陸族館の少女
その日、学校の課外授業で、ピピは生まれて初めて陸族館というものを見た。
青い海の底に大きな気泡のようなものがいくつも連なっており、海面から差し込む光で真珠のように輝いていた。さらに、それらが潮流に流されないよう、全体を包み込むように巨大な透明ドームが覆っている。ドームと海底には少し隙間があり、そこが館内への出入り口になっていた。ピピの学校の生徒たちが、触腕の真ん中にある噴水管から勢いよく水流を吹き出しながら、次々にその隙間を潜り抜けてドームの中に入って行った。
泳ぎが遅いため皆より遅れたピピは、中に入ると一生懸命触腕で水を掻いた。急ぐ時でも、建物の中では噴水管を使ってはいけない決まりになっているからだ。ようやくみんなのいる場所に追いつくと、先生がクチバシをこすって点呼をとっているところだった。
「ピピ、ピピ。ああ、そこにいるのね。これで全員そろったわね。みんな、陸族館は初めてかしら。そう。じゃあ、簡単に説明するから大人しく聞くのよ。ほら、キキ、マリンスノーを食べるのは、お昼まで我慢しなさい」
注意された生徒が吸水管を閉じたのを確認すると、先生は説明を続けた。
「さて、ドームの中にある大きな丸い泡みたいなものは空気槽よ。透明だけど、水圧に強い素材で作ってあるわ。中の空気は、海の上からポンプで吸い込んで循環させているの。ほら、空気槽同士もパイプで繋いであるでしょう。もっとも、空気だけだと浮き上がっちゃうから、下の三分の一ぐらいは砂が入ってるわ。そして、上の空気がある部分に動物がいるのよ」
生徒たちがザワつき始めた。
「静かにして。そう。水の中じゃないのよ。空気の中で生きてるの」
先ほど注意されたキキという生徒が、「窒息しちゃうよ!」と大きな声を出した。
「静かに。ちゃんと説明を聞いて。この陸族館にいる動物は、元々空気の中で生きていたのよ。だから、わたしたちクラーケン族と違って、空気の中の酸素を吸収できるの」
またキキが、「変なの!」と声をあげた。
「ちっとも変じゃないわ。空気の中には水の中よりたくさんの酸素が含まれているのよ。だから、今では水の中に棲んでいるけど、エラを持つほど進化していないために、時々海面に出て空気を吸う必要がある動物もいるわ。そうね、例えば、ケートスのように」
騒がしかった生徒たちが、一気に静まり返った。
自分の言葉の効果に満足したように、先生は眼柄をクルクルと回した。
「さあさあ、時間がもったいないわ。これから動物たちを見ながら説明するから。はい、ちゃんと並んで。キキ、順番を守るのよ」
空気槽越しに見る陸生の動物たちは、生徒たちにとって初めて見るものばかりだった。ピピも眼柄をできるだけ延ばしてみたが、見物客が多すぎて良く見えない。しばらく順番を待って、やっとチラリと見えた説明プレートには、『キリン』と書いてあった。ものすごく大きな生き物だ。
(ケートスとどっちが大きいかな。それにしても変な形だ。首が長すぎるよ。あれじゃ泳ぎにくいじゃないか。ああ、そうか。この生き物は泳げないんだっけ。でも、泳がずにどうやって移動するんだろう)
ピピがそんなことを考えていると、キリンがゆっくり数歩進んだ。
(へえ、あの細い四本の触腕を動かすのか。タカアシカブトガニみたいだな)
キリンが歩いたのは、飼育員からエサをもらうためのようだ。キリンの前にいる飼育員は、全身をスッポリ透明な防護スーツで包んでいた。スーツの中は海水で充たされている。関節部分には補助動力が付いているが、浮力のない空気の中では大変な重量のはずである。慣れている飼育員でさえ、立っているのが精いっぱいのようだ。キリンが近づいて来て首を下げるのを待ち、パサパサした海藻のようなものを食べさせている。
先生の説明によると、キリンに与えているエサは、一番大きな空気槽で育てている陸生の植物で、『アカシア』というものらしい。ピピはもう少しキリンを見たかったが、先生は先を急がせた。決められた時間内に全部を見て回らなければならないからだ。
