「まわるフミオ」

 ルナパークはこの街に古くからある遊園地だ。晴れた日の土日や祝日はそれなりににぎわいをみせるが、平日は淋しいかぎりである。もう何年も前からそろそろつぶれるのではないかとささやかれていたが、しぶとくというよりは、かろうじて生き残っている。
 丘の上にあるからエントランスに入るまでに、ちょっとした段数の階段をのぼらなければならない。一番上に立つまでに、低血圧のせいか、運動不足のせいかはわからないが、よくめまいがおきる。今さっきもあやうく、そのまま後ろに倒れてしまうところだった。だが僕は、いつもそうするようにあわててしゃがみこみ、目を閉じたまま体中の力をふりしぼってそこにとどまった。めまいの瞬間、世界がぐらつく。倒れることを誘惑する別の世界。あらがわなければ落ちてゆくだろう。安全が保証されていたら、そうしてみたくもあった。小学低学年のころ、朝礼でたびたび気を失う女の子がちょうど自分の斜め前に立っていて、まるで魔法のようだと僕は見とれたものだった。女の子が倒れるその姿にではなく、女の子がひきおこす周りの動揺にでもなく、ざわめきの前の、ほんのつかのまの音のない瞬間に。一瞬でもいいからあんなふうに時間をとめてみたいものだ。それが、僕が小説をかこうとしている理由なのかもしれない、小説というよりは、小節のようなものを、僕は書きたいのかもしれない。
 僕はたどりついた証拠のように支柱に軽くふれた。気持ちを落ち着かせるためでもある。僕はこの街の生まれではない。幼いころに父親の仕事の関係でつれてこられた。父と母は二人とももともとは北の国の人だ。僕が地元の高校を卒業したあとまた移動があって、二人は北に帰って家を建てたが、僕はそのまま近県の専門学校に進学した。料理を極めようとした。だが自分には合っていないことに途中で気づいた。別に珍しいことでもない。
僕はずっと小さいころからこの遊園地にはきていたらしいが、明白に覚えているのは小学生になってからだ。はじめて教科書でギリシアのパルテノン神殿の写真を目にしたとき、この真ん中のふくらんだ白く装飾的な支柱がそれのマネだと気づいた。だがそのうち女の太ももを思い起こすようになった。薄汚れて黄ばんでしまったせいかもしれない。それとも、童貞を失って眼差しがこなれたからかもしれない。といっても、もともとこんな色だったかもしれないのだ。幼かった自分にはゴージャスにも真っ白にも見えてしまったのかもしれないし。だいたい純白とはどういう色なのだろう。そんなものはイメージの世界にしか存在しないのではないか。
 支柱は実物よりも長い影を階段に落としていた。影以外の部分は夕焼けの、暖色でありながら妙に淋しい色あいをだまってかぶっていた。最近日が暮れるのがますます遅くなった。園内は通路際の緑ばかりが色を増し、あいかわらず閑散としてはいたがところどころで乗り物は動いており、それに乗って遊んでいる人がいて、散歩している人もいる。散歩している人のほうが多いのは、数年前から経営難で入園料をただにしてからだろう。地方遊園地はどこも同じようだときいた。駅前の商店街みたいに未来がない。
僕はハンドルつきのコーヒーカップ乗り場の前で帽子をかぶった女の人から挨拶されて一応軽くおじぎするが、だれだったかまったく覚えがない。
「ジュン、頭使わないと若くても呆けちゃうんだよ」
ユキさんの声が頭で響いて、もしかしたらいないかもしれない、という不安を少しゆるめてくれた。
 空中でゆるやかに上下する象の形をした乗り物にのって高校生らしい二人組がキスをしていた。……ディープキスだ。なれているようでいて、彼らの頭上の若葉のようなみずみずしさを失わないのはなぜだろう。制服のせいだろうか。皮膚や髪のなめらかなせいだろうか。僕があの男の子のかわりにいたら、どうだろう。少しポルノじみてくるかもしれない。年齢のせいではなく、顔つきのせいで。
桜の幹が続いている。視線のはしっこをそれらが一本一本通過するたびに、僕の心は水平じゃなくなってゆく。ものすごく熱いなにかを吐いてしまいそうな心地。この遊園地の定休日は火曜日だから、月曜日に会っても一日あいてしまう。その一日が、僕には自分の都合で来ることができない土日よりもさらに険しい日になってしまう。いるのか。いないのか。
さっきまでずっと遠くに見えていた観覧車が僕のすぐそばにあって、白い柵の丸いラインにそって移動すると、メリーゴーランド乗り場のとがった屋根が見えてくる。最初は屋根だけ、じきになにもかもがあらわになった瞬間に、風が耳元で軽く渦を巻いて方向転換していった。乾ききった砂埃が目の前で空に向かって飛び散った。僕は咳をして立ち止まった。舌の先に小さな砂があったが吐き出さずにのみこんだ。そうすることになにか意味でもあるように。
 目をあけた。砂埃がひけてゆくと肌色が飛び込んできた。スカートなのか。はじめてだ。それでもまっすぐ前を向いて座っていることにかわりはない。いつもと同じように背筋ものびている。遊園地にいる姿勢としてはそぐわないが、その不自然さよりも美しさが目にしみるようだった。僕は猫背だ。姿勢はなにかをあらわしているのだと思う。腹筋の強さとかそんなものとはまた別の、生き方とか、そういうこと。そんなことをきっと意識もしないまま、フミオの膝小僧はつやつやと輝いていた。

「やあ」
 やあ、なんて普通は使わないのだが、「よお」ではなれなれしすぎるし、「こんにちは」はよそよそしい。で、しかたなく「やあ」と声をかけるのだ。フミオは僕をみて控えめに首をふった。ニコリともしない。僕は隣のベンチの端っこに腰掛けて、フミオにむかって話しかけた。彼女と口をきくようになってもうかなりになるのに、いまだに彼女と同じベンチに座ることができないのだ。そしてそれがまた僕に特別な感慨を抱かせる。
「今日は仕事どうだった?」
「……難しかった」
 しゃべると上唇がめくれて普通にしていればごく薄い唇の印象が強くなる。声変わりする直前の男の子みたいな、不安定な低めの声。しびれるような心地がするのはその声のせいなのか、自分が口にしている質問のせいなのかはわからない。ただ話しはじめからもう、綱渡りの綱を渡っているような気がする。
「あわてないで、ゆっくりやった?」
 そう、ゆっくりゆっくり、いいふくめるように話さなければ。
「……やったけど、やっぱりうまくできない」
「会社の子に相談した?」
 彼女は黙って首を横にふる。
「でも、このあいだまで一緒にお弁当食べたりしてたんだろ、みんないい人ばかりだって」
「でも、もう一緒に行動したりしないから」
 実をいえば、今回の仕事も続きそうにないのだと僕は月曜日には気づいていた。こうして元気がなくなると彼女はすぐ仕事をやめるのだ。だが、履歴書に次々と会社名が増えてゆくことは、あまり彼女を雇う側の問題にはならなかったようで、彼女は仕事を辞めてもまたすぐに違う職場を見つけてきた。
 風は湿り気をおびてきた。こんな薄着で寒くないのだろうか。最初に彼女と出会った三月の終わりも裸足にミュールだった。足の爪の一つ一つにきちんとラベンダー色のペディキュアがぬられていた。今日は、下はミニのタイトスカートで、上は襟のつまった細かいチェックのシャツ。シャツの襟が大きくて尖っているのがアクセントになっている。僕はたぶんフミオのファッションを見ることよりも、身にまとうものに対するフミオの感覚に触れるのが好きなのだと思う。色落ちしたジーンズをはいていようが、ライダー用の皮ジャンを着ていようが、彼女にはいつも過剰なほどの清潔さときっちり感が漂っていた。
 
★ 
 僕は小説の背景に遊園地をえらんだために久しぶりにここをおとずれて、メリーゴーランドの前のこのベンチで偶然フミオをみつけたのだが、フミオがここにくる理由はわからない。彼女についてのはっきりとした情報を僕はなにひとつもっていないのだ。
 なぜフミオに声をかけたのか。僕はナンパなんてしたこともなかったし、明確にフミオに近づきたい、と思ったわけでもない。だが口をきいたとき、なにかがわかったような気がした。声をかけた理由のようなもの。それは、彼女の口数が急に少なくなり、ぼんやりしているような、怯えているような態度が顕著になると、さらに決定的になった。僕は小説のモデルを見つけたのだ。フミオはほどなく職場を辞めてしまった。「上司とうまくいかない」という理由だった。そういうことがこの二ヶ月で二度もあって、ようするに、今回の仕事を辞めればこれで三度目になる。
「今日の夕ご飯は?」
 彼女は自分のことは話さないが、僕の生活についてきくのは楽しい様子だった。だから、僕がインターネットの掲示板を通して知り合った、ルームシェアしている相手に養われていることも知っている。
「肉じゃがでもしようかな、って思ってるんだけど」
「毎日つくってるんだよね」
「それが、僕の仕事みたいなもんだからね」
「大変ね」
 どうしても膝小僧に目がひきつけられる。クリームかなんかで磨いているのだろうか。だが、フミオからはそういう女性のもつ美しさへの執着みたいなものが感じられない。潔癖とはまた違った、寂しさとひとつながりの清潔さばかりが漂ってくる。
「でも、けっこう楽しかったりするよ。それに料理は得意だから。あ、ねえ、よかったら、うちに遊びにおいでよ。ごちそうするから」
 僕ははじめてフミオを誘った。ユキさんの顔が浮かんできたが、どうにでもなると思った。だが、フミオは身をひいた。
「え、いいよお、そんなの」
 どうやったらこんなに正直に顔にあらわれるのかというくらい、いやそうな顔だった。
「……そう。じゃ、気がかわったら、いつでも言ってよ。いつでもいいからさ」
 永遠にそんなことはなさそうだと苦笑いしながら、お話にするにはこれくらいがちょうどいいんだ、と自分をなぐさめた。さっきからメリーゴーランドはとまったままだ。赤いシートの敷かれた丸っこい馬車も、白い馬もまったく動かない。客がいないからだが、操作する管理人はちゃんといる。公衆電話ボックスの上半分を切り落としたくらいの、透明な箱の中にこもって座っているのだ。とてつもなくだるそうな感じで。彼女はそれからほとんど口をきかないで、動かないメリーゴーランドを見つめていた。メリーゴーランドの馬たちはしだいに暗く青ざめてきた。今に電飾がつくよ、と僕は心の中で言った。



