迷える星の集う空に(後)

予兆

「……あぁ? 久々に更新が……」
 ふと気になって覗いたチャット。長らくその投稿が途絶えていたそこに、ごく最近管理者による書き込みが為されていた。
「と思ったらそこそこ前の日付だな。最近は忙しかったから……見落としていたか」
 シロコ宅を訪問してきたカナタは自室のチェアに例の如く腰掛け、弛み切った気分と姿勢でコンピュータに向かっていた。
のんびりと過ごす間に室内は薄暗く沈みいき、ディスプレイの明かりが煌々とカナタの顔を照らしている。西日に染まったカーテンは赤く燃え上がるようだった。
「前々から気になっていたんですけど、そのウェブサイトは一体……?」
 カナタの独り言に気を引かれたのか、アステルが仮想空間のウィンドウを表示させ訊ねてくる。当たり前の如くカナタのコンピュータを操ってくる彼女だったが、カナタの方ももはや言及する気もなくなっていた。
「まだ話していなかったか。お前がいるそこを作るときに、このチャットの管理人から指導を受けたんだ」
 カナタとて、全くの独学でアステルの住む仮想空間を作り上げたわけではない。一般的でない理論に関しては件の管理人による投稿を参考にし、また時には質問も投げかけた。
「でなければさすがに、一介の高校生でしかない俺にはコンピュータで再現した脳の挙動なんて知りようがないからな。少し前までは頻繁に話を聞いていた」
「なるほど、そんなことが……」
 現在のアステルは内装を終えたログハウスで一人、居間の椅子の一つに腰を下ろしている。淡い橙の光に照らされ、揃えた膝の上に両手をついた彼女はテーブルに置いた端末を覗き込みながら小首を傾げた。
「それで、その方は何とおっしゃってるんです?」
「ええとだな、『出会われた方は連絡を下さい』とだけ書いてある」
 何のことか、さっぱりだった。『誰と』を意味する目的語が抜け落ちている。
「カナタさんだったら心当たり、あるんじゃないですか? その方の話に注目していたんですよね?」
「とは言っても、俺はこの人がどんな職業で何をしているのかさえ聞かずにいたからな。発言からして、まず間違いなく研究職だとは思うが……」
 インターネット上での付き合いらしく、互いに現実の身分は明かしていない。だからアステルが眉を顰めてこう訊ねてくるのも無理らしからぬことだった。
「では、どうしてカナタさんはその方の話を信用したんです?」
「その辺りの説明は難しくてな、信じたっていうよりは……そうだな。憧れた、とでもいうべきか。その人自身だとか、或いはその人の話す、言葉がなくても通じ合える世界に」
 シロコとの関係が断裂してからまだ間もなかったカナタにはそれが天啓のように思えた。進むべき道がそこにあると確信さえしたのだった。
「何だか今のカナタさん、楽しそうな顔しています」
 不意に、アステルの思案顔が崩れて、目元と頬がくにゃりと弛む。彼女の方こそ楽しそうに微笑みながら、テーブルに頬杖をついた。
「わたしはやっぱり、カナタさんになら分かると思いますよ、その方の真意が。こんなに素敵な場所が作れるようになるまで、その方の話を聞いてきたんですから。思い出して下さい。きっと手がかりはあるはずです」
「何を無責任な……」
 悪態をつきながらも言われると記憶を探ってしまう。これまで目にしてきた教えは数え切れず、一つ一つ思い起こしていけば手がかりも掴めるように思えてしまったから。
「あの人が話していたこと、ね……」
 真っ先に思いついた、というよりこれに関連しなかったことのない話題と言えば電子の意識に関する仮説だった。偶然ここを見つけて半信半疑ながらもその説に聞き入り、初めて質問を投げ掛けた。
 管理人とカナタの遣り取りはそこに始まる。
「確か、人間もそんなふうになれるのか、とそんなことを訊いたのが最初の質問だったな」
「その方は何と返されたんです?」
 やたらにこにこと楽しそうにしているアステルに、当時のことを思い出して失笑しながらカナタは語り出す。
「分からない、だとさ。ただ挑んでみる価値はあるってノリノリで考察を始めてたな」
 まず対象となる人間の脳のニューラルネットワークを写し取るところから始まるわけだが、当然ながら元の意識が維持されなければ意味がない。でありながら同時に電子の世界へと適応していける環境が必要になるわけで、管理人とカナタはその後も落ち合い、しばしば夜通しで話し込んだ。
「最初は俺が一方的に話を聞いてたんだが、書籍を紹介されて勉強している内にどうにかついていけるようになった。それから議論を重ねて今の仮想空間の骨組みを組み上げていったんだ」
 話が一区切りつくとほくほく顔のアステルが堰切って好き勝手言い始める
「その頃のカナタさん、わたしも見てみたかったです! 今みたいに楽しそうにしているところ、あまり見せてくれないんですから」
 チャット上でとは言え、ここ数年来で最も多く言葉を交わしていた時期だった。難解ながら心躍る遣り取りで、回想すれば自然と笑みが漏れ出てしまうのだ。
「まぁ、楽しかったことは否定しない。だがその気持ちの悪い笑みは止めろ。俺なんか見ていて何がおもしろい? 少しはお前なりの趣味でも見つけてみたらどうなんだ」
 少々苛立たしげに、アステルを突き放そうと言いつけたら拗ねたような声を上げる。
「それは確かに、見つけられれば良いな、とは思いますよ。でも、嬉しそうにしたり楽しそうにしたりする人を見て自分も気分がよくなるのは自然なことでしょう?」
 途中からやはり微笑んでそう言うアステルをカナタは素直に受け入れられない。
「お前って本当に他人に構うのが好きだよな……だけど、自分のことについてももう少し真剣に考えろよ? もし仮にその仮想空間が機能不全に陥ったらどうするつもりだ?」
 未だにカナタはアステルの正体を見抜けたわけではない。人為的に生まれたのか、自然の作用なのか、それさえはっきりとはしていないのだ。だから時折不安になる。
 いつか唐突にカナタの前から姿を消してしまうのではないか、と。
 だが当のアステルはいつものどこか抜けている、しかし人懐っこい笑みで真っ直ぐに我が道を行こうとする。
「分かってます……けど、わたしは望まれて生きる存在でありたいんです。だからまずは……そうですね! 自分が力になれる場面を見つけられたら良いなと思います!」
「何だそりゃ。返事になって──」
 彼女の騒がしく大げさな反応に文句をつけようとして、カナタは口を噤む。
 管理人が言う何者かとの『出会い』。そんなものの相手がいるとしたら。
 知らぬ間に閉じていた目をアステルに戻すと、瞳の奥に広がる青空へ意識を吸い取られる。見ていられなくて、カナタは無意識に目を逸らしていた。 
「それで、管理人からのメッセージの件だが……悪い。やっぱり俺には分からなさそうだ」
 咄嗟に逃げ出す選択肢しか思いつかず、真実に背を向けてしまう。
 その不自然さを自覚するあまり咄嗟に弁明を口にしようとするが思い浮かぶ言葉はなく、ただ硬い唇を噛み締めるばかりだった。
 その様に何を勘違いしたのか、アステルは慌てて場を取り繕おうとする。
「そんなこともありますよ! 答えるのが難しい問題だってあります! わたしなんて未だに自分の正体が分からないんですから!」
「その件についてはもう少し焦ろよ……」
 ほとほと呆れ果てた、と言う代わりに肩を竦めてみせるとアステルははにかむ。
 そんな他愛ない仕草を目にしながら、やはりカナタは事実を胸の内にだけにしばらく留めていようと決心した。
 まだ別れる心積もりも、失う覚悟もできていない。


 しかし翌日の朝、カナタの頭からは管理人のことなど跡形もなく追いやられていた。カーテンさえ開かず、薄暗い部屋でコンピュータに向かっている。その姿を画面の向こうに広がる目映い草原から少女が、カナタの背後からは子猫が不安げに見守っていた。
「電車が止まっている、というのはそんなに大変なことなのですか? これまでにも起きていたことですよね?」
 無数に表示されたブラウザのウィンドウとタブの傍ら、カナタの険しい表情に気圧されたアステルが問いかける。カナタは如何にも不機嫌そうな目つきを向けて、それから八つ当たりするような自分の態度に嫌気が差し目を閉じた。
「前に話したか覚えていないが、一日止まっただけでも相当な非常事態なんだ。それが連日、電車どころかバスもタクシーも止まっているなると、さすがに……な。何かがおかしい」
 もはや恒例となりつつある休校によって生まれた時間を費やし、カナタはネット上のニュースサイトを片っ端から覗いていた。報道機関だけでなくソースの不明瞭な電子掲示板にまで手を広げた数時間はしかし、ほぼ徒労に終わってしまっている。
「噂レベルならいろいろと出回ってるんだがな。はっきりしたことは何も分からん」
 連日、運行を休止する度に取り留めのない理由を述べていた鉄道会社がシステムの異常を認めたのは今日になってのことだった。現在は『原因を究明中』だと発表している。
 だがそんな調査が進められる傍らで運行を見送る路線は広がりつつあった。
「大規模なテロだなんて言説も飛び交っているようだが、その割には犯行声明も要求も出ていない。だとするならまた別の事情か……もしくは、犯人が潜んでいるのかもな」
 そこで何となしにアステルへと目が行ってカナタは意地悪く冷笑してみせた。
「な、何です?」
 視線に貫かれた彼女が息を呑む。その反応を十分眺めて、引きつけてからカナタは再び口を開いた。
「やっぱり、お前だったりしないのか?」
「──!?」
 アステルは目を見張り、青い水面のような瞳をおろおろと右往左往させる。
「ちっ、違います。違います、よね……?」
「何でお前が自信なさそうなんだよ!?」
 不安げな上目遣いを向けられるとカナタまで落ち着かなくなる。からかったつもりでいたのに酷くまずいことを口にしてしまった、そんな予感がした。
「お前なわけないだろう。それとも何だ。気がかりなことでもあるのか?」
「ええと、それが……」
 唇が薄く開こうとしたのに途中でまた引き結ばれ、それから彼女はうなだれてしまう。考え込んだ様子であることは見て取れ、しかしその接し方が分からずにカナタは意識を開きっぱなしにしていたブラウザに引き戻した。とは言っても気になるサイトは既に一巡し終えている。
 情報収集というよりは単なる暇潰しのつもりで転がしていたラジオを引き寄せる。この古めかしいメディアは報道の主軸がネットに移り変わっても細々と今の時代まで存続してきた。
 何かの拍子に外れてしまっていた電池を押し込み、そこに蓋もしないまま電源を入れる。
 流れ出す番組内では若い女性のパーソナリティーが自分の趣味を全開にしていた。やたらと古めかしく風変わりな音楽が流され、戸惑いながらもカナタは耳を傾ける。
 程なくして番組は終了し、無機質な男性の声によるニュースへと移り変わった。やはり真っ先に取り上げられるのは交通網の異変だ。自らの調べを終えたカナタにとってはその追認にしかならない。
 しかし続く報道は興味深い内容だった。
『先月に完成したニューロコンピュータ『英知』に異常が発生していることが明らかとなりました』
「……ん?」
 椅子にもたれる内に重みを増していた瞼を擦り、背もたれから上体を引き剥がす。
『責任者によりますと、『英知』の入力装置に異常が生じており、現在研究チームはその原因の解明に努めているとのことです。各分野でのスケジュールの遅れが懸念されています』
「遅れるのか……」
 『英知』は脳のニューラルネットワークから発想を得たニューロコンピュータの一種だった。
 ニューロコンピュータの出現は早く半世紀も前には実機が稼働していたが、その名前が知られるようになったのは近年の出来事だ。圧倒的な情報処理能力で世界を席巻した量子コンピュータに対し、少量の情報から最大限の予測を導き出すコンピュータとして名乗りを上げたのだ。
 その独特なアプローチが注目され、大きな発展が期待される分野である。
 その発展というのが、皮質を中心とした大脳の再現となっているため、そろそろ人工の意識の創造にも成功するのではないかと噂されている。そうなれば既存の意識を写し取ることにも近づくため、電子の世界に旅立つことを夢見るカナタは、密かに期待を寄せていたのだった。
 だからその裏返しとして、進行が遅れるとなれば落胆せずにはいられない。
「……まぁ、今の俺にはもっと興味深い観察対象もいるし……」
 自分を慰めながら窺ったアステルの横顔は未だに煩悶から抜け出せていないようだった。

