挫く女・帰去来(くじくひと・帰去来)

よしの かい

「挫く女・帰去来」
(くじくひと・ききょらい)」

「─あのさ、誰にだって言いにくいことってあんだろ?言いにくいから内緒になるんじゃねえか。大体、言い寄ってきたのはあいつなんだぜ」目を落とし左手の人差し指の爪を研ぐ仕草をしながら悪びれることもなく男は言葉を続けた。
「─お前をさ、傷つけたくなかったんだよな俺。つまりさ、知らない方がいいことってあんだろ?」
まだ朝の光の射し込む空いたファミレスの窓際の席に向き合いながら景子は悔しさをじっと噛み殺して男を睨みつけていた。
「─絵里はどうしたのよ」景子はやっと言った。
男が目を上げた。
「─なんで来ないのよ」続けた言葉に男がニヤッと笑った。
「来れる訳ねえだろ。親友のお前をよ、裏切っちまったんだからよ」
信じられなかった─。絵里は景子の幼馴染みだ。本当に幼い頃から仲がよく親友同士の筈だった。
絵里は確かに恋多き女でもある。彼女の初恋を取り持ってやったのも景子だ。相手は自分の憧れの人でもあった。好きな人がかち合ってしまったのだった。
景子はギュッ、と目をつぶる思いで相手を放課後の教室に呼び出し彼女の思いを伝えてやった。手を繋ぎ仲良く伴って下校する二人を情けなさ半分で見送ったりもした。
しかし今度は見過ごす訳にはいかない。男は明らかに自分の恋人なのだ。当然彼女も二人の関係を熟知している。
「─なんであんたとつきあってんのよ」景子は今にも泣き出しそうに言った。男は少したじろいで顔を近づけ、
「─おい、こんなとこで泣くなよな」と周りを気にしながら声をひそめた。
「─前から好きだったんだとよ、俺を。本当に俺から誘ったんじゃねえぞ」上目遣いで景子を見つめそう言うと煙草に火をつけた。
店内に流れている今の心境にそぐわない爽やかなモーツァルトが腹立たしく聞こえた。
「─返してよ」震える声で景子が言った。
煙を吐き出しながら男が見た。
「─お金、五十万円」景子は思わず嗚咽が漏れそうになるのを抑えた。
少しの間の後さも可笑しそうに男が笑った。
「そうだよな。─うん。結局はそこだよ。うん」意に反して笑いながら何度も頷く男の態度にはらわたが煮えくり返りそうだった。間もなく男はぴたっと笑うのを止め、真顔で、
「返すよ。その内な」と顔を間近に寄せて言った。瞬間、シトラスのコロンのいい匂いがふわっと漂った。景子の好きな匂いだった。
 男は彫りの深い顔立ちをしている。
細面の顔の右半分でニヤッと笑う癖がありそれが整った顔を余計クールに見せる。
長身で街を歩いていてもその容姿はかなり目立った。当然女達が放って置くはずもなく実際スマホのアドレスには女性の名がひしめいている。
一年前、絵里から誘われた合コンがきっかけで二人は知り合った。
イケメンであることが敬遠の理由で初めは拒否し続けていたが執拗で強引な誘いにとうとう根負けした形で付き合い始めた。
落とすことを楽しんでるのね─。どうせすぐに飽きて他の女のとこへ行くわ。そんな高をくくっていたのだが交際を重ねる内にそれほど悪い男でも無いことが分かってきた。
外見や普段の少し乱暴で危うい振る舞いとは異なり実に細やかな気遣いをしてくれる。そんな優しさが心地よく感じた。
自分とは不釣り合いだ─。そう思いながらも景子は事あるごとにいつか男との関係に終止符が打たれることへの強い不安を募らせるようになっていた。
本気で男に惹かれてしまったのだ。
景子の風貌は決して美人とは言えない。どちらかと言うとのっぺりした顔立ちで背も低い。
以前誰かに江戸時代の美人画みたいだ、と言われた事がある。けなされたのか褒め言葉なのか未だに判らないが多分それが自分の見た目なのだろうと思った。
付き合い始めて半年経った頃、景子は自分のどこが気に入ったのか男に聞いてみた。
男はウーンと唸った後、
「─お人好しのとこかな」そう言いながら優しく背中から腕を回してきた。男にしては華奢な腕に自分の指を添え、漂うコロンの香りに包まれながら景子は束の間の至福に身を委ねるのだった。

