瑞成堂。今日も日本晴れ! ~おれの恋と和菓子修行~
第一章 修行の朝
朝四時。三月の空はまだ暗い。おれは布団の中で眠い目をこすった。もう朝か。冷たい空気が肌を刺し、温かい寝床から出るのをためらいたくなる。甘えたな気持ちの隣では、兄弟子の大和さんがもう作務衣に着替えていた。
「お前も早く起きて、着替えろよ」
そう言って、作務衣と同じ藍色の三角巾を短く刈り上げた頭に結び終えると、足早に部屋を出て行った。おれも布団をしまうと、遅れて身支度を始める。
調理場に行くと、大和さんはもう食材の吟味を始めていた。
「今日もお願い致します」
「おう。今日もよろしくな」
一礼をして挨拶をすると、たった一人の兄弟子はいつもの返事で返してくれた。
おれは普段、こんな丁寧な言葉は使わない。だが、師匠の教えで調理場での朝一番の挨拶は目上の者に敬意を払えと厳しく言われていた。
棚から小豆を茹でる大鍋を取り出し、水で洗い始める。
「うっ、冷てぇ!」
おれはこっそり声を漏らした。
調理場で使う水は井戸水なので本当に冷たい。菓子の材料として使う水を自然水にしている店は多いが、うちでは器具の洗浄や調理場の掃除まで、すべての水を井戸水にしている。少しでも水道のカルキ臭が入ってしまうと繊細な菓子に傷を付ける。これは玄宗師匠のこだわりなのだ。
早春の朝には、この水の冷たさが寝ぼけた頭に強い刺激となる。これが一番下っ端に与えられた最初の仕事だ。
おれは翔平。和菓子の老舗、瑞成堂に弟子入りして二年目を終えようとしている。一応これでも、調理の専門学校は出ているのだ。本当は菓子なんか興味無かったのだが、高校までの柔道で鍛えられた体力と体育会系の根性が職人向きだとおだてられ、その気になってしまった。
最初の頃は掃除や雑用ばかりだったが、一年前から菓子作りの手伝いに関われるようになった。和菓子の世界はとても奥深い。様々な食材に工夫を凝らし、四季折々の風景を作り出す。この世界に今ではすっかり魅了され、早く一人前の職人になりたいと修行を重ねている。
「翔平、鍋は準備できたか」
大和さんが芋や百合根の吟味を終えて、一晩水に漬けた小豆のボウルを抱えてきた。
「はい。大丈夫です」
おれはコンロの上に洗った鍋を準備すると、その場所を兄弟子に譲る。
これから極上のあんこを作るのだ。美味しい井戸水を十分に吸い込んだ小豆を鍋に入れると強火にかけた。
大和さんはもう五年目の兄弟子だ。東京の老舗和菓子屋の息子で、和菓子職人の修行としてこの店で働いている。いずれ実家の店を継ぐ筋金入りのサラブレットだが、熱心に駄馬なおれの面倒を見てくれる。最初は軽率な気持ちで飛び込んできたおれに、大和さんは和菓子の「わ」から教えてくれた。普段は頼りがいのある優しい兄貴だが、おれがたるんでいる時は厳しく叱ってくれる。その言葉には、弟弟子を真剣に育てようとしてくれる思いが伝わってくる。それに、大和さんは何よりも自分自身に一番厳しい。毎日の仕込みや作業で忙しいはずなのに、夜は寝る間を惜しんで菓子の勉強を重ねていることも、おれは知っている。
大和さんは小豆の鍋に目を逸らさない。水を沸騰させてしまうと、中の小豆が暴れて傷が付いてしまう。だから、微妙な火力の調整や刺し水を加えたりして二時間ほど煮続ける。その間は鍋の前に立ちっぱなしになる。
時々、小豆の一粒一粒を確かめるようにヘラで丁寧にすくい、煮ムラが出ないように注意を配る。おれは一挙手一投足を早く身に付けたいと、横で見守っていた。
作務衣の裾から伸びる兄弟子の屈強な腕が丁寧に鍋の小豆を躍らせる。大鍋から湧き上がる湯気に耐えながら、額の汗を三角巾へにじませていた。おれは大和さんの鍋を見つめる真剣な顔が好きだ。眉は飾ることはないが、ハサミできれいに整えられて凛々しさを引き立てている。小豆を見守る厳しい目付きは、職人としての意地と誇りを備えている。
気が付くと、調理場の窓から朝光が差し込んでいた。鍋の小豆は十分に柔らかくなった頃だろう。大和さんは、ヘラで二、三粒すくい上げると、ふっくらとした豆を指で潰してみる。
「翔平、触ってみろ。この状態だ」
「はい」
おれも完成の感触を確認させてもらう。すっと皮が破れて中身が飛び出せば茹で上がり。指で触れただけで、あんこになりたいと懇願する小豆の状態。
「この状態だぞ。忘れるなよ」
大和さんは何度でも、繰り返し教えてくれる。
鍋の火を止めると、師匠がやってきた。
「おはようございます。今日もよろしくお願い致します」
大和さんの言葉に、おれは少し遅れて言葉を重ねた。
「大和、今日の具合はどうだ?」
「はい、上々です。これから渋切りに入ります」
大和さんが和紙を敷いた竹ざるに茹で小豆を移すと、師匠は一粒をつまんで口に入れた。何も言わないのは、今日も問題なしということだ。
その後のあんこ作りはおれが引き継ぐ。
「後はよろしくな」
大和さんはおれに場所を譲ると、師匠の後についていった。二人は別の作業台で上生菓子作りの準備を始める。
おれは渋切りを済ませた小豆の裏ごしを始めた。これはこしあんになるので、皮を取り除かなくてはならない。目が細かい漉し器の下にボウルを置いて、小豆を木ベラで潰していく。初めて任された時は力任せに皮まで潰してしまい大和さんに怒られた。反対に、力が弱すぎると、皮にごうが残ってしまい小豆が無駄になる。力の加減が微妙な裏ごし作業も手を抜けない工程だ。
おれは皮に付いたごうを取りきると、向こうの作業台で練り切りを準備している師匠に声をかけた。
「裏ごしの確認をお願いします」
「うむ。今、行く」
一番、緊張する時間がやってきた。
瑞成堂の店主である玄宗師匠は、十五歳から和菓子の世界に身を投じ、職人歴もうすぐ五十年の大ベテランだ。店の拡大や儲け主義には走らず、今持てる力の全てを注ぎ込み最高の菓子を作ることだけを追求している。弟子も大和さんとおれの二人だけ。仕事には厳しいが、親のような温かさで見守ってくれるので、辛い修行にも耐えられる。
師匠は皿のように目を細めて、こし器を確認する。このチェックが厳しく、なかなか合格をもらうことができない。
「大和!」
くそ。師匠が大和さんを呼ぶってことは、今日も駄目ってことだ。師匠はおれを残して、上生菓子作りに戻っていった。
入れ替わりに大和さんがやってきて、こし器を見直してくれる。
「ほら。ここと…、これもだな」
何箇所か指を指して教えてくれる。
「あ、まだ残ってたか」
おれは網目を見直すと、わずかな白い塊が残っていた。
「お前もまだまだ。頑張れよ」
「はい。すんません」
大和さんの言葉に、肩を落とした。
八時半。おれは調理場を離れて、店を開く準備をする。薄暗い売り場に出て木戸を開き、店に朝日を取り込む。まだ空気は冷たいが、もうすぐ春を迎える三月は晴れやかな気分になる。今日も日本晴れの空の下、藍色の生地に白塗りの文字で『瑞成堂』と書かれた暖簾を軒先に掲げた。
瑞成堂という名前は喜びを成し遂げる、と縁起が良く満願成就の菓子の店として地元に愛される名店である。最近ではネットでの口コミが広まり、遠方からも菓子を求めてやってくる客もいる。