走り出す

 日を跨いでも結局、電車が動き出すことはなかった。これまで通りに学校も休み。いい加減に教師らは補習授業の計画を立て始める頃合いだろうから喜びよりは溜め息が溢れ出る。
 どうにも報道機関の動きも鈍く、目新しい情報は上がらない。アステルも昨日から深刻そうに顔をしかめたままで、暇を持て余したカナタは膝の上の子猫を弄くり回していた。
 サビ柄のそいつは甘えたがりでさしものカナタも愛着が湧いてしまう。シロコに言われるまでもなく名前も与えるつもりでいたのだが、これといった妙案はまだ浮かんでいなかった。
 やはり、アステルに相談しようか。
 そんなことを考える自分に気づいてやるせなさに蝕まれ、いつものチャットを開く。もし他に話し相手がいれば気も紛れるのではないかと、安直な思いつきのためだ。
 しかしそこは利用者が極端に少なく、管理人かカナタの同類ばかりが月に何度かの遣り取りを交わすだけの場所だった。一時期はカナタから繰り返し管理人に教授を請うこともあったが、仮想空間が完成した今、その会話もほとんど途絶えている。
 だから、めぼしい書き込みなど早々見当たらないだろうと期待はせずに置いたのだが、それでもアステルのことがあり、気がかりでサイトを開いたカナタは凍り付く。
『以前、ここで私に質問していた方などは、心当たりありませんか?』
 確かにそう記されていた。このチャットの利用者は少ない。その中でも管理人の話に興味を持ち、質問していく輩はさらに絞られる。もちろん、それがカナタだという保証はなかった。それでも管理人の候補にぐらいは上がっているだろう。
「……こっちも無視はできない、よな」
 カナタにとって、その管理人は尊敬すべき師匠であり、なおかつ夢を与え、その成就にも協力して暮れた恩人でもある。無視するのは心苦しかったが、ただ一つだけ些末ながら重大な懸念があった。そのせいで黙っていようかとも迷っていたのだが。
「あーっと……なぁ、アステル? 考え事の最中に悪いが、少し相談したいことがある」
「……はい? どうしたんです?」
 案外、思索の世界からあっさりと帰還した彼女がカナタに目線を返してくる。それに頷き掛けると、言葉に迷い、二の足を踏みながらもカナタは応じた。
「落ち着いて聞いてくれ。昨日の管理人の話……もしかしたら該当するのは、俺たちなのかもしれない」
「つまり……その人は、わたしたちに会いたがっているんですね?」
「もしかしたらな。或いは、そうなのかもしれない」
 しかし話が厄介になるのは、ここからだった。
「ここからはある程度は俺の推測混じりになるが、あの人はアステル、お前の出生に関わっている。でなければ、あんな書き込みはしない。あの人はお前の存在を知っているんだから」
 彼女の存在に気づいている。それだけでも関係者だと断定する証拠としては十分だった。アステルはこれまで一度たりともその存在を確認されなかった、電子の意識なのだから。
「さて、本題はここからだ」
 椅子にしどけなく背をもたせ掛けていたカナタは、そこで居住まいを正し、アステルを見据える。緊張は彼女ちも伝わり、その薄い唇が引き結ばれて微かに鬱血した。
「お前は自分が俺に話した、自我が芽生えるまでの話を覚えているな?」
「はい。傍に気持ち悪いものがあって……って話ですよね?」
「その通りだ。あの話によれば、お前はその気持ち悪いものから逃れようとして自我に目覚めた。そしてあの人がお前の誕生に関わっていたら、その気持ち悪いものはあの人の手元にある可能性が高いんだよ」
 果たしてそれが、人の手で所有できるような代物なのかは定かでないが、身近にあるのは確実と言えた。
「そして、お前は研究者からすると垂涎ものの観察対象なんだ。あの人はお前を取り戻すつもりでいるかもしれない。もしそうなったら、お前の行き先は……」
 そこから先はもう言葉を継がずとも、アステルだって思い及んでいた。そのことをカナタは合わせた目から察し、その怯え切った瞳に続きを語れなくなる。
「わたし、また元の場所に引き戻されるかもしれないんですね」
 敢えて迂遠な表現で彼女は言い表した。しかしその目はまだまだ恐怖から抜け出せていない。
 正直なところ、カナタにはアステルの恐れる『気持ち悪いもの』の禍々しさが未だに察し切れていない。それでも振りかざされた刃を見上げるような恐怖と、他では決して見せることのない嫌悪感なら伝わってきた。その異常性は肌を削りながら染み込んできて、ともかく忌むべきものだという認識をカナタにもたらす。
「そうだ。だから俺は必ずしも連絡を取ることが最善の選択肢だとは思っていない。お前の判断を加味した上で――」
「――やります!」
 高らかに宣言した彼女の瞳は今日も澄み渡り、どこまでも見通せてしまえそうだった。だけどその底は奥深過ぎて、どれだけ目を凝らしても覗けない。
「良いのか? 言っておくが、俺にだって実際に会ったらお前がどう取り扱われるのか分からないんだぞ。どうにかお前のことを誤魔化せるのかも……何とも言えない」
 連絡を取った時点でそれらしい存在と接触したことは明かしたに等しい。だとするならば、それが勘違いだったと思い込ませる必要が出てくるかもしれなかったが、考えるまでもなく難しい立ち回りが要求された。
「それに相手は研究職か……そうでなくとも、知識欲と好奇心の塊だ。万が一、相手の手元に渡れば散々に観察されるだろうし、実験の対象にだって……」
 熱心に引き留めようとしている語り口調を自覚し、カナタは硬直する。喉の奥から漏れ出した吐息を噛み切り、居心地悪く視線を傍らに投げた。
「まぁ……何だ。お前はそこら辺、よく考えて結論を出したのか?」
 問いかけてやるとアステルは「少し、決心が揺らぎました」と返してくる。
「またここに戻れなくなってしまうのは……寂しいですね」
 ぽつりと机の上に落ちた呟きは掠れた響きで、カナタの注意を惹きつける。
「だったら……!」
 再びアステルに向けられた眼差しを、揺るぎなく力強ささえ感じさせる微笑が出迎えた。
「気になることがありまして、もしその方が何かご存じなら、お訊ねしたいんです」
 打ち明けられて、そうだった、とカナタは口を噤んでしまう。自身の浅慮を思い知って、それ以上には言葉を継げなくなる。
 アステルには記憶がなかった。自分が何者なのかさえ、彼女は覚えていないのだから。
「そりゃまぁ……気になるよな。俺だって、昔のことを忘れたまま平然としてはいられないだろうし」
「あっ、あの、違いますよ! いえ、やっぱり違わないのかもしれませんが……わたしが知りたいのは、自分の正体じゃありません」
 椅子から飛び跳ねそうな勢いのアステルに言われて、カナタも戸惑う。
「だったら……何のために?」
 無意識に口にしていた問いは、だからこそ本心に忠実だった。やや責めるような口調のそれにアステルは却って表情を和ませ、ふにゃりと相好を崩す。
「決まってるじゃないですか。それは、それは……」
 しかし彼女は俯いて暫し、その目元を柔らかな前髪で覆ってしまった。淡く光を発するようなそれが晴れたらまた決意漲る双眸にカナタの仏頂面が映り込む。
「わたしが生まれたとき傍にいた、あの嫌なもの。あれがどうなっているのか、今も動いているのか、どうしても気がかりなんです。もしまだ生きているようなら、わたしがどうにか止めてしまいたい」
「何だか、お前にしては随分と物騒な物言いだな」
 率直な感想を言うとアステルは照れ臭そうに苦笑する。
「何でこんなに気になるのか、わたしも分からないんです。だけどともかく放っておきたくない」
 宣言するアステルはそれでも気丈そうで、普段よりどことなく硬質な態度だった。
「まぁ、お前なりに事情があることは察せたよ。良いだろう。連絡してみる」


 久しく使っていなかった自転車は、潤滑油を差してもペダルを踏み込む度に悲鳴を上げた。出不精のカナタも同様に疲弊しながら、錆び付いたそれにしがみつく。
「ペダルが固い……たかが二年で、ここまで動かなくなるもんなのか」
「わたしが思うにはカナタさんの運動不足も関係していると思うのですが……」
「知るか!」
 理不尽に喚き散らしてもただただ喉が枯れ果てるばかりだった。頂点を通り過ぎたのに緩まない日差しから目を逸らそうとして、うなだれる。
「家からここまで、どれだけ距離があると思ってるんだ……」
「ポケットの中からだとあまり距離は実感できないのですが、そろそろ出発してから一時間になります。少しペースが落ちているようですし、休憩を挟んでは?」
「いいや、どうせもう少しなんだ。ここまで来れば走り切る」
 住宅地の中を抜ける道路から見上げた空には、自動車の行き交う高架が走っていた。そこが境界線となって家々は途切れ、代わりに家電量販店や大規模な公衆浴場といった大型の商業施設が点々と立ち並ぶ。
 その中に混じる所謂『道の駅』が、ある人と約束を取り交わした待ち合わせの場所だった。
「それにしても連絡を取ってから返信が来るまで、早かったですよね」
「通知が来るようにでも設定していたんだろう。それより連絡を試みたその日の内に待ち合わせまですることの方が驚きだ」
 今日は土日でも祝日でもなく、大半の人間は学校か会社で過ごすありふれた平日だった。よほど暇なのか、さもなくば変則的な生活を送っているのか、社会から外れた時間を生きる人物であることは間違いない。
「カナタさんよりも自由人なんですね!」
「誰が自由人だ。俺は常識の範囲内で活動している。……平日の昼間から呼び出してくるあの人に関しては、何とも言えないが」
 そこで一旦会話が途切れ、カナタは黙々と自転車を走らせることに集中した。
 彼が今走る歩道の隣、二車線ある車道は目に見えて空いていた。時折疾走していく非自動運転車とどこかの店から垂れ流される音楽がいやに気に障る。
 そんなことを考えている内に高架目前の十字路で信号に捕まり、カナタは通信端末(リンクス)を引っ張り出した。
「どうかしましたか?」
 画面の中に顔を出してくるアステルへ、カナタは素っ気なく「大したことじゃない」と肩を竦める。
「ただ少し気になることがな」
 半ば独り言のように呟き、新しいニュースを確認しようとして。
 ――大地が震えた。
 そう感じたのは頭上から響き渡る音のせいだけでもなかった。
 断続的に衝突音と、そこに纏わる衝撃や甲高い金属の悲鳴が鼓膜を削り取っていく。その間隔は徐々に詰まり、最後には一続きの轟音となって耳から脳へと貫いていった。
 聴覚が急速に失われていく世界で、車のクラクションに紛れて鋭い声が飛ぶ。
「カナタさん! 走って! 橋の下まで!!」
 一瞬、橋が何のことか分からず、そしてまだ目の前の信号が赤だったためにカナタは戸惑った。
 だが見下ろした端末の画面から更迭さえ穿てそうなアステルの視線に射抜かれる。その普段からはかけ離れた気迫がカナタを突き動かした。
「もう――――どうにでもなれッ!!」
 咄嗟に自転車のままでは走り出せないと判断したカナタは飛び降りて倒れかかる自転車を後ろ足で蹴り飛ばす。その勢いを利用して初めの一歩、そこからは無我夢中で手足を振り乱した。
 その最中に頭上で何かが打ち破られ、引き裂かれながら一際高く掠れた叫びを上げる。
 振り返ると空が遮られ、高架から飛び出してきた物体が、道路の向かいに聳えた電柱をへし折るところだった。その勢いに振り回され、弧を描きながらも自重がその物体を地に引きずり落とす。
 電柱に衝突した影響か速度が弱まっていたらしく、投げ出された自転車の傍に頭から突っ込みアスファルトを粉砕した。ともすれば足が浮き上がりそうな衝撃にカナタは歯を食いしばって耐える。
 その巨体が地面に突き刺さった、かのように見えたのはそのフロント部分が半ばまで潰れていたからだ。縦にひっくり返ると軽く跳ねて、軋む車体は緩く回転しながら停止する。
 抉れてめくれたパーツや剥き出しになった内部の構造は次第に黒煙を纏うようになり、爆発を恐れたカナタは忽ち後ずさった。そこで荒い息を整えながらカナタは、目の前の状況を整理しようとする。
「く、車が落ちてきた……?」
 どうしてこんなことに、と端末に語りかけようとしたカナタは暫し画面に目を落としたまま固まる。
「おい、アステル?」
 呼びかけてもも黒く塗り潰されたウィンドウは、そこに映っているはずのどこかあどけない容貌はカナタに応えてくれなかった。その言い訳のように通信が途絶したという簡素なメッセージが表示される。
 たったそれだけのことなのに。
 体の芯から底冷えしてきて、独り佇んでいることもままならなくなった。
 急に世界が遠のき、自分だけが取り越されていく感覚に肌を蝕まれる。
「……何やってるんだ、俺は」
 馬鹿なことを考えるなと自身を叱りつけて、気を抜けば薄らいでいってしまいそうな意識を繋ぎ止める。浮ついていた足が地べたの感触を取り戻して、幾らか気分が和らいだ。
 それから改めて前方を眺めても動悸はぶり返さない。
 潰れた鼻先から煙を上げる自動車だったが、その動力は電気でしかなかった。ガソリンが用いられていないのだから、大規模な爆発も炎上もあり得ない。
 ならばひとまず事故車から怪我人を助け出さないと。
 はやる気持ちを押し殺してカナタは通信端末から病院に救急車を要請しようとする。しかし何度緊時用の番号を入力しても通話は成立する前から途絶し、まるで繋がらなかった。
「くそッ!」
 思わず投げ捨ててしまいそうになった端末をカナタは乱雑にポケットへ押し込む。
 それから車の往来に用心しつつ車道を横断した。事故車に近づきながら何度も声を掛け、返事がないか耳を澄ませる。
「――れっ! ……られ……んだ!!」
 エアバッグにでも口元を圧迫されているのか、くぐもってはいた。それでも期待していた以上の威勢はあって、強ばっていた肺から緩い吐息が漏れ出してしまう。
「引っ張り出したら死んでいた、ってことはなさそうだ」
 皮肉ぽく言ってしまいこんだ端末に目を下ろし、溜め息をこぼすとドアに近づいていった。
 そうやって手を差し伸べることを習慣づけさせた少女に、カナタはこんなことを思ってしまう。お前が背中を押してくれたなら、と。

