あなたが微笑む日
幼馴染の千代子と恵子。海辺の町で生まれ育ち、同じ痛みを分かち合ってきた二人は姉妹よりも強い絆で結ばれていると信じた。そこにある日不意に34年ぶりに現れた同級生の細川佳夫。もちろん女の友情は微動だにしないはずであったが…
第一話 カッパの永井
照り返す陽射しの中、日傘にようやく肌を守られながら千代子は狭い石造りの階段道をゆっくりと下っていた。眼下に広がる真っ青な海からはときどき風が吹き上げ潮の香りを運んで来る。はるか地平線に沸きあがる入道雲は鮮やかな真夏色だ。階段を降りきり少し坂を下ると横手に瓦屋根の小間物屋がある。軒下では色とりどりの風鈴が涼しげな音を奏でている。幼馴染の小川恵子が一人で切り盛りしている「楓」だ。恵子の父母は数年前に他界した。
「千代ちゃん、いつも大変だわねぇ。お母さんの具合はどうだった?」
店に入りいつもの籐椅子に腰かけた千代子は、網掛けかばんから小さな包みを恵子に差出し、恵子に柔らかな視線を送った。
「これね、昨日仕込んでおいた浅漬け。この季節は野菜が安いから、今のうちに一年分取っておかないとね」
「あら、ありがとう。千代ちゃんの浅漬けってミョウガ入りで美味しいのよね。昨日のテレビニュースで言っていたけどここは全国で第二位の長寿の県なんだって。新鮮な野菜とお魚が豊富な土地に感謝しなくちゃ。」
千代子と恵子は子供のころから一緒に遊びケンカもよくした。あっという間に今では五十路を越えた二人だが、進学、就職、結婚、離婚、そして親の死別という人生のサイクルを申し合わせたように似たような経験を共有してきた。女同士ではあるが、あまりお喋りはしない。ラインや電話も用事がある時だけだ。二人は肝胆相照らす仲でありムダな会話は一切不要なのだ。
恵子は「楓」に敢えて冷房設備は入れていない。その代わり天井にシーリングファン(天井扇風機)を回している。季節の切り花やジャスミンの香りで彩られる店内は恵子の趣味、というよりは「自然と共生する」という彼女の信念が垣間見える。恵子のそういう実直な性格を千代子はよく知っているが、それが故に恵子の店は常連だけを相手とする店となっている。しかしそれが千代子にとっては居心地の良い店となる大きな原因であった。
「ウチの母さんはね、もう長くはないみたい。もちろん先生ははっきり言わないけれど、なにせトシだしねぇ。今は何とか気力で頑張っているけど、もうそろそろ家に戻してあげたいなって先生に相談したら、先生もダメだとはおっしゃらなかったのよ。それでね、来週にでも病院から引き上げようと思っています」
恵子はしばらく黙っていたが、シーリングファンに目をやりながら呟くように言った。
「お母さんには私も子供のころから可愛がってもらった。お母さんの焼くお煎餅が楽しみでよく千代ちゃんのところに遊びに行ったわ。でも今年85歳でしょ。欲を言えばあと5年くらいと思うけど、神様の決めた寿命だもの。千代ちゃんにとっては最後の肉親だけど、延命なんかしないで安らかに眠らせてあげるのがいいと思うわ。何か手伝うことがあったら何でも言ってね」
恵子の今言ったことはまさに千代子の気持であった。これほどまでに自分の気持ちを汲んでくれ、忌憚なく言ってくれる友がいることを感謝した。でも大袈裟な感謝の言葉などお互いに言ったためしがない。
千代子は自宅に戻って母親の受け入れ準備をポツポツとし始めた。とは言ってもそれほど大変な準備ではない。ただリクライニング式のベッドは必須なので、明日の夕方にはレンタルで搬入することになっていた。あとはシーツ類、衣類の着替えなどであるが、もう一つどうしても避けて通れないのが葬儀の準備である。こんな田舎町でもセレモニーホールが1軒だけあるのだが、自宅かセレモニーかで悩んだ。まさか母に意向をたずねるわけにもいかない。便利なのはセレモニーだけれど、生まれ育ったこの古い家で旅立つのがきっと母の希望なのだろうと思った。またこういう田舎町では忌引きとなれば近所の人たちが頼まなくても手伝いに来てくれる。実際、千代子もこれまでこの町の葬式の手伝いに出たことが何度かあった。田舎では「持ちつ持たれつ」が当たり前だから、あまり恐縮する必要もあるまい、と思った。母の財産などはこの家の他にはたいしてない。父と兄は他界している。親戚も今ではほとんど連絡を取っていないが、母の妹には最近の母の不具合を先月葉書で出したところ、葬儀には参列するという返信が来たので、その時が来れば至急電話することにしている。いずれにせよ少人数の葬式になりそうだ。
ひと息ついて風呂に入った千代子は縁側に座りながらマッチで蚊取り線香を炊いた。開け広げの古い家は電気ベープマットでは効果が弱い。それに千代子の頭には「金鳥の夏、日本の夏」というあの昭和のCMが刷り込まれている。恵子の影響でエアコンはなるべく使わないようにしている。体が慣れてくると扇風機でも十分であることが分かってきた。そう、私たちが子供の頃はエアコンなんか家庭にはなかったし、各家庭で打ち水をしたり金魚鉢を置いたりして涼を得る工夫していたのだから、これが健全な生活なのだと思う。縁側に面した狭い庭に不釣り合いの樫の木の上に月がオレンジ色に浮かんでいた。そうだった、今日は8月8日の満月夜だわ。
千代子は2年前の今日、28年付き添った夫と離婚していた。夫は県庁で勤務する公務員、離婚当時は県立水産養殖訓練センターの所長であった。千代子は結婚以来、夫に不満を抱いたことはなかった。子供にこそ恵まれなかったが、周りからも「おしどり夫婦」と冷やかされるほど仲睦まじかった。ところが夫が突然「離婚してくれ」と千代子に離婚届を差し出してきた。目の前で手を突く夫の頭を見下ろす千代子は黙っていた。夫が説明しなくても彼の態度ですべての事情はわかる。でも、なぜ私じゃダメなの?これまで二人で築き上げてきたものを一挙にドミノ倒しのように崩すつもりなの? しかし言葉にはできなかった、涙も出なかった。夫は地方公務員として真面目過ぎるほどの生活をしてきた。私もその妻として夫に恥じないように品行方正な生活態度を保ってきたし、それが正しいと思っていた。その挙句がこれなのか、何かが二人をいつのまにか疎遠にしていた。夫の突然の申し出は稲妻のように千代子の脳天を打ち砕いた。千代子は一言も言葉にできないまま離婚届に判を押した、
夫は翌朝にボストンバッグだけ持って出て行った、不動産の権利書や預金通帳などはすべて既に千代子名義に書き換えられていた。ずっと前から夫の気持ちは千代子から離れていたらしい。家を出る時、夫は「君はオレには出来すぎた女だったよ」と言って背を向けた。千代子は立派すぎるほど立派な夫からそんな言葉を最後に聞かされるとは思わなかった。そうか、あの人は堅い職場で息苦しい思いをして、家で私まで堅苦しい思いをさせていたんだと思い知らされた。だからどこかで誰かと新しい人生を夫が踏み出せるのなら、それは陰ながら応援しなくちゃいけないのだと思えてきて、なんだか気持ちの整理がついた。でも私は何も無理して品行方正を保ってきたわけじゃない、自然にそうなっちゃうのよね。だから後悔はしていません。それを最後に夫に言えなかったことだけが後悔と言えば後悔だけど。
夫が出て行ったその晩、恵子がヤケ酒に付き合ってくれた。恵子もバツイチなので話し相手としてこれほど適任はいなかった。恵子は千代子の話を一通り聞くとボソっと言った。
「なんちゃないわぁ、そんなん。無理して男と暮らすことなんかない。私なんて別れてからもう10年だけど、一人が気楽でいいよ。ダンナのパンツを毎日洗わなくて済むしねぇ」
「後悔はしていないの。でもあの人が最後に言った言葉が心の奥底にズシーンと落ちるのよ。もうちょっとカワイイ女の演出でもしてあげればよかったかな、なんてね」
「千代ちゃんだから言うけどね、そういうことじゃないと思うよ。千代ちゃんって普段から結構ブリっこしているんだけど、意外と頑固なところがある。子供のころからそうだった。ダメなものはダメ、と思い込んだら妥協しないんだな。ダンナさんはそういう千代ちゃんに耐えられなかったんだね。だからよそで女を作っておいて、言い訳ができないまま最後の最後に突然千代ちゃんに離婚を懇願したんだと思う。いや、良し悪しは言ってないよ、ただ千代ちゃんがそういう性格だってこと」
あぁ、またしても恵子に棍棒で殴られた気分だ。そう、その通りだわ。恵子は言葉のアヤで「良し悪しではない」と言ってくれるが、世間的には社会人失格、しかも内容が内容だけに恵子みたいな幼馴染でない限り、忌憚なく意見してくれる人はいない。不本意ながら夫とは離婚という結末を迎えたが、恵子だけは私より先に死んでほしくないと千代子は心から願った。
縁側でぼんやり満月を眺めていた。あ、小さい光が舞っている。子供の頃はよく家族でホタル狩りをしたけど、今でも生息しているのね、懐かしい。月明かりの中、突然スマホが鳴った。電話の相手はやっぱり細川君、さっきから待っていた電話、でも「受信」ボタンがなかなか押せない。
細川佳夫と千代子は同じ海辺の町で生まれ育った幼馴染、高校までは恵子とも一緒だった。佳夫は卒業後は東京の私立大学へ進学した。千代子も東京の専門学校でデザインを学んでいたが、東京では佳夫からの連絡は一度もなかった。卒業後佳夫は大手総合商社、千代子はなぜかデザインとは関係のない政府系金融機関に就職し、その後佳夫は社内結婚、千代子は地元で見合い結婚した。
51歳になった佳夫は中東カタール駐在から昨年帰国し、日に焼けた腕を白いワイシャツからむき出しにして皇居を臨む大部屋で陣頭指揮を執ってビジネスに情熱を燃やしていた。佳夫は頭脳明晰タイプではないが何しろ打たれ強い。それに顧客や相手国政府役人にまで堂々と苦言を呈する押しの強さは役員や社長までが一目置くほどだ。また、部下のちょっとしたミスであれば全部自分がひっかぶる義侠心もあり、部下からも人気がある。ある意味、最後の昭和商社マンみたいな男であった。もちろん酒豪で鳴らしている。
今年になったある夏の日、鋼鉄のような丈夫な体が自慢の佳夫が風邪をこじらせ、午後から会社を休んで大手町クリニックへ診察に来た。彼自身、最後に風邪を引いたのはいつだったか思い出せない。「ちょっとした風邪だったら仕事で汗かいて治してやる、くらいの根性がなければ商社マンは務まらない」と先輩社員から教えられてきた。実際カタールではそれを実践してきたが、それが彼自身の過信になっていたことは否めない。
「オレももう今年で52歳だもんな、馬車馬のような昭和商社マンは卒業しなきゃいかん。今回のひどい風邪はその警鐘なのかもしれん」
そう思いながらゲホゲホしながら待合室で順番を待っていた。さほど大きくないクリニックで患者もまばらな中、受付嬢が「永井千代子さ~ん」と呼ぶ声が聞こえた。佳夫は相変わらずゴホゴホしながらカバンから取り出したプロジェクト計画書のコピーを眺めている。あぁ、言っているそばからこれだよ、この昭和根性を捨てなければ、と思って書類をカバンに戻したとたん「細川佳夫さ~ん」という声が聞こえた。そのまま受付へ行くと「細川さん、3番の診察室へどうぞ」という指示だった。ふと横を見るとひとりの中年女性がなぜかこちらをジッと見ている。ヘンな女だな、と思って3番診察室へ向かおうとすると、「細川君だよね、私、浜谷高校の永井です」
佳夫は奇妙なことに一瞬彼女のことを初恋の相手だった恵子だと勘違いした。無理もないことである、30年以上も音信不通ならば顔と名前は一致しなくて当然である。しかも風邪で頭がぼうーっとしている最中である。
「すみません、浜谷高の永井さんっておっしゃいましたか?大変失礼ながらあなたのことが今すぐには思い出せないのです。えーっと、何組でしたっけ」
すると受付嬢が、ちょっと高い声で呼びかけた。
「永井さん、細川さん、診察室へお入りください。先生がお待ちです」
「でも懐かしいなぁ、浜谷高の人とこんな場所で会うなんて。これ、僕の名刺です。携帯番号も記入してあるので診察が終わったら必ず連絡してください、いいですか、必ずですよ」
千代子は名刺を受取るとそのまま2番診察室へ入って行った。
なんかムカつくわ、そりゃあ30年以上もたてば一人一人の異性の卒業生の顔や名前は覚えていないかもしれない。だけど私は細川君の顔を見た瞬間にわかった。だって細川君のことが秘かに好きだったから。それにしても名刺を見ると細川君って東京でずいぶんとエラくなっているのね。執行役員中東事業本部長って何だかわからないけど、東京の大きな商社で世界を駆け巡りながらリゲインみたいなことやっているんでしょう。今日の細川君は鬼の攪乱ってとこかしら、だいぶツラそうだった。私はたまたま専門学校時代の集まりで東京に新幹線で来たついでに、念のために前から気になっていた胃の痛みを内視鏡で検査してもらっただけ。携帯に電話してくれ、なんて言っていたけど彼は一度だって私に電話してくれたことはなかった。あれから30年、今さら連絡してもしなくても同じだしなぁ。それに彼には家族がいるだろうけど私はバツイチだし、なんとなく格好が悪い。やっぱり電話するのやめよっと。明日の朝の新幹線で真っ直ぐ家に帰ればいいこと、細川君とはもう会うこともないんだろうな、でもそれは他の浜谷の仲間と同じことだわ。
千代子はそのまま佳夫のことは忘れ、今夜仲間たちと約束してある丸の内ビルに向かって歩き出した。皇居の方角から強い夕陽が照りだし、東京駅の赤煉瓦が濃い朱色に染まっている。
丸の内ビルには少し早めに到着した。グランドフロアもまだ客もそれほど多くはなかったが、降りてきたエレベーターはほぼ満員だった。入れ替わり千代子たち数人がエレベーターに乗り込みドアが閉まろうとするその瞬間、「待ってくださあい!」と叫びながら走ってくる男性がいた。彼は無理やりエレベーターの扉に手を差し込み乗り込んできて、素早く5階のボタンを押した。
「なーんだ、遠泳大会でいつも一等賞だったカッパの永井じゃないか。さっき思い出して追いかけて来たんだよ、なんで電話してくれないんだよ」
大声でエレベーター内でマスクをつけたままはしゃぐ細川君、すごく恥ずかしかったけれどすごく嬉しかった。(続く)
第二話 ホタル
リーン、リーン…
黒電話調の呼び出し音が鳴っている。画面には「細川くん」の表示が暗闇の中で浮かび上がっている。東京で偶然出会ってから、儀礼を装って携帯番号を交換した千代子だったが、「ラインはしていないの?」と思わず訊いてしまってハッと顔を赤らめた。佳夫はそれには答えず、「明後日の金曜日の夜にこっちから電話するよ。多分土曜日には地元に行けると思うから」とだけ言って5階のテラスに千代子を置いて去ってしまったのだ。千代子のエレベーターに強引に乗り込んで来たかと思えば、話が終わればさっさと一人で帰るなんて、なんてジコチュウなヤツなんだろう。それよりなにより気に入らないのは、テラスではすっと恵子の消息を根掘り葉掘り千代子に訊いていたことだ。もちろん二人が浜谷高で付き合っていたのは知っているけど、私は細川君に秘かに恋していたのに人の気も知らないでないがしろにされたみたいで腹が立った。私の気持なんか気づくはずもなかったし、彼が悪いわけではないけれど、やっぱりはぐらかしたくなる。恵子は私にとってずっとかけがえのない親友なんだもの、細川君なんかに割り込んできて欲しくない。こんな女らしい複雑な気持が手伝って思わず
「そうねぇ、恵子とはずっと連絡とってないのよ。細川君の初恋の相手なのにゴメンナサイね」
と30年分の意地悪を言って溜飲を下げた。細川君はゲホゲホしながらも皇居の夕陽を見ながら、
「そうか、仕方ないな。でも地元に行けば何か分かるかもしれない。ほら、小川の実家って小間物屋だったろ?小川はもうどこかへ嫁いだだろうけど、誰かが店を引き継いでいるかもしれない。それにさ、地元の潮風に当たれば、こんな風邪なんか吹き飛んじまうよ。あ、もちろん永井にも改めて地元で会いたいな。浜谷の連中はもう散り散りになっているだろうから、カッパの永井だけが戦友だってわけさ。オレ、これからちょっと会社に寄って書類だけ目を通してくるよ。ったくいつまでたっても猛烈社員ぶりが抜けない昭和バカで我ながら困るぜ、それじゃな!」