店の中に戻り、店内の清掃をする。生菓子を並べるショーケースを拭いていると、大和さんが出来立ての大福や羊羹を運んできた。今日も鮮やかで美味そうな菓子が並ぶ。ケースの一番上の段はまだ空の状態だ。ここには春の桜、梅雨の紫陽花、夏の金魚など、季節に合わせた上生菓子が並ぶ。まだ師匠が準備をしているので、店に並ぶのは昼前になるだろう。
店を開店しても、すぐに客はやってこない。客がやって来るのはいつも十時頃からだ。売り場で実際に菓子を買う客の顔を見ることも修行だ、と師匠は言う。だが、誰も来ないこの時間は退屈以外の何ものでもない。
今のうちに紙箱や包装紙の在庫をチェックしておくか。おれが腰を上げると、店に大柄な男が入ってきた。
「おっ、翔平。ご苦労さん」
「あ、いらっしゃい」
おれの高校時代の恩師で、この店に弟子入りの口利きをしてくれた健剛先生だ。先生は和菓子に詳しく師匠を敬愛し、瑞成堂の菓子は日本一だと高く評価をしてくれる。
「今日は、この大福をもらおうか」
「はい。お茶も用意しますね」
おれは薄い牛皮にあんこがたっぷり詰まった白大福を一つ取り分けた。大和さんが作った大福は今日も美しい。
先生は小皿に乗った丸い菓子を骨董品でも見るように品定めする。見た目をチェックすると、人差し指と親指で大福をつまんで大きな口へ運んだ。指に付いた粉まで丁寧に舐めると、満足そうにうなずいた。
こうやって、先生は週に二、三回やってきて店の商品を見定めすると、気に入ったものはその場で口にする。今日も菓子に異常なしと確認した後は、おれの話相手になってくれる。おれは最初の頃、右も左も分からない菓子の修行など逃げ出そうと思う時もあった。それでもこうやって何とか修行を続けていられるのは、この人の助けもあってのことだ。
先生は店の中に設えられた小上がりに腰を下ろした。
「どうぞ」
おれは熱いお茶を隣に置いた。
「サンキュー」
先生は日本茶で一息付くと、おれを手招きして耳打ちをする。
「で。大和とは最近どうなんだよ?」
おれは顔を赤くした。
そう。おれは大和さんが好きなのだ。先生は半年くらい前に店の中で大和さんを見つめるおれの目線を察知し、少しお節介な助言役にもなってくれている。
「い、今はまだ修行中なんで。そんなこと、考えてる場合じゃ……」
おれは何度このセリフを繰り返しただろう。先生から目をそらし、手の汗を拭くように作務衣の端を握り締めた。
最初は単なる憧れだった。一人前の職人になる夢をひたむきに追いかける大和さんの姿が格好良くて、早く同じようになりたいと思った。毎日同じ釜の飯を食い、叱られたり褒められたりしているうちに、その気持ちはより熱いものに変わっていった。
「堅物だなあ。菓子作りには恋愛経験も必要なんだぞ」
「そんなこと言われても……」
先生の言うことは何となく分かる。でも、おれにはこの手の免疫がほとんどないのだ。赤く染まった頬から熱を感じる。
「それに、大和はもう五年だろ。いつまでも一緒ってわけじゃないんだからな」
先生はそう言うと、残ったお茶をきれいに飲み干した。
そうなんだ。いずれ大和さんは実家の店を継ぐことになるのだろう。そう遠くない将来にそんな日がやってくるのかと思うと、おれは複雑な気持ちになった。
第二章 銭湯にて
その日の夜。大和さんに誘われて銭湯へ出かけた。普段なら師匠の家の風呂を使わせてもらうのだが、たまには大きな風呂に入りたくなる時もある。
「いらっしゃい。仕事はもう終わったのかい」
「こんばんは。風呂、使わせてください」
大和さんは番台の爺さんに二人分の入浴料を払ってくれた。
おれは空いているロッカーにタオルや着替えを放り込んで服を脱ぎ始めた。大和さんも近くのロッカーを開くと、腕時計を外しだした。
隣で兄弟子が服を脱いでいく様子をこっそり盗み見する。シャツを脱ぎ、いつも袖口から覗かせる屈強な腕に見合った大きな体が露わになる。むっちりとした肉体は地黒で健康的な肌をしている。大きく筋肉が発達した胸が逞しさを感じさせた。胸から腹回りにかけての体毛は薄いが、へその下辺りからはうっすらと毛が生えている。前に大学まで剣道をやっていたと聞いたことがある。スポーツで鍛えられた筋肉に、繰り返される菓子の味見で脂肪も加わって愛くるしい姿になっている。
続けて大和さんは、ズボンのベルトに手をかける。前かがみになってズボンを下ろすと、大きな尻を包み込むボクサーパンツが現れた。丁寧にズボンをたたんでロッカーに入れると、いよいよパンツに手をかける。おれに覗かれているとも思っていないのだろう。躊躇なく雄をあわらにした。ボリュームある太ももにも黒々とした体毛がまとわり付き、股間の茂みへと続いている。
おれは、どうしても股間に目がいってしまう。陰毛をかき分けるように太い竿がぶら下がっている。勃起をしているわけでもないのに、十分な存在感があった。竿の先から亀頭を覗かせ、背後に構える睾丸はずっしりと重量感がある。
裸になった大和さんは鼻歌を歌いながら、体を洗うタオルを掴んで洗い場へ向かっていった。おれは憧れの男の背中を見送る。肩幅がある背中は、軽い逆三角形をしている。頼りがいを感じられる大人の背中だ。丸く大きな桃のような尻は、両手で掴むことができたら餅のような弾力があるのかもしれない。
「翔平。お前も早く来いよ」
服を脱ぐ手を完全に止めていたおれに向けて、洗い場から声がかかった。
おれは正気に戻ると、急いで裸になった。
仕事の汗を石鹸できれいに洗い流し、大和さんが待つ湯船に足を入れる。少し熱めの湯に体を沈めると、気持ちが解れてくる。
「お前、何かあったのか?」
大和さんのいつもの切り込み方だ。
「いえ。何もないっすけど」
おれは嘘をついた。
「ならいいけどよ。悩みがあれば何でも言えよ」
その言葉に、おれは黙って頷いた。
頭の中にあるのは、今朝の健剛先生とのやりとり。でも、この悩みは言えるわけがない。からかうように、天井から冷たい滴が頭に落ちてきた。
銭湯の帰り道。大和さんは近くの自販機で温かいコーヒーを買ってくれた。湯上りとはいえ、三月の夜はまだまだ冷える。軽い夜風で体の汗はすぐに冷えてしまう。
「大和さん。修行が明けたら、やっぱり実家を継ぐんすか?」
おれは缶コーヒーを傾けながら、それとなく聞いてみた。
「そうなるだろうな。ここは土も水もいいから、新しい店を開こうかって考える時もあるんだけどな」
予想通りの答えが返ってくる。
大和さんはいつも前を向いて確実に進んでいるが、おれはどうなのだろうか。風呂上りの心地よい疲れに身を委ねて、静かな夜道にサンダルの音が響いていた。
寝床に戻ると、大和さんは師匠に呼ばれて部屋を出ていった。おれは一人で部屋に布団を敷き始めた。二人分の布団を敷き終えても、まだ戻ってくる様子がない。一人、布団の上であぐらをかく。
「はぁ……」
おれはため息を一つ吐き出し、熱を帯びた自分の雄を触ってみた。
