挫(くじ)く女(ひと)

よしの かい

「挫く女(くじくひと)」

 季節を彩るルージュが整然とディスプレイされている。
ウインドウショッピングを装って入った店の化粧品のコーナーに秋限定のディオールのコーラルリップが目についた。
ディスプレイの商品を見比べながら店員の様子をそっと窺い見る。
平日のまだ早い時間で店内は客もまばらだった。
サンプルの一つを手に取ると突然ヒールのバランスを崩し、絵里はフロアに倒れ込んだ。
陳列棚にひっ掛かってしまった形で棚の商品もフロアに散乱した。
慌てて女性店員が駆けつけた。
「大丈夫ですか─」店員は言うと心配そうに絵里に手を差し伸べた。
「─すみません。大丈夫です。でも商品を傷つけてしまって─」絵里は左の足首を摩りながら痛そうに少し眉を寄せた目を上げて言った。
「大丈夫ですよ。簡単なディスプレイですから」店員はそう言いながら直ぐに手際よく商品を片付け始めた。
「本当にすみません」絵里も手伝いながら今にも消え入りそうな声で詫びた。
「平気平気、気になさらないで─」
人の良さそうな店員の言葉に絵里は深く頭を下げると店をあとにした。

喫茶店の化粧室で鏡に向き合うと絵里はヴィトンのバッグからリップを取り出した。
ディオールのコーラルリップは絵里の口元を更に艶っぽい光沢に飾った。
絵里は自分の唇の形が好きだった。ニコール・キッドマンのそれに似ているとも思っている。
異性と向き合う時少し目線を落とし自分の唇の動きを意識して会話するようにしている。 
控えめで艶っぽい女を演出して見せるのだ。
時折黒目勝ちの大きな瞳で相手を見つめる。小首をかしげたように少しだけ上目遣いで、不意に問いかけるように見つめる。
恵まれた容姿に加え培ってきた小悪魔的な自分の魅力は確かなものだと自負していた。
ネイルはどの色がいいかしら─。
絵里は頭の中で次のターゲットの店を物色しながらバッグに盗んだリップをしまった。

 窓際の席に座りカプチーノを注文するとポーチからメントールの煙草を出しくわえた。
ラインをチェックしながらライターで火を点け絵里は口元を緩めた。
「どういうつもり?─」景子からだった。少し考え、
「ごめんね。本当に」細く煙を吐き出し、笑い出したくなるのを堪えながらそう返信した。
今朝、景子からの呼び出しに応じなかった。言い訳をするのも面倒だった。
大体、正当な理由など無いのだ。元々景子の彼氏の事など興味もなかった。
確かにイケ面だが絵里の好みでは無かった。景子があまりにも男にのめり込んでいるから面白半分で誘ってみただけだ。
合コンの時男が自分の色香になびかなかったことも気に入らなかった。
容姿を引き合いに出すとき景子ははるかに見下す位置にいる。あの時自分は景子の隣にいたのに目線を向けられることは殆ど無かった。
「親友だからね─」景子は口癖のように言いながら色々なことを打ち明け相談したりしてきた。
高校進学を前に絵里の父親が交通事故で死んだ。
悲しみに打ちひしがれたその時、いつも自分の傍に居てくれたのも景子だった。
優しい言葉で慰められながらしかし絵里はそれを半ば疎ましく思っていた。
景子には健在な両親に加え二人の兄妹がいた。官庁に勤める父親と母親は小学校の教師をしていた。
経済的にもゆとりのある境涯の彼女に比べ絵里は一人っ子で家計も父がトラックの長距離運転をして支えていた。
母親は絵里が幼少の頃から身体が弱く臥せている事が多かった。
父が仕事で帰って来ず、母も病気で寝ている。
話し相手もいない薄暗い部屋で一人テレビに向き合って冷え切った夕餉を取る寂しさは言いようも無かった。
絵里の悲しみの内には進学できないかもしれない現実とこれからの生活への大きな不安も入り混じっていたのだった。
自分に無い全てが景子にはあった。
優しく慰められながら自分は今、哀れみの言葉をかけられている。憐憫の目で見下されているのだ、と感じた。
堪らなかった。明らかに自分の方が優っている筈だ。容姿は勿論成績にも歴然と差があった。
疎ましさはやがて憎しみに近いものに変わっていった。
いつか決定的な優劣を突きつけてやる。その思いだけで絵里は景子の「親友」を演じ続けていた。
 「今、どこにいる?─」男からラインが入った。
絵里は既に興ざめしていた。思っていたより簡単に男は誘いに乗ってきた。
景子に飽き始めていたからかも知れないがそんな事はどうでも良かった。
自分になびいた以上、先のゲームを続ける気はなかった。
「─今病院。後で、連絡します」そう返信すると二本目の煙草をくわえ、ほくそ笑んだ。

