影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

(4)

 ドアが開けられると同時に転がるようにして外へ出た。
 女は寮のようにも見える、大きな建物の横の小道を曲がって行った。わたしがその角に達した時には、女は両側からうっそうと樹々の茂みが覆いかぶさる暗い道を歩いていた。一直線の長い道だった。
 黄ばんだ明かりの二本の外灯が点っていた。コンクリートの塀や樹々がその明かりに浮き出て見えた。
 女の、ハイヒールで路上を踏みしめる足音が、規則正しく暗い小道に響いた。わたしは猫のように足音を殺しながら、女の後を追った。
 午前二時を過ぎた深夜の小道に、人の行き交いはなかった。二百メートルはあるかと思われる小道の前方は三叉路になっていた。
 わたしは身を隠す物のない場所で、コンクリートの塀に体を押し付けるようにして歩いた。
 女はほぼ二百メートルかと思われる距離を歩いて行く間に、一度も後ろを振り返らなかった。三叉路まで行くと左へ曲がった。わたしの視界から女が消えた。
 わたしは女の姿を見失う事を危惧した。足音を忍ばせながら小走りに走って、女の後を追った。
 わたしが女の曲がった三叉路まで来た時、だが、女の姿はすでに見えなくなっていた。大きな屋敷の並ぶ通りが、外灯の明かりに照らし出されて、ひっそりと静まり返っていた。
 女がどの家に入ったのか、皆目、見当が付かなかった。わたしは、まだ、その気配が残っているかも知れない家を探して歩いた。女が入った家には明かりがつくに違いない。
 しばらくは、樹木に覆われた家々のあちこちに注意を凝らしながら、何度も同じ道を往ったり来たりした。しかし、いつまで経っても、どの家にも変化は見られなかった。
 わたしは、しびれを切らして諦めた。せっかく、ここまで来たのに、と思うと、諦め切れないものがあったが、軽い疲労感を覚えるのと共に、そこを立ち去る気になった。
 一先ず一息入れるためにタバコを取り出して一本を抜き取り、唇に挟んで火を付けた。それから、先程来た道を戻り始めた。
 --虚を突かれた思いだった。わたしは思わず振り返った。暗い通りを見透かすようにして見つめた。
 --気のせいだったのか・・・
 人通りもないと思っていた小道に、突然、自分の背後に人の足音を聞いたように思って狼狽したのだった。
 わたしが振り返った見通しのよい小道には、だが、足音をたてるような人影はなかった。
 わたしは気を取り直して、また、歩き始めた。
 女の後を付けたりしたので、良心が咎めてびくびくしているのだーー、自分の臆病さを笑うような気持で思った。
 だが、そう思った次の瞬間、早くもわたしは神経を研ぎ澄ましていた。わたしの足音とは違うもう一つの足音が、確かに、この小道の何処かでしている・・・
 わたしは緊張感で体を堅くした。もう一度、背後を振り返った。
 人の隠れる場所など何処にもない小道に、やはり人影はなかった。
「誰だ ! 出て来いよ」 
 わたしは闇に向かって叫んだ。
 誰かが居るのか居ないのか、確かめてみたかった。
 だが、外灯の明かりと闇が交錯する深夜の小道には、その声に応えて姿を現す人の影はなかった。ものみなすべてが息を潜めたような静寂(しじま)が、辺りを領しているだけだった。

     四

 深夜に聞いたと思った足音が実際にあったのか、なかったのか、結局は分からずじまいであった。あるいは、わたしの思い過ごしによる、空耳であったのかも知れない・・・。わたしの身辺にも、格別に変わった事は起こらなかった。
 わたしはそれ以降も、毎週、土曜日になると「蛾」へ足を運んだ。女を待つためだった。 

影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-07-20

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