実はさっきの銭湯で、大和さんに股間を触られそうになったのだ。湯船で体を温めながら、彼女が居るいないの話になり、おれが話をはぐらかすと、大和さんは適当に遊ばないと体に悪い、と手を出してきた。もちろん他意のない悪ふざけで、おれは慌てて抵抗をしたから竿に軽く触れられる程度で済んだ。だが、思いがけないスキンシップに体が変に反応してしまい、悶々として今では元気に勃ってしまっている。
布団に寝転ぶと、おもむろにスウェットの中に手を入れた。パンツの上から半立ちの雄をなでるように触ってみる。ナイロン製のパンツの上から伝わる手の感触が、竿や袋に程よい刺激を与える。目を閉じて、さっき銭湯で視姦した憧れの裸を思い浮かべてみた。股間のふくらみは答えるように盛り上がり、竿が膨張して硬くなってくる。快感は徐々に体を支配し始めてきた。
スウェットと一緒に勃起できつくなったパンツも下ろすと、隆起した竿が反り返り亀頭がへその上へ張り付いた。今日は裸の記憶が鮮明で、いつもよりも気分を高揚させる。玉から竿の裏筋に手を這わせ、亀頭の先までなぞるように触ってみる。もう片方の手はTシャツの中へ滑り込ませ、大胸筋を探り当てると、親指と人差し指で乳首を摘んでみた。乳首から伝わるこそばゆい感覚と下半身の快感が重なり合い、自然とため息が漏れてくる。乳首の刺激に合わせるように雄も脈を打ち、体中が快感に襲われる。
体が次第に熱くなってきた。熱い竿を握ってゆっくりと上下に擦ってみる。
「はっ、はっ、はっ」
ため息を交えた低い声を何度も漏らした。
あの時、大和さんに竿を握られていたらどんな感じだったのだろう。頭の中の想像が広がり、体の快感がどんどん増幅されていく。
「大和さん……」
つい名前を呼んでしまった。
目を閉じた闇の向こうで、あの逞しい腕がおれの体を引き寄せる。乳首を弄ばれ、竿をしごかれる。ああ。本当だったら、どんな風にこの身体を愛してくれるのだろう。求められたら、おれはどんな痴態をさらすこともできる。性感帯の刺激が興奮を高め、口を微かに開き舌先を突き出した。
「あっ、あっ、あっ……」
もう、そろそろ限界だ。
竿をしごく手に力を入れて、ストロークを短くする。尿道から上がってくるモノを感じると、そのまま力任せに雄汁を飛ばした。
「はあっ、はあっ……」
一瞬頭が真っ白になると、強い疲労感と共に、目の前にはいつもの天井が映し出された。
上がりきった息が落ち着いてくる。快感が引いてくると現実に引き戻された。おれは近くのティッシュを掴むと、腹に飛び散った雄汁を拭く。部屋の中に軽く生臭い匂いが漂う。まだ大和さんは戻ってくる気配はない。丸めたティッシュを投げ捨てると、何事も無かったように近くの雑誌を開いた。
第三章 春霞の涙
何日か経ったある日。師匠は朝から用事がある、と言って出かけていった。たまにはこんな日もあるのだ。師匠の代わりに大和さんが作れる菓子は店に出し、許されていないものは作るのをやめる。こんな日ばかりは修行の浅いおれといえども、任される仕事が増えて責任重大になる。
大和さんは、師匠が不在でも教えを忠実に守り、手際よく菓子を作り上げていく。出来上がった菓子は、いつもと寸分違わないように見える。おれは出来上がった菓子を売り場に並べて、いつものように店を開いた。
今朝も健剛先生がやって来た。いつものように商品を選ぶと、抹茶と紅で春をイメージした練り羊羹を口にする。
「ん。今日は大和だな」
おれは何も言わなかったが、先生は一口食べただけで、誰が作ったのかあっさりと見破った。さすが、師匠の長年のファンだ。
おれと先生が話し込んでいると、常連のお客さんが入ってきた。この婆さんは茶道の先生で、お茶に出す菓子はいつもうちの商品と決めている。
「あら。今日は、春霞はないのかしら?」
ショーケースにお目当ての菓子が見つからず、おれに尋ねてくる。
春霞は上生菓子で今の季節限定の商品だ。大和さんが何度か試作をしているのは見たことあるが、店に出すことをまだ許されていない菓子のひとつでもある。
「お婆ちゃん。申し訳ないけど、今日は春霞できないんだ」
「困ったわね。今日は大切なお客様が来るから、あれが一番なのだけど……」
おれは調理場で作業をしている大和さんを呼びにいった。
一緒に売り場に戻ると、婆さんは困った顔でショーケースの他の商品を見ている。その様子を見て、大和さんは少し考えて口を開いた。
「三十分くらい時間をもらえますか? 春霞、用意しますので」
おれは予想もしなかった言葉に目を開いて兄弟子を見た。
「まあ、ありがとう。やっぱり、この季節は春霞が必要なのよ!」
婆さんはそう言うと、店を出て行った。
大和さんはその後ろ姿を見送ると、すぐに調理場に戻っていった。先生はおれの肩をつついた。
「いいのか? 玄宗さんに断りなく出しても」
「ん……」
おれは先生と同じことを考えていた。
いくら修行暦が長いとはいえ、師匠に許されていない菓子を客に出すことがどんなことか分かっているはずだ。店番を先生に押し付けるようにして調理場へ向かった。
大和さんは白あんに食紅を加えて、桜色のあんを準備していた。
「翔平。八寸の裏ごしを出してくれ」
様子を見に来たおれに、手元から目をそらさず棚を指差して言った。
おれはこし器を作業台に置くと、話しかけるタイミングを伺う。
「大和さん。いくら何でも、春霞はまずいっすよ」
「お客さんが待っているんだ。お前には迷惑かけないよ」
そう言うと、大和さんはこし器を手にして、あんをヘラで潰し始めた。
おれには何だか楽しそうに見えた。いつもなら、手綱を引き締めて鋭い目で作業を進めている兄弟子が、今日は大空へ羽ばたく鳥のように輝いている。邪魔をしてはいけないような気がして、これ以上は何も言えなかった。
三十分後、お客さんの元に約束どおり春霞は届けられた。だが、代金はもらわなかった。師匠に認められてない以上、金を取るわけにはいかない。それでも、今日の春霞は、師匠が作る以上に桜が舞い散る早朝の霞空を表現した完成度の高いものだった。後でお茶会を終えた婆さんから電話があり、誉めてもらった。
お客さんが喜んでくれたのだから、結局は良かったのだ。おれは胸をなで下ろした。
それから一ヵ月が経った。おれは何時ものように店を開けて、ショーケースの後ろに腰を下ろした。薄暗い店から眺める軒先には、春の光が差し込んで桜の花が舞い散っている。
「あぁ……」
おれは春の陽気に似合わない深いため息をついた。
普段より商品の数が少なく、棚が淋しく感じる。大和さんが居なくなってから、師匠が作業の中心になり必然的に用意できる種類が減ってしまったからだ。
あの日、春霞を用意したことが知られてしまい、大和さんは師匠の逆鱗に触れた。大和さんは言い訳をせず、ひたすら畳に額を擦り付けていた。おれだって指を咥えて見ていたわけではない。兄弟子に代わって必死に弁解をしたものの、師匠は聞き入れてくれなかった。後から知ったことだが、兄弟子は店のレシピを一部アレンジしていたようで、あれは瑞成堂の春霞とは言えない、と師匠から聞かされた。
大和さんは自分の軽率な行為を反省したが、感情に任せて荒ぶる師匠は許してくれなかった。
「お前は、出て行け!」
師匠の冷たい言葉に、大和さんは唇を強く噛んで部屋を飛び出した。そのまま荷物をまとめると、おれの引止めにも耳を貸さずに出て行ってしまった。
