は戻すことができない。
王子に真実を話しては、エジプトとヒッタイトの間に戦の理由を与えてしまう、という懸念が再びキャロルの脳裡をよぎる。けれどいまとなっては、話そうが話さまいが同じことだ。
躊躇って言い淀むキャロルを、ヒッタイトの王子は鋭く問い詰める。
「いい加減申さぬか、ナイルの姫よ!わが妹はどうして殺されたのだ!」
唇を引き結んでいた娘だったが、やがて意を決したように、王子から身を離すと、その場に平伏する。恐ろしくて男の顔を見ることができない。
「王子、ミタムン王女は、メンフィスへの嫉妬にかられたアイシスによって地下牢に幽閉され……それで、」
一旦言葉を区切ると、
「殺されたの」
火にまかれ惨たらしく死んだとまでは口にできなかった。
「そなたはそれを黙って見ていたのか」
さきほどまでの慈愛を込めた声音は消え失せ、冷えた鉄のような無機質の声が頭上から降ってきた。
キャロルは震える唇からなんとか言葉を絞り出す。
「ごめんなさい…私は、私は、王女を助けることができなかった。嫉妬に狂ったアイシスを止めることができなかった。あのとき死んだのは私だったかもしれないのに。」
押し潰されるような沈黙が降りる。ナイルの姫は拳を握りしめ、勇気を奮って王子に訴えた。
「メンフィスはこのことを知らないの。お願いよ、どうかヒッタイト王には言わないで……私はどうなってもいい、けれど、これ以上関係のない人の血が流れるのはいやなの。ヒッタイト王には言わないで……」
必死で懇願する娘を見下ろす王子の眼には、なんの感情の窺えない。
彼はおもむろに身を屈めると、口を開いた。
「相分かった」
思ってもみない了承の言葉にキャロルがはっと瞠目すると、イズミルは口の端を歪ませる。
「だが、条件がある。父王にこのことを伏せる代わりに、この私の妃になるとこの場で誓約いたせ。」
「なんですって」
「この私を愛すると誓うのだ、ナイルの姫よ。」
深い悲しみとの痛みで忘れていた自我が、みるみる呼び起こされる。このまま、この男のものとなり、古代で一生を終えるのか。しかし、いまそうしなければ再び戦がおこりおびただしい血が流れるかもしれない。
ふたつの感情のなかに板挟みになり、声を失った。しかし無言の間に、イズミルの端正な顔は次第に憎しみに歪みゆく。
「この期に及んでまだ私を拒むか」
王子の怒りをはらんだ声に、キャロルは震え上がる。
「ど、どうしてそんなことを?私はあなたの妹を見殺しにしたのよ!どうして生かしておくの?」
「わが妃になるよりも、死ぬ方が良いと申すのか!」
「そんなこといってないわ!」
鋭く拒む娘の声が耳に入った瞬間、イズミルは自制心を失った。
普段の湖面のように静かな佇まいが嘘のように、激しい怒りを露にする。手をのばしキャロルの小枝のような腕をつかむとその場に引き倒す。
なすすべもなく床に転がる娘の小さな身体に覆い被さると、恐ろしい力で押えつけた。
刹那、底冷えするほど真っ暗な瞳がキャロルを捉えた。そして、そのままその闇の瞳のなかにひきずりこまれる。
声をあげる間もなく唇は強く塞がれた。
昨日の押し包むような優しい口づけとは違い、気を失いそうなほど深く長い接吻だった。
少女は泣きながら必死に手足をもがき、逃れようとするが敵わない。
男は嵐のように渦巻く激情にまかせ、愛しいはずの娘を蹂躙しようとする。
「やめて……やめて王子!」
「妃になると誓わぬのなら、力づくでわたしのものにするまで」
「い、いや……だれか、だれか!」
一枚布を身体にまといつけただけの簡易な古代の衣装が、王子の手によって容易くまくりあげられ、白い素肌が露になる。そこに淡い色の長い髪が荒々しく降りかかる。
もうだめだ、とキャロルが抵抗を諦めかけたそのときだった。
外で兵たちの叫び声が聞こえ、だれかがこちらへ走ってくる気配がした。
「王子」
幕の外で兵士が王子を呼んだ。
その声で、イズミルははっと我に返る。そして腕のなかですすり泣く娘を見た途端、逆上せた頭が水をかぶったがごとく冷えていく。高貴なる王子は悔悟の念に奥歯をきつく噛み締めた。
やや乱暴にキャロルを解放して、衣裳を素早く整えながら自分を呼ぶ兵士の声に応える。
「なにごとか」
「はっ、お騒がせして申し訳ありません。賊が出まして、ただいま取り押さえておるところでございます。」
「ひっ捕らえて何者か取り調べる。エジプトの間者かもしれぬ。」
王子が行ってしまってから、キャロルはよろよろと起き上がり、震える指で乱された衣裳を直す。しばらくそのまま茫然と宙を見つめていたが、空虚な胸の奥から悲しみが泉のように湧き出てきて再び涙が溢れる。
(王子を怒らせてしまった)
自分がどうしてここにいるのか、どんな存在なのか、なにを思うのか、王子にわかってもらいたかったのに、うまくいかない。
メンフィスのときと同じく、まったく聞き入れてもらえない。
恐怖の去ったあとは、意のままにならぬ自分を無理矢理にものにしようとしたイズミルに対し、怒りと悲しみの念が込み上げる。
今日の人類文明の礎を築いた古代の人々を、憎みたくも、恨みたくもないのに、とキャロルは思う。三千年の刻の隔たりは埋められないのだろうか。人の心はいつの時代も変わらぬものだと思っていた。けれど、そうではないのかもしれない。
出口の見えぬ思いを抱えたまま泣き疲れて蹲る少女を、布間から差す真新しい陽光が静かに照らした。
(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)②