ボレロの日 一幕

ボレロの日 一幕

「ボレロの日」一幕

「─一体、どんな刺激を受けたんですかァ?」おちゃらけた声が朝会中の事務所に響いた。
スピーチ途中の絵美が話を止め、むっとして声の方を見ると、
「どこらへんに刺激を感じたんですかァ?」男が更にからかい口調で声を上げた。
「─どうしたって皆、仕事中心の毎日で自分の趣味も中々出来ないでしょ。リサイタルで久し振りに感動して改めて感化されたって、わたしはそう言ってるんですッ─話の腰を折らないで下さい。本当に失礼な人ッ─」思わず語気を強めて男に向かった。
昨晩、同じ職場の男の研修生に誘われてクラシックピアノのコンサートに出掛けた。
自身も小さい頃からピアノを習い音大を目指し、受験に失敗し頓挫はしたがピアニストへの夢は忘れた訳ではない。
研修生もバンドマンを志していたとの事で飲み会の際音楽のことで意気投合し以来、自分への好意を表わすようになった。
男も研修生とは仲が良く彼の想いを知らない訳がないのだ。
昨日コンサートデートに出かける時にも散々冷やかしておきながらこうして本人たちを目の前にして無遠慮に公然と茶化す態度が忌々しく腹立たしかった。
男は絵美より一回り以上も歳上だが時折子供じみた小意地の悪さを向けてくる。
からかわれると直ぐにムキになる絵美を面白がってか時と場所を選ばず事あるごとにちょっかいを出して来たりするのだ。
浅黒い肌に地毛なのだろう、少しカールの掛かった茶髪で長めの髪を真ん中から分け目は奥目だがくっきりした二重で日本人ばなれした彫りの深い風貌はちょっと見、若かりし頃のアル・パチーノにも似ているかも知れない。
喋らなければ渋いイケメンの中年としてモテるのだろうが歯に衣つけぬ滑らか過ぎるお喋りがしばしば人の心を傷つけ、外見との落差もつけてしまう。
家庭を持っていたが三月ほど前離婚したと聞いた。
営業職員と云う仕事柄、不規則な帰宅時間が夫婦の不和をもたらし家庭崩壊に繋がったと本人は吹聴しているが絵美はもっと本質的なところにある男の欠点欠落に問題があったのだと決めつけている。
「─おい君、人のスピーチに口を挟むもんじゃないぞ─」支店長が窘めると男は、
「すんません」と頭を下げたが次いで悪びれることもなくこちらに向かって赤い舌を出した。
その日は苛立たしい気持ちが一日中消えず仕事も思うように捗らなかった。
月末の集計日も迫り溜まった山積みの書類の処理にやむを得ず残業を申し出た。
三々五々、皆が帰った後も閑散とした事務所で一人パソコンの画面に向かっていた。
スマホから小さく流れる最近お気に入りのユニットの歌声が耳に心地良く事務処理も順調に進み出し始めた時突然バン、と勢い良く事務所のドアが開いた。
師走の冷たい外気と共に入ってきたのは地黒の頬を更に紅潮させた男だった。
「あーら、まだ仕事終わんないのォ─?」近づけた顔のヘラヘラと締まりなく緩んだ口元からむっとする煙草臭さに混じって深い酒の匂いが漂ってくる。
「─ウッ、お酒と煙草臭いッ、禁煙したんじゃなかったんですか─」思わず手で鼻を覆って言った。
男はスピーチ当番の折禁煙したことを公言した筈だった。
「─あのね、約束なんてね破るためにあんのよ。お嬢ちゃん」男はオネエ言葉で小馬鹿にした様に言うと絵美の机の前に椅子を持ってきてドスン、と腰を下ろした。
男は飲み会などで酒に酔うと癖なのか突然オネエ言葉を乱発し始めあちこちに絡み始める。
「─何ですか。お嬢ちゃんって、─そうやって直ぐに人を馬鹿にするのやめてもらえません?」
書類をめくる手を止めて目を吊り上げて詰問口調で迫る絵美を酔眼で見返すと、男はニタッと笑った。
いつもこの手で挑発されてしまう。男の暇つぶし、絶好のからかいの標的に晒されてしまう。分かっている。分かってはいるが向けられた雑言をただ聞き流すのは我慢がならない。
「お嬢ちゃんでしょ?知ってるんだから。パパは当社のお偉いさんだしぃ─」男は酔眼を向けてそう繰り返した。
父親が本社の重役に身を置いていることを知っている者は少ない。
色眼鏡で見られることを嫌い入社と同時に父親を通じて周囲には内密にしてもらっていた。
男が何故その事実を知っているのか不思議だったが大方役職の誰かがで酒の席で口を滑らせでもしたのだろう。
「─父は父、わたしはわたしです」そう毅然と言い放った。
するとその態度が可笑しかったのか男はクックッ、と笑い出し机に頬箱をついて身を乗り出して来た。
思わず身をのけぞらせ身構えた時、
「─あ、いたいたッ」件の研修生がドアから顔を覗かせ声を張った。
「─何だよ止めろよ。また、絵美ちゃんに絡んでんのかよ─?」研修生が絵美の顔色を素早く察して窘めた。
「─あちゃあ、しまった。彼氏が来ちまったよ」
男は虚ろな酔眼を研修生に向け悪戯な目つきをこちらに戻した後、またからかう口調でそう言いながら徐ろに立ち上がると無遠慮に大きな欠伸をした。
「─ごめんね。直ぐに連れて出るから。あ、これ、差し入れ─」研修生は男の肩に手を回すとドアの外に連れ出しながら目配せをして香ばしい匂いの漂う油紙の包みを差し出した。
「─ありがとう」素直に受け取り礼を言った。
「あのさぁ今度、二人きりで飲みに行こうねェ─」階段を下りながら男のけたたましい声が遠ざかっていった。
包みの中は焼きたてのお好み焼きで駅前でよく見掛ける屋台のものだと思われた。絵美はふと笑みを浮かべた。
飾り気なく自分の気持ちを真っ直ぐに表わす研修生の言動そのままの差し入れだと思った。
まだ湯気を立てている熱々の生地を一口かじると旨味が空きっ腹を刺激した。