真相

 乗っていたのはただ一人、カナタの声に応じた若い男だけだった。やたらと陽気で冗談ばかり口にし、明らかな負傷は見当たらない。しかし素人目で即断する気になれず、結局最寄りの病院までその男を送り届けた。
 そんなことをしているから当然、約束の時間に間に合うはずもなく。
「まずい……っ……一時間近く、遅れた……!!」
 回収した自転車を全速力で漕いできたために息切れしたまま駐輪場を出て、『道の駅』の休憩所を目指す。
 それなりの規模の駐車場を備えたその施設は平常なら地域の特産物が売られていた。小さいながら軽食屋や喫茶店もあって待ち合わせまでの時間を潰すには打ってつけの場所だ。
 そんな中でなぜ指定したのがベンチや自販機が並ぶ程度の休憩所だったのか。
 その意図を読み切れずにいたカナタだったが、『道の駅』を訪れると否応にも察せられた。
 殆どの売店に明かりが灯っていないのだから。
 それどころか『道の駅』自体がその日は閉ざされていた。言うまでもなく駐車場は閑散としていて、一台だけ止まっているクーペが嫌に目立つ。静けさが却って耳に痛いほどだった。
 休憩所に関しては個別の出入り口が設けられ、二十四時間解放されているために入れない心配はなかった。現状を不気味に思って急ぎ足で、休憩所の前までたどり着く。
 ガラスの扉の向こうには壁際に整列した自販機とそれに取り囲まれてベンチが備わっていた。しかしながら人間は一人として見つからない。
「やっぱり、帰っちまったか……」
 順当に考えれば、それ以外の解はあり得ない。
 とは言え、憧れていた人物との面談を逃すのは惜しく、カナタは扉を押し開きプラスティック製の青い座面に腰を下ろした。背もたれに体重を預け呆けること数秒、気になって通信端末を引っ張り出す。
 思い浮かんだことを幾つか試して悉く失敗に終わり、膝に肘をついたまま端末を手で弄んだ。
 あれからずっと通信が途切れている。
 ネットには繋がらず通話も使えず、先刻の事故現場では最後まで救急車を呼び出せなかった。端末には異常が見当たらないのだが、如何せん情報の収集が叶わない。
 それに憂慮すべき事柄がもう一つ。
 今時、町中を行き交う自動車の大半は搭載されたコンピュータがITSの一単位として完全に制御している。手動操作に切り替えてさえ緊急時には自動で回避と停止が為された。
 関連技術が成熟した以来、交通事故が誌面を飾ることなどなくなっていたはずなのに。
 カナタの目の前では自動車が鉄柵を突き破り、高架から落下してきた。
 こうして時間を置き、記憶を俯瞰した今でも現実で本当に起きていた出来事なのか、実感が湧かない。
「分からないことばっかりだ」
 情報を仕入れる手段を持たない今、カナタは思考を持て余すしかなかった。こんなとき、アステルがいてくれたのならちょうど良い話し相手にでもなってくれたのだろうに。
「繋がらないままだし……」
 インターネットとの接続が切断されているのだから、当然と言えば当然のことではある。
「――やはり、気がかりに思いますよね」
 そんな重たい男の声色は唐突に背後から降ってきた。
「……っ!?」
 画面の黒いウィンドウに見入っていたカナタは腰が浮き上がる。なぜだか反射的に通信端末を懐に隠し持ち、声の主へと振り返った。
「だ、誰だあんたはッ!」
 見上げたそこにいたのは長いぼさぼさの髪を後頭部でまとめ、黒い丸眼鏡をかけたややだらしない風体の男だった。隈ができていて心なしか草臥れた様子だったが、その目元は柔らかい。
「待たせて済みません。私にも少々事情がありまして、車の中から君が待ち合わせていた人物なのか、確かめていたのです。非礼は今ここで詫びさせて頂たい」
 そこまで言われて初めてカナタも、相手が誰なのかに思い至る。
「あっ……いいえ、俺もだいぶ遅れてしまったので申し訳ありません。チャット内では『マクリア』というハンドルネームを使っているもので、カナタと言います」
「それは良かった。ならば名乗るまでもないでしょうが、私はそのチャットで管理人をやらせて頂いている人間です。初めまして、カナタくん。君のように意欲的な若者に会えて光栄だ」
 そう言いながら男は飾り気のない名詞を手渡してくる。世辞なのだと理解していても恐縮せずにはいられなかった。
「いっ、いいえ! 俺の方こそ、ずっとあなたに憧れていて……っ!」
 慌てて立ち上がると、干上がった喉でどうにかそれだけの返事を絞り出し、角張った動作で名刺を受け取る。頭を下げながらちらりと目を落とした紙面には『天田明』と記されていた。
 なんとなく見覚えがある。そう感じたのはやはり、この男性が著名な研究者だからなのだろう。
「そんなに畏まらなくて良いですから。今日の私は先生としてここに来たのではありません。それよりも早速だが、君には尋ねたいことがあります。今からお時間はよろしいかな?」
「もちろんです。今日はそのためにここまで来たのですから」
 迷いなくカナタが応じて腰を下ろすと天田は鷹揚に頷き、ベンチを回り込んでカナタの隣に腰掛けた。そこで両手を組み合わせて膝の上に肘をつく。
 カナタは浮き足だった心地で何を話そうかと迷ったまま、結局相手の発言を待つことしかできなかった。
「私の暗号めいたメッセージに返事をくれたわけですから、これから訊ねる内容にも薄々察しがついていますよね。私から何かを質問する前に、君自身の言葉で出会ったものについて教えてくれませんか?」
 眼鏡の奥から覗いてくる眼差しは未だ優しげだが、カナタがそのどこかに挑戦的な色を見出してしまったのはひねくれた性分のせいばかりではない。
 試されているのだ。
「俺の言葉、ですか……」
 呟きながら自身の経験や記憶を整理していく。
 心の片隅では、出任せを口にして誤魔化せばアステルを失わずに済むという発想もあった。しかし実際に顔を合わせて僅かとは言え言葉も交わすと、そうした態度を取るのが不誠実に思えて溜まらなくなった
 だから、期待はさせ過ぎずなるべく素直な直感だけを言葉にして、声に出し。
「話している分には人間と変わりませんよ。あいつはどこまでも能天気で世間知らずで、人間を信じて疑わない。そんなお節介焼きです」
 そんな他愛ない性格の説明の最後に、一瞬の逡巡を挟んでこう付け加える。
「俺たち人間ともきっと分かり会える。そんな存在です」
 これをアステル本人に伝えたのならさぞ不興を買うだろうと思いながらも、これがカナタの率直な意見だった。天田は何か考え込むような顔をしながらも、心なしかその雰囲気は和らいでいる。
「そうですか。申し訳ありません、試すような真似をしてしまって。でもこれで、私の幾つかの危惧は潰えました。しかし、彼らに我々の言語が通じたのですね?」
 わざわざ天田が訊ねてきたのはアステルが本来、言語を用いた人の知性では理解し得ない世界の住人だからだ。或いはこうした質問によってカナタの知識量を測っているのかもしれない。
「話してましたよ。俺にも理由はよく分かっていませんが。とりあえずはそういうものなのだと納得していましたが、やっぱりあいつに言語能力があるのは不思議ですかね」
「えぇ。実は私はこれに関しては一つ仮説があるのですが……いえ、今は一端置いておきましょう。それよりその子は人と変わらぬ自我を獲得してるんですよね。一体、どうやって?」
 ぼさぼさ頭の下に覗く二つの眼が幾分か砕けた態度でそう問いかけてくる。これと同じ輝き方をする目にカナタにも身に覚えがあった。
 好奇と興味にそそられた、知識欲に支配されている奴隷の目だ。
「話を聞く限りだと、あいつは天田さんも協力してくれたあの仮想空間で安定した自我に目覚めたようです。俺が初めて見たときにはまだ不定形な情報の固まりで、それが段々とアバターの形に集まっていって……」
 仮想空間に星が流れ落ちてきた夜の光景はいつでも鮮明に瞼の裏に蘇る。眩い閃光を発していた飛来物が徐々にその輝きを失い、同時にアバターの生成が進行して薄らいだ光の中から彼女は現れた。
「なるほど。君の仮想空間には確かにアバターを付与する機能がありましたからね。しかしその辺りが関係しているとなると、明確な自我境界を与えることが重要になるのでしょうか。それとも人型であることに要点が? ……っていえ、ここで話し込んでいるわけにはいきませんよね」
 爛々と目を輝かせていた天田はまだどこか物足りなさそうにしながらも咳払いを挟んで、態度を刷新する。
「見事です。君が作り出したその環境は、我々がずっと求めていたものの一つで……正直、嫉妬さえしてしまう」
 憧れていた人物から神妙な顔でそんなことを言われてカナタは困惑する。しかし天田の真剣な眼差しがカナタから動揺を取り払い、その本性へと立ち返らせた。
「天田さん、俺はアステル……でなくて、あなたが求める奴からこんな話を聞きました。あいつの自我はどうしようもなく気持ち悪いものに反発して芽生えたものなのだ、と」
 その話を聞いてカナタが連想したのは無意識的男性像と無意識的女性像の関係だった。
 誰しも心の奥深くには異性らしき一面が潜んでいる。人はこれに抗い、反発することでそれぞれの性別として自己を確立させていくのだ、とするのがこの考え方だった。
 アステルの誕生する過程はちょうどこの説に符合している。だからカナタはこう推測した。
「少なくともあともう一つ、アステルの……俺のところに来た奴の分離した元となる電子の意識が存在するんじゃないですか? そしてあいつの誕生を知っている天田さんなら、そいつのことも……!!」
 自説を語る間に知らず高ぶっていた声調や気分が、そこでふと途切れる。カナタは我に返って乗り出していた身を元に戻し、熱烈していた自分の有様に肝を冷やした。
 一体、憧れていた師匠に何という態度を向けているのか、と。
 些か失礼が過ぎたように思えてこっそり天田の顔を窺ったら、その反応はカナタの予想を越えて激烈なものだった。
 ただし、想定外の方向性へと。
「素晴らしいッ!! ……いや、ここまで感づかれるのはさすがに問題なのですが、状況はもう切迫している。気にしてはいられません! それより今の君の話ですが……」
 またしても熱くなって我を忘れかけていた天田は、カナタの視線に気づいて襟を正す。それでもなお目の奥には興奮の名残がくすぶっていたが、会話が落ち着いてできるくらいには鎮まっていた。
「さて、どうせ隠しても無駄だと分かりましたから、全ての事情を明かしましょう。……とは言え恥ずかしながら、私にも未知なる点が多いのですが」
 一連の対応には困惑するばかりだったカナタだが、さすがにここまで話が進めば気に入られたことくらいは察しがつく。恐れ多く思いながらも姿勢を正し、天田の講義に耳を傾けた。
「まずカナタくんが指摘したもう一つの知性体についてですが、これは確かに存在します。ただカナタくんが接触した……私もアステルと呼んで良いかな?」
 カナタが何度も言い間違えては訂正を繰り返すものだから、天田にもアステルの名は察せてしまった。むず痒いものを味わいつつもカナタは頷く。
「是非、そうして下さい」
「ありがとう。では、そのアステルくんが抱いた気持ち悪いという感想は、実に的を射たものです。恐らくそれは私と仲間が癌細胞(cancer)悪性新生物(neoplasm)などと呼んでいるものだ」
 名前からして不吉なそれはとてもアステルの同類や生みの親のように聞こえない。その不安を天田の深刻そうな面持ちが煽った。
「悪性新生物は正確に言うと電子の知性体には該当しません。あれは研究のために作られたニューラルネットワークの複製です」
「なっ……!」
 天田が何気なく発したその言葉。
 ニューラルネットワークの複製。
 その成功は、人の意識が電子の世界に移り住めたことを意味する。
「複製って、人間のですよね? 結果は、結果はどうなったんですか!?」
 声の勢いや態度を取り繕うことなど叶わなかった。荒らげた声調に天田はたじろいだような素振りを見せたが、やがて物寂しげに頭を垂れる。
「失敗……でしたね。これまでネットワークの複製に成功した例はありません。ただ、今回の失敗はこれまでとは訳が違った」
「どういうことですか? 崩壊したとか、混線したとかそういうことではなくて?」
 これまでに複製されたネットワークの主な末路は二つ。その一方は蓄積された情報を適切に整理できず、ニューロンが消耗していく例。もしくは中途半端に機能した自己組織化の作用がニューロン間の接続を過少、或いは過多にしてしまう例だ。
 いずれかの対策には成功しているのだが、それを施すともう一方の欠陥が確実に生じる。この課題を乗り越えられずに、ニューラルネットワークを複製する計画は頓挫していると聞いていた。
 だから今回も、そのどちらかだとカナタは踏んだのだが。
「その通りです。新たに複製されたネットワークも自己組織化の作用を制御できずに崩壊する最期しようとしていました。とは言え、みすみす我々もそれを見過ごすわけにはいかない。だからそれに必死で、抗おうとしたんです」
「抗った、というと……作用を完全に無効化したとか? でも、それだといずれネットワークが磨耗していくだけだし……違うんですよね。一体、何を?」
 その問いに対し天田はどこか自嘲気味な笑みを見せて、何かを覆い隠そうとしていた。
「我々はその複製に対し、こんな指向性を与えたのです。多少の歪みや崩れも容認し、とにかく自己の保存だけを追求するように、と。如何なる形であれ、ひとまず存続させることを第一にしたのです」
 そこから天田の顔つきや口振りがありありと、沈鬱そうで悔しげなもので濁り始める
「それが愚かしい選択であると気付いたときには全てが手遅れでした。確かにあれは万策を尽くして自己の保存に臨んだ。他の何者も省みず、自身だけを生きながらえさせようとした」
「具体的には、何が起きたんですか?」
「乗っ取られました。我々のコンピュータが。あれは際限なく周囲を浸食し、自己を拡張しているのです。我々のコンピュータも奴の一部となり果て……操作を受け付けなくなりました」
 まくし立てる天田は何かに取り憑かれているようだった。その正体は恐怖か、罪悪感か、いずれにせよその心根を深くまで食い荒らしているらしい。
「それから、どうなったんですか?」
「……非常に言いにくいのですが、我々が感知したときには既に悪性新生物は我々の施設から溢れ出していました。元になったコンピュータを停止させたものの一時的に勢いが衰えただけで、今またこの社会に蔓延りつつある」
 その台詞を耳にした途端、やっとカナタの脳裏でこれまでの状況が一繋がりになった。
 なぜ鉄道が止まっていたのか。なぜ自動運転の車が事故を起こしたのか。
 簡単なことだ。そうした社会の基盤までもが悪性新生物に取り込まれたのだ。
 ポケットに入れた通信端末を握りしめながらカナタは、うなだれる天田に訊ねる。
「ネットや通話が使えなくなったのもそのせいですよね? だとすると事態はもう相当に進退窮まっていませんか?」
 天田は唇を噛みしめ、一度だけ深く頷くと強い眼力を宿した眼でカナタを射竦める。
「よく聞いて下さい。今までの我々には悪性新生物のおおよその規模を把握するのが精一杯でした。電子の世界を生きる奴に干渉する手段など持ち合わせてはいなかったからです」
 口惜しげに天田は目を細め、「しかし!」と話の流れを切り返す。
「アステルくんは悪性新生物から生まれた存在です。それは同時に、あの怪物に干渉できる無二の存在でもあるということだ。今までのように手出しさえできなかった状況は一変します」
 話の大要が何となく掴めて、カナタは奥歯で苦いものを噛み潰す。それを顔には出さないように装いながらも口にしてしまうのは批判的な疑念だった。
「ですが、干渉できるようになってから、その後は? まだそこはスタートラインでしかありえませんよね?」
 カナタの指摘にも天田はむしろ満足そうな顔をして答える。
「その通りです。何の方策もないままでは、ようやく繋がりかけた血路も閉じてしまう。しかしこの点に関しては私に一つの仮説がありまして……アステルくんは言葉が話せるんでしたよね?」
「えぇ、まぁ……ですが、そのことと今の話に何の関係が?」
「それがですね!」
 聞かれるのを待ちわびていたようで興奮が顔色に表れ、見開かれた目は爛々と輝き出す。
「我々は少々特殊なコンピュータを取り扱っていまして、試験的に新たなマンマシン・インターフェイスを導入したのです。これまでのように一から十まで間違えることなく命令を打ち込まなければいけなかった形式を改め、人に話しかけるように命令できるインターフェイスだ!」
「人に話しかけるように?」
「えぇ! 話しの流れから大意をくみ取り、多少の誤りを許容しつつ命令の曖昧な部分はコンピュータが補完するようにできています。必要に応じて内容の確認も行うため、使用者は人間と会話しているような印象を受けることでしょう!」
 どうにも熱中し出すと止まらないらしい天田の発言をカナタは頭の中で必死に整理していく。
 ようするに天田たちはコンピュータと会話できるシステムを作り上げたらしい。彼らはそれを自分たちのキーボードやマウス代わりにしているというのだ。
「では、アステルの言語能力はそれに由来していると?」
「はい。私はアステルくんがあの機能を取り込んだのではないかと考えています。会話によるインターフェイスはその目的故に、コンピュータの中でも独立性の高いシステムでしたから。それがある日に忽然と消失したのです」
 アステルは悪性新生物から分離するに際して、会話によるインターフェイスを巻き込んだと天田は推測したらしい。常識外れだが、今は目の前の事実を呑み込むしかなかった。
「もちろん、私としても未だに確証が得られたわけではありません。本来想定されたハードウェアから離れたのですから不具合もきたしたことでしょう。それでも状況証拠は揃っていますからね。そしてこれが真実ならばアステルくんは我々のコンピュータに絶大な命令権を持っていることになる」
「それは……確かに……なるほど」
 天田の熱が移ったようにカナタの頭も回転する速度を速めていた。
 思い起こせば、アステルはコンピュータや通信端末を自在に操る能力を有していた。あれがそのインターフェイスに由来するなら、天田の想像さえ超えて強大な能力として彼女の内に根付いていることになる。
 確かにあの力は天田が狙った通りに事態を推移させていくことなど造作なかった。そして彼女なら、喜んで今回の件も引き受けるのだろう。
「アステルなら悪性新生物の消去だって容易に行えると思います。だから、あいつの力を借りたい、或いは……あいつを預けて欲しい……ということなんですよね?」
 最後に付け足してしまった問いはそうなることを恐れていたせいかもしれない。
 しかしそれを打ち消すように天田はかぶりを振ると、カナタの肩を掴んでこう言い放つ。
「その言い方だと語弊がありますね! カナタくん。私は君とアステルくん、両名の力を貸して頂きたい。この件では君の仮想空間が不可欠の要素となるのだから」
 カナタを見据える両の眼に交渉の気配などなく、怜悧な知性に基づく決断だけがそこに力を与えていた。