 八時にユキさんは帰ってきた。
「おかえりなさい」
 バックを受け取るとおもりをぶらさげたみたいに僕の肩は下がる。すれちがいざまユキさんの肩とすれあう。ユキさんは泳ぐように肩から動くから。肩そして、腰。僕の前を歩いてゆくユキさんの毛先がまとまってとがった長い黒髪は、さまざまなにおいをたっぷりと吸い込んで、朝より膨張して重たげにみえる。それは社会のにおいだ。正式に、社会で戦っている人しか獲得しようがないにおいだ。僕はこのにおいを嗅ぐたびに、軽く嫉妬し、軽くあせる。だが同時に彼女を哀れんでいる。廊下を進みながら彼女はスーツの上着を脱ぎ捨て、次にスカートを脱ぎ捨て、少し踵で踏んづけてから僕の方へ後足で跳ね飛ばし、ストッキング、スリップ、と次々に身軽になってゆく。僕はそれを全部拾ってゆく。社会のにおいの中におしこめられていた、なまあたたかい体温と女くさいにおいが海藻みたいに手にからみついてくる。
目の前で彼女は最後にブラジャーのホックをもどかしそうにはずして、それが枯葉みたいな音をたてて廊下に落ちると、気持ちよさそうに大きく息をついた。ヒップハンガー型のパンティ一枚で彼女は振り返る。腹がだぶついて皺がより、年齢の醜さがそこに一番よくあらわれている。でもユキさんは僕のそういう厳しい視線には気づかない。
「今日肉じゃが?」
「わかりますか」
「においが充満してるよ、部屋に」
 そう言って彼女は少し怒ったような、だが同時に誘う顔つきをして僕を見た。僕はさりげなく視線をそらせ、キッチンに移動する。夕食前のセックスはなるべくなら避けたい。途中で腹がすきすぎて、終わったあとなにも食べる気にならなくなるどころか、一度ならず最中に吐きそうになったことすらあるからだ。……ユキさんはここまで追ってこない。化粧を落としているらしい。助かった。僕は夕食をせっせと並べはじめる。おそろいの食器に少しだけユキさんの分を多くよそう。牛肉を特に目立たせて上のほうへ盛りつける。洗面所のドアがあけっぱなしになっているから水を使う音がきこえる。顔を洗っている。顔を拭きながら、また大きくため息。スリッパの音をさせてユキさんはキッチンへ。テーブルの椅子を雑にひき、ダンボールが投げだされたみたいな音をたてて雑に座る。なにをするにも音がでるのだ。新聞を広げ、五、六分読んでくしゃくしゃにすると、夕食が全部ならべられる前にユキさんはテレビをつけた。僕が席につくと、足を組んだまま缶ビールを一人でのみはじめる。
 化粧をおとし、コンタクトをはずし、黒縁の眼鏡をかけ、パジャマ代わりのジャージに着替えたユキさんは、朝、ここで食事をとっていたユキさんとは別人にしかみえない。皮膚は張りをなくし、くすみ、かすかな黒いシミが頬に影を落とし、笑わなくても左側の唇の横には二本の縦皺がうっすらと刻み込まれている。この人はなぜか左側だけ老化が早いようで、右側からみるときと左側からみるときではかなり印象が違う。キュウリの浅漬けを噛む音がきこえてくる。その口の形のまま年をとってゆくのだろう。会話はなかった。僕がなにげなく誘いから逃げたことへの報復かもしれない。といったって、だいたい常日頃、僕らに必要以上の会話はほとんどなかった。つっこんだことを話さないから、互いになにがおこっているのかもほとんどわからない。機嫌が悪いとか、元気がないようだ、いいことがあったらしい、とかそういう気配なら感じるが、気配にすぎないから本当のところはわからない。よけいなことを話したり詮索したりすれば角が立つ。うまくやってゆくこと。この形式を保って、これ以上なにものぞまないこと、これが、僕らが共同生活をこなしてゆくうえの暗黙の掟となっていた。そんな二人にセックスはよけいな感じもするが、けしてそうではない。よけいなのは、心の揺れ、中途半端な沈黙、眼差しを交わしあうこと、そういうたぐいのものである。心地よいセックスに必要なのは、愛などではなく、相性だ。とにかく、僕らは同居人としてはなかなかにうまくやっている。ただ、なにかがしくまれたように用意されないかぎりは。そしてそのしくまれたなにかに、僕はもうとらえられていた。トリックなんかじゃない、もっと原始的な罠、ぼっかりと底深くあいた、落とし穴のようなものに。



「なんか、痩せたね」
「はあ」
 他人行儀な返事にますます僕は不安になった。明日仕事をやめる、と言ったきりフミオはルナパークにこなくなっていた。だから今日、二週間ぶりにフミオがベンチにいる姿を見たとたんに前のめりになり、そのままかけだしてしまったほどなのだ。だがフミオはぎょっとするくらいに痩せてしまっていた。
 僕は頭の後ろからまだ昼の光のような西日に照らされてじっとりと背中に汗をにじませながら、フミオを観察する。グレーの半袖カットソーにジーンズ。清潔さは相変わらずだが、飾りはまったくなくて、痩せてしまった彼女の体がむきだしになっている感じがする。すごく暑いのに僕は彼女に暖かい飲み物でも買ってあげたい気持ちになった。
「喉乾かない?」
「いえ」
 どうしようか迷ったが、自分の分だけ買ってもしかたないから、自動販売機でフミオの分の缶コーヒーを買った。熱いのはなかった。
「あ、そんな」
 フミオは一瞬ぎょっとした表情で恐縮し、僕が二本ものめないから、と言って缶をさらに彼女へ近づけると、バックから財布をとりだそうとする。
「いいって、お金なんて」
 僕がそう言ったとたん、彼女は急にベンチをたちあがって、駆けだしていった。僕はわけがわからないまま急いで後を追った。彼女は蹲って、背中を丸くつきだしていた。トイレに入る前のタイルに、黄色い水のように薄い吐瀉物が絵の具の水を流したように広がっていた。フミオは、腰を折り曲げたまま口を手で覆い、目はまっすぐトイレの壁にむけている。
「大丈夫?」
 僕は背中をさすった。腰骨が飛び出している。なにも食べていないんじゃないだろうか。すっぱい胃液のにおい。背中がうねって何回か戻そうとしているのがわかったが、唾以外にはもうなにも出てこないようだった。少しも汚いと思えなかった。それよりも、吐く、という非日常的な行為が突然くりひろげられたことが新鮮でさえあった。フミオはしばらくその苦しそうな体勢を続けていたが、やっと顔をあげるとトイレからペーパーをとってきてけなげに片づけをはじめた。そのとたん、僕はもしかしてつわりか、と急に頬がほてるのを感じた。
「僕がやるから、あっちいって休んでたほうがいいよ」
 声がふるえていた。
「大丈夫です。薬の副作用なんです」
 フミオはつらそうに、だが気丈に言った。
「薬って?」
 あたりにはだれもいなかった。僕は急いで片づけながら自分の早とちりを恥じた。
「病院でもらった薬です」
「どこか悪いの」
 彼女は返事しなかった。
「仕事は?」
「少し前からまたいきはじめたんですけど、一日中眠たくてだるくて、すぐに疲れてしまって」
 フミオはまるで消え入りそうだ。ずいぶんきつい薬なんだろう。病名はいいたくないのだろうか。プライベートだからしかたないけれど、気になった。悪い病気じゃないのか……僕の体までも熱があるようにゾクゾクしてきた。不治の病の子を主人公になどとは考えてもみなかったが、もしもそうなれば劇的な効果をうむかもしれない……
 僕は自分がおそろしくなってフミオに早く帰って休んだほうがいい、と言った。フミオは明日も仕事だと言った。体がつらければ仕事は休んだほうがいいし、ここへも無理してこなくていいよ、と言おうとしたが、最後のほうは自分のことをかいかぶりすぎていると思ってやめた。だが同時に自分という人間がここにいなくても、彼女がくるとは考えられなかった。甘い気持ちが一つもなくても、空気よりはましな存在感くらい自分にもあるはずだ。
 フミオは歩きながら「迷惑かけてごめんなさい」とあやまり、まるで僕の気持ちを透視したようにつけくわえた。
「ここには明日もきたいと思っています」
「……心配だし、途中まででも送っていくよ」
「いりません。ついてこないでくださいね」
 彼女ははっきりとそう言うと、まるで見張りでもしているように、何度か後ろをふりむきながらはなれていった。
 その後ろ姿はとても小さいのに、なかなか見えなくはならなかった。病的なくらいに細いまま、頑固なほど、ほかのなによりもずっと鮮明に見えていた。


 フミオは薬に順応していった。僕は女の人の強さに目をみはるようだった。日中にまだかすかな眠気はあるものの、新しい会社にも慣れて楽しそうだった。
 彼女が「あずま」という名前を口にしたときは、すでに六月にはいっていた。そして「あずま」のせいでフミオはルナパークから今度は健康的に遠ざかりつつあった。
「あずま」と昨日映画見に行ったんだ。「あずま」に買ってもらったの。「あずま」と明日デートだから、ここにはこれない。
 ようするに、フミオは恋をしてしまったのだ。僕は「あずま」のおかげで、彼女への思いが、音楽のようにただよっていた思いが、彫刻みたいに変わったのを感じた。そこに、ドン、とおかれてしまった。僕はききたくないことを、わざわざきいてしまうのだった。正確にいえば、ききたくないというよりは、ききたいが、きいてしまうと胸がえぐられるような感じがしてしまうことと格闘せずにはいられないのだった。
フミオは、おそらくそのあとで「あずま」とセックスしたのだ、という部分になると、急に口をつぐんで顔を赤らめた。そのあからさまな顔は僕の傷に火をつけるようだった。だが、僕はある意味で大胆になっていた。今までならとてもできないような質問ができるようになったのだ。
「初恋は何歳のとき?」
「え……本気で好きになったやつ?」
「うん、まあ」
「高校生のとき」
「その人とつきあったりした?」
「うん」
 僕はトンネルを掘るように、彼女の過去を、主に、秘められた男との関係を暴き出していった。悪趣味だろうか。だが、そうしてしりえた彼女の過去の男は、ようするに「元カレ」と呼ばれるものは、両手をつかって数えなければならないくらいにいた。僕は勘違いしていたらしい。でも、ありがちなことだった。好きになった女の子にはいつだって、自分よりも体験が少なくていてほしいのだ。
 だが、彼女の過去の男と「あずま」に情けなく嫉妬しながらも、彼女がちゃんと働いていることに安堵もしていた。彼女は幸せそうだった。その一生懸命さがうらやましくなるほどに、恋に輝いていた。たとえ偽善者ぶっているとしても、このまま彼女にとって充実した時間が続けばいいと願っていた。実をいえば、どれだけ幸福そうにしていても、そう願わずにはいられないような危うさが彼女にはあったのだ。その危うさが僕の恋を胸の奥のほうで、暗くつきうごかしていた。