おれは、あの日のことを思い出すと胸が締め付けられる。売り場から調理場を覗いてみると、師匠が一人で上生菓子の製作を進めていた。師匠はあれ以来、春霞を作るのを辞めてしまった。おれにもっと技量があれば手伝うこともできるが、わずかな修行経験では到底及ばない。兄弟子が居なくなったことは、瑞成堂にとっても大きな痛手となっている。
その日の夕方。今朝用意した菓子が全て売り切れて棚が空になった。夕日に鈍く照らされた暖簾を外すと、背後から声をかけられた。
「こんばんは。玄宗さん、居るかい?」
「あ。中嶋さん、いらっしゃい」
やってきたのは役所にある観光課の課長さんだ。
瑞成堂は市内の観光ガイドにも掲載され、年間七百万人訪れるという観光客にも紹介されている。店から自発的に広告を出さないので、集客の面では中嶋さんの力は大きい。
おれは店内の小上がりに中嶋さんを招き入れお茶を出した。師匠はすぐにやってきて話を始めた。
何の話だろう。おれは店の片付けをするふりをして、二人の話に耳を傾けている。中嶋さんとは長い付き合いで、師匠もこの人の頼みは断った事がないと聞いたことがある。
「玄宗さん。来月、某国の王子が兼八園を訪問するのだが、お抹茶と一緒に出す生菓子を作ってもらいたい」
中嶋さんの依頼に、師匠は目を丸くしている。
兼八園とは有数の回遊式日本庭園で、この街の最大の観光名所でもある。海外のガイドブックにも掲載される世界的に名が知られた場所だ。ついでに、某国の王子と言えば国賓クラスのお客様だ。テレビのニュースでも訪日が話題となって、世間に疎いおれでも知っている。
「某国の王子って言えば、和菓子通のお方だろ。そんな方に、うちの……」
師匠の言葉のキレが悪い。今回ばかりは断りたそうにしている。今は大和さんも居ないので、そんな大仕事をできるかどうかは未知数だ。
その後も長い時間、二人は話し合いを続けていた。
「……分かりました。やらせて頂きましょう」
「いやぁ、玄宗さんなら引き受けてくれると思ってましたよ」
おれはわざとらしく店の陳列棚を整えながら、耳を大きく傾けていた。
中嶋さんは上機嫌で帰っていったが、師匠は渋い顔をしている。しばらく冷めた緑茶を見つめていた。
「あの、師匠?」
おれは固まる師匠に声をかけた。
「翔平、そういうことだ。お前にも手伝ってもらうからな」
師匠はそう言って、調理場へ戻っていった。
王子の来日までもう一ヶ月もない。今からどんな菓子を用意するのか考案から始まり、食材の準備、製作の段取りと、二人だけで進めなくてはならない。いくら修行中といえども、おれも瑞成堂の一員だ。これまで以上に引き締めて、仕事に当たらなくてはならない。
右手の握り拳がいつの間にか強くなっていた。
第四章 陵辱
何日か経った頃、店に健剛先生が久しぶりにやってきた。某国の王子が訪問する件は、情報早い先生の耳にも既に入っていた。抹茶の餡子玉を一個頬張ると、おれを手招きした。
「大和から連絡はあったか?」
「いえ。何もないっす」
おれの答えに先生は肩を落として、ため息を付いた。
「先生、何か知ってるんすか?」
おれは問い詰めた。だが、先生は口を割ろうとしない。
困った表情で言葉をためらっている瑞成堂ファンに、おれはショーケースから大福を取り出して小皿に盛った。ふっくらとした白い姿に、先生は大きく喉を鳴らし最後は根負けして口を開いた。
「あのな。お前、華厳亭は知ってるだろ?」
「もちろん知ってますよ。……え? まさか」
おれは眉をひそめた。
先生は、大和さんが華厳亭で働いていると風の噂を聞いたそうだ。彼が瑞成堂を飛び出した直後から消息を案じ、探していた矢先のことらしい。だが、噂の店は評判の良くないところで、実直誠実な彼が働くとは考えられもしなかった、と言う。
それでも真相を確かめようと、先生は華厳亭に出向いていった。華厳亭はうちとは比べものにならない規模で、市内に支店がいくつもあるような店だ。何人もの腕のある職人を他店から引き抜いて、肝心の菓子は工場のようなところで一括生産をしていると聞いたことがある。うちのように職人が店番をするようなこともないから、先生も直接顔を見たわけではない。だが、売られていた豆大福が瑞成堂の味とそっくりだったらしい。
推測の域を超えない話だが、そんなところで大和さんが働く姿を想像するだけで、おれは心が曇った。
「それに、あの社長がちょっとな……。いや、大和は大丈夫だろ」
先生は更に気になる言葉をつぶやいたが、口を塞ぐように急いで大福を頬張った。
「え、何すか? もったいぶらないで教えて下さいよ!」
おれは大福の皿を取り上げようとしたが遅かった。
「いや、何でもない。この話は忘れてくれ」
先生は口元にあんこを残して、店を出ていってしまった。
最後の言葉がずっと引っかかっている。華厳亭の社長が何だと言うのか。おれの心の中で灰色の雲が静かに渦巻いている。
三時過ぎに商品が大方売れてしまうと店も暇になる。おれはどうしても気になっていた。師匠に腹が痛いから病院に行きたいと嘘をつき、店を飛び出した。
華厳亭は電車で二つ先の所にある。その販売店の裏に工房のような場所もあるから、本当に大和さんが働いているならそこが一番濃厚だろう。
出来ることなら瑞成堂に戻ってきて欲しい。もう一度会って話をすれば師匠だって分かってくれる。もし、破門が解かれないなら、おれも店を辞めても構わない。おれは拳を握り締めて、電車がホームに到着しドアが開くと、走り出していた。
駅から続く目抜き通りをしばらく進むと華厳亭が見えてきた。三階建てのビルで、一階は売り場になっていて上は事務所のようだ。恐らくここが会社でいう本社にあたるのだろう。
裏手に回ってみると、駐車場の先に倉庫のような建物があった。その建物の搬入口に人影が見える。そっと近寄ってみると、その影は大和さんだった。肩に大きな袋を担いでいる。きっと小豆とか菓子の食材を運んでいるのだろう。おれは呼びかけようとしたが、ビルの裏口から恰幅のいい中年の男性が出てきて大和さんに声をかけた。白いワイシャツにネクタイを締めた男性は、前に業界の専門誌で見た華厳亭の社長に間違いなかった。
駐車場に停められたトラックの陰に隠れて様子を伺う。社長は笑って話しかけているが、大和さんは愛想笑いをしているのが分かる。二、三言葉を交わすと、社長は大和さん背中に手を回し、引きずるようにして倉庫の中へ入っていった。おれはその様子に何かただならぬ雰囲気を感じて、二人が消えていったドアに駆け寄った。
倉庫の扉は鍵が開いている。音を立てないように静かにドアノブを回して、中に入ってみた。中は思ったよりも薄暗い。目が暗さに慣れるのを待って、足元に注意しながら奥へ足を進めた。
どれくらい奥へ進んだだろう。小豆の袋がバリケードのように積み上げられていて、向こう側から押し殺したような声が聞こえてくる。
「社長、こ、こんなところで……。や、やめてください……」
大和さんの声だ。でも、こんな声色は今まで聞いたことがなかった。