誓い

 自室の扉を開けると待ちかまえていたサビ柄の子猫が足にまとわりついてきた。トラ柄の方は相変わらず、即席の寝床で身を丸めている。
 相変わらず正反対な気質に苦笑し、だけどその笑みを名付けてやれていない後ろめたさから打ち消した。本当なら今からでも考案すべきところだが、差し迫った時間がそれを許さない。
 足下に気をつけつつ、カーテンの隙間から細い日の差し込む部屋を横切った。仄かに明かりを灯したディスプレイの前で立ち止まって、そこへ投げかけるべき挨拶に詰まる。
 出会った日から声を交わせる距離にいるのが当たり前で、たった半日離れるのもこれが初めてだった。だから距離感が掴めず、最後にはぎこちなくありきたりな文句を口にする。
「……ただいま」
 その声で、たった今気づいたと言わんばかりの仕草と共に空を見上げていたアステルの横顔がこちらへと傾いた。
「おかえりなさい。無事で良かった……カナタさん」
 微笑むのと同時に柔らかな長髪が幾筋か肩から垂れる。
 カナタの筋張っていた肩や背中から急激に力が抜けていった。両親とも帰りの遅い彼にとって小学生以来の遣り取りなのに、安堵さえ覚えて椅子に身を沈める。
「心配したってのはこっちの台詞だ……というか、どうしてまた森の中なんぞにいる?」
 仮想空間の山林は外の時間を反映して薄らいだ日光のほとんどを枝葉と幹が遮っていた。そこだけ夜を先取りしたように鬱蒼と茂る樹林が闇を抱え込んでいる。
 そうして生まれた暗闇にただ一カ所だけ、温かくも力強い黄金色の夕明かりを湛える円形の大地があった。より正確には巨大な構造物の名残として鎮座するそこにアステルは後ろ手をついて腰を下ろしている。
「ここは苔がふかふかで絨毯みたいだから、座り心地が良いんですよ。……あと寝心地も」
 要するにアステルの昼寝スポットなのだとカナタは解釈した。しかし、それでもまだ引っかかっている。
「本当にそれだけか? だって、そこは俺たちが……」
 カナタが全て声に出してしまう前に、アステルは苔の隙間から覗く木目を指でなぞって「はい」と頷く。
「ここはわたしたちが初めて出会った場所……わたしにとっては初めて明確な意識が目覚めた場所でもあります。切り株の上で誕生したって、何だか昔話みたいじゃないですか?」
 流れ星から生まれた事実の方がよほど神秘的で夢想めいていると思ったが、敢えて口にはしなかった。その切り株が単なる樹木の残骸でないことをカナタは知っていたから。
「その木は……もう切り株しか残ってないが、元々は仮想空間で初めて育った植物なんだ。いろいろと試している内に少し調整をしくじってそんな大きさになって。その頃は俺もまだ手探りの状態だったからな」
「ということは、この木はわたしがいるこの島にとっても始まりの場所だったんですね。昔話というよりは神話みたいです。この星の創世神話ですね」
 静謐な面持ちで、そんな台詞も本心からアステルは口にしてしまう。
「そこまで大げさなものでもないだろう」
 カナタは喉で笑ったものの、悪い心地はしなかった。
「まぁ、他の植物の生育を妨げたから、最後には切り落としてしまったんだがな」
「それでも切り株は残したんですね?」
「山を中心に島全体へと根が広がっているんだ。それを安易に消去したらどんな影響を及ぼすのか、俺にも予測ができない」
 地盤沈下程度ならまだしも、大規模な土砂崩れが多発すれば対応は追いつかなくなる。最悪の場合、一から島を作り直す必要にだって迫られたかもしれない。
「知りませんでした……そんなに大事な場所だったんですね」
「別に保護しているわけじゃないし、ただ朽ちていくに任せているだけなんだがな」
 カナタが素っ気なく返すとアステルは黙して再び、苔生した大樹の断面を撫でる。指先の感触に捜し物を求めるような仕草が数回続き、やがて満足したのか空へと目を戻した。
 宵が迫り、夕映えが血の色で世界を浸してもアステルの瞳は移ろわない。透き通った膜の内側だけに高らかな蒼穹を宿していた。
「……カナタさん」
「どうした?」
 アステルはカナタの正面に向き直ると正座になり、深く頭を下げてこう懇願する。
「実はカナタさんに一つ頼みたいことがあるんです。きっとこれがわたしからの最後のお願いだから」
「交換条件だ。俺の頼みを聞いてくれるなら、お前の願いも聞いてやろう」
 アステルとの会話ですっかり和んでしまったが、カナタは天田を家の外に待たせていた。羽を休めるにしてもそろそろこの辺りが刻限だ。
「まずはお前の頼みとやらから話せ」
 その提案がアステルには予想外だったのか、ひとときカナタの表情を窺った。しかしすぐさま笑顔を綻ばせ、首肯する。
「分かりました。では、わたしの頼みからお話しします。実はこれから、わたしは自分の使命を果たしに行こうと思うんです。カナタさんにはそのお手伝いをしてもらいたくて」
「使命? また何かを思い出したのか?」
 物々しいその単語にカナタが狼狽えるとアステルは俯いて、しかしまた決然とした面持ちで彼に向き直る。
「カナタさん。あの車が飛び込んできたのも、通信が途絶えたのに原因があります。全て、わたしの片割れのせいなんです。わたしを生み出したおぞましいものが、あなたの住む世界を蹂躙しているんです」
 それが天田たちに癌細胞(cancer)悪性新生物(neoplasm)と名付けられたものであることは疑いようがなかった。
「気づいていたのか。いや、お前の場合は思い出したって方が適切か?」
「どちらとも、です。電車が止まり出してから少しずつその存在を感じ出してはいました。どこか自分によく似ていて、だけど決して相容れない何かの存在を」
 今朝、カナタが冗談のつもりで、電車を止めた犯人がアステルなのではないかと口にしてみた。下らない軽口だとは彼女も理解していただろうに見せたあの狼狽。あからさまに思うところがある様子だった。
 あの時点でアステルは暴走する悪性新生物の存在に薄々感づいていたのだ。
「昼間の車が飛び出してくる直前に、ようやくその正体が掴めたんです。相手がしようとすることも理解できたから、咄嗟にあなたをあの場から退避させられた」
 その説明にも矛盾はない。アステルの鬼気迫る指示がなければカナタは自動車の落下に巻き込まれていてもおかしくはなかった。
「ですから」
 以上の話を総括するべくアステルは青い瞳にカナタを透かす。
「そうしたことを踏まえてカナタさん、わたしはあなたにお願いしたいんです。ここは敵の本体から遠過ぎます。わたしち力が届かないんです。でもわたしは自分で移動できないから、そこまであなたに連れて行ってもらいたい」
「…………」
 これから行おうとしていたことが、全てアステルの口から語られていた。
 現在、軒並みの通信施設は悪性新生物に掌握されている。遠方からでは悪性新生物が住まう設備に接続することすら叶わないのだった。
 だが天田の手を借りればその施設にも問題なく入り込める。
「分かってるよ。これからそのコンピュータごとお前をそいつに一番近い場所まで送り届ければ良いんだろう?」
 さすがに物分かりが良過ぎたらしく、アステルは頷きながらも苦笑していた。
「もちろんです。だけどカナタさん、どこまでお見通しなんですか? もしかして聞く前から、わたしの頼み事も分かっていたんじゃ……」
「さてな。どうだか」
 冗談めかして肩を竦めて見せたら、やっぱりアステルは可笑しそうに微笑むのだった。
「もう! あと少し、ご自分のこととか話してくれたって良いでしょうに」
 そこに僅かながら恨めしさが入り交じるのは幾らかカナタの気のせいでもあった。
「悪いな。物心ついたときからこういう性分なんだ。変えようったって、そうそう変わらない」
「知ってましたよ。今更ですし。それより、わたしからのお願いはこれで以上です。だからカナタさん。次はあなたの頼みごとを聞かせて下さい」
 言われるまで、正直カナタは失念していた。
 カナタの方からは天田の依頼を受けてくれないか訊ねてみようと思っていたのだ。それが彼女の方から打ち出されてしまったのだから、よもやカナタに頼むべきことなどあるはずがない。
 そのはずなのにカナタは全く異質な願いを欲していた。
 それを叶えるために頭を巡らせ、記憶をひっくり返し、自身の願いをこじつける。
「なぁアステル。お前まだ仮想空間の名前を決めていなかったよな? だから俺の願いはそれだ。お前の件が済んだら、その空間の名前を決めて俺に伝えろ。嫌とは言わせないぞ」
 突拍子もなくてさしたる重要性も感じられない、ひとまず口にしてみただけの願い。本当に伝えたいことを仮託しただけの願いごとだった。
 それでも、アステルは頷いてくれると信じて。
「そうですね。もう以前から、約束していたんですから。きっと……いいえ、必ずあなたに伝えます」
 決意で凝り固まっていた彼女の雰囲気がその瞬間だけ柔らかに崩れた。

