能面とひょっとこ
どこまでも続きそうなあぜ道を親父の車がのろのろと走っていく。一年半ぶりに見るこの風景は何も変わらない。それが俺を寂しくさせた。どうせなら何もかも変わっていればよかったのに。そうすれば、今更故郷に愛着を感じることなんてなかった。
蝉がうるさい季節になり、俺は大学が休みに入ると同時に実家に帰ることを決意した。ただお袋に「今年は帰ってこい」と言われたからなのだが、たまには田舎の空気を吸いたいと思ったのも事実だ。
電車を降りて息をした瞬間、俺には都会よりも田舎が合っていると思った。東京は便利だが、いろいろと複雑だ。駅も、大学も、人間関係も。このまま都会に帰りたくないなんてことになりそうで困る。
「東京は大変だろう」
隣で運転する親父がふいにそう言ったのに、俺は頷いてから車の窓を開けた。風が頬を撫でて、するりと去っていくのが心地よい。外の空気を吸うと何でこんなに落ち着くのだろうか。
「でもやっぱり大学に行ってよかったよ」
別に嘘をついているわけではないのに、言いづらい言葉を無理やり出しているようになってしまい、すぐに親父の顔を見られなかった。けれど隣でふっと息を漏らす音が聞こえたら、もうどうでもよく感じた。
「そうか。それはよかった」
ちらりと横目で見た親父は嬉しそうに、でもどこか寂しげに見えた。俺は親父に聞こえないようにため息をついた。まだ家にも着いてないのにこんなに後悔していたら、あいつに会ったとき大変なことになりそうだ。
「着いたら朝子ちゃんに会いに行きな。あの子、陽が帰ってくるの楽しみにしてたよ」
心臓が飛び出るかと思った。心の中を読み取られたのかと疑いたくなる。目を丸くして親父の方を見ると、彼はけっけと笑っていた。俺はその態度が憎らしくて、返事をせずに外に目を向けた。
親父の言った「朝子」とは俺の家の隣に住む女の子で、昔から家族ぐるみで仲が良い。俺が東京に行ってからはメールを少しする程度になってしまったが、俺の知っている女の子の中では一番仲が良い、といっても他の女の子なんてほとんど知らないのだけれど。
「ほら、もうすぐで着くよ」
親父の声に我に返って顔を前に向けると、久々に見る自分の家があった。相変わらずのボロ屋敷だが、今ではそれがなければ物足りないくらいに思える。そして少し離れたところに朝子の家がぽつんとあった。
車を降りて親父に礼を言うと、「朝子ちゃんに挨拶して来い」と言われた。自分の家で休んでからにしようとも思っていたが、早く朝子に会いたい気持ちはあったので、俺は家に入る前に彼女の家に向かった。東京じゃ見られないような平屋がたまらなく懐かしい。
戸を叩くと中から朝子のお母さんが出てきた。驚いたような顔をして「まあ」と声を上げたが、すぐに昔と変わらない人懐っこい笑顔を向けてきた。
「陽くん! 久しぶりねえ。ちょっと凛々しくなった?」
笑いながら俺の顔を覗き込む。俺はお辞儀をしてから苦笑いを浮かべ、短い返事をした。すると、おばさんは思い出したかのように大きな声を上げてこう言った。
「ああ、朝子ね! 呼んでくるから中入ってな」
そして大声で「あさこー!」と呼びながらドタドタと走っていく。俺は玄関に入って待つことにした。昔は遠慮なく上がって朝子を探していたなあ、と思うと少し恥ずかしく感じる。
おばさんがなにやら怒鳴っているのが聞こえる。大丈夫だろうかと不安になっていると朝子らしい人が長い廊下を歩いてきた。俺は息をするのも忘れてそれを見た。彼女は能面をつけて俺の前に立っていた。