他にも『シマウマ』『カバ』『ゾウ』『ヌー』などいろいろな動物がいたが、ピピは特に『フラミンゴ』の飛ぶ姿に驚いた。
(水がないところで、どうしてジャイアントクリオネのように泳げるんだろう)
当然のことながら、ピピは水がない場所というものを経験したことがなかった。昔、この海球が『地球』と呼ばれていた頃には、水のない場所がたくさんあって、そこが『陸』と呼ばれていたことは学校で教わった。だが、それがどういう状態なのか、想像することさえできなかった。
最後の動物は『ヒト』だった。説明プレートには、『まだ陸があった頃の知的生物』と書いてあった。今ではすっかり退化してしまい、知的能力を失っているらしい。その空気槽はひときわ大きく、中に数匹のヒトがいた。亜麻色の長い髪の少女たちであった。背の高さはピピとあまり違わないくらいだろう。ピピには知る由もないことだが、みな服を着ておらず、裸足で砂の上を歩いていた。全員が同じ顔をしている。それが普通のことなのか、そうではないのか、もちろん、ピピにはわからない。わかるのは、少女たちが生気のない無表情な顔をしていることだけだった。
(いや、一匹だけ、他のヒトと様子が違うぞ。目からポロポロと水があふれている。あの子はどうしたのかな)
ピピがそう思ったとき、頭の中に不思議な声が聞こえてきた。
(ああ、誰もわたしの声は聞えないのね)
(あれっ、この声は何だろう?)
ピピがそう考えると、その少女がビクッとした。
(きみ、もしかして、わたしの声が聞こえるの。だったら、返事をして)
「あ、ああ。聞こえるよ」
(良かった。やっぱりわたしの声が聞こえる相手がいたのね。でも、声は出さなくていいわ。周りの仲間がきみを変な目で見てる。心の中で思えばいいのよ)
(こんなふうに、かな?)
(そう、それでいいわ。ああ、わたしったらまだ自己紹介もしてなかったわね。わたしはモモよ。きみは?)
(ぼくはピピ。ねえ、これってどういうことなの?)
(ゆっくり説明してあげたいけど、きみの先生が、そろそろ出発しなきゃと思ってるわ。ねえ、また夜に来てくれないかな。きみに聞きたいことがあるの)
(ええっ、でも、そんなにお小遣いも持ってないし)
(陸族館の中には入らなくても大丈夫よ。きみの心の波動は覚えたから、近くならドームの外でも通じると思うわ)
(でも、お母さんが、夜のお出かけはケートスがいて危ないからダメだって)
(そう、なのね。ごめんなさい、無理を言って)
ピピは迷った。しかし、少女の必死の思いは強く感じた。
(わかった。今夜こっそり家を抜け出して、ここに来るよ)
(ああ、本当にありがとう、ピピ。待ってるわ)
閉館時間を過ぎ、ドームの内側に吊り下げられた夜間照明もすべて消えた後、ようやくピピは陸族館に戻ってきた。それでも、噴水管から思い切り水を吹き出して、全速力で泳いで来たのだ。
今夜は新月で、灯りの消えたドームの中の様子はよく見えなかった。カウンターイルミネーション〔逆光のときにシルエットが目立たないよう自らも光ること〕を使ってみたが、その程度の光ではドームの中まで届かない。ピピは仕方なく、モモがいた空気槽の辺りに見当をつけ、ドームの透明な壁面に触腕で張り付いた。
すると、すぐにモモの声が聞こえてきた。
(ああ、良かった。遅いから、もう来ないのかと心配したわ)
(なかなか家を出られなかったんだ。結局、お母さんには、友だちの家に泊まって勉強するからとウソをついてしまったよ)
(ごめんなさいね。でも、来てくれて、本当にうれしいわ)
(照明も全部消えてるみたいだけど、こんなに遅い時間に起きてて大丈夫?)
(大丈夫よ。姉妹たちに怪しまれないよう、仮病を使って個室に移してもらったの。当直の飼育員は一人だけだから、大きな音さえ出さなければ気付かれないわ)
潮流が強くなってきたので、ピピは体を安定させるため壁面に吸盤を密着させた。
(聞きたいことって何?)
(そうね。その前にわたしたちのことを説明した方がいいわね。きみはヒトのことは知ってる?)
