地の濁流となりて #1

第一部 海の民編 パガサとマンガラ

 ヴァルタクーン王朝歴二◯◯◯年。アンカラ文書に言うところの「第二プロメテウス期」に,厄災は諸々の民の住まう地ルーパに降りかかった。

 なだらかな丘陵の頂上と思しき草原から,鈍色に光る水面は,すでにその茫洋たる全貌を見せていた。豊饒の海カラチヤ。土の民の住まうパテラリゾートの里まで五百歩距(約三五◯キロ)あまり離れているが,この大海の通り名は,風となり噂となって伝わっていた。物憑きの語り部シャクの託宣と,里を揺るがした臨時討議会の命を受けた二人の若者,マンガラとパガサがまず目指したのが,この広大な海だった。
 「ここが,あのシャクの話した,カラチヤ海なの。これは驚いた。よくこんなに水があったね。思っていた以上だよ。尽きる果てが全然見えない。ぼくらの里は,まるまる収まってしまうくらい広いね。」
 初めて目にする海に,マンガラは好奇心と興奮を隠せない。両手を双眼鏡にして,右に左に首を振っている。川と違って白い泡を立てて動くだの,夕焼けが全体に映っているだの,見たこと感じたことを,思うがまま叫ぶ。アオケネズミの素早さで,アフル虫のように目立たなく。長老の注意を守り,二人は遠い里からたどり着いた。それを思えば,普段は慎重なパガサも開放的にならざるを得なかった。
 「うん。カラチヤ海だね。たしかに,この水量には驚きだ。大きいとは思っていたけど。シャクの話によれば,このカラチヤ海にも,災いが訪れているそうだけど,こんなところに,いったいどのような災いが。里と同じなのだろうか。」
 パガサは,眼下に広がる水を見はるかしながら,里の皆から委ねられた最初の使命を思い出していた。シャクが,土の精霊の依り代となって語った内容。海の民を,その街を訪ねよ。彼らも,ここパテタリーゾと災厄を共にする。そして「透明な輝石」の手がかりを求めるのだ。運が良ければ,次なる道は開けよう。
 ディエト地方の海上交易の要,モレスコ湾を擁する海の民の拠点,イスーダの街はあれだろう。パガサは,長老から借り受けた皮の地図を頼りに,改めて確認する。描いてあるように,手前から左の奥へと弓なりになった湾に沿って,大小の家屋らしき建物が,軒を連ねている。木製ではなく,石を積み重ねているようだ。白い壁が夕日を浴びて,そこここに影を落としている。
 「あの近くに見えるのが,イスーダなの。じゃあ,今からあそこに行くのだね。ね,パガサ。ぼく,あんな建物見たことないよ。里は,木を合わせるか,岩の穴の家ばかりだもの。どこからあの白い石みたいなものを持ってきたのかな。パガサ,どんな奴らが住んでいるのだろう。」
 マンガラの,子どもっぽい好奇心は抑えようがない。パガサとて,イスーダの街にも,海の民にも,興味はある。里の外の世界を見ることができるなど,これまで考えてもみなかったからだ。しかし,本来であれば,他里をも束ねる長老評議会の許可なしには,民の地を離れることは禁じられている。素性が知られれば,何が起こるか分からない。パガサの興味は,知らずに,里を離れた事実とそこに由来する不安に,かき消されていた。
 「マンガラ,ぼくらは禁を犯した人間だ。たとえ,里の皆が,長老が許してもね。だから,見つからないようにしないと。街に入ったら,なるべく目立たないように行動しよう。アフル虫のようにね。物影からそれとなく探って,うまく紛れ込む。いいね,マンガラ。」
 街へ急くマンガラを,夜目の方が安全と説き伏せて,早めに野宿の準備をする。火を焚くのも諦めさせたので,マンガラはパガサの予想通り,すっかり不機嫌になった。まったく,どうしてシャクに憑いた精霊は,子どもっぽいパガサなどを選んだのだろう。これじゃあ,ぼくがお守りみたいだ。
 里を出て五日。里の境を越えたあたりから,マンガラは使命を忘れてしまったように,見たこともない植物や生き物を見つけては,立ち止まり,パガサを困らせていた。旅人ならいざ知らず,経験もなく外を知らない若者のこと無理もなかった。不思議なのは,マンガラが無邪気に振る舞うほど,反比例するように,パガサは使命感を意識した。
 丘の窪地から見上げる空が,茜色をおび始める。マンガラは,出発の時に与えられたアバク製の長衣にくるまり,パガサに背中を向けて横になっている。と,そのとき,その体の内部から低くつぶやくような音が聞こえた。