「え、朝子?」
女はコクリと頷くだけで何も言わなかった。呆然として見てみるが、昔から変わらないショートヘア、そして朝子らしい白いシャツに緑のパーカー、ジーパンという格好に、その能面は明らかに浮いていた。
俺が固まっていると、朝子のお母さんが彼女の隣に飛んできて俺に頭を下げる。何が起きているのか分からなく、混乱する中でおばさんはさらに混乱させる言葉を言った。
「なんだか分からないけどお面はずしてくれないのよ。ごめんねえ」
もう何も考えられなかった。俺は口を開けたまま朝子を見つめ、はぁ、とだけ返事をする。その瞬間、朝子が俺の腕を掴んで外へと連れて行った。顔が見えないとなんだか知らない人のようで少し怖かった。しかも能面なら尚更だ。
「夕飯までには帰ってきなさいよ」
背中にかけられる声を聞いて、朝子がボソッと何か言った。いつも元気に返事をする朝子を知っているからか、その姿に驚きを隠せなかった。本当に知らない人のように感じてしまう。
「なあ、何でお面なんてつけてんの?」
聞けばすぐ答えてくれそうなんて思った自分が馬鹿だった。汗が首筋を伝い、掴まれた腕が熱い。朝子が何も言わないせいで蝉がうるさく感じた。
俺の実家の裏の方に行くと、小川があって、そこに架かっている小さな橋に着くと、彼女はぴたりと止まった。そして振り向き、俺を見上げる。心を失ったような無表情に、俺は言葉を出すことをためらった。
彼女は何も言わず、小川に目を向けた。それがなんだか悔しくて、俺は小さく息を吐く。そして、朝子に張り付いた能面に視線を向けた。
◆
お母さんに陽が帰ってくると聞いたときは本当に嬉しくて、自分のパンパンに張った顔のことなんて全く気にしていなかった。しかし、さっき陽が私の家に来たとき、鏡を見てまずいと思った。おばあちゃんの部屋にあった能面を咄嗟に付けたときの母の怒鳴り声が、まだ頭に響いている。
久々に見た陽の顔は少し大人びていて、かっこよかった。でも、私を見て現れた間抜けな顔は高揚した気分を落とした。彼の顔があまりに変だったからではない。私のことを知らない人のように見ていたからだ。
いたたまれなく、私は彼を連れて外に出た。掴んだ腕から伝わる熱と手に滲む汗が、陽の存在を肯定する。ああ、今近くにいるんだ。そんな当たり前のことですぐに気分が戻る私は、なんて安い女なんだろう。
小川の橋で止まり、陽を見上げた。なんだよ、とでも言いたそうな顔で彼が見つめる。言いたいことはたくさんあった。久しぶり、とか、何日までこっちにいるの、とか。けれど、能面を付けて登場したあとでこんなことを言うのは恥ずかしかった。
結局何も言わず、小川を見つめる。そこには予想以上に恐ろしい私の顔が映っていた。隣で彼のため息が聞こえたような気がして、私は焦った。それと同時に自分が嫌になった。
ごめんなさい、と言おうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。見ると私の父が機嫌良さそうに笑いながらこちらに向かってきていた。
「あれ、陽か。長旅ご苦労だったな」
父は陽の肩を叩いて、何が可笑しいのかははっと笑った。陽は苦笑い気味である。
何でこんなところに父がいるのか疑問に思ったが、手に握られている布巾を見つけて明日の夏祭りの準備に朝から出ていたことを思い出す。少し先に視線を向けると、屋台が並んでいるのが見えた。