『─勘違いさせちゃ可哀想だよ。タイプじゃないんでしょ。モテるのは分かるけど駄目だよォ、いつも八方美人じゃ』同期の悦子の言葉が耳に蘇る。
コンサートの帰り研修生は別れ際に真剣な交際を申し出てきた。
「─誰かつきあってる人、いるの?」返答を躊躇っている絵美に彼が言った。
目を伏せ首を振り、
「─今はまだ誰かとお付き合いするとかなんて考えられないの。異動になったばかりで仕事にも慣れないし─」そう応えた。明らかに曖昧な返答だったが何かと自分を気遣い先回りした優しさを示してくれる気持ちを傷つけたくなかった。
「─なら待つよ。色んな事が落ち着くまで。いずれにしてもはっきりした返事をもらうまで俺は諦めないから」迷いなくきっぱりした意思を表した言葉に困惑しまた曖昧に頷いてしまっていた。

「─だって絶対違うでしょ。あんたの場合は綾野 剛、だもんね─」ランチのサラダを頬張りながら悦子が言った。
「─でもさあ、もう二十五だよ?わたしたち。高望みしてる内、あっという間におばあちゃんになっちゃうんだから。─ま、あんたは美人だからさ。気持ちも分かんなくもないけど─。あ、ゴメン、それ取って─」
「─どうしたらいいのかなあ」手渡したドレッシングを大量に掛ける悦子の手元を見ながら吐息混じりに呟いた。
「それよそれ─、そもそもそれが良くないと思うのよね、わたしは。昔っから来るものは拒まず的な云わば八方美人じゃない、あんたって。勘違いさせちゃうのよねえ男を。可愛そうだよ。変に期待持たせて勘違いさせちゃあ─。それにさ、もういい加減にしなよ。なんていうか恋に焦がれてるっていうか。理想ばかり追っかけんのは─」忙しげにフォークを動かしながら悦子が言った。
「─何か傷つくなあ」絵美が口を尖らせ目を上げた。
「何が」小首を傾げ悦子が見返した。
「─あんまりはっきりし過ぎてて、悦子って─。何だかすんごく傷ついちゃう」辟易した風にそう言うと、
「─何言ってんのよ。あんたもいい大人なんだからさ。はっきりさせなさいよ。恨まれるわよ、しまいには─。直接言いにくかったらメールでも何でもいいじゃない─」悦子はそう言った後大きく溜め息をつき、
「─あんたみたいな器量良しの気持ち、わたしなんかには分かんないな。彼なんていい線いってると思うけど─、真面目だし。まあまだ研修生だから将来に少し不安はあるけどね─でもいいなあ。モテて─」しげしげと絵美の顔を見つめそう言葉を続けた。
「─そんなんじゃないよ」うんざりした口調でそう応えた。
「─でもどうしてだろうね─。あんた、朝会の時あんなにはっきりあいつに反発してたじゃない。いつもあんな感じでいいのに」悦子が笑った。
「やだ、あれは特別よォ。あの人何かいっつもわたしに突っかかって来るんだから。ホントに感じ悪いったら─」そう返し口を尖らせると、
「欲求不満なのよ。離婚したばかりだって言うし─でも、結構絵美に気があったりして─」そう言って悪戯な目つきを向けて来た。
「ちょっと、悦子ッ─」思わず絵美は語気を荒らげて悦子を睨みつけた。
「いやねえ。冗談に決まってんでしょ─」悦子はその剣幕に一瞬気圧された様に慌てて両手を振った。
「─悦子は?どうなってんの?」気を取り直してそう訊いてみた。
「─ん?何が」悦子が目を上げた。
「前に言ってたじゃない─。また歳上の人と付き合い始めたって─。そっちこそどうなってんのよ」身を乗り出してもう一度訊くと、
「─ああ。あれね─。ダメ─結局、実らなかった─。実はまた妻子持ちなのよ、─彼─」俄かに声を沈ませてそう応えた。
絵美はカップスープを掴みかけた手を止めて黒目勝ちの大きな瞳を上げた。
「─駄目なのよね。もう懲りてた筈なのに、家庭持ちには─」悦子は目を伏せそう呟くと何かに耐えるように唇を噛み締め暫くの間の後、