 「なあ,パガサ。腹,減らない。今日はずっと森を歩き通しで,お昼から何も食べてないよね。さすがに,お腹の虫が騒ぎ出して。」
 腹は立てていても,腹の虫はおさまらない。マンガラは,先ほどの態度を恥ずかしがるように,伏せ目で言った。仕方がない。里の貨幣ギントが通用するかどうか分からないので,物々交換のためにも,糧食は取っておきたい。けれど,イスーダに潜り込む今夜のことも考えなくては。
 「マンガラ,これ。ゆっくり噛んで食べて。お腹が満たされるから。できれば,いざという時に取っておきたい。ギントが使えるか分からないから。もし使えないと,この食べ物を別の物に替えてもらわないと。」
 そう言うと,パガサは乾燥パテタを一塊渡した。バトハリ歴の始まりより,いつ西の果てに「透明な輝石」が置かれたかは分からない,そう長老は語った。仮にあの病が「輝石」に依るものだとすれば,同じく生きているパテタ芋とて,その害を受けているかもしれない。
 「なるべく古い物を,か。こう粉を吹いているのを見ると,ずいぶん前の物らしい。うん,やっぱり。味も硬さも知っているのとは,まったく違う。熱が出た時に煎じる木の根みたいだ。」
 パガサは小さい声で呟いた。今さら,古い物を食べ始めて,果たしてその「害」から逃れられるのだろうか。知らない間に,喉元に「しこり」ができたり,首が肥大したり,体の自由が利かなくなり,死ぬまで臥す。祖父がたどったあの苦しみの道を,ぼくもたどるのだろうか。
 「ねえパガサ。昔はあの「境犯し」をして,海の物を土の民へ,土の物を海の民に運んでいた人たちがいたらしいよ。森の民の木材を,砂の民に運んだとも。おじいさんが言っていた。たしか「境の民」とか,そんな呼び名だった。だから,もしかしたら,ギントは使えるかもしれないよ。」
 マンガラは茜から青暗く色を変え始めた空を見ていた。手にしていた乾燥パテタはもうなかった。食べ終えてしまったらしい。ゆっくり食べてと頼んだのに。パガサはカチカチのパテタを,端からかじりながら思った。
 「禁を犯してまで,イスーダとパテタリーゾを行き来する者たちがいたってことかい。どうしてそんな危険なことを。どこかの長老に密告でもされれば,どんな酷い罰を受けるか分からないのに。」
 そう言うパガサは考える。「境の民」か。言われてみれば,どうして生まれた地を離れるのが禁じられたのだろう。生まれた地を離れては生きていけないから。ぼくの知っている老人たちは,みんなそう話していた。たしかに,例えば,ぼくがあの湾の街に突然放り出されたら,どうやって生きていけば良いか分からなくなる。パテタの植え付けは,リーゾの苗を育て方は知っている。けれど,あの海辺でパテタやリーゾが栽培できるのだろうか。
 マンガラは,さも昔々の物語という調子で続ける。
 「うん。そうだよね。だからじゃないのかな。境の民は一人で十人の力があったとか,飛ぶように走ったとか,呪いを使えたとか。なんか童話の悪魔アスワナみたいだね。もし本当なら,長老たちでも,そんな恐ろしい民には,手出し出来なかったのではないの。」
 長老評議会を黙らせる,いや,評議会にも太刀打ちできる能力を持っていた。だから,境抜けが常習的にできた。とすれば,うっかり境の民に出くわしたら,命の危険にさらされるということか。ここまで,境の民はおろか,誰とも逢わなかったのは幸運だったのか。
 「それより,パガサ。あの夢の童話おぼえている。食べ物の少ない男が,夜夢の中で,食べ物をたくさん持っている男と入れ替わる話。食べ物の少ない男がたらふく食べて,食べ物の多い男がぜんぜん食べられない。夢なのに,本当は少ない男が太っていって,たくさん持っている男が痩せていった。夢の中で食べるなら,本物のパテタ芋も無くならないだろう。」
 パガサはため息をついた。マンガラは,珍しい物を見るか,物を食べることばかり考えているみたいだ。
 そのとき,窪地のうえ,少し離れたところで,何か動く気配がした。一面に生えていた短い青草が,さらさらと音を立てる。その音は,ゆっくりと,でも確実にこちらに近づいてくるようだ。マンガラとパガサが,窪地にいるのを知っているかのように。
 「ねえパガサ,その境の民,まだいると思う。ぼくたち,いまどちらの里にもいないよね。こんなところで,もし見つかったら。」