あれ、という父の声に気づいて見ると、父は私をじっと見ていた。そして陽と顔を合わせてぽつりとこう言った。
「陽の彼女か? なんか変な子だね」
「朝子ですよ」
一瞬間が空いてから父は吹き出して笑った。けれども私は黙って立っていた。何か言ってやりたかったが、やっぱり能面が邪魔をする。こんな無表情では何を言っても恥ずかしい思いをするだろう。そして陽の前でそんなことにはなりたくなかった。
なんとか陽が父を落ち着かせると、陽は「人形焼」と書かれた屋台を指差した。
「そういえば、屋台今年もやるんですね」
父が人形焼の屋台を出すのは毎年恒例であった。いつも得意げに作るが、東京に行った陽はもっとおいしい人形焼を毎日食べているのではないかと思った。そう考えると東京って嫌なところだと思ってしまう。『大学』で陽を連れ去って、さらには陽の好きな『人形焼』で離さないようにするなんて。ずるいというか反則だ。
もしかしたら、もうこんな田舎にはいたくないのかもしれない。数日経ったらさっさと帰って、もうここには来ないつもりかもしれない。まだそうと聞いたわけじゃないのに、視界がぼやける。
能面のおかげで私の表情が見えない父は、こんな思いをしてるとも知らずに嬉しそうに笑いながら口を開いた。
「ああ、今年も人形焼作るから来いよ。明日の夕方からやってっから」
陽が返事をすると、父は鼻歌を歌いながら屋台へと戻っていった。私は相変わらず黙ってその姿を見つめた。どうかおいしい人形焼を作ってくれ、と祈りながら。
「朝子。さっき何か言おうとした?」
危うく「え?」と声が漏れそうになる。別に漏れてもいいのに、私はそれを飲み込むとごまかすように小川を見た。澄んだ川が音をたてて流れていく。そこに映る能面の横には不機嫌そうな彼の顔があった。
「ねぇ、ちょっと喉乾かない?」
Tシャツの襟を引っ張り、私にそう訊く。それが「家に帰ろう」と言っているのは分かる。でも今どうしても言いたいことが出来てしまった。私は小川を見るフリをして言葉を出そうとした。
夏祭り、一緒に行こう。
その一言がなかなか出ない。ためらっていると、水面の陽が消えていった。驚いて隣を見ると、彼は自分の家に向かって歩いていた。しかし、急に止まると思い出したかのように振り返り、私を見ると戻ってきた。
「ああもう何だよ、しゃべれよ」
再び橋の上に来て、声を荒げてそう言いながら私と目を合わせる。小さな穴から見える陽を私は息をするのも忘れて見た。風が吹いて短い髪が揺れる。私はくぐもった声でこう言った。
「明日、お祭り一緒に行かない?」
言った瞬間、思わず目を閉じた。毎年自然と一緒に行っていたのが、今になって不思議に思えてくる。というかどうやって誘っていたのか分からなくなってきた。
恐る恐る目を開けると、陽は眉をひそめて立っていた。しまった、と思ったときには、彼はもう口を開いていた。
「そのつもりだけど」
……え?
あまりにもあっさりと言われて恥ずかしくなる。そのせいなのか嬉しさでなのか、心臓がうるさい。私は白いシャツの裾をきゅっと握ると、歩き出した。もう空は紅くなってきていた。
◆
約束した時間に外に出ると、もう朝子はいた。水色の浴衣には金魚が泳いでいて、締められた赤い帯がとても可愛らしい。いつも通りの浴衣にほっとする一方で、まだ付けられている能面にため息を吐きたくなる。
俺はどちらとも分からない息を出すと、目線を上に向けた。夕焼けに染まった空を烏が飛んでいく。蝉の声は聞こえるけれど、不思議と暑くはなかった。
