ボレロの日 二幕

よしの かい

ボレロの日 二幕

「ボレロの日」二幕

 師走のホームの混雑は忙しなさを一層感じさせる。
その朝、絵美は熱っぽくだるい感じを引きずったまま電車に乗り込んだ。車内の乾いた暖房は人いきれに混じってむっとして咳き込みそうになる喉を余計刺激した。吊り革に身を預ける様に揺られていると一駅目で目の前の席が偶然空き、珍しく座ることが出来た。
会社のある駅まではまだ二十分程の時間がある。
絵美はマスクを抑えほっと息をつくとそのまま目を閉じた。
どうやら俄かに熱が上がって来た様で悪寒も感じ始めていた。足元の通気口からの暖気は心地良く躰を温め始め思わずうたた寝に引き込まれてしまった。
うつらうつらした意識に不意にアナウンスが流れ込み、はっと気がつくと電車は降りる駅のホームに滑り込んでいた。
「─あ、降ります降りますッ─」慌てて立ち上がりドアから駆け出た時右の足首に激痛が走り思わずその場に蹲ってしまった。

最悪の体調で足も引きずるようにして事務所に入ると自分の机の上にポインセチアの鉢が置いてあった。
「─かわいい」絵美は小さく声を上げた。
中央の黄色い小さな花も可愛らしいが変色した葉の深い赤色が趣深く絵美の好きな花だった。
「─いいねえ美人さんは。モテて」週に一度来る掃除のおばさんが笑いながら言った。
誰からだろう─?思い当たりを巡らせかけた時、メールの受信音が鳴った。
『─まだまだ缶詰状態から抜けだせずにいます。好きだって言ってた花を贈ります。少し早いけどメリークリスマス─』研修生からのメールだった。

「─何だよ。どうしたんだよ。何で飲まねえんだよ、オイ」早くも酩酊した様子で係長が男に絡んだ。
週末、所内全体での飲み会が催されていた。
「─始まったよ、ほら」悦子が笑いを手で隠して絵美を見た。
「─ったく何だよ、シラケるなあ」
男は何と言われようと酒を口にしようとしなかった。
「─珍しいよね、あの人が飲まないなんて。いつも先頭きってオダ上げてんのに」悦子が笑った。
絵美も笑顔を返したが足首の痛みが酷く、思わず顔を顰めた。
軽い捻挫だと診断されたが歩く度ズキン、と時には耐え難い痛みが走る。風邪の症状も抜けず鈍い頭痛が続いている。飲み会は欠席しようと考え申し出たがただでさえ少ない女の子が宴席にもいないのは困る。始まりだけでもいいから─、と幹事に懇願され止む無く出席した。
「─大丈夫?」心配そうに悦子が窺うように絵美を見た。
「─うん」絵美は頷いたが足首を触ると幾分腫れ上がり熱を持っているような気もした。
少しだけ口をつけるつもりで飲んだアルコールのせいか痛みはドクンドクン、と脈動に合わせ迫り上がって来るようだった。
座が盛り上がり始めた頃を機に絵美は漸く帰宅を許された。
「─ホントに一人で大丈夫?送ってくよ─?」ほろ酔いの潤んだ目で悦子が言った。
「─平気平気、途中でタクシーでも拾うから」足首を擦りながら絵美は応えるとおもむろに立ち上がった。
店の外へ出ると途端に吹きつける木枯らしに思わず身震いした。道幅の広い往来に車は渋滞していたが少し歩いてもタクシーは見当たらなかった。
タクシー乗り場のある駅までは歩けばまだ結構な距離がある。一旦店に引き返しタクシーを呼んでもらおうかとも考えたがまた社内の誰かに会えば先に帰る理由を一々説明しなければならない、と考えるとそれも面倒に思えた。
色取り取りの美しいイルミネーションに飾られた街のあちらこちらから聞こえてくる一足早いクリスマスソングの間を縫うように足を引きずりながら何とか歩いているとふと花屋のショウウィンドウに目が止まった。
小さなツリーのディスプレイに混じってポインセチアの鉢が整然と飾られている。
冬の寒い時期を択んだかの様に深い彩りを纏い凛、と張った光沢のある葉を見ているとどこか気高い意志を発している様な気がする。ふと研修生の顔が浮かんだ。
暫く立ち止まって眺めていると突然、後方で短いクラクションが鳴りハザードを点けた車が目の前の路肩に止まった。
運転席が開き降りてきたのは男だった。
「その足じゃ大変だよ。体調も良くなさそうだぜ。送ってくよ─」男は笑顔を向けてそう言うと少し驚き躊躇っている絵美の肩にそっと手を回しながら助手席のドアを開けた。