まさか細川君が地元まで押し掛けてくるとは思わずにウソをついてしまった。商社マンなんてああやってハヤブサのように飛び回って獲物を捕獲しているのね。東京を離れてのんびりと田舎暮らしをしていた私とは全然違う。でもウソがばれるし困ったな、どうしよう。
「もしもし、あぁ、オレだよ、細川です。ずいぶん長く電話にでなかったけど、もしかして今はマズイのか?かけ直してもいいよ」
「ううん、そうじゃなくて今ちょっとお風呂入っていたから。それでスマホが鳴っているのに気付かなかったのよ」
「おっ、てことは今オマエ今すっぽんぽんの裸かよ?写メって送ってくれ、わはは」
もう、細川君ったら高校の時と変わらないスケベぶりだわ。もっとも52歳の女のヌードなんか見たくもないんだろうけどね。
「あのね、細川君、どうせわかってしまうから言うけど、私と恵子とは今でも付き合っているのよ。この前はウソついてごめんなさい」
バレるウソは早目に謝っておいた方がいい。
「あぁ、知っているよ、小川はあの店を引き継いでいるんだってな。それとオマエのお母さんの調子もあまり良くないってなあ」
「なんだ、知っていたの」
「平成の世の中、ヘタなウソはつけねえよな。スマホでググれば小川の居場所くらいすぐに見つけられる。小川小間物店のホームページが掲載されてたよ。店の電話番号も載っていたので電話したら、あいつマジで驚いてやんの。あ、もちろん大手町クリニックで永井と偶然会った話もしたら二度驚いていたよ。丸ビルテラスで「今週末に久しぶりに永井に会いに地元に行くか」、という話になったと言ったら「あれ?ワタシじゃないのね」って言うからさ、「バカ言うなよ、高校卒業してから今まで小川恵子の名前を忘れた夜はなかった」と言ったら小川のヤツ、満更でもなさそうな反応だったぜ。あ、そういえばお前たち二人ともバツイチなんだってな。こりゃもしかして明日は飛んで火に入るなんとやら、かもな。どうぞお手柔らかに、わはは」
きっと細川君はすべての女性に対してこんな調子で接しているんだわ。「三つ子の魂」とはよく言ったもので、ホントに高校の時から変わっていない。でもこんな調子についつい乗せられてしまって、こっちまで何だかウキウキしてきてしまうから不思議ね。
「細川君、風邪は大丈夫なの?明日こっちに来るって言っていたけど」
「あぁ、さすがに今回はこたえたよ。オレってアタマは大して良くないけどカラダには子供のころから自信があったのに、あんなにヒドイ風邪にやられるとはな。でもきのう自宅でずっと寝ていたら、あ~ら不思議、平熱に戻っていたよ。メシもモリモリ食えるし、もう大丈夫だと思って今朝は普通に出勤したらいきなり社長室に呼び出されて、「おい、細川。オマエみたいな昭和的猛烈社員はウチの若手社員の手本にはならないんだよ。それに大手町クリニックの先生から連絡があって、金曜日まで出社禁止というお達しが出ていると人事から報告を受けている。頼むから今日はこのまま帰って自宅療養してくれ、な、細川、頼むよ」と社長が言うわけさ。病み上がりで出社したオレとしては心外だけど、考えてみればオレも自分のペースで周りを振り回すタイプだからな、周囲の人間、特に若手にとってみれば威圧的で目の上のタンコブみたいなんだろうな。自分の事は意外と見えないもんだ。人事からの出社禁止報告はでっち上げだろうけど、さすがに社長もこれじゃマズイと思ってオレにそのサインを出したんだと思うよ。あれ、こんな話ダラダラとしていてもしょうがないな。明日の朝、10時23分到着の新幹線に乗るよ。そこからはタクシーで小川の店に直接行くからさ、よかったら永井も来てくれないか?」
なんかまたムカつく。そんな段取りまで私をよそにして恵子としていたのね。
「ふうん、でも私なんかお邪魔でしょ?初恋のお二人で積もる話でもごゆっくりされたら如何かしら?」
あぁ、また女々しい発言をしてしまった。相手が細川君だとついつい拗ねてみたくなる。
「いや、オレはどっちでもいいんだけど、もしよかったら来てくれよ。それでさ、夜は空けておいてくれよな。三人でどこかウマい魚でも食いに行こうぜ。僭越ではありますが、今回に限り拙者が皆様をご招待申し上げます」
どっちでもいいって、コイツなんてことを言うの?でもそれが彼のホンネなのは知っている。彼のお目当てはオイシイ刺身の恵子、私はそのツマ。
「うん、それじゃ私も恵子の店で待っていることにするわ、ちょっと彼女に届けるものもあるしね。夜は期待しているからね。もちろん予約くらいは私に任せてちょうだい、と言ってもこの町の日本料理屋って“風船”一軒しかないんだけどね」
「いやぁ、楽しみだなぁ。でも不思議だね、こうやって三人して地元で34年ぶりに会えるのもオレが風邪ひいたお蔭なんだよね。本当に人の出会いってわからないな。それじゃ、明日の朝な」
私の返事も待たずに電話は切れた。まったくどこまでもマイペースな男だわ。
やっぱり気になる。
恵子と細川君、お互いに今はどう思っているんだろ?もちろん既婚の細川君は東京で忙しくしていて、初恋の相手と酔いしれる時間や余裕はない。細川君にとって恵子は過去の純愛の相手に過ぎない。そして今は懐かしい級友としてしか見ていないはず。それに、ああいう押しの強い男って意外と女にモテるのよね。田舎町の恵子なんかが太刀打ちできる相手ではないわ。
恵子は細川君のことどう思っているのかしら?やっぱり同じだわね、細川君の事は過去の美しい思い出、だけど今は男として見ていない。この前だって「一人がいい」と言っていたもの。
千代子、あなたはどう思っているの? 恵子とは無二の親友、彼女がいなければもう生きる気力さえ失せるかもしれないくらい大切に思っているし、恵子も同じだと信じている。
でも浜谷高で同じ男子を二人で恋していたの。ただ私は誰にも言えない片想いをしていた。卒業して34年、その想いは確かに風化したけど、あの丸の内ビルのエレベーターに押し入ってきた細川君を見て、その気持ちがまた甦ってしまった。いえ、それは一時の感情だわ。いつまでも引きずることはないんだ。第一、細川君は私に最初からそんな気はないもん。
いつのまにかホタルの群れは大きく八の字を描くように尾を黄色く点滅させながら宙を舞っている。明日になればまた細川君に会える、夫と別れてまだ2年なのに心はときめいてしまう。浜谷では私なんか見向きもしてくれなかった細川君。その彼が全速力でエレベーターまで走り込んできてくれた。マスクの下でゴホゴホ咳をしながら強引に5階で私のことを降ろしてテラスまで手を握って引っ張っていった。風邪でツラかったろうにクリニックから追いかけてくれた彼の姿を想像するだけでも胸が熱くなる。本当は細川君とだけでゆっくり会いたい。そして浜谷高での私の片想いを思い出話として打ち明けてみたい。でも明日は恵子もいるからそんな機会はなさそうだわ。あれだけ恵子と一緒にいることに幸せを感じていた千代子が初めて彼女を疎んじる気持ちを抱いた前夜であった(続く)。
第三話 母の死
「おはよう、恵子。まったく今日も朝から暑いわねぇ。こんな日にわざわざこんな田舎町まで来るなんて細川君もご苦労さんなことだわ。せいぜい二人で歓待してあげましょう」
昨夜は恵子への複雑な思いを抱きながらも、さすがに大人げないと少し反省した千代子である。細川君がこの故郷に滞在するのは今夜だけ、明日になればもう東京の家庭に帰ってゆく。そして千代子と恵子は元の親友に戻るだけ、それだけのことだと割り切った。いつまでも過去のセンチメンタルな想い出に引きずられるなんて52歳の分別のある女がすることではないと、当たり前の気持ちに今朝はなっていたのだ。
「千代ちゃんにも電話で話したらしいけどね、細川君ったら私のことを今でも忘れられないって言うのよ。あんまりバカバカしいから、「細川君、社交辞令でも初恋の人からそう言われれば嬉しいわ」と応えたら「いや、今でも気持ちは変わらねぇぞ、恵子」だってさ。よく言うわよね、同じことをいろんな女に言っているクセにさ」
佳夫が来る前からはしゃいでいる恵子を見て、切り替えたはずの気持ちにまた影が射した。
二人とも言葉の遊びでじゃれているだけなのは分かるけど、なんだか私だけ外されているようなイヤな気分だわ。いえ、そんな狭い気持ちを持つ自分が情けない。
「うん、だって恵子と細川君と言えば浜谷で知らないものがいないほどのアツアツのアベックだったものね。そうそう、私たち三人で朝勉とかしたじゃない。なんかさぁ、昭和のあの頃って懐かしいよね。トイレは和式で消臭剤は黄色いトイレボール、エアコン代わりに下敷き、そうそう、遠泳大会では男子は赤フンだったわよね。」
千代子は昔話に戻した。そう、今日は三人で昭和の学校時代の思い出話で盛り上がる日だったんだ。恵子へのつまらない対抗心や嫉妬はおくびにも出してはいけないわ。
「あはは、思い出した!カッパの永井ね。遠泳では千代ちゃんったら男子を引き離していつも一等賞で青岩島に上陸していた。細川君なんか女子たちにも抜かれて、いつもビリ集団で浮き沈みしながらやっと島にたどり着いていた。私もそのビリ集団だったけど、本当は細川君のことを後ろから叱咤しながら泳いでいたの。オカシイでしょ?」
その時、店の格子戸がガラガラっと大きな音をたて、細川君がドタドタっと入ってきた。
「よう!お二人さん、わざわざオレのために待っていてくれて有難う。あ~っ、恵子じゃないか、何十年ぶりだろうな。相変わらずのベッピンだ。高校の時とあんまし変わってないんじゃねぇのか? うむ、永井には同じことを東京で言ったばかりだから以下同文ってことで、わはは」
予想通りの佳夫のオチャラけたご挨拶に恵子は、
「あら、細川君、ずいぶんとご無沙汰だったわね。東京ではたいそうなご出世だと千代ちゃんから聞いているけど、やっぱり私が見込んだだけの男だわ。今からでも遅くないから奥さんと別れてこの町に戻って来なさいよ、面倒見てあげるから」
へぇ、いつもは小間物屋をひっそりと営んでいる恵子も言うもんだわね。でもきっと昨夜あたりからずっと考えていたセリフだわ。
「ふーん、こういう店だったのか。ホームページとはちょっとイメージが違うね。でも自然の風味を取り入れたいい感じの構えだな。インドネシアに駐在していた若い頃を思い出すぜ。南国は癒しに満ちているからいいんだよ、その代わり近代的な設備は劣るけどね。恵子の生活信条みたいなものが滲み出ている気がするね」
こうやって褒められれば恵子だって悪い気はしない。
「ウチの両親が健在だったころはもっと実用的な造りだったんだけどね。時代とともにこんなちっぽけな小間物屋なんか廃れる一方だったのよ、それで私の代で細川君の言う“癒し”を店のコンセプトにしてみたの。エアコンははずしてシーリングファン、調度品は奮発して東南アジアからの直輸入品、植物や花は特注で毎日仕入れて、それにアロマオイルを炊いてみたの。リゾートホテルの雰囲気を出したかった。そうしたら意外と固定客がつくようになったのよ。売っているものはデパートと同じだけど、ちょっと立ち寄って籐椅子にでも腰かけながら商品を眺めているうちに小物を買ってくれるお客もチラホラ出てきたの。まぁ大して儲からない商売だけど、お陰様でなんとか食べていけるだけは稼いでいるわ」
千代子にとって何度も聞かされた話ではあっても、こうやって改めて佳夫と聞くと一緒に頷いてしまう。千代子は恵子のあとを継ぐように、
「細川君、ここのお店は町のオアシスみたいなところがあって、買い物はもちろんだけれど、なんとなく町の人たちがお喋りしに気軽に立ち寄る場所でもあるのよ。夏は麦茶が冷えているし、私の漬けた白菜なんかも置いてあってね。そうやって町内のコミュニケーションをはかっているの。と言っても実態はオバサンたちの井戸端会議所なんだけどね」
「やっぱり地元はいいなぁ。オレなんか東京の大学を出てずっと帰って来てなかったからな。東京なんて華やかに見えるけどありゃ砂漠だぜ、こういう血の通ったオアシスなんかありゃしないよ。今日は地元に帰ってきてよかったな。ひと息ついたらみんなで浜谷高に行ってみようよ。何といってもオレたち三人の原点だからな。今日は土曜日だけど中に入れるのかな?」
「大丈夫よ、今日は子供たちは部活で校庭や音楽室を使っているけどね。一応受付で断っておけば中に入れるはずだわ」
千代子は勢いよく言いきったが、学校にも事前に確認したわけでもなかった。でも浜谷高の話となれば、できるだけ千代子がリードしたいという子供っぽい対抗心が芽生えていたのは否めない。
店から浜谷高まで徒歩で10分くらいの距離である。三人は午前中の涼しい時間をねらい、店を出てゆるい坂を登り始めた。今日は特別に店も休業の看板を下げた。坂を登りきると沖に佳夫にとっては懐かしい青岩島が望めた。
「あぁ、そうだよ。カッパの永井でオレは東京で永井のことを思い出したんだよ。それにしてもお前、なんであんなに泳ぎが得意だったんだ?」
「別に理由なんかないわ。気がついてみたらスイスイと泳げるんで自分でも驚いていたの。それにひきかえ細川君ってアタマは良かったけど水泳はまるでダメだったわね」
坂の上の松林の陰に涼風が吹き、碧い海は時折遠くで波の音を立てている。過去を遡るような静かな時間が三人の間に流れていた。千代子はふとこのまま佳夫と二人だけで海を眺めていたい願望に捕らわれた。
その時であった。千代子のスマホ呼び鈴が坂の上の静けさを裂いた。千代子はビクっとした表情で、急いで松林の陰に走り受信ボタンを押した。恵子も佳夫もイヤな予感がした。しばらく千代子は固い声でなにやら応答していたが、終わるとすぐに二人のところに戻ってきて言った。
「今、病院から連絡があって母さんの容態が急変したから至急病院に来るように、ということだったわ。ごめんなさいね、こんな時に。私、これから病院に行ってきます。もちろんお二人はこのままでね。細川君、久しぶりの地元なんだからゆっくり楽しんでいって。それじゃここで失礼します」
「いや、オレも一緒に行くよ。お母さんには高校の時にかつ丼をご馳走になった義理もある。こう言っては何だがこれも何かの巡りあわせだ。ご挨拶だけはさせてもらうよ」
「私もよ、千代子。このまま三人で病院へ行きましょう。今、タクシー会社に電話するからね」
千代子は危うく涙をこぼすところだった。本当を言えば一人で母親の臨終を見守るのは心細い。恵子や佳夫がいてくれたらこれほど心強いことはない。千代子は心の中で二人に手を合わせた。
タクシーを降り病室に駆け込むと、千代子の母親は人工呼吸器を付けて眠っていた。看護士の話では1時間くらい前までは普通通りにしていたのだが、突然呼吸が乱れ始め苦しみ始めたということだった。医師から心身安定剤を注射され、今はとりあえず安定しているが心肺機能が極限にまで低下しているのであと数時間の命だろうということだった。
千代子は目を閉じている母親に向かって大きな声をかけた。
「母さん、今ね、恵子とそれから東京から細川君が来てくれたのよ。細川君はね、高校の時に母さんがかつ丼をご馳走してくれたので、そのお礼を言いたいそうよ」
母親は千代子の声が聞こえたのか、少し目を開けて恵子と佳夫の方を見た。そして何やら呼吸器の下で口を動かしている。何か言いたいことがあるのかもしれない。
「看護士さん、母が何か言いたいみたいです。ちょっとだけ呼吸器をはずしてもいいですか?」
看護士はだまって頷いた。千代子は呼吸器をはずし、耳を母の口元に持って行った。しばらく千代子はうん、うんと頷きながら受け答えしていたが、
「母さん、細川君のことを覚えているんだって。勉強がよくできる男の子でしょって。かつ丼のことも覚えていたわ。それとね、お葬式はやっぱり自分のウチでやって欲しいと言っています。もう思い残すことはないそうです」
偶然とはいえ、ここに細川君がいてくれるとは夢にも思わなかった。細川君は後ろの方で母さんを見つめている。きっと高校時代の母さんを思い出そうとしているのね。