おれの心臓が激しく脈打ちだす。袋の影から向こう側で何が起きているのかを、ためらいながら覗いてみた。
大和さんは後ろから社長に羽交い絞めにされていた。既に、作業用の白いズボンはくるぶしまで下げられ、肉厚な毛深い太ももと、白のボクサーパンツが露わにされている。社長の腕が悶える体を抱え込むように押さえつけ、もう片方の手で股間の脹らみを握っていた。
「何が嫌なんだ。もうその気になってるじゃねえか!」
社長は乱暴に若い男の股間をこねくり回す。
大和さんは首を横に振って否定をしているようだが、本気で抵抗をする気配はない。身悶えする様子を楽しむように、スケベ顔の社長は耳元に息を吹きかけた。
「ああっ、そこは……」
不意に声が響いた。
社長はニヤリと笑って、相手の耳たぶを甘噛みする。大和さんは力が抜けたようにその場に膝を崩してしまい、社長が上から覆い被さった。
社長は獲物の体を仰向けにすると馬乗りになって、首から解いたネクタイを使って若い男の両腕を縛り上げた。自由を奪った腕を放り投げると、無防備になった上半身を服の上から弄りだす。屈強な体の形をいやらしい手つきで確かめると、きっちり閉じられた作業着のボタンに手をかけ、力任せに引きちぎった。
「やめてください!」
大和さんは抵抗するが、汗がにじんだTシャツも間髪を置かず無残な姿にされた。服に隠されていた大胸筋に程良く脂肪が乗った体が、露わになった。
社長は鼻息を荒くして、指先で執拗に乳首をいじり回す。大和さんは身をよじらせている。その反応を楽しむように、社長は不適な笑みをこぼすと、乳首から手を離した。
「乳首がいいんだな。じゃあ、これはどうだ?」
舌先で乳頭を刺激し始める。大和さんは低いうめき声を上げた。
おれは目を背けたかった。あんな中年のスケベ顔をした奴に、服を剥ぎ取られ、乳首を弄られて息を上げている姿を見たくはなかった。だが、今まで見たこともない痴態に、おれの雄は熱く反応している。
社長の強引な愛撫はまだ続く。大和さんの乳首を散々弄ぶと、今度はパンツに手をかけた。力任せに引き下げると、膨張した雄が勢いよく天を突き上げた。亀頭は既に汁で光っており、太く反り上がった雄の熱がここまで伝わってくるようだ。
社長は満足そうに、相手の雄の反応を確かめる。勃起した竿をおもちゃにしながら、苦悶する表情をちらっと見ると、手の中の竿を美味そうに咥えた。
「あっ、あっ、あぅ」
大和さんは社長の尺八に身をよじらせ、声を上げている。それはさっきまでの強いものではなく、抵抗を諦めた投げやりな声に聞こえた。
若い雄の味を楽しんだ社長は、自分の服を脱ぎだした。年齢は知らないが、メタボ体系の重そうな腹を見せ、パンツを急ぐように脱ぐと、自分の勃起した竿を握って相手の口へ運んだ。大和さんは抵抗なく尺八を始める。ジュポジュポと雄をしゃぶる卑猥な音に、社長は顔を歪めて恍惚の表情を見せた。
今度は、社長が横になった。操られるように大和さんは上に乗り、シックスナインの体勢になる。二人はお互いの竿を口に咥え刺激を与えて合っているが、快感なのは社長だけのようだ。大和さんは機械的に目の前の竿をしゃぶり、社長から与えられる愛撫には声を上げても、心が入っていないように聞こえる。もしかしたら、既に何度か身体を陵辱されていたのかもしれない。
社長は若い雄を執拗に舐めながら、臀部に手をかけた。尻の肉を掴むと谷間を開き、指を滑り込ませた。それまで、無反応を決め込んでいた大和さんは、体をのけぞらせ、表情を固くさせる。
「社長、そこは嫌です。勘弁してください!」
「大和、今日こそお前が欲しいんだ。もう我慢できん!」
必死の懇願に社長は耳を貸さずに、肉厚な尻の谷間に舌を這わせる。
大和さんは生気を取り戻したように、社長から逃れようとする。だが、社長は逃げようとする腰を掴み強く引き寄せた。一度は解かれた手の拘束だったが、大和さんは再びネクタイで後ろ手の状態に縛られ、自由を奪われた。尻を突き上げるような体勢にさせられ、社長はローションで湿らせた指を秘部に押し込もうとする。だが、指はなかなか受け入れられず、社長は苛立ちを募らせた。
「力を抜け。抵抗すんな!」
怒ったように諭した。
おれはこの非情な男に怒りを覚えたが、同時に大和さんにも怒りがこみ上げてくる。なぜ、こうまでして耐えているのか。なぜ、こんなことをされてまで華厳亭にしがみつくのか。目の前で繰り広げられる痴態に、興奮しつつもどこか辛く悲しい気持ちがした。
大和さんは社長の罵倒に観念したのか、秘部に入り込もうとする指を徐々に受け入れた。最初は一本だったが、慣れてくると指が二本に増える。その間、ただ目を強くつぶって歯を食い縛っていた。
「ああ。い、嫌だ」
か細く切ない声がしたが、社長はもう何も答えなかった。自らの熱く脈打つ雄を秘部へ押し付けると、力を入れて挿入した。
声にならない叫びが響く。
社長は挿入の感触を確かめるように息を吐き出すと、荒々しく腰を振りだした。
「や、大和。俺はお前のことが……」
社長は熱っぽい声を上げながら、自らの肉欲に任せるように若い肉体を汚していく。
その時間は長くなかったと思う。社長は絶頂を迎えたのか、うめき声と共に腰の動きを止めると、ゆっくりと尻から肉棒を抜いた。
その後は無機質な行動だった。社長は無言でネクタイの拘束を解くと、自分の服を着て足早に倉庫を出ていった。社長に犯された大和さんはしばらくの間、その場で動く気配がなかった。
「腹の具合は大丈夫か?」
すっかり帰りが遅くなったおれに、師匠は心配をしてくれた。
「いえ。もう大丈夫なので。迷惑かけました……」
おれは嘘を付いて出掛けた事をすっかり忘れていたが、適当にごまかして二階へ逃げた。
ショックだった。倉庫での惨劇が脳裏に焼き付いて離れない。あの時、逃げるように去ろうとする社長を捕まえて殴ってやろうかと思ったが、そんなことできなかった。それに、大和さんに声をかけることもできなかった。
大和さんは今夜、どんな気持ちで眠りについているのだろう。そう思うと自分のことのように、悲痛な思いがする。おれは冷たい布団に潜り込むと、声を殺して泣いた。
第五章 藤棚と五月雨
数日後。某国の王子に献上する生菓子が決まった。藤棚という、藤の花をイメージした練り切りと、五月雨という、糸寒天を使った錦玉羹の二種類を用意することになった。どちらも沢山の食材を使い、作業工程も長いものだ。当日は店を臨時休業にして、この二つの菓子だけを作る。おれも瑞成堂始まって以来の一大イベントに、新しい技術を伝授されることになった。
忙しい毎日が矢のように流れ、三日後には献上の日となった。師匠から練り切りの作り方の手ほどきを受けていた時のことだ。おれが火の前で練り込みをしている時、頭上にある棚の引き出しから突然まな板が落ちてきた。
「し、師匠っ!」
「あたたたっ……」
落下物は隣で様子を見ていた師匠の手首に当たり、師匠は大きく顔を歪めた。
おれは鍋を放り出して、その手を取った。ぶつかった部分が大きく腫れている。おれは慌てて近所の医者へ連れて行った。
診察の結果、右手首の骨にひびが入っていることが分かった。入院するまでもないが、手は固定され動かさないように指示された。
