「子供はみんな私の子供だから、私に似ている」と思っていたが、そうではなかった。ミカンより、柿が好き。私は、ろくでなしの夫を持ち、舅や姑にいじめられ、パートの仕事も失い、悔しい思いばかりをしてきた。子供が成長して家を出ると、私は夫と別居をする。子供たちは大人になって、私を叱るようになる。「泣き言ばかり言ってないで、何からでもやってみろよ」私はもうすぐ、おばあちゃんになろうとしている。

私はろくでなしの夫を持ち、悔しい思いばかりをしてきた。そんな人を母に持った子供は、どんなに辛かったろう。「泣き言ばかり言ってないで、何からでもやってみろよ」子供は成長し、私はおばあちゃんになろうとしている。

子供がたくさんいたから、ミカンばかりを買っていた。ミカンの中のビタミンCが、風邪の予防になるし、ミカンはおやつの代わりになるし、なにより、安く買えるからだ。
スーパーのチラシに載れば、小さめの段ボール箱一杯分のミカンが、千円くらいで買える。軽乗用車ですっ飛んで行って、後ろの荷台に積んで帰った。
子供は男の子ばかりだったから、ミカンは、
(口淋しい時に、おなかの足しにもなるだろう……)
そう思っていた。
私はミカンが安く買えたのが嬉しくて、子供の前で、その段ボール箱を開けて、
「ほら、いっぱい食べていいよ」
 と言った。
 子供はやさしい子ばかりだったから、段ボール箱一杯に詰まったミカンを見て、うれしそうに笑った。それぞれが、一つ二つ、手に取って、テレビの前に座って食べた。
けれど、十日もすると、ミカンは忘れられ、部屋の隅の段ボールの中で、緑色の粉を吹いている。下の方から、カビが回っていた。
もったいないから、早く食べるように言うと、子どもたちから、生返事が帰って来る。
安いのを、スーパーで、重いのに、せっかく買ってきたのに、と言うと、しばらく黙っていたが、子供の中の一人が、ちょっと考えてから、
「僕たちは、ミカンは好きだけど、こんなにたくさんは、いらない」
と言った。
「栄養はないかもしれないけど、スナック菓子の方が、好きなんだ」
とも言った。
スーパーへ行くと、ミカンの傍には柿が置いてある。柿はミカンに比べると、値段が割高だった。
それに私は柿より、ミカンが好きだった。というより、柿はおいしくない、と決めてかかっていた。包丁で、皮を剝くのが面倒だったし、子どもたちは私の子供だから、私と同じように、柿よりミカンが好きだろうと、思い込んでいた。
けれど、そうではなかった。
パート先の上司が、職場に柿を持って来て、一袋ずつ、くれたことがあった。
ちょっと小ぶりな、四角い平べったい、だいだい色というより、朱に近い色の柿が、十個ずつ入っていた。なんとかという、品種を掛け合わせたもので、とても甘いのだけれど、今年は柿の当たり年で、食べきれないから、どうぞ……、と言うので、遠慮なしに貰って帰った。
ただより高いものはない、と言うけれど、ただより安いものもない。
私は、持って帰ったその柿を、夕ご飯の後に、包丁で、剝いた。
おいしくないだろうと思っていた柿は、剝いて八割にしてお皿に入れると、そばから小さな手が次々と出て来て、持って行ってしまう。
「おかあさんにも、一つだけ置いといて……」 
と頼んだ。
貰った半分の五個は、明日の楽しみにして、
お皿に残してくれた、ちょっと大きめの一つを、齧ってみた。
 思ったより、柿はおいしかった。というより、とても甘くて、おいしい柿だった。
……夫は、生活費もまともに入れてくれないろくでなしだった。こういう人間を、〝ろくでなし〟、と言うのだと気が付いた時には、四人の男の子の母親になっていた。
……夫は、親の仕事を継いで、背負わなくてもいいはずの、親の作った借金までしょい込んだ。「子供が四人もいるんだから、誰かが後を継ぐかもしれない」、と言ってみたり、「いくら借金があったとしても、どうせ俺が〝ばんざい〟するんだから、借金はいくらあっても、同じだ」、とか言い出した。
……舅も姑も、夫のそんな性格を知っていながら、それを利用した。夫と共同名義の、高い材料を使った大きな家を建てた。家のローンは払わされるは、給料は、まともに払ってくれないは、仕舞いには、私が給料の支払いを、催促するのを面白がって、余計に、払いが悪くなった。
それどころか、
「嫁の出来が悪いから、家が傾いた」
 などと、近所に悪口を言って回った。
大きな鍋にカレーを作って、三日食べた。二日目のカレーは美味しい、と言うが、そんな悠長なことは、言ってられない。
一日目は、カレーライスにして、二日目には、カツカレーにして、三日目には、カレーうどんにして、食べさせた。キャベツの千切りに、薄切りのハムを二枚添えただけのサラダを、子どもたちは、喜んで食べた。
どの子かが、薄切りのハムの真ん中を齧って、そこから目を覗かせて、笑った。
「こんなのは、ハムじゃない。ハムの味がしない」
と言ったのは、夫だった。
「ハムが付いているだけで、子供が喜んでいるのに、おまえはなんだ、これしか買えないから、仕方がないじゃないか」
と叫んでいた。
一人が風邪を引くと、次々にうつって、四人に一回りして、全員が元気になるのに、二週間は、かかった。二週間休ませてくれる職場なんて、なかった。
迷惑がられて、職を失った。
悔しい思いばかりしてきた。そんな人を母に持った子供は、どんなに辛かったろう。
アルバムの中では、みんな笑っている。うれしいから、笑っているのではない。悲しいから、笑っているのではない。ただ一生懸命、
