こわれる

 人間に対して「こわれる」という言葉を使うようになったのはいつからだろう。何となく、それと前後して、人間がしてきた仕事を機械が受け持つようになったのではないかと勘ぐってしまう。
 
 仕事の場において誰かが「こわれた」という時はだいたい、泣いたり怒ったりの感情的暴発、あるいは通常ならできる判断力を失って思考停止、などだろうか。原因はほぼ、精神的な重圧、ストレスという奴である。
「こないだヤマダさんがこわれちゃってね」などと、軽い調子で話せるうちは、「こわれる」も「きれる」のバリエーションで、そう深刻とは思えない。しかし知人の職場にいるスズキ君は、かなり派手に「こわれた」。
 きっかけはミーティングだった。そこでスズキ君の仕事にミスのある事が発覚したのだ。といってもその場の雰囲気は彼を責めるものではなく、取引先を巻き込む前に判ってよかった、という安堵の方が大きかった。
 だが、生真面目な性格のスズキ君は自分を責めた。ミーティングを終えて自席に戻るなり床に倒れ伏し、文字通り七転八倒して暴れまわった。そばにいた後輩の女子社員はパニックに陥って上司を呼びに走った。しばらくしてスズキ君は冷静さを取り戻し、「ご迷惑をおかけしました」と周囲に詫びた。
 その翌日、社内に異様な音が響いた。何の工事も行っていないはずなのに、ハンマーか何かで壁を叩くような音がするのだ。非常階段から聞こえた、というので総務の社員が確かめに行くと、踊り場の壁に血痕が残されている。
 誰かが足を踏み外して怪我でもしたのかと騒いでいると、うつろな目をしたスズキ君がふらりと現れた。彼の額はぱっくり割れ、だらだらと流血している。すぐに病院へ連れて行ったが、謎の騒音は彼が壁に頭を打ちつける音だったらしい。
 その後しばらくして、スズキ君は上司と話し合い、負担の少ない部署へと異動する事になった。新しい部署では何事もなく過ごしているらしい。
 
 実は我が社でも、過去に「こわれた」人が何人かいるらしい。私より社歴の長い人によると「女性が辞める時はこわれちゃう人が多くて、男性は急に来なくなる人が多かったなあ」という事だが、恐ろしい話だ。「こわれるって、どんな感じに?」と突っ込んでみると、「なんか泣きながら、もう無理です、できません、すみません、みたいな感じで社長に訴えてたよ」という答えだった。
 あんまり目にしたくない光景である。
 だがそういう人がいても不思議ではない。なぜならうちの社長は立派なパワハラ体質だからである。彼の言う事を真に受けていたら、知らず知らずのうちに「自分が悪い」と思い込まされるのは必至。「自分の事は棚に上げといてよく言うよ」ぐらいで流しておいて調度よい。
 そしてかなり屈折しているので、育てよう、と思った相手にやたらとからみ、無理難題をふっかける。どうも社長本人は課題を与えて相手を伸ばそうと考えているらしいが、全くの見当違い。これを社員の間では「かわいがり」と呼んでいる。
 ターゲットロックオンされた人間は遅かれ早かれ退職する。これもある意味で「こわれた」という状態だが、一連のやりとりが何に似ているかというと、子供とカブトムシだ。
 子供はカブトムシを非情に気に入り、暇さえあればつかまえていじくり回す。そしてある日突然、カブトムシの脚がポロっともげてしまう。どうして?僕、可愛がってただけなのに。まあこんな感じである。カブトムシの迷惑なぞ知ったこっちゃない。

 そういえば私が入社した時の前任者も、ほぼ「こわれて」いた。入って二日目の朝だったと思うが、職場へと歩いているその前を前任者がとぼとぼと歩いていた。彼は少し歩いては立ち止まり、すごい勢いで髪をかきむしっては、また歩き出す、を繰り返していた。
 この人大丈夫かな、と思っていたら、引き継ぎ三日にして遁走してしまった。未処理の仕事は山積していて、役員である社長の親族が彼の家に何度も電話をして出社を促したところ、父親が出て「いい加減にしろ!辞めるって言ってるだろ!」とすごまれたそうだ。役員は「ヤクザかと思ったわ」と驚いていたが、お互いにいい勝負である。
 そして今、社内には「こわれかけ」た人が一名いる。もちろん社長の「かわいがり」あり。何が危機的状況を実感させるかというと、彼の独り言である。といっても、傍に人がいる時はとりあえず普通。だが、後ろ手に事務室のドアを閉めた途端に「あーもう俺が何やったってんだよー」といった心の叫びが噴出する。
 本人は聞こえていないつもりだろうが、全部筒抜けだ。その声が廊下を遠ざかるのに耳を傾けながら、本格的に「こわれる」前に逃げてほしいと思ったりする。まだ二十代、探せばもっとましな職場が見つかるはずである。
 ただ問題は、彼が逃げるとそのしわ寄せがとんでもない勢いでこちらに押し寄せる、という事。そうなると、次は私が「こわれる」番だ。

こわれる

こわれる

こわれた人、職場にいますか?

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-17

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