壊した町
秋の上刻、男はうすら寒さに目を覚ました。だけど、眠りに落ちた頃のことをよく覚えていなかった。深夜に一度、目を覚ました時には、隣町の、栄えも廃りもない中の、店の名前も雰囲気もよく思い出せないくらい何の変哲のない店で買った、特にこだわりもなく部屋に置いておくに無難な様子の、胡桃の木で出来た椅子に、いつも通り腰かけていたはずだった。大方、いつもの自分の悪い癖で、食事のあと本を読みながらそのまま寝こけてしまったのだろうと思った。
男は目を覚ました。胡桃の椅子は、ごく一般的な家の居間などにある、普通の四つ脚のある椅子だった。座椅子ではない。男は自分の投げ出された体をぼうっと眺めた。首を下に向けなくても、己の足先が見えた。
ぱくぱくと、鯉が水面で餌を求めるように、自分の意志で指先を動かしてみた。やはりそれは己の足だった。正しく座れば肩甲骨程までしかない椅子の背は、今は男の後頭部を支えていた。知らぬ間に、自分の体は投げ出されていた。道に捨てられた人形のようだった。
まるで捨てられていた。
周りは水辺と瓦礫に溢れ、
脚のない椅子の上に放り出されていた。
男の手の埋まる位に一面水に覆われて、昨晩の暮らしは見る影もなく、愛用していた部屋の履物が少し遠くで旅に出るように遠ざかって行き、膝の隣では昨日飲んだ紅茶のコースターが沈み、机の上にあった本は消え、置き時計が四時半を指して止まったまま、ぷかぷかと浮いている。壁に掛けてあったカレンダーは水に浸かり、その殆どが滲んで読み取れない。「私のスケッチブックがない」本もない。慰めの為に書き散らかした原稿もない。割れたペンからインクが漏れ出して、水の中にじわじわと黒の煙を描いている。全て滲んでくすんで掠れて男の愛した紙媒体はどこにもない。自己愛を満たす為に集め記した愛や恨みや恋やときめきは今やどこにもない。花を紙で工作したあの春も、風鈴の音が愛しいあの夏も、様々な景色を絵にしたあの秋も、好きな布で暖かさを感じるあの冬も、全て失われた。
風が吹いて水で冷えた男の体を更に冷やした。ぞわぞわと鳥肌が立った。扉が半端に開いた電子レンジがぎい、ぎい、と小さく鳴いた。右の方で黒い画面のテレビが、斜めに、半分は土の中に埋もれていた。その側に置いてあったはずの、好きな画家の絵を収めた額縁は、やはり消えていた。怖かった。見渡した先全て土の上にばら撒かれた瓦礫である。しかしこの世界を超えた先には誰かがいる。誰かの生活がある。人々が、暮らしの為に、其々の生の為に、日々道を歩いている。だというのに、自分には、この崩壊した家しかない。自分で壊したこの家しか持たない。それは他人に見せるには恥でしかなかったのだ。
男は目を覚ました。見せつけるように周りには真実しか広がっていない。自分を愛する為に、自分に尽くす為に、縋るものをどんどん増やしていった。己の暮らしを少しずつ壊して売りながら。そのことを思い出したのだ。ああ、床がないのは自分の所為だった。壁がないのは自分が壊したからだった。屋根がないのは、金がないのは、愛したものがないのは。
無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い・・・・・・・・・・・・・・・。
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吐き気がする者共がやがて私を助けにくるまで、男はここで待たなければならない。一人では生きられないから仕方のないことなのだけれども、他人は私を理解していないのに心配してくる。だから吐き気がする。人に関して私は私以外愛したくない。花なら愛でたい。「花の種類なんて、数える程しか知らない癖に」男は、やっと、起き上がって、少し泣いた。もう根から離れてしまって、花びらも汚れてくったりと沈んだ、元は綺麗だったであろう花がそこにあるのに、全く名も知らなかったからだ。男は全身水に浸された上、泥に塗れた体を引きずりながら、その花を拾い上げた。
土と水ならここに溢れる程ある。次は花屋にでもなろう。
壊した町