「今日のあんたの服、戦闘的でいいよね」
「……ありがとう」
 僕は偶然に迷彩色のTシャツにカーキ色のカーゴパンツをあわせていた。……またレジスタンスだろうか。
それまで「平野さん」と呼ばれていた僕が、はじめてフミオに「あんた」とよばれたとき、だれか他に人がいるのかと思って辺りを見回したくらいだったが、じきに慣れた。慣れなければやっていけなかった。
 この日からフミオは変わった、という境目があるわけではない。僕の頭にクエスチョンマークが点滅しはじめたのは二週間くらい前からだろうか。まず、目つきがきつくなった。立ち居振る舞いがいちいち、なんといったらいいのか……大げさになった。そのうち、立ち方、座り方、歩き方、話し方、それらのすべてが異常に感じられるようになってきた。だが、彼女が会社にいる人たちの悪口を言うまでは、僕は気のせいにしていた。
「私はね、「あずま」と別に会社の中でチュウしてるわけでもハグしてるわけでもないのよ。それなのに、他のやつらがみんなあたしらを変な目でみて噂話をするの。あずまだって、だめよ。言い返すこと一つできないんだもの。あんなの男じゃないわ。許せない。私の話をちゃんときこうともしないし、けっきょく、向こう側の人間なのよ」
 これまで会社をやめるとき、こんなふうにあからさまに僕にむかって人の悪口を言ったことはなかった。「同僚とうまくいかない」か「上司とそりがあわない」という言葉が「仕事ができない」にかわって、そのまま辞めてしまうだけだった。
 だが、彼女は僕の予想に反して、それから一週間たっても仕事をやめることはなく、会社や、会社の同僚たちの話もしなくなった。「あずま」の話題も避けているようである。もしも別れたのなら、僕にとってはラッキーだが、フミオをなぐさめるべきだろう。そんな個人的なことに口を出すのは失礼だと知っていたけれど、僕は思い切って彼女に「最近、彼氏とはどうなの?」ときいた。すると、彼女の横顔がものすごく不機嫌そうになって、信じられないことを言った。独り言のように小さかったが、はっきりときこえて僕は息をのんだ。
「あずまは我々の散弾銃によって砲撃された」
 もし、たった一度ならば、無視しようと思った。だれにだって、頭が混乱するときはあるはずだ。たとえば、夢をみながら寝言を言っているときに、実際に第三者から話しかけられて、わけのわからない、だれにも理解できない返事をかえしてしまうことがあるように、現実と夢がごっちゃになってしまう瞬間はあるはずだ。というふうに。だが、今となってはそういういいわけはどうしても通じなくなっていた。
……さっきからフミオは空をみあげたまま目をみひらいている。レジスタンスのことは忘れてしまったのかもしれない。
「昨日こなかったよね。なにしてたの?」
 カウンセラーのまねごとみたいに尋問する。ほとんどの場合会話はうまく運ばないが、ときどき彼女の心の断片に触れることができる。そんな気がするだけかもしれないけれど。
「お笑い芸人になりたくって」
 初耳だった。
「東京までいって、タレント事務所をたずねたの」
 彼女は嘘をついているのではなかった。嘘はつかないのだ。
「それで、なにかやったの? 芸」
「一応コントを考えてノートに書いて持っていったんだけど、きいてもらえなかった」
「そう……残念だったね」
「今度は違う事務所に行くつもり」
 フミオはいらだたしげに短いストレートの髪をすいた。痛んでいるのか、指が途中でとまるのに、それを無理矢理下までもってこようとするからバキバキブチブチと痛ましい音がした。細い髪が何本か抜けて落ちてゆき、地面にたどりつくと見えなくなる。彼女は最近になって、ほとんど金髪に近い派手な茶色に染めたのだった。

 このあいだユキさんのことを話題にしたら、まるではじめてきいたような顔をした。僕の目の中に主人の姿でもうつっているかのように、じっと僕の目を見てこう言ったのだ。
「ヒモじゃない。恥ずかしくないの?」と。
 もちろんだ。恥ずかしくないわけがない。僕は恥ずかしさのあまり、これまで黙っていたことを譫言のように口走ってしまった。 
「小説を書いてるんだ。いつか、それで食っていけたらいいなあ、って思って……」
「ふうん。夢があるんだ」
「まあね。いつかなうかまったく未定だけど」
 僕は得体のしれない罪悪感に冷や汗をかいていた。だから嫌だったのだ。このことを話すのは。なにが夢だ。才能もないし、コネもないし、たいした努力もしていないし、ようするに、なんのあてもないくせに。
 だが、僕の甘っちょろさを嘲笑うかのように、彼女ははっきりとこう言ってのけた。
「でも……無理なんじゃない。だってあんた、もうじき三十なんでしょう。絶対無理よ。才能のある人ならもうとっくにデビューしてるはずじゃない」
 ああ、まただ。何日たってもその言葉が耳につきささったままなのだ。フミオはそんな僕の気持ちをしってかしらずか、空を見上げながらアメリカ人と中国人の悪口を言っている。ニュースの影響をうけているらしい。
「あいつらをなんとか始末しなきゃ。ほうっておいたらますますつけあがるのよ。けっきょくは自分の国のことしか考えてないんじゃない。汚らしいやつら」
「ずいぶん噛みつくね」
「だから言ったじゃない。あたしはレジスタンスだって」
 フミオは僕を見つめて早口で、勝ち気に瞳を輝かせて言った。僕は自分の笑顔がこわばらないように気をつかった。僕は社会の落伍者であることに間違いはないのだが、病気ではないので、こういう会話を真顔で続けるのは骨が折れる。だいたい僕にカウンセラーの物まねはできても、カウンセラーの役目など果たせるはずはない。
だが、僕は、この壊れた女の子との関係を「不毛」だと思ったことはなかった。僕は、今から帰らなければならない、といっても別にいやなわけではなく、サラリーマンをしていたころよりはずっと自分にむいていてずっと楽な場所を、この世の中で一番の不毛地帯だと考えていたのだ。


★  
「あ……」
 のぼりつめる手前だったのだろう。ユキさんは不可解な顔をして僕を見おろしていた。髪の毛がおおいかぶさって、素にもどった彼女はホラー映画の主人公みたいだ。精液の生臭いにおいが鼻をついた。あわててティッシュで拭き取る。こういうことは今までなかった。
「やだ、もう?」
ユキさんはあきらかに不満そうな声をだした。ピルをのんでいるから不満は中だししたことではなく、途中で終わったことに集中する。
「ごめん」
「……」 
 僕らは体を離してしばらく黙りこくっていた。ユキさんは裸のまま枕元のスタンドのそばに置いてあるたばこを手探りでひきよせて、乱暴に火をつけると一人で吸いはじめた。僕は吸わない。小さなころからアレルギー体質で喉も弱いのだ。といっても、それほど症状がひどいわけではないから、もう少しだけ辛い目にあっているか、やるせない体験をしていたならば、無理をしてでも吸っていたかもしれない。もともと興味のない人間がタバコに手を出すには、自分ではどうにもならない悲しい体験などが必要であるときいたことがある。たとえば……失恋とか。
「変なこと考えていたでしょ」
「……なにも」
「あたしより先にイクことなんて、一回もなかったじゃない」
「今日は、ちょっと体調が」
「しらじらしい」
 ユキさんは半分くらい吸ったたばこを、コアラのかかれた灰皿の、コアラのちょうど顔の真ん中にひねりつぶす。同僚の社員の新婚旅行のおみやげだと言っていた。……やはり、しらじらしかったか。たしかに、彼女と暮らし始めた去年の十一月から、こんなことは一度もなかった。
「女の子?」
「そんなの、いませんよ」 
 ユキさんは大きく寝返りをうった。女性にしては肩幅が広いので、動くと布団の位置がずれてしまう。だが、ずっと裸でいるほうがすがすがしいくらい、季節は夏へと近づいていた。
「関係ないか」
 僕はなんとも答えようがなかった。関係ないのだろうか。もう半年近くいっしょに住んで、毎晩セックスしているのだから関係ないことはないはずだ。だが、黙っていた。このままなにもきかれなければいいな、と願いながら、僕はフミオのことを考えていた。
「ねえ、どんな女?」
 ユキさんがそうきいてきたとき、あまりに時間があいていたので、僕は眠ってしまいそうになっていた。体がほこほことして布団の中にあったかい澱ができている。よだれがこぼれそうになっていた。このまま寝たふりをしたかったが、やめた。どうせ起こされる。
「……あたまが」
「なに?」
 ユキさんの声がヒステリックに一段あがった。
(あたまがおかしい女の子)僕は一瞬そう答えそうになった。世間一般にいえば、たぶんそうであることに間違いはないのだ。だが、あの状態は病気である。たぶん、普通より頭がよいために普通の人はあまりならない病気になった。
「あたまのいい子」
「……へえ。じゃ、ブスでしょお」
「……ブスって……まあ、そうかな」
 僕はブスと言ったユキさんの声のゆがみにおされて、ブスという言葉に関する勝手な見解と、自分の好みの弁明を避けた。
「好きなの?」 
 めんどうくさいな。だが一応養ってもらっている身だ。
「ちがうんです。別になにもないんですよ。だいいち、僕はその人のことはなにもしらないんだから。名前だって……しりません」 
 本当のところは、と心の中で僕は付け足す。ユキさんは羽布団をはぎとった。僕は体を丸くしてふるえた。ユキさんは小さくなって股間におさまった僕の性器を見つめていた。ユキさんは乱暴にペニスをつかんで頭をよせて口にふくんだ。たちまちペニスはたくましくなった。
「大きくなった」
 息をするついでにペニスから口を離して、ユキさんは僕を見上げる。僕の体液をふくんだ、銀色のよだれが夜に糸をひく。
「いれるよ」
 淫乱だなあ。まったく。仕事もセックスも中途半端じゃだめな人なのだ。だが一生懸命なのはいいことだ。僕にはとてもマネできない。
 僕は動き出した。フミオのことが頭に浮かばないようにひたすら邁進した。このヒステリックな反復運動のおかげで僕は眠れるのだといいきかせて。三回は果てないとユキさんは満足しない。この人の場合、三回なんてすぐだけれど。
大きい波に喉笛をつきだして天をむく。からだを痙攣させたまま最果てまでのぼりつめると、「ああ」と一声おそろしいくらい低い声で叫び、だれかに背中から撃たれたように僕のうえにたおれこんだ。そしてそのまま眠りに落ちていった。

 一時をすぎていた。疲れきっていたが、さきほどいったん得られかけた眠りを邪魔されたため、頭は冴えわたっていた。僕は無理に眠ることをあきらめ、ベッドを抜け出すと冷たい床をつたってシャワーをあびて汗を流した。バスタオルを肩からぶらさげたまま、キッチンの小さな食器棚からウイスキーを取り出してグラスにそそいだ。氷をいれると誘うような音がした。別に酒が特別好きなわけではないけれど、グラスの中でころがるウイスキーの色は一番好きな色かもしれない。液体だからとらえどころがないということもあるのだろうが。
ベッドへもどって腰かけると、ユキさんの規則正しい、深い寝息がきこえてきた。僕には羨ましくもあり、解せなくもあった。こんなふうに、人に見つめられながら子供のように眠れるということが。子供の頃から、旅先でも一番遅く眠るのが僕だった。それまで話していたみんなの声がまったくなくなってしまうことはおそろしいことだった。だれも返事しなくなる。眠りは僕だけにつれない。いつも、僕だけが夜に取り残されてしまう……。
 僕は枕元にあるカセットデッキからとっくに終わってしまっていたキース・ジャレットのCDを取り出して、ジョー・パスの「サマー・タイム」に入れ替えた。夜中にしては割と遠慮のないボリュームだったが、ユキさんは平気で寝ている。こんなだから、僕らはうまくやってきたのだと思う。神経質な僕には、神経質なパートナーなどもってのほかなのだ。
《好きなの?》急に寒気を覚えてTシャツをかぶったら、ユキさんの言葉がよみがえってきて、一気にウイスキーをのみほした。僕はベッド脇のスタンドのそばにグラスをおき、CDを停止し電源をひきぬいて、自分の部屋へプレーヤーを持って歩いていった。小説を書いてみようと思ったのだ。だが、書きかけたままいっこうに進まない原稿にむかったとたん、頭の中にぬるい霧みたいなものがなだれこんできた。あーあ。この机にむかうたびに、睡眠誘発剤でも注射されるようだ。僕はそれでもしばらく鉛筆を握って原稿とにらめっこしていたが、眠気は強くなってゆくばかりだった。このままじゃここで首を折り曲げて寝てしまうだけだと思い、僕はまた書くことをあきらめた。
 灯りを消してふとんに潜る。フミオはちゃんと眠っているだろうか。フミオの小さな頭。遊園地を徘徊する疲れきった二本の棒みたいな足。汚れのない白いスニーカー。僕は彼女を追いかけている。
彼女を追いかけながらどこまでも歩いてゆき、彼女に触れようとする。だが、けして触れることはできない。そのうち彼女がレジスタンスの格好をしていることに気づく。肩をへし折りそうな大きな銃をかかえたまま、ひどく悲しい目をして僕を見ていた。
「夢だな」
 僕は自分の声を最後にきいた。青緑色の闇の中で直前に見た置き時計の針は三時だったような気がしていた。