「─ま、とにかくあんたは頑張んなさいよ。理想を追いかけるなら追いかけるで。─でないとそろそろ意に染まないお見合いで結婚、なんてことになっちゃうんだから、ね─」気を取り直した風にそう言うと冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
その懸念通り既に見合い話が持ち上がっていた。
世話焼きの叔母からの勧めだった。
全く乗り気がしないそんな話にもはっきり断れない自分の優柔不断さにも呆れ、溜め息をついてしまう。
結婚はある意味人生の出発点であり人生の日没でもある、と云う言葉を聞いたことがある。
女の春は短かい、とはこぼした愚痴の中で母が言っていた。
自分もいつの間にか二十代の坂の半ばまで昇った。
悦子の言う通り確かに無為の内に歳を重ね転げ落ちるように坂を下りながら瞬く間に老いてしまうのだろう。
だからこそ今、もっと様々な経験をしておきたい。恋愛に関して云えば経験も浅く人を愛した、と胸を張って自答出来る憶えもまだない。
目の前で失恋してもあっけらかんとしている恋多き同期の逞しさに羨望の視線を注ぎながら絵美は言われる通り恋に焦がれている自分を改めて認めた。

 営業所では毎月初まで特に事務方は多忙を極める。
加えてつい先週新たに計上試算のプログラムが変更され一気に忙しさが加速した。
残業続きに心身共に疲れ果てていたある晩の事だった。その日はたまたま男と二人事務所に残っていた。
「まだ終わんないの─?」パソコン専用のブース仕様の仕切り版から顔を覗かせて男が言った。
「─終わりませんけど。」モニターの画面から目を移さずにそう素っ気なく応えた。
「俺は帰っちゃうんだけど─」
「─どうぞ、お先に。」またどこか含みのありそうな言葉を無視して無感情に帰宅を促した。
「─あ、そ。じゃ、お先に」そう言うと手を上げて事務所を出て行った。階下に足音が遠ざかると絵美はホッと息をついてスマホを取り出し音楽を流し始めた。
嫌悪感を抱く男と広くない一室にいるだけで息が詰まりそうだった。
契約書類の書式も一新された事で営業職にも面倒な負担が増えここ数日男も残業を余儀なくされていた。
再チェックのため集められた各職員の帳票類を確認しているとある事に気づいた。
顧客データを含め提出された収支管理の台帳に殆ど不備がないのは男のものだけだった。
「─へえ」思わず感嘆の声を漏らした。
ふと営業職員の席側にある壁に掲げられた赤色のグラフがダントツに伸びている男の成績に改めて気づいた。
男はしばしば好成績で表彰を受けている。
「─仕事はよく出来るのよね」そう呟いた時ドアが開き、男が戻ってきた。忘れ物でも取りに戻ったのかと思ったが真っ直ぐ絵美の机の前に立つと、
「─はい。これ」そう言ってブースの隙間から湯気の立ったプラの容器を差し出してきた。
少しの間の後、
「─ありがとうございます」そう応え素直に受け取ると、
「ホットココア。コーヒーは胃に良くないらしいから─。なるべく早く帰った方がいいよ」男はそれだけ言うと事務所を出て行った。
「─ふうん」絵美はまた男に意外な一面を見たような気がして半ば感心した風に呟いた後、温かいココアを一口啜った。
こなしても仕事量の減らぬまま師走に入ったある日突然、男から誘われた。その日も最後まで残っていたのは二人だった。
「─腹減らない?もう直ぐ終わりそうなら飯でも食いに行こ?」流石に連日の疲れが溜まっているのか憔悴した目で近づき男が言った。
「─いいですよ」あっさり頷いた自分が意外だった。
同じ空間で男と時間を共有し集中して仕事に励む男の真摯とも感じる一面を見ている内にいつしか表立った嫌悪感も薄らいでいた。

