(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)①
王家の紋章4巻以降、どうなっていくかのお話になっています。イズミル王子メインです。
①逃げてきた少女
略奪者は苦笑するほかなかった。
「ナイルの娘よ……」
「わたしはナイルの娘なんかじゃないわ!」
優しく囁くように呼びかけても、返ってくるのは頑なな台詞ばかりだ。
わかってはいたが、一筋縄ではいかぬ気性の娘だ。
男は軽く息を吐くと、頭上に白く輝く月を見上げた。
月明かりに照らされた駱駝の四肢が、砂上に細長い影をつくっている。
胸に抱く娘は、敵国エジプトの王が妃に望んだ少女だった。まばゆい黄金の髪に、霊峰エルジェスの万年雪を思わせる真っ白な肌を持つ。どこから来たのか、何者なのかもわからない。
その正体不明の娘が、汚泥にまみれた水を清水に変え、囚人どもを救い、瀕死の王の命をもその手で救ったという。いつかあらわれるナイル河の神の娘だと、民に噂された。
時のファラオ、メンフィスは、自分の命を救ってくれたこの娘をいたく気に入り、次第に深く愛するようになったとか。
実際に遭ってみると、噂ほど気高くも、神々しくもないただの娘だった。だが、愛らしい見た目に反して、その青い瞳には強い意志が宿り、王をも恐れず凛然と歯向かう。
意のままにならぬほど、従わせたくなる衝動。それが過ぎ去ると、今度は息苦しいほどの恋慕が残った。そして求めるあまり、エジプトへ乗り込んで奪ってきた。
彼の王が気づけば国中を揺るがす大事である。聡明な男はそれを知りながらも、己を止めることができなかった。
「イズミル王子、もうすぐオアシスに着きまする」
隣で駱駝を操っていた案内役の従者が、うやうやしく男に声をかけた。
エジプトから北の方角、地中海を挟んで対岸の大地を治める古代大国があった。人類史上最初に鉄器を産み出したといわれるヒッタイト王国である。
男はそのヒッタイトの第一王子、イズミルであった。
ヒッタイトはナイルの恵みを受けて富国したエジプトとは違い、荒野にあって、戦いにより他国の人民と産物を次々と懐柔しながら急成長していた国であった。
戦わねば、国の安泰はない。
それゆえ、王子イズミルは幼い頃より、常に冷徹であれと教育されてきた。行動の一切に私情を入れず、常に国のために父王のためにと腐心してきた。
だがこのナイルの娘に出会い、うまれてはじめて恋というものを知った。はじめて薄衣をかけぬ心のありのままに、欲しい、手に入れたいと思ったのがこの娘だった。
しかし捕らえられた娘はそんな王子の心を解するはずもない。最初はただの敵国の捕虜で人質だったこの娘を、王子はいきなり手ひどく痛めつけてしまったからだ。
当然ながら、以降彼女の心は深く閉ざされ、なにを言っても拒絶されるばかりだ。
自分で手を下しておきながら、その心を解かすにはどうすればよいか、と思案するイズミル王子は、娘をくるんだ布地の上をそっと手のひらで撫でた。
びくり、と娘の肩が震える。
全神経を集中させて、王子の動きに息を詰めているようだった。
「どうしてそのように怯えるのだ。妹姫のことを思うあまりそなたにしたこと、悪いと思っている。」
周りに控えている従者らの息を飲む気配がする。自国の王皇太子が、捕らえられた敵国の只娘に頭を下げようとしているのだ。信じられないという表情で互いの顔を見合っている。しかし彼はそれに構わず、手綱をひいて駱駝を止めた。
従者どもに先で待つように指示すると、厚手の布を深く被ったナイルの姫に向かって言葉を続けた。
「妹を殺したは憎きエジプト、言い訳はせぬ。だがそなた自身が憎いわけではない。
そのように怯えるな。わたしはもうそなたを傷つけようなどと思っていない。」
計略を捨て、臣下の目を気にすることなく、ひとりの男として偽りのない心をナイルの姫の前に差し出す。
「わたしを許せ、姫よ」
はっと娘が顔を上げる。
暗闇から浮かび上がる白い頬、金糸のような細い髪が夜風に遊ぶ。青く黒く濡れた丸い種子のような両目が見開かれ、こちらを見つめている。その瞳も、髪と同じ繊細な黄金でたっぷりと縁取られている。
神秘的ながら、なにやら小さき獣のような愛くるしさである。
しかし娘はすぐさま瞳を伏せ、震える声を絞る。
「あ、あなたの言うことなんて、信じられないわ」
一国の王子である自分にここまで言わせたというのに、非難の言葉しか口にしない女に、男はふいに突き上げる衝動を抑えることができない。
その薄く華奢な肩先を掴むと、強引に引き寄せ唇を奪う。
「う……」
柔らかな唇から、漏れる吐息ごと塞ぎこむ。甘やかな感覚が全身をかけめぐる。意のままにならないことが、いっそう男を掻き立てた。
娘は我慢ならなくなったのか、首を捩って力一杯暴れ始めた。
「いやっ……は、はなして王子!降ろして!」
「私のもとを離れてどこへ行くつもりだ。自らメンフィスの側を辞して、逃げてきたのではないのか。」
あくまで冷静に問いかけると、娘の動きがぴくりと止まる。
「そうよ!わたしは誰のものにもならないわ。わたしはこの国の、この時代の人間じゃない。あなたたちとは関係ないの。ほうっておいて。」
目にいっぱいの涙をためて、よくわからないことを喚く娘に、イズミルは困惑した。
「ナイルの姫よ」
「ナイルの姫じゃないわ。わたしの名前はキャロル。キャロル・リード。」
「では、キャロルよ。わたしはそなたが愛しいのだ。そなたをこのままほうって行くことなどできない。このまま我が国へ連れていく。」
唐突にそんなことを切り出すイズミルに、一瞬虚をつかれたキャロルだったが、すぐに小さな獣のようにかみつく。
「なっ……連れていってどうするの!?」
「妃にする」
キャロルは瞳をこぼれそうなほど見開き、驚愕の表情を隠さない。まさか、エジプト王のみならず、古代帝国ヒッタイトの嫡子にまで求婚されるとは思いもよらない。少女の膝がぶるぶると震え出す。
「じゃあ、あなたもメンフィスと同じ……」
震えながらつぶやく娘に、男は眉をひそめる。
「わたしはメンフィス王よりも深くそなたを愛している」
「メンフィスもあなたも嫌いよ」
にべもなく言い放ち、身を反らせて逃げようとするキャロルを、さっと腕をのばし後ろから抱き留める。
「逃がさぬ。わたしを愛させるぞ。」
「いやだっ、はなして」
「どうしてそんなにも嫌な顔をする。微笑む顔をみせよ。わたしの側へ来い。そなたが欲しい。」
せっかくエジプト王の求愛から逃れたというのに、今度は大国の王子に見初められてしまうという事態にキャロルは激しく狼狽える。
(い、愛しいとか……愛してるとか……このひとは突然なにをいってるの)
こちらの気持ちをことごとく無視した振る舞いは、エジプト王メンフィスと変わらないようだった。
(古代の男の人って、みんなこうなの!?)