いったん三人は狭い病室を離れて、一階の喫茶室に入った。重い空気をまず破ったのは佳夫だった。
「自宅で葬儀となると、祭壇やら何やらの最低限のセッティングをしなきゃいけないよね。永井、もうどこかに頼んであるのか?」
「いいえ、まだちょっと先のことかと思ってまだ何もやってないのよ。どうしよう」
佳夫はスマホを自分の取り上げると、なにやら検索していたがおもむろに、
「会葬者数20名、祭壇、供花は松竹梅の梅、お清め料理は和食中心の一人3,000円で、〆て基本料金30万円コースでどうだろ。この葬儀屋は全国チェーンでオレの知り合いも使ったことがあるし、ボッタクリはしない」
この間約5分。信じられないほどのスピードで物事を処理する能力、いや身についた商社マンのクセは到底千代子などには真似ができない。もうここから先はすべて佳夫に甘えてしまおうと思った。
「ありがとう。でも細川君は明日東京に帰るんでしょ。母がいつ亡くなるのかはっきりわからないし。おそらく今日か明日かとは思うけど」
「なに、心配するな。実はな、社長から来週いっぱい出社に及ばずという命令が出ているのさ。オレはここ数年夏休みなんか取ったことないし、どうも社内でも評判が良くないらしい。それならってんで来週から軽井沢でゴルフ三昧でも、と思っていたんだけどこうなりゃ永井に地元で付き合うよ。いや、別に恩に着せているわけじゃない。地元に来て分かったよ、ゴルフなんかより何十倍も地元の海がくつろげる場所だってな。」
じっと横で聞いていた恵子も言ってくれた。
「細川君の今の話はまんざらウソじゃないと思うわ。だってこの町は私たちの青春がいっぱい詰まった場所だもの。美しい海、潮の香り、懐かしい高校、きっとゴルフ場なんかよりよっぽど安らげる場所だわ。千代ちゃん、ここは細川君にお任せして助けてもらおうよ」
千代子は今まで堪えていた涙が一挙に噴き出した。
「ありがとう、恵子、細川君。これで母も本当に思い残すことなく天国の父の元へ行けると思います」
恵子も思わずもらい泣きしていたが、佳夫は早速葬儀屋に電話して見積もりやら段取りやらの指示をテキパキと出している。まだ母が息を引き取ってはいないのに、弾丸のような勢いで葬儀屋の担当と電話口で折衝している佳夫だが、千代子も恵子も「男ってこうでなくっちゃね」と目を見合わせた。
午後2時、再び三人は病室に入った。看護士に促されて母の耳元で「母さん、今までありがとう。お父さんと仲良く暮らしてね」と叫び、母はそれにかすかに頷いたのが最期であった。眠るような安らかな顔であった(続く)
第四話 恋の炎
母の亡くなった翌日に通夜が行われた。佳夫の迅速な手配のおかげで、葬儀屋との連携もスムース、千代子や恵子が準備作業や葬儀中あまり手伝うことはなかった。ただ母親の遺志で会葬者数を20名に絞ったつもりであったが、やはりこういう田舎町では人の逝去のニュースはあっという間に広がり、「ご焼香だけでも」という地元の住民たちが思いのほか多く弔問にやってきた。お清めの料理も20名分用意していたが、それではとても足らないので急遽日本料理屋“風船”に応援を頼むことになってしまった。それに田舎の人たちは一度座敷に座ると長居する。もちろん故人を偲んでの思い出話が中心となるが、ややもすると同年輩同士の同窓会の様相を呈する。千代子も恵子もこの町に生まれ育ったので、お相手役としててんてこまい。一方の佳夫も何人かの浜谷高の仲間たちと会え、また会えないまでも仲間の消息を聞くことができた。中には同年齢ですでに病死した同窓生がいることを知り、佳夫は驚き、また自分もいつ死ぬかわからないということを思い知らされた。
「おい、よっちゃん。こうして永井のお母さんの葬儀に参列するなんて、なんだか因縁じみているよな。オレたちも亡くなったお母さんには可愛がってもらったクチだしな」
佳夫と同じクラスだった武村が酔っ払って佳夫の肩に腕を巻いてきた。そうだった。遠泳大会の帰りに、死ぬほど腹ペコになりながら何が楽しみと言えば、千代子のお母さんの手作りのかつ丼だった。なぜか武村と佳夫だけこっそり千代子の家に上がり込み、どんぶりで二杯ずつペロリと平らげたものだった。武村は卒業後、家業の材木屋を継いでいる。長女が東京に嫁いでもう孫娘もいるらしい。
「武村、さっきも言ったけどオレもまさか永井のお母さんの葬式に帰ってくるとは思わなかった。でもさ、オレなんかギスギスした東京生活が長いからこうやって地元に帰って皆に会えると正直嬉しいよ。実は今朝な、ちょっとだけだけど坂の上から青岩島を眺めたんだ。なんだか目頭が熱くなったぜ。昨日までは世界を相手に丁々発止戦ってきた自分はエライだなんて自惚れていたんだけど、こういう静かな港町で幸せに亡くなったお母さんを看取ったら、今の自分が情けなくなった。武村、本当言うとな、今オレは社長から出勤停止を命じられているのさ。働くしか能のないヤツは会社にもプラスにならないんだとよ」
自嘲気味な佳夫の横顔に武村は言った。
「オレたち田舎者からすれば東京の大きな会社で重役やっているお前はスターだ。そんなに卑下するな。オレたちのトシになればそれぞれの人生を背負っているんだから、いいも悪いもねぇさな」
通夜が終わったのは結局翌日に時計の針が回ったころであった。千代子も恵子もさすがに弔問客の接待等で疲れ切っていた。
「恵子、細川君。今夜は本当にありがとうございました。片付けは明日にしましょう、皆さんお疲れでしょうから。それと細川君は隣の部屋に床を敷くから、むさ苦しいところだけど泊まっていってね」
「いや、ありがとう。でも同じ屋根の下で美男美女がたとえ一晩であっても過ごすのはちょっとなぁ。実はもう駅前のビジネスホテルを予約してあるんだよ。そっちに今夜は泊ることにする」
千代子だってそんな分別くらいついている。でも今夜だけはどうしても細川君と一緒にいたい。だからさりげなく言ったつもりでも、本当は相当の勇気を振り絞って言ったことなのに、そっけない返事をされたので佳夫が恨めしかった。佳夫もそうは言ったものの女のプライドを傷つけてはいけないと思ったのか
「どうだい、今夜は三人で泊まろうよ。明日また早いしさ。恵子、いいよな?」
千代子はもちろん恵子が「いいわよ」と言うものだとばかり思っていた、ところが
「うーん、私はいつもの自分の寝床じゃないと寝られないタチだし、今夜はこのまま失礼するわ。あ、それとやっぱり細川君もホテルで泊まらないとね。同級生とはいえお母さんのご霊前で男女が寝泊まりするのはどうかなって思うわよ」
恵子の主張は尤もではあるが、千代子は何か引っかかるものを感じた。他の男子ならいざ知らず細川君だったら母さんも許してくれるはず。それなのに恵子ったらそんな言い方しなくたっていいじゃないの。
「うむ、恵子が帰るならオレもやっぱりホテルへ行くわ。明日は告別式と火葬場搬送があるから忙しくなるな。それじゃオレはこれで。また明日の朝に来るよ」
佳夫が玄関に向かおうとした瞬間に千代子は叫んだ。
「細川君、今夜は私と一緒にいて!帰ってはダメ!」
佳夫はその大きな声に驚き、振り返りざまに目を見張った。千代子は目に涙を浮かべている。
「おいおい、子供じゃないんだからさ、今夜はキレイなカラダでホテルへ返してちょうだい、お願い千代ちゃん」
ただならぬ千代子の様子を見て佳夫もなんとか場を和らげようと頑張った。今夜は千代子も疲れ果てて心のバランスを崩している。
「へぇ~、千代ちゃんたら私の元カレの前で随分と大胆だわね。いいわよ、そんなに今夜一緒に細川君といたければどうぞご自由に。」
恵子の顔に笑みはない。これまで溜めていたどす黒い液体でも吐き出すかのような低い唸り声であった。
「何よ、恵子、その言いぐさは!細川君を東京からここに連れて来たのは私なんだからね。元カノヅラしてエラそうな説教しないでよ。」
もう冗談で切り抜けることはできないと覚悟した佳夫は怒鳴った。
「おい、二人ともいい加減にしろよ。お母さんの御霊前じゃないか。小川、今の永井は正常ではいられないんだよ。昨日お母さんは亡くなって、それで今夜は接待でてんてこまいの葬式だ。疲労困憊なのはお前だってわかるだろ?弱っている永井にヘンなこと言うなよ。今夜だけは永井を労わってやろうじゃないか」
「あら、ご挨拶だこと。ずいぶんと千代ちゃんの肩を持つじゃない。この前の電話では恵子、お前のことが今でも好きだ。なんて言ってたくせに何よ、この浮気男」
「オレのことを何と言っても構わないがな、永井のことを悪く言うならオレが許さないからな。小川はこのまま帰ってくれ。やっぱり永井のいう通りオレはこのままこの家に泊まらせてもらうことにする」
千代子はいつのまにか佳夫の腕につかまりシクシク泣き始めた。
「覚えていらっしゃい、千代ちゃん。これで終わったなんて思わないでね。アンタが浜谷高で細川君のことが好きだったことくらい、ずっと感づいていたわ。でもね、細川君は34年ぶりに私のところに帰って来たんだからね。今夜だけはお母さんに免じて許すけど、これからは細川君に指一本触れさせないから!」
恵子はそう言い放つと足早で玄関まで行き、ピシャリと格子戸を閉めると置いてあった自転車で走り去った。
千代子はまだ佳夫の腕の中で泣いている。佳夫は思っても見なかった展開に茫然としながらも千代子の髪を幼子をあやすように撫でていた。母は失ったがその代わりに佳夫を得た、いや恵子から奪い取ったと千代子は思いたかった。母を失った悲しみも束の間、物音のしない客間で佳夫の心臓の鼓動を聞きながら道ならぬ恋の炎がメラメラと立ち上る。いいトシをしてみっともないことは分かっている。それより何より細川君は妻子のいる人、そんな人に恋するなんて考えられない。でもゼッタイに恵子にだけは取られたくない。何よ、さっきのあの女のセリフは。私のモノに指一本触れさせないなんて勝手なこと言って、まだ細川君が恵子に惚れているなんてマジメに信じているんだわ。なんてお目出度い女なんだろう。浜谷の青春時代という一番オイシイ所はでは恵子に譲ったんだから、今度は私が幸せになる番なのよ。アンタだけ死ぬまで細川君を独り占めなんかさせないんだからね。それに、さっき細川君は「永井の悪口を言ったらオレが許さない」と言ってくれた。それに泣く私のことを分厚い胸で受け止めてくれている。浜谷高では恵子が好きだったのかもしれないけど、今はもしかして私の方が好きなんじゃないかしら。そんな夢みたいなことがもし本当だったら不倫でも、遠距離でも構わない。このまま細川君と溺れてみたい。
今夜は母さんの御霊前、いくらなんでも細川君と同じ部屋に寝ることはできないわ。それくらいの分別は今夜の私にだってある。でもこうやって私を優しく慰めてくれている細川君にこのままキツく抱きしめられたらどうしよう。いや、そんなことあり得ない。細川君はそんな非常識なことができる人じゃないわ。彼って豪快に見えながら実は繊細、女性に対しても清潔なはず。できる男はやたらと女には手出しをしないもの、細川君は意外なくらいに紳士だと思う。うん、それでいいと自分に言い聞かせながら、
「ごめんなさい、細川君。恵子とヘンなところを見せてしまって。しかもよりによって通夜の晩にヒドイことになっちゃったわ。細川君、疲れたでしょう。ちょっと待っててね、隣の部屋に床を敷くから」
千代子はそう言って佳夫の腕から離れようとした。心の中ではそのまま佳夫の腕の中にグッと引き戻してくれることを願っていたが、
「あぁ、さすがに疲れたな。おい、もう1時じゃないか。さて寝るか。本当は永井の細い肢体でも抱きしめて寝たいんだけど、オレのイビキがチョーうるさいんだってカミサンがいつもぼやくんだよな。仕方なく今夜は泣く泣く別室で就寝ということで、がはは」
あぁ、やっぱり細川君にはかなわない。私の心の内を素早く読み取って自分のイビキのせいにして別室にするところは、世界中で百戦錬磨の女性経験がなければできないこと。ダメだわ、ますます炎は燃え上がってしまう。しかもそれに恵子というガソリンまでかけられるのだからどうにも止まらないの。1週間前までの田舎町での静かな生活が崩壊してゆく。今は恵子が憎くて仕方がない。なんでこうなってしまったのか、もう何が何だかわからなくなってしまったわ(続)。
第五話 女の意地
ガラス格子から朝陽が差し込んできた。庭先の枝から雀の鳴声が聴こえてくる。枕元に置いたスマホを見ると午前6時12分。昨夜はどうにも寝つきが悪かった。それもそのはず、考えてみれば佳夫が地元に戻ってきたがために千代子と恵子という女同士の親友関係に傷をつけてしまったわけだから。もちろん佳夫には非はないし、千代子や恵子にもない。しかし自分が引き金となってしまったことは事実だろう。もう少しこの町に滞在して、少年時代を懐かしみたいと思っていたのだが、やはり今夜の新幹線で東京に帰ることにしよう。オレが消えればきっと二人は元の親友同士に戻るに違いない、ケンカするのは仲が良い証拠だと言うし。
「おはよう、細川君。昨夜は取り乱してごめんね、だって恵子があんまりなことを言うから私もついつい泣いたりして。でももう大丈夫だから」
「いや、いいんだよ。お前も昨夜は普通の精神状態ではいられなかったはずだ。小川も言わないでいいことまで言いやがってさ、バカなやつだよ」
「あら、言わないでいいことって?」
「うーん、だからさ、なんだ、ほらお前が浜谷高でオレのことが好きだったとかなんとか」
「あぁ、あれは本当なのよ。一言も言えないで卒業しちゃったけどね。だから恵子は親友でもあり秘かな恋敵でもあったのよ、あはは」
「いやね、オレもさ、今だから言うけどカッパの永井のほうが小川より好きだったんだよな。でもまさかお前がオレに気があったなんて知らなかった。昨日小川がそう言い放つのを聞いてビックリしたよ。ダメだなぁ男子は鈍くって」
「へぇ。そうだったの。私は恵子と細川君が仲良く遠泳大会のビリ集団を泳いでいるの見て、本当はジェラシってたんだからね」
「あはは、面白いなぁ、34年ぶりに解き明かされる真実かよ。小説かドラマにでもりそうだな」
細川君が私のことが恵子より好きだったなんて、本当に驚き。もちろんそうだったらいいのにな、とは浜谷では思っていたけれど恵子という厚い壁でハジき返されてた。でもフタを開けたら本命は私だったのね。
「おい、永井。つい口を滑らしたけど、このことは絶対に小川には内緒だぞ。アイツだってプライドもあるしオレとのことはキレイな想い出として大切に取っているだろうし。それにそんなことがもし小川の耳に入ればもう昨晩の騒ぎじゃ収まらんぞ、わはは」
今日は母さんの告別式。よりによってそんな日に細川君から嬉しい告白を聞くことができたなんて、神様も相当に意地悪だわ。でももしかしたらこれは試練かもしれない。流れてしまいそうな二人の気持ちを、グッと止めることを神様は命じているんだわ。イエス様が荒野で彷徨って悪魔からの誘惑を跳ね返したように、私もこの甘い誘惑を断ち切らなければいけない、そんな殊勝な気持ちも手伝って細川君の目を真っ直ぐ見た。
「知っての通り、私は前の夫から愛想を尽かされて離縁されたバツイチ女、あなたみたいなご立派な家庭を持つ男とは月とスッポンなの。こうやって母の葬儀を手伝ってくれるのだって申し訳ないくらいだわ。でも細川君に会えてよかった。これも何かの縁でしょうから、また同級生としてこれからもお付き合いして欲しいわ。年に一度くらいは地元に帰って来てよ。その時はウチに泊まってね、別室で寝床を用意しておくから」
ここまで言うのが精一杯、それにこれから告別式や火葬の準備やらで忙しくなる。もういい加減にセンチメンタルごっこは終わりにしよう。
「あぁ、今日もまたドタバタしそうだね。さてと、昨日の片付けでも始めるか。まずは皿とか鉢を台所に運ばなきゃ」