 その晩は中々寝つけなかった。
ピンクのルージュを落とした唇にはまだ男の唇の温みが残っているようだった。頬の火照りが治まらず今になって胸が高鳴っている。
ベッドから起き上がりドレッサーに映る自分の顔を見つめてみる。
どうして受け入れてしまったのだろう─。自分の気持ちが解らなかった。
酒宴で酒を口にしなかったのは初めから自分を送り届けるつもりだったからだと男は言った。
『─前から惹かれてたんだ。色々言われるけど俺はそんなにいい加減な男じゃない─。真面目に考えてる。恋人として向き合ってくれないか─』自宅近くの路側に止めた車内で言った男の言葉が蘇る。
返答に窮し戸惑った絵美の肩に手を添え、男はそっと唇を寄せてきた。
容易に拒むことも出来た筈なのに─。思い返すそのシチュエーションは待ち焦がれた理想の恋の一場面そのものだった。
『─愛があれば、歳の差なんて、ね』そう言って笑った悦子の顔が浮かんだ。
ベッドに横たわり目を閉じても脳裏から男の顔が離れなかった。言葉を思い返すと切ない気持ちが迫り上がり心が甘く疼く様だった。
男の好意を驚くほど素直に受け入れられたのはどこかに同じ気持を抱いていたからなのかと考えると改めて自身の心の移ろいを不可思議に思えた。
絵美は枕元からスマホを取ると男の番号を検索した。
もう一度真意を確かめたい気持ちもあった。躊躇いながら発信しかけたその時ふと、
『─こいつらの親権の事でね』そう言って塞いだ男と待受にあった子どもたちの顔を思い出した。
─そうだ。あの人には奥さんも子供もいたんだ。
別れたとは言っても家族がいる─。これからも繋がり続けていく血を分けた家族がいるんだ─。
浮足立った気持ちが速い速度で萎えていくのを感じ迷いながら絵美は発信ボタンを押した。

 翌週からの仕事はまさに修羅場の様だった。
日常業務に加えまだ完了していないシステム変更の打ち込み、年末年始の為、営業から提出される前倒しの書類の監査等、事務方のデスクには未処理の帳票類が山積されていた。
先年度からコスト削減のため本社において大規模な人員削減が行われた。営業部でも正規の事務は絵美一人で後は定時に引き上げてしまうパート二人で全ての事務処理をこなしている。
父親の立場を考えるとオーバーワークの不満もうっかり漏らすことさえ出来ない。日に日に鬱積していく疲弊をそれでも我慢出来ているのは男の存在があるからだった。
時には事務所で仕事をしながら、時には待ち合わせを調整し合いながらほとんど毎日、束の間の時間を惜しんで重ねる逢瀬が楽しみで励みになっていた。
誰の目を気にする事もない遅い夜の往来で手をつなぎ歩き食事を楽しみ、そして愛を確かめ合った。
『─遊びなんかじゃない。─本当に最後の恋愛だと思ってる。─少し時間は掛かるかも知れない。けど、俺たちの先が開けるよう必ずクリアしていく。好きなんだ─。ついて来てくれ』受話器の向こうで男はそう言い切り言葉に嘘は微塵も感じられなかった。
何かをきっかけに全てが変わってしまうことがある。絵美の窮屈でただ時間に追われるだけの日常は途端に華やぎのある日々に変わった。
行き着く先はまだ考えも及ばなかったが、今は空虚だった心に突然投げ込まれた花束の艶やかさに魅かれていたい、と思った。
忙しなく帳票を処理しながらふと机の端に置かれたポインセチアの鉢に目を遣った時、
『─可哀想だよ。勘違いさせちゃ─』不意に悦子の言葉が耳に蘇った。