何を思っているのか分からない無表情な顔も空を見る。俺はそっと手を出してお面を取ろうとしたが、朝子が慌てて能面を掴んで避けた。おしい。もうちょっとで剥がせそうだったのに。
唇を突き出して不満げな顔を朝子に見せる。でも、返される顔はやっぱり何もなくて、俺は小さな声で謝った。その声は彼女には聞こえなかっただろう。
「行くか、お祭り」
声を絞り出してそう言うと、頷く代わりに彼女は先に歩き出した。その後ろ姿はどこか頼りなさそうだった。
道にはそこそこ人がいた。ちょっと前まではこれで混んでいると思っていたが、東京に行ってから見ると、それほどでもないことが分かる。きっと朝子は混んでいる方だと思っているだろう。
東京の人混みを思い出しながら、俺はおじさんから人形焼を買って食べながら歩いた。朝子は食べるために能面を剥がすのが嫌らしく食べなかった。いつもなら俺の分まで食べるのに。
少し歩いたところでプールにヨーヨーが浮いているのが見えた。朝子の顔を覗き込むが、なんだか「やりたくない」と言われているようで、誘うのを一瞬ためらう。朝子がこっちを向いて首を傾げた。
「あ……朝子、あれやらねえ?」
そう言って見ると、彼女はおじさんにさっさとお金を渡して、腕まくりをし始めていた。やりたいならそう言えばいいのに。その姿を見ながら、俺は少し悲しくなった。朝子が何で顔を見せてくれないのだろう。何で喋ってくれないんだろう。どう考えても分からなかった。
表情や言葉がないと、まったく相手の気持ちが分からない。それがこんなに苦しいことなんて知らなかった。今までずっと一緒で、何もかも知っているような気がしていたのに、今更朝子が分からないなんて思っている自分がなんだか不思議だった。
俺が唸っていると、黄色に赤い斑点模様の付いた丸いものが視界に現れた。「え?」と思わず声が出る。見ると朝子が立っていて、左手には黄色に赤い線の入ったヨーヨーを持っていた。
どうやら俺にくれるらしく、彼女は目の前で揺れているのを無理やり俺の手のひらに置いた。呆然としている俺に、朝子は自分のものを手のひらで弾いて見せる。
「あ、えっと、ありがとう」
それに返事をせず、朝子はそのままヨーヨーで遊びながら先に進んでいった。その後ろ姿を見て、俺は苦笑いをした。
こういうところ、全然変わってない。能面を付けていたって、朝子は朝子のままだった。俺は彼女の能面を無理やりにでも剥がしてしまいたかった。そして馬鹿みたいに笑う朝子の笑顔を見たかった。
彼女が俺を置いて一人で奥に行ってしまうのに、俺は立ち止まったまま動かなかった。ふいに視界の端に何やら鮮やかな色たちが入って、見るとお面がたくさん飾ってあった。子供が好きそうなキャラクターのものが多かったが、俺は目立たないところにぽつんとあった『ひょっとこ』に目がいった。
俺は急いでひょっとこを買って朝子を追いかけた。人を避けて走り、片手に持ったひょっとこを顔に付ける。小さな穴から朝子の後ろ姿が見えた。
◆
手のひらに当たる黄色いヨーヨーを見て、ため息を吐く。陽の慌てた顔を思い出すと、後悔しか浮かんでこなかった。何であげちゃったんだろう。しかも、あんなお揃いみたいなやつを。
失敗はなるべくしたくないのに、恥をかきたくないのに、そんな自分ばかり見せてしまう。そんなのいつものことだけど、今日は気にしなくちゃいけない。陽がまた私に会いたいと思ってから帰ってもらわなければ、困るのは私なのだから。
