しくじった女(ひと)二幕

しくじった女(ひと)二幕

「しくじった女」二幕

 車のリアゲートを閉めたと同時に、涼子は呆然と立ち尽くしていた。
リサイクル店で買ったばかりの書棚を運び入れたあとキーを車体の真下にある下水溝に落としてしまったのだ。
チャリン、と下手に放り出した形でつけていたお守りのウサギのキーホルダーごと指をすり抜けてしまった。懸命に溝の隙間を覗き込むが暗く死角が多すぎて見当もつかない。
間抜けなことにスペアキーもホルダーにつけたままで代替の思案もしようがなかった。
車体を動かすことができない限り解決できない状態だ。
インナーキーの処理料金でさえ確か二万円くらいかかると聞いていた。こんな場合業者に頼めば幾らぐらいかかってしまうのだろう。
アパートも引越し安い給金を切り詰めて生活している。大きく無駄な出費は絶対に抑えたかった。
免許を取って五年になるがこんな経験は初めての事だ。
どちらかと言うと神経質な性格で用心深くもあるはずだったが取り返しのつかない失態だった。
何とかギアをニュートラルに入れられないだろうか。
前のドアノブを引っ張ったり、どこかに隙間がないか探してみたが頑丈な鉄の塊には見当たらなかった。
店に戻り事情を説明すると店長が来てくれ何とか下水溝の鉄の格子を押上げようとしてくれたが車体が邪魔をしてやはりどうにもならなかった。
途方に暮れスマホの登録にすがってみたが平日の昼間に飛んできてくれそうな暇人のお人好しになど行き当たる筈もない。
例え来てくれたとしても現状を解決する術が見つかるとも思えなかった。
ほとほと困り考えあぐねていると突然、
「─笠間じゃねえか?」ハスキーな低いトーンの声が聞こえ声の主に眼を向けた。
革ジャンにサングラス、あご髭のいかつい風貌の見るからに強面の男が近づいてきた。
一瞬、気後れしたように身を引くと男の正体を見極めようとした。
「俺だよ、俺。─」男がサングラスを外した。眼力にはドスの効いたものがあったが左の目尻にある刀傷ですぐに男を思い出した。
「─あ、ああ」涼子は思わず男を指差して頷いた。

 動かない車体の下に首を突っ込んで男は声を張った。
「─ああ、こりゃあダメだ。何にも見えねえや」
「─ダメ?─どうにもなんない?」すがるように言った。
「─ちょっと、待ってろ」男は携帯を取り出すと番号を検索し始めた。すぐに相手と繋がったようで、ジャッキを二台持ってきてほしいという短い要件のみ言うと電話を切った。
「─一時間位かかるけどお前、時間大丈夫か?」変わらないぞんざいな物言いが何だか懐かしかった。
「─うん。ありがと」涼子は小さく礼を言った。
「─お前、ずっと困ってたのか。ここに、一人で」冷たい地べたに腰掛け煙草に火を点けながら男が笑った。笑った時に前歯が一本、虫食いのように無かった。
『喧嘩で、折っちまったんだ─』昔、ちょっと得意げにそんな話をしていたのを思い出した。何年も経つのに男がまだ歯を治していない現状を知って何だか可笑しかった。

高校進学を控え本格的に面談が始まった頃、男は急に荒れ始めた。
理由は分からなかったが校内で平気で煙草を吸ったり、先生のいる前で窓ガラスを割って警察沙汰になったりし、ついにはつるんでいた不良仲間たちからも浮いた存在になっていった。
学校にも殆ど来なくなり、その時卒業文集の編纂をしていた涼子は男の卒業のコメントを取るのに苦労した。
係りを代表し男の自宅にまで赴きようやくコメントを取ったのだがその時思いがけないものを見た。
男の家は駅前の小さな商店街の裏にある立ち並ぶ二軒長屋の一番奥にあった。
少しためらいニスの剥げかけた格子の引き戸に手をかけた時、中から赤ん坊の泣き声がした。
隙間から覗くと破れた障子の向こうで男が赤ちゃんを抱き上げ、あやしているところだった。
見たことのない優しい笑顔を赤児に向けていた。
すぐに涼子の視線に気づくとバツが悪そうに目線をそらし、いつもの斜に構えた仏頂面に表情を戻した。