「─あのさあ酷くねえ?俺の気持ち、知ってるよね」怒りを露わにし、ぞんざいな口調で研修生が言った。
成る程、自らを直情型だと公言していた研修生の剣幕は想像していた以上で絵美は目を上げることが出来なかった。
「─よりによって何であいつなんだよ。─家族も護り切れなかったダメ男じゃねえか─」吐き捨てる様なあまりな言い方に目を上げ思わず反発しようとしたが辛うじて言葉を呑み込んだ。
普段から言動に問題があるとされている男の本質を今更説明しても意味が無い。今何を言っても現実に恋愛関係にある絵美の言い訳にしか聞こえない筈だ。
「─ごめんなさい」そう応えるしかなかった。
メールや電話では実直に想いを表してくれた気持ちに失礼かと思い相談がある、と絵美から食事に誘った。
旨そうに湯気を立てていた広島焼きが冷めかけている。
小上がりの座敷に向かい合わせに座りつい先刻まで交わしていた談笑が嘘のようだった。
「─幾つだか知ってんの?あいつ絵美ちゃんより、一回り以上歳上だぜ─?しかも子持ちなんだよ?小学校の高学年を筆頭に息子が三人もいるんだ─」研修生は苛立った様に煙草を取り出し火をつけると、
「─上手く行く訳ねえだろ、そんなもん。親だって許す訳ねえじゃねえか─」そんな無遠慮な言葉を煙と一緒に吐き出した。
「─うん」そうよね、そう言い掛けた時突然声が詰まり造ろうとした笑顔が強張ると不意に目から涙が零れ落ちた。
「─何だよ、ったく。こんなとこで泣くなよな─」一瞬鼻白んだ様に研修生が声を顰めた。
堪えようと俯いた目から涙が止めどなく流れた。
「─相談があるってその事かよ。なら、冗談じゃねえよ。何で俺がそんな相談受けなきゃなんねえんだよ」駄目押しの様に叩きつける言葉に耐え切れず絵美は立ち上がると店を飛び出した。
止まらない涙の視界の向こうに揺れる二重三重に滲んだ色取り取りのネオンの瞬く通りを絵美は顔を伏せるようにして急いだ。
街の喧騒から遠ざかり見知らぬ住宅街にある公園が見えると漸く気持ちが落ち着いてきた。
白色の鈍い外灯に照らされたベンチに腰掛けスマホを取り出すと男の番号を検索した。
「─もしもし」間もなく少し籠もった男の声が聞こえて来た時心の奥底から新たな悲しみが迫り上がってきた。
「─もしもし、どうしたの─?」気遣う様な優しい声に縋るように絵美は思わず嗚咽を漏らした。

 その晩、何度か枕元で軽い振動音を聞いた様な気がしたが深夜に帰宅し心身ともに疲れ切った眠りの中の深い意識は醒めなかった。
電話での様子を心配して迎えに来た男の車の中で長い時間泣いた。何度も理由を訊かれたが答えなかった。
研修生の憤りは予想以上だったが怒りに任せたぞんざいな物言いに傷ついたとか罵倒された悔しさからとか、そんなことが涙の理由ではなかった。
まだ始まりかけたばかりの自分にとっては真剣な恋の行方に漠然とだが計り知れない不安を感じたからだった。
目覚めてから直ぐに着信を確かめると発信は悦子からだった。
着信は三度あったが留守電には何も入っていない。ラインを辿ってみたがそこにもメッセージはなかった。
何か緊急の用事ではなかったのだろうか─。
まだ早い時間に少し躊躇ったが発信してみると長い呼出音が鳴った後、留守電になった。
絵美は首を傾げた。相手にも常識を求める悦子が何か特別の用がない限り深夜に連絡してくることは考え難い。また何のメッセージも残していない事が気に掛かった。
「─ごめん。何か急な用事だった?寝てて気づかなかったの。─返信ちょうだい─」取り敢えずそうメールを発信した。
 悦子は短大からの友人で営業所では庶務を担当している。お互い真逆と言っていい性格からか反ってウマが合うのだった。男勝りで決して美人とは言えないが人に言わせるとどこか男好きのする顔をしているらしい。歳上好みが災いし学生時代には妻子ある教授に恋をしてしまい相手の家庭をも巻き込み周囲に大いに迷惑を掛けた事があった。
当然実る筈もない恋の行方を本人も自覚していながら一途に恋愛に陶酔していく姿には圧倒れるものさえあった。そして失恋が決定的になった時の人目を憚らない悲しみ方は鮮明に記憶に残っている。