 男は鼻白んだ様子で絵里をじっと見つめた。
「─本当にか」疑いの眼差しで窺うように絵里を見ている。
黒目勝ちのつぶらな瞳を潤ませて絵里は言葉を続けた。
「─どうしよう。本当に」半泣きの消え入るような声に男は言葉を探していた。
煙草を持つ指が心なし震えているようだった。
─遊び人を気取ってるくせに案外だらしないのね。そう思うと絵里は決め台詞を出した。
「─ねえ、産んで、いいんでしょ?」眼には涙が溢れんばかりだった。
いつしか演者としてヒロインになることを楽しむようにもなっていた。
様々なシチュエーションを演じ切り期待通りの相手の反応を引き出すことが面白かった。
思えば女であることを最大限活かし、「嘘」でその場を凌いできた。
力もお金もない自分にとって唯一それが生き抜く術だと信じて疑わなかった。罪の意識など微塵も無かった。
「─堕ろせよ。─金は何とかするから」男の力ないまさに期待通りの台詞が返って来た。
「─そんな、ひどいわ」ボロボロと大粒の涙をこぼし顔を覆った両手の下で絵里は小さく赤い舌を出した。

 店内に流れるジャズのスウィングに揺れながら絵里はマティーニのオリーブを口の中で転がし心地良く酔いしれていた。
四杯目の注文をした時カウンターでシェイカーを振っていたマスターがたしなめた。
「─ちょっと、ペースが早いよ」よく似合っている銀縁の眼鏡の奥で優しげな眼差しが笑っていた。
割と歴史のある地元では人気のあるショットバーで絵里は常連だった。
四十過ぎだろうか。落ち着いた風貌で寡黙なマスターがお気に入りだった。
「─うん。そう、わかった。」絵里は素直に頷いた。
「ねえ、マスター─」少し大きめのカクテルグラスの縁を右の人差し指でなぞりながら絵里は酔眼を上げると、
「─わたしって、ニセモノだよ」ポツリ、とそう言った。この頃、愚にもつかぬ偽りのゲームを繰り返す日々にも少し嫌気が差し始めてきていた。いつも心のどこかに救いを求めている自分を感じ始めていた。真実の自身を曝け出し誰かに頷いて欲しかった。
「━なぜ?」少し笑ってマスターが訊いた。
「どうしようもないんだ。酷い女なんだよ。すごい嘘つきなんだ。いない方がいいのかな、わたしなんて─」酔いに任せ自虐的な気持ちが口をついた。
「-いけない。いない方がいいなんて、そんな事言っちゃいけない─」間を置かず思いもかけない強い口調が返って来た。
穏やかだがきっぱりした口調だった。絵里は驚いてマスターを見上げた。真顔でマスターは続けた。
「いなくなっていい人なんて、誰もいない。いないんだから─」絵里はマスターを見つめた。戯言の投げかけに返された思わぬ言葉に一瞬たじろぐと、なぜだか泣きだしたいような気持ちが迫りあがってきた。
「大事にしなきゃ─。もっと、自分を。大事に、生きなきゃ。せっかくだから─。せっかくの命なんだから─」マスターはそこで言葉を切り何かに耐えるように下を向いていたがやがて目を上げ、
「─ね。自分を、自分だけは恥ちゃいけない。大事にしなきゃ。僕は知ってる。君は間違いないくいい人なんだから」優しい眼差しと柔和な笑顔を戻してそう言った。

懺悔なんかしない─。誰もが経験しているはずだ。人を裏切ったり、騙したり。
世の中なんて欺瞞だらけじゃない。わたしなんかより悪い人間は吐き捨てるほどいる。
贖罪なんてしない─。
酔った眼に街の灯りが二重に見えた。
おぼつかない足取りを懸命に意識しながら絵里は泣きたくなる気持ちを抑えていた。少しでも気を緩めると涙が溢れてしまいそうだった。
『─僕は知ってる。君は間違いなくいい人なんだから』マスターの言葉を反芻していた。
「─何よ。いったい、わたしの何を知ってるのよ」絵里は辛うじて感情を抑えて呟いた。
負けたくなかった。他人の言葉になんか絆(ほだ)されたくなかった─。
不意に母を思い出した。
周囲の反対を押し切り駆け落ち同然で父と結ばれた。
「─嫁入りの道具は、お鍋とお釜だけだったのよ」懐かしそうに新婚当時を笑っていた。
まだ若い歳で夫を亡くしてしまい縁者たちの誹りの中、貧しい暮らしに耐えた─。
わたしの一人暮らしに猛反対し泣いていた母。それでも押し切って家を出てしまった。
今は恐らく傷心のまま祖母のいる生家で暮らしている。連絡は殆どしていない。
「─生きていればいい事があるから。きっとあるから」糊口を凌ぐため安い手間賃の内職をしながら口癖のようにそう繰り返していた。
「─なによ。いいことなんて、何にもなかったじゃない」もう一度そう小さく呟いた途端、涙が堰を切ったように溢れ出した。
絵里は泣いた。
膝を抱え、蹲(うずくま)るようにして泣いた。雑踏も人目もはばからなかった。
泣くだけ泣くと何だか憑き物が落ちたようだった。
絵里は立ち上がり目尻を手の甲で拭うと早めに色づいた街頭の銀杏の葉を見上げ胸いっぱいに秋の夜気を吸い込んだ後スマホを取り出し、母に繋がる番号を探した。

  以下。挫く女帰去来へ

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