前の日にまな板はきちんとしまったはずだった。それでも結果的に大事な仕事の前に怪我をさせてしまい、おれは土下座をした。右手が使えなくなると、作業はほぼ不可能になる。もう献上菓子を作ることも諦めなくてはならない。事の重大性に、成す総べもなかった。
だが、師匠は諦めていなかった。
「翔平よ。お前も瑞成堂に少なからず身を置く職人だ。お前が作れ」
師匠は細かく作業を指示するので、おれは手を動かす役目を担え、と言う。
そんな付け焼き刃で事が済むのだろうか。いくら作業を指示されても、菓子作りは感覚を掌る部分も多い。
「師匠。いくら何でもそれは無理っす」
おれは無謀だと思った。
「それでもやるんだ。瑞成堂の菓子を楽しみにしている人がいるなら、最後まで尽くさなくてはならん」
おれの不安な言葉を打ち消すように、師匠は笑って返した。
店の威信が、おれの肩に圧し掛かってくる。それでも、重圧に潰されている時間はなかった。その晩から寝る間を惜しんで練習を始めた。師匠に教えられた通りに、白小豆を茹でる火加減を見極めようと、練り切りの程よい粘り具合を習得しようと、調理場で何度も奮闘を重ねている。気が付けば作業台には沢山の白あんや練り切りが並んでいた。だが、どれ一つとして満足できるものはない。
「どうやっても、おれにはできねえ!」
木ベラを流し台に投げつけると、三角巾を取ってその場にうずくまった。
明日には献上菓子を本当に作らなくてはならない。もうこれ以上、どうしたらいいのか分からなかった。
大和さんならこんな時どうするだろう。
おれは、ここに居ない兄弟子を恋しく思った。だが、そんなことを考えてしまうとあの倉庫での記憶も蘇る。とっさに湧きあがろうとする嫌な記憶を消し去ろうと頭を横に振った。
昨日も満足に寝ていなかった。少しの気の緩みから睡魔が襲ってくる。じわじわ広がる眠気を振り払うように身体を起こすと、向こうの作業台の端に座って菓子の研究に励む懐かしい景色がぼんやりと見える。手元の食材を丁寧に扱い、一つひとつの工程をこなしていく完璧な手さばき。夢を追いかけ確実に前進しようとする強い眼差し。いつか夜中に見かけた大和さんの姿だ。
兄弟子と一緒なら、この難局をきっと乗り越えることができるだろう。そう思うと、目の前が暗くなった。
どれくらいの時間が経ったのか。おれは陽の光に照らされて目を覚ました。調理場へ差し込む光はオレンジ色に窓を染めていて、慌てて時計を確認すると、もう店を閉める時間だった。店に出す今日の菓子はどうしたのだろう。作業台に伏して寝ていたおれの肩には、毛布がかけられていた。周りを見回すと師匠が片付けをしている。夜中にあれだけ練習した白あんや、練り切りも無くなっている。
「今日は店を休みにしたから、ゆっくり休め。明日が本番だからな」
師匠は穏やかに微笑んでいた。でも、おれは自分の不甲斐なさに身が縮む思いがした。
もう我慢が出来なかった。どうやったって明日の献上には、大和さんの力が必要だ。瑞成堂に戻ってくれるよう何とか説得をしよう。無駄かもしれないが、師匠や瑞成堂のためにも、今、おれがやらなくてはならないことだ。そう思うと、おれは電車に飛び乗っていた。
華厳亭の従業員口から少し離れたところで待ち伏せをした。一時間くらい待つと、大和さんが重い体を引きずるようにして出てくる姿を見つけた。
「大和さん!」
おれはできるだけ明るく声をかけた。
大きな背中は突然の呼びかけに驚いたように振り返り、おれの顔を見つけるといつものように笑ってくれる。
「よう、翔平じゃないか。元気だったか?」
再会を喜ぶ笑顔の背後に、おれは瑞成堂を飛び出した時の辛そうな表情や、社長からの陵辱にゆがむ顔が見えた気がした。
おれ達は、並んで宵の口の川沿いを歩きながら話をした。大和さんは近くにアパートを借りているらしい。おれは健剛先生から華厳亭で働いていることを聞いてやってきたと嘘をついた。
何気ない会話を交わし、おれは久しぶりに大和さんとの時間を楽しむ。昨日のナイターの結果、最近デビューした人気アーティストの音楽のこと。つまらない話に、兄弟子も歯を見せて喜んでいる。
話が途切れたところで、大和さんが口を開いた。
「翔平、俺を連れ戻そうとして来たのなら無駄だぞ」
おれは足を止めた。
「実家に戻って店を継ぐことにしたんだ。華厳亭にも用はない」
静かに流れる川の音に混じって、遠くから電車の音が聞こえてくる。大和さんは何も言い返せないおれの顔を見て、ため息を吐き出した。
「俺は瑞成堂の名前を傷付けたんだ。戻れるわけないだろ」
そう言うと、足元の石を拾って川面へ投げつけた。小石が水の中へ沈む音がすると、おれの方を向いた。
「それに、瑞成堂は某国の献上菓子を作るんだろ? 翔平もいつまでも俺に頼らず頑張れよ」
そこまで言うと、鞄を肩に担ぎ背を向けて歩き出した。
おれは追い駆けることができなかった。大和さんは立ち尽くすおれに、振り返らずに手を振っている。
「師匠がケガしたんだ!」
おれは立ち去ろうとする後姿に向かって叫んだ。小さな背中はおれの言葉に反応し、足を止める。
何か言ってくれ。おれを助けてくれ。あんたの辛い姿をこれ以上見たくない。おれの言葉にならない叫びを受け止めて欲しかった。だが、大和さんは何も答えず足早に立ち去った。
第六章 通い合う心
次の日の早朝。おれは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。静かな空気の中で、作務衣の袖に腕を通し、頭に三角巾を結ぶ。身支度をいつもよりも丁寧に整えると、両手で頬を叩いてみた。とうとう献上菓子を作る日だ。やれることをやるしかない。結果はどうなろうとも、今、おれが出来ることの全力を注ぐ。それしかなかった。
やせ我慢の決心を胸に、調理場へ向かった。流し台から水の音が聞こえてくる。いつものように挨拶をして持ち場へ取り掛かろうとしたが、そこにいたのは師匠ではなかった。
「おう、翔平。遅いぞ! それ洗って準備しろ」
大和さんが手元の食材に目をそらさずに、白小豆を茹でる鍋を指差している。作業台に並んだ山芋や寒天を吟味する眼差しは、着慣れた作務衣の藍色よりも深い。まるで昨日までこの場所に居たように違和感のない風景に、おれは目頭が熱くなった。
「おい、ボケッとしてんな。時間がないんだぞ!」
大和さんから激が飛ぶ。
「はい。すんません」
最後の方は声にならなかった。
おれは指示された鍋を洗う。鍋の準備を終えると、大和さんはいつもの段取りで白小豆を茹で始める。小豆が茹で上がる頃に、師匠も調理場にやってきた。師匠は兄弟子の姿を見つけても表情を変えず、大和さんへ細かい指示を飛ばした。いよいよ瑞成堂の歴史と伝統をかけて、一世一代の菓子作りが始まるのだ。
最初に出来上がった五月雨。糸寒天を煮溶かし、抹茶で着色した新緑が映る池の水に、魚に見立てた小豆を泳がせる。水面には優しい雨が作り出す波紋と、波紋に揺れる葉っぱをあしらった。瑞成堂の大胆だが、細部までこだわった繊細な一品が誕生した。
