大切断!! ~ネット社会の恐怖~

大切断! -ネット社会の恐怖!-

 
 習慣で、家に帰るなりネットに繋がる。
 いつからか、ネットに繋ぐのは、部屋に散らばってる雑誌をめくるくらいの当たり前のことになっている。辛うじて、スマホは買わないでいる。私のような情報中毒者があんなものを持ったら、一日が食いつぶされるに決まっているからだ。
 なぜネットを見るのか、何を知りたいのか。何を求めているのか。そんなことは考えない。何も考えずにネットを見るし、そこには何の感情もない。うすぼんやりと、のっぺりとした画面を眺める。お決まりのルートでサイトを覗いた後、時計を見て、こんなに無駄な時間を!と心底自分に呆れる。これはいかんなあと思い、ネットをやめようやめようと、何度も思い、実際数カ月やめたことも何度もある。それでも私は、ネットに戻ってきてしまった。煙草なんかより、よっぽど人を蝕む中毒だと思うのだが、お医者さんに相談するにも、お医者さんの情報をネットでかき集めてしまう。
 これは相当まずいと思う。
 ご飯を食べ続けると、空腹感を忘れ、何を食べたいのかわからなくなる。それと同じようなことがネットでもある。 
 実際、ネットを見続けた私は、すっかり自分の価値観を見失ってしまった気がする。自分が何をしたいのかすら、もはや私にはさっぱりわからない。毎日に張り合いがない。感情にも起幅がない。「何か面白いことないかなあ」という呪いの言葉を延々と吐く自動ふてくされ機に、私はなりはててしまった。
 ネットは恐ろしい。
 
 だがしかし、かつてはこうではなかった。 
 私もエレベーター内で元気に挨拶できるくらいに、ちょっとまともだったし、そもそもネット自体が今と違う何かを持っていたと思うのだ。いつからか、何かが変わってしまった。どこかで小さく歯車がずれ、ふと気付いた時、大変なことになってしまっていた。そうなのだ。私にとってのネットは、少なくとも昔においては、こんなはずじゃあなかった。
 
 昔のことだが覚えている。私は、ネットに接続するだけでワクワクしていた。
 ダイアルアップ接続の音、ディスプレイの放つ光、合成樹脂の匂い。あの頃私は、遅々とするコンピューターに待たされてばかりだったが、その待ち時間が妙に愛おしく思えた。なかなか出てこない画像が、私を狂おしく惑わせた。電話回線を使っていたので、ネットに繋げていると、電話が使えなかった。ネットを見る時間も、当然限られていた。だが素敵だった。
 なぜだったかといえばそれはたぶん、ネットが与えてくれる全てが新鮮だったからだ。
 「さあネットサーフィンだ、冒険が始まるんだ!」
 私は、その昔、そういう大仰な気持ちでネットをしていた。いちいちわけのわからぬ「ピガガーッ!」という接続音を聞かされても、むしろそれが気持ちを高ぶらせた。一つの儀式みたいなものに思えていた。
 何が書いてあったか、それはたぶん重要ではなかった。私は当時、自分がネットで見たものをあまり思い出すことができない。実際、特にたいしたことが書いてあったわけではなかった。情報量は、今と比べれば絶対的に少なかった。チープな掲示板と、馬鹿みたいなFLASHアニメぐらいしかなかった気がする。サイトのデザインも、野暮ったかった。変に力のこもった長々としたテキストが変な場所に無造作に転がっていたり、サイトを開いたとたん調子っぱずれのmidiが流れ出したりする愉快な有様だった。
 それでも、ネットに繋がることは、こっそり悪魔信仰をしているがごとき何か背徳的な快楽であった。
 「wellcome to underground」という有名なコピペがある。友人に、ヤフーだかで2ちゃんねるを検索させて、2ちゃんねるのトップページが出てきたところで、耳元で「wellcome to underground」と囁く、というものだ。このコピペの馬鹿らしさと真剣さは、私が昔のネットにたいして抱いていたものとぴったり同じだと思う。たかだか匿名掲示板を友人に見せる程度で、こんな宗教勧誘のような芝居がかり方をする必要があった、その気分が私には人ごとには思えない。
 この中二病の典型例は、私には二重の意味で、ノスタルジアの対象だ。
 ああ昔こういうのしたなあという思い出のノスタルジア。もうひとつは、ああこういう秘密の暗号めいたロマンいいよなあという別世界への予感という意味のノスタルジア。
 ノスタルジアとは、ただ自分の思い出を懐かしく思い出すということではない。ひとつの完結した世界観に対する恋慕というのも、実は懐かしさの対象になるからだ。廃墟が懐かしかったり、体験したことない昭和30年代が懐かしかったりするのも、そこに現在を相対化する、空中に浮かぶ城のような一つの異世界があるからだ。
 サイバースペース、フロンティア、訪れるかもしれない未来、自由。ネットにあった雑多な情報に、私の付けた肯定的な意味あいは、そんなものだった。つまりそれは、ひとつにまとめれば、この世界の一枚岩な認識を覆すものだった。
 
