Fate/defective c.12
第9章(1/2)
「なんか、きな臭いんだよな」
夕食のシチューをスプーンですくって、ハルが呟いた。
「臭い? 部屋は掃除したんだけど」
「違えよ。きな臭いってのは、戦いの気配がするってことだ」
僕は少し深く息を吸ってみた。が、シチューの匂いしか入ってこない。首をかしげる。ハルは眉根を寄せて、スプーンの上のニンジンを見ていた。
「サーヴァントの気配か」
「ええ!」
僕は慌てて立ち上がった。だが、ハルは微動だにせず座ったままだ。
「いや、違う……遠いな。かなり遠い。だが、なぜこんなに遠い気配を察知できるんだ?」
ハルが独り言を言う。今度は僕が眉をひそめた。
「どういうこと?」
「あー…、つまりあれだ、普段は感知できないものを感知しちまった、というか。サーヴァントはサーヴァントの気配を感知できるが、それは個体差による。俺は普通なら半径1キロくらいが限界なんだが…これは多分、3キロくらい離れたところにいるサーヴァントだ」
「な、なんでそんな遠くのサーヴァントの気配を?」
僕が問いかけても、彼は返事をしなかった。じっと視線を一点に集中させ、固まったように動かないでいる。そういう間がしばらく続いた。
「…ハル?」
ハルはスプーンを置いて立ち上がり、次の瞬間には武装をしていた。状況を呑みこめない僕に歩み寄り、肩をつかむ。
「『討伐令』が出た。監督役がおいでなすったようだぜ」
英霊は、人間に極めて性質が近い。よって、生きた人間の魂や精神を食えば、サーヴァントの魔力の強化、補充ができる。
だが、そもそも聖杯戦争は秘匿を前提に行われるため、「サーヴァントの魔力を補充するために人間狩りをしよう」と考える魔術師はほとんどおらず、よって一般社会に影響を与えるようなことは起こらない。……はずだった。
「討伐令」が出たということは、一般社会に影響をきたすほど破壊的な参加者がいるということだ。聖杯戦争の秩序を守る監督役がサーヴァントの討伐令を出すことは極めて珍しく、同時に、聖杯戦争が異常な局面に陥っていることを示唆していた。
「ハル。どうして討伐令が出たってわかったの?」
ハルに抱えられて夜の住宅街を飛ぶように走りながら、僕はかろうじて尋ねる。風がごうごうと耳元で吹き荒れた。
「監督役が直接俺に念話を仕掛けてきた。ちょうど霊体化したとき、マスターと会話するみたいにな」
「監督役ってそんなこともできたの?」
「さあな。俺だって聖杯戦争に参加するのは初めてだから、他の監督役がどうかは知らねえが、……」
ハルはその後も言葉をつづけたが、風がひどくて聞き取れない。僕がもう一度聞こうと口を開いた時、彼の方が早く言った。
「あそこらへんだな。あれは…でかい広場か?」
ハルが指す方に視線を向けると、ビル群の中に広い土地が開けている場所がある。噴水に、多くの花壇。かなり整備されているし、あれは、
「日比谷公園じゃないか……あんなに人が多いところにサーヴァントがいるのかな」
「有名な土地か? 一般人の気配は全く無いが」
ハルが住宅の屋根を蹴ってひときわ高く跳ぶと、眼下の日比谷公園の様子がよく見えた。深夜という時間帯と、最近の連続行方不明事件もあってか一般人は一人も見当たらない。僕ははっとした。
「そうか…最近のあの通り魔事件は、人喰いになったサーヴァントの仕業かもしれないな」