「あの人、いつも退屈そうね」
 フミオはメリーゴーランドを操作する係員を見て言った。係員は客のいないときたいていメールをうっていた。ボックスの後ろ側は半分あいているから風は通るのだろうが、前から見るとカプセルの中に押し込められているように窮屈そうだった。そしてその薄っぺらいカバーだけで、彼が僕らを無視するように僕らも彼を無視することができるのだった。こうして彼のことを話題にしていても、居心地悪くならないのは、あのカプセルのおかげなのだ。
「ああ」
「でも、ねばり強いよね。暇だと時間たつの遅いでしょ。僕だったら、だめだな、まあ、なにやったって長続きはしないけどね」
 こうしてまともに話せるときは少しずつ減ってゆくけれど、減ってゆくからこそ、なによりもかけがえのない時間だった。僕はできるかぎりゆっくりと話した。ひとことずつに空気をふくませるように。
「あたしの目の前でお姉ちゃんのお尻さわった痴漢にちょっと顔が似てる」
「え?」
 お姉さんがいるとはじめて知った。
「お姉ちゃんあたしと全然にてなくて、すごい美人なの。だからねらわれやすいわけ。でもあたしが「ああ、痴漢だ」って叫んだら、お姉ちゃんあたしを殴ったんだよ。恥ずかしいっ、みんなにばれるでしょって」
「それは、ひどい」
「べつにたいしたことじゃないわよ。いつものことだもん」
「いつもいじめられていたってこと?」
「そんなに覚えてないけど。まあ、そうだったかな。でも、お姉ちゃんの子供、すごくかわいいの」
 フミオはそういうと、その子供のことを思い出したように笑みを浮かべた。僕は胸をつかれて拳をにぎりしめた。僕にはその笑みが、仏像が浮かべるそれのようにみえたのだった。子供が母親を思うようにでも、母親が子供を思うようにでもなく、フミオは無私の愛情を自然にほとばしらせている。この子の心の中には、だれからも犯されないし、汚されない結晶のようなものがあるんじゃないか。

「ねえ、ここに傷あるでしょ」
 フミオが急に立ち上がって、僕のベンチの前にきた。そして僕に顔をすうっと近づけた。僕に気に入られようという気持ちがまったくないから、その近づけかたもなんとも潔い。洗濯物と、シャンプーのにおいがした。彼女は変わってしまってからも、ずっと清潔だった。左手は前髪を押さえつけ、右手の指は額の真ん中を指していた。髪の生え際だけほんのりと黒くなっていた。額には幼い、色のない産毛が密集していた。僕はこっそりと息をとめた。息づかいが荒くなるのを勘づかれたくなかった。フミオを前にするとそれだけでもう不潔なことに思える。
「わからないの?」
「ああ、ちょっと、三日月みたいな形だね」
「野良犬に噛まれたんだ」
「いくつのときに」
「小学三年生」
「こわかったでしょ」
「痛かったし、泣いて帰った」
「じゃあ、犬は苦手でしょ?」
「ううん。大好き」
 そう言って腰をのばして僕の前に大きく背をのばしたフミオはすがすがしい顔をしていた。
「でも、こわくないの?」
「動物には、そうするだけのちゃんとした理由があるんでしょ」
 人間はそうじゃない。そう言いたいのだろうか。僕は彼女が苦しんでいることを強く感じた。きれいな魂にだけ与えられる透明な苦しみ。そして苦しんでいる彼女が本当の彼女なのだと強く感じた。もう何度もきこうと思っていたこと、それが口からこぼれおちた。
「あのね、フミオ、じゃあ自分が今、ちょっとおかしいってことはわかる?」
 言いながら僕は自分自身が信じられないでいた。これほど残酷なことをなぜきけるのか。フミオはたちまち真っ赤になって、恨むような目で僕を見つめた。僕は後悔したが、彼女は怒りもはぐらかしもせず、小さく頷いた。
「そっか」
 わかっているのだ……。それっきりなにも言えなくなった。メリーゴーランドに客がきた。母親と子供の二人連れで、二人はおそろいの、オレンジ色のTシャツを着ていた。母親が係員にチケットを渡した。
 わかっているのなら、治したいと思っているはずだ……。
 係員がぼそぼそと早口でアナウンスすると、電子音とともにメリーゴーランドは回りはじめた。アニメの主題歌だったが、明るい旋律なのに、それをきいているうちに、胸の奥のほうがひんやりとしてきた。きっと、このままではいられない、そんな予感に胸が濡れるようだった。



 予感が現実となった。
 梅雨といっても雨はほとんどふらなくて、僕らは土日と遊園地が休みの水曜日以外は毎日会っていた。だが、ここ数日は違った。朝からずっと雨が続いて、夕方になると特に強くなって、雷までなって、僕はそれでもルナパークに行ったのだが、フミオは雨のせいかはわからないが姿を見せなかった。そして、梅雨があけた昨日、フミオは完全に常軌を逸して僕の前に登場したのだった。
 彼女はすでに、尋常でないパワーを体中から発散していた。その顔つきだけでも僕は彼女とはもうけして普通に会話することはできないのだと悟った。体はあいかわらず痩せていたが、ひとときもじっとしていられないようである。

今ではみんな私に気をつかっているの。上司もそう。次長にはぺこぺこするくせに自分の気に入らない部下には当たり散らすのよ。だから、みんなを守ってあげたのに、信じられる? あの子たち、私の悪口しか言わないの。それも一人だとこわいから、みんなでかくれて、ひそひそと言うわけ。あんまり腹がたったから、昨日はパソコンのデータめちゃくちゃにしてやったし、フロッピーも引き抜いて窓から捨ててやったの。自分のこと言ってるな、ってわかるときは、ゴミ箱を思いっきりけっ飛ばしてやるわ。みいんなしゅん、ってなって、いい気味よ。せいせいするわ。
「ねえ、フミオ」
 本当にそうしたとは思いたくなかった。だが、彼女の話をきいていると、彼女のしたことは全部本当でしかないことがわかってくるのである。ほかの人がしたことはどこまでが本当かはわからない。でも彼女の頭の中では、ほんの小さな悪意や悪口が、何十倍にもふくれあがってしまうようだ。
「なによ」
「そんな会社はもう辞めたほうがいいんじゃないかな」
「わかってるわよ。でも、まだ復讐が途中なのよ」
「別に復讐なんてしなくてもいいじゃない」
「ばかなこといわないで。私がなんのために地球にきたと思ってるのよ」
 とめどがなかった。母親が自分を殺そうとたくらんでいるとか、会社で働いていた人はみんな秘密結社の人たちで、私をおとしいれることだけを目的としているだとか、本当は金星で生まれた。卑怯で自分のことしか考えていないアメリカ人を征伐するために、神が派遣したのだ……そんな話がなんの脈略もなく次から次へと飛び出してくる。話しているあいだも、興奮してしかたないのか、怒鳴るような声にひっきりなしの身振り手振りが続く。僕がなんとかなだめるすべを考えている最中に、彼女は突然「時間がない」と言い残して去っていった。
 僕は一人でベンチに残って考えていた。とうとう、くるところまできたのだ。あれは、発狂というのではないだろうか。彼女をどうあつかったらいい……?

