影のない足音 新宿物語(2)
影のない足音 新宿物語(2)
(2)
「あの女はよく来るのかい?」
わたしは、この前のバーテンダーになに気なく聞いた。
「いえ、初めて見えた人ですね」
二十歳を少し過ぎたぐらいに見えるバーテンダーは言った。
それで、なんとなくわたしは、女はもう、この店に来ないのではないか、と推測した。金を置いてゆくという行為の中に、手切れ金の意味を含ませた、女の無言の意思が込められている、そんな気がしたのだった。
その夜、わたしが「蛾」へ行ったのも、また一つ馴染みの店が出来た、ぐらいの、単なる気まぐれからだった。女に会う事への期待など、気持ちの片隅にも持っていなかった。
時間はキャバレーの呼び込みを済ませた後で、十一時を過ぎていた。扉を開けたとたんに女の姿が眼に入って、わたしは足を止めた。
女はカウンターの一番奥まった席に一人、ぽつねんとして座っていた。入り口に近い両端のカウンターには、若い男女の一組と、中年の男連れの一組がいた。
女が顔を動かした気配はなかった。それでも女は、カウンターの奥の棚に並んだグラスや酒の瓶を映し出している鏡の中で、わたしを見ていたらしかった。わたしが真っ直ぐ女の背後に近付き、並んでスツールに腰を下ろしても顔色一つ変えなかった。
「今晩は」
わたしは言った。女の返事も待たずに、
「随分、久し振りじゃない?」
と、顔をのぞき込むようにして続けた。
女はわたしの顔を見ようともしなかった。
「そうでもないわ」
と、冷ややかな横顔で言った。
「いらっしゃいませ」
この前の若いバーテンダーではなかった。初めて見る顔の、三十歳ぐらいで穏やかな感じの、やせぎすな男だった。
わたしはウイスキーを注文した。
女の前にあるグラスには、空色をしたきれいなカクテルが三分の二ほど入っていた。
わたしは忙しなくポケットからタバコを取り出して火を付けた。それから一気に煙りを吐き出して、
「ここへは、よく来ていたの?」
と、指に挟んだタバコを燻らせながら聞いた。
女は黙っていた。
バーテンダーがカウンターの上でグラスを滑らせ、わたしの前に置くとウイスキーを注(つ)いだ。
「この前、どうして帰ったの? 眼を覚ましたら、あんたがいなくてびっくりした」
女はそれでも黙ったままで、グラスを口に運んだ。
「二万円、有り難く貰っておいたよ」
わたしは皮肉を込めて言った。
「おれを"ワル"だと思ったの? それとも、おれを買ったのかなあ」
わたしはさらに皮肉っぽく、女を問い詰めた。
女はなお、黙っていた。
「別に、心配しなくても大丈夫さ。遊びなれているから」
女は腕の陰に置いてあったタバコの箱から、細く長い一本を取り出して、赤いマニキュアのきれいな指にはさんで唇に運んだ。
わたしは百円ライターで火を付けたてやった。
店内では、若い男女の一組がいなくなっていた。中年の男連れと、わたしと女だけになっていた。
--いつの間にか看板の時間が来ていた。
女の白い顔が酒気をおびて、ほのかに上気しているのが分かった。
気付いた時には、中年の男連れもいなくなっていた。
--約束したわけではなかった。それでも女は、わたしを嫌がる風ではなかった。わたしたちは連れ立ってバーを出た。
女はタクシーの中で座席の背後に頭をもたせ掛け、眼をつぶった。
ひどく静かな印象だった。
女が自分から話しかけて来る事はなかった。
わたしには、女が何を考えているのか分からなかった。
女はベッドの上でも、芯の溶けきれない硬さを残していた。
3
わたしはそのあと、また、少し眠ってしまったようだった。眼をつぶり、女の様子をうかがうつもりでいたものが、気が付いた時にはどれだけかの時間が過ぎていた。
影のない足音 新宿物語(2)