潜入

「……っ、ふぅ。さすがに重量があるな」
 自宅の前に停められていた天田の自家用車のトランクにカナタは自分のコンピュータを詰め込んでいた。
 絶滅していなかったことが驚きの赤い車体のクーペは贅沢にも出回らなくなったガソリンを燃料としている。エンジンを制御するマイクロコントローラーが取り付けられてはいたが完全なオフラインであり、悪性新生物(neoplasm)に毒された心配はないとのことだった。
「仕舞えましたね。では助手席にどうぞ。時間がありません。急ぎ出発しますよ!」
 天田は運転席に座したままそう声を張り上げる。言われるまでもなくカナタもトランクの蓋を閉めると小走りで車に乗り込んだ。
 車は既にエンジンがかかっており、低く唸りながら車体を震わせている。
「飛ばしますから、シートベルトはしっかりと締めましたね?」
 それは問いかけてと言うよりも確認でしかなかった。カナタの方に目を配ると返事も待たずにクーペは細い路地へと滑り出してしまう。
 些か慌て過ぎた様子の天田に目を見張りながら、カナタはトランクの中身を案じるしかなかった。
 クーペは人目を避けるように裏道ばかりを辿りながら、やがて山々の合間を田舎道の入り口に出る。初めの頃は両脇を田圃が囲っていたが次第に林に覆われ、上下左右にうねった道路の続く山道へと移り変わった。
 すっかり薄暗くなった辺りにはガードレールと無数の樹木しか見出せず、照らし出せない夜陰は果てしない。
「しかし、ぎりぎりのところで君たちの協力を取り付けられて安心しましたよ。本番はまだまだこれからなんですがね」
 それまで押し黙って運転に集中していた天田が突然にそう口を開いた。安心しましたよ、と言っている割には声の調子も風貌も漏れなく草臥れている。
「アステルの奴はともかく、俺がどこまで役に立てるのかまでは何とも言えませんがね……今更なんですけど、俺までついてきて良かったんですか? 例の癌細胞(cancer)を止めるのに必要なのはアステルだけですよね」
「ですが、そのアステルくんを誰よりも長く観察してきたのはカナタくんですよ。そして彼女の力を十全に発揮させられるのは君しかいない。君よりアステルくんに理解のある人間など私どもの中にさえいないのです」
 天田の口調は淡々としていて、世辞を述べる人間のそれではない。
 恐らくじっくり時間をかければ優秀な研究者たちはカナタが思い至らぬ深みまでアステルを調べ尽くせる。切迫した状況だけがそれを許さなかった。
 だけどもし、悪性新生物の侵攻が遅ければ。研究者たちに余裕があったのなら。
 否、この事件が解決してしまえばいずれは。
「俺なんかに……」
 カナタに、アステルを委ねる意味などなくなる。
 声が、喉が震えているのは自覚していた。それでもまるで抑えが効かなくなっていることには気づかなかった。
 天田の手が置かれるまでは。
「言い忘れていたことがあります」
 彼はカナタの肩を叩いた手をハンドルに戻して、おもむろに何やら語り出す。
「これまでの私の行動は全て独断によるものです。君をここに呼んだことはもちろん、アステルくんの存在さえ私の同僚たちは知りません。説明している暇ももはや残されてはいませんでしたから」
「それってつまり……?」
 そこで初めてカナタに目をくれると、悪戯っぽく肩を揺らした。
「君からアステルくんを奪おうとする大人はどこにもいないということです」
 そのとき去来した気持ちを一言では表せない。自分の心中を見透かされていた気恥ずかしさ、天田の気遣いに対する感謝、同時にそんな無茶への不安。
 けれども何よりも強く感じ入ったのは――
「俺はあいつとこれからも一緒にいられるんですね」
「えぇ、そうなるでしょう。……願わくは私にも少しばかりの観察を許していただきたいところですが」
 覗いた天田の本音にカナタも吹き出し、それから「もちろんです」と応じた。
 しかしそこで天田が低く声を落とす。
「……ただ」
「ただ?」
「何分私は誰の許可も得ずに動いているものですから
他の研究員は私を探し回っていることでしょう。そして何より……」
 天田は溜め息を挟み、こう続ける。
「君の希望を叶えつつ目的を果たすには、誰に見つからず侵入して捕まる前に脱出しなければなりません。幸いセキュリティは全て悪性新生物が破壊してしまいましたが……覚悟はできていますね?」
 今度こそカナタは笑って応えるしかなかった。
「上等だ。やってやりますよ」
「良い目をしている。それでは手はずの確認をしておきましょう。まず私が先に出て、注意を引きつけつつコンピュータの起動に向かいます。君はタイミングを見計らってから……」
 天田の話を聞きながらもカナタはヘッドライトが切り裂く闇のそのまた向こうを見据えていた。もう逃げ出せない決戦の地を。

「天田さん!? こんなときに、どこ言ってたんだ!!」
 若い男の怒鳴り声が車外から響いてきた。座席の奥の暗がりに身を潜めていたカナタはじっと耳を傾ける。
「なに、大したことではないのですが私なりに解決策を模索しておりまして……ここで話すのは少しはばかられます。休憩室にでも行きませんか?」
 二人の間柄は推察するに、天田が若い男の上役に当たるようだった。部下に対しても天田は敬語で、ただし主導権を握り会話を進めていく。
「えぇ、そこでゆっくり話して……いえ、その前に立ち寄らねばならない場所があった。少し付き合って頂きましょう」
 天田は短く話を纏め上げると部下をどこかへ引き連れていった。
 こうして天田に注意を引きつけるのが計画の第一段階だった。
 カナタは暗闇の中から頭を擡げると、素早く車窓の外を見渡す。金網に囲われた施設のそれほど広くはない駐車場に人がいないことを見定めると静かにドアを押し開いた。 夜明けには少し早い暁天の下だと視界が効かない。カナタ自身も暗色系の出で立ちで、見つかるとは思えなかったが油断もできない。
 速やかに車体後部へ回り込むと予め手渡されていた鍵を使ってトランクを解錠した――途端、シリンダーの回る音が夜闇に響き渡る。心臓が捻じ曲がって肩が跳ね上がり、思わず額に脂汗が滲んだ。
「……気づかれてないよな……?」
 押し黙って胸の内で十秒数えながら辺りに耳を澄ませる。虫の鳴き声しか聞き取れないと胸を撫で下ろし、僅かにトランクの蓋を持ち上げた。
 完全に開き切らず蓋を片手で支えながらトランクの中に身を乗り出す。まずアダプターやコード類が詰め込まれたリュックサックを引きずり出して背負い、それからコンピュータのケースを手繰り寄せた。
 片手でどうしても時間を要したから音を立てないように細心の注意は払い、膝を支えに抱え上げるとトランクの蓋を閉じる。そして施錠もしないまま車の物陰にしゃがみ込んだ。
 不安定だった体勢を整えていると自分の呼吸する音すらうるさく感じる。両手に抱え直したコンピュータのケースは冷たくて胸に当たると鼓動が鈍い痛みを刻んだ。
 この施設の監視カメラ類は漏れなく機能を喪失している。緻密なネットワークを構築していたことが災いし、悪性新生物が一網打尽にしてしまったのである。
 加えて元々セキュリティを機械に任せていたばかりに警備員の巡回は穴だらけとなっている。夜明け前ともなればそれ以外の人間も寝付いてしまうため、カナタの侵入を阻めるものはいなかった。
 尤も眠気に襲われているのはカナタも同条件だ。しょぼつく瞼を二の腕に押し付けて拭い、物陰から顔を覗かせる。
 暗闇に茫洋と白い建築物が浮かび上がっていた。
 一度深く腹を膨らませて息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出す。夜気の冷たさに肺が縮み込んで、胸が酷く締め付けられる心地を味わった。
 心づもりも覚悟も完璧とはいかなかったが、それでも一カ所に留まっていられるのはここらが限度だ。踏ん切りをつけ、車体の影から一思いに飛び出す。
 この施設の母屋まで、距離は十メートル程度。
 息を止め、薄闇に包まれた遮蔽物のない駐車場を音もなく駆け抜けた。
 建物に近づくとしゃがみ込み、背中から白く塗り立てられた壁に張り付いて息を整える。激しく出入りする吐息は喉の奥を痛めつけたが、それに勝る緊張が感覚を研ぎ澄ませた。
 音沙汰がないか付近に目を配り、僅かな物音を聞きつけてじっと息を潜ませる。
「天田さん……状況が分かってるんですか? お上はもうかんかんですよ! 今朝もかたっ苦しいスーツを着込んだ役人が押し掛けてきて! 散々何度も、どうにかならないのか! って……」
 窓を開く音に続いて、響いてきたのはそんな糾弾の叫びだった。後半は単なる愚痴にしかなっていないが、それは本来なら天田が背負うべきだった責任の重さを物語っているのかもしれない。
「悪かったとは思っていますよ。それでも私なりに解決策を模索していたら君に任せるしかなくなったのです。君を信頼しているからこその任せられたのであって……」
「そんな甘言には騙されませんよ。天田さん、いつもそうやって事務仕事ばかり押し付けてくるじゃないですか」
 想像した通りで、天田の部下には同情したくなる。しかし、だからといってカナタに何ができるわけでもなく、再び窓が閉められるまでの間、天田の職場事情に辟易していた。
 話し声が聞こえなくなると僅かに腰を浮かせ、屈んだ姿勢のまま前進を始める。壁沿いに建物の周りを半周して、たどり着いたのは天田から教えられていた裏口だった。
 非常口、赤い文字で示された金属製の扉には認証用のパネルが取り付けられていたが、機能はしていない。残る物理的な施錠も、天田から預かった鍵で難なく突破した。
 無事に不法侵入を果たし、見通そうとした通路は深い闇に満たされている。その横幅はせいぜい大人二人がすれ違える程度で施設の規模の割には狭い。
 カナタは足早に、事前に教え込まれていた道順を辿っていった。

