君にこの手紙が届く頃、
僕は死んでいるだろう。
こう書くと、なんだかイマイチ実感がわかない。そこらに五万と転がっている小説にも、こんな感じの文は載っているだろう。本好きの君のことだ、きっとこのフレーズを沢山読んできたはずだ。
でも、嘘じゃないんだ、フィクションなんかじゃない。僕は死ぬ。
癌なんだ。もう、末期だ。
老いた人は進行がかなり遅いと聞いてはいたが、そうでもないかな。半年前に診断されてから今に至るまでで、もう僕の体はボロボロらしい。正直、ペンを握る手も震えてるんだ。読みずらかったらごめん。でも、最後の手紙くらい僕の書く文字で伝えたいんだ。
まず何から書こうかな。あまり手紙を書かないから、出だしから焦る。
そう、まずは君に謝らなければいけないことがある。結婚式を挙げなかったことについてだ。
親に反対されて、逃げるように隠れるようにして結ばれたあの当時、僕達には金が無かった。家を借りることも出来ず、たまたま見つけたネットカフェで過ごしたね。他の客に見つからないようにして、廊下の隅でキスをした。親に申し訳ないことをしたという罪悪感と、だけど自分達は自分達の力でやってのけた事への高揚感とで、僕達は生き、今を謳歌した。若さもあったのかもしれない。
あの頃、僕たちには今しかなかった。明日は二の次だった。今お互いがいれば、お互いが求め会えれば、将来はどうでもよかった。いや、そう考えることさえ忘れていたね。だから僕達は結婚や結婚式を言い出さなかった。
あれから50年。籍を入れ、生活が安定し、お互いの両親と和解し、授かった3人の子供たちが自立してもなお、結婚式は挙げなかった。
僕はどうでとよかったよ、式なんて。でもね、君はどうだったんだい?式を挙げるべきという常識ではなくて、僕はむしろ君の想いが心配だった。
結婚式を挙げたいという素振りさえ見せなかった君が、実は結婚式をあげたかったが気を使っていたのか、それとも本当にどうでもよかったのか、僕には今でもわからない。
上の娘が君に、どうしてお母さんとお父さんの結婚式の写真が無いのか、と聞いたことがあったね。旧友の結婚式に出席して、最後にみんなと写真を撮った帰りだった。
僕はその時、心臓が大きく跳ねた。娘のその問に、君がどういう答えを返すのか心配になったからだ。私もしたいものならしたいわ、と悲しんだらどうしよう。この男と結ばれたせいよ、と僕に向かって怒り始めたらどうしよう。今更そんなことどうだっていいの、と何もかも諦めたようにため息をついたらどうしよう。あの時初めて、僕は君の心の中を、本気で考えたんだ。滑稽だろう。僕は君の幸せを第一に考えてきたつもりが、君が我儘や願いをいうことがほとんど無かったことに、初めて気がついたんだ。
君はニコニコ笑って、娘の頭を撫でただけだった。娘もそれが嬉しかったのか、ジャれるだけでその後は何も言わなかった。言葉が交わされない、そのことがますます僕の頭を不安にさせた。
あれから子供たちも成長して場の空気を読むようになったのか、はたまたどうでもいいのか、僕達に結婚式の話題を振ることをやめた。僕も、君の思いを聞いて傷つくだろうことが嫌で、結婚の話題は徹底的に避けるようになった。必然的に、結婚式、という言葉は僕達の間から消えた。つまり、僕は君と向き合うことから逃げおおせたのだ。
君は今、どう思っている?結婚式を、挙げなかったことについてだ。
女性は結婚式に憧れるだろう?いや、男の俺だって、旧友の結婚式を見た途端、あの幸福で満たしたような場の空気間に圧倒され、同時に実は羨んだ。
別になくたって生活はできる。だけど人生の喜びは財産だ。潤いだ。優しさだ。
僕は君に優しく出来ていただろうか。
死の淵にたって、今更思うことがある。果たして、君は幸せだっただろうか。僕は君を幸せに出来ていただろうか。
僕はもちろん幸せだったよ。言いきれるさ。君という伴侶の傍に居れたこと、子供に恵まれたこと、両親と今でも仲良く出来ていること、長生き、できたこと。僕の人生は最高だった!はっきりと言えるさ。
でも君は?君はどうなんだい。
君は僕といて幸せだと思えたかい?
どうしてこんなことを考えるのだろう。
君が死んだ時も思わなかったのに。
僕といることが、君の幸せだと信じてやまなかったからかな。こう自分が弱り始めると、途端に不安がってしまう。飛んだエゴイストだよ。どうして、今まで1度たりとも話し合わなかったくせに。
考えてたら、何か変わっていたかな。君が望むなら、僕は君と分かれることも、承諾できたはずだ。駆け落ち同然だったあの日の夜も、子供が宿ったあの水曜日も、君が苦しんだあの投薬生活も、君が僕の手を振り払えば僕は迷わず離れた。思えば何もかも、僕がやり始め、そして君が受け止めてくれていたね。受け止めてしまっていた、だったらどうしよう。君に僕は何も返せていないじゃないか。
いや、本当にそうだろうか。頭ではそう出来ても、きっと僕は君から離れられなかっただろう。僕はエゴイストだから。
向き合わず、離れもせずに、だからこそ僕はここで懺悔の手紙を書いている。
手紙?
ああそうだ、これは手紙だったんだ。なんだなんだこれは。
今読み返したが、これじゃあ手紙とは言えない、乱文の集まりではないか。
こんなもの、君が受け取ったら困ってしまうな。我ながら文才の無さに、今更嫌気が指してく
そこまで書いて僕はペンを置いた。ペンのキャップ部分についている金属とプラスチックの机がぶつかる音が、静観とした病室に広がって闇に蕩けた。
ふと、窓に目を移すと満月がポッカリと浮かんでこちらに光も注いでいる。青白いんだか金色なんだか、よくわからない色だ。だけども、美しい。
僕は光に目を焦がされることを感じながら、目を閉じた。視界が漆黒に変わる。自分以外誰も存在しない病室だから音は消え失せている。誰かの配慮だろうか。時計すら置かれていない。
無音、無光の世界は、僕に孤独と眠りをもたらす。僕は微睡んだ。
死者は、何も語らない。神様はどうして、せめて死んだ者との会話を許してくれないのだろう。君に会いたい。会って話がしたいよ。
失ったら初めて価値に気がつくなんて、嘘だ。失って後悔して、自分の身に危険が及んでから価値に気がつくんだ。嗚呼、それなら大して変わらないか。
君が悔やんでるか、それとも喜んでいるのか、それを最も知りたいのに、確実に分かることといえば僕の死。ただそれだけが事実としてある。
怖くも悲しくもない自分の死に、月も星も笑うように輝くばかりだ。
いよいよ睡魔が襲ってきた。
視界の黒が一層濃くなり、手足がふわりと浮くようにして感覚が消えてゆく。
死ぬ時は、こんな感じで周りと溶け合うのだろうか。自分、は消えるが、世界、の一部になる。宇宙の一部になって、またいつか、何かの命の一部になるのだろうか。
その時、君はいるかな。
君と何かの拍子に出会えたら、いいな。
その時はちゃんと、心の底から謝りたい。
僕は眠りの世界に引きずり込まれてゆく。
君にこの手紙が届く頃、