(うん。学校で教わった。昔はこの世界を支配していたけど、自分たちの引き起こした環境の激変に耐えられず、今は絶滅寸前だって)
(そう教えられているのね。でも、本当は、もう絶滅してしまったのよ)
(えっ、だってきみたちがいるじゃないか)
(わたしたちはクローンなの。他の動物たちもみんなそうよ。陸族館で展示されるためだけに、骨から抽出したDNAで作られたの。わたしの姉妹たちは言葉も教えられず、ただの展示用動物として飼育されているわ。だから、お腹が空いたとか眠いとか、そういう単純な心しか持っていないの)
(でも、きみは言葉をしゃべっているじゃないか。ちょっと、その、変わった方法だけど)
(わたしは突然変異体。生まれつきテレパスなの。近くの心は見えるから、飼育員たちの心を読んで言葉を覚えたわ。今は頭の中でしゃべっているけど、ちゃんと歯ぎしりで声も出せるのよ。でも、担当の飼育員はここを出て学者になりたいという野心を持っていたから、わたしが話せることがわかると実験動物にされると思って、黙っていたの。そのかわり、悪意のなさそうな見物客に、いつも心で話しかけてみた。でも、誰にも通じなかったわ。とても淋しかった。このまま誰とも話せないのかと思って、ずっと泣いてばかりいたの)
ピピの知らない言葉がいくつもあったが、おおよその状況だけはわかった。
(ぼくには聞こえたよ)
(そう、奇蹟が起きたのよ。本当にうれしかったわ。ねえ、わたしはこの陸族館しか知らないの。聞きたいのは、きみが見たり聞いたりした、外の世界のことなんだけど、話してもらえるかな?)
(それはいいけど、上手に話せるか自信がないなあ)
(大丈夫よ。きみの心は見えているから、うまく説明できないときは、その時のことを思い浮かべるだけでいいわ)
(わかった。やってみるよ)
ピピは自分の家族のこと、友達のこと、学校のこと、タテジマジンベイザメに乗って遊んだこと、海流に流されて迷子になったこと、遠足で行った美しいサンゴ礁のこと、一度だけ夜中にこっそり海面まで上がって月を見たこと、などなど、モモにせがまれるまま、思いつく限りのことを話し続けた。ピピが長く話し過ぎたせいか、モモの返事が次第に弱まってきた。
(疲れたんじゃないかい?)
(ううん、大丈夫よ。本当にすてきだわ。ああ、わたしも行ってみたい。でも、無理な話よね)
ピピは何と言って慰めたらよいのかわからず、(ごめんね)と謝った。
(ああ、こちらこそごめんなさい。困らせるつもりはなかったの。ただうらやましくて。外の世界のことは、見物に来るきみの仲間たちの心を時々覗き見するぐらいで。ああ、そうだわ。一番聞きたかったことを忘れていたわ。ピピは、『白い島』の話、知らない?)
(え、『島』って何?)
(そうか、知らないのね。島というのは、とても小さな陸のことよ。この世界で最後に残った陸の一部よ。見物客の心を覗いていたとき、チラリと一瞬だけ見えたの。ああ、行ってみたいなあ)
モモの切ない気持ちが伝わってきて、ピピも動揺した。そのため、自分の周囲が異様に明るくなっていることに気付くのが遅れた。ピピがギョッとして眼柄を上に向けると、妖しい金色の光の塊が二つ、ゆっくりと降りて来るところだった。
(ケートス!)
(ピピ、ピピ、どうしたの?)
だが、ピピの心は霧に覆われたように真っ白になり、壁面を離れてフラフラとそちらに引き寄せられて行く。
(ピピ、ダメよ、目を覚まして!)
ピピからの返事はなかったが、その時、思わぬことが起こった。モモの視界が一瞬暗転したかと思うと、今ピピが見ている光景がダイレクトに見えるようになったのだ。
(こ、これがケートスなのね)
恐ろしいほど巨大な、金色に光る二つの目が迫って来る。しかし、よく見ると、それは目ではなかった。本当の目はもう少し下にあり、体の大きさに比べると、随分小さい。目のように見えているのは、発光する体の模様のようだ。その間にある突き出した口が開くと、ズラリと並んだ鋭い歯が現れた。
(逃げなきゃ!)
モモは混乱していた。自分が今見ている光景がピピのものであることを忘れ、反射的に逃げようとしたのだ。すると、フラフラとケートスに近づきつつあったピピの体がクルリと反転した。視覚だけではなく、体の動きもモモの意思に従うようだ。
獲物に逃げられると思ったのか、ケートスがスピードを上げてきた。
(ああ、食べられちゃう!)