 ネットは、この世界を広げたのではない。ネットには、たいしたことは書いていなかった。私は、残念ながらネットで、知識を深めることも全くなかった。しかし、自意識を手酷くこじらせていた幼き私は、ネットに飛び付いた。ネットは、私に不思議な異世界を見せてくれたからだった。
 悪魔信仰をしているがごときか背徳的な快楽、自分だけが知っているという甘い認識、気持ちが改まり、ネットを見ている間だけ、世界が覆る感覚、あの頃のネットとは、異世界との交信手段で、言うなればちょっとした神秘だった。


ちょっと力みすぎた気がする。ここで少し脱線して、とあるアニメの話をしたいと思う。
 「serial experiments lain」という作品だ。原作はゲームで、かのイラストレーター安倍吉俊さんの代表作、伝説的作品だ。このアニメは、ネットをテーマにした話だ。碌なネットがない時期に作られた作品なのだが、今見ても全く古くなっていない。ネットをテーマにすれば、自然とSF的な技術をメインに描く作品になりがちだが、そういう作品は、すぐに古くなってしまいやすい。技術はすぐに変わっていくからだ。この作品の特異な点は、ネットを描きながらも、どこかでもっと根本的な、人間の認識、社会性、そして孤独といったものを正面から描いていくところだ。それはつまり、テーマの描き方に普遍性があるということなのだと思う。だから、今見ても古くならないのだ。
 この作品では、ネットは、サイバーで人工的な感じというより、もっと得体のしれないものとして描かれている。最初に主人公、玲音がネット(作中ではワイヤードだったっけ?)にはまり出す辺りの描写はかなり印象的だった。部屋がどんどん蔓草のようなケーブルで埋め尽くされ、ジャングルみたいになっていくのだ。この生生しさから出発し、最終的には、物語は宗教的な世界観へと繋がっていく。  
 「serial experiments lain」で描かれたネットは、現実世界の延長ではなかった。むろん拡大でもなかった。それは、死の世界のような、今まで想像するしかなかった異世界の姿の顕現であり、現実とは違う、何か別の論理、新しい神様によって完成された別世界だった。それはまさしく、わたしにとっての懐かしい、ネットの姿だった。

