影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

(3)

 女は背中を向けて帰りの身支度をしていた。
 わたしの腕時計の針が、サイドテーブルにあるスタンドの淡い光りを受け、二時十分近くにあるのが見えた。
「これから帰るのかい?」
 わたしは体を動かさずに聞いた。
 女は、わたしがこの前と同じように眠っていると思っていたらしかった。わたしの声を聞くと途端に、不意を突かれでもしたかのように体を堅くした。
 それでも女の立ち直りは早かった。狼狽する気配はまったく見せずに背中を向けたままで、グリーンのざっくりした布地のスーツに腕を通した。ほっそりした華奢な背中だった。わたしの手の中には、まだその感触が残っていた。
 身支度の終わった女は、すぐにハンドバックを手にして中を探った。わたしの方を振り返ると、
「素敵な夜を過ごさせて戴いたお礼だわ」
 と言って、再び、二枚の一万円札をテーブルの上に置いた。
 女はわたしと視線を合わせようとはしなかった。
 わたしはベッドに横たわったまま黙っていた。
 女はわたしに背中を向けると、無言でドアの方へ歩いた。
 なんの未練も残さない綺麗な歩き方だった。
「今度はいつ、逢って貰えるのかなあ」
 わたしは右腕で頭を支え、横向きの姿勢で女の背後から、やや皮肉を込めて声を掛けた。
 女はドアの前で足を止めた。
「分からないわ」 
 と、振り向きもせずに言った。迷いのない声だった。それでも、わたしを拒絶するような強い響きはなかった。
「おれ、またあのバーにいるから」
 女は答えなかった。黙ってドアを開け、出て行った。
 わたしはベッドの上で仰向けに転がると天井を見詰めた。なんとなく、忌ま忌ましい思いがあったが、それだけでは女を憎み切れない気がした。
 いったい、あいつはどんな女なんだろう・・・・?
 何処となく落ち着いた雰囲気は人妻のようでもあったが、実際には、そのようには見えなかった。
 あるいは、何かの仕事を持っているのだろうか・・・・?
 それ以上の想像は出来なかった。
 わたしは、ふと思い付くと、ベッドからとび下りた。女の後を付けてみよう・・・・ 
 手早く身支度を整えると部屋を出た。
 --女がホテルを出たとしても、まだ間もないはずだ。急げば女がタクシーをつかまえるまでに間に合うだろう。
 外に出るとすぐに、女が深夜の路上を、大通りへ向かって歩いて行く姿を見付ける事が出来た。
 わたしは足音を殺しながら、五、六十メートル程の距離を置いて、女の後を追った。
 女は大通りへ出るとタクシーに向かって手を上げた。
 タクシーは一台、二台と走り去った。
 わたしは別のホテルの塀に体を張り付けて、女に気付かれないようにした。
 ようやく何台目かのタクシーが女の前に停まった。
 女を乗せたタクシーが走り去るとわたしは、大通りへ向かって走った。女を見失いたくなかった。
 女がタクシーを拾った場所まで来ると、ネオンサインや街灯の明かりの中に、女を乗せた黄色い車が遠ざかって行くのが見えた。 
 わたしは走ってその後を追いながら、空車のタクシーが来るのを待った。
 女を乗せたタクシーはその間に、どんどん小さくなっていった。見失ってしまうかと思われた時、信号が赤に変わって女の乗ったタクシーが停まった。
 わたしは、なお走り続けながら、後ろを振り向き振り向き、タクシーの空車を探した。
 信号が青に変わる寸前に、ようやく一台の空車をつかまえる事が出来た。
「あの黄色いタクシーの後を付けてくれない? 礼はするよ」
 わたしは息を切らしながら言った。
「左端にいる車ですか?」
 初老の運転手は言った。
「そう」 
 --車が何処をどう走っているのか、新宿以外の街を知らないわたしには分からなかった。
「お客さんは座席に横になって、体を隠していて下さいよ」
 運転手は前の車に視線を向けたまま言った。
 わたしは座席に深く体を沈めて、かすかに前方の車が見えるようにした。
 運転手は物馴れた様子で、車が込み合う時には自分の車を、女の乗ったタクシーのすぐそばまで近付けて行った。わたしの方が、気付かれてしまうのではないか、と心配した。
 信号灯の下で真後ろに付けた時、運転手は言った。
「恋人(かのじょ)ですか?」
「いや、違う」
 運転手はそれで何を思ったのか、あとは何も聞かなかった。
 深夜の街は車が渋滞するほどの混雑もなくて、信号以外で停車する事もなかった。
 車が住宅街に入ったのか分かった。
「ここは何処かなあ?」
 わたしは周囲に樹木の多い通りを見透かして聞いた。
「目白ですよ。椿山荘の近くですよ」
 十数メートル程先を走っていた車が速度を落とし、やがて停まった。
「あっ、停まりましたね」
 前の車にならって速度を落としていた運転手は言った。
「でも、ここで同じように停まるのはまずいなあ、ゆっくり、あの前の方へ行ってくれない?」
「いいですよ」
 わたしは座席の背もたれに張り付くようにして、五千円札一枚を運転手に渡した。
 停まったタクシーの横を通過する時、ちょうど女がタクシーを降りた。
 女はゆっくりとそばを通り過ぎるタクシーを気にする様子もなかった。そのまま、少し後戻りをして行った。
「ここで停めてよ」
 わたしは女の後ろ姿を確認してから言った。
 

影のない足音 新宿物語(2)

影のない足音 新宿物語(2)

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-07-17

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