「あのお」
 そう言って近づいてきた小さな細い女の人を、僕は見たことがなかったが、すぐにフミオの母親だとわかってしまった。似ていたわけではない。目鼻立ちは見事に整っていて非の打ち所がないし、骨格も違う。たぶん、だれが見ても親子にはけして見えなかっただろう。だが、僕にはわかったのだ。やつれていたからか……僕に接近してくるその姿が、負い目を抱えた人のものだったからかもしれない。とにかく、僕は「あ」と小さく声をあげてしまった。
 早く歩くことができないのかもしれない。ゆっくりとその人は近づいてきた。僕は子供でも見るように僕の前にやっとたどりついた女の人を見下ろした。とにかく小さくて、痩せて、やつれていた。美しい顔だちから、若々しさとか、みずみずしさとか、そういうものがぜんぶ抜けきって、限りなく骸骨に近くなってしまったような感じがした。
「突然失礼いたします」
「いえ」
 目の前の女の人はかすかに微笑んだ。すると口の横に七本くらい縦皺が刻まれて、骸骨が笑ったように見えた。僕は不快感を与えないように、その深い皺からゆっくりと視線を移動させて、彼女の力のない瞳を見た。
「サカイ、と申します。あの子の母親です。気づかれないように、あの子の後をつけてまいりました」
 僕は頭を下げた。
「フミオのお友達でいらっしゃるのね」
 フミオ、という名前は本当だったのだ。
「娘がいつもお世話になっているようで」
「そんな、僕はなにも」
口ごもってうつむきながら、非常事態にものすごく世間一般的な挨拶をしているな、と思った。それはたぶん、この人の丁寧すぎるような言葉遣いのせいかもしれなかった。
「あの子、あなたにだけは心を開いているようです」
「……」
「私や父親には口もきいてくれなくなってしまって。薬をのんでくれなくなってしまってから、もう手がつけられないんです」
「……ずっと前ですが、薬のせいで体がつらそうでした」
「ええ。副作用がありますから。でも、のまなければならない薬なんです。少し調子がよくなってから副作用の少ないものに変えていただいたの。しばらくは落ち着いていて私たちも胸をなでおろしていたのですが、それが精神的にまた不安定になって、二週間くらい前からその薬ではきかなくなってきたようです。でも、のんでいればまだなんとかなったのよ。今はあの子……ごらんになったでしょ。私たちがあの子をおとしいれるためにのまそうとしていると思いこんでしまっていて、ゴミ箱に袋ごと捨ててしまうんです」
 そう言って彼女はうつむいた拍子に額にかかった前髪を手でよけた。その手の甲にはぼっこりと欠陥が浮き出ていた。痩せた体を隠すためなのか、長袖のシャツの口から少しでている手首の骨が玉のようにみえた。
「こんなことをお願いするなんて本当に申し訳ないのですが、あなたから薬をのむように言っていただけないかしら。私がいくらいってもだめなんです。本当はすぐにでも病院へつれてゆきたいのですけれどいやがってしまって……。部屋へ入ってきたら殺すぞなんておそろしいことをいいますし」
 僕はどう答えたらいいのか迷った。薬をのむように言うことくらいできるが、僕が言ったからといって、おとなしくのんでくれるだろうか。
「彼女にはたしかお姉さんがいるんですよね」
「ええ。でもヒナはもう結婚しておりますし、幼い子供もおりますからあの子はあの子で大変なんですの。ほとんどこっちには帰ってきませんし。電話をかけると、いいかげんにして、って怒られてしまうだけですわ」
 自分の生活を乱されたくないのだ。気持ちはわからなくもない。
「お父さんは、主人は、私が気にしすぎだっていうんです。のんきなのよ。娘があんな状態なのに、じたばたしてもしかたないとかいって」
 丁寧すぎるようだった言葉遣いがくずれた。腹立ちが隠しきれないようだった。おそらく母親がすべての負担を背負っているのだろう。それじゃあ身がもたない。一日のうちたった一時間程度いっしょに過ごしただけでもくたくたになるのに。
「お願いします。どうか、薬をのむように言ってやってください。これ……」
 彼女はバックから小さな紙袋を取り出して押しつけるように僕に手渡してきた。
「……」
 僕は自信がなかった。だが、追いつめられた母親の必死の願いを断ることもできない。紙袋を受け取った。
「じゃあ、一応、言ってみます。……きいてくれるかどうかはわからないけれど」
 母親は僕がそれをズボンのポケットにしまったのを見て、大きく息をついた。
「お願いします。……あの子にはいつも厳しく接してきました。小さなころからお姉ちゃんとちがって、あまりにも強情で、毎日のようにヒステリックに怒ってばかりいました。主人ともうまくいっておりませんでした。近所の子の中でも、飛び抜けて乱暴で、気に入らないことがあるとあばれるんです。噛みついたり、ひっかいたり。でも、頭はよかったんです。とくに算数や理科がよくできました。男の子みたいでしょう。お姉ちゃんはタイプが全然ちがうんです。お姉ちゃんは明るくて素直で、勉強はあまりできなかったけど、スポーツが得意で華がありました。先生からも気に入られていたわ。でも要領がよくてずるいことをするんです。かくれて意地悪なことをしたり。とくにフミオに対しては厳しかったわ。でも仲が悪いわけじゃない。あの二人はじゃれあっては、かみつきあう、そんなことをほとんど毎日繰り返していたわ……ああ、ごめんなさい、こんなことをあなたにおきかせしてもしかたないわね。私の育て方が間違っていただけでしょうから」
 彼女の落ちくぼんだ目が涙でくもった。僕はもっといろいろききたくて、先をうながした。言葉遣いがときおりくだけて本音があらわれるのが、僕をひきつけた。もっとくだければいいと思った。
「小さなころ、なにか、心に傷を負ったことがあるとか、そういうことは」
 母親は涙を浮かべたまま、しばらく唇を噛み締めるように遠くを見つめていたが、口をひらくと言った。
「保育園のときに、背中にひどい傷をつくって帰ってきたことがありました。どうしたの、ときいたら、先生にやられたって。あの子のことを目の敵にしていた保母がいたようです。私と主人は怒って問い合わせにいったわ。でも、そんなことした覚えはないの一点張り。他に近くに保育園はなかったし、送迎してくれるっていったって、幼稚園ではあずかってくれる時間が少なすぎるしで、そのままになってしまったけれど、すぐにやめさせればよかったんでしょうね」
「相談できる友達とかは一人もいないんですか」
「たぶんいないと思うわ。昔からあの子、友達が少なかったから。お姉ちゃんは誕生日になると、とにかくたくさんの友達がプレゼントをもって遊びにきていつもにぎやかだったのに、あの子は、誕生会なんて一度もやらなかったはずよ。年賀状だってほんの二三枚くるだけで、その返事さえ書かないの。せっかくきてるんだから早く出しなさいっていくら言い聞かせても書かないのよ。それに、中学になるといじめられていたようなの。二人の女の子からひどいことをされていたみたいです。私も心配になって先生に相談はしたんですが、やっぱり女の子って陰湿なところがありますでしょう。しばらくはつらい思いをしていたようですわ。でも、お金がなくなったり、制服が汚されたり、傷をつくって帰ってきたりと、そういうことはありませんでした」
 母親はそこで目をとじた。涙がぷつんときれるように落ちた。
「高校生のときは、落ち着いていたんじゃないかしら。優しい友達が一人いてね。さやかちゃんっていうんだけど。その子とはよく遊んでいたし。よくしらないけどボーイフレンドもいたはずよ。演劇部にはいっていて、それはちゃんと三年間続けたわ。あの子。私なんだかそのとき子育てがやっと終わったような気がしていたくらいよ。でも、大学にすすんでしばらくすると電話がかかってきたの。大学やめたいって。みんなからいじめられるから耐えられない。って。でも、日帰りできる場所ではないし、私も働いていたから、すぐにとんでいくこともできないし、必死で言い聞かせたわ。だれでも簡単に入学できるような学校ではなかったの。それに、教師になりたい、ってちゃんと目標だってあったのよ。私はせっかくがんばって勉強して入学できたんだから、もうちょっと我慢してみたら、って言ったわ。ひどい親よね。そしたら、あの子
「ねえ、お母さん、涙もでないほど悲しい気持ちってわかる?」
 って。今でも私わからないの。あの子のことでこんなに悩んでいる今でも毎日泣いてばかりだわ。涙がでないほど悲しい気持ちって、どんなのだったのかしら。わからないわ。自分の母親が死んだときだって、涙は出たわ。でも、あの子はけっきょくやめなかった。卒業したのよ。でも、考えてみたら、あのときから、卒業する時点で、すでにおかしかった。社会にでることを異様におそれていた。アメリカに留学したいだとか、大学院へいきたいだとか、そういうことをしきりとうったえていたんだけれど、私はこれ以上馬鹿なこと言わないで、って相手にしなかった。そんなお金は一銭もないと言ってね。とにかく娘には早く帰ってきてほしかったのよ。こっちに。教師になって、普通に働いてほしかった。望みはそれだけだった。でもそう望みながらも、なんとなく気づいていたのよ。私。なんだか変だわ、って。こっちへ帰ってきてからは、さらに顕著になったの。おどおどしていて、疲れ切っているようで、あれほど若いのに、社会に出て行く喜びとか、希望とか、夢とか、そういうものをまったく感じられなかったのよ。あの子の口ぶりからは。それでも、こっちへ帰ってきたあの子は私たちの望みどおり、いったんは教師になろうとしたの。もう家中で大喜びだったわ。でも、一週間の研修で、無理だとわかったって、やっぱり、あきらめてしまって、私たちはなんて弱くて、根性のない子なんだろうと、あきれたわ。私は激しく罵ったし、泣いてしまった。悪い癖なのよ。昔からヒステリックで。あの子を叱る声は近所中に毎日響きわたっていたし。小学生のころね、あの子に「文緒ちゃん、だめよ、少しはお母さんのいうこともきいてあげなきゃ」って隣のお母さんがいいきかすほどなの。でも、違うのね。本当に無理だったのよ。あの子は弱り切っていたのに、私はその上からむち打ってしまった……」
 母親はあとのほうになるとずっと涙を流したままだった。だが言葉遣いがくだけるほかは、とどこおりなく話し続けるものだから、その涙が、彼女の感情ときりはなされた水のようにみえるのだった。僕はなるべく彼女の気持ちを上向きにさせるよう、明るめのトーンでしゃべった。
「でも、別の仕事につきましたよね」
「ついたっていったって、何度もすぐに辞めてしまって。三度目に辞めたとき、自殺未遂をはかったの。あの子」
「え」
 足下をすくわれたような気がした。自殺、いつ、薬をのむ前か。
「きいてないのね。……まあ、あんまり余計なことは、しゃべらない子ですけど」
 そうか。それで病院へつれていかれて、薬を処方されたのだ。あのときは精神科の薬だなんて思いもしなかった。
「ビルの一番天辺までいったんだけど、死ねなかったって正直にうちあけたんです。もちろん、そのころは傍目にも自分に自信をなくして落ち込んでいることがわかりすぎるくらいで「死にたい」「死にたい」って一日中口にしてました。でも、まさか本当にそう思ってるなんて信じることができなかったの。だから、もう、あわてて病院へつれて行って、薬をだしてもらって、それからは、薬の副作用もあって体調はすぐれなかったけれど、精神的には一応安定していました」
 いろいろな不可解な彼女の行動のわけが、少しずつわかってくる。僕はフミオについてもっと知りたかった。言い出しにくいが、この際はっきりさせておいたほうがいいだろう。
「あのお、虐待っていうか、そういうのはなかったんですか」
 彼女は陥没し、しょぼくれた目を急に見開いた。瞼にさらに深いくぼみができる。
「まさか。私はヒステリーぎみだったけれど、子供に手をあげたことなんて一回もないわ。主人だって、そりゃ悪いことをすれば叱ったけど、ものすごく子煩悩な人なのよ」
 嘘だとは思えなかった。たぶん本当のような気がした。それに、そう信じたかった。
「あなた、今あの子がどんな様子だか、よくわかるでしょ」
 僕は頷いていいものかもわからない。
「職場でも噂になってしまっているようなのよ。このあいだもあの子の上司から電話がかかってきたわ。娘さんのせいで事務所はめちゃくちゃですって」
「……」
「なにをしたかは本人にきいてくださいって言うんだけど、あの子がこたえるわけはないし。でも、とにかく怒ってらしたから、とんでもないことをしたんでしょうよ」
 僕はフミオがさっき自慢げに話したことを話すつもりはなかった。一日でやめさせられてもしかたないことを彼女はしてきたのだ。そんなことをこの弱り切った人に話しても、どうしようもない。それよりも、この人はきちんと上司に病気のことを説明したのだろうか。
「病気だと説明されたんですか?」
 母親は弱々しく首を振った。少しほほえんだようにも見えた。
「そんなこと伝えたって、どうにもなりませんでしょ」
 僕は疑問を感じた。どうにもならないだろうか。説明しないよりは、ずっとフミオの言動を理解しやすくなると思うのに。だが、母親はそのことにもう触れたくないのか、僕から目をそらしたまま話し続けた。 
「夜まったく寝ていないのに、朝になると平気で仕事へ行くんです。だからここ三日ほどまったく寝ていないと思うの。夜中中ずっとなにかしている音がするの。寝ていないのに、体にエネルギーがみなぎっているらしくて、動作の激しさが普通じゃないのよ。とじこもった部屋からは大音量で音楽が聞こえてきて、私たちがもっと小さくしなさい、と注意なんかしようものなら、もうそれは口汚く罵って。……罵られることぐらい、なんでもないのよ。ただ、あの子がかわいそうで、もうみていられなくて、どうしたらいいのか、薬さえのんでくれたらと幾度もたのんだのに」
 僕はほとんど相槌をうつだけだったが、母親は僕にむかってというよりは、自分のまわりの空気にでもうったえるようにずっと話していた。そしてそのあいだ中必ずどこかに「私の育て方が悪かった」という言葉をはさみこんだ。
 それは違うと言ってほしいのかもしれない。だが、本当にそうなのかもしれないのだ。だから、僕は黙ってその言葉をやり過ごした。青い露草のにおいが、夕暮れた風にのってただよってきた。日は山の奥に吸い込まれ、夜の群青が空の上からおりてきた。山の付近だけが稜線を彩るようにまだ薄黄色い。その薄黄色さは、微妙に薄桃色とまじりあって絵の具や色鉛筆には想像もつかない色合いににじんでいた。僕はいつも夕焼けを見るたびに思う。虹なんて夕焼けに比べたらなんて子供じみた絵だろう。そしてこれほどの絶景の中にいながら、この女の人は、夕焼けがそこにあることにも気づかない。
 僕はもう一度、きいてみようと思った。なんなら、僕が上司に説明したっていい。
「僕から、上司に電話してみましょうか。フミオさんは病気なんですから、ちゃんと薬ももらっているんですから、話せばわかってくれるでしょう」
「いいですよ、そんなこと」
 他人のあなたに、と言葉がきこえてきそうだった。よけいなことはするな、と言いたいのかもしれない。僕は口をつぐんだ。たとえその考え方に納得いかなくても、この人を批判することはできなかった。この人はすでに僕なんかにははかりしれないくらい苦しんでいるのだから。
「私も死んでしまいたいわ。今すぐに死ねたら、どれくらい楽かしら」
 僕は《ああ、まただ》と半ばあきらめるようにその言葉をきいた。きいた瞬間は冷たいが、体にしみこむころには生ぬるくなっている。「死にたい」と自分の弱さを臆面もなく口にできる人とこれまでにも何度か出会っていた。昔はいやでたまらなかった。その告白をきいてしまったら最後、相手の人生に自分の人生がのっとられたような気がする。自分にひとつも責任がなくても、責任をおわされる気がする。だが、そう言って本当に死んでしまった人は一人もいなかった。そして、結婚して家族といっしょに笑っている写真が届いたり、子供が生まれた、などと人づてに聞いたりすると、なんだ……と拍子ぬけしたような、残念とはいいすぎだが、そんな騙されたみたいな気分になるのだった。
 僕は、ほとんど無意識に腕時計を見てから、それが自分の防衛策のようになってしまったことに気づいた。母親はすがりつくような顔をしていた。僕は自分から「帰ります」とはけして言えないことをしっていた。
「ごめんなさいね、長いあいだひきとめてしまって。でも、お薬お願いしますね。身内でも親戚でもないはじめて会った方にこんなことを頼むのも情けないんですけれど」
「いえ」
「ごめんなさいね、ご迷惑をかけてしまって」
 彼女は僕を気遣いつつも、やはり話しつづけた。僕はユキさんが帰ってくるまでに夕食をつくらなければならず、帰らなければならない時間はとうにすぎていたが、彼女の話を聞き続けていた。
 遊園地に「蛍の光」が流れはじめてようやく、彼女は気がおかしくなってしまった娘のいる家へ帰らなければならないということに気づいたように口を閉ざした。別れ際に僕に自宅の電話番号を教えてくれた。番号から市内であることはわかったが、どこに住んでいるのかは教えてくれなかった。
 