 マンガラの口をパガサが手で塞ぐ。境の民だとしても,仮に闇の悪魔アスワナだとしても,ここで見つかる訳にはいかない。パガサは黙るようにと,マンガラに身振りで伝え,窪地の奥まった箇所へ一緒にじりじりと後ろ足で進んだ。窪地と言っても,人の背丈ほどの深さしかない。入り口から見下ろされれば,すぐに見つかってしまう。
 足音らしき音は,窪地を見下ろす場所で止まり,気配もそこに感じられる。先ほどの軽口と打って変わって,震え始めたマンガラの肩を抱きながら,パガサはどうすべきか考える。持ち物は,乾燥させたパテタと焼いたリーゾを除いては,衣類と丸薬。それに,この先に鉄が打ってある杖だけ。
 「おやおや,もうここまで来ていたのですね。道中無事で何よりでした。」
 ふと声の方へ目をやると,見たこともない色の衣を重ねた人物がすぐ目の前に立っている。いつの間に窪地の底へ。降りる音も何もしなかったが。
 「あああ,境の民様,悪魔様,どうか見逃してください。」
 マンガラが後ずさりしながら叫んだ。
 「境の民,ほう。私があの伝説的な旅人に見えますか。ほれ,この通り,何も身につけてはいませんよ。それに悪魔ですって。ああ,なるほど,アスワナということですか。これは面白いですね。あなた方に伝わっている闇の悪魔は,こんな綺麗な服を着ていましたか。たしか,あの悪魔は上半身が離れて,空を飛んだと思いますが。私はこの通り,上半身も下半身もありますよ。」
 パガサは努めて冷静に,目の前の変わった人物をたしかめていた。いろいろな色の生地を組み合わせた服に,宵でもそれと分かるほど顔が白い。それに,何も携帯していない。旅をする姿格好ではない。いったい何者で,ぼくらに何の用があるのだろう。しかし,まずはこちらが儀礼を尽くさねば。
 「失礼いたしました。私たちは土の民。パテタリーゾより参りし,パガサと,こちらが同士のマンガラです。あなたはどちら様でしょう。海の民の方でしょうか。」
 パガサが意を決し,丸くなって震えているマンガラの前に出た。土の民の儀礼である,片膝をついて首を垂れる。
 「ほほう。土の民の儀礼か。そちらの後ろもの者と違い,冷静沈着,意志も固く,肝も座っていると見える。私は,そうだな,時を旅する者とでも言おうか。名はまあ良い。ここに来たのは,イスーダに向かうお前たちの手助けをするため。」
 時を旅する者。言葉の意味を考えているパガサの脇から,隠れていたマンガラが躍り出て,矢継ぎ早に尋ねた。
 「ということは,海の民の方ではないのですね。長老様からのお使いですか。ぼくたちを助けてくださるというのは,イスーダに連れて行ってもらえるのですか。」
 パガサが衣の袖を引かなければ,マンガラの質問はまだ続いていただろう。危険のない相手だと分かると,手のひらを返したように信じきってしまう。いつか騙されて,痛い目に遭ってみると分かるのだろうが。パガサは口の中に苦いものを感じた。
 パガサの祖父は,興味本位の唆しを信じてしまい,「透明な輝石」に近づきすぎた。ご利益があるとか,地の精霊を祭った物だとか,でたらめな噂を吹聴されて。そして,あの病に罹ってしまった。たとえ,考えなしのいたずらでも,下手に信じれば取り返しのつかないことになる。
 「マンガラとか言ったな,そうだな,私は長老の使いでもなく,お前たちを連れてイスーダに行くために来たのでもない。あくまで,助言と,これを渡すためだけだ。」
 その人物は,そう言うと,マンガラを促して,懐から出した白い布を二巻き,その手に渡した。出てきたのが,見たこともないような特別な物ではなく,里にもある布だったので,マンガラもパガサも思わず顔を見合わせた。
 「これこれ,それはただの白布ではない。よく見てみるのだ。薄暗がりでは分かりにくだろうが,表面に「貝」という生き物の殻をかたどった刺繍が施してある。この貝というのは,モレスコ湾の名前の由来。言うなれば,イスーダの象徴。これを頭に巻いておけば,しばらくは怪しまれまい。」
 しばらく。ということは,とパガサは訝しる,いずれどこかで素性が知れてしまうのでは。
 「あの,ずっと絶対に安全という訳ではないのですね。これを巻いていても。」
 パガサが尋ねた。
