私が変なおじさんです。

私が変なおじさんです。

私には、兄妹4人いますが、健常者。親戚にも身内にも障害のある人はいません。  ボクだけ、、、

ある日、母に「何故。俺だけ障害者に産んだんだ。」と不満をぶつけました。  「母は、今まで見たこと無い。悲しい顔を

して眼には、一杯の涙を溜めて泣いてました。」その顔見てから。  自分の障害を個性にして生きています。

   「変なおじさんの生い立ちです。」

          森下 善和   

これは私が小さい頃のお話です。
「人には、幸せな人と不幸な人がいるのか、」と祖母に聞いた事がありました。 するとおばあちゃんは、「そんな事はないよ。偉い人もウラ達(私達)貧乏人も金持ちもみんな平等だよ。」嘘だ。「向かいの晃君はツギの当ったズボンなんか履いてないのに、俺は履いてるじゃないか、それにみんな自由に歩けるのに、俺だけ歩けないのは不公平だ。差別だよ。」すると、おばあちゃんは「お前なら不幸な人生を与えても耐えて生きる事が出来る。耐えて生きて行ける。と、神様にお前は選ばれたんだよ。他の子供では、障害に負けてしまう。 でも お前なら大丈夫だと選ばれたんだよ。神様がお前を選ばれたんだ。」  「選んでくれなくても良いから自分の足で歩きたいよ。自分の手を使ってご飯が食べたいんだよ。」そう言うと祖母は眼に涙をいっぱい溜めて私を見つめていました。(その悲しそうな顔を見て、私はなにも言えませんでした。                 

  昭和28年12月6日。(兵庫県美方郡浜坂町と言う)但馬でも一番端の端に面した町。 鳥取県との県境にある。小さな漁村の町。浜坂町〈現、新温泉町〉に長男として生まれました。(両親はその年の春に結婚しました。〈本当は来年の2月が予定日でした。)その為  未熟児で生まれました。(昔ですから無論、自宅でお婆母さんに取り上げてもいました。 8ヶ月。(1550グラムの片手で握れる赤ちゃんだったと後で聞きました。)母は,早産だったので母乳も出なく、産後の体調も悪いので、おばあちゃんが付きっきりで部屋を火鉢で暖めたり、湯たんぽを入れたりで育てたそうです。  実は、叔父さん。(親父の末の弟がその2年前の同じ月に病気で亡くなったそうです。その人の生まれ変わりだと)信じていた事もあり、それに無論、初孫で可愛いいから女の執念で育たんだと笑っていました。  昔ですから 粉ミルク。そんな物ありません。近所に住む.子持ちのおばさん達にもらい乳をしたり、山羊の乳。それに米の絞り汁(お粥を絞ったお汁)を飲ませて育てたそうです。 1・2ヶ月が過ぎてお産婆さんが私を見るなり、(この子生きてるとビックリしたそうですが、)生まれる前から(アツカマしい性格だったようですね。)
それから何年かして,私にも物心が付き。近所の子供達はみんな歩けて学校に行き勉強したり、走ったり飛んだりして普通の生活をしていますが、私は歩く事は疎か自分では立つ事も食べる事も出来ません。そして家は農家です。
 農繁期の5月は田植え。9月・10月は稲刈りで収穫の秋で家族は大忙しです。 私は、立つ事も座る事もまして歩く事出来ませんから。1人。田んぼに寝かされて泣いていました。 (現在なら養護学校があり障害があっても送り迎えして トイレから食事介護までしてくれ、それに勉強まで面倒見てくれます。  私の時代は昔ですから。 先生が迎えに来てまで勉強なんか教えてくれませんでした。 〈現在では考えられませんが、今は良い時代です。ホントに、)   でも 農繁期が暇な時。雨が降ったり、冬場雪が積もって畑や田んぼに出られない時。 そして時間が出来ると祖父がカタカナ・ひらがな・+算・ひき算。根性とやる気を厳しく教え込まれて、今の自分が出来た。と言っても過言ではありません。〈感謝しています〉  自分で食べる事が出来ない私に(自分の食べる物ぐらいは自分で食べれないと生きては行けないと教え込まれて食べる事が出来ました。)  そして両親は神にもすがる思いだったんだと後で聞かされましたが、2・3年間は仕事なんかそっちのけで各地の病院通いをしてくれた。 小児マヒにあの治療が良いと聞けば、針・灸・宗教から占いまで治る。と聞といろんな所へ連れて行ってくれたそうです。(幼心に覚えていますが、) 列車やバスには毎日乗っていた記憶があります。 両親は私が学校に行けないと分かると字を習わせる為に漫画の本を購入してくれて月刊誌3冊と週刊誌3冊を毎月毎週引いてくれまして字を覚える事が出来ました。 祖母には優しい心。 感謝の心。 人間にとって一番大切な思いやりの心。真心など。 祖母に5年間おぶさって生活してましたから。自分の身を持って道徳・常識・人の道を我が身で示してくれました。  今ではそれが私の生き方となり、私の財産です。そして私の原点です。  