「私の見ている現実だけが、世界の全てではないんだ!現実と別に、世界があってもいいんだ!」
 昔のネットが私にくれた感慨、ワクワクする気持ちは、色々考えて振りかえれば、そういうことだったのだと思う。
 実際文字にして記せば、こうした気持ちはやっぱり馬鹿らしい一面も多い。「wellcome to underground」のコピペと内容としては大差がないことだ。本当に馬鹿だけども、昔感じていた気持ちは、やっぱり真剣だった。ただの現実逃避にしか思えないかもしれない。それでも、私は、本気でこの世界を生きるために、なにか異世界を必要としていた。 
 私はネットの何に惹かれてその昔、飛び付いていたのか、大事にしたかったことは何だったのか。それはたぶん、ネットの中には、現実とは違う論理や文法、時間があったことなのだ。ディスプレイの向こうに別の世界があるように思えることが、なにより大事だった。私はそういうものがないと、けして救われないほど、現実で弱かった。
 それは、小中学生女子のよくやる、ダサい交換日記みたいなものだったのかもしれない。
 秘密を抱えることで、何かが変わる気がしていた。自分だけが知っているという特権性、奇妙なルール、完結した論理。
 実際それは現実には何ひとつ影響を与えないことだったが、世界を塗り替えたような気がした。
 陳腐な秘密だった。
 でも誰にも絶対渡したくない、大切な秘密だった。
 大仰だ。ネットはそういうものだった。
 
 異世界、神秘、ファンタジー、それがなぜ人に必要だったのか。
 私にとっての、昔のネットを考えるということは、たぶんそういう根本的なことと繋がっている。
 「serial experiments lain」がどこかで普遍的なテーマと繋がっていたように。
 インターネット技術だとか、プログラミングだとか、そういうものとしてのネットに、私は興味を持っていなかった。確かめられるものではなかったのだ。ネットとは、つまるところ、別世界であり、言葉であり、想像かつ、創造であり、脳内だった。そして、それは結局ただの妄想だった。そのことを、いつの間にやら明らかに突きつけられた私は、現在途方に暮れているのだった。
 
 

 ネットを含む、オタク文化というものの扱いが、随分と変わってしまった。
 これは本当にやめてほしかった。
 多くの人に、サブカルチャーが広まったのは、一見私にとっても喜ばしいことに見えた。
 でも、そんなことはなかった。
 ネットが加速度的に広まっていった結果、どうなったか。
 現在のネットとは、ほとんど誰もが「みんなやってるから」とやることなのだ。
 それは、異世界を築き上げ、別の価値観を打ち出す必要としない人たちが、ネットを利用するようになったということだ。当然、ネットは儀式ではなくなった。そんな馬鹿らしいことではなくなった。現実の生活を便利に延長するための手段になった。今現在を拡大するだけだった。そして、サブカルチャーは、ひとつの道具として、手段として現実に使われるようになった。
 それはかつてのように、心の支えになるようなものではなくなったということだった。手段はあくまで手段であり、ただの暇つぶしだ。現実での弱さゆえに、どうしても必要なものとして編み出された、決死の空想。弱い人間のための武器。蟷螂の斧。他人には馬鹿らしく思えても、限りなく真剣だったあの姿、それはもうどこにもなかった。
 私は、ネットを見ても、世界が覆る感覚を覚えなくなっていった。
 ネットは確かに便利になった。それはもう昔とは比べ物にならないくらいに。
 でもそれは、ネットが現実から離れた独自の空間であることをやめたということでもあったと思うのだ。洗濯機や冷蔵庫やテレビを見て、いちいち感慨を受けることがないように、ネットを見ても誰も何も思わなくなっていった。つまり異世界は日常に溶け込んで見えなくなってしまった。
 ネットは完成された世界などという高踏なものではなく、ちょっと便利な道具でしかなかった。実のところ最初からそうだったはずなのに、たぶん私は、思春期にネットに出会ってしまったがために、変に勘違いしてしまったのだ。妄想にすがっていただけだった。どこにもないものを、無理に見出そうとしていた。
 