 「─あのさ。卒業文集、まだ持ってる?」そう唐突に聞いてみた。
「え?─」男がぼんやり目を向けると、
「─あ、ううん。何でもない」涼子は曖昧に笑って男がおごってくれた缶コーヒーを開けた。
「─変わってねえな。お前は─」男は一気にコーヒーを飲み干すと新しい煙草を咥えて言った。
「─そう?」店外にあるベンチに男と並んで座っていることが何だか不思議に感じていた。
「─ああ。変わってねえよ。すぐに分かったぜ。あ、笠間じゃねえ?って」煙を吐き出し男が笑った。
「─お前今、なにやってんだよ」男が訊いて来た。
「─何って、普通のOL。─そっちこそ今何やってんの?」そう訊き返すと男はニヤ、と笑い立ち上がった。腰に手を当て背伸びすると、
「─俺は変わったぜえ─。今、保育士やってんだ」天を仰ぐようにした後、照れくさそうにそう言った。
涼子は目を丸くして男をじっと見つめた。
「─へへ。びっくりしたべ?」男はもう一度そう言うとお道化た仕草をしてみせた。
「─へえ─。そうなんだ─」懸命に赤ん坊をあやしていた男の笑顔を思い出した。
「優しかったもんね。昔から─」思わず男の顔を窺うようにしてそう言った。
「馬鹿言え。─どこがだよ。」男は照れ隠しなのか、少し不貞腐ったように涼子の視線を外した。
「─ねえ。ひとつ聞いていい?」そう訊くと男は目だけを向けて来た。少しの間の後、
「─昔、何であんなに荒れてたの?」当時疑問に思っていたことをそのままぶつけてみた。
「─ああ」男は煙草をもみ消すと、ふと遠くに目を向けた。
「─何でもねえ事なんだ。ガキだったからな、俺も」そう言い自嘲するようにまた笑みを浮かべ少しの間の後、
「─お前、知ってんだろ?赤ん坊がいた事」俄かに顔を俯けそう呟いた。
「─あ、─うん」また微笑ましい場面を思い返し笑みを返すと、
「─あれ、弟なんだけどよ。─実は種が違うんだ─」そう言った。思いがけぬ言葉に涼子は目を上げた。
「─お袋が急に再婚してよ、あの頃。─すぐに、弟が生まれたんだ」短髪をガリガリ掻きながら男は話を続けた。
「─自分の親をこんな風に言っちゃいけねえんだろうけど。─だらしなくってな、お袋。赤ん坊放ったらかしで、新しいオヤジと遊びまくってた。─金もねえのに借金しまくってよ」やり切れない様子で男が深くため息を吐いた。
「─家ん中には米もなくてよ。─弟のミルクもない時があった。─隣のおばさんに随分助けられたんだ。─二日ぐらい帰って来ねえ時があってよ。そん時、弟が高い熱出した─」
涼子はじっと男を見たまま話を聞いていた。
「─どうしていいか分かんなくてよ。医者に行く金も無くって─。おばさんが来てくれて救急車呼ぼうって時に、二人が帰って来た。─すげえ酔っ払ってやがってよ、二人とも─。あの野郎、─何やってんだッ、てめえの責任だッ、て言って転がってたビール瓶を俺に投げつけやがった─」そう言う男の唇が心なし震えているようだった。
「─避けた瓶が壁にぶつかって割れて、そのガラスの破片が弟の腕を切った─。パッと真っ赤な血が吹き出してよ─。あんな小せえ─柔らかくて、─真っ白な腕からよ─。その後のことは、よく憶えてねえんだ─」男は口元の煙草を手に取ると揉みくしゃにした。
「─気がついたら警官に羽交い絞めにされてた─。俺が」男はそこで言葉を切ると大きな掌で自分の頬をパン、パン、と叩いた。
「─俺が大人だったら─。大人だったら、お袋もあんな奴と一緒ンならなかった─。俺がガキだったから─。頼りンならねえから、あんな奴と─」
涼子は赤児をあやしている男の笑顔を思い返していた。
「─大人は誰でも気に食わなかった。先公でも誰でも、気に食わなかった─」男はそう言うと唇を歪め薄く笑った。
長い間が流れた。思いもかけない男の辛い過去を引き出させてしまった事を悔い言葉を探していた。
「─弟さんは?今」やっと言ったその問いに男は眉を寄せ一瞬言葉を詰まらせた後、
「─死んだよ。三歳になったばかりで。─重い肺炎だった」呟くようにそう応えた。
「─え」言葉がなかった。
「─かわいかったよ。─たった一人の弟だった」そう言い閉じた男の目尻に光るものが見えた。
「─今でも耳の奥に弟の声が残ってる。泣き声や、笑い声や─。保育の仕事してると、何だか弟も近くにいるみたいでよ─寂しくねえんだ」男が言った。
涼子はゆらゆらと迫り上がってくる感情を懸命に抑え男を見つめた。
男はその視線に気づくと誤魔化すようにパッと立ち上がり顔を背け、さっと拳で涙を拭うと、
「─な、悲しいべ?─同情した?」もう一度そうお道化て身を翻すような仕草をし、真っ赤に目を腫らしたまま笑ってみせた。

 二台のジャッキは見事に軽自動車の車体を浮かせた。
男は器用にその下に潜り込み、ガチャガチャとバールを動かしていた。
「─そう言えばよお前、結婚、駄目ンなっちまったんだって?」
涼子はドキっとした。
「─誰に聞いたのよ?」思わず声が上擦った。
男は下から顔を覗かせると、
「一応、同窓生だったんだぜ。噂くらい放っといても聞こえてくらあ」そう言った。
「─何だあ。振られちまったのか?」無神経に思える男の問いかけに、
「ばか─。縁がなかっただけよ」口を尖らせてそう応えた。
「─色々、あったんだから」ぽつりと言うと不意に男は真顔を向け、
「─色々か?」そう聞き返して来た。
「─うん。─色々」涼子が答えた。
「─そうかあ、色々かあ。そりゃあ大変だったなあ」一体何が分かったのか、真剣な表情を崩さずに感慨深げに言った男の反応が可笑しくて思わず吹き出してしまった。

「オ、─あったあったッ、これか─?」男が嬉しそうに狭い隙間から這い出てきた。
汚水まみれの指の間から、やはり汚れたウサギのキーホルダーが見えた。
男は自分の服が汚れるのも意に介さずに袖で丁寧にキーについた汚泥を拭い取ると、
「ほれッ─」そう言ってぞんざいに涼子の手に差し出した。
革ジャンとお揃いのズボンの膝が白く擦りむけていた。
「ありがと─。本当に」そう言って深々と頭を下げると、
「─んだよ、いいっていいって」大仰に手を振って見せ少しの間の後、
「─あのよ。─腹、減ってねえか?」こちらを見ずにそう言って来た。
眼を上げて男を見ると、
「─飯、食いにいかねえか?」目線を外したまま少しかすれた声でそう言葉を続けた。
「─うん。」涼子が頷くと男は少しだけ赤らめた顔を向け、欠けた前歯を見せてニッと笑った。


            了

しくじった女(ひと)二幕

しくじった女(ひと)二幕

  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-12

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