そう言いながら佳夫は腕まくりをして、要領よく食器を重ねながら客間と台所を行ったり来たりし始めた。千代子は台所で水道の蛇口を勢いよくひねり、運ばれてきた食器を洗い流している。客間にはエアコンがあったが、台所はないので扇風機を回しながらの作業である。けっこう大変な片付け作業で次第に額から汗が吹きはじめたが、不思議なことに千代子はゼンゼン辛くなかった。いや、むしろ楽しんでいる自分がいる。同級生としてお付き合い、と言いながら心の中は正反対のことをまだ考えている自分、こんなおままごとみたいな片付け作業でときめいている自分が情けない。そう、細川君がそばにいるからこんな情けないことになるんだわ。いっそのこと今日の葬儀が終わったらそのまま東京へ帰ってくれないかしら。
「ねぇ、細川君。もし私や母のことを思ってくれてここにいてくれるのなら有難いんだけどね。でもやっぱり申し訳ないわ。それにさ、恵子のこともあるし、どうなんだろう。とりあえず今日あたりいったん東京に帰ったら?」
「あぁ、実はオレも同じことを考えていたんだよ。今夜の新幹線で帰ることにした。うん、もちろん永井や小川、それに武村も地元に残っているしまた近いうちに帰ってくる。今回は三人で同窓会のはずだったのがお通夜のお清めになっちまったけど、次回は“風船”で武村も入れてゆっくり同窓会やろうな。新幹線で2時間だもん、その気になればいつだって帰れるさ」
うん、これでいい。千代子は深くうなずいて
「私もね、たまには東京の砂塵に当たってみたいのよ。だからたまには東京で二人で同窓会やろうね。そうそう、34年ぶりの実は初恋のお相手さんだった同士ってことでさ」
快諾してくれるとばかり思って軽口をたたいた千代子であったが、
「そうだなぁ、まあ地元で4人で会っているうちが華じゃないかね。東京なんかで初恋の相手と会ったら、きっと細川君もオオカミになるに違いないからな、わはは」
千代子はここで「オオカミなんかこわくない」と昭和ギャグで突っ込みたかったが、佳夫の目を見てやめた。
「やぁだ、細川君、そんなの冗談に決まってるじゃん。美しい奥様から細川君を奪うなんてマネはしないからご安心のほどを」
あー、なんとか切り抜けたわ。細川君っていつもはオチャラけているくせに、肝心なところではいつも女の突っ込みをかわすのよね。まったくこれまでどれだけの女を相手にしてきたのかしら、ちょっと妬けてくる。
片付けが終わってひと段落したので、朝食の代わりに冷凍庫で保管しておいたクロワッサンを取りだし、アイスティーを作って二人でちゃぶ台に座った。母さんとこの家に一緒にいるのも今日が最後だわね、母さんの言う通りこの家で地元の皆に見送られたんだから本当に大往生。でもここに細川君と二人きりでいるのが何だかヘンな感じだけど。
「細川君、もう昔の話だしどうでもいいんだけどさ。やっぱり気になるな。どうして私のことが好きだったの?それに当時は恵子と付き合っていてたじゃない」
「うむ、それな。ヘンな話なんだけどお前の母さんが作ってくれたかつ丼がメチャクチャ美味くってさ、それでお前が好きになったとでもいうかな」
「はぁ?何それ?」
「上手くは説明できないが、つまりかつ丼のついでにお前に惚れたってことか。こんなにウマイかつ丼を作る母を持つ娘はいい女に違いないと思い込んだんだな」
「細川君、お言葉ですがゼンゼン説明になってないよ。かつ丼のついで、って何よ。なんかムカツクわ。私は最初から細川君が好きだったのにさ」
「それじゃ聞くけどさ、永井はなんでオレが好きだったんだよ。ちゃんと説明できるのかな?」
うっ、逆襲してきた。確かにこれといった理由はなかったけど好きだった、というのがホンネだ。答えられない私をみながら
「恵子もなんでオレが好きだったか今でもわからないと電話で言っていたよ。思春期の恋愛なんてそんなもんだと思う。しかし淡い思いも34年たつと新しい記憶となって甦ってしまう。もしかしたら今回オレは永井と小川、いやオレ自身の封印していた心の奥を映し出す鏡を地元に持ち込んでしまったのかもしれない。開けてはいけないパンドラの箱をね。」
そうね、もしかしたら私も恵子も、そして細川君もお互いに恋に恋していただけなのかもしれない。そういう美しい青春時代を浜谷高で過ごすことができた。それだけの話なのに細川君の胸の中でシクシク泣いた自分が恥ずかしい、恵子にタンカを切った自分も情けないし大人げない。恵子も今頃同じことを思っているんじゃないかしら。今日の告別式には来てくれるのかしら。やっぱりこっちから先に頭を下げる方がいいわ、そうすれば昨夜のことは水に流せるはずだもの。
「あのさ、今日はお前のお母さんの葬式なんだから小川にはお前のほうから電話を入れてやるのが賢明だと思うけどな。小川だって後悔しているに違いないし、永井から詫びを入れればきっとまた元に戻れる。それにオレも今夜にはオサラバするんだからさ、仲直りをするなら今だぜ」
細川君も私と同じことを考えている。
「うん、私もそう思う。それじゃ今すぐ電話してみよっと」
千代子はスマホを取りだし、恵子の番号を押した。ところがなぜか繋がらない。呼び出し音も鳴らないということは受信拒否にされているようだ。一瞬千代子の顔がこわばった。そしてみるみるうちに怒りで顔を紅潮させた。折角こちらから下手に出て謝ろうとしているのに、信じられない恵子の仕打ち。スマホを投げつけてやりたいような気持だ。状況を察した佳夫は自分のスマホを取り出して恵子の番号を押した。
しばらくすると電話は繋がり、
「おはよう、小川。昨夜はお互いお疲れさんだったな。ところで今日の段取りなんだけど、これから葬儀社が自宅に入ってきて、11時には坊さんに来てもらうことになっている」
こんな調子で話していたが、突然佳夫の喋りが止まった。しばらく黙ったままでスマホを耳に当てていたが、
「おい、小川、お前いい加減にしろよ。無二の親友のお母さんの葬式にも来ないなんてあり得ない話だぞ。昨日の話のことでまだ引っかかっているのかよ、子供じゃあるまいし、とにかく今日は来てくれよな。もし話があるなら葬式が終わってからしようぜ。今夜オレは7時の新幹線で東京に帰るしな。頼んだぞ」
ここで電話を切るところが強引な細川のやり口だ。その後、重苦しい空気が佳夫と千代子の間に流れた。今日は恵子は来ない予感が二人を支配した。
告別式にはやはり恵子は来なかった。昨晩の通夜で大方の弔問は終わっており、流れ作業のような葬儀社の手慣れた段取りで、火葬場まで滞りなく進んだ。骨壺に拾った骨を収め、自宅に持ち帰ったのは午後5時頃であった。二人はもう恵子の話はしなかった。
「細川君、本当に有難う。あなたがいてくれて母の葬儀は無事に終わりました。土曜日の朝は皆で楽しく同窓会をしようってことで盛り上がっていたのに、とんでもないことに巻き込んでしまったわ。それに、昨夜の恵子と私のみっともないいさかいまで細川君に見せてしまって恥ずかしいです。でもね、ひとつだけ言わせてね。あなたが浜谷高で私のことが好きだったなんて夢のような告白を今さらだけど聞くことができてうれしかった。あ、誤解しないでね、だからこれからどうこうって話ではないから。覚悟していたとはいえ母の死は辛いけど、それと引き換えに細川君の高校時代の気持ちを聞かせてもらってよかった。それに私自身の気持ちも伝えられたし。まあこれは恵子がバラしたことだけどね。恵子とのことはこれからゆっくり修復していきます。あのね、昨晩寝床でゆっくり考えたんだけど、私と恵子は親友ではあったけれど生身の人間同士だから、お互い長い間には気に入らないことやムカツクこと、憎んだりしたことも秘かにあったはずだわ。でもお互いにそういうネガティブな感情をあまりぶつけあってこなかった。キレイごとでなんとか済まそうとしてきたツケが昨晩のいさかいだったのよ。たまたま細川君という共通の初恋の相手が引き金になってしまったけれど、いずれはこういう場面が出てくるはずだったんだわ。そう考えると、昨夜はお互いのたまりにたまった憎しみをぶつけるいいチャンスだったと捉えることもできる。言ってみれば膿をドバッと出し切ったわけ、だから恵子が今日の告別式に来なかったからと言って私たちの関係が終わるなんてことはないの。きっと恵子も同じことを思って今日は欠席したんだと思うのね。だから心配しないで。いつかまた三人で同級生として会える時が来るわ」
佳夫は千代子の話をゆっくり頷きながら聞いていた。そしてニコニコしながら、
「いやぁ、昨晩はオレもヒヤヒヤしていたんだよ。大の仲良しのお前たちが猛獣のようにいがみ合って吠えるんだものな。でも永井の言う通りかもしれん。男も女もキレイ事だけの友情なんてものは薄っぺらいもんだから、すぐに馬脚を現して消滅する。永井と小川の友情はこれからこれを機に発展するんじゃないかな、そのお手伝いを天下の色男、細川ができたとしたら、こりゃあ男冥利に尽きるってもんだぜ、がはは」
タクシーで駅に着いたのは夕闇が西の沖合に色濃くなり始めてきた6時半ころであった。見送りに来た千代子と佳夫は上りホームで7時02分発の新幹線を待っていた。千代子は葬儀が無事に終わった安堵感と佳夫への想いを断ち切った爽快感で、自然と笑みがこぼれた。佳夫にしても今回はからずも地元で千代子の母の葬儀という仕事に携わりながらも、級友の二人と言葉以上の深い心の交流ができたような気持がして満足感に溢れていた。
「やっぱさ、たまには東京でお前と二人だけでメシでも食いたいな。さっきの永井の演説を聴いていてなんだかお前の事を見直したんだよ。永井が女だからどうだとか、そんなことは関係ない。同級生としていろいろ話がしたいし、同年代の人間として人生を語りたい。まぁカッコつけて言えばそんなことなんだけど、どうだろ?」
千代子の頬は真赤になった。そんな優しいことを最後に細川君が言ってくれるなんて思わなかった。顔が赤いのを夕陽のせいにしたかった。
「うん、落ち着いたら東京に行きます。その時は連絡するからね」
「きっとだぞ、この前みたいに名刺を渡したのにスルーするなんてことはやめてくれよな」
もう私の心は東京で細川君とどこかオシャレな店で談笑している姿を思い浮かべている。ダメ、やっぱり今でも細川君が好き。一度は押し殺した気持ちがまた甦ってくる。
夕陽を浴びながら銀色の新幹線がホームに滑り込んできた。ボストンバッグを佳夫に渡し、満面の笑みを浮かべて座席に座った佳夫にホームから上に向かって大きく手を振った。発車ベルが鳴るとゆっくりと車輌は東京方面に再び滑り始めた。やがて佳夫の姿が見えなくなり次の車両が千代子の前を通過しようとしたところで千代子は自分の目を疑った。夕陽を浴びた窓から恵子の勝ち誇ったような顔が千代子を一瞬見下ろし、「女の意地にかけてもアンタには渡さない」と言っているような口の動きをした。朱色に染まったワンピースの影はそのまま東京方面へと消えて行った(続)
第六話 佳夫の思い
「さすが重役さんだわね、グリーン車なんて私今まで乗ったことないけど今日は特別にお隣に座らせていただくわ」
佳夫が隣のシートに置いたボストンバッグを荷物棚に載せた恵子に佳夫は目を丸くして驚いた。いつのまにか恵子は同じ新幹線に乗り込んでいる、しかもしゃあしゃあと佳夫の隣席に乗り込んできたのだ。
「おい、小川。なんでオレと同じ新幹線に乗っているんだよ。東京に何か用でもあるのか」
「あら、勘違いしないでね、細川君。私はなにもあなたを追いかけているわけじゃなくてよ。ちょっと東京で用事を思い出して新幹線に乗ったら細川君を見つけたってわけだからね。」
「ふーん、まぁいいや。偶然ということにしておこうか。」
これから2時間、正直に言って憂鬱ではある。缶ビールでも飲みながらひとりでゴルフ雑誌でも読もうと思っていた矢先に、今朝葬儀のことで電話でやりあった恵子が同じ車両に現れたのだから。
「まぁ今日の事は終わったことだからいいけどさ、親友の親の葬式に列席しないのはいかがなものかと思うぜ。オレはさぁ、永井と小川の高校時代の仲の良さが羨ましかった。その仲が今でも続いているなんて素晴らしいことじゃないか。オレなんか会社で出世競争の毎日で、同期のヤツらも仲間とはいえやっぱりライバルだ。相手が出世の階段を外すのを見て安心したり喜ぶ世界に今でも生きている。昨日の通夜で武村と会ってそれを痛いほど感じたよ。あぁ、なんてくだらない人生をオレは歩んできたのかなってね。永井と小川は地元でずっと助け合ってきた仲だろう。その親友を裏切るような真似しやがって、小川、お前バチが当たるぞ」
「お言葉ですけどね、細川君。バチが当たるのは誰のせいだと思っているのよ。元かと言えばあなたがこの町に突然やって来たからでしょ?その張本人がよく言うわよ」
「あのさ、冗談も休み休み言ってほしいな。なんでオレのせいなんだよ?オレは永井や小川に友情は抱いているけどそれだけの話だよ。高校時代の恋愛物語はもうとっくに終わっている。それに、こういう言い方はわれながらご都合主義だけど東京には妻子もいるしな」
恵子はしばらく黙って窓の外で海に沈む夕陽を見つめていた。そんなことあなたに言われなくたって分かっている。分かっていながら強引に隣の席に座っているんじゃないの…さっきは東京に急用ができたからなんて見え透いたウソをついたけど、本当はいてもたってもいられず電話で聞いた7時の新幹線に飛び乗った。店の事なんかもうどうでもよかった。ここで細川君が東京に戻ってしまったら私の今でも続いている想いを伝えるチャンスは二度と来ないような切羽詰まった気持ちだった。火事場の底力みたいな勢いで飛び乗ったのはいいけど、冷静になれば細川君の言う通り、常識はずれの行動に出ている私。それに細川君はものすごく私に冷淡だわ。葬式もすっぽかした私だから仕方ないんだけれど、なんだかこのまま東京に行っても何にもならないことは目に見えている。最初からわかりきっていることなのに、なんて馬鹿な私なんだろう。年甲斐もなく無鉄砲で浅はかな自分に無性に腹が立ってきた。
「そうね、細川君の言う通りだわ。今日はちょっと私どうかしていた、細川君のせいでも千代ちゃんのせいでもない。全部私が悪いんです。ごめんなさい。次の駅で降りてまた地元に戻ります」
佳夫は幼稚な恵子がバカみたいにも見えたが、自分のことを追ってこの新幹線に乗り込んできたことはうすうす分かっていたし、ちょっと可哀想になったので
「そうか、引き返してもいいけど、折角乗車した新幹線だしこのまま東京に行くかい?カミサンにはずっと地元に滞在するという話にしてあるから一日くらい東京で付き合ってもいいぜ。あ、もちろん寝室は別にしてな、がはは」
たった今引き返す覚悟を決めていた恵子は飛び上がるくらい嬉しかった。
「え~、ほんと?嬉しいなぁ。じゃあ細川君について東京まで行こうっと!」
「あれ、恵子おまえ何か向こうで急用があったんじゃなかったけ?」
「そんなのウソだって知っていたくせに、細川君たら意地悪なんだから」
恵子は新婚旅行気分になっている。一方の佳夫はこんなところをもし会社の誰かに目撃されりゃしないかとビクビクしていた。女のスキャンダルで出世のハシゴを外された先輩を多く見てきたからだ。
「東京に到着したらとりあえず新橋の第一ホテルにでもチェックインしよう。それで軽く夕食でもとって明日はせっかくだから恵子のご希望の場所を案内するけど、どこかあるかい?」
恵子にしてみれば15年前に別れた夫のお使いで来たきりの東京、行きたいところは山ほどある。でも一つだけと言われれば、と思い当たった。
「ねぇ、細川君。私って遠泳では千代ちゃんにはかなわなかったけれど、マラソンでは結構がんばった方なのよ。覚えている?高3最後の地元高校マラソン大会で私って6位入賞したんだから。タイムは3時間58分15秒だった。私はね、皇居で一度走ってみたかったのよ。いいでしょ?」
「へぇ、そんな大会あったっけ?覚えてないな。まぁいいや。でもシューズとかウェア持ってきてないだろ?デパートで買うのもバカバカしいしなぁ。いや、ちょっと待てよ」
またもや佳夫は得意のスマホ検索を始めた。
「そうだ、これだよ。会社の若いヤツが会社のサークルで使っているランニングステーション、通称ランステ。ここなら有料だけど一揃い貸してくれるしシャワーも完備してるってさ。それで千円ならまぁまぁかな。しかもロケーションが日比谷だからホテルから徒歩圏内だよ」