 いつもより少し遅めの時間に出勤すると狭い庶務課の机に悦子はいなかった。
時刻はとうに九時を回っていた。
「─まだ連絡ないのよ。困るわねえ、連絡なしに遅れたりしちゃ─」年配の女性社員が忙しげに伝票を捲りながら言った。
事務所に入ると研修生が目を上げたが視線が合うとあからさまに不機嫌な表情をして席を立って行った。
男の姿は見えず予定欄には「直行」の文字が記されている。絵美は憂鬱な気持ちを引きずったままパソコンの画面に向かった。
結局その日悦子は無断欠勤した。
入社以来ずっと模範的な勤務を通してきた悦子が無断で休むなど予想もしなかった事だ。
携帯に何度かけ直しても留守電になったままで流石に心配になった絵美は悦子の住むマンションを訪ねることにした。
経済的にも合理的を主張する悦子は駅から程無い築年度の古いマンションをルームシェアして借りている。
「─良く平気だよね。ネットで知り合っただけの人とルームシェアだなんて」絵美が言うと、
「何言ってんのよ。無駄のない、無理のない同居よ。当然部屋も別々だしプライベートも万全。利害関係の全くない赤の他人が一番なんだから、─色んな工夫してお金貯めないと、いつまでたってもお母ちゃんと暮らせないからね」そう言って笑った。
悦子の母は悦子がまだ幼い頃に父親の放蕩癖が原因で離婚し詳しいことは本人も話したがらないが現在は病気療養の為、とある施設で暮らしていると聞いた。
「─散々苦労してわたしを短大に行かせてくれたの。一日でも早く恩返ししないと」自らを叱咤するようによくそう言っていた。
人二人がやっと並べる程の狭いエレベータに乗り最上階の五階の一番北側奥の部屋が悦子の部屋だった。
くすんだベージュ色の塗装のドアに可愛らしいクリスマスリースが飾られている。表札はなくドアホンの下に「小南(こなみ)」と書かれている。並んで蒲田と記されているのがルームメイトなのだろう。
少し躊躇いドアホンを押そうとしたその時、突然中から慌ただしい音が聞こえドアが開いた。出て来たのはルームメイトと思われる女性で大きなバッグを持ち何故か蒼白に立ち尽くしていた。
「─あ、あの、わたし─悦子の会社の同僚で」絵美が言い掛けた次の瞬間、
「ああ、良かったあ─」女性はそう言って悦子の手を握るとそのまま膝から崩れ落ちてしまった。

「─発見が早くて良かった。胃をきれいに洗浄しましたから、もう大丈夫ですよ─」年配の看護師が言った。
ルームメイトの話によると早朝、夜勤明けで帰宅するといつもなら起きだして出勤の支度をしている筈の悦子の姿が見えなかった。珍しく寝過ごしているのかと思い気を回して簡単な朝食を用意した後、部屋のドアをノックしたが返事がなかった。
何度かノックした後そっとドアを開けてみると布団も掛けずに寝入っている悦子がいた。声を掛けても反応もなく最初は眠りが深いのかと思ったが揺り起こそうとしても微動だにしない。ふと気づくとベッドの下に白い錠剤が散乱しているのに異状を察し慌てて救急車を呼んだのだと言う。
「─かなりの量の薬を飲んでしまったと思われます。目覚めても一日二日は意識朦朧としてるかも知れませんね─」担当の医師が淡々と言った。
集中治療室の扉の向こうに伏せている友の容態を窺い知る術もなくただソファに腰掛け途方に暮れている。親友を自負していたが急を報せるべき先さえ知らない自分が不甲斐なかった。
『─自殺、かも知れない』ルームメイトの言葉が耳に蘇る。万が一そうならばもがき苦しみ抜いた理由と経緯がある筈だ。自分が悩み苦しい時いつも傍にいて手を差し伸べてくれた。真夜中の着信を思い返す。あの時電話に出ていれば彼女は思い余ることも無かったかも知れない。
「─ごめんね」呟くと同時に涙が頬を伝った。
心細い気持ちで取り留めなく思いを巡らせているとメールが入った。
「─どうしてる?」男からだった。
絵美が縋る思いで突然の出来事を伝えると暫くして、
「迎えに行く」とだけ返信があった。

車内でも男は口数が少なかった。
絵美の話す一連の出来事をただ黙って聞いているだけだった。
「─自殺かも知れないって」絵美が悲痛な想いを口にしても、
「─そう、か」とどこか上の空の返答をするだけで後は押し黙ったまま遠くを見る目でハンドルを握っている。
国道をしばらく走った所で男は不意に路肩に車を停めると助手席の絵美を見つめた。
落ち始めた雨粒がフロントガラスを濡らしていた。
男は一瞬何かを言いかけたがすぐに開きかけた口元を結んだ。
「─どうしたの?」絵美が問いかけると、
「─いや、いいんだ」そう言うと小さく息をつき車を発進させた。
男が言いかけたことが唐突に起きた悦子の事故のことなのかまだ行き詰まりのある男自身のことなのか分からなかったが、その時は親友の身を案じるばかりでそれ以上は考えることも及ばなかった。