続いて練り切りで作る藤棚に取りかかる。おれは師匠の指示で、昨日まで上手くできなかった練り切りを作り始めた。鍋に山芋と白あんを入れて、弱火で水分を飛ばしながら練り込んでゆく。力を入れて木ベラで錬る作業は得意だが、同時進行でおこなう鍋の揺らし方が難しい。
大和さんはおれの背後に立つと、鍋の柄を持つおれの手に大きな手を被せて、感覚を教えてくれる。
「揺らしは、焦らないでゆっくりやるんだ」
耳元に届く優しいアドバイスと一緒に、言葉では伝わらない微妙な感覚が伝授される。おれは目の前の鍋に集中する。
出来上がったものは、師匠から初めて合格をもらうことができた。おれの練り切りは、これから兄弟子が菓子にしてくれる。大和さんは師匠の細かい指示を受けながら、紫芋の粉末で鮮やかに染め上げ、藤棚を形作る。おれはその隣で、自分の作った素材が美しい菓子に変わるさまを見届けた。
ぶどうの房のような薄紫の花が無数に連なる藤棚。初夏の光に照らされて鮮やかな色を放つ姿が小さな練りきりで表現されている。花の房を揺らす優しい風を思わせる優美な姿に、おれは息を飲んだ。まるで兼八園にある藤棚を小さく切り取ったような菓子が完成した。
二つの菓子が出来上がると、温度調節をした冷蔵庫に保管して、味を落ち着かせる。こうして献上菓子は無事に完成した。おれは息をひとつ吐き出す。それまで調理場に漂っていた張り詰めた緊張感が薄れていった。
「二人とも、ご苦労だった」
師匠は三角巾を外すと、普段は見せない笑顔をした。そして、大あくびをすると調理場を出て行った。
おれと大和さんは顔を合わせてこっそり笑う。師匠があんな気の抜けた顔を見せるのは初めてだったからだ。いつも沈着冷静な師匠も、今回は相当気を張り詰めていたのだろう。
調理場に残されたおれ達は一緒に後片付けを始めた。大鍋や調理器具を洗いながら、大和さんは不意に口を開く。
「お前には感謝しているよ」
「何すか。急に……」
おれはわざとらしく返事した。
「お前が教えてくれなかったら、ここには戻ってこなかった」
大和さんは洗い物の手を動かしながら言葉を続けた。
師匠が手のケガを負っても献上菓子を断らなかったのは、あの春霞を作った時の自分の気持ちと同じものだと気付くことができたから。そして、自分の仕事への情熱はいつの間にか師匠から育まれていたから。大和さんはそんなことを打ち明けてくれた。
「お前に、何かお礼をしないとな」
「やめて下さいよ。おれは……」
言葉が途中で詰まった。
大和さんは洗剤の泡が付いたおれの手を握る。冷たい水で冷やされた手に、温かい感触が伝わる。
「また、お前と菓子を作れて良かった。ありがとな」
無防備なおれの唇に、大和さんが唇を重ねる。
それは、余りにも突然のことだった。心臓の鼓動が強くなり、顔が赤くなるのを感じる。時間が止まったような長い時間。蛇口から水が流れる音が静かな調理場に響いていた。
献上菓子を運ぶのは午後の予定だ。おれと大和さんは、どちらからともなく二階の寝ぐらに上がると、見つめ合い照れ臭そうに笑った。
大和さんがおれの体を引き寄せ、おれはもう一度キスを受け入れた。目を閉じて、唇から伝わる体温を感じながら舌を絡め合う。最初は大和さんの舌がおれの口の中で絡み合い、おれも真似をするように大和さんの口の中に舌を入れる。口の中の粘膜はさっき味見をしたあんこの甘い味がする。きっとおれも同じ味をしているのだろう。
大和さんはおれの背中に回していた手を滑らせ、腰やでん部の辺りをゆっくりと触る。その手が太ももから股間に届くと、おれは息を上げた。キスをしながら大和さんは、おれを優しく押し倒すとその上に覆い被さる。無抵抗に放り出したおれの手に温かい手が重なり合い、おれは耳、首筋、顎と唇で流れるような優しい愛撫を受けた。もう一度唇を求められて、大和さんの強い眼差しはおれを放そうとしない。
「翔平……」
そう言うと、大和さんはおれの作務衣の紐をほどき、Tシャツの上から胸や腹の周りを弄る。肉厚な手の感触が布地の上から伝わり、直に肌を愛撫して欲しくなる。大和さんは、そんなスケベ心を見透かすように笑うと、すぐに作務衣もTシャツも脱がしてくれた。
「おれ、大和さんの体を見たい」
おれが虚ろな目でねだると、大和さんは無言で自分の作務衣とシャツを脱ぎ捨てる。
「お前は、銭湯でいつも俺の体を見てたよな」
その言葉に、おれは頬を染めた。
知ってたんすね。おれは銭湯で盗み見ていたよりも近い距離で、憧れの男の肉体を見ている。両手を伸ばして、その屈強な体を引き寄せた。大きな背中に手を回して強く抱きしめると、筋肉の弾力と脂肪の柔らかな感触が心地よく感じた。
おれの胸に大和さんの舌が這い回り、乳首が刺激される。最初は舌先で乳頭を刺激され、乳輪をなぞるように舐め回された。おれは柔らかい舌の感覚に快感を覚えると、乳首は簡単に勃ってしまった。その乳首を甘噛みされる。
「ああっ」
声を上げてしまった。
「可愛いな。お前」
大和さんはおれの反応を嬉しそうに確かめた。
舌先で愛撫されていた右の乳首が今度は指先で刺激され、もう片方の乳首を舐められる。両乳首を愛撫されて、おれは快感とこそばゆさに身をよじらせる。
「翔平、気持ちいいか?」
「は、はい……」
優しく意地悪そうな問いかけに、頷くのが精一杯だった。愛撫を一心に受け止めて、息は荒くなり、身体も熱を帯びてきた。
おれの股間はとっくに膨らんでいた。大和さんに作務衣のズボンを引き下げられると、パンツの上から股間を触られた。パンツの中の雄ははち切れそうなくらい堅くなっている。憧れの男に興奮状態を知られてしまう。
「翔平はスケベだな」
「そ、そんな……」
おれの恥らいに答えるように、大和さんは包容力を感じる笑みをこぼす。自分のズボンを下ろして、同じように強く膨張している股間を見せつけてきた。
「俺も、もうこんなになっちまった」
大和さんも少し照れ臭そうにする。
おれは体を起こすと、相手の太ももに手をかけ股間に顔を埋めた。白い綿のボクサーパンツから雄の臭いがする。パンツの上から唇で感触を確かめると、熱を帯びた竿がゴリゴリと動くのが分かった。
「お前も気持ち良くしてやるよ」
大和さんはシックスナインの体勢でおれの上に乗った。パンツを脱がされ、勃起した竿を掴まれる。すぐに亀頭に舌の感触が伝わり、しびれるような刺激を感じて、おれは低い声を漏らした。
「う、ううっ! や、大和さん」
その愛撫に気が遠くなりそうになる。それでも、おれも大和さんの熱い竿を取り出すと、舌で亀頭を包み込むようにして奥深く咥え込んだ。喉の奥に亀頭を擦り合わせると、大和さんは深いため息を付く。
「ああ、翔平。いいぞ」
口の中で太巻きのような大和さんの竿が更に硬くなる。口の中で亀頭から溢れる塩気が、さらにおれを興奮させた。
「翔平、こっち来い」
大和さんの太い腕で力強く引き寄せられると、もう一度キスをされた。
おれ達はお互いの竿を握り締め、むさぼる様に唇を求め合う。お互いの竿を扱き合う姿に興奮は高まり、大和さんの手で激しくしごかれる快感に、おれは息を上げていった。
最終章 今日も日本晴れ!