怒りと恐怖で心臓が早鐘をうち、息が苦しい。
無理矢理押さえつられて、座らされる。
「さあおとなしくいたせ。暴れると駱駝から落ちるぞ。」
イズミルはふいに腕の抱擁を弛め、くるりとこちらに向かせた。さっと頭にかぶった布をはずし、風に乱れる金の髪を指先で掻き分けその顔をのぞきこんだ。
「わたしを…見ろ」
ゆったりとそう命じると、じっと視線を合わされる。
冴え冴えとした月影の許、キャロルは改めてイズミルの顔をはっきりと見た。エジプト人よりも彫りの深い顔立ち、意志の強そうな眉の下に、淡く透き通った琥珀のような瞳が埋まっている。その瞳がまっすぐにこちらを見つめている。
負けじと目をつり上げて見返す娘に、男は口許を緩めるとゆっくりと顔を近づける。
また口づけをされると思い、恐ろしさにぎゅっと目を閉じたキャロルだが、温かな吐息は鼻先を掠め、唇が右の頬に触れ置かれた。
当初とうって変わったイズミルの態度にキャロルは戸惑う。わたしを政略の道具にしようと企み、痛め付け、挙げ句、妃になれですって!?
そう思った途端、息苦しいほどの自己嫌悪に見舞われる。
気がつけば古代に来てから同じことを叫んでばかりだ。メンフィスにしろこの王子にしろ、抱く感情は拒絶と逃避だけだ。
現代にいたとき、あんなにも思い焦がれた古代の世界に身をおきながら、自分はこの世界を受け入れようとしていなかった。
そうだ、メンフィス王も王子も悪くはない。ここにいてはならないのは自分だ。彼らは自分達のルールに従って生きているだけだ。どんなに受け入れがたくとも、ここでのルールは自分の好きなようには変えられない、否、変えてはならない。
(でも…でも、だからといって全部言いなりになって、古代人と結婚なんて絶対にごめんだわ。)
ようやく大人しくなってうつむく娘を、見目麗しい若君は黙ったまま胸に抱きよせ、ゆっくり駱駝の手綱をひいた。
ぐらりと揺れた拍子に、思わずキャロルは王子の着衣にしがみついた。
「しっかりとつかまっておれ」
さりげなく声をかけつつ、イズミルは愛しい娘の些細な仕草に胸を満たされていた。
キャロルは王子の肩越し、砂塵に霞む遠景に目をこらしじっと考える。
確かに、古代のルールを変えることはできない。でも人の心は少しずつ変えることができるはずだ。人の心の有り様は、きっと古代でもそう変わらない。
王子はなぜだか私のことを好きになってしまったみたいだけど、その気をなんとかして逸らせられないだろうか。
確かに怒らせると恐ろしいのは同じだが、何を言おうが聞く耳を持たないメンフィスより、理知的な雰囲気を持つイズミル王子の方がなんとかなるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き、キャロルは王子の横顔をちらりと忍び見た。
エジプトからヒッタイトの王都ハットウシャまではだいぶ距離がある。そこにつくまでになんとかしなくては。
ここで逃げても、広大な砂漠を渡る術を持たない自分は、のたれ死ぬしかない。
そう、逃げても逃げてもこうして追いかけてくるのなら、逃げるのはやめて立ち向かおう。
帰りたい、帰りたい、帰りたい。
でも、古代で生きるしかないんだ。
ああ、ママ、兄さん……ごめんなさい……
ふいにもう会えないかもしれない家族のことを思い出すと、途端に郷愁と不安が胸を突き上げる。徐々に瞳に涙が盛り上がり唇がわななきはじめるが、王子の前で泣くわけにはいかない。
そこにはない十字架を握るように胸に当て、ぎゅっと目を瞑ると、神に祈る。
(主よ、どうか私を御守りください……)
そんなキャロルの様子に気づかず、王子はエジプトから遠ざかる道を淡々と進んでいく。
無尽に広がる砂の海、吹きすさぶ風音と駱駝が地を踏む音のほかにはなにも聞こえない。古代にひとり漂う娘は孤独を封じるようにきつく目を閉じた。
(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)①