 これが昨日である。フミオは今僕の目の前にいる。
 僕は、薬をなんとかしてのまさなければならないのだ。
 すぐに薬のことは言い出せなくて、彼女の話を真剣にきいているふりをしていた。そこから、彼女へと続く道の入り口を見つけようとしていたのだ。だが、そんなことは不可能なのだ。かしこい頭でひらめいたことだけあって、理路整然としてはいるのだが、だれも理解できない論理をきいているうちに、僕は「超人」を絶叫したニーチェの孤独を思った。フミオはさっきから僕にむかって「天才」を絶叫している。
 僕はポケットの中のカプセルを汗だくになって握りしめながら、いったい、どうやって切り出したらいいんだろう、と胸が苦しくなった。
 そのとき、フミオの手がそろそろとのびてきた。僕は彼女の手の平が僕のおでこに触れる瞬間に無防備だった。その炎みたいに熱いのに乾ききった手の平は、ほんの少しのあいだ僕の額を覆って、消え入るように離れた。
「あんた、なんか疲れてるみたい」
 聞き違いかと思ったが、フミオの表情は、今までとはまったくちがって、柔和で悲しげな感じに変わっている。
「うちのお母さんもねえ、なんか元気ないのよ。すごく痩せてしまって、かわいそうなの。眠れないんだって」
 殺すしかないと言っていた母親のことを、大げさなくらい心配している。僕はそのけなげな様子にすがりついた。
「ねえ、フミオ、じつは僕ね、昨日君のお母さんに会ったんだよ、君の薬をあずかったんだ……」
 フミオの瞳がなにかを判断するようにくりくり動いていた。
「薬はのんだほうがいいと思うよ」
 僕は媚びをうるように低姿勢でそこまで慎重に話したが、だめだと思った。彼女の瞳は途中からみるみる攻撃的に戻っていったのだ。
「薬なんてのまないわよ。ばかね、あんた、そんなもの私がうけとるとでも思ったの」
 まるで万華鏡みたいだ。こんなふうに、人の顔つきや言葉づかいが一時ごとにくるくる変化したら、だれだってどういう態度をとったらいいのかわからなくなる。母親のいうとおり睡眠をとっていないのか、彼女の目の下のクマがおそろしく濃い。
「明日の朝、バスジャックするの」
 今なんて言った? ……バスジャックって言わなかったか?
「はあ?」
「ほら見て。このナイフ買ったの」
 フミオは赤地にクロス模様の描かれたアーミーナイフをジーンズから取り出すと、切っ先を僕にむけてつきだした。
「ちょっと、そんなもの、危ないからしまって」
「あんたもあたしといっしょに戦おう。世界を変えるんだ」
「ばかなこと言うなよ」
 フミオの目は何者かに支配されているように三角形に見える。完全に病気なのだ。だが、もし本当に事件を起こしたら、彼女のせいにされる。世間のほとんどの人は病気のことを理解できない。
「そのナイフ貸して」
「なんで」
「いいから」
 フミオの腕をつかんでとりおさえる。バスジャックなど信じてはいない。信じたくない。だが、可能性がゼロではないのだ。僕は乗客や運転手ではなく、フミオを救いたかった。
「いやよ。あんた、あんたまで、あたしを陥れようとしているんでしょ」
 僕の腕につかまれたフミオの折れそうな両腕は燃えるようで、なおかつあるだけの力をふりしぼって僕に抵抗していた。
「違うよ。心配してるだけだろ」
 どうにか彼女からナイフをむしりとることができた。彼女はくやしそうに歯をかみしめて僕をにらみつけて肩で息をしていた。
 フミオは僕につっかかってきてわけのわからない金切り声を出した。係員が首を飛び出しそうなほど、こちらに傾けている。僕はフミオを隠すように彼女と係員の間に回り込む。
「静かに。落ち着いて」
 フミオは腕力ではかなわないと悟ったのか、僕から飛び退くと、大声で笑いはじめた。目は怒ったままだ。その笑いには侮蔑がふくまれていた。僕が人目を気にして冷や冷やしたことをバカにしているのだ。足下から地面が割れて、僕をのみこんでゆく。僕がなにを言っても通じない。どうにかしてあげたくても、大丈夫だと抱きしめてあげたくても、どうしようもない。フミオにとって僕はつまらないこちら側の人間なのだ。フミオのいるどこかわからない世界から、高笑が響き渡る。今、彼女のそばにはだれもいない。フミオは僕の目を射抜いて言った。
「小市民!」
 僕は必死で彼女の手をつかまえた。僕なら、大丈夫だ。はじめて握った彼女の手は、小さいが骨張っていて意志の固まりのようだった。彼女の顔が歪んだと思ったら、僕の手を猛烈にふりきって全力で走り出した。係員の方向だった。僕は追いかけた。係員は女のような甲高い悲鳴をあげて、カプセルの中でしゃがみこんだ。フミオは係員の手前で直角にユーターンするとそのまま全力でもときた道を駆けていった。走り方がめちゃくちゃだった。人間じゃない。人間はあんなふうには走れない。だけど、まぎれもなく人間なのだ。僕はどうがんばっても追いつけないことに気づいてあきらめた。
 フミオが通ったあと、人々はなぎたおされたように大げさにのけぞっていた。かすかに口のはしで笑っている人、目を見開いて呆然としている人、泣いている赤ん坊を抱きしめる人、指をさしている人。
 フミオはもう見えない。僕はのばしたままだった手をようやくひっこめた。振り向くと、係員と目があった。口だけが少し笑っているようだった。僕はそれを無視し、とりあげたナイフをポケットにしまうと、歩き始めた。
「小市民!」という言葉が耳元で繰り返される。ルナパークのそこらじゅうにフミオの撒き散らしたパワーがまだ残っている気がした。
 階段をおりはじめると、黄色めいた透明な帳が街全体に落ちてきていた。僕はフミオの叫び声がきこえたような気がして途中で立ち止まったが、街の音はなにひとつここまではきこえてこず、帳の中で夜をむかえようとしているだけだった。



 僕は何度もフミオの家に電話したが、だれもでなかった。留守電にさえなっていないのだった。アパートへ帰ってきてからほとんど十分おきに電話をしていた。もう八時をすぎているのに、どうしてだれもいないのだろう。
 病院かもしれない。あの調子で走っていたら、必ず人目につく。だが、もしも、だれもが指を指すだけで、ほったらかしにしておいたら……?
 フミオは明日の朝、バスジャックをすると宣言した。だが、錯乱しているから、今日も明日もごっちゃになってしまっている可能性のほうが高い。さっきからテレビをつけているが、それらしいニュースは流れない。
 かちゃっと音がして僕の背すじは縮み上がった。「ただいまァ」という声が響いてきた。困ったな。なにもつくってない。腹をこわしたことにしよう。僕はうずくまって顔をゆがめ、腹を片手で押さえた。腹痛が嘘であっても、そういう心境であることにかわりはない。
「ジュンただいま、あれっ、どうしたの」
「ううん、昼くらいからおなかの調子が悪くなって」
「ええっ、大丈夫?」
「ずっと寝てたんだけど、そろそろご飯の用意しようと思ってここに立ったら、痛くてたまらなくなって」
「いいよお、ご飯なんか。薬は?」
 一瞬迷ったが、飲んだと言った。
「そう……病院行く?」
 病院ときいたとたん、もしかしてフミオがいるかもと思ったが、どこの病院だかわからないし、電話がかかってくる可能性もある。
「がまんできるから、もうちょっと様子みるよ」
「じゃあ、寝てなさいよ。ほら」
 ユキさんは僕を抱き起こし、よろめく演技をする僕をひきずるようにして、僕の部屋の簡易ベッドへつれてきた。
「なにか食べた方がいいのかしら」
 ユキさんがつぶやくようにそう言った。
「いいです、なにも食べたくないんです」
 本当に食欲がなかった。
「そう。じゃまた様子みにくるから、寝てなさいね、痛くなったらすぐに呼ぶのよ」
 ユキさんは心配そうに部屋をでていったが、彼女が起きているあいだは下手に動けないし電話もできない。携帯はマナーモードにしてあったが、だれからもかかってきていない。僕はいろいろなことで脳みそをくたくたにしながら、ユキさんが寝てしまうのを待つことにした。



 ユキさんはそれから何度も僕の様子をうかがいにきたが、一時をすぎるとまったく気配が消えた。僕は泥棒みたいに部屋から出てゆき、リビングのテレビをあらかじめ消音にしておいてからつけた。しばらくチャンネルを変え続けたが、なにもなかった。
《涙もでないほど悲しい気持ちって、わかる?》
 母親はわからない。と言った。僕にもわからない。フミオは今どうしているのだろう。しばらくニュースを確認していたが、二時をすぎてもなにもないようだったので、自分の部屋へ戻って抜け殻みたいに穴のあいた布団に潜り込んだ。だが、なかなか眠れない。僕はフミオと格闘したうえ、とりあげたナイフの照りを思い出した。立派な凶器だった。僕はとりあえず隠した場所、机の一番下の引き出しに目をやってそれが見えるような気がして目をそむけた。早いとこ捨てなきゃな……
けっきょくまた布団から出た僕は四時すぎまでテレビの前のソファにいたが、そのうちうとうとしかけたので部屋へもどった。ソファで寝てしまってユキさんにばれると大変だ。僕はまたベッドへ戻り、眠れないままそこにいた。
 だが僕はいつのまにか眠っていたようだ。激しく目覚まし時計がなった。ユキさんが入ってきて目覚まし時計を切った。
「ジュン、どう?」
「……うん。もう、なおったみたい」
「そう、よかった。おかゆつくったけど、食べる?」
 僕は立ち上がった瞬間猛烈に空腹をおぼえ、おかゆ、という響きに乾いて不快なにおいのする口に唾液があふれてきた。パジャマの裾をひきずって台所へいくと、ユキさんがレトルトパウチにはいった液状のおかゆを、白い皿にだらだらと流しいれているところだった。つくったんじゃないよなあ、と思いつつもありがたくて、そのちょっと、温め方のたりないおかゆをがつがつ食べた。空腹は腹に物をいれたとたん、最高潮に達した。全部食べてもまだ腹が減っていて、だがそれを口にするのは恥ずかしいというかあつかましいような気がしたので、ユキさんを先に送り出すことにした。テレビは民放の朝の番組を流していたが、平和そうな三人の男女がならんで座っている光景はいつもといっしょで、バスジャック、あるいは精神病患者の凶行、などという事件の雰囲気はかけらもなかった。
 なにもなかったのだ。気がぬけてゆく。
「片づけできる?」
 とユキさんの声。まるで新妻みたいだ、と僕は驚く。ああ、そういえば、僕が病気になったことなどこれまで一度もなかったのだ。
「もう心配しなくていいですよ。ユキさんは、会社に行ってください」
「じゃ、もし、加減が悪くなったら電話してちょうだい」
 新妻風のユキさんは出ていった。八時前だった。僕は早速、ユキさんにではなく、フミオの家に電話をかけてみる。一回、二回、三回、四回、なぜ、でない? 五回、六回、七回、八回、だれもでなかった。
 