締め切ったカーテンの隙間から入り込んでくる曇天の午後の弱い光を絵美はぼんやり見ていた。
誰が練習しているのだろうか、窓伝いにピアノの練習曲が聞こえてくる。マナーモードにしているスマホがまた震えた。
一昨晩から繰り返し入る男からのメールを見る度不意に悲しみが衝きあげ涙がこみ上げる。
泣き腫らしこすった瞼は重く熱く感じ軽く指を触れるだけで鈍い痛みが伴った。
『─どうして?』絵美が男に向けた最後の言葉だった。
意識を取り戻した悦子を見舞った絵美は病室で信じ難い事実を打ち明けられた。
まだ怪しい呂律の聞き取りにくい言葉でだが彼女ははっきり男を名指し思い余った要因を男への思慕がこじれたもの、つまり男に失恋したからだと訥々と語ったのだった。
まさに寝耳に水だった。思わず聞き返すと悦子はもう一度男の名をあげ実らなかった恋を告げた。
どうしていいのか分からなかった。
遅い時間の男との逢瀬は初めは余儀なくされた残業が所以だったが職場の他の人間に悟られぬ絶好の条件でもあった。
男が親権を含めた様々な問題をクリアしていない以上、自分達の先も開かれることはない。逢瀬自体はときめき待ち遠しいものだったが大人として秘密裏に行動しなければならないことは恋愛経験の浅い絵美も承知していた。だが男と秘密を共有しどこか有頂天になっていた自分の影で悲しみに塗れ思い余った親友が事実いたのだ。
「─彼女と付き合った覚えはないよ。一方的に言い寄られて迷惑してたんだ」蒼白に詰め寄った絵美に眉を寄せて男が言った。実際、彼女のストーカーまがいの行為が夫婦関係をこじらせる要因になったのだ、とも言った。その言葉に決して言い訳がましい響きは感じられなかったが絵美は自分の心が急激に冷え切っていくのを感じた。
『─早くお母ちゃんを楽させてあげたい』悦子の言葉が耳に蘇った。
「─でも関係は、─関係は、あったんでしょ?」そう言い確かめるように男に見つめると男は一瞬合わせた目線を逸らせ応えずに煙草をくわえた。しばらくの間の後、
「─ひどいんじゃない?」震えた声で絵美が言った。親友を、例え一方的であろうとも真剣な気持ちを軽んじられた。そんな憤りが頭をもたげていた。
「─ごめん。けど、─本当に一度きりだった」ようやく男が応えた。
「─ひどいわ」絵美はもう一度言った。鼻の奥から悲しみがゆらゆらと迫りあがってきた。
男はつけかけたライターの火を消すと絵美を見つめ何か言いかけたがすぐに口を噤んだ。
「─どうして?」長い間の後、ようやく出た言葉だった。男への詰りなのか男との交際を悔いるべき自分への問いかけなのか分からなかった。
絵美は黙って車を降りた。男は術がないように見送るだけで止めることはしなかった。
師走の夜の雑踏をただやみくもに歩いた。止め処なく溢れ出る涙が寒風に触れ頬を冷たく伝った。

携帯が再び震え始めた。絵美は着電の相手を確かめることもせずそっと枕の下に押し込むと泣き疲れた目をじっと閉じた。

「あ、これね、本当は暖かいとこが大好きな花なんだよね─」陽あたりの良い窓際に置いてあるポインセチアの鉢植えを覗き込むようにして男が相好を崩した。
大柄の躯を屈め振り返った笑顔が子どもみたいで絵美は思わず小さく笑った。
「お好きなんですか、その花」絵美が訊くと、
「あ、はい。何か、好きっす。か、かわいいから」男が応えた。
素直な感想がなぜか嬉しく感じた。
「今日は少しあったかいっすね。あ、そこに座りましょう─」笑顔を崩さずに男が言った。
言われるまま絵美がベンチに向かうと男は慌てて先回りしてベンチの汚れを大きな掌で払うようにした。
「─よし、さ、座りましょう」男が言い、絵美はその大仰な仕草がおかしくてもう一度笑った。
新たな年を迎え絵美は初めてのお見合いに臨んでいた。