その瞬間、ピピの噴水口から真っ黒なスミが噴き出し、ケートスの視界を覆った。だが、ケートスは躊躇なくスミの煙幕を突っ切り、真っ直ぐこちらに向かって来た。モモは知らなかったが、ケートスは口から出す超音波をソナーのように使って獲物の位置を把握するのである。もはや逃れる術はない。ピピと一体化しているモモは、生命の危機に震えあがった。
「ケートス、やめて!」
思わず叫んだ言葉が、意外な効果をもたらした。大きく口を開けて迫って来ていたケートスが、ピタリと止まっていた。口を閉じ、ジッとこちらを見ている。
(どうしたんだろう。わたしの言葉が通じたのかしら。いいえ、そんなはずはないわ。わたしの言葉はピピのクチバシから出たのだから、ケートスにはピピがしゃべったとしか聞こえないもの。と、いうことは)
モモは声に出さず、(ケートス、わたしの声が聞こえるの?)と、心の中で呼びかけてみた。
驚いたことに、ケートスは頭を上下に動かした。それだけではない。目の上の模様から妖しい光が消え、真っ白な皮膚が現れた。ケートスは巨大な魚のような姿をしており、目の上の模様とアゴから下の腹側が白く、それ以外の皮膚は黒かった。魚と違い、尾ビレは水平になっている。
(なんだか、ずっと昔に見たような気が。でも、そんなはずはないわ。きっと錯覚ね。それにしても、そんなに怖い感じはしないわね)
だが、ケートスの目の上の模様から光が消えたせいで、ピピの心からサッと霧が消え、モモの心は再び自分の体に戻ってしまった。同時に、ピピの意識が回復した。
(ぼく、どうしたんだろう。あ、ケートス!)
反射的にピピが逃げたのがいけなかった。ケートスの狩猟本能が目覚め、ピピの追跡を再開したのだ。その気配を感じたモモは焦った。
(ああ、どうしましょう、ケートス、その子はわたしの友だちなの、やめてちょうだい。だめだわ、声が届かないみたい。ピピの体を中継しないと、遠すぎるんだわ。どうしたらいいのかしら)
(モモ、助けて!)
もう一度ピピが気を失えば、モモの意識が体を支配できるのだろうが、ケートスが速すぎて、とても間に合いそうにない。
(そうだわ。ピピ、聞いてちょうだい。決して振り向かないで、そのまま泳いでドームの中に入って、わたしのいるところまで来て!)
(わかった。やってみるよ)
ピピは必死でドームの下を潜って中に入った。ケートスは妖しく模様を光らせ、そのすぐ後を追って来る。
(ピピ、こっちよ!)
モモの声に導かれるまま、ピピは噴水管を使って全力で泳いだ。決まりなど守っている場合ではなかった。背後からケートスの水を切り裂くように進む音が迫って来ている。その妖しい光が、並んでいる空気槽を照らし出していくと、全体の塊からポツンと離れた小さな空気槽にいるモモの姿が見えてきた。
(ケートス、おやめなさい!)
今度は効き目があった。大きな口を開き、あと少しでピピに追いつこうとしていたケートスが、ピタリと止まった。妖しい光がスッと消えて行く。
(そう、いい子ね。ピピはエサじゃないのよ)
距離が近づいたせいか、モモにはケートスの心の中がよく見えた。
(ああ、そういうことなのね。だから、わたしの、いえ、ヒトの感情に反応するのね。何とかあなたと話せるといいんだけど、ピピたちと言葉の種類が違うみたい。お願いだから、そのまましばらく待っていてね)
ケートスが大人しくなったのを確かめ、モモは意識をピピに向けた。
(ピピ、大丈夫?)
(あ、ありがとう、モモ。助かったよ。きみは命の恩人だ)
(いいのよ。元はといえば、わたしのせいだもの。本当に良かったわ)
だが、ふたりが安心したのも束の間、いきなりドーム内の照明がすべて点灯し、非常放送が鳴り響いた。
《陸族館ドーム内にケートスが侵入した模様。総員戦闘態勢で集結せよ!》
ピピは動揺して、意味もなく眼柄をグルグル回した。
(大変だ。大人に見つかったら、怒られちゃう。モモ、どうしよう?)
