激情
「チョットーーーー」
幼児の無邪気な声は響き、暫くして又
「チョットーーーー」
その時ばかりは、他人に干渉する事を人一倍嫌う私でも、近所迷惑という常識を一通り説きたくなるような姦しさが、繰り返し外で響いていた。
「チョットーーーー」
じりじりと迫る暑さは段々と己の頭を覆って、苛立ちが浮かんでは風の音に耳を澄まして誤魔化した。会社もなくなり、友人も無く恋人も無く頼る人も無い。この虚しく悲しい人生を恨むこの長年の劣情を、一時の感情でそこの見知らぬ幼児に打つける訳にもいかない。
親に職を探せと毎日急かされてはいるが、当て付けの様に私は只好きな本を読んで好きな音楽を聴いた。ミステリーのトリックは私の中にある興味という感情を一から十まで虜にして夢中にさせた。勤めていた頃は仕事に疲れてしまってそのまま読めずにいたものだ。新鮮さと刺激という点に関しても申し分がなかった。読み終わってからも、戻って伏線部分をトリックと照らし合わせたり、主人公の台詞の言い回しを何度も辿ったり、衝撃を受けた展開を頭の中で思い返したり、自分だったらこういうストーリーを加えるだろうと想像したり、私の現実逃避は忙しかった。一ヶ月もそうしていた所為だろうか。そんな日が一日でも欠けてしまうことがあれば、私の心は落ち着かなくなってしまった。失った時間を取り戻す様に、家に戻って飯も風呂も放って趣味に没頭した。気付けば季節が変わり、過ごしやすい日中の空気はいつの間に熱に魘される日照りの陽気に包まれていたのが、実に煩わしく思えた。
「チョットーーーー」
よく分からない幼児の繰り返しの声はちっとも笑えない。幼児が呼び止めると違う声が何か応答している。ケラケラと偶に楽しそうな笑い声を含むから多分遊びの一種なのだろう。こんな一日の中で一番日の高い時分に、自制も気にせず駆け、叫び、笑い、そうして日が沈んだ頃は、なんの恐れも知らず、健やかに、ぐっすりと寝静まるのであろう。夜中に目が覚めて、音も光も、助けもない世界に恐れをなしたりなどしないのだろう。したとしても、その近くには親という絶対的な頼りがあるのだろう。
机に置いてあるアイスコーヒーはすっかり温くなって、結露でびっしょりと濡れたコップをタオルで拭いた。
「チョットーーーー」
「チョットーーーー」
コップを拭くとコースターの下に付いた埃が気になって、そのまま机全体を拭く事にした。コップは一度キッチンに避難させ、散らかった本も一度ベッドの上に追いやり、すっきりした机の上を綺麗に掃除した。埃や汚れのない机で飲むコーヒーは、心なしか先程より美味しい。
「ウルサイ!」
「キャアアア!」
しかしこのままで私は一体どうなってしまうのだろう。金も無限ではない。ということは今の暮らしもいつかは限界がくる。何時迄も部屋に篭って居てはいけない。だから?だから何だ。そう思う程生きていく理由などどこにもないではないか。いや・・・そんな事は思っても思い切れない・・・何度も考えた事だろう・・・それでも死ぬ勇気もないのだから、結局私は生に執着しているのだと・・・。
もしこのまま、今浮かび上がったこの激情を抑える事なく行動したとしたら、このどうしようもない苛立ちの理由が分かるのだろうか。趣味に没頭しようとも喜ばない心も、特に拘りのない人生を尚も生きてゆく謎の執着も、定期的に湧き上がる世に対する恐怖も。
突然知らない大人の男が迫って来たと思ったら、思い切り頰を叩かれて、さぞかし恐ろしかったであろう。少年はこれでもかという程の、地の割れるような大声で、叫び、泣いて、母親に縋った。その母親も震えながら、驚きと怯えの目で此方を見上げた。其処に集まっていた子供も、親も、全員瞬時に静まり返って、その集団の一人が何か行動を起こす間も無く私が、「近所迷惑なのが分からないのか、何度も何度も、繰り返し大声で!」と頭を抱えると、保護者らしき男の一人が謝罪を述べて、取り敢えず落ち着いて下さいと言った。激情の治まった私の様子に、特に周りも騒ぎ立てず、私を刺激しない様にとの配慮なのか、静かになった。逮捕だとかそういった大事にならなかったのは、私が若い青年であった所為もあったかもしれない。近くにあった交番のお巡りが駆け付けたが、署で事情をあらまし聞かれただけで、直ぐに帰された。恐らく「職探しも上手くいかなくて、ムシャクシャしていたのか?」という質問に「はい」と答えた所為であったろうし、少年を叩いた以外に害を成す様子だったり、暴れたりがなかったからだろう。それと、私の知らない所で、近くの企業が倒産したのを知っていて、平日も休日もなく街を歩いている男を見て、あいつもその被害者の一人なのだろうと、もしかしたら日々噂していたのかもしれなくて、其れなら一時的に心を病んでの事だろうと判断されたのかもしれない。とはいえ逮捕されないのは幸いだったし、周りに犯罪者として警戒や好奇の目に晒されるのも本望でない。平和が一番だし、誰にも気にされたくないに決まっている。だが、だからと言って・・・。
私はまた同じ日々を過ごしている。只、以前よりも趣味に楽しみを感じなくなったことは、何だか釈然としない。
激情