 その日の夕方になってやっと彼女の母親と連絡がとれた。フミオは僕と別れてから、まったくはいったこともない事務所へ飛び込んでゆき、「助けて」と何度も叫んだそうである。その様子があまりにも切迫していたため、事務員があわてて警察官を呼んだそうだ。彼女は拘束され、強制入院させられた。今は精神病棟にある鉄格子つきの部屋の中に鎮静剤をうたれて隔離されている。病名は統合失調症。数年前までは精神分裂病とよばれていたらしい。
「まだ眠っているのですか?」
「ええ。昨日から昏睡状態です」
「その……鉄格子の中で?」
「ええ、そうです。ずっと眠っておりませんでしたから」
「それじゃあ、昨日はみなさん病院に泊まられたんですね」
「別に私たちは泊まる必要はなかったんです。そこにいても娘の姿を見ることすらできませんし。恥ずかしいんですけど、私もショックで倒れてしまって、昨夜は点滴をうったまま病院に泊まりました。主人も娘のことが心配で、けっきょく三人とも病院でした」
 これではだれも電話にでないはずだ。
「あの、お見舞いにいってもいいですか」
「今目覚めても、面会謝絶だそうです。私たち親もです。また医者の許可がでたら、電話いたします」
 母親はひそひそとささやくように話していた。その声から涙がでていないことが僕にはわかった。彼女の感情もその声と同じように乾ききってしまっているような気がした。



 それからたびたび電話したのだが、フミオに会わせてもらえる日はやってこなかった。二週間もすると医者の許可はおりたのだ。だがフミオの許可がおりない。母親は電話口でいつも申し訳なさそうに、フミオがねえ、とくりかえすばかりだった。僕は待ちきれずに病院のそばまでいってみたりしたが、強引にフミオに会うことがいいことだとは思えなかったから、いつも眺めるだけでひきかえしてきた。
 入院は二ヶ月にわたり、彼女は八月の終わりにようやく退院した。母親の話では、今は落ち着いているし普通に会話はできるが、やはり薬の副作用で体はつらいらしい。母親は医者から娘さんのことばかり考えているとよけいに気がめいるからといわれてまたパートにでていると言った。日中はフミオが一人で家にいる。僕は電話をかける。だが、だれもでない。居留守をつかっているのかもしれない。四回呼び出し音がなったあとで、必ず留守番電話に切り替わる。夕方になって帰ってきた母親とフミオの話を(いつもほとんど同じなので、一分くらい)する。そればかり繰り返していた。
 そのうち、母親も僕のことを迷惑がっているのかもしれないと思うようになってきた。電話の応対でそれとなく感じるのだった。そう口にしたわけではないし、物腰はあいかわらず丁寧だったが、いつまで続けていても無駄ですよ、あなたのことをあの子は必要としていないんですよ、とやわらかに否定されている気がした。僕が無職であることと関係しているかもしれない。まさか女に養ってもらっているなどとフミオが話したとは思えないが、なにかそういうダメな雰囲気が僕からにじみでていたとしてもおかしくない。

 九月十八日は誕生日だった。二九歳になった。
午前十一時の日差しがとろむように台所にさしていた。日差しをうけて輝く部分の、その形は昨日までと同じなのに、確実に、夏の日差しではなくなっていた。僕は窓の部分だけ色の変わった床をぼうっと見てしまう。ユキさんの声が頭の中でからまわりしている。「今日はなるべく早く帰れるようにするから、いっしょに晩ご飯食べにいこう」そういってでていったものの、無理してほしくなかった。ユキさんの仕事が最近大変なことは承知している。帰りが一時を回ることもあった。夕食いらない、と短いメールがとどくたびに、僕は悲しくなった。役にたてなくても、だれかのお荷物にだけはなりたくないものだ。
さっきのんだインスタントコーヒーの香りがまだ残っている。足の先をもう一方の足の上になすりつけた。裸足ではちょっと床が冷たくなってきたのだ。ソファに座ってその上で膝をかかえて足をまるくした。電話、どうしようか。もうかけるのをやめようか、と捨て鉢な気持ちになって、すぐ顔をあげた。誕生日だから、一つくらいいいことがあってもいいじゃないか、と思ったのだ。それに、フミオの声、忘れてしまいそうだ。ナンバーを押した。完璧に覚えてしまっている。幼いころならった百人一首みたいに、意味もわからないまま、空でいえる。本当に大事なものは記憶から薄れてゆくのに……
あれ、と思う。五回呼び出し音がなっても留守電にかわらない。呼び出し音はそのまま鳴り続けている。いるのだろうか。いないのだろうか。耳に受話器をおしつけすぎて、耳の奥からキーンという信号みたいな耳鳴りがした。僕は急にこわくなって受話器を耳からはなしかけた。そのとき受話器のむこうに世界があらわれたのがわかった。後悔と動揺がいっしょに僕をおそった。だが耳に受話器をもどす。受話器から静けさが届いてきた。気の遠くなるような沈黙。だが、無ではない。静けさの中からたちあらわれる獣みたいな気配。僕はとうとうフミオの息づかいをとらえた。
「もしもし」
 返事はない。だが息づかいが急に荒くなった。
「平野です。フミオ?」
 黙っている。フミオ以外にはありえない。
「フミオだよね。お願いだから切らないで。ねえ、きいて、僕はいつもルナパークにいる。メリーゴーランドの前のベンチだよ、僕はいつでもあそこにいるから」
 こんなことを考えていたわけではなかった。ただ夢中だった。なにかが僕の胸のうちから駆けてきて飛び出したのだった。だが、僕が次ぎに言葉を吐き出す前に、電話はきれられた。
「あ……」
 手が汗ばんでいた。耳元で繰り返されるやたらと大きな電子音。いやな音。もう一度かけてみようか。だめだ。やめよう。ルナパークへ行こう。今から。今すぐに。  



 そういうわけで、僕は毎日朝からルナパークに行った。朝からルナパークが閉まる時間までずっとメリーゴーランド前のベンチにいて、ヘッドフォンを耳につっこんで、目だけは常にみひらいてフミオがあらわれるのを待っていた。雨の日はレインコートと傘をつかってそこにいつづけた。だが彼女はあらわれなかった。
 一週間がすぎて、さらにまた一週間がすぎた。十月にはいると、たちまち厚着しなくてはならなくなった。僕は足下に風で流れてくる枯葉をつまんだりした。僕の指先と同じくらいそれは乾いていた。メリーゴーランドはごくたまに人をのせてまわっていた。係員は僕を朝から晩まできちんと無視してくれていた。僕は僕のためだけに流れ続ける音楽のおかげで居心地悪い思いをすることはなかった。ただ、だんだん自分が、このつぶれかけた遊園地の景色の一部となってゆくように思えた。



 日がたつにつれて、フミオを待たなくなっていった。期待というものがなくなっていったのだ。そのかわり、さまざまな妄想が過激に育っていった。そこには性的なものまでふくまれていた。最初は遠慮がちに、そのうちにそんなものばかりになっていった。僕の瞳は寒さが厳しくなるにつれて、うるんで、濁って、うっとりと汚れていった。膝下まであるコート、マフラーに手袋、それでもじっとしていると寒いのでカイロを背中にはりつけていた。
 クリスマスイブになってはじめて、かぎりなく少なくなる一方だった客が戻ってきた。平日だったが、手をつないだり腕をくんだりして歩く、着飾ったカップルとすれちがった。僕は定位置につくまでそれは恥ずかしかった。僕の格好はまるで山登りにでもいくような具合だったのだ。ベンチに駆け込むように座るとヘッドフォンをおしこんで、スイッチをおしたのに、音楽がはじまらない。電池がきれたらしい。今から家に帰るほどのことでもない、と僕は動揺をおしかくして、そのままきいているフリをしていた。音楽がなくても妄想はたくましかった。頭の中でフミオはいつもと同じように、裸にされて足をひらいたり閉じたりしはじめた。彼女の足の指を僕は一本ずつしゃぶっていた。僕の舌はどんどん上のほうへ這ってゆき、細い、折れそうな、だがまっすぐで強い足のあいだに顔を埋める。フミオの空想の体に白い埃が舞っているように見えて、僕はそれがあまりにも多くなってきてからやっと雪だと気づいた。傘をのけて、雪のおちてくる灰色の空をみあげた。耳から音のでていないヘッドフォンが落ちて、一気に現実の音が耳をおそった。まるで皮がむけたようだ、と思ったらききなれた音楽がきこえてきた。
……きっと君はこない、一人きりのクリスマスイブ
 僕はびっくりした。まるで僕のためにしつらえられたような歌詞。だが、そのうしろにある、甘い胸さわぎをもよおすメロディとのへだたり。僕は立ち上がった。
 一人ではない。僕は今日、ここから帰ったらユキさんとクリスマスディナーを食べにゆくのだ。帰ってきたらケーキを食べる。ユキさんの働いたお金で買った上等なケーキだ。いいだろう。係員にむかって大声で叫びたい気分だった。だが係員は僕を見てはいなかった。ずっと携帯にむかっていた。それを完全にうばわれたら、どうするのだろう。僕は歩き始めた。限界だ。これまでだ。

 ルナパークの出口が見えてきた。フミオはもちろん姿をみせなかった。
「さよなら、フミオ」
 胸の中でつぶやくと胸の中になんとかともっていた火が消えてしまったような気がして寒さが体中にまわった。雪ですべりそうな階段を年寄りのように膝を折り曲げておりてゆく。こんなところにじっとしていられたのも、その火がついていたせいかもしれない。まあ、いいさ。あきらめよう。連絡がないってことは、きっと元気でやってるんだ。それだけでいいじゃないか。
階段を全部おりてしまうと、少しだけふっきれたような気がした。だが違う問題に心が移動しただけだった。実をいうと僕はここのところ今の生活をかえなければならない時期が確実にきていると毎晩のように思い知らされていたのだった。少なくとも、ケーキを食べるころには、僕はもっと追いつめられているはずだ。