「へぇ~、やっぱり東京って何でも揃っているのね。ねぇ、折角だから細川君も一緒に走ろうよ。私も都会の景色を眺めながらゆっくり走るつもりだから」
「うーむ、皇居って一周5キロちょいだろ?そんなに走れるかなぁ。途中でキツくなったら歩くから、その時は先に行ってくれよ。それでいいなら付き合う」
「うん、いいわよ。なんていってもランニングは安上がりでいいわ。健康的だしね。なんだか私たち高校の部活にでも戻ったみたいでステキ、都会のど真ん中でシンデレラにでもなった気分だわ」
やっぱり恵子は自己陶酔している。しかも場所が地元から離れた東京となれば気が緩んでくる。
「さぁ、間もなく東京駅到着だぞ。山手線乗換で新橋まで行くけど、メシはそうだなぁ、ホテルの食堂で軽く済ますことにしよう。あ、ホテルの部屋はシングルで二部屋スマホで予約しておいたよ」
今夜は疲れているし、ヘタにアルコールが入ると恵子のやつ、またどんな醜態を晒すかわかったもんじゃない。大人しくサラダとスパゲティでも食べているのが安全だ。
二人は新橋駅前の第一ホテルに10時近くに到着しチェックインを済ませた。
「細川君、私今日は疲れたしおなかも空いていないからこのまま休ませてもらうわ。明日は朝8時に食堂にいます。それじゃおやすみなさい」
恵子はさっさとエレベーターホールに向かい、手を軽く振りながら消えて行った。なんだ、ずいぶんとアッサリ消えやがったな。ちょいと拍子抜けだ。アイツがいないならホテルを抜け出して近くの焼鳥屋で一杯だけビール飲むか。新橋でも穴場の焼鳥屋屋台を思い出しながらサッとシャワーを浴びてホテルの玄関を出た。
時間はもう11時近いのに、まだサラリーマンたちがクダを巻いている小さな屋台だった。隅にようやく一人座れるスペースを作ってもらって、客たちの背中を胸にこすらせながら中に潜り込んだ。あぁ、ザ・サラリーマンの世界、佳夫は葬儀や旅の疲れから解放される思いがする。キンキンに冷えた生ビールをイッキに飲み干しておかわりをしながら考えた。
小川と永井のやつ、なんだってケンカなんかするんだ。オレがけしかけたみたいで後味が悪いよ。二人から今でも思われているらしいけど、そりゃあ悪い気はしない。あと10歳若けりゃオレも二股かけてエッチしてみたい誘惑に捕らわれただろう。しかしオレも今じゃ52歳、上の娘は今年の冬には嫁ぐことになっている。ハッキリは言われていないけどどうも「できちゃった婚」らしい。孫の顔も来年拝めそうなトシにもなって三人で恋愛ごっこもないもんだぜ…
とは思いながら、さっきロビーで小川が「今夜はもう寝るね」と言い放ってエレベーターに乗り込む姿を見たときの肩すかし感はなんだったんだろう。心のどこかでお前も小川がすり寄ってくることを期待していたんじゃないのか。しかも相手は初恋の相手だ。一回くらいはカミサンも大目に見てくれるだろうなんて思ってやしなかったか。それに昨晩永井がオレの腕の中でシクシク泣いていた時も、このまま抱いてやろうかなんてふしだらな思いを抱かなかったか?あの時、家にお母さんの遺体がなかったらどうなっていたか。
結局オレも生身の男なんだよな。高校時代の青春はキレイな思い出にして、今は同窓生として仲良くしようぜ、なんてクールぶりながら、一皮むけば自分に思いを寄せてくれる女たちだったら、やったってバチは当たらないし相手だって歓ぶだろうくらいに思っている。ただオレにも一応家庭がある、会社では一応要職に就いているなんていう世間体で踏み留まっているだけじゃないのかねえ。
騒がしい焼鳥屋の片隅で冷えたビールを飲めば飲むほど頭が冴えてくる。いや、永井と小川だけはダメだ。あいつらはオレの大切な同級生、今まで不倫してきた女たちとは違う。オレもあちこちで女と付き合ってきてそのたびに別れる時になって苦い思いをしてきた。あの二人とだけはそうなりたくない。商社マンなんてカッコよく聞こえるけど、世界中でドギツいところで商売をしている。オレもその先兵として泥沼をはいずり回ってきた。世界中で役人やお客たちに女を抱かせて商売を有利に運んで来た。そういう汚れ役を乗り越えてつかんだ役員の椅子だ。しかしだからこそあの同級生二人とはキレイなままでいたい。そんな青臭い気持ちもウソではなかった。
矛盾する思い、どちらも佳夫の本音であった。それでも明日になれば恵子は地元に帰るはずだし、そうすればもう何も余計なことで悩むこともないんだ。そう独り言を言いながら納得した。そのまま千円札を2枚カウンターに置き、ふらっと歩きながらホテルに戻った。まさか恵子は待ち伏せしていないよな、と外からロビーを覗き込んだが誰もいなかった。自分の臆病さに苦笑しながらエレベーターホールまで歩む佳夫であった(続)
第七話 統合失調症
皇居近くにあるランニングステーションで着替えを済ませ、Tシャツと短パン姿になった二人はゆっくりと二重橋の方へ歩き始めた。午前9時を少し過ぎたところだが、気温は25℃、風もなくランニングするには最適な気候である。
「あぁ、なんだかワクワクするわぁ。憧れの皇居を独り占め、いえ二人占めして走れるなんて夢のよう。皇居の周りも洗練された高層ビルが太陽に光っていて、いかにも日本経済の中心地ってカンジだわ。ねえ、細川君の会社もこの近くだよね。この先かしら?」
その質問を恐れていた佳夫だった。この先の大手門近くのビルが彼の勤務する会社なのあだが、その付近は深く帽子をかぶりタオルで顔を隠しながら通り過ぎたかった。
「あぁ、オレの会社はこの先すぐだよ。あのさ、そこ付近に来たら合図するからオマエ先に行ってくれよ。オレは後を追っかけるからさ」
「あはは、別にいいじゃないの。健全に月曜の朝から皇居ランしていて何が悪いの?なんて意地悪は言わないわ。はいはい、ではその区間だけは他人になりましょう」
小川のやつ、商社内の出世競争の熾烈さを知らないからそんな悠長なことが言える。まぁいいや、今日は恵子デーだからな、いちいち目くじらは立てないでおこう。
大手門を過ぎ、会社前を無事に目立たなく通過し、竹橋付近まで来てホッと一息つけた。
「そう言えばさ、この右手にある政府系銀行って永井が勤めていたんだよな。実は風の便りでそれをオレがまだ結婚する前に耳にしたことがあるんだ。目と鼻の先の距離だったのに結局お互いに会わずじまいになっちまった。あの時、強引に秘書課の永井さんにお会いしたいのですが、と訪ねて行ったら運命は変わっていたかもよ、がはは」
小走りに走っていた恵子の足がその時ピタっと止まった。しばらくブツブツとなにか呟いていたが、佳夫に信じられないことを言った。
「細川君、アイツはね。政府系銀行に勤めていたなんて言っているけど、すぐに辞めて本当は池袋のピンサロ、それから新宿でトルコ嬢していたのよ。あの頃は昭和バブル景気で胸の谷間に札束ブチ込まれて荒稼ぎしていたのよ。」
佳夫は茫然とした。恵子の下卑た話は虚言であるに決まっている。なぜこれほどまでにヒドいウソを佳夫に突然言い放つのか。しかも千代子は恵子の無二の親友ではないか。おい、恵子、頼むから今のは悪い冗談だと言ってくれ。
「それにね、アイツは海山組とも繋がっていた。組長が千代子を可愛がっていて、情婦のようにしていた時期もあるのよ、それにね…」
もう我慢の限界、思わず恵子のTシャツをつかんで怒鳴った。
「お前、気が狂ったのかよ。いったいどうしたんだ。なんでそんな有りもしないウソをつくんだよ。どうかしているぞ!」
恵子は不敵な笑みを浮かべながら言い放った。
「細川君がそう思いたくなるのは分かるけどね、これは事実なのよ。あなたは千代子のことを何も知らないようだから教えてあげているの。さて、私は折角だからちょっとペースを上げて走るね。スタートの二重橋前でまた会いましょう」
そう言うと恵子は颯爽と走り去って行った。さっきまでの妖婦のような姿とはガラっと入れ替わっている。佳夫は高校時代の恵子のことを思い浮かべながら強い混乱に陥っていた。あの頃の恵子は負けん気は強かったが心優しく正直な女子だった。彼女から人の陰口なんか一度だって聞いた記憶が無い。それに千代子と恵子は同性愛かとやっかまれるほどの仲良しだったはずだ。その恵子がなぜ突然今のようなことを言うのか。明らかに虚言であるのに恵子はそれを真実だと信じ込んでいる様子だ。一体全体どうなっているのか?
北の丸公園のあたりまで歩いて来て、ふと思いつく言葉があった。
「統合失調症」
幻覚や妄想という症状が特徴的な精神疾患である。佳夫の叔父の一人にこの精神病に罹っていた。不幸なことに叔父はこの精神病のために数年前に自殺している。生前叔父も強い幻覚と妄想に冒され、何者かが自分の命を常に狙っているとのありもしない脅迫観念に捕らわれていた。恵子のさっきの言動も似ているような気がする、ありもしない妄想に捕らわれ、よりによって無二の親友を自分の邪魔をする最大の敵だと信じ込んでいる。恵子は病んでいる、しかし彼女はそれを自覚していない。
またあの恵子の憎しみのこもった言葉を聞くのは堪えられない。しかしとにかくホテルまでは連れ帰らなければならない。あぁ、二重橋前が憂鬱だ、重い足取りで歩いていたところ、千鳥ヶ淵の角からいきなり恵子が飛び出してきた。
「あはは、ビックリしたでしょ。ここで私ずっと石川ひとみしていたんだから。いいわねぇ皇居ランってさ。地元の漁村ランなんか海しか見えないしダサイわよね。ねえ、あと半周なんだからゆっくりでいいから一緒に走ろうよ、細川君」
ものすごくイヤな気分だった。走りながらまた恵子の異常な話を聞かされるのはたまらない。そう思って先に行ってくれ、と言おうとしたらもう佳夫の腕を掴んで走り出している。
仕方ない、それじゃ半周だけ付き合うか。走りながら恵子はまたしても驚くべきことを言い始めた。
「あぁ、こんな爽快な気分は久しぶりだわ。千代ちゃんも一緒にここにいれば三人で東京でもう一度青春できるのにね。そうだ、今度細川君が地元に戻ってきたら、青岩島まで三人で泳ごうよ。どうせ千代ちゃんがまた一等賞だろうけど、私がシンガリを務めるわ。あ、赤フンは私たち二人で用意するからご心配なく、興奮するでしょ、あはは」
おかしい、完全に恵子の言動は統合されていない。自分の言動の矛盾に全く気が付かない典型的な症状だ。それにしてもいつからこんな風になったのだろうか?
ランニングステーションでシャワーを浴び、二人はホテルの方向へ歩き始めた。佳夫の心は揺れている。できれば精神病を患っている恵子とこのまま別れたかった。しかし彼女が患っているのに気が付いたのはどうも自分が最初のような気もする。このまま放っておけば叔父のような悲劇的な最期を遂げないとも限らない。同級生なのに冷淡に放っておくわけにもいかないが、かといって出過ぎたマネもできない。あれこれ思いは廻ったが覚悟を決めた。
「ホテルにもどったらさ、ちょっと小川に話があるんだけど、いいかなぁ」
「え?何かしら。もう愛の告白なら十分いただきましたけど」
「いや、ちょっとね、お前のことで気になることがあるんだよ。そうだな、ホテルじゃなんだかなんだからさ、日比谷公園にあるフレンチレストランで昼でも一緒にどうだろ?」
「え~、ステキだわ。なんかまた恋心が芽生えそうで怖いわ。いいわよ。それじゃホテルに戻って一休みしてからってことで」
新橋第一ホテルに到着して狭いエレベーターの3階と4階のボタンを押した。
「それじゃ12時にロビーね、お疲れ様で~す」
恵子は3階フロアで手を振りながら降りていった。
佳夫はやはりこのことを見過ごすわけにいかないと思った。仮にも浜谷高では初恋の仲として付き合った女だ。知らんぷりはできない。言いにくいことではあるけれど、今朝の政府系銀行の前で口走った恵子の言葉を蒸し返さなければならない。もしかしたら彼女はそんなことは覚えていないと言うかもしれない。それでも言わなければならない重大な話だ。
その前に千代子に電話しよう。もしかしたら千代子は何か恵子のことで気が付いていたことがあるかもしれない。
「もしもし、千代子か?あのさ、要件だけ言うけど、今東京で恵子と一緒なんだわ、いや別にデートしているんじゃないぜ。それでさ、今朝皇居の周りを一緒に散歩したんだけど、どうもアイツの様子がヘンなんだよな。突然ある人の悪口を言ったり、かと思えば30分後には自分が何を言ったかすっかり忘れているんだわ。高校時代の恵子からは考えられないんだけど、何かそっちで思い当たるフシはないかな、と思って電話したんだよ」
「細川君、その悪口の相手ってもしかして私のことかしら?」
「いや、そうじゃないけどな、どうも喋り方も内容も異様なんだよな」
「私のことに決まっている。私に細川君を取られたからってあることないこと言いふらしているんだわ、恵子ったら。そうなんでしょ?」
恐れていたことが起きた。だから女はイヤなんだよな。
「おい、千代子。そうじゃねぇって言っているだろ。そうじゃなくて以前にもそんな素振りが恵子にあったかって訊きたいんだよ。オレは恵子のことを真面目に心配しているんだ」
千代子もやっと少し冷静になり
「そうね、そう言われてみれば半年前くらいからちょっとヘンなことを言っていたかもしれない。お店の債権者たちが差し押さえに来る、とか、私は来週から豪華客船で世界一周の旅に出る、とかね。最初は冗談かと思って聞き流していたけど、最近はちょっと激しいセリフも吐くのでドキっとするのよ。でも本人はすっかり忘れている」
やはりそうだったか、マズい、このままでは恵子が崩壊してゆく。
「ありがとう、千代子。参考になった。まだ分からないけど恵子は統合失調症に罹っている可能性があるように思う。思い切って東京にいる間に精神科医に診せたほうがいいんじゃないかと思うよ。これから二人で昼メシ食いながらその話を穏やかに切り出そうと思っている。本人は覚えていないというだろうから、ちょっと反則だがスマホで会話を録画しようかと思う。いや、もちろんオレの見立てが空振りだったらいいんだけどな。それじゃまた報告するよ」
電話を切ってから千代子は溜息をついた。
やっぱり恵子ったら強引に新幹線に乗って細川君と朝っぱらからデートしている。細川君だってそんなの断ればいいのに、もしかしたらどこかの高級ホテルで一緒に泊まっているのかもしれない。それに細川君のマジメに恵子のことを心配しているのがよく分かる。彼のことだから東京中の名医を当たりまくって、彼女を連れてゆくつもりなのね。でも折角の彼の夏休みなのに、そんなにまでして恵子のために尽くすものかしら?精神科医だったら地元も県立病院でもいいはず。それなのに恵子を連れまわすのは地元をバカにしているみたいでムカツクわ。それよりなによりやっぱり初恋の本当の相手は恵子だったんじゃないの?細川君ったらそういう二枚舌を平気で使う男なんだね。昨日、地元の新幹線駅でときめいた自分の胸、そして勝ち誇ったような恵子のワンピース姿、そして今の細川君の切羽詰まったような電話。あぁ、でもそんな思いに悩まされる私、心が狭い女だわ(続)
第八話 悪魔と天使
真夏の強い陽射しが日比谷公園にも木々の緑を通して降り注ぐ。恵子と佳夫は濃い影を踏みながら園内の図書館の脇道を通り、中央の大噴水近く木製のベンチに座った。新橋のホテルからここまで来るのは真夏の正午は少しキツイ。レストランはもう目と鼻の先にあるのだが、大噴水から立ち上る水しぶきでも眺めながらひと息入れたかった。佳夫はレストランで恵子とゆっくり食事するどころの気持ちにはなれない。彼女の病状を観察し、もし今朝のようなひどい症状が出るようならば恵子を説き伏せて医師に診せなければなるまい。その証拠として隠れて動画撮影までしようというのだから、われながら強硬手段だとは思う。しかし恵子をみすみすあの叔父のような悲劇的な最期を遂げさせたくはない、という気持ちが勝った。
「私ってこれまで地元で育って親の稼業を継いできたから、東京なんか滅多に来ることがなかったの。言ってみれば私は田舎のネズミで細川君は都会のネズミだわね。田舎のネズミは東京のこういうハイセンスな雰囲気に憧れるの。皇居を今朝走りながらそう思ったわ」