(とりあえず、ここから逃げるしかないわ。今見つかると、わたしも普通のヒトじゃないことがバレちゃうし)
(逃げるって、どこへ?)
(白い島よ。さっきケートスの心を覗いたら、自分のことを白い島の守り神と思っているの。ずっと昔、ヒトの遺伝子操作によって生み出され、何世代にもわたって白い島を守っているらしいの)
(ぼくには難しいことはわからないよ。それより、どうやって逃げるの?)
(そうね、それを考えないと)
再び非常放送が聞こえてきた。
《繰り返す。陸族館ドームにケートス侵入。各自武器を持って集結せよ!》
ピピの眼柄が激しく回った。
(モモ、早くしなきゃ!)
(わかってる。そうだわ、わたしのいるこの空気槽は予備用だから、空気を流すパイプを切断すれば、取り外せるはずよ。それはケートスにやってもらうとして、そのままじゃ空気がどんどん漏れちゃうから、ピピ、その後、パイプを結んでちょうだい。結べたら、空気槽ごとケートスに運んでもらうわ。もちろん、ピピも一緒よ。ああ、でも、ある程度ここから離れたら、ちゃんとお家に帰ってね)
(ぼくだって白い島が見たいよ。ついて行くさ。帰るのはその後でいいよ)
(わかったわ。じゃあ、始めるわよ)
モモは言葉ではなく、してもらいたいことを思い浮かべ、そのイメージをケートスに送った。ちゃんと伝わるだろうかとモモが不安げに見守る中、ケートスは身をひるがえしてパイプを咬み切った。それをピピが結ぶ方が大変であった。
その間にも、ドームの外にはクラーケン族の大人たちが続々と集まって来ているようだ。
(急いで、ピピ)
(うん、もう少しだよ。よし、できたぞ)
(もう時間がないわ。ピピ、どこでもいいから、ケートスの体にくっ付いてちょうだい)
(ええーっ、でも、でも、しょうがない、よね)
ピピは、おそるおそるケートスの背ビレの後ろに体を密着させた。
(そう、それでいいわ。さあ、ケートス、パイプの結び目を咥えて、出発よ!)
ケートスはモモのいる空気槽のパイプを下アゴに引っ掛け、ドームの下を潜り抜けた。外には何十人ものクラーケン族が、鋭いモリのついた水中銃を構えて取り囲んでいる。ケートスは目の上の模様を妖しく光らせた。その光を目にした途端、殺気立っていたクラーケン族たちの戦意が萎え、フラフラと漂い始めた。それでも気丈にモリを撃つ者もいたが、まったく見当違いの方向に飛んでいった。ケートスは悠々と包囲網の真ん中を突っ切り、そのままぐんぐんスピードを上げて行く。
(わーっ、速すぎるよ!)
(ピピ、しっかりつかまっているのよ!)
ピピが経験したこともないような速さでケートスは泳いだ。しかも、時々息継ぎをするために海面から体の半分ぐらいを出すため、背ビレの後ろにつかまっているピピも海の上に出てしまう。そのたびにピピは体がヒリヒリした。ピピは生まれて初めて『風』というものを感じたのだ。
(これじゃ息ができない、苦しいよ!)
(ごめんなさい、もう少しの辛抱よ。白い島はそんなに遠くないみたいだから)
ケートスが海面から顔を出すたびに、パイプの先を咥えられているモモのいる空気槽も浮きあがる。空気槽越しではあるが、海の外の世界が垣間見えるのだ。少しずつ白み始めた『空』を見上げ、モモは言い知れぬ感動に涙をあふれさせた。
朝日が昇る頃、ケートスは泳ぐスピードを急にゆるめた。
(モモ、下を見て!)
上にばかり気を取られていたモモは、ピピの言葉にハッとして下を覗いた。
浅くなった海底は白かった。いや、そうではない。海底を覆いつくすほど、おびただしい数の白いものが積み重なっているのだ。
それは、様々な動物たちの骨であった。
(こ、これはいったい、どういうことなの?)