「かもな。あ、あそこじゃないか? 噴水のあたりに誰かいるぜ」
「よし、慎重に降りてくれ。隙を見て背後から襲い掛かれば、ハルの毒槍で少しは動きを抑えられるかも」
僕がそう言って眼下に再び視線を戻したとき、大噴水のあたりで何かが光った。それから風向きが変わる。
一瞬、すべての空気の流れが止まった気がした。あれだけうるさくなびいていた髪や服の裾が、ぴたりと真空に閉じ込められたかのように動きを止める。劇場で、演奏の前の拍手が鳴りやんだ後、楽器の音が響き始める前の一瞬の空白のような、そういう「無」が辺り一帯を包んだ。
「第一宝具、展開――― 此れは永遠を損ない、生命の首を狩るもの。神聖を以て不浄を絶て――― 『不死身殺しの鎌』」
瞬間、閃光が目を焼いた。
「ハル!」
「分かってる―― 」
ハルが噴水の方へ向かって勢いよく跳んだ。木々を掠めるように通り過ぎ、僕たちは噴水の近くの芝生の上に叩きつけられるように着地する。
僕が体を起こすと、既にハルは紫の槍を構えて立っている。その険しい視線の先には、背の高い一人の外国人の老人が塔の様に直立していた。
彼は、はっきりとした声で言う。
「フム。ランサーのサーヴァントと、そのマスターだね。実によい面構えだ」
「あんたが、討伐令を出した監督役か?」
ハルが低い声で尋ねた。老人は後ろ手を組んだまま、フンと鼻で笑う。
「いいや。ワタシはアーノルド。あそこにいるバーサーカーのマスターだ。ケルトの戦士、ルーンを持つランサーよ」
アーノルドと名乗った男の背後に目を向けると、黒いマントに大鎌を持った、赤髪の青年が目に付いた。あれがバーサーカーなのだろうか。何となく死神を連想してしまう。それに、この魔力量―― 宝具を放ったのか。そのサーヴァントから少し離れたところに、二、三の人影を見つけて、僕ははっと息を呑む。
ハルは不愉快そうに鼻面にしわを寄せた。
「何だァ? 嫌な爺だな、出会って早々に真明看破とは、不愉快ここに極まれりって感じだな」
「ハハハ。君の持つ槍を見れば一目瞭然ではないか。臓物の毒に漬けていなければ柄さえ燃え上らせるとかいう、魔性の槍。英霊になったことで槍は制御できるようになったか……常に毒水を纏わせているね。恐ろしい、それに一度でも刺されればあの世行きと見た」
ぺらぺらと喋り続ける老人に、ハルはあからさまに嫌悪を浮かべていた。槍の柄を地面に突き立て、怒りを含ませた声で直言する。
「おい、俺たちは別にマスターには用はねえよ。さっき討伐令が出た、お前のバーサーカーに用があるんだ。死にたくなかったらどいてろ」
「それは困るねェ。討伐令だか何だか知らんが、ワタシにはあのサーヴァントが必要なのでね」
僕はハルの方を見た。彼も僕を振り返り、目で訴えてくる。『このマスターの生死にこだわるか』と聞いているのだ。
「……」
僕は答えに詰まった。マスターは人間だ。できることなら命を奪ってはいけない。サーヴァントさえ倒せば、ただの魔術師に戻る。だが、そのサーヴァントの死を阻害するなら、或いは―――
いや、それでは僕の願いのために人間を殺すことになる。そんなことがあってはいけないはずだ。「人に認められたい」なんていう願いのために、たとえ邪魔ものだったとしても人間の命を奪っていいのか?