「あのな、田舎のネズミは最後は都会にゲンメツして田舎に帰る筋立てだったんじゃなかったか?前にも言ったけど東京なんて人情のカケラもない冷たい砂漠だよ。オレはやっぱり退職したら地元に帰りたいな。まぁカミサンが反対するだろうからムリだろうけどね」
「あのね、ウチの小間物屋も私一人でなんとかやってきたけど、やっぱり力仕事とか仕入仕事とかが段々辛くなってきた。おかげさまで母屋は広い間取りにしてあるし、細川君が来てくれるなら助かるわ。退職後じゃなくってさ、これから私と一緒にグリーン車に乗って帰ろうよ。ね、そうしよ、細川君」
やっぱり恵子はヘンだ。もちろん冗談として受け流したいのだが、恵子が本気で言っているのか冗談で言っているのか。
「うん、お前のとこの小間物屋もセンスいいし地元のコミュニティにもうまく溶け込んでいるし、ホントに羨ましい限りだよ。オレなんか東京で牛馬のように働かされて、定年になればポイっと会社から放り出される。何か老後にやることがありゃいいけど、オレなんか趣味らしいことなんか何もないし友達もいないし、濡れ落ち葉で情けない男なんだわ。だからさ、定年後はお前や永井のいる地元に帰って生活したいよ。そうそう、それに材木屋の武村もいるし、4人で小川の広い家で合宿生活でもやってみたいな、あはは」
話をノーマルな方向へさりげなく持って行くつもりで、やんわりと恵子の話を遮った。
「さて、腹も空いたろう。ほらあの左手に見えるデカいレストランが有名な「松本楼」。日露戦争直後の日比谷公園焼打事件ではあのバルコニーから演説が行われ…」
その時あった。さっきの竹橋と同じ場面が繰り返されてしまったのだ。
「冗談じゃないわよ。あんな淫売女と一緒に暮らせるわけない。細川君にもさっき言ったわよね、あの女がどんなに淫らでどんなやり方で男たちを食い物にしてきたか。それにさ」
悪い予感が的中してしまった。もう躊躇はしていられない。佳夫は革製リュックから素早くスマホを取り出すとベンチ前に銅製の丸テーブルに録画モードに設定して、気づかれないようにリュックの脇からこちらに画面を向けた。
「ねぇ、ちょっと細川君、私の話聞いているの。何ゴソゴソしているのよ?」
よし、恵子はオレのセッティングに気が付いていない。盗撮などしたくはないが、動かぬ証拠をキャッチしなければならない。すべては恵子のためだと自分に言い聞かせた。もう録画は起動している。
「千代子はね、あんな清純な振りをしていたけど、実は高校時代から淫売だったのよ。最初は体育館の倉庫部屋にあの武村君を連れ込んでエッチして、1万円を彼からふんだくったの。それからというもの次から次へ学校の男子に放課後の地下室とかプールの脱衣所なんかでカラダ売っていたのよ。中には男の若い先生なんかもいたんだから」
聞くに堪えない恵子の暴言かつ虚言だったが、ここで立腹しては元も子もない。
「へぇ、そんなことがあったんだ。でも武村なんかそんなこと一言もオレには言ってなかったけどなぁ。こんど彼に会ったら問い詰めてやるか、お前、そんなイイことをオレに隠れて千代子としていたのかってね、あはは」
「ダメ、それだけはだめよ。千代子はね、今は地元の暴力団員とつながっているから、ヘタなこと言うと“オレのスケにイイことしてくれたんだってな”って武村君の命が危なくなるわ」
誇大妄想もここまで来ると、医師ではない佳夫でも恵子の症状がかなり進んでいると思えてならなかった。
「細川君、大丈夫よ。あの女は今でもあなたに未練があるらしいけど、あんな汚らしい女に私の細川君に指一本ふれさえはしないわ。それでね、やっぱりああいう女はこの世にいること自体が社会迷惑なのよね。私もそれで一つ考えていることがあるんだけどね」
「考えていることって何だよ?」
「それは今は言えない、でも細川君は巻き込まないから安心して。さて、おなかペコペコだわ。はやく予約した店に連れて行ってよ」
ダメだ、完全に狂っている、最後は永井に危害を加えることまで仄めかすとは尋常ではない。一刻も早く医者に診せないと恵子が身体的にも社会的にも破滅する。
二人はベンチを立ちレストランに向かっている。たった今までの毒づき方とは正反対の明るく軽やかの恵子の口ぶりにまた佳夫は驚いた。そういえば今朝、竹橋で毒づき千鳥ヶ淵あたりで豹変したのも恵子だった。現実と妄想、千代子への愛情と憎悪が病的に恵子の心の中で交錯しているように思える。しかも本人はそれに気づいていないらしい。
桜の木々に囲まれたフレンチレストラン「日比谷パークサイド」の入り口に足を運ぶと、ウェイターはガラス扉を開きながら「いらっしいませ、細川様」と微笑みながら礼をした。
「あれ、細川君ったらこのお店ではカオなのね。きっとステキな奥様とでもちょくちょくいらっしゃっているんでしょ?」
ニヤニヤしながら恵子は言う。さっきまでの悪魔のような女ではなくなっている。
「いや、会社のお客さんをたまに連れてくるだけ。プライベートで来たのはもしかしたら恵子が初めてかもよ」
ちょっと誇張があるが、まぁそれくらいは許してもらうか。恵子だって発作的とは言え、新幹線に飛び乗って東京まで来たんだからな。
大きな窓のある真っ白なクロスの掛かったマホガニー製のテーブル席に案内されて、二人はゆっくりチャコールグレーの椅子に腰を下ろした。恵子はキョロキョロしながら
「こんな高級フレンチなんて一度も来たことないわ、あぁ、やっぱり新幹線に飛び乗ってよかった。そうそう、途中下車して引き返そうと本気で思った私を必死で引き留めてくれたのは細川君だった。あの時はあなたの熱意に負けちゃったのよね、あはは」
恵子のヤツ、また例の病気が始まりそうな気配が漂っている。しかし佳夫は一つ気が付いたことがあった。恵子は千代子の話をすると突然変異を起こす傾向がある。少なくとも今朝の皇居、それと日比谷公園ではそうだった。そしてその舌の根も乾かぬ内にまた常識人で友達想いの恵子に戻る。とにかくこのランチでは永井の話は御法度だ。それだけを肝に銘じて、その後の事はあとで考えよう。
「このお店、ステキ過ぎるわ。このテーブル席から見える公園の樹木や噴水、その手前の鮮やかな色の花壇なんか見ているとヨーロッパの絵画のようだわね。それに噴水の水しぶきが地元の海の波しぶきに見えて美しいわ。あ、なんかオシッコしたくなっちゃった。ちょっとゴメンネ」
なんか高尚っぽいこと言うかと思えばオシッコかよ、まあいいけど。と思ったところで佳夫は大事なことを思いだした。さっきのスマホ録画、ちゃんと撮れているんだろうか。恵子がトイレにいっている間にチェックしておこう。再生ボタンを押してみると、あのおぞましい恵子の鬼のような形相と低く唸るように永井を罵倒している声がハッキリと聞こえてくる。最後までシッカリと録画されていた。この録画をいつかは恵子に見せなければなるまい。もちろん佳夫にとってもツラいことだが避けて通れない道なのだ。問題はいつ、どこで見せるか、だな。
「お待たせ~、ここのお店ってトイレまでステキだわ。鏡台に小さな生花まで飾ってあるし、照明はシャンデリアをイメージしたガラス細工だし、香りはきっとシャネルだし。なんかプリンセスにでもなった気分になっちゃうわ」
「今日はさ、おれが必死でお前のことを東京に引っ張ってきたお詫びに、好きなもの何でも食ってくれ。オレも本当は今週はゴルフのつもりだったけど、こうなったら初恋の恵子にこの一週間お付き合いします、ってダメかな?」
佳夫の真意は別にあったが、それは今ここでは言えない。案の定、恵子は目を輝かせて
「え~!そんなの悪いわ。でも細川君の長年抱いていた私への恋心を無下にするのもなんだから、はい、お受けします。私も幸せです」
やばい、恵子のやつ、半分涙ぐんでいる。なんだか恵子のことを騙しているようで佳夫は気が引けた。しかし一週間あればなんとか事実を解き明かし、診療への道筋を立てることもできそうな気がする。焦ってはダメだ、今は初恋ごっこでスタートしておこう。
二人は同じフルコースのランチセットと、まずはシャンパンで乾杯した。しかしこうやって恵子と都会のど真ん中でフランス料理を楽しむことになろうとは佳夫も思っても見なかった。今から思えば高校時代、心の中では千代子を一番慕っていた。でも千代子はそんな素振りがなかったし、恵子はオレにゾッコンだったからそれに引っ張られていたんだな。でも今では二人に対しては大事な同級生としての思いだけが残った。そう、恵子も大事な友達だからこそここまで心配している、なんとか助けてやりたいと真剣に思う。同じことが千代子や武村に起これば同じことを自分はしたに違いない。不思議だな、30年以上も会っていないのに同級生とはそうしたものか。そんな感傷に耽ってシャンパンを飲み干すと恵子が前菜のテリーヌを口に運びながら言った。
「あのさぁ、千代ちゃんのことだけどね」
うっ、まさかさっきの蒸し返しをするんじゃないんだろうな、佳夫はいや~な気分になったが今の恵子は常識人であった。
「この前、お母さんが亡くなったでしょ。私も両親ともに他界しているしウチには誰もいないしね。この際千代ちゃんにウチに来てもらいたいと思っているのよ。ワタシも段々とトシを取ってくると一人では力仕事とか掃除がキツくてね。やっぱりお店をやるってそれなりに大変なのよ。それでさ、気心の知れた千代ちゃんに手伝ってもらえたらいいな、なんて前から思っていたの。私たちってバツイチだけど、それなりに年金の支給も期待できるし、あんな田舎町なら質素な生活はできると思うのよね。あ、ごめんね、本当は細川君に来てもらいたいけど、田舎町はそういう噂話が大好きなヒマ人が多いからダメだわ。あはは」
あぁ、良かった。少なくとも今のところは永井の親友に戻っている。それに永井の母親の逝去を機に共同生活を始めるという考えも悪くない気がする。
「ああ、恵子、そりゃぁいい考えだなぁ。それで永井は何て言っているんだい?」
「いいえ、まだ千代ちゃんには話していないのよ。その前に細川君の考えを聴きたくってね」
「もちろん賛成さ。小川、お前って本当にいいヤツだな。永井もその提案を聞いたら泣いて喜ぶんじゃないか。オレも同級生の一人として嬉しい。しかもオレの好きなこの店でそういう話が小川から聞けるなんて思っても見なかったよ。おい小川、その提案を早く永井に聞かせてやれよ。あぁ、なんかまた地元のお前の店に行ってみたくなってきたな、今日は最高の日だよ」
佳夫は悪魔の恵子を忘れたかった。あれは何かの間違いだったと思いたかった。このまま恵子と別れて、永井と小川が仲良く暮らせればどんなに良いか。今の瞬間、天使の恵子にこのレストランで目の当たりにして強く願った。しかしこのまま恵子を捨ててはおけない、あの恐ろしい録画を彼女に見せなければならない。行きがかりとはいえ、そんな役目を命じた天を今更ながら恨めしく思った(続く)。
第九話 受信メール
新橋のホテルに二人は歩いて戻った。佳夫は満足だった。恵子があれほどに昼食を楽しんでくれるとは思っていなかったので、招待のした甲斐があったといものだ。ちょいとフトコロは痛んだが、軽井沢でゴルフしたと思えば安いものだった。
「細川君、ご馳走様でした。私ちょっと疲れたから部屋で休ませてもらうね。それと夜は一人で考えたいことがあるのでどうぞ放ったらかしにしてちょうだい。あなたの方は奥様に何か伝えてあるの?まさか新橋で女と一緒だとは言ってないでしょうけれど」
「あぁ、カミサンに居場所を伝えないで1週間くらい過ごすなんていうのは今までもザラだったな。いざとなればスマホで連絡はつくし、いちいち居場所まで伝えなくてよい便利な世の中になったもんだ。ある時なんか札幌出張だと言っておきながらモスクワにいたこともあったな。商談の行きがかり上、そのままモスクワに移動しただけなんだけど、そんなのいちいちカミサンに説明しないよ。カミサンも説明を求めてこないね、よっぽどオレのこと信用しているんだな、あはは。お前のお相手をしないんだったら、オレもちょっとパソコンで部屋に引きこもって仕事でもするか。あぁ。おれって本当に仕事バカだな。それじゃ何かあったら部屋まで電話してくれ」
恵子のヤツ、一人きりで考えたいことがあるって言うけど何だろう?まぁいい、今日はここまでということにしよう、急いてはことを仕損じるというから、例の録画は明日にしよう。永井はフロントでノートパソコンを借りてデスクに置き無線ランを起動した。先週から会社を休んでいるのだからきっと大量の未読メールが入っているに違いない。そう思いながら受信ボタンをクリックした。すると2、3件のジャンクメールが入っているだけで会社メールは一つも入っていない。そんなバカなことはない。今まで毎日少なくとも100件のメールは受信していたのだから今日は300件くらいに溜まっているはずだ。それがゼロということは何かメールシステムのエラーが起きたのか。いろいろ考えられる方法で受信を試みたが結果は同じだった。佳夫はキツネにでもつつまれた気分だった。まさか会社全体のシステムがダウンしているわけではないよな。仕方ない、まず会社のIT部門の担当者に電話することにした。こんな時に直属の部下に電話したら総スカンを食らうのは目に見えている。
「はい、ITデスクです。何かお困りですか」
「はい、今ちょっと東京のホテルで無線ランを飛ばして社内メールをチェックしたのですが、なぜか受信ができないのです。正確に言うとジャンクは幾つか受信しているのですが社内メールが受信できません」
「社員番号とお名前をどうぞ」
それを告げてしばらくすると思わぬ答えが返ってきた。
「細川さんのメールはこの1週間すべて送受信できないようにすること、との社長命令が出ているとのことです」
佳夫は絶句して受話器を切った。そこまで社長はオレのことを疎んじていたのか。そんなにオレは社員にとって目障りな存在だったのか。
しばらく狭い部屋の椅子に座って茫然としていた。オレは入社以来、少なくとも同期の中ではトップクラスで走ってきたつもりだ。汚れ役も引き受けてきたし、部下の指導だって熱心にしてきた。上役にだって気を遣うところは気を使ってきた。そして何より人一倍働いてきた自負がある。商社マンとは365日24時間稼働すべし、と自らを叱咤激励してきた。その結果がメールストップか。おそらくオレが夏休み中にメールを覗き込むことを社長は予想し、オレに会社にでも来られたら社員は迷惑するだろうと思って指示したことだろう。この前、病み上がりの身で出社したら「頼むからそのまま帰ってくれ」と拝むような目をしてオレを見ていた社長の姿が今更ながら目に浮かんだ。いったいオレの会社人生って何だったんだろう。今頃会社の課長連中はオレがいないことで大いにのびのびと仕事をしているにちがいない。役員たちはウルサイことを言うオレがいないのでせいせいしているのかもしれない。自分を見失って唯我独尊で突っ走ってきた商社マンの成れの果てが新橋の狭い部屋で呆然とする自分なのか。地元で武村に会った時、自分を卑下するフリをしながらまだオレは武村より数段も上だと自惚れていた。しかし今、会社メールを止められて自分が崩れ去ってゆくのが分かった。情けないとか悔しいとかいうこと以前に、自分は人間としてどこか根本的に誤っていたとの思いだった。会社の誰も教えてくれなかったことにやっと気がついたのだ。ここまでの仕打ちを社長からくらえば次期株主総会での常務昇格の目は絶対にない、そんな思いで窓の外の雑居ビルの風景をうつろな目で眺めた。
いつの間にか佳夫もベッドの上でうたた寝をしていた。先週からの疲れが一挙に出たようだ。薄い壁越しに何やらどこか外国人の家族の会話が聞こえてくる。時計を見るともう5時になっていた。3時間も昼寝するなんて今までになかったことだった。ベッドから起き上がりシャワーを浴びようとして下着類をクローゼットから出そうとすると部屋の玄関ベルが響いた。扉の魚眼レンズを覗くと果たして恵子だった。扉を開けると