  そして、農繁期にヒマが出来るといろんな場所に連れて行ってもらいました。そのお陰で、 飛行機にも船にも車にも人にも酔いません。(だから車椅子でも旅が出来のだと思います。)
小さい頃、母に一度だけ聞いた事がありました。 「なぜ、僕だけ障害者に産んだのさ、弟も隣の晃君も向かいの真弘君も歩けるし。おやつだって自分の手で食べられるのに。なぜ、僕だけ食べれないの。なぜ、
 歩けないんだ。どうして僕だけこんな体に生んだんだよう」と母に尋ねた事がありましたが、「母は今まで見た事もない、悲しい顔をして涙ぐんでいました。」 「その顔を見てから子供心に訪ねてはいけない事だなんだと思い、聞いた事はありません。」
そして10年余りの年月は外に出ないで家の中で自分の部屋でテレビとラジオそしていろんな雑誌で情報を得てました。25歳の時に祖父が亡くなり自分に目覚めて。これからどう生きれぼ良いのか何度も悩み。人生を模索して27歳で初めて社会を知ったとと
言うのか施設に入所。そこでもこれで良いのだろうかと悩んでいました。  ある。思いつき。一つのひらめきで旅をして人生が変わりました。 その旅は私の考え方や人生をも180度変える。出来事であり、私に希望と自信を付ける旅でした。後は皆さんが良くご存じだと思いますが、、、。とにかく人生が変わった事は確かです。
 それから先は『障害は私の個性です。』と胸を張り、しぶとく生きています。  私は人と同じ事は出来ません。 唯、考え方。やり方を変えたら。普通の人に近づく事が出来ました。   私が旅をして体験して感じた事は、 ▼可哀想な人は?。「障害を持った人ではありませんでした。」▼不自由な人は?。歩けない人ではないのです。」 ▼気の毒な人は?。「目の見えない人でも車椅子の人でもありません。」   なにも出来ないと一人で悩んで自暴自棄になり、苦しんでいるより、自分で何か目標を立て達成する事では無く、目標に達成するまで
の課程だと思います。
その証拠を少し書きますと。5月に沖縄の那覇に単独旅行を計画しました。 列車で大阪の南港まで出かけました。『台風2号が沖縄に近づく為。船が欠港となり、途方にくれて宿泊場所を探して大阪の町でいろんな人に出会い、体験したり経験して感じたのは、(何年か前と言っても2年か3年前なんですが、)前と同じで出会う人達は優しくて親切にしてくれ共に生きることが出来て、ふれ合いも出来ました。でも、周りに。たくさんの人達がいますが自分から声かけて用事を頼まなければ、自分から言葉かけをして自分から言わなければ、誰も振り向きませんよ。誰もお手伝いなんかして
くれませんよ。 体が不自由だから。歩く事が出
来ないから。何も言わなくても助けてくれる。 そんな時代は過ぎたのです。終わったのです。   現在はお手伝いする事や優しさ、人に奉仕する事はビジネスになり、金儲けになりました。   寂し
い事ですが、それが今は現実です。
だから自分をさらけ出して参加する。 自分をさらけ出す事から。少しでも分かってもらう。自分から参加する。参加させてもらう。健康な人も障害にある人も同じと言うことは体が不自由で何も出来なくても私自身を認めてもらえている。そういう事なんです。   自分が主人公になる。  今では『車椅子や盲導犬が普通になり、』乗り物でもデパートでも喫茶店でも町でも当たり前に見かけます。 列車にも船にも飛行機にも各公衆の施設にはスロープや障害者トイレが設置され、
  バリヤフリーになりました。どこでも行けます。私も旅が出来ます。(有り難い事で感謝してい
ます。)時代も考え方も変わって障害を持った私達も『可哀想な人ではなく、一つの個性として見られるようになりました。』私の口ぐせではないけど『俺は不自由じゃない、不便なだけなんだ。』  近年。町に私達障害者が車椅子がいても普通です。
 ある保育園で(町で生活する人達と)言う題で絵を書かせたそうです。すると40パーセントの子供達が車椅子に乗った人が通行人で描かれていると聞きましたが、車椅子に乗った私達が社会の一員として参加して生活しています。 でも、私は何処か違うと思います。道路に歩道を付けた。スロープを設置して段差を無くした。車椅子でも利用しやすいように扉も自動のドアーに改良しましたから。気軽においで下さい。介助者なくても利用出来ますよ。お年寄りや障害者も利用しやすい。人に優しい設備にしました。   ★本当に有り難い事ですが、【私のような重度の障害者には、寂しいです。】 世の中バリアフリーで便利になった分だけ、お年寄りの人にも障害者にも生活しやすい優しい町にして上げたのだから。【君達勝手に生きて行きなさい。】と言う気がするのですが、こんな風に思うのは私だけなのでしょうか、

    私はこの頃そんな気がしてなりません。
 段差があっても、重たい扉でも、迷惑でしようが、 手を貸して下さい。
 ジロジロと見られても可哀想だと同情されても難儀 なヤツだと嫌われても良いから。
 みんなと交わりを持って生きて行きたいのです。 


 私、わがままですか、迷惑ですか、
私の人生を好きなように生きて行きたい、     人が生きると言う事は障害の有無に関係無く、   
  生まれてきた以上生きて行かなくてはなりません。  使命です。 君はどう生きたか、 唯、    
自分に悔いの無いように生きて行きたい、  それだけです。 私は障害者ですから。  昔は自分の宿命と言うのか障害を恨みました。    (なぜ、俺だけ???。)でも この年になりいろんな場所を旅行していろんな人と出会い、 又体験をして自分の障害に(軽い障害)に感謝して
います。(ハンデイ)を持つから人の優しさも親切も考えも気持ちも少しですが覗き込めた感じがします。
   

私が変なおじさんです。

この年になりいろんな場所を旅行していろんな人と出会い、 又体験をして自分の障害に(軽い障害)に感謝して
います。(ハンデイ)を持つから人の優しさも親切も考えも気持ちも少しですが覗き込めた感じがします。
   

私が変なおじさんです。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-10

Copyrighted
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