無意識に発せられたモモの問いに、ケートスがイメージで返事を送ってきた。徐々に上がって来る海面に、生活の場を追われた動物たちによる死の行進。その中にはヒトの姿もあった。狭まっていく陸を奪い合い、押しのけ合う、動物たちとヒト。その折り重なった死骸を乗り越え、さらに乗り越え、みんな最後に残された島を目指して行く。そこは、かつて『キリマンジャロ』と呼ばれていた場所であった。
モモは深い悲しみに包まれた。
(ああ、そうなのね。ここは、わたしの仲間たちの……)
道中ずっと喜びにあふれていたモモの心の変化に、ピピは戸惑った。
(大丈夫かい、モモ。もう引き返そうか?)
モモは流れ落ちる涙をぬぐった。
(いいえ、大丈夫よ。行きましょう、白い島へ)
浅瀬になったため、ケートスはゆっくり慎重に泳いでいる。だが、しばらく行くと海が浅くなり過ぎ、もうそれ以上先へは進めないようだった。
ピピはケートスの背ビレの後ろを離れ、海面から半分ぐらい浮き上がっている空気槽の近くまで移動した。そこで、海面から眼柄だけを出した。ちょっとヒリヒリするが、我慢できないほどではない。間近で見るモモは、ピピよりいくぶん小さかった。
(モモ、どうしよう?)
(そう、ね。ケートスをこれ以上進ませると、お腹がつっかえて動けなくなると思うから、ここで帰す方がいいわね)
(え、じゃあ、ぼくたちは?)
(ピピも一緒に帰って。ずいぶん遠くまで来ちゃったから、ケートスに連れて帰ってもらった方がいいと思うわ。もちろん、ピピを食べたりしないよう約束してあるから)
(モモはどうするの?)
(わたしはもう少し進んでみるわ。どうしても、白い島を一目見たいの)
ピピにも白い島を見たいという好奇心はあったが、こんなに遠くまで来たことがないため、そろそろ心細くなってきていた。
(モモも一緒に戻ろうよ。いつかまた来ればいいじゃないか。ぼく、その時には忘れずに防護スーツを持ってくるからさ)
(いつか、という日があればいいけど……)
(え、どういう意味?)
(ううん、何でもないわ。それより、ピピ、お願いがあるんだけど。この空気槽のどこかに非常用の開放ボタンがあるはずだから、それを見つけて押してくれない?)
(それは、いいけど。開けたら元に戻せないかもしれないよ)
(いいのよ、それで)
ピピの心に、モモの言葉がしみ込んでいく。ピピは激しく眼柄を回した。
(ダメだよ。どうしても白い島に行きたいなら、ここからは、ぼくが連れて行く。そして、必ず連れて帰る。だから、ケートスにはここで待ってもらうように言ってよ)
モモは静かに微笑んだ。
(ありがとう、ピピ。でも、決して無理はしないでね)
開放ボタンはすぐに見つかったが、ピピがおそれたとおり、閉めるボタンはなかった。しかし、空気槽のまま陸まで運び上げることは、ピピには不可能だ。決断するしかない。
(じゃあ、開けるよ)
(お願い)
シューッという音とともに、空気槽はてっぺんから二つに割れた。笑顔で外の空気を吸い込んだモモは、急に「クシュン!」と言った。
(モモ、モモ、大丈夫?)