「ごめんね、細川君。ちょっと今いいかしら?」
「あぁ、いいよ。だけどちょっとここの部屋は狭いしロビーにでも行こうか」
「いいえ、ちょっと大事な話なんで誰もいないところがいいのよ。別にあなたを襲ったりはしないから大丈夫」
冗談で言っている割には目が笑っていない。何か思いつめた恵子の様子に
「まぁ、中に入れよ。オレも今ちょうど昼寝をしていたところなんだ。恵子はどこかへ行っていたのか?」
「うん、有楽町の精神科医にね」
そうだったのか、恵子も自分の症状に気付いていたんだな。
「精神科医って、お前なにかアタマに問題でもあるのか?」
「先生は、“統合失調症”、しかもかなり症状が進んでいるというのよ。この病気はね、要するに精神のバランスが取れなくなって妄想なんかの症状が現れるの。しかも自分ではその症状を自覚できないところが困るの。私ね、千代ちゃんに半年前くらいからヘンなことを言っているらしいの。株で大儲けしたから世界旅行に一緒に行こう、とか明日は私のお葬式になりそうだとかね。千代ちゃんも心配してそれを後で言ってくれるんだけれど、言った私はゼンゼン覚えていないわけ。それでね、この前のお母さんのお葬式の時、私と千代ちゃんが思いっきりケンカしたのを覚えているでしょ?あのときに千代ちゃんを思いっきり罵倒したことは覚えているんだわ。今から思えば心にもないことを言ってしまったんだけれど、きっとこれは病気なんだと思って地元の病院に行ったら、有楽町の精神科医を紹介してくださったの。
それでね、先生は地元の病院に通院でいいから今すぐ戻って診療を開始しなさいというの。実はね、細川君。先週あの新幹線に飛び乗ったのはその診察のためでもあったのよ、というか飛び乗った後に紹介状のことに気が付いたんだけどね。それでよい機会だからさっきクリニックに行ってきたというわけよ」
そういうことだったのか。確か永井も小川の虚言や奇行について電話で言っていたもんな。それならば今日決死の覚悟で日比谷公園で撮った録画も不必要になったというわけだ。ちょっと肩の荷が下りた。それに今日の皇居と日比谷公園での恵子の言動をここで敢えて蒸し返さなくても、既に医師が診断を下しているのだから改めて恵子に言う必要はあるまい。
「そうか、それはゼンゼン気が付かなかったけど、実はオレの叔父もその“統合失調症”とかいう病に冒され、残念なことに最後は自殺したんだよ。早期に地元で診療を開始した方がいいんなら、明日にでも帰ったほうがいいかもな。あとさ、やっぱり永井とのことは大事にしてくれよな。実は、あいつもお前とあんな諍いがあったことを気にして、これから恵子との関係は徐々に修復したいって言っていたんだよ。できればさ、そうだなぁ、お前が昼に言っていたように永井にウチに引っ越してもらってさ」
そこでまた恐れていたことが起きてしまった。
「何度同じことを言わせるのよ!あの淫売だけは私の店に出入りはさせない。それに私の知らないところでアンタたち二人で何をコソコソ私のことで内緒話なんかしているの。私を罠にでもかけて海に沈めて二人で私の家を乗っ取ろうとしているんでしょ!」
もう驚かない、ただ一刻も早く診療をしないと叔父のような悲劇が待っている。まずは気を落ち着かせることだ。
「わかったよ、永井のことはもういい。とにかくさ、明日の朝の新幹線で地元に帰ろうよ。オレもついてゆくからさ。なぁ、それでいいだろ。あとは県立病院にも明日中に一度顔出したいよな。うん、そっちも一緒に行ってもいいぞ」
「うん、ありがとう。やっぱり細川君って頼りになるわあ」
要するにこういうことだ。オレが永井の話、特に彼女を褒めたりすると小川は悪魔になり。逆にオレが小川に優しくすると天使になる。ある意味単純。この法則さえ間違えなければ大きく足を踏み外すこともなさそうだ。しかし問題は恵子と千代子だけになった時だ。オレだっていつまでも地元にはいられない。嫌われようが何しようがとりあえず会社には行かなければならない。果たして恵子と千代子は二人だけでうまくやっていけるのか?千代子だっていかに無二の親友のためとはいえ限度というものがあるだろう。しかし恵子が地元で頼れるのは千代子だけであろう。オレも時々は様子を見に行くつもりだけど、そう頻繁には来れない。それともう一つの心配は、有楽町の医師から「症状がかなり進んでいる」と宣告されていること。自分の叔父と同じパターンであるがゆえに、悪い予感がする。
「細川君、いろいろ心配かけてごめんなさい。でもあなたがいてくれるお蔭で気持ちの上でものすごく救われているの。いいえ、別にあなたと今さらよりを戻したいなんて図々しいことは言いません。でもこんなにまで私のためにしてくれるって、同級生っていいなぁ、なんて思っています。それじゃ明日またね、明日の新幹線のことはまた朝食の時にでも相談しましょう」
恵子はニッコリしながら出て行った。佳夫は恵子の病気告知について強い使命感を持っていただけに、それから免れたことでカラダ中に張りつめていた緊張感が一気に抜けた。あとは医師の診療に任せるしかないとは思いつつも、何かあれこれと余計な心配をするのが佳夫の悪い癖であった。そしてその次に来た虚脱感、それはさっきの受信メール拒否の一件である。こともあろうに新橋のビジネスホテルでそれを思い知らされるとは思わなかった。このやるせない思いをだれかに聞いてもらいたいという渇望に突然捕らわれた。真っ先に思いついたのは妻であった。しかし居場所すらロクに知らせないで来た相手に今さら出世街道から外された事など話したところで「そう、残念だったわね」でオシマイになるだろう。もともと妻にとってはどうでも良い話なのだから。会社の同僚なんかには口が裂けても言えない話だ。そうなると…
一つ下のフロアには小川恵子がいる。今は確かに同級生同士だけれど、一緒に青春時代を過ごした仲だ。遠泳で恵子とはオレの赤フンの帯を顔に浴びながら青岩島までたどり着いた仲、そういうヤツにこの情けない思いをブチまけたい。恵子はただ聞いてくれているだけでいいからそばにいて欲しい。
そう思うと居ても立ってもいられなくなった。非常階段を駆け下り恵子の部屋のベルを押していた。
「あれぇ、細川君、まだ何か御用かしら?」
なぜかやけに恵子は冷淡だ。まぁ男が女の部屋にやってきたのだから冷淡にすべきなんだけど、
「いや、用事というほどではないけど、ちょっとお前に聞いてほしいことがあってな」
「それって私の病気の事かしら?」
「いやいや、全然関係ないオレの話さ。実はさっきオレの部屋でパソコン使って…」
「まぁ、お入りなさいな。ムズカシイ話はイヤよ。私はあなたと違ってアタマ良くないし」
そんなこと言われて佳夫はますますショゲてきた。
恵子はクローゼットから補助椅子を出してくれて、自分がそちらに座った。それと冷蔵庫からキリンビールも取り出してくれた。
「はい、それじゃ東京ラストナイトに乾杯!って缶ビールというのもオツだわね」
佳夫は今日起きた会社のメール事件について話をつつみ隠さず話した。とにかくすべて吐き出したかった。そして今までどれだけ会社で思い違いしてきたのか、それも聞いてほしかったし恵子の意見も聞きたかった。恵子はジッと聞いていた。そしてこう言った。
「それで細川君、会社どうするの?」
「え?そりゃ行くしかあるまい。」
「それだけ自己否定しておきながらそれでも会社に行くのね」
そりゃオレのやり方は間違っていたかもしれないし、周りに迷惑をかけていたかもしれない。社長にまで嫌われていたとは知らなかった。それでも会社が存続する限り勤めに出るのがサラリーマンの努めだろう。
「細川君ってさ、そうやって自己否定とか懺悔みたいなことを言いながら、結局は周りの迷惑は二の次にして会社にしがみつくのよね。自分の学歴とか職歴、一流商社のプライドが捨てきれないんだと思う。学校時代からデキのいい子ってそういうのが多いわ。私とか千代ちゃんはね、ほとんど地元で暮らしてきたからあなたから見ればのんびりしたボンクラなんでしょうけど、よその国に乗り込んでいって現地の人を相手にあくどいことしたり、いかに商売敵とはいえアンフェアーなやり口で商談を奪い取ったりするなんて考えたこともないわ。そういう御商売をなさってオレは立派だなんて思っている人たちの気が知れないわ。」
返す言葉もない。恵子の言うことはズシリとオレの胸をえぐる。
「お前、商社のことよく知っているな、その通りだよ。オレなんか汚れ役でのし上がったクチだから一番そういう部分に関わってきた。児童不当労働、売春、環境破壊、なんてのはさすがに最近は世間の目も厳しくなっておおっぴらにはできないが、それでもまだまだ撲滅にはほど遠いんだな。オレは東南アジアや中東なんかでそんな現場を指揮してきたんだ。そのあくどさが身に沁みついて、21世紀の東京ではいつのまにか疎んじられてしまったんだろうと思う」
自分の半生を思いながら恵子の前ではしみじみと語ることで、少しずつ心の痛みが解けてゆく。恵子みたいな田舎者に言われて初めて思い知らされる自己欺瞞、虚栄、傲慢。やはり恵子に話をして良かった。
「細川君、いっそのこと会社なんかやめてさ、地元に帰っておいでよ。あなたって体力はまだありそうだから漁師見習いとか、魚市場の手伝いとかならできるんじゃない?」
うわっ、いきなりすごく魅力的な話だ。東京でこんなミジメな思いまでして、会社から煙ったがれて最後まで会社にしがみつくのか?佳夫、お前の本当にしたいことは何だ?自問自答してみると答えはやはりあの青い海に戻ること。でも言うは易く行うは難し。東京の家族はどうする、生活資金は?いろいろ現実的なハードルが待ち構えている。
「だからさ、細川君の面倒はアタシが見るのよ」
最初に地元で恵子に会った時も同じことを言われた。あの時は冗談だと受け流したけど、今度は本気で考えようと佳夫は思った(続く)
最終話 あなたが微笑む日
晩秋の海は静かな潮風を吹かせている。海岸線に並んだカラマツは沖から漏れる薄日に照って黄金色に輝く。千代子と佳夫は夕暮の浜辺を歩いていた。東京はオレのいる場所ではなかった、この土地こそがオレの原点、すべてを包み込んでくれる故郷なんだと佳夫は思った。
佳夫は先月会社を自己都合退職するとともに、妻とも離婚して生まれ育った地元に戻ってきたのだった。退職の申し出は形式的に遺留されたがキッパリと断った。退職金の積み増しはそれなりに会社に貢献してきたことの証であろうか、自分の予想よりは多かった。社長室で最後に社長から「細川さん、あなたの我が社への貢献は多大なるものがありました。特に海外事業の開拓はあなた無しには考えられない。あなたの歩んだ道をわれわれは偉大なる道しるべとし…」などと言われた。なるほど、これくらいのこと言ってのけてナンボの社長稼業だな、と佳夫は苦笑した。妻に対しては単刀直入に「地元に帰りたい。ついてくる気はないだろうから離婚してくれないか」と申し出た。妻は「頂けるものさえ頂ければ異存はありません」とにべもなかった。もうオレたち夫婦は何年も前から破たんしていたんだな。財産分与は東京の自宅を含め妻に7割分与することで決着した。自分勝手に地元に戻るのだから当然だと思ったし不満はなかった。
先月から恵子の家で千代子と佳夫の三人で共同生活が始まった。武村が一度訪ねてきて「おい、細川、ハーレムじゃねぇか。羨ましいぜ」などと冷やかしていたが、実態はそれどころではない。佳夫もぶらぶらしているわけにはいかないので、駅前のコンビニのアルバイトの口を見つけて働き始めた。最初はコンビニのバイトなんてたいしたことないだろと高をくくっていたが、とんでもなかった。商品の陳列、補充、清掃、レジ打ち、苦情処理…ものすごく大変で商社の3倍くらい疲れ、帰宅するとヘトヘトである。恵子と千代子にしても小間物店があるから二人も結構疲れる。青春のリバイバル劇だと夢見ていた共同生活はかなり過酷なカツカツ生活であった。ただ幸いなことに恵子の症状が診察を受け始めてから小康状態が続いていて、以前のようなひどい症状は頻繁には出てこなくなっていた。
三人で食卓を囲みながら千代子は言った。
「細川君、本当に人生ってわからないわね。あの時私たちが大手町クリニックで偶然出会わなければ細川君はここにいなかったんだもの。でもね、恵子は細川君に感謝しているのよ。恵子にとって細川君は心の支えなんだって、ああいう心の病に罹ってしまったからなおさら細川君が必要なのよね。なんかちょっと妬けるけど」
恵子はニタニタするだけで焼き魚をつついている。
佳夫だって恵子に感謝している。あの新橋の部屋で「アンタはまだ会社にしがみついている。そんな会社辞めて地元に帰って来なさい」と言ってくれたのは恵子だ。こういうセリフは同級生でもない限りゼッタイに言ってくれない。
「オレさぁ、地元に帰ってきて本当によかった。東京で沁みついた垢をここの波しぶきで吹き飛ばしてくれる思いだよ。武村や永井、小川といられることがこんなに幸せだとはな。東京ではカミサンとさえ心が通ってなかったのに、ここに来ると急に心がオープンになれるから不思議だよ。オレたち4人はかけがえのない仲間だとつくづく思うな。恵子の病気も、見捨てることはできなかったのはその証拠だね」
そこで千代子は恵子にちょっと目配せをし、一呼吸おいてから佳夫に言った。
「その恵子のことなんだけれどね、もう恵子も知っていることなので細川君にも言うんだけど。最近またちょっとお店でお客さんにヘンなこと言って気味悪がられているのよ。この前もある初めてのお客さんに“あなたの顔には死相が出ています。いますぐお祓いに行かないと」なんて言うもんだからお客さん、ビックリして逃げ出しちゃったのよ。あとで”恵子、なんであんなこと言うの?“と問い詰めると何か呪文みたいなことをブツブツ言っているわけ。毎週病院には診察には行っているけれど、先生にはすべてのことは言ってないかもしれない。忘れてしまっていることもあるだろうし」
佳夫はこの夏に東京で録画した動画を思い出した。こういうこともあろうかと消去はしていなかったので、これを思い切って医師に見せたらどうだろうかと思った。もちろん恵子の同意のもとではあるが。その前に千代子にも見てもらっておくべきだと思い、夕食が済んでから佳夫の部屋に千代子を呼び寄せた。
「千代子、これはこの夏に録画したやつだ。オマエのことを誹謗しているから気持ちよくはないだろうけど、見てくれないか」
千代子は30秒たらずの動画をじっと見ていた。そして
「こんなひどい症状はいつも店で近くにいる私ですら見たことが無い。早速お医者様に見せないと恵子は大変なことになる」
もっともだ。佳夫もそうは思っていたが躊躇してしまっていた。恵子だって自分が統合失調症であることは承知しているのだから、この動画を見せた上でもう一度医師の診断を仰いだほうがよい。東京で見せておけばよかったと今になって佳夫は後悔した。
翌日恵子はいつになく上機嫌だった。以前から交渉していたベトナム産のクローゼットが恵子の言い値で手に入ることになった、と手を叩いて喜んでいた。千代子と佳夫は目を見わせて、今がチャンスだと佳夫のスマホを恵子の前に出した。
「小川、この夏にお前が東京に来たことがあったよな。日比谷公園でランチしたことは覚えているかな。あの店に入る前に、悪いとは知りつつもお前の動画撮影をさせてもらったんだ。お前、精神病の疑いがあるような気がしてな。その時の動画、見てくれないかな」
「へぇ、そんな動画があったんだ。どんなのか興味津々だわ」
「いや、決して面白いものじゃない。それどころかお前が千代子のことを罵倒しているんだよ。こんなの見せたくないけど、もしお前の了解が得られれば先生にも見てもらおうかと思ってな」
「ふ-ん、まぁとにかく見せてちょうだいよ」
恵子は30秒の動画をジッと見ていたが、終わると突然けたたましい声で笑い出した。
「そうなのよ、この千代子って女は淫売で詐欺師で男狂いなの。高校の時から随分とヒドいことをしていたわ。細川君だって本当は私が最初の女になるはずだったのに、この女が細川君を横取りしたのよ!」