いつまでも黙ってはいられない、と後ろを向いて口を開こうとしたとき、陽がいないことに気づく。ぐるっと一回りしても見当たらない。私を呼ぶ声も聞こえなかった。
全く気が付かなかった自分に呆れる。帰ってしまったと言われても納得できてしまうのが、また嫌になる。何でこんなに空回りしてしまうのか不思議でたまらない。
はあ、とわざとらしいため息をつくと、まだどこかのお店にいるのかもしれないという希望を抱えて、私は陽を探すことにした。つま先が今来た道を指し、下駄がカラン、と音を立てる。そのとき、肩に何か触れた気がして、私は横を見た。
「ごめん、朝子」
そこにいたのは、ひょっとこのお面を付けた男だった。
目を丸くしたって、どうせ彼に見えるのは無表情なのだが、目の前のひょっとこは慌てながら「よ、陽だけど?」と呟くように言う。なんだかそれが面白くて、私は口元を緩ませた。無論、彼にはそれが見えないためまだ焦っていて、私はついに笑ってしまった。
「ふふっ」
その笑い声と被って、突然大きな音が響く。上に目を向けると、黄色の大きな花火が上がっていた。声が自然と漏れてしまうくらい綺麗で、それは周りの人も陽も同じだったようだ。
「うわあ……すげぇ」
花火に見とれる陽の横顔はひょっとこのお面で見えない。目の行き場所に困って、慌てて視線を落とした先には、さっき私が渡したヨーヨーが揺れ動いていた。心臓が絞られるような感覚に襲われ、私は再び花火を見て唾を飲み込んだ。
「なあ、あそこ行こうよ」
ひょっとこが得意げに話すのに「どこだろう」と一瞬思ったが、すぐに自分の頭の中にあの場所が浮かんできた。昔から花火を見ると言ったらあそこしかないのだ。やっぱり行かずに夏祭りは終わらせられない。
こくん、と頷くと、彼は私の手首を掴んで間抜けな顔を向けたまま声を出した。
「よし、行くか」
そのまま陽は私の手を引っ張って、小走りで今来た道を戻っていった。その間も空に放たれる花火たちが、私を応援してくれているように思える。花火の大きな音も、私の心臓もうるさいけれど、なぜか心地よかった。
少し息切れしながら着いた場所は、小川に沿って進んだ先にある開けた場所であった。ここから見える花火が一番綺麗に見えるという理由もあるが、私にとってはここの静かな感じが好きだった。
「やっぱりここの花火はいいよな。去年の見れなくて残念だわ」
彼が座るのに倣って私もしゃがみ、なんとなく小川に顔を近づけると、能面の真上で打ち上がる花火が映っていた。そこにひょっとこが現れてなんだか滑稽な画になったが、彼はそんなことは全く気にしない様子で小川を見つめた。
「綺麗だな」
隣で陽が言ったのに、私は頷いてから空を見上げた。鮮やかな色が黒い空間に広がっていくのが目に映り、頭の中が空っぽになってしまいそうである。名前を呼ばれて我に返ると、陽がこちらを向いていた。
「何で能面付けてるの?」
それは昨日も訊かれた質問であったが、私はどうしてもその答えを言うことはできなかった。わがままなのは分かっているけれど、自分のこの醜い顔を知られずに陽と一緒にいたいという思いが最優先だった。
何も言わない私に彼はため息を吐いた。心の中で謝ったって意味がないことくらい分かるのに、私は「ごめんなさい」と言い続けた。地面の砂利を握りしめたとき、陽が「俺さあ」と頭を掻きながら呟くように言った。
「久々に好きな女に会えたのに、顔は隠されて、口もきいてくれなくて、いい加減心が折れそうなんだけど」
……え?