「─ごめんね、本当に」事件から数日後退院した悦子は驚いたことに出社してくると何事もなかった様に周囲にも振る舞い絵美に向かって赤い舌を出した。
会社には体調が悪いということで有休の申請を絵美が代理で済ませていて当然実情を知る絵美と男が一連の出来事を他言することはなかった。
「─ホントに、もう」呆れ顔でため息をつく絵美に悦子は舌を出したまま手を合わせ頭を下げた。だがその晩誘われた居酒屋で悦子は思いもかけぬことを吐露したのだった。
「─本当に?」絵美は耳を疑った。
「─うん。お胎の中で育ちきらなかった、の」不意に表情を曇らせて悦子が応えた。
言葉がなかった。絵美は蒼白に悦子を見つめた。
「知ってるの?その、─あの人はそのこと」やっと訊いた。
悦子は首を横に振ると目線を落とし、
「望んでなかったもの、あの人はそんなこと─。覚えてるでしょ?学生の時と同じ─」そう応えて薄く笑った。
─もう、だめだ。終止符を打ったとは云え今更男との関係を告白することなど到底出来やしない。絵美は血の気の引く思いの中贖罪の機を逸してしまったことを知った。 
悦子は言うとおり学生の頃一度、辛い堕胎を経験していた。相手は通う大学の教授だった。
「─一度、殺したんだもん。どんな理由があろうと、自分の子を─。当然だよね、ばちが当たって─。婦人科で言われたんだ。着床しても育ちにくい胎盤になったんだろう、って─」悦子はそう言うと不意に俯きしばらく微動だにしなかった。
辛さが悲しみが重く伝わってき、絵美も言葉を失くしたままただ項垂れた。

イヴの晩絵美は男と向き合っていた。
もう一度ちゃんと話がしたい。店を予約したから、と云う男の誘いをかたくなに断りあえて駅前の雑踏にいた。
寒風に乗って乾いたクリスマスソングが賑やかに錯綜していた。
男はじっと絵美を見つめていた。
「─もう一度、考え直してくれないか」長い間の後男が口を開いた。
「─無理よもう。はじめから、無理だったのよ─。周りを不幸にする恋なんて、─はじめからしないほうが、─しないほうがよかった─」思わず声が震えた。冷淡に別れを言い放つつもりだったが感情が先走った。
「─さよなら」やっと言うと背を向けその場を去ろうとした。次の瞬間、絵美は自分を追ってくる男を想像した。
─いけない。私はまだ恋心を残している。そう思うと同時に今度は打ちひしがれた悦子の顔が浮かんだ。絵美は明らかに自分を見送っている男の視線を振り切るように、駅の階段を駆け上がった。


「─大丈夫っすか?寒くないっすか?」不意に男の声が間近に聞こえた。
「え、─あ、はい。大丈夫です」絵美は夢から覚めた様に慌てて応えると改めて男を見た。仕事柄なのだろう。きれいに刈った短髪と髭もきちんと剃ってある。
「─絵美さん、あ、絵美さん、って呼んでいいっすか?」絵美の目線を照れたように逸らしスーツの内ポケットからハンカチを出しながら男が言った。汗かきなのか額には大粒の汗が浮かんでいる。男はその汗を拭きながら、
「あ、はい」絵美が応えると、
「あの、何が好きっすか?」男が訊いてきた。
「─え?」質問の意味が分からず聞き返すと、
「─いや、あの。寿司のねたっす」男が言い、
「あ、自分はエビ、エビが一番っす」と続けた。
絵美は思わず吹き出しそうになった。
「そうか。板前さん、でしたっけ。お仕事」辛うじて笑いを堪えて絵美が訊くと、
「あ、はい。じきに花板っす」男が応えた。
「花板?」絵美が訊くと、
「あ、はい。会社で云うと一番大将。社長のことっす」男は大きな胸を張ってそう応えた。その時、俄かに強い北風が吹いた。
「寒っ─」絵美が言い思わず着物のスツールを胸元に引き寄せると男はすっと立ち上がり着ていたコートを脱いで絵美にそっとかけた。
「あ、─すみません。ありがとう」絵美が見上げて礼を言うと男は真っ赤に頬を染めて何故か頭を深々と下げた。
男のコートは温かく絵美を包み込み、フワッと懐かしいお日様の匂いがした。

                了

ボレロの日 二幕

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