 丁度週末で混み合った店内の狭いテーブルに向き合っているとここでも男はごく自然に気遣いを見せた。
店に入った時も案内された入口近くの席で絵美を寒風に晒されない様、壁を背にした奥の椅子に座るよう促しさり気なく熱いおしぼりの封を開けてくれたりフォークを取ってくれたりもした。
本当に些細な事かも知れないが普段の言動との良い意味でのギャップは思いもかけなく心地良く少しだけだが男を見直していた。
「─嫌いでしょ、俺のこと」食後のコーヒーを一口啜った後、絵美の目を真っ直ぐ見つめて男が言った。
「え、─べ、別に、何とも思ってません─」初めて男の瞳と対峙した気がして思わずどぎまぎしてそう応えた。
「─いいんだ。別に、人に好かれようなんて思ってないから。─昔っから嫌われもんで通ってるからね」そう言うと男はさも可笑しそうに笑った。
「─でもね、あんたには─」続けてそう言い掛けた時、携帯の呼び出し音が鳴った。
「─ちょっと待ってね」男はそう言うと発信元を確認し少し慌てた様子で携帯を持って店の外へ出ていった。
絵美は賑やかな店内を見回しながらふと笑った。
今男と二人きりで食事をしている所を悦子が見たら何と言うだろうか。
地方に出張中の研修生が知ったら軽蔑されてしまうかも知れない。
恋愛感情がある筈もないが評判の良くない男とのデートに少し悪戯な刺激を感じている自分が何だか可笑しかった。
コーヒーが冷めた頃男が漸く戻ってきた。
「─参ったな」そう呟くと外の寒気のせいなのか心なし紅潮させた頬を擦りながら席に座ると暫くの間黙ったまま俯いていた。
「─仕事のトラブルですか?」そう訊くと男は漸く目を上げ疲れきった様に首を横に振り暫くの間の後、
「─ほら」そう言って携帯の待ち受けを見せた。
画面一杯に元気そうな笑顔の三人の男の子の顔があった。
「─弁護士からでね。─こいつらの親権の事で」そうポツリと言うと、冷めたコーヒーに指を伸ばした。
立ち入ることの出来ない範疇を察し絵美は黙って男の手元に目を落とした。
 車で送ると言う男の申し出を断り色づいたまま枯れ落ちた銀杏の葉を踏みながら街頭を歩いた。
時折吹きつける冷たい風が店の暖房で火照った頬に気持ちよかった。
イタリアンの食事も美味しくどうなるかと思っていた男との会話も思っていた程窮屈ではなかった。
仕事柄か男は思いの外話題に豊富で退屈させることがなかった。
残業に追われ鬱積していた気分も晴れ少し弾んだ足取りの自分に気づいたがそれは久し振りに美味しいものを食べたせいだと思った。
空気の澄んだ星空を見上げた。その時、
「─でもね、あんたには」あの時そう言い掛けた男の言葉を思い出した。
それは先刻の男の沈んだ面影と不意に重なり絵美はふと歩みを止めると、思わず来た道を振り返った。



        以下 二幕へ

ボレロの日 一幕

ボレロの日 一幕

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-14

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