驚いて隣を見ると、彼は小川に顔を向けていた。ひょっとこのせいで表情が分からなく、ただの冗談なのかどうかも見分けられない。陽が今どんな顔をしているのか、お面を剥ぎ取って確かめたい。じゃないと不安になる。
「よう……あの」
無意識に声が出てしまったのは、もうどうでもいい。むしろずっと呼びたかった陽の名前が出せてよかったと思う。
唾を飲み込んで彼を見つめていたら、一瞬時が止まったかのような不思議な感覚がした。コン、と何かがぶつかった音がして、見るとひょっとこの顔が目の前にあった。
◆
俺ってつくづく馬鹿だと思った。すっかり自分も朝子もお面を付けていることを忘れていた。朝子が俺の名前を呼んだとき、俺の中の何かが崩れて朝子の顔が見えた気がしたのだ。なんて言い訳をする前に自分のしてしまったことを反省しなければいけないのに、と思うとまた自分のアホらしさにため息が出てくる。
きっと今お面を付けていなかったら、「キスしようとしてました」と書かれた顔を朝子に見られてしまっていただろう。ひょっとこを付けた意味はあったのか不安になっていたが、役に立ってよかった。
下を向いたまましばらく黙っていると、朝子が何か呟いたのが聞こえた。しかし、花火がひっきりなしに打ち上がるせいでよく聞こえない。恐る恐る彼女を見て聞き直そうとしたとき、俺は言葉を失った。そこには能面が取られ、今にも泣きそうな朝子の顔があった。
「ご、ごめんなさい」
小さな声だったが、今度ははっきりと聞こえた。でも、俺はそれに対して何も言えなかった。彼女の顔が変わっていたからではない。俺の知っている朝子の顔だったからだ。
「顔に怪我でもしたのかと思ってたけど」
「ううん。実は陽が東京に行ったあと、私かなり太っちゃって。顔がパンパンなの見られたくなかったの」
恥ずかしそうにしながら朝子は俺と向き合った。言われてみればそうかもしれないが、気にするほどでもなかった。嫌われていたわけではないと分かったことによる安堵が体中を包むと同時に、自分が戦っていたものはなんだったんだという気持ちになった。
「なんだ、そんなことかよ」
思わず声になって出てしまったのに気付いたときには、朝子の唸るような声が出ていた。でも、本当にそう思ったんだからいいだろう。昨日からずっと朝子の顔が見たいのを我慢させて、ひょっとこなんかで笑わせようとして恥かかせたのは、そんな理由のせいなんだから。
「そんなことって……ひどい」
俯いて、朝子は鼻をすすった。女には女なりの理由があると、昨日お袋から言われたのを思い出し、後悔し始める。それから朝子の泣き顔は何回も見てきたが、久々に会って初めて見るのが泣き顔というのも俺の心を蝕んで、後悔に陥れようとしていた。
ひょっとこに隠れてしらばっくれていると、彼女はため息を吐いてから俺の両肩に手を置き、こう言った。
「じゃあ、私がそんなことを気にした理由、分かる?」
黒い瞳が俺を見つめる。心臓が跳ね上がるのを合図のように俺は首を横に振った。すると彼女は唇を噛み、地面を見つめてゆっくりと喋り出した。
「ひ、久々に帰ってきた好きな人に、嫌われたくなかったからですよ」
驚いたのに、気が付いたら俺は朝子を抱きしめていた。慌てる彼女を押さえつけるように力いっぱい抱きしめた。短い髪を掻き回すと、朝子が何か言ったが、花火の音でほとんど聞こえなかった。
力を緩めると、彼女は俺から少し離れてひょっとこに手をかけた。そのまま強引に剥ぎ取り、地面に投げ捨てる。そして、彼女らしい子供のような笑みを浮かべた。俺が戻ってきてから初めて顔を見合った瞬間であり、俺がずっと見たかった朝子の笑顔を見た瞬間だった。
「陽、花火終わりそう」
空を見ると、たくさんの花火が一度に上がっていて俺たちは声を漏らしながら見とれた。やがてそれがふっと止むと、花火の音の代わりにどこからか拍手が聞こえてきた。毎年のことだが、この瞬間はなんだか寂しい気持ちになる。
「終わっちゃったね。今年の花火も」
朝子も寂しそうにそう言ったが、すぐに顔を近づけて微笑んだ。もちろん彼女が望んでいることは分かったが、俺がとぼけたような顔をしたので、朝子は「情けないなあ」と言って再び能面を付けようとした。俺はその手を掴んで阻止し、引っ張った。
夏祭りの声を背に俺は今度こそ彼女の唇に触れた。そのとき、朝子の手から能面が落ちる音がした。
能面とひょっとこ