午後。木箱に献上する生菓子をトラックに詰め込み、おれと大和さんの二人で瑞成堂を出発した。今日は雲ひとつない穏やかな五月晴れ。会場となる兼八園は戦国武将の邸宅跡と言われており、回遊式の日本庭園で名高い。今頃は新緑が目に眩しいはずだ。
関係者専用の通用口から大庭園の中に入る。今日は一般客の入園を中止している。某国の王子は庭園を一周し、途中にある眺めの良い池のほとりで抹茶と菓子を味わうことになっている。遠くに朱色の野点傘や赤い毛氈が見えてきた。既に何人か関係者が集まっており、遠くにはSPらしき屈強な男の姿も見える。
おれは緊張感に包まれた。いくら師匠が手解きをしたとはいえ、この菓子は大和さんとおれが作ったものだ。日本通で和菓子にも造詣が深い王子に果たして口に合うものか。
「翔平、ボサッとしてんな」
大和さんはおれを小突いて早く仕度をするように促した。
しばらくすると、遊歩道の先から賑やかな声が聞こえてくる。何人もの取り巻きに囲まれて、鮮やかな民族衣装に身を包んだ某国の王子の姿が見えた。案内役の男性に進められて、王子は池のほとりに建てられた野点傘の下にある赤い毛氈の敷かれた腰掛に座る。美しい池の眺めに感嘆の声を上げている。
立派な黒塗りの茶碗に色鮮やかな抹茶が、国賓に振舞われた。大和さんは正方形の菓子皿に藤棚と五月雨を並べ竹製の楊枝を添える。給仕人がそれを受け取ると、静かに王子のもとに運ばれた。案内役から通訳を介してお国の言葉で菓子の説明を受けると、王子はこちらに向かってニッコリと笑った。大和さんは軽く頭を下げたまま動かない。おれも慌ててその作法に従った。
しばらくすると、言葉は分からないが明るい声が静かな庭園に響いた。おれ達は頭を上げると、王子が菓子皿を手に、素晴らしいと褒めちぎっているようだ。
おれは大和さんを見た。大和さんもおれを見ると、白い歯を見せて肘でおれのわき腹を突いて喜んだ。
「いやあ、緊張した! 酷評されたら切腹もんだと思ってたよ」
大和さんはこれまでになく上機嫌でトラックのハンドルを切る。
よっぽど緊張していたのだろう。おれも流れる窓の景色を眺めながら、同じ気持ちでいる。一つ大きな山を越えることができて、おれも少しは成長したかもしれない。
だが、大和さんはこれからどうするのだろう。
「大和さん、瑞成堂でまた一緒にやらないすか?」
おれの不安混じりな問いかけに、大和さんは何も答えようとせずハンドルを握っている。
やっぱり無理か。そうだよな。きっと実家に帰って店を継ぐのだろう。
交差点の赤信号が赤に変わると、トラックは静かに止まった。夕日がコンクリートの街を鮮やかなオレンジ色に染めている。おれは落胆の色を悟られないように外を眺めていた。
「翔平……」
その言葉に振り向くと、大和さんは力いっぱいおれの身体を引き寄せて熱いキスをした。
数日後――。
おれは朝の仕込を抜け出すと、いつものように店の木戸を開けた。明るい光が朝の空気に輝き、暗い店の中に差し込んでくる。外に出て見上げれば、空がどこまでも青く高い。今日も藍色の地に白塗りで描かれた『瑞成堂』の暖簾を軒先に掲げた。五月の風にたなびく暖簾を誇らしげに見つめていると、調理場から大和さんの声が聞こえてきた。
「翔平! この仕込みはどうなってるんだ!」
「はーい! 今、行きます!」
おれは今日も一緒に、立派な和菓子職人を目指して修行中だ。
瑞成堂は、今日も日本晴れ!
瑞成堂。今日も日本晴れ! ~おれの恋と和菓子修行~
自分が物語を書くときは、最初に象徴的な一枚の絵が浮かびます。
この作品の執筆にあたり最初に浮かんだ絵は、二人の職人が藍色の作務衣に身を包み、凛とした空気の中で和菓子を作っているというものでした。二人は歳は大きく離れていない、兄弟のような関係。兄弟子は弟を思いやり、弟弟子は兄を尊敬する。少し暗い作業場のような場所に、窓から輝くような光が差し込む。それは素朴で清楚なもの。
『栗の木坂の山下家』を書くだいぶ以前から、実はこの作品の構想は始まっていました。職人気質の厳しい世界の中で、一人前の職人になる夢や、弟弟子が兄弟子に憧れ恋をするという少し堅い感覚にしようと大枠を決めていきました。
しかし、書き始めてから完成までは難産でした。和菓子職人という専門性の高い世界は触れたことがなく、情報収集も必要です。ネットで様々な和菓子の店の商品を見て、中学生向けの仕事情報サイトから仕事内容を調べ、動画サイトで和菓子職人の特集の番組を探したりもしました。
情報収集、イマジネーション、下書きと、今までにない程、完成までに時間がかかった作品でした。そんな長い執筆中に、集中が途切れ、一度、この作品は書くのを辞めてしまったのです。
その気分転換に書いてみたのが、賑やかで楽しい雰囲気の山下家の物語です。実は、ススムやコウジは、瑞成堂の副産物的に生まれたキャラクターでした。山下家はすらすら筆が進みました。異なる色の物語を書いたことが、自分にとって良い気分転換になり、瑞成堂にも良い影響になりました。執筆を再開し、何度か詰まるところはありましたが、本作を最後まで書き上げることができました。
出来上がった翔平と大和の物語は、最初にイメージしていたものとは少し違っていましたが、それはそれで良いと思っています。
この作品は二〇一六年に執筆し、同時期に小説投稿サイト「星空文庫」等で発表したものを、訂正、加筆を加えて最終完成版としました。
最後までお読み下さり、ありがとうございます。
二〇一七年七月