僕の考えは堂々巡りを始めた。いつもこうだ。大事なことを決断する時に限って、一つの答えを選べない。焦って、自己嫌悪を始める。ああ、こんなだから僕は――
頭がぐるぐると同じことを考え始めたとき、肩を勢いよく叩かれ、はっとして目を上げた。すぐ近くにハルの顔があり、その真紅の目は僕を一直線に見据えていた。
「焦んな。お前の願いのために犠牲になる奴なんて一人もいない。できるだけ死傷は負わせないように戦う、人間相手にはな」
「……分かった」
ハルは満足そうな、強気な笑みを浮かべると、槍を大きく薙いでアーノルドの方に向き直った。
「もう一度言う。邪魔だ、どけ」
アーノルドは目を細めて邪悪な笑みを浮かべた。
「断る、と言ったら?」
その瞬間、目の前からハルの姿は消えていた。地面を蹴り穿った跡を目にした時には、もうすでにハルはアーノルドの頭上にいる。
「老いぼれ魔術師は―― 引っ込んでな!」
「ハハハ! それも断ろう!」
毒に濡れた槍の穂先がまっすぐに額めがけて飛び込んでいくのを、アーノルドは魔術の防護壁でいとも簡単に撥ね返した。ガツ、という甲高い音の次に、ハルはその防護壁を支えにして棒高跳びの様に高く跳びあがる。着地し、バーサーカーの方へ駆けていくハルを見てアーノルドは苦笑した。
「なるほど、ワタシなど初めから眼中に無しか。ランサー」
「あったりまえだろうが! 魔術師なんて殺してなんになるんだよ、クソジジイ!」
「まあそう言うな」
アーノルドが人差し指をひらりと振ったと思ったら、僕の足に何かが巻きついた。
「うわ!?」
完全に油断していた僕は足首に巻きついたそれを見て息を呑んだ。これは…腐乱死体の腕だ。皮膚がビニールのように変質し、青黒く変色している。
「キミはサーヴァントを倒すのが目的かもしれんが、ワタシはキミたちが消滅すればいいのだよ。さあマスター、死んでくれ」
「な…! てめえ、卑怯者が!」
ハルが叫んだ。僕は既に大量の腕に手足を押さえつけられ、完全に身動きができない。手足は完全に固められ、骨がぎしぎしと軋む。
「マスターを殺せばサーヴァントも消滅する。効率の良い戦術をとったまでだよ、キミ」
一瞬で、頭の中が恐怖で埋め尽くされた。
しまった。どうしよう。痛い。早く魔術を使って何とかしないと。でも、僕はこの術を使いこなせたことがないんだった。いつも、どこかで失敗をして――
パニックに陥りかけたとき、こちらに駆けてくるハルの姿が見えた。
……落ち着け。
今なら、大丈夫だ。確証は無いのに、なぜかそんな気がした。
僕は震える喉で、恐怖に支配されそうな脳からやっとの思いで呪文を引っ張り出す。
「Set, first-order equation……Exrpcet……!」
アーノルドが視界の先で、ほう、と声を漏らした。
「なるほど。時計塔の第一次魔術式か。キミ、時計塔の魔術師だな」
右手に死体の腕の指が食い込み、今にも折れてしまいそうだ。僕は嫌な汗が額を伝うのを感じながら、やっとの思いで言い切る。
「Ninth, liberation and dignity! 」
叫ぶと、手足に絡みついていた死体の腕が銃弾に貫かれたように一度に弾け飛んだ。……良かった、上手くいったのだ。
身体を起こし、アーノルドを睨みつける。老魔術師は、余裕の顔つきで僕の視線を受け流した。
「なるほど。気丈なものよ。これも聖杯への『欲』ゆえか?」
その眼が一瞬、氷のように冷たくなったのを僕は見た。だが、すぐに彼は首をかしげて呆れたポーズをとる。
「ハッハッハ、若造は元気でよろしい。だがやはり、ワタシの望みのためには消えてもらわなければならない。残念だが――」
アーノルドは芝居がかった仕草でチャコールグレーのジャケットを脱ぎ捨てた。僕とハルは彼を挟んでじっと構える。
その老魔術師は、実に愉快そうに、顔をぐしゃりと歪めて笑った。
「Unlocking. agitation. Manifestation.―― さあ、これがワタシの魔術だ。良く味わい給えよ」
僕は眉をひそめた。こんなに短い詠唱で、何を……?
その時、ハルが叫んだ。
「マスター! 後ろだ!」
ビュ、と風を裂く音がして何かが現れた。
黒い手だ。地面の中から、まるで黒曜石で作ったような艶やかな何本もの手が生え、僕の頭をがっしりと抱え込んだ。
マスター、と遠くでハルが叫んだのが聞こえる。僕は為す術もなくその手に頸椎を折られる瞬間を待っていた。
が、手は僕の頭部を抱えただけで何もしてこない。むしろ、ひんやりとした腕はどこか心地よく感じられる。
――― あれ、僕は何をしていたんだっけ。
酷い眠気に似た感覚が僕を埋め尽くし、静かな湖面に小石が落ちるように僕の意識は沈んでいった。
Fate/defective c.12
to be continued.