夢の続き
懐かしい人が夢に現れた。もう何年も会っていない彼のことは、とっくに忘れたつもりだった。
夢の中でさえ講義の課題に追われていた私は朝早くから図書館に向かっていて、その道中、彼を見つけた。大学進学を機に地元を離れたらしい彼がこんなところにいるはずもないのに、私は何ら疑問に思うことなく、
「おはよう」
と声をかけていた。
「おはよう、久しぶり」
彼は昔と変わらない、人懐こい笑みを浮かべていた。
「こんなところで会うなんて、すごい偶然だね。県外の大学に行ったんじゃなかったっけ」
「ああ、そうなんだけどさ。なんだか急に帰りたい気分になったんだ」
彼は何気ない口調で続けた。
それからもっと色々なことを話したはずだった。どこか別の場所へ行ったような気もする。それなのに、目が覚めて時間が経つにつれて、記憶は曖昧にぼやけて溶け消えていった。
しばらく悪あがきでもするように天井を見つめて思い出そうとしたけれど、考えれば考えるほど、一秒前は覚えていたことすらおぼろげになっていった。それならいっそもう一度寝てみようかと身体を倒しかけたところで、アラームと着信音が順番に鳴りだした。電話なんて朝からどうしたんだろう、と怪しみつつもかけなおすと、ワンコールで通じた。もしもし、と云い切らないうちに、
「もしもし楓、おはよう、起きてる?」
「今起きたところ」
よかったあ! と電話の向こうで安堵する声が聞こえた。
「この前楓が休んでた分のノート貸したでしょ? そこに今日が締め切りの課題挟んでいたのをさっき思い出して。今学校にいるから、持ってきてくれない?」
急がなくてもいいから、と言われたものの、身支度をしていたら丁度良い頃合いになった。外に出ると、途端に緑の薫りが立ち込める。わずかに雨が降っていた。降っている、といっても実際は霧雨程度だったけれど、借りもののノートを濡らすわけにもいかず、結局おとなしく傘を差して歩いていくことにした。
見慣れた風景は霧がかかって、どこか気だるくて眠たい空気に包まれている。つられて私もあくびをした。涙がにじむと、なにも悲しくなんかないはずなのに悲しい気がしてくるから不思議だ。
彼は夏休みになったら転校するのが決まっていた。だから終業式が学校で会える最後の日でもあって、それなのに私は、終業式当日に熱を出して学校を休んだのだ。普段はめったに風邪もひかないくせに、その日に限って。結局、クラスメイトとしての最後の挨拶すらできないまま、いつの間にか夏休みは過ぎて、次に学校へ行ったとき、教室にはもう彼の姿はなかった。
あの時きちんと別れを告げられなかったから、私はまだ、頭の中に残る彼を思い出へ昇華できないままでいる。こうして時々、忘れたと思ったころに夢に見るのもきっとそのせいだ。
傘を打つ雨の音がしだいに強くなる。霧雨は重みのある雫へ姿を変え、地面にはじかれた雨粒が、灰色のスニーカーに点々と跡をつけていく。ふとあの時のことが頭をよぎった。熱いのか寒いのかわからないまま布団にくるまり、テレビに映る昼時のワイドショーを眺めていたこと。その日は眠っては起きて、また眠るという、それだけの繰り返しだったこと。夏休みが始まり風邪も治ったというのに「いつ引っ越すの」という十文字にも満たない言葉を言えなかったこと。
赤信号に立ち止まると、横断歩道の向こう側には人が立っていた。うつむいているせいで顔までは見えないけれど、なんとなく背格好が彼に似ている気がした。なんて、それこそ夢じゃあるまいし。
信号が青に変わる。徐々に距離が近づいて、すれ違う瞬間、差していた傘を少し前に傾けて顔を隠した。お互いの顔が見えなくなったとき、心臓が大きく一度、どくんと音を立てた。そのまま不自然に早歩きをして横断歩道を渡り切る。似ているだなんて思わなければよかった。だってもし、もしも本当に彼だったら、一体どんな顔で会えばいいんだろう。
背中越しに笑い声が聞こえた。思わず振り返ると、さっきの人物が友人と思われる数人と話しながら歩いていた。道路越しに見た横顔はまるで見覚えのないものだった。
彼は笑うとき、いつもきゅっと目を細める。楽しそうに笑っているくせに、どこか相手と目が合うのを避けているような、その笑い方が好きだった。
夢に見た彼ではなかった。当たり前だ。今は夢じゃないんだから。落胆すると同時に、なぜか安心している自分がいた。整理できない気持ちを振り払うように、もう一歩踏み出す。水たまりに思いきり片足を突っ込んで、飛沫が跳ねる。靴底からしみ込んだ水がひやりと冷たい。その時、夢の続きを思い出した。
「じゃあまたいつか、今度は晴れた日に」
別れ際、たしかに彼はそう言っていた。夢の中も雨は降っていただろうか。雲の隙間から差し込む光が濡れた道路を照らした。もう必要のなくなった傘を閉じる。
梅雨明けは近い。これからしばらく、晴れの日が続きそうだ。
夢の続き