 自分の好きだったものが、メジャー化していくことに、抵抗を覚えることが何度となくあった。
 普通の人ならば、そのことを少し寂しく思いながら、大きく喜ぶところだと思う。それが健康な精神だということは重々わかっている。だが、私はそうではなかった。
 好きな異世界を現実に崩されるのは、本当に嫌だった。
 秘密はあっという間に、公然のものに変わり、秘密としての輝きを失った。私にとってはもう輝いていないそれを、たくさんの人が物珍しげにからかった。悲しかった。
 思春期の少年の鬱屈を描き切ったロボットアニメは、いまやパチンコになって人々を楽しませている。
 パターン化された少女たちが、意味のない感謝をしながら踊っていた。根っこを失った秘密の感情は、あっけなく流布された。揺れる思いはマシュマロみたいにふわふわだった。消耗品として流行り廃れていく、誰かの理想を見ていくのが、私には耐えられなかった。
 こうなってしまっては、世界は二度と覆らないのだ。何もかもが、一瞬だけ今現在を賑やかして終わる。
 浅く、薄っぺらい憐憫。どこにもひっかかりがない主義主張。垂れ流される体験談と日記。いいね!の嵐。黙示録のイナゴのようなリツイ―ト。裏付け、重み、信頼感がまるでない知識と言論。教科書のようにわかりやすい誹謗中傷。
 一番わかりやすく、声の大きなものが、ネットに溢れるようになった。
 それは私には、ただただ無責任に見えた。
 馬鹿らしいものを馬鹿にする、最初から結論を決めつけている、単純で緊張のないシニシズムが蔓延した。
 そこにはどんな緊張も、葛藤も、対立も、対話もない。異世界の視点を設定する跳躍がない。
 新しい価値観を作り出そうとする熱がない。
 定形化した世界に満足できる無数の人々に、いいように使いつぶされた、異世界は、もはや現実を相対化する契機にはなってくれなくなった。ファンタジーは死んだ。
 一体みんな何をそう面白がっていられるのだ?
 何が楽しくてこんなことやっていられるんだ?
 もうダメだった。
 世界はいつの間にか果てしなく広がってしまった。そして、どこにも別の世界など存在しなくなった。あらゆる別世界は、現実に飲み込まれ、お求めやすいお手頃サイズに縮こまったのだった。誰にも真似できない個性の発露と思えたサブカルチャ―、カウンターカルチャーは、あっさりとひとまとめにされ、またたく間にコピー&ペーストで大安売りされ、あらゆる神秘をはぎ取られた。それは骨抜きされたお魚みたいなものだった。隣を歩く人間との距離すらつかめないほど、現実は無駄に広くなり、何もかもが遠くなった。みんながみんなよそよそしかった。
 ただただ虚無である。

 そして私は、どんどん袋小路に向かっていった。
 幻想文学、海外SF、哲学書を読んでみた。
 プログレやメタルを聞いて癒されていた時期もある。
 小谷野敦や浅羽通明とかその辺の俗流知識を漁った。
 フリーゲームを狂ったように漁ったのもそれだ。
 結果、私の言動は、他人には一切理解できなくなった。
 もちろん、自分でも自分を理解できなくなった。
 しかたないので、絵を描くようになったが、何を描いていいのか、いつもさっぱりわからなかった。
「カール・マルクスにタンバリンを叩かせたら人間疎外が唯物論的弁証法により解消される気がする」などと私は明らかに間違った方向に本気だった。
 なぜこうなってしまったのだろうか。
 ネットは別世界を見せてくれたはずなのに、いつの間にかそれは地上に落っこちてきていた。
 情報は際限なく投げつけられ、私はそれに縛られて身動きすらできなくなってしまった気がする。
 読まなくちゃいけない。見なくちゃいけない。どこかに昔の感慨を見せてくれる何かがあるはずだ。私のためにあつらえられたような異世界が残っているはずだ。だからそれを知らなくちゃいけない。求めなくちゃいけない。
 そんな風に義務感で這いずりまわって、読んだもの、見たものが、何かを与えてくれるはずなど、なかったのだ。
 そんな義務感は、呪いでしかない。

 私は、結局何を求めていたのか、何が見たくて知りたくて、ネットを今だに見ているのか。
 それには勿論、答えなど用意されていない。
 今日も私は、習慣でネットに繋がっている。

大切断!! ~ネット社会の恐怖~

大切断!! ~ネット社会の恐怖~

書いたときからとても恥ずかしい文だなあと思っていたし、読み返してもさらにそう思う。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-12

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