笑っているのだ。
ゆとり教育が始まると聞いて、耳を疑った。
二宮金治郎の、薪を背負った石像を見て育った私には、〝信じられないこと〟だった。私が中学生になってすぐの頃、
「資源のない日本の、資源はなんですか」
 と社会科の先生に問われ、手を上げて、
「人間です」
 と、答えた自分を、誇らしく思っていたからだ。社会科の先生は、私を肯定し、この国の教育の素晴らしさを説いた。
「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
 という、この国の教育の基礎を築いた偉い人の言葉を、尊敬の気持ちも添えて、教えてくれたのだった。
ゆとり教育が本当に始まることが分かった
時、学校の先生の様子がおかしい、という噂が広がった。どういうことか、気になって、私も、子供の担任の先生に会いに行った。
「ゆとり教育が、本当に始まるのですか」
 と訊くと、
「はい、そうです……」
 と答えながら、腑が抜けたような顔をしていた。
「学校は、勉強を教える所ではなくなった」
 から、無理をして、子供を塾に通わせるようになったのは、私だけじゃなかった。
末の子が高校を卒業して、家を出ると、私も家を出た。
夫と別居することを、反対する子は居なかった。それどころか、
「なんでもっと早く、行動を起こさなかったんだ」
 と、責めるような声を出した。
「もっと早く決断していたら、違う人生が、おかあさんにはあったのに……」
そのことを恨んでいる、とも言った。
安いアパートに引っ越して、一人分の食事を作るようになった。
春が終わり、夏が過ぎて、秋が来た。
十一月に入ると、急に肌寒くなる。
それでも、朝、六時半ごろには目が覚めた。 
ちょうど日の出の時間である。
カーテンを開けると、窓の向こうの山の上に、朝日が乗っている。薄いだいだい色の朝日は、思ったより、速いスピードで空へ昇って行くものだ。
子どもたちが居た頃は、六時に目覚ましを掛けて、飛び起きるとすぐ、お弁当を作っていた。
朝日を拝むどころではない。
卵焼きに、冷凍食品をチンするだけの、楽しみのない、お弁当だったけれど、だれも文句を言わなかった。
知り合いの、お古を貰って来ては、子どもたちに着せていた。
いつだったか、
「あなたは、旦那さんのことが嫌いでしょ、だから子供をつぎつぎと作るんでしょ、……そんな人が、時々いますよ」
と、言われたことがある。身に覚えがあるのか、
「でも、私は子供は好きです、私の子供です
から」
 と、言い逃れをして、俯いた。
性悪女の、化けの皮が剥がれた瞬間だった。
大家さんが尋ねてきて、柿を一つ、くれた。
「形はいびつだけれど、味はおいしいよ」
 と言って、アパートのすぐ脇にある柿の木を、指差した。
今日、くれたその柿を、私は包丁で、くるくると剝き始める。オレンジ色の大ぶりな柿は、八割にしても、十分な大きさがあった。
自分のためだけに剝いた柿を、まるごと一人で食べる日が来るなんて、考えてもみなかった。
 愛のある家庭を造るつもりだった。平和で明るい日々に育まれて、私の子供は大人になるのだと信じていた。
愛のない家庭を造ってしまった。悪い手本のような、父と母になっていた。私さえ我慢すれば、いつか分かり合える日が来ると、思っていた……。
大学へ行くために、三月に別れた子供が、ゴールデンウイークに帰って来るのは、約束事のようになっていた。
思い思いの格好で帰って来る息子に、
「おまえ、かっこ良くなったねえ」
 とか、
「都会の子になったみたいに、見えるよ」
 とか、言うと、
「そう、かな……?」
 と、はにかんでいた。
あとで分かったことなのだけれど、本当は、みんな、仕送りやアルバイトでは、生活費が足りなくて、痩せて帰って来ていただけ……、だったらしい。ばらしてもいい頃合を見計らって、
「おかあさんと一緒に居た時は、良いものではなかったけれど、おなか一杯、ご飯が食べられて、幸せだったよ」
 と、笑って見せた。
柿色の朝日が、明日も昇るのだろう。
就職も、安定した生活も、儘ならない世の中になった。自分を守るために、誰かを傷つけなくては生きていけない、そんな世の中は、やさしい子どもたちには辛かろう。
ブラック企業だの、ブラックバイトだの、若い人を見かけると、自分の子供が向こう側に映って見える。そうやって、自分の居場所を見つけなくてはならない、それを、当たり前のようにやり過ごす、そんな時代に、子供を産み落としてしまった……。
大学へ行くために、借りた奨学金の支払いもあるだろうし、日々の生活費も、十分ではないはずなのに、
「おかあさんには、俺たちが、ひとり一万円ずつ、ひと月ごとにあげるから、ひと月四万円。あとは、おかあさん、自分で何とかしろよ。おかあさんの人生なんだから、とにかく何でもやってみろよ」
 と言った。 
「泣き言ばかり言ってないで、何からでも、やってみろよ。協力できることは、なんでもするから、俺たちに頼っても、出来ることと出来ないことがあるんだよ」
 と、私を叱った……………。

もうすぐ、私はおばあちゃんになる―― 

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-14

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