 今、別れを目の当たりにして嗅ぐコロンの香りに切ないほどの未練を認めている自分が憐れに思えた。
「─別れるんでしょ?」半泣きで言った。
「しょうがねえよな─」他人事のように表情なく男が応えた。
店の掛け時計が八時を回ろうとしていた。出勤前ぎりぎりの時間だ。
「─さよなら」やっと言い、景子は立ち上がった。
「帰んのか?─」上目遣いで言いながら男が無遠慮に欠伸をした。
不意に耐えていた気持ちが切れ景子の目から大粒の涙が溢れ出た。
「─あ、じゃ、これ頼むわ」男が店の伝票を差し出した。

 先刻からどうもお尻のあたりに何かが触れてくる。
都心に向かう混雑した電車の車内で泣きはらした目を気にしながら景子はせめて切ない別れの感傷に浸ろうとしていた。
何より親友の裏切りが受け入れられなかった。
寂しさと悲しみと悔しさが入り混じって波紋のように心の奥から広がり、記憶の断片と共に去来した。
だが感傷は車体が揺れる度に感じる臀部の微妙な違和感に阻まれた。
身動ぎも出来ない程詰め合った状況の中で景子は背後の気配に集中してみた。微かだが生温かく荒い鼻息のようなものが後ろ髪に吹きかかる気がする。何とか後ろを確かめたいのだがどうしても身を捩ることが出来ない。
カーブに差し掛かったのか車輌がまた大きく揺れた。同時に今度ははっきりと手指の感覚を尻に感じた。おぞましい悪寒が背筋を走り抜けた。次の瞬間、
「お前、何やってんだよッ─」若い男の声が揺れる車内に響いた。

 駅長室で景子は消え入りたい思いで立ち尽くしていた。
椅子に座るよう促されていたが打ちひしがれたように項垂れている中年の男と対峙するのは嫌だった。
「─大丈夫っすか?」気遣うように男が言った。
「─ありがとうございます。本当に」景子は丁寧に頭を下げた。動顛していて礼を言うのも忘れていた。勇気ある彼の行動に心から感謝した。眼を上げ初めて男を見た。
男は坊主頭だった。
景子と同年位だろうか。ダークブラウンのスーツががっしりした体躯を包み込んでいる。朴訥そうな印象が何だか新鮮で景子は少し笑った。
「─あ、いえ。と、とんでもないっす。あの、じゃ、自分は仕事があるもんで」男は景子の目線に照れたように短髪をガリガリかき、どぎまぎした様子で丁寧に頭を下げると部屋を出て行った。
 警察の尋問の時もずっと中年の男は景子の方を見なかった。
魔が差した、初めてなんだ。と繰り返していた。
勤務先を訊かれ職場と家族に連絡する旨を刑事が告げると男は不意に景子を見上げ、床に両手をついた。
「─すみませんでしたッ、本当に。子供はまだ小学生なんです。どうか、どうか許してくださいッ、もう二度と、本当にもう二度としませんから─申し訳ありませんでしたッ」
結局被害届は出さなかった。
男の家族を考えての事だった。
「─本当にいいのかい?これで。まあ、あんたもお人好しだねえ─。」送り出しながら半ば呆れたように刑事がそう言った。

 その日は職場でも散々だった。
遅刻の理由を言える訳もなく、上司からの叱責を黙って耐えた。ペナルティーだと言われ溜まった伝票の束を押し付けられた。
全ての処理が終わったのは夜九時過ぎだった。
景子は吊り革につかまりへとへとに疲れた躰を揺れに任せていた。
─長い一日だった。本当に。
今は男と別れた感傷などどうでも良かった。
ただ疲れ切った躰と心を早く休めたかった。

 改札を抜け短い階段を降り切ると目を閉じ、深く溜息を吐いた。
からから、と駅前の銀杏の葉擦れが聞こえる。賑やかな雑踏がようやく一日の終りを告げている様な気がし短い区切りを見出したようで少しだけほっとした。
「あ、あの、─」突然声がし、びくん、と景子は振り返った。
「─あ、あの、すみません。こんばんは─」
気をつけの姿勢をしてガリガリと頭をかきながら坊主頭の男が立っていた。
「─あ」景子は思わずそう小さく声を上げると、男を指さして笑みを浮かべた。   

       挫く女      了     

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