 「ふむ。イスーダも,かつては多くの人々が行き交う街だった。お前たちの,林と山に囲まれたパテタリーゾと違い,あの海を渡って,他の地と往来を許された唯一の街だった。しかし,例の災いが生じてからは,往来も禁忌となり,街の人口も減ってきている。分かるな,だから絶対に素性が知れないという保証はできかねる。」
 災い。シャクの言っていたことと同じ。それが人口を減らした。狭いパテタリーゾに,よそ者が潜り込めば,すぐにそれと分かる。時間稼ぎ程度ということなのだろうか。
 「さて,では最後に助言を与えよう。海の民の若者たちの動きに注意するのだ。誰彼構わずに「輝石」のことなど,尋ねるのは止めるように。むしろ,若者の動きが分かれば,次に向かうべき地も決まる。いいか,若者に注意するのだぞ。」
 パガサが「輝石」という言葉に反応するが早いか,まだ白布を持ったまま放心していたマンガラが,何を思ったか,急に真面目な顔になった。
 「あの。助言って,それだけですか。もう少し,こうやって,ああやって,みたいに教えてもらえると,助かるのですが。第一,どうやってあのイスーダって街に入り込めば良いのですか。それに,若者と言っても,あの大きな街です。たくさんいるということもありますよね。」
 パガサはまた袖を引っ張ろうとした。だが,マンガラはその手を振り切った。目の前の人物から,どうしても返事を引き出す意気込みが見られた。
 「ははは。さすがは土の民。土と対面して身についた,その粘り強さと,生一本のところは,やがて役に立つ日もあるだろう。そうだな,マンガラ,お前に免じて,さらに二つ助言しよう。一つ目は,イスーダへは今宵のうちに。この後すぐに向かうのだ。湾に沿った街の中央あたりに,工房という大きな建物がある。そこへ行くのだ。二つ目に,若者はそこにいる。行けば分かる。」
 マンガラは頷き,パガサはマンガラの無礼を詫びて,丁重に礼を言った。しかし,その人物は何も言わず,二人の目の前から煙のように姿を消した。まるで一時の夢から覚めたようだったが,二人とも人物の話は覚えていたし,マンガラの手には白布がきちんと握られていた。
 二人は無言のまま,いま一度,顔を見合わせ,マンガラの手の白布を確認した。
 「あれ誰だったのだろう。妖精か何かなのかな。」
 マンガラがまた気の抜けたように言った。パガサはあの人物が,こちらが口にしてもいないのに「透明の輝石」のことに注意を促したのが,ずっと気になっていた。
 「さあね。でも,味方であるのは,確かだと思うよ。そうでなければ,イスーダへの入り方なんか教えてくれないからね。さあ,マンガラ,出発に取り掛かろう。まずは,その白布を頭に巻くのだったね。一つをぼくにくれないか。」
 パガサが手に取ると,その布は見た目よりも固く丈夫に作られていた。たしかに,何かの印が無数に刺繍されている。パテタを潰すのに使うバト石を小さくしたような。これが「貝」か。後は,とにかく街へ向かうことと。
 そのとき,パガサは脳裏に声を聞いたような気がした。その声は,あの消えてしまった人物の声とそっくりだった。
 「不安になるのも,心配になるのも無理はない。だが,連れが自分と同じではなく,考えなしに見えるからという理由で,仲違いはしてはならん。お前を補うのが,あのマンガラなのだ。マンガラを補うのが,お前であるように。」
 パガサは水に打たれたように固まった。白布をすでに巻いたマンガラが,どうかしたのという顔でパガサを覗き込んでいた。
 「いや,何でもない。さあ,イスーダへ向かおう。」
 頭に響いた言葉に,まだ釈然としないところがパガサにはあったが,今は使命が何より優先だった。二人は窪地から出ると,夜の闇が降りてきた丘の斜面を,街の灯を目指して降りて行った。低くした姿勢は,丘陵から離れるほど小さくなり,やがて宵やみと同じになった。

地の濁流となりて #1

地の濁流となりて #1

旧世界が滅びてから十万年。諸々の民の地ルーパに災いが訪れた。土の民の若者パガサとマンガラは,里の命運を背負って災厄の原因を探る旅に出る。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-13

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