願い

 たどり着いた部屋にも明かりは灯っていなかった。本来ならば立ち入ると自動で電灯が光り出すと聞いてはいたが、例のごとくセンサーが機能不全に陥っている。
 一旦、コンピュータケースを足下に置くと室内を見回した。
 部屋の後部にのみ曇りガラスの填められた採光窓があり、そこから差し込む微かな光が四面のモニターを照らし出している。壁際はカナタの背丈よりも高いコンピュータの筐体に埋め尽くされていた。
 通信端末の画面から漏れ出る光を頼って、どうにか電源の在処を見つける。途中で電灯のスイッチも見つけたが、敢えて目立つ愚は犯せなかった。
 手元の明かりだけで配線を繋ぎ、四つ並んだモニターの左端に自身のコンピュータのデスクトップ画面を表示させる。同時にウィンドウが立ち上がり、穏やかな少女の寝顔が映し出された。
 カナタはなぜだか口元が緩みそうなのを堪え、ヘッドセットをつけてから冗談っぽく呼びかける。
「いつまで寝てるつもりだ。もうついたぞ」
 彼女の目元を飾る金色の睫毛がぴくりと震えた。薄く開かれた瞼の隙間から晴れ空色の瞳が覗き、カナタと目があって大きく見開かれる。淡い桜色の唇から譫言が漏れ出て、それから勢いよく彼女は跳ね上がった。
「ごっ、ごめんなさい! お見苦しいところを……」
「電源を入れてなかったし、ネットも繋がらないから休眠状態になっていたんだ。仕方ないだろう」
 通常、カナタの作った仮想空間は一つでも接続する機器があれば、そこをホストにして機能し続ける。この場合だとカナタのコンピュータの電源が落ちても、シロコの端末さえ生きていれば問題はない、はずだった。
 だが悪性新生物(neoplasm)が蠢く通信網越しでそんなことを望めるべくもない。
「それよりもこれからのことだ。今はまだオフラインだが、この施設に繋げばいよいよご対面となる。準備はできているのか?」
 カナタはそのせっかちな性分故に淡々と話を進めてしまうのだが、アステルがいまいちついてこれていない。眉根を寄せて、困惑した顔でこう問いかけてきた。
「……あの、話の腰を追ってしまって申し訳ないのですが……ここはどこなんですか?」
「――は?」
 しばらく何のことを訊かれたか飲み込めずに、やや間を置いて「そういえば」と思い出す。
「お前に行き先のこと、何も話してなかったか。てか、こっちのことが見れ……ないのか」
 今になってカナタは備え付けてあるモニターがカメラを内蔵していないことに気付かされた。かといってウェブカメラなど持ち出しておらず、無益な後悔しかできることはない。
「ごめん。今、手元にカメラがないから家に帰るまではどうしようもない」
「いえ、平気、平気ですから。カナタさんが今どちらにいるのか、手短で良いので教えていただけませんか?」
 そう訊ねてくるアステルの視線は定まらない。きっとそれは知らず知らずの内に見えないカナタの姿を探しているからで、安心させなければ、などと柄にもないことを思いカナタは言葉を継いだ。
「分かった。ここは俺たちを連れてきてくれた人が勤めている研究所だ。その一室でこのコンピュータを起動させている。お前の言う敵もここの設備で生まれたらしい」
「そうだったんですか……ということは、相手の方は研究者だったんですね。カナタさんの言った通りです!」
 アステルのこうした、唐突な誉め言葉は未だにくすぐったくて仕方ない。カナタは咳払いして気を取り直し、説明に専念しようと心に決めた。
「ここにはちょっと――いや、かなり特別な『英知』ってコンピュータがあってな。そいつを使った実験の成果が悪性新生物っていう……恐らくはお前の言っていた敵なんだろう」
 国内唯一のニューロコンピュータとしては最大規模のスーパーコンピュータ『英知』は三千二百億個のニューロンとその一千倍のシナプスから構成されている。その内二百億のニューロンを用いて人の大脳皮質に構築されたニューラルネットワークのモデルをシミュレートしたのが悪性新生物の起源だった。
「天田さんはその悪性新生物の一部になっていた『英知』に動きの鈍い箇所を見つけて、そこがあるとき突然に停止したから調べていたらお前の存在に行き当たったらしい。俺と話してみるまで本人も半信半疑だったようだが」
 元々情報量に乏しく、チャットで暗号めいたメッセージを発信したのも万に一つの可能性に賭けてのことのようだった。天田が初っ端からカナタに質問をぶつけたりと警戒していたのはそうした事情に由来するらしい。
「正直、ここまで来れたのはただただ運が良かったからだ。全く、お前の頼みごととやらはいつもハードルが高い」
 カナタの冗談めかした口振りにアステルはくすくすと肩を揺らす。それから細められた青い眼差しはどこか物寂しげに膝の辺りをさまよわせていたが、長い瞬きを挟み、未だ星の輝かぬ天上に向けられた。
 再び開かれた瞳に朧気な脆さは窺えない。
「だったら、これからはわたしの番……わたしが頑張る番ですね」
「そうなるわけだが……一つ聞かせてもらいたい」
 カナタが前置きするとアステルは首を傾げる。了承される前から訊ねれば答えてくれるだろうと見込んでカナタは疑問をぶつけた。
「お前はこの研究所を乗っ取って、それでも飽きたらずにこの社会を喰らおうとしている化け物に挑むつもりでいる。だがそんな奴に、本当にお前が敵うのか? よりにもよってお前みたいな奴が?」
「わたしってそんなに頼りないのでしょうか……」
 肩を落とす彼女を目にしてカナタは遅ればせながら自らの語弊に思い及ぶ。
「いや、頼りないってわけでは……あるんだけど、そうじゃなくて! そんなことが言いたいんじゃなくて……!!」
 思い返すのはアステルがこれまでにしてきた頼みごとの内容、その真意だった。どこから言葉すべきなのか検討もつかず、ただ思いついたことを手当たり次第に吐き出す。
「お前、これまでに何度も頼みごとしてきただろう? 馬鹿みたいに人助けばかり、それが自分の願いだって装って。本当は俺の後押しをしてくれるために」
 自惚れではなく、そう断言できてしまうほどにカナタはアステルと過ごしてきた。
 だから次に言うべき言葉も迷いなく口に出せてしまう。
「そんなお前みたいに相手は甘くない。自分も周りも全部を自分のために捧げて、生き残ろうとしてるんだ。他人のことにかまけていたりなんかしないだよ! そんな奴に、お前みたいな他人のことしか考えてない奴が勝てると思ってるのか!?」
 言い切って、やはりこれは自惚れだったかもしれないと一抹の後悔を抱く。それでもカナタは言わずにはいられなかった。
「やめにしないか? 今ならまだ、引き返せる」
 きっとたくさんの人間に迷惑をかけてしまうだろう。天田の信頼を踏みにじることにもなる。だというのに否定も叶わないほどどうしようもなく、それがカナタの本心なのだった。
「馬鹿なことを言ってるって自覚はあるよ。だけど……どうして、よりによってお前なんだ? 社会の行く末なんて他の奴らに任せれば良いだろう? こんなことにどうしてお前が命を賭けなくちゃならない?」
 こんなにも浅ましくも正直になったのはいつ以来のことだろう。カナタがぎこちなく気を煩わせながら顔を上げようとすると、ひどく冷たい、今まで共に時間を過ごしてきた少女からは考えられない声が突き刺さった。
「やめてください」
 ぎこちなく表情を歪めながらアステルは言う。
「やめてくださいよ。こうしないと、わたしがわたしじゃなくなくなっちゃいそうなんです。自分が誰だか分からなくなりそうなんです。だからどうか、邪魔をしないでください」
 いつになく屹然としたそれは拒絶だった。寄せ付けまいとする意志をその眼光に感じて、初めてカナタはアステルを相手にたじろぐ。そんな自分や彼女に反感を覚えると咄嗟に反論が口をついて出た。
「お前が誰かなんて、そんなの明らかだろう? 今更なかったことになんてできないほど、お前は自分の意思で動いてきたはずだ。そうして救われた俺がここにいるだろう!?」
「わたしが自分の意思で誰かを助けたですって!? あなたはわたしがどうして生まれて、どんな存在なのか、まだ分かっていないんですか!?」
 カナタの言葉のどこかが琴線に触れてしまったらしくアステルはその瞬間だけ激情を顕して彼を睨もうとした。しかしすぐにまた我に返り、何度も頭を振って怒りを霧散させようとする。
「ごめんなさい。こんなつもりじゃなくて……分かってるんです。あなたを責めるのは筋違いだって。だけど今は、それでも敢えて言わせてください。あなたはわたしのことが分かっていないんです」
 一瞬でも憤った様を見せつけられ、カナタはそれに何も返せなかった。ただ黙ってしばらくアステルを見つめ、その末に「なら、教えてくれ」とだけ続きを促す。
「はい。全部を知って、ようやくわたしは理解しました。今ここでこうして話しているのは悪性新生物になり切れなかった心の一部分なんです。周囲を犠牲にして自分だけが生き延びようとすることへの忌避感が、排出されてわたしになった」
 アステルは空気に首を締められたように苦しげな視線を行き交わせ、それでも説明を止めなかった。
「今まで、実は密かに疑問に思っていました。どうしてわたしがカナタさんに余計なお世話を焼こうとしたのか。だってわたしは人間でもなければ、誰かに命令された機械でもない」
「それは……」
「カナタさんにだったら、分かりますよね?」
「……まぁな」
 生物の利他性は持って生まれた社会性か、遺伝子的に近しい他の個体を生き長らえさせようとする本能に起因する。だが電子の意識にそんな理屈が適用されるはずもなく、また彼女は多くの機械がそうであるように人の助けとなることを願われて設計されたわけでもない。
 そんなアステルに人を助けようとする動機など、どこにもありはしないのだ。
「でも、現にお前は俺を助けてくれただろう? あれは何だって言うんだ?」
「反発したんですよ。わたしを生んだ、あの醜いものに。それと反対の行動を取ろうとしていたら、結果的にあなたにお節介を焼いた。その程度のものでしかないんです」
 そんな自分勝手でもの悲しい台詞をアステルは端正な表情のまま言い切って見せる。その何もかも理解して納得しような態度を目にしてカナタの感情を抑えつけていた堰が決壊した。
「待てよ! そんな言い方ってないだろう!? お前は俺のために必死になってくれて……あれはお前が言うような安っぽいものじゃないだろう!?」
「そんなことありません。だってわたしは周囲を犠牲にするのが嫌で本体から切り離されたはずなのに……あなたの善良さに付け込んで、それを今も利用している! わたしは結局、生まれついた衝動に突き動かされているだけでしかないんです!」
 指に胸を突き立て、それでもその苦しさを忘れられずにアステルは歯を食いしばる。自分の欲望を果たすこと。そのために誰か利用すること。そう言い換えられた彼女の所業がその胸を内から引き裂こうとしていた。
 無論、カナタだって黙ってはいない。
「お前は衝動じゃなく願いのために、誰かを利用するんじゃなく頼ったんだ! 特別なことじゃない。しかもその結果、お前は俺を救ってくれたんだ! そんな馬鹿みたいな優しいお前が俺には必要なんだよ!!」
 初めて、心の内側、一番柔らかい部分を晒す恐怖。そして快楽。これまでどれだけ意地を張っていても満たせなかったものに熱がじわりと滲んでいく。
 それに抗おうとして少女は透明な瞳に憎々しげにカナタを映して声を張り上げた。
「だからそんなの、全部結果論なんですっ! わたしは本体のようになりたくない、逆らいたいって衝動に身を任せただけなんだ!! そうすることでしか、わたしは自分を証明できないから……っ!」
 カナタを突き放そうとアステルはそうも卑屈なことを、喉が張り裂けそうになりながら訴える。自分や自分の振る舞いの無価値を信じる真っ直ぐさは、これまで察せなかった心の闇の根深さはカナタの想像を絶していた。
 このまま行かせるのがアステルのためにもなるのでは?
 そんな弱音が心の片隅に忍び込む。だけど、それを猛烈に押し退ける強い気持ちが未だカナタの胸の奥底には眠っていた。理屈を全て剥がれて、誤魔化しも強がりも許されない状況に立たされてようやくカナタは本心に立ち返る。
「なぁアステル。お前は俺が迷っているとき、いつも傍にいてくれただろう? そして俺がこれまで選べなかったような、新しい選択肢を教えてくれた」
 シロコのことだけじゃない。アステルがいてくれたからカナタは今までより素直になれた。暗く閉ざされていた彼の世界に彼女はささやかでも新たな光をもたらしてくれたのだ。
 だというのにそのアステルが必死になって首を横に振る。そこにいてくれた意味を否定しようとする。
「わたしはカナタさんの心の中にあったものを引き出しただけです。そのお手伝いをしただけなんですっ! 一歩踏み出したのはカナタさん自身で、だからわたしがいなくてもこれからカナタさんは――」
 もううんざりだった。こんな優しい見送りの文句が聞きたくて、カナタはアステルを引き留めたわけじゃない。
「――そうだよ! お前の言う通りなんだ!! お前が引き出したんだよ! 寂しさも苦しさも、俺が押し隠していたものをみんな全部、お前がなッ!!」
 交わしてきた想いの一つ一つを手探りで思い出し、溢れ出すものをそのまま言葉にして叩きつける。
「引っかき回すだけ引っかき回しといて今更いなくなるなよ! 俺の毎日はもうっ、お前がいないと成り立たねぇんだよッ! お前がいなかった頃の自分になんて戻れるわけないだろうッ!?」
 嗄れた喉から、まだこれだけの叫び声が出るなんて思っていなかった。枯れ果てたと勘違いしていた心はどこまでも渇いているだけだった。
「何だってする! お前が自分を見失いそうなら、俺がそれを全力で教える。悩みがあるのなら最後まで相談に付き合う。だから……どうか、傍に、いてくれ。俺から、離れないでくれ……」
 とうとう画面の前に伏して、覇気のない懇願を口にする。それさえも頬を伝ってくるものに邪魔されて、言葉にはできなかった。
「……そんな。カナタさん。わたしは一体、あなたに何をして……」
 だが、はっきりと意味など伝わらずとも届くものはある。
「わたしが、必要?」
 アステルはいつものように微笑むこともできず、泣き出すこともできず大き過ぎる何かを抱え込んで戸惑っていた。その戸惑いを噛み砕けず、溢れ出て来るものに困惑して、終いには固く目を瞑る。
「……こんなの、嬉しくありません。こんなはずじゃなかった! 喜んじゃいけない、はずなのに……」
「そんなの、お前は今どう思ってるんだ? 綺麗じゃなくて良い。自分勝手で当然だろう。だから、お前が今本当に何を望んでいるのか、そいつを俺に聞かせて欲しい」
 目線が届かないことは分かっている。カナタから一方的にアステルを見つめるしかない。だとしても彼は朝日の色の髪を揺らす少女を真正面から見据えて、問いかけるしかなかった。
 画面に手を触れて訴える。
「俺に、お前の願いを聞かせてくれ」
「わたしの……願い……?」
 呟いた彼女は苦しそうに目をぎゅっと瞑り、胸の痛みを堪えるように両の手を人ならば心臓が脈打っている場所へと押し付けた。何度もそうして自らの鼓動を数えて、彼女は薄く瞼を開く。
 覗く瞳はまだ迷いに揺れていたが、それでも晴れ渡っていた。
「わたし、カナタさんと離ればなれになんてなりたくないです。まだまだ知りたいことも、してみたいことも山ほどあって……何より」
 小さな彼女の拳が握りしめられて軋み、そして開かれ、カナタが見ているはずの方角へと向けられる。
「みんなと、触れ合いたい。わたしがこれまで一緒に過ごしてきた人がどんな背丈の人なのか。手の感触はどうなっているのか。どんな匂いがするのか。他の人の体温って、どれだけ温かいものなのか」
 とうとうと語り出したアステルに初めてカナタは彼女が抱えてきた孤独を知る。
「そうなのか。だよな。お前、一人でその島に住んでるんだもんな。誰かと触れ合いたくだって、なるよな」
 カナタですらそう思うのだから、この世の人間全てを愛していそうなアステルならば尚更にそう強く願うだろう。カナタたちの会話を端から聞いているしかないのはさぞかし寂しかったはずだ。
 一人しみじみとしているカナタにアステルは微苦笑を浮かべてからはにかんで、少しだけ口ごもる。だけど黙ったままでもいられなくて彼女はカナタにこう伝えた。
「そんな他人事みたいに言わないで下さい。わたしがまず、誰よりも触れてみたいのは……カナタさん、あなたなんですから」
「は?」
 間の抜けた返事をするカナタにアステルはどこか恥ずかしげな、しかし隠すことのできない喜びがくすくすと笑い声として漏れ出す。
「あなたは、こんなことを言ったら否定するかもしれませんけど、初めて出会った人がカナタさんで、わたしは良かったと思っています。人間の良いところも不器用なところも全部学べて……その全てが愛おしいと思えた」
 屈託のない笑顔でそんなことを言うものだから、もはやカナタには苦々しく笑いを返すことしかできない。そんな彼の反応を見透かしながらもアステルはやはり満面の笑みで、ぽつりと呟いた。
「カナタさん。わたし、分かったことがあります……いいえ、ずっと前から分かっていたけど、今になって認められたことがあります」
「なんだ?」
 カナタに聞かれてもすぐには答えずアステル瞼を閉じたまま答えを反芻して、それでもこれが正しいのだからと口を開く。
「これまでは自分の使命だから、生まれてきた理由だからとわたしの敵に立ち向かえば良い。そう思ってきました。だけどそれは間違いで……わたしは、わたしの大切な人を守るために戦いたい」
 その宣言の意味にカナタも遅れて感づき、しかし横やりなど入れられるはずもなく耳を傾ける。
「わたしの敵を放置していたら、わたしの大切な人が傷ついてしまう。さっきだってカナタさんは大惨事に見舞われかけた。わたしはそんなことを見過ごせない。傷ついて欲しくないから。だからわたしは戦いたい」
 或いはここで、詭弁を弄して無理矢理にでも話をねじ曲げてしまえば、アステルを争いから逃すことだってできたのかもしれない。だがそれはあくまでも可能性の話でしかなかった。
 止められない。
「カナタさん、わたしはわたしの大切な人を守りたいんです」
 今度こそ真っ直ぐに晴れ渡った眼差しで、心からの願いを口にする彼女を、カナタはどうしても止められなかった。
「それがどれだけ大変なのか……」
「分かってますよ。だけど立ち止まったりなんてできません。わたしが諦めれば、カナタさんたちの過ごす世界が壊されてしまう。そんなの、わたしには絶対に認めたくない!」
 言い切るアステルのどことなく柔らかな面立ちが今は引き締められている。彼女の話すことは正論である以上に、その願いが本物であることを物語っていた。
「……分かったよ。俺も協力する」
 そう言う以外に何ができたというのだろう。カナタは苦々しくもその宣言をしかと伝えて、しかしすぐさま声の調子を翻した。
「だから、絶対に戻ってこいよ。それが交換条件だ。仮想空間の名前を考えるのも、お前が戻ってきてからだ。絶対に帰ってきて、約束を果たせよ!」
 勢い込んではっきりと一言一句言い聞かせる。間違っても聞き逃したなどとは言わせないように。
 その意気込みにアステルは狼狽えて、それでも嬉しそうに最後は微笑んだ。
「あはは……分かってますよ。わたしだって戻りたい。あなたと一緒に過ごすためにわたしは立ち向かうんですから。だから……」
 表情は緩やかに静まっていき、透徹した決意だけが晴れ空色の瞳に残る。
「――わたしと一緒に戦ってください」
 そこからはもう言葉は要らなかった。
 助けたい本心と誤魔化し切れない躊躇いの狭間で、カナタは歩を進める。
 カナタはこれまで触れずにいたケーブルを手繰り寄せ、接続することで返事に代えた。それまでネットワークから孤立して、それ故に保たれていた安寧が崩されていく。
「今、繋げた。もう相手の方からもお前の方からもアクセスできるはずだが……どうやるんだ?」
 カナタは、というより人類は悪性新生物がどうやって他のコンピュータを浸食しているのか理解もできなければ表現もできない。そのやり方が分かるのは悪性新生物か、そこから生まれたアステルより他にはいなかった。
「実はわたしにもよく分かってはいないのですが……どのみちわたしに触れられる範囲は限られています。えぇと、ですので……」
 アステルは言い出そうかと躊躇って口ごもる。何を悩む必要があるのだと苛立ち、カナタは少々荒々しい口振りで言い放った。
「お前の敵がいるコンピュータをそこに取り込むんだろ? 確かに厄介なものを引きずり込むことにはなるが……お前が仕事を完遂すれば問題はなくなる。迷ってる暇があるんなら、やるべきことをやれ」
 どこまで言っても突き放すようにぶっきらぼうな言い回ししかできないのがカナタだった。
 いい加減にその辺りのことも折り込み済みのアステルは笑顔を輝かせて頷き、勢いよく立ち上がる。それから思い立ってタブレット型の内と外を繋ぐ端末を抱えた。
「そいつはそっちとこっちの視角を繋げる媒体だ。音声ならどこにいても届くし、持って行っても大した役割は果たさないはないぞ」
「それでも、カナタさんからはわたしが見えるんですよね? だったら十分です。見守って貰えてるんだって思えたら、それだけでも力になりますから」
 本音を言えば、普段は一人で行動しがちなカナタには誰かが見守ってくれることに価値なんて見出だせなかった。それどころか平時ほどの力さえ出せなくなる気がする。
 それでもアステルが言うのであれば、こんな他愛ない遣り取りにでも未来を切り開く力があるのではないか、と素直にそう思えた。
「この期に及んで止めはせん。やりたいようにすれば良い。ところで、俺が手伝えるのはここまでなのか? まだ頼みごとがあるなら聞いておきたい」
「頼みごと、ですか……そうですね……」
 俯いてアステルは何度か口を開きかけ、その度に苦いものを飲み下す。葛藤しているらしい、とカナタにも察せられる苦渋を振り切って、最後に彼女は顔を上げた。
「ありません。わたしが完璧に一人で終わらせてきて見せます!」
 わざと勇ましく、普段の彼女が使わないような言葉遣いで宣言してみせる。その表情はしかし、いつもの優しげな微笑みのままだった。
 そんな強がりを言葉通りの意味に飲み込んでしまえるわけもない。
 他愛のない想像が幾つも過ぎ去り、それらを踏まえてもなお、しかしカナタにはこれしか言えなかった。
「分かったよ。俺はお前の決断を尊重する。お前の大事なものを掴み取ってこい」