モモはおかしそうに笑うと、歯を擦りあわせた。
「ごめんなさい。思ったより、空気が冷たくて。どう、わたしの声、聞こえる?」
ピピもクチバシを水面から出した。
「ああ、聞こえるよ。かわいい声だね」
「ありがとう。でも、音が小さいでしょう。ヒトの歯は、元々音を出すのに向いてないのよ。本当はノドの奥から声を出すらしいんだけど、やり方を教えてくれる相手がいなかったから」
モモは少しうつむいた。
「大丈夫だよ、ぼくにはちゃんと聞こえてる。それより、ぼくの背中に乗って」
「え、いいの?」
「うん。モモの触腕が海底に届くぐらい浅いところまで乗せて行くよ」
「本当にありがとう。でも、これは『足』というの。そして、こっちは『手』よ」
モモに再び笑顔が戻った。だが、相当に体力を消耗しているように見える。
モモはケートスに待つように告げると、ゆっくりピピの背中に乗った。その途端、ピピが「熱っ!」と悲鳴を上げた。
「ごめんなさい。わたしの体がピピより温かいからなのね」
「へ、平気さ。遠慮しないで」
本来変温動物であるピピにとって、ヒトの体温は高過ぎる。その上、モモ本人も気が付いていなかったが、実は、昨晩から高熱が出ていたのだ。ピピの背中は軽い低温火傷の状態であったが、ピピは何も言わず我慢した。また、ピピの背中は少しヌメリがあって滑るため、モモに断って触腕を巻き付けたが、熱さに再び悲鳴を上げそうになった。
「ごめんね、モモ。気持ち悪くないかい?」
「大丈夫よ。行きましょう」
こころなしか、さらにモモの元気がなくなったように感じ、ピピはなるべく早く着くよう、噴水管に力を込めた。この姿勢だと、ピピには前方がよく見えないため、モモが誘導しながら進んで行く。すっかり日は昇り、気温も上がってきていた。
「ピピ、熱くない?」
泳ぎに専念するため、ピピは心で返事をした。
(平気だよ)
「無理しないでね。そろそろ足が着くんじゃないかしら。わたし、降りましょうか?」
(もう少し進んだ方がいいよ。まだ、モモの背の倍ぐらいは深いから)
「あ、見えてきたわ!」
それはまさに真っ白な島であった。平坦で海面スレスレの高さしかなく、潮位によっては水没するのではないかと思われた。
「もう、降りるわ。これぐらいなら、泳げると思うの」
(モモ、焦らないで。もうすぐだから)
「大丈夫よ」
ピピの触腕を振り切るように、モモは海に飛び込んだ。が、初めて水の中に入ったモモは、たちまち溺れた。ピピの泳ぎをマネして必死で手足を動かしているようだが、どんどん体が沈んでいく。
ピピは急いでモモの体の下に潜り込んで支えた。
(モモ、モモ、しっかりして!)
返事がない。気を失っているようだ。一刻も早く島に連れて行くしかなかった。ピピはモモが海面より沈まないよう触腕で支えながら急いだ。腹がゴツゴツと海底の骨に当たるのも構わず、噴水管から水を吹き出して進む。骨は徐々に細かくなっていき、気が付くと白い浜辺に着いていた。そこは、骨が風雨にさらされてできた細かい砂に覆われた島であった。ピピは信じられないほど重くなった自分の体を必死に動かし、モモの体を砂浜に横たえた。すぐに息苦しくなり、波打ち際に戻ると半身だけ海水に浸し、触腕を伸ばしてモモの体をゆすった。
(モモ、モモ、返事をして!)
モモはゲホゲホと海水を吐き、しばらく苦しげに咳込んだ。
(だ、大丈夫よ、ピピ。ありがとう……昨夜あなたの体に入ったとき、ちゃんと泳げたから、……自分の体でもできると思っちゃったの……ごめんなさいね)
(気にしないで。それより、モモの心の声がすごく聞こえにくいんだけど、本当に大丈夫なの?)
(ありがとう、ピピ……とても……楽しかったわ……外に出られたし、……白い島にも来れた……でも、わたしは……もうすぐ……)
(どうしたの、モモ、息が苦しいの?)
(そうじゃないの。クローンは……長くは……生きられないのよ……昨日、姉妹の一人が……だから、わたしも、もう……だから……どうしてもここに来たかった……)
ピピは心配でたまらなかったが、どうしてあげたらいいのか、わからなかった。
(わたしたち姉妹が全部いなくなったら……次の世代のクローンが……ずっと繰り返されて……わたしも姉妹たちのように……何も知らなかった方が良かったかも……いいえ、いいえ……きみに会えたから……幸せだった……この島には仲間も大勢眠っている……だから、気にしないで……ピピはちゃんとお家に帰ってね……ケートスには頼んであるから……わたしのことは、もう忘れて……)
聞こえない。
ピピは苦しいのを我慢して陸に上がり、モモの体に近づいた。すると、モモの声が微かに聞こえてきた。
(……ありがとう、ピピ……さよう……)
ゆっくり上下に動いていたモモの胸が、いつのまにか止まっていた。ピピが覗き込むと、モモはとても穏やかな顔をしていた。その閉じられた目蓋から、頬に一筋の涙が流れていった。
ピピは、そっとモモの頬に触腕をあてた。
「さようなら、モモ。でも、きみのことはずっと忘れないよ」
ピピは、眼柄から何か熱いものがあふれるのを感じた。それは、ピピが生まれて初めて流す、涙だった。(おわり)
陸族館の少女