佳夫と千代子にとって想定しないでもない恵子の反応だった。とりあえずこの場は抑えるしかない。佳夫は千代子にしばらく外に出ているように目でサインを送った。千代子はすっと立ち上がり暖簾を潜り抜けて出て行った。
「恵子、あの動画はさ、千代子の本当の姿だとすれば。症状を語る一つの映像として医師にも見せたらどうだろうね。参考にしてくれるんじゃないか」
「あ、それはいい考えだわ。世間様にあの女の淫売ぶりを暴露してやることができる。是非そうしましょう。細川君。あなたもついてきてね、だって撮影者なんだからさ」
「おう、もちろん一緒に行くよ。次の診察はいつだい?」
「明日の午前10時よ。千代子には黙っていてね、あの女、またどんな仕返しをしてくるかわからないから」
翌日の朝、恵子と佳夫は市バスで県立病院へ向かった。バスの座席に横隣りに座りながら、
「昨日は千代ちゃん、どこへ消えちゃったんだろうね。夕飯のときも電話したけど出ないし、夜中まで待っていたのに帰ってこないし、私もう心配で寝れなかったのよ」
「あぁ、なんか友達のとこへ行くとかなんとか言ってたな。ひどいよな、恵子にライン一本くらい入れりゃいいのにさ」
とにかく冷静なままの恵子を医師のところなで運ばなければならない。そのうえで医師にあの録画を見せよう。恵子はまた昨日のような悪態をつくにちがいない。しかしそれを含めて医師にありのままの姿を診てもらう必要がある。
診察室に入ると初老の男性医師が待っていた。
「先生、いつもお世話になっています。私は細川と申しまして、ここの小川恵子の高校時代の友人です。本来であれば他人の私が診察室に入るべきではないのですが、今日は私が撮影した動画を先生にどうしても見て頂きたく参上しました。それについては小川も了承しています」
「細川さん。患者の守秘義務の関係上、他人のあなたは診察室で同席はできません。しかしやむをえない事情がおありのようなのでご面倒ですがこの守秘義務契約にサイン願います」
佳夫はサインのうえスマホを机に置いた。
「これは今年の8月中旬に東京のある公園で撮影したものです。では再生します」
医師はジッとその動画を見つめていた。再生が終わると、
「すぐに入院の手続きをとってください。ステージ4に来てきますこのままでは小川さんは危険なことになります」
恐れていた言葉が遂に医師の口から出た。一方の恵子はなぜか今回は悪態をつくことはせず、
「これが、これが私なの。千代ちゃんのこと、こんなひどいことを言っているのが本当に私なの。信じられない、なにかの間違いだわ、この動画はインチキだわ」
そう言い終わるとその場で泣き崩れてしまった。初めて見る自分の症状、その醜い姿に恵子は驚き悲嘆にくれた。
入院した病室というのは刑務所の牢獄に似ていた。まずはカーテン付き鉄格子に鍵がかかっていて外には自由に出られない。トイレとシャワーも看護士と一緒に外に出る。病院内の中庭や図書室には決まった時間に看護士の付き添いで行くことになる。面会は一日30分だけ面会室で許可されている。ステージ4にまで症状が進むと、発作的に自殺をする患者もいるので、病室内へのヒモや刃物や尖ったものの持ち込みは禁止されている。こんな場所にまで押し込まれるほど恵子の症状は悪化していたのだ。
不幸なことに入院して恵子の症状は更に悪化していった。医師の説明ではステージ4まで進むとアルツハイマーや認知症を併発し、廃人同様になってしまうケースもあるとのことであった。ある日のこと、医師から佳夫と千代子は呼び出されて恵子の病状について説明を受けた。
「小川さんの症状には何か若い頃の辛い思い出がトラウマになっているようです。お見せ頂いたあの動画を詳しく分析してみたのですが、どうも永田さんに対する尋常ではない憎しみが潜んでいるようなのです。お話を伺った限りではお二人は幼馴染で無二の親友ということでしたが、それもまた小川さんには真実なのです。要するに二つの真逆の気持ちが小川さんの心を歪めてしまったようなのです。なにか心当たりはありませんか」
千代子は思い切って言った。
「先生、実は三人は高校の同級生だったのですが、ちょっと入り組んだ三角関係でもあったのです。そのことで小川さんは私を憎んでいるのかもしれません」
「ふむ、それではあなたと細川さんがお付き合いをしていて、それを小川さんが羨んでいたということでしょうか」
「いいえ、その逆です。付き合っていたのは小川さんと細川さん。でもその細川さんが私のことを本当は好きなんじゃないかと疑っていたようなんです。」
「はぁ、複雑ですね。それで細川さんは永田さんのことを好きだったんですか?」
細川は躊躇なく答えた。
「はい、本当は永田さんが好きでした。しかし小川さんの引力が強くて離れられなかったのです」
引力かぁ、面白いことを言うわね、細川君。千代子は言葉を継いだ。
「しかも私が細川さんのことを秘かに慕っていることを、小川さんは感づいていたのです。それ以来私と細川さんの仲を疑っていたのだと思います。もちろん実際には何ひとつありませんでしたけれど」
「なるほど、そういうことでしたか。小川さんは永田さんへの友情を壊したくないがために、無理に自分の心を捻じ曲げて友情を維持しようとした、いわば金属疲労のようにポキっと心が折れたのだと思います。特に細川さんが突然お二人の前に出現したことで、心のバランスを大きく崩したようです。もちろん原因はそれだけではありませんが、とにかく細川さんは症状が改善するまでは小川さんには面会されないほうが良いでしょう」
「先生、私はよいでしょう?」
千代子は拝み倒すような目で医師を見つめた。無二の親友のため、しかも病気の原因の一端が千代子自身にあるならば、できればつきっきりで看病したいくらいである。医師はしばらく考え込んでいたが、
「そうですね。永田さんが無二の親友であるというポジティブな部分に賭けてみましょうか。いずれこのままでは小川さんは廃人になってしまう危険がありますから。ただし面会時間は30分までとし、看護人のストップがかかったら直ちに退去してください」
翌日から千代子にとって地獄のような日が続いた。店の方はピンチヒッターで佳夫に午後だけ任せて、毎日病院へ足を運んだ。午後2時になると面会時間となるのだが、それはもう面会と呼べるような代物ではなかった。
「こんにちは、恵子ちゃん。日ごとに寒くなるけど体調はだいじょうぶかしら?」
「また来たな、この淫売!アタシをこんな狭い牢獄に閉じ込めておきながらよくそういう挨拶ができるものね。知っているのよ、アンタが佳夫と組んで院長をたぶらかして私を精神病患者に仕立て上げたことをね。アンタさぁ、そんなにまでして佳夫が欲しいの?アイツのどこがいいのさ?あ、わかった、あいつのカラダが目的なんだね、高校の時にアイツにオンナにしてもらって以来、アイツの事が忘れられないんだろ。そうそう、あいつのバック攻めは一級品だもんね、アタシも何度もしてもらったからよく知ってるけどさ」
卑猥で下劣な言葉にはもう慣れてきたつもりでも、恵子の口から憎しみの籠った声できかされるのは苦痛だ。しかしこんなことで怯んでいては30年以上の親友の価値はない。ここは必死に耐えるしかないが、はっと一つ千代子のことを思い付いた。もしかしたら恵子は自分でも虚言だと知っていながらわざと憎い千代子を卑猥な言葉で攻撃してくるのではないか。それを試してみたかった。
「いやだわ、細川君の得意技は騎乗位だったじゃない。私たちを上に乗っけて、下から突くあの技にワタシなんかメロメロだった。恵子も同じこと言っていたじゃないの」
恵子の表情が一変した。あの毒づいた恐ろしい顔から無表情な普通の顔に戻って黙っている。なにか自分の企みがバレてしまったようなイタズラ小僧のような顔だ。そして静かな声で恵子は言った。
「私たちって、結局は同じ男の子が好きだったんだわ。でも細川君は千代ちゃんが気になってしょうがなかったみたいでさ、ずいぶんヤキモチを焼かされた。細川君を取られたくなくって辛かった」
やっぱり先生の言っていた通り、細川君のことで恵子はトラウマを抱えている。そのトラウマを消そうとして千代子に凶暴になっている。凶暴な言動に怯めば恵子はますますつけあがる。今の騎乗位みたいな話で反撃に出れば大人しくなる。そう、恵子は自分の凶暴な言動を千代子に止めてもらいたいと潜在的に思っているんだわ。それだったら私にも覚悟がいる、彼女の卑猥な言葉には同じ言葉で返してやる必要がある。
面会が終わって今日の録画を医師に見せたところ、医師も少し驚いていたが
「いやぁ、永田さん、よくやってくれました。これは気が付かなかったけれど一種のショック療法、効果が期待できる。こんなに急に小川さんの心が鎮静するなんて思わなかった」
しかし翌日も、翌々日も面会のパターンは似たり寄ったりであった。ある日などは激高した恵子はテーブルの上にあったペットボトルの水を千代子にいきなり振りかけてきた。またある時は平手打ちをいきなりくらわせてきた。看護士はあわてて面談をストップさせるのだが、恵子は「アンタなんか死ねばいい。佳夫と一緒にあの世に行っちまいな!」と捨てゼリフを吐かれたときはもう限界かと思った。
家に帰ってさすがに佳夫の前で泣いた。もう2ヶ月も心を込めて面会しているのにほとんど進展がない。最初の何回かは例の反撃で好転するかと期待したが、最近は暴力まで振るわれ、おまけに「死ね」などという暴言を吐かれるまでになった。もう限界だわ、このまま続ければ自分の方が神経衰弱になりそうだ。
「永井、お前ホントによくやっていると思うよ。だけど小川がお前にヒドイ暴言を浴びせ続けてりゃ今度はお前の神経がやられちまうわ。残念だけれどお前との面会はあまり効果がなかったようだ。先生には控えるように言われているけど、明日一緒に面会に行かないか?最後の面会にな」
千代子も思いは同じだった。幼馴染でずっと一緒にこの町で過ごしてきた恵子、これからもどちらかが死ぬまで一緒に暮らしたいと心底願った。男女の恋愛ならばいつかは終わることがあろうとも、女の友情は終わることはないと信じていた。そしてそれを実践してきた。小さい町で苦しい時はお互いに助け合ってきた。でも思いも寄らぬ病気でその友情も風前の灯。もしかしたら明日の面会が最後となるかもしれない。千代子は悲しくて涙が止まらなかった。
翌日、千代子と佳夫は面会しに病院まで足を運んだ。佳夫の同席については医師も黙認してくれた。
面会に佳夫が来たことに恵子も少し驚いた様子だった。
「あら、久しぶりだわね、細川君。面会だなんてどういう風の吹き回しかしらね」
佳夫はちょっと居住まいを正しながらも
「いや、たまにはご機嫌伺いでもしようかって軽い気持ちだよ。どうだい調子は?少しは安定してきたのかなぁ」
「千代子と細川君がいるからちょうどいいから言うけど、もう私生きているのがイヤになりました。明日あたりこの世からおさらばしようかと思っているのよ」
また始まった妄想。こんなセリフは今まで何度聞かされたかわかりゃしない、と千代子は思った。
ここで怯んではだめだ、反撃しなければと思った千代子は
「あら、そうなのね、でも自殺しようにもこの部屋は監視が厳しいし、外には出れないし、もちろん院内では自殺する道具もないしね、困ったわね、恵子」
「いいえ、この2ヶ月、実はそのことばかり考えていたんだけれどある方法を思いついたのよ」
「そう、それでどういう方法?」
「あのね、青岩島の見える絶壁から海に飛び込むのよ。病院からの脱出方法だって算段してあるわ」
千代子と佳夫は何となくイヤな予感に捕らわれた。二ヶ月もの間、自殺方法ばかり考えていたというのは不気味だ。狂人は何をしでかすかわからない。
「また面会に来るからよ、まぁあんまり思いつめずに養生してくれよな」
佳夫がそう言うのが精一杯であった。恵子はそれに応えずにクルリと背を向けて面会室から出て行ってしまった。恵子のイヤに無表情で落ち着いた口ぶりが一層のこと不気味さを増した。
翌日、千代子は朝から仕入れ業者が小間物やらタンスやらを搬入する作業で忙しかった。本当は佳夫が手伝ってくれれば助かるのだが田舎町ゆえおおっぴらに一緒に店を運営するわけにいかないもどかしさがある。搬入作業が一段落し、熱い煎茶を飲みながら籐椅子で休憩していたところ、いきなりスマホが鳴った。イヤな予感のとおり佳夫からだった。
「千代子か、大変だ!恵子が行方不明だと病院からたった今電話があった。病院はくまなく探したがどこにもいないらしい。トイレで病室を出たその一瞬の隙を見て、看護人の目を盗んで外に飛び出したらしい。とにかく早く見つけないと取り返しのつかないことになるぞ」
千代子はピンときた。
「細川君、青岩島が見えるあの岸壁で飛びこむつもりだわ!早く、早く行かなければ」
「そうか!オレもチャリンコで飛ばす。お前も走って至急行ってくれ」
恵子のバカ!本気で自らの命を断とうとしているの?そんなの私が許さないからね。
店から岸壁まで上り約1キロの道のりだったが、自転車で全速力で向かった、心臓が飛び出しそうな鼓動をしている、目は赤く血走っている、死なないで、恵子…
到着するまで5分ほどであったが。1時間も経ったような気がした。自転車をその場でなぎ倒して岸壁のほうに向かったが恵子の姿はない。目を皿のようにしてもう一度見たがやはり見当たらない。なんだ、岸壁から飛び降りるなんていうのはいつもの妄想だったのかしら、それならいいんだけど、と思った瞬間、岩陰から幽霊のような細い恵子の姿が現れた。髪も綺麗に束ねなぜか長襦袢を着ている。完全に投身準備が完了している。ここで恵子を脅かしてはならないわ、そっと近づいて強引にねじ伏せないと、と思っていたら背後で佳夫の絶叫が聞こえた。
「おい、小川、早まったことすんじゃねぇ!」
そこで千代子は佳夫に叫び返した。
「細川君!ここは男の出る幕じゃない、引っ込んでてよ!」
あまりの形相の佳夫も後ずさりをしてその場で止まった。
イチかバチか、千代子は恵子ににじりよった。恵子はもう飛びこもうと思えばいつでも飛び込める位置近くまで来ている。眼下50メートルにはごつい岩と荒い潮が渦巻いている。一歩一歩恵子に近づいている、そしてまた一歩と恵子に近づいた。
「恵子、頼むから落ち着いて話をしよう、ね、お願い、恵子….」
「千代ちゃん、これまでありがとう。でも今日で私の人生も終わりにします。それじゃさようなら」
そう言い終わるか終らないかのうちに、あらかじめ強く握りしめていた千代子の右拳が恵子の左頬を思いっきり当たった。不意打ちを食らった恵子はその場に横転したが、千代子は猛獣のように覆いかぶさって右手、左手と拳で殴り続けた
「恵子のバカ!なんで私の気持ちがわからないの?どれだけ私があなたを必要としているのかわからないの?細川君なんかいつでも喜んで差し上げる、私はね、高校の時から細川君よりあなたのほうがよっぽど大切だったんだから。なんでそんなこともわからなのよ!」
千代子の涙はそのまま恵子の頬に落ちて行った。恵子は殴られるままにされてジッとしている。やがて千代子は殴るのを止め、恵子に覆いかぶさって号泣した。しばらくして恵子は鼻血を流しながら起き上がった。
「千代ちゃん、私ね、あなたのことを高校の時から無理やり親友だと自分に思い込ませていたのね。嫌いになったり憎んだりしたことだってあったのに。そのツケが今になって来たのかもしれない。あなたに殴られてやっと気がついた」
千代子も恵子の真横にすっと立った。
「恵子、それは私も同じだわ。細川君と楽しそうにしているあなたが憎かった。こっそりと細川君と付き合ってもみたかった。でも私も恵子は無二の親友だからとその気持ちをずっと抑えてきたの。考えてみたらずっと平穏に親友で何十年もいるなんておとぎ話みたいなものよね」
青岩島が雲間の切れ目にかすんで見えている。35年前の高校時代と全く変わっていない風景。あれから二人の心は紆余曲折したけれど、今は何もわだかまりがない。千代子と恵子は晩秋の柔らかい陽射しの中、微笑みながら生まれ育った海を眺めていた(完)
あなたが微笑む日