開戦

 夜が終わりを告げ、仄かに光をはらみ始めた空。灰色と藍色が入り交じった、その一点が捩じくれる。歪みは幾重にも波紋を広げ、丸く底知れない影が空に落ちた。
 そこから竜の首がごとく形をなした業火が無数に溢れ出て、途端に世界は昼の明るさを取り戻す。それに留まらず上空から降り注ぐ火炎の触手が星を捉えて、その色が大気を蝕んだ。海からは蒸気が立ち上り、島のそこら中で火の手が上がる。
 熱波は森に開けた大樹の切り株にも届いて、そこに立つ少女の朝焼け色の髪をなぶった。彼女は乱れ舞う長髪を片手で撫でつけて、呟く。
「……来ましたよ!」
 紅と朱と橙の地獄の中で、喉が焼け付きそうな吐息をつきながら、しかしアステルが睨むのは空の一点だった。そこに開いた大穴をさらに広くこじ開けて、貪欲な化身が這い出してくる。その白い輝きが画面を覆い尽くして少女の姿は光の中に掻き消えた。
「アステル!?」
「平気です! この距離ならまだ、何ともありません!」
 光度に調整が加わり、白光は薄らいでいった。少女の華奢な痩躯は森の木々とともに黒く影が浮かび上がって、徐々にその輪郭も精細を取り戻す。
 極端に明るい光源を基準としたために画面は全体として薄暗かった。また夜に引き戻されたような暗闇の下でアステルはタブレット型端末にどこか不安げな目を向けてくる。
「カナタさん。カナタさん! まだ見えていますか?」
「見えてるよ。どうだ。そこからでも『英知』は操作できそうか?」
 カナタが言うとアステルの目元が綻んで、それから一拍置いて慌てながらこう返答してくる。
「は、はい! じゃなくていいえ! ここからではやはり難しいようです。接近するしかありません!」
「少し気を落ち着けろよ。そこまで大声で話さなくても聞こえてるから」
「ご、ごめんなさい……」
 つい今し方まで上擦った声で喋っていると思ったら今度は急に萎れ出す。彼女の感情の多彩さにはいつも感心させられる。
「ほら、さっさと終わらせて家に帰るぞ」
「もちろんです!」
 応じたアステルの長髪が金色に溶け出しそうなほどの光を発し始める。画面が暗いせいで判別し辛いが、肌からは乳白色の輝きが滲んでいた。
「それでは……参りましょう」
 アステルは澄み渡った空色の瞳で敵を睨むと端末を抱き抱えてしまった。画面は押しつけられたブラウスの布地しか映さなくなる。
「アステル。見えない」
「その……ごめんなさい。しばらくはこうさせていてください」
 少女の不安そうにすがりついてくる言葉を聞けば、カナタはもう何も言い返せなくなる。彼が黙っているとアステルはいっそう強く端末を押しつけ、カナタには見えない微笑みでこう返した。
「ありがとうございます。やっぱりカナタさんは優しいです」
 直後、スピーカーから吹きすさぶ風の唸りが漏れ出て現実の空気を震わせ、彼女が飛び立ったことを知らせた。やがてそこに火の爆ぜる音が加わり、繰り返される轟音の合間にアステルの呻きが漏れ聞こえカナタは耐えかねる
「どうしたんだ!! 大丈夫なのか!?」
「平気……まだ、行けます!!」
 ノイズ混じりの叫び声で踏ん切り、アステルはさらなる加速に挑んだ。空気が張り裂けてその振動がカナタの側にまで伝わり、スピーカーが終わることのない風音を音割れしながら吐き出す。弾けては遠ざかっていく爆発音が自らのすぐ足下から響いてくるような錯覚さえ受けた。
「くそっ……!」
 何か、できることはないのか? 何も手伝えないのか?
 どれだけ強がりを言い放っても、偉ぶってもこれが今のカナタにできる限界だった。隔てた画面の壁の厚さがあまりにも痛感され、届かない手の無力さを実感する。
「無事でいてくれ……」
 敢えてアステルには聞こえないようにそう祈りながら。
 鳴り止まない空戦の音に耳を塞ぐこともできず、へばりついてくる呪わしい時の流れをじっと堪える――

迷える星の集う空に

 喧噪は突然に止んだ。というより、カナタが我に返るといつの間にか静まっていた。
「どうにか、相手の懐に入り込めたようです。今は見失っているのか……もしかしたら、攻め倦ねているのかもしれませんね。手詰まりはこちらも同様ですけど」
 くぐもったアステルの声がそう報告してくる。彼女はまだきつく端末を抱き締めているようで、先ほどから暗闇しか見えてこない。
「アステル。端末を――いや」
 彼女に与えたタブレット型端末は裏面にもカメラが備わっていたことを今になって思い出す。これにもっと早く気づけていたらと自責の呪詛が再び湧き出し、しかしそれでも力になんてなれないことに思い至って唇を噛み締めた。
「どうかしましたか?」
「……いや、問題ない」
 使用するカメラを切り替えて、カナタもアステルと同じ光景を目にする。
「……まぶしっ……!」
 同時にまたしても画面には目の眩む輝きが満ち溢れて、思わずカナタは顔を背けた。ただちに光度の補正が加わり、彼はようやく自らの敵でもあるそいつと相見えることになる。
「見えましたか、カナタさん? 今、目の前に立ちはだかっているのが、わたしたちの敵そのもの。この奥にわたしたちの敵を消去するように命令を送り込めば、わたしたちの勝利になるんです」
「これが、敵そのものって……」
 今もなお画面一杯でうねり、逆巻く赤熱した大気。
 至近距離だから、その全体像は掴めない。しかし宇宙を模したこの仮想空間に於いて、眼前の天体を表現し得る言葉をカナタは一つしか持ち合わせていなかった。
「太陽だな、これは」
 教科書か図鑑に掲載された、赤く燃え盛る恒星の写真。星から溢れ出しては狂ったようにうねる炎の柱がプロミネンスで、頭上の遙か果てを覆う灼熱の壁がコロナ。
 悪性新生物(neoplasm)に犯された『英知』を具現させると視覚的にはこうなるらしい。
「……ところで、カナタさん」
 その声が掠れて聞こえたのは、映り込んだ目と鼻の先の恒星が本来なら近づいただけでも気化する代物だからかもしれない。
「どうしたんだよ」
 カナタの応答にアステルは少し間を空けて、それから頗る申し訳なさそうにこう切り出した。
「実は最後に一つ、お願いができてしまいまして。それをどうか頼まれて欲しいんです」
「今更その口振りかよ。そんな前置きはいらないから、とっとと吐き出せ!」
 常のごとくぶっきらぼうで乱暴なカナタの返事を聞くとアステルは安堵して息をつき、それから告白した。
「もしかするともうご存じかもしれませんが、わたしの中にはこの星を操るための機構が眠っています」
「知ってるよ。会話で入力するって奴だろう?」
 何気なく返すとアステルが囁くような笑い声を漏らして、それがどこかくすぐったい。
「知ってたんですね。カナタさんはずるいです。では、細かい説明は省きますけど、わたしの代わりにそれを使って、この星に命令を送り込んでもらいたいんです」
「構わんが、お前自身ではやれないのか?」
 カナタが問いかけるとアステルはまた黙りこくり、それから唐突に端末を裏返した。自分の姿を画面の真正面に映し出す。
「――あ」
 そんな、間抜けな声しか出せない自分を呪いたい。
 カナタはディスプレイが映し出した、左手の肘から先、両足の膝下、そして長かった髪の先が焼け落ちた少女の姿を凝視した。ただ呆然と眺め、炭化したそれぞれの先端を目で追おうとして、見失った。
「実は、わたしとわたしの敵はしばらく離れている間に、触るとお互いを打ち消し合うようになっていたみたいで……対になる存在だからでしょうか?」
 気まずそうに、しかしそんな事実があっさりと口に出せてしまえるアステルを罵る衝動に焦がれる。必死になって抑えつけ、それでも怒り滲ませカナタは疑念をぶつけた。
「それで? お前はこれからどうしようと?」
 どうしても言葉の端々から棘が突き出し、だというのにアステルは満足そうに頷いて答える。
「この星はわたしの敵に包まれていて、このままだと命令が通らないんです。だからわたしは体当たりをしかけ、突破口を開こうと考えています。でもそこから突入したのち、わたしは大きく疲弊しているでしょうから……カナタさんには命令の入力を代わってもらいたいんです」
 伝えられた内容自体は語られる前から予測していた。だから頼みごとの意味は飲み込めるけど、アステルがこれから敢行しようとしている蛮行が理解できない。
「つまりお前は自分を犠牲にして血路をこじ開けようって言うのか? 馬鹿じゃねぇの? 一体、これまで何のために――!?」
「納得してください! ……とは言えません。だけど、これしか方法はないんです。それに、わたしだってまだ消えるつもりじゃありませんから」
 吸い込まれそうなほど奥深い空色の双眸で、見えていないはずのカナタを見据えてアステルは言う。もはや目にすることの叶わない彼の姿を脳裏に描きながら、言い放つ。
「わたしは必ずあなたの傍へ帰ります。どうしてもそこにいたくて、そのために戦っているんです。だから……だからどうか、わたしの我が儘をお許しください」
 出会った頃から相変わらずその眼差しは実直で、曇りなかった。幼さ故か、はたまた生来の性分によるものか、アステルは偽ることを知らない。
 そんな彼女の頼みに即応できてしまえるのは、傍に居続けたカナタだけで。
「分かったから、さっさと始めろ。迷っていられる暇はないだろう?」
 カナタがなるべく平常を装って言うと、アステルの真剣な表情も瞬く間に崩れて普段の微笑が綻んだ。
「では改めて、参りましょうか」
 アステルは先が焦げ付いた長髪を翻し、肘までしかない左腕で小器用に端末を小脇に挟む。そのぎこちない姿勢に気づいたカナタは端末を消し去って、代わりに小鳥のアバターを生成した。
 脇にあった端末が消えて戸惑うアステルはすぐに肩に止まった感触に気づいて手を伸ばしてくる。その細く白い指に小鳥があっさり包まれてしまうと、彼女はくすぐったそうに目を細めて、くすりと笑みをこぼした。
「普段は全然触らせてくれないんですから」
「今だけだからな」
「ホントです? だったら、もうしばらくは触り放題だ」
 他愛ない軽口を交わしてアステルは再び前方の、眩い光輝をはらんだ赤熱する星へと向き直る。その色白な容貌は火の色に照らし出されていた。
 彼女は鳥のアバターを胸の前に炎から庇おうと抱き、長い睫毛で縁取られた目を伏せて渾身の力を奮い起こす。全身の肌から沸々と光の粒が沸き起こり、徐々に彼女の体は淡く輝く一筋の帚星に転化されようとしていた。
「……行きます」
 確かにそう口にする声は聞こえたのだが、既に乳白色の光と化していたアステルに実体があるかは定かでない。彼女はカナタの元へと流れ着いた頃の姿に戻って、長く尾を引きながら灼熱の大地に突貫した。
 乱れ舞う星の光の奔流と膨大な熱量を溜め込む業火の壁がぶつかり合う。その先端から弾けて閃光が飛び散り、凄絶に二色の輝きが競り合った。
「――――っ!」
 どちらが発したのかも分からない、押し殺した呻き。衝撃が伝わらないはずのカナタさえも歯を食いしばって、怖じ気づき張り裂けそうになる意気地を必死で繋ぎ止める。
「大丈夫です! これなら行けます!!」
 恐らく最初の衝突の瞬間に滲んだ目の端の涙を振り払ってアステルは叫ぶ。カナタと、それから自分自身を鼓舞するために。
「あぁ! 俺には構うな、突っ込め!!」
 そうして応じることがここにいる意味だと弁えていたからカナタも声の限りアステルの行く先を指し示す。
 彼女は言われるまでもないとでも言いたげに、しかしほんの少しの笑みを口元に湛えて全身全霊を叩きつけた。
 緩慢だった前進する速度が跳ね上がり、燃える星の中にのめり込んでいく。だが、ここを正念場だと見定めているのはカナタたちだけでなかった。
「――――っぁ!?」
 二度めの呻きはアステルの口から、ほとんど悲鳴同然の悲痛な響きで胸を切りつける。憂慮に顔を歪めたカナタは声をかけようとして、画面から溢れんばかりの紅蓮の煌めきに絶句した。
 アステルの指の隙間から覗く景色が土石流の如く後方から押し寄せてきた紅焔に呑み込まれたのだった。
「アステルッ!?」
 映像は点滅するし固まりもしたが途切れてはいない。それ故にまだ彼女が死んではいない、と頭では理解していたのだが心配する声は押し留められない。
「まだ意識はあるな!?」
 怒鳴りつけるような口振りでカナタが問いかけると、アステルの指が震えた。そうとしか見えないほどではあるが確かに、動いた。
 遅れてノイズ混じりで、或いは掠れているせいなのかひどく聞き取り辛い声が返される。
「ちょっと……きが、飛んでいました。でも、まだ生きてます……それより、状況を……」
 彼女の声は熱風の唸りにも掻き消されそうで、もう良いから引き返そう、とこぼしてしまいたくもあった。
 だけどそんな愚行は彼女を苦しめてしまうだけだから、彼は無言でキーボードに指を走らせる。慣れた動作を最速でなぞって観測したデータを表すグラフやメーターを呼び出し、数ある異常から要項のみを読み取った。
「さっき俺たちの星を浸食していたプロミネンスが殺到してきて、退路が塞がれた。おまけにこの星全体を覆ってた防壁もこの一点にリソースが費やされてるし、どうやら相手はここをお前の墓場にするつもりらしい」
「なるほど……してやられましたね……」
 常よりも口数が多いカナタの余計な解釈まで聞き終えてから、アステルは力なく呟く。ともすれば雑音の海に紛れてしまいそうな声音のか細さがカナタを不安にさせた。
「アステル……もしかしてもう、きついのか?」
 この質問にアステルがもし一言でも辛いと答えれば、カナタは仮想空間を崩壊させてでも彼女を自身のコンピュータに引き戻し、ネットワークとの接続も断ち切るつもりでいた。それで何が報われるとも思えなかったが、少なくともアステルは消えずに済む。
 カナタの大切な人が喪われずに済むのだ。
 だから――
「わたしは行きますよ。そんなに心配せずとも、まだまだ平気ですから」
 誰が心配なんか。
 そんな憎まれ口を叩ける余裕など、あるはずがなくて、だから伝えられるのは隠しおおせなかった本心だけだった。
「なら少しでも急げッ! 心配させてるって自覚あるならこんなことさっさと終わらせろ!!」
 そのとき顔は見えなかったけど、アステルは確かに微笑んだ気がした。
「分かってますよ」
 気負わないその返事が、しかしカナタには何よりも安らぎをもたらす。だからこそまだ失いたくなくて、自分にできることを探すのだが本職の研究者にも叶わなかった悪性新生物への干渉が一介の学生にできるはずもない。
「頼む……帰ってきてくれ……」
 無力を噛みしめ体裁を投げ出した今、許されるのはただそう祈ることばかりだった。
 彼の独り言に返される言葉はなく、代わりに小鳥のアバターを包み込む手に力が籠もる。次第にその指の色が薄らいで小鳥の周囲には金色の粒子が舞い散り始めていた。
 アステルの髪と同じ色の煌めきは乳白色と混じり合い、光を乱反射させてその輝きを高める。
「ぃッけぇええええええええええええええええええええええッ!!
 張り上げられた雄叫びと共に引きずり出された力がより一層の輝きとして彼女の全面に展開された。その身を燃やす煌めきは深く煉獄への道を切り開き、彼女はそこへ迷うことなく飛び込んでいく。
 背後から追い縋る猛火の怒濤も今の彼女には追いつけなかった。一筋の流れる星は赤熱する業炎の中を突き抜け、深く怪物の体内へと食い進む。
 やがてカナタは溢れかえる灼熱の狭間に、アステルよりも一回り大きな燃え立つ火の核を宿す球体を見出した。それは生物的な組織でどこかと結びつけられ、一個の巨大なネットワークを構築している。それが『英知』を構成するニューロンの一つ一つであることは拙いながらもカナタにだって推測できた。
「聞こえるかアステル!? どれでも良いからあの火の玉に取り付け! あれに接触すればまず間違いなくお前からの命令が通るはずだ!」
 返事らしい声は何も聞こえない。もはやそれだけの力もないのだろうか、という冷たい予感が首の裏側から頭蓋の内側までなぞって耐え難い悪寒をもたらす。
 しかしアステルは打ち寄せる業火の波に打ちひしがれそうになりながらも火の玉をめがけて飛翔を始めていた。辛うじてそのことだけが、アステルにまだ残った意識の存在を証明している。
 火の玉は白色に近い中心部から発された炎が外に行くに連れ、黄色を経て橙に移り変わり、最後には赤くなった外周部が揺らめいていた。取り付けとは言ったが、これは近づくだけに留めるべきかもしれない。
 そんなこと考えていたら、もう広げた手のひらより大きく見える真紅の煌めきが、爆発した。
 カナタの目にはそうとしか映らなかった。火の玉が急激に膨れ上がって閃光をばらまき、その臨界点で膨大な火炎の奔流がこちらへと降り注ぎ出したのだ。
 悪性新生物による最後の悪足掻きだ、と気づいたときにはもう遅い。
 視野を余すことなく覆い尽くして荒れ狂う炎の華がカナタたちを呑み込もうとしていた。
「アステル、よけ――」
「――――ッ!!」
 カナタの無茶な要求をはねのけて、アステルは光の粉を散らしながら急加速する。華の中心部、噴出する炎の源が瞬きを一つした頃には触れられる距離まで迫り、減速もせずに飛び込んだ。再び画面が火の色にまみれたのは一瞬のこと、すぐに目の前が開けてカナタの胸には一握りの希望が灯る。今度こそ本当に解決するのだと、そんな儚い希望をアステルの囁きが霧散させた。
「切り札を託します。わたしはこれを抑えるから……っ!」
 どうか、今の内に。
 直後に世界が後方へと過ぎ去り、滅茶苦茶に何度も天地が反転する。
 回転しているとカナタが気づく前から小鳥は自動で姿勢の制御を開始していた。しかしそんなことより彼はアステルの手の中から放り出されたことに愕然として振り返る。
「待てよ!! アステル!?」
 目にしたのは花弁から一気に崩れ去りいく炎の華。そのただ中で両腕を広げ、炎を一身に浴びながら悪性新生物の追撃を封じる彼女の姿。
 襤褸切れになった服や焼け焦げた髪を熱風に弄ばれ、背後の業火が照らし出す痩躯は全身が黒く煤けていた。それなのにアステルはカナタに気づくと、無理に微笑んで見せようとする。
 くしゃくしゃでひどく不格好な表情だった。
「どうして!?」
 その問いに意味がない、ということは承知していた。
 今のアステルにもはや言葉は通じない。そして彼女が炎の華を抑え込んでいる、この好機を逃せばアステルの願いは潰えてしまう。
「……バカ野郎ッ!!」
 両翼を素早く翻し、思い切り虚空に叩きつけた。生み出された推力は小鳥の痩躯を突き動かし、強がりな少女は画面の端へと流れ過ぎていく。カナタは翼の強度など考慮にも入れず、ただ速度だけを求めて振り乱した。
 アステルがカナタに託したという『切り札』。この場でそんな呼称が与えられる代物は『英知』のユーザー・インターフェイスしかない。
 そしてそれを託したアステルは恐らく、言外にこう訴えているのだ。
 自分が時間を稼ぐから、この戦いにけりをつけてくれ、と。
 それがうまく行かなかったときのことなんて、彼女は何も考えていやしなかった。或いは成功したところで自身は滅ぶのかもしれない。そんなことさえ覚悟した上でアステルはカナタに願いを託したのかもしれない。
 無論、そんな結末を迎えるつもりはなかった。
 鳥のアバターなどこの場で使い潰すつもりで、炎の防護壁を剥がれた『英知』のニューロンに突進する。剥き出しになったそれは、赤みがかった透明な外郭の内に青白く輝く核を宿す崩れかけの球体だった。
 難なくその光の根元にたどり着いても飛行の勢いを殺さず、アバターのくちばしを突き立てて回線を開く。
 繋がった。
 そう直感したカナタは間髪入れずに命令を入力する。
「このコンピュータで現在実行中のタスクを全て終了しろ!」
 カナタの無我夢中の叫びは電子の世界を一変させる力ある命令として星空中に響き渡る。
 あれほどアステルを苦しめた悪性新生物はたったそれだけの言葉に屈服した。その影響は瞬時に波及し、赤熱していたうねりは溶岩が固まるように輝きを失い固く黒く凍り付く。停止していくそれらに一瞥もくれることなく、カナタはただ「削除」を命じた。
 その命令もまた直ちに実行され、この星にこびり付いた黒い焦げ痕は塵さえ残せず抹消されいく。
 だがそんなものは消えたことを視界の隅に確認するだけでも十分だった。
「アステル! おい、アステル!!」
 カナタの関心は最初からそこにしかない。『英知』のニューロンを蹴り飛ばし、振り返った先にいる少女に向けて小鳥を飛翔させていた。
 果たしてアステルは、木漏れ日色の長髪を靡かせているはずの少女はそこに漂っていた。
 長かった髪は肩ほどになるまで焼き尽くされ、その衣類もほとんど焼け落ちている。何の偶然か、小鳥のアバターを投げはなった右腕だけは原型を残していたが、残り四肢は根本の辺りに黒焦げを残すばかりだった。
 左のわき腹は炎に抉られ、右目はもう見えていないのか瞼ごと煤に閉ざされている。
 そんな格好のくせにアステルは笑おうとするからカナタは行き場のない憤りに襲われ、そのはけ口が見つからないと今度は激情が涙となって溢れ出した。
 それを抑えつけようとする意地など忽ち枯れ果てて、カナタはアバターを消してしまう。その代わりに彼女の右腕が届くところに出現させたタブレット型端末をアステルは難なくすくい上げた。
「お前、平気なのかよ……その格好。ぼろぼろじゃねぇか!?」
 伝わるはずのない言葉なのに、カナタはそんなことを訴えかけてしまう。そして言葉の意味など伝わらずとも、カナタがどんな思いを抱いているのか、アステルは読み取り、辛うじて残っている肩を揺らした。
 その拍子に散らした滴が彼女自身の発する乳白色と金色色に煌めく。
「だから、笑ってる場合じゃないだろう……!」
 言葉が通じないとは言え、どこかで心が通じ合っている感触と相変わらずなアステルの様子にカナタまで顔が緩んでしまう。
 後遺症は残っても、肝心なものは失わずに済んだ。一番大切な一線で踏み留まれた。心の冷たく硬い部分が解けて、流れる涙の量が増してしまう。
 この上ない安堵をカナタは感じていた。
 ――けたたましいサイレンが彼の耳を苛む、その直前までは。
「警報!? どうして……」
 口では疑問を露わにしながらも彼の頭脳は常の冷静さののまま状況を把握していた。
 恐らく、悪性新生物が取り除かれたことで施設内のセキュリティが再建された。当初から予想できていた事態のようで、これほど短時間にそれが終わるとは全くの想定外だった。
 そして本来の機能を取り戻したセキュリティは迅速に侵入者たるカナタの存在を暴き出し、周知させる。
 本来なら厳重に守られているはずの、この『英知』の制御室に誰かが駆けつけるのは時間の問題だった。
「……アステル」
 事情を理解できていないアステルは当然ながら、元々大きな瞳を丸くしてカナタの顔色を覗く。やがて青い瞳の中に不安げな光が映り込んで、ゆらゆらと震える。陰った彼女の表情を勇気づけられるとは思えなかったが、それでもカナタは約束せずにいられなかった。
「必ず、いつか迎えに来るから。それまで待っていてくれないか?」
 カナタの、そんな言葉の意味をアステルが理解できたはずはなかった。しかし彼女はいつものように柔らかく綻ぶ花のような微笑みで応じ、頷く。
 それを見届けた直後のカナタの行動は迅速だった。
 ありがとう、たったその一言さえ口にはせずにキーボードを叩き、同時に音声で『英知』へと命令を打ち込む。体感時間ならば一時間、実際には一分足らずのその作業を終えるのと同時に誰かが部屋に踏み込んできた。勢いよく叩きつけられた扉から差し込む光を背景に佇む研究委らしき人影を、目を細めながらカナタは眺める。その人物が天田ではないと知って、彼に詰め寄ってきてもカナタは動じなかった。
 もはや全ての行程は終えている。
 カナタのコンピュータは仮装空間から切り離され、その痕跡も残さず抹消し終えていた。
「またな、アステル」
 今度こそ本当に届かない声を、それでも彼女にだけ聞こえるように吐き出しながらカナタはそっと目を瞑った。

迷える星の集う空に(後)

迷える星の集う空に(後)

「カナタさん、わたしはわたしの大切な人を守りたいんです」 小さくてちっぽけな、しかし彼にとっては重たい一歩を踏み出したカナタ。 それでも大差ない生活を始めた彼の下に恩師からの連絡が届く。 意味不明なその文面は穏やかな日々に警鐘を鳴らすもので…… 「迷える星の集う空に(前)」(https://slib.net/74590)の続編

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-10

Copyrighted
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  1. 予兆
  2. 走り出す
  3. 真相
  4. 誓い
  5. 潜入
  6. 願い
  7. 開戦
  8. 迷える星の集う空に