 ★
 僕は勃起不全状態に陥っていた。たぶん、フミオとの性的な妄想に身をゆだねるようになってから。
 そういうことになる前は、ユキさんの肌は夜どれだけくすんでいるように見えても、朝になると輝かしさを取り戻していたはずだった。それが最近ではニキビというか、吹き出物が、顎や口の周り、額などにぽつぽつとあらわれ、皮膚は張りをなくしてくすみきっているようにみえた。
 年があけて十五日もすると、テレビもしだいに落ち着きを取り戻しつつあった。出勤前の慌ただしさの中、火の通りすぎたスクランブルエッグを文句もいわず口にいれながら、ユキさんは言った。吹き出物はファンデーションとコンシーラーで念入りに隠してあるが、どうしてもそこの部分だけ皮膚がかさついて見えてしまう。
「たぶん今日宅急便届くはずなの。代引きで。時間指定できなかったから何時ころ届くかわかんないけど、ジュンいたらお金はらっといてね」
 そう言って彼女は厚手のトレンチ型コートを羽織ってから、僕の手の中に押し込むように、一万円渡してきた。くしゃくしゃっと四隅の尖ったお札の感触が神経にさわった。ユキさんはコートのベルトをきつく結ぶと襟をたて、玄関のドアをあけて、「さむ」と一言言って出て行った。コートの裾が紙を丸めたようにひるがえっていた。
 僕は年があけてから、ルナパークのかわりに、図書館通いを日課にするようになった。そこで本ではなくて、漫画をよみあさった。どちらかというと女の子用の漫画が多かったが、それでもなかなかの蔵書だった。図書館と夕食や日用品の買い物以外はほとんど家にいた。だれとも交遊せず、電話もかけなかった。ただ親からだけちょくちょく電話はあった。僕はうまくやっている、と嘘をついていた。嘘をつくことは別に苦痛ではなかった。だが母の声が年老いてきこえるのは苦痛だった。僕はひとりっこであることを今になっておそれはじめていた。
 小説はまったく書いていなかった。パソコンも開かなかったからカバーが埃で白くなっていた。完全にあきらめたわけではない。心の隅では、なにかどす黒い生き物がしきりにうごめいていたのだ。だが、漫画はどれもこれもよくできていて、かってに指が次のページをまさぐるのだった。僕はなにもしていない時間がくるのがなによりもおそろしくて、吐きそうになったり目にイボができたりしても漫画を読み続けた。
 
 ユキさんはけっきょく夕食後に届いた荷物を、ベッドの上で開けた。遠目に見ても過剰ぎみの包装と、うしろめたそうなユキさんの顔つきで、僕は中身が何であるかなんとなく察しがついた。
「ジュン、これのんでみて」
「なんですかそれ」不愉快だったがあえてきいた。
「元気になるそうよ」
「なんで、いやですよ。やばいのは」
「ばかねえ、単なる媚薬よ」
 ユキさんはそうこういいながらコップに水をくんできて、僕に緑のカプセルを押しつける。僕は説明書を一通り読んで、日本の製品であることを確認してから、水で流し込んだ。
「どう?」
「そんな、すぐにはわかんないでしょう」
「十分くらい待ってみようか」
 ユキさんは五分も待てなかったようで、口で僕のペニスをくわえ、頭を上下させた。僕のペニスは大きくなった。一応反応はするのである。
 ユキさんは箱の中からまたなにか取り出した。僕は気になって思わず頭をもちあげてしまう。「プロ御用達」という文字がみえた。ユキさんが音をたてて包装をとくと、小さなスプレー缶みたいなものがでてきた。彼女はよく振ってから、僕のペニスにスプレーした。きゃ、と悲鳴がでそうなほどひやりとした。メロンの香りがのぼってきた。いいにおいというよりは、トイレの芳香剤みたいだ。
 ユキさんは待ちきれなくなったように、僕の上に乗ってきた。
「なんかヒリヒリしない?」
 そういえば、なんとなくいつもと感触が違っている。
「あっつい。アソコがあついよ。ジュン」
 そういいながらユキさんは腰をぴったり押しつけて、自分で自由に動かす。スプレーや媚薬のせいなのかはよくわからないが、気持ちの高ぶりはまったくないままに勃起は続いていた。
《今日は大丈夫かな》
 できるなら、ユキさんの涙ぐましい努力にこたえたかった。だが、僕は燃えるような下半身のうずきとは逆に、ますます冷めてゆく自分に気づいていた。これ以上冷めようがないくらい。灯りをつけたままなのでユキさんがはっきりと見えた。額のあいだに皺をよせて、しばらくはいつもと同じようにあえいでいたが、ペニスがくずれてゆくのと歩調をあわせるように、失速していった。僕の上にのったまま、彼女はとうとう完全に動かなくなった。はかりしれない気まずさ。目をあわせることもできない。
「すみません」
 僕があやまったのは、萎えてしまったからではなく、ひっそりとユキさんを軽蔑してしまったからだった。
「また違う種類の試してみればいいじゃない」
 ユキさんは努めて明るくふるまっていた。僕はどうしようもなくいらだった。自分に対しても、ここにいることに対しても。おしまいだ。全部破壊するべき時がきたのだ。
「もうやめにしましょう」
「ええ? いいわよ」
 ユキさんは、なんのことだかまったくわかっていないようだ。いや、心なしか口元がひきつっている、わからないふりをしているのかもしれない。体をのけながら腕をのばしてティッシュをとりだした。
「僕、でてゆきます」
「はあ?」
 顔色が変わる。
「なによ、急に」
「急じゃないんです」
 ユキさんを直視することはできなかった。すぐそこにある欲求不満のからだ。
「わかった。女ね」
「違います」
「ずっと前言ってた頭のいい女の子でしょう」
 僕はいったいいつ、フミオのことをユキさんに頭のいい子、と説明したのか思い出せない。
「違うんです。ユキさんにはとてもお世話になったけど、僕は……」
 あなたのことが好きになれなかった。などといえるだろうか。
 ユキさんはショックを隠しきれない様子で黙っていた。僕は迷ったが、そのままベッドに横たわった。ここで寝るつもりはなかったが、ユキさんがなにか言うのを待つのが義務だと思った。ユキさんは乳輪のとても大きなその乳房を僕にさらけだしたまま喉をふるわせた。でた声は少し笑っているようにもきこえた。
「重いってこと? べつになにものぞんじゃいないのに」
「いや、そうじゃない、ただ無理なんだ、これ以上」
「もういい。なにもききたくないわ」
 声が高ぶってふるえていた。拳が僕の胸のあたりまであがっている。殴られる、僕は覚悟して肩をすくめた。だが殴られなかった。顔をみあげることもできないままユキさんのさみしい声が落ちてきた。自立した大人のやさしさとプライドがないまぜになっていた。
「悪いけど、一人で寝たいのよ。オナニーしたいの。ずっと抜いてないからたまりにたまってしまったのよ。早くここからでてって」
 僕はユキさんにはじめてといってもいい愛しさを感じたが、頭を下げたまま黙って部屋を出て行き、自分の部屋のベッドに寝ころんだ。媚薬が今頃になって効いてきたのだろうか。激しい性欲にとまどった。無視しようとしたが、あまりにひどいのでもてあましてしまう。
 さわってみるとカチカチだった。透明な汁が物欲しそうに滲みだしている。さっきはあんなにしんなりしていたくせに。
「薬、効いてきたよ」などと言って、あの部屋へもう一度戻れば、僕の生活は形だけでも元に戻るのかもしれない。だが、僕はそれをしなかった。かわりに僕はティッシュの箱をとってきて、一人ではじめた。あんなことをいったとしてもユキさんが僕と同じことをしているかどうかはわからなかった。僕はフミオではなくユキさんを、あの最後の力強いユキさんを弔うように思い浮かべて指をしならせた。
 


 年があけてすぐ、懲りずにルームシェアしてくれる相手を探した。養ってくれる人は見つからず、ただ家賃を浮かせるためだけにある女性と一緒に住んだのだが、彼女は共同生活に徹底的にむいていなかった。彼女はいつも違う男をつれてきては、いざこざをおこした。彼女は僕にまであからさまにモーションをかけてきた。僕がことわると、さらに男をつれてくる頻度が高くなって、僕はすぐに違うアパートを捜しはじめた。ユキさんの名前を思い出すと、後悔のようなものでいっぱいになり、フミオの名前を思い出すと、心配と蜜のような痛みが僕の心をいっぱいにしてしまうが、モモコ、彼女の名前を思い出すと僕は今でも吹き出しそうになってしまう。漫画みたいな女の子だった。
 僕はユキさんの写真など一枚ももっていなかったので、別れて何週間もするとユキさんの顔をはっきりと思い出すことすらできなくなったが、ときどき彼女の息づかいや、彼女の喘ぎ声や、彼女の半端ではない反応がよみがえってきて、考えてみれば一年近くいっしょに暮らしたのだと改めて驚くのだった。彼女はセックスの折、自分を完全に理性から解放することができる人だった。快楽に対してどこまでも正直で底なしで、いさましく、潔かった。だが、軽い幻覚と大量の体液以外に、なにもうみだしはしなかった。快楽はストレス解消と睡眠薬を兼ね備えたひとときの憩いでしかなかった。

 フミオが消えて、ユキさんとの同棲は解消し、新たなルームシェアはうまくいかず、結局一人で暮らすことにした。いざというときのための貯金はすぐに底をついた。僕はようやく働きはじめた。平日は昼と夜両方働き、土日もほとんどバイトにあけくれていた。小説など書く暇と体力がなくなった。ただ単に情熱が足りないだけだとわかっていたのだが、体をこきつかうことで逃げていた。そこには体中にべったりとへばりついてくる濡れ雑巾のような疲労と、かすかな労働の喜びがあった。ほんとうにカスのような喜びだけれど。なんの願いもかなわないまま、僕は中高年フリーターへの道をひた進んでいった。


 三月も終わりかけていた。昼過ぎ、僕は普通電車に揺られてうとうとしていた。次のバイトまで少し時間があったので眠りたかったのだ。うららかな日射しが窓からいっぱいに差し込んで、窓にぴったりとつけた頭や頬にあたって気持ちよかった。まだ風は冷たいが、電車の中はトレーナーでも少し暑いくらいだった。
 電車の振動に身をゆだねて意識と意識半ばの合間にいると、並んだ桜の幹が見えた気がして僕はハッと目を開けた。桜の幹は夢で、さっきまではだれも立っていなかった僕のジーンズの膝のすぐ近くに、細い足があった。
 女の子の足だ……僕はその足が近づきすぎていることに、薬の分量を間違えてのんでしまったときのような胸さわぎをおぼえながら顔を上げた。
 フミオが、ストライプの長袖シャツにベージュ色の毛糸のベストをあわせ、ブラックジーンズをはいて立っていた。笑うような、だが、そう簡単には笑ってやるか、といったような微妙な顔つきで僕を見下ろしている。本当にフミオだった。あまりにも突然だったので僕はなにも言えなかった。
 フミオの髪はだいぶのびていて、髪の生え際が少し黒くなっていたが、やっぱり明るい色あいに染めてあった。
「やっぱり、あなただったんだ」
僕は乾いた口から声をふりしぼった。
「……どうしてここにいるの」
「あっちにいたんだけど、なんか似てるなあ、って思って調べにきたの」
 こんなところでなにをしているのだろう。
「どこへいくの」
「デパート」
「そう。……それで、君、今はどうしてるの?」
「あたし? 来月結婚するの」
「ええっ?」
 僕の声が大きくなり、少ない乗客の何人かが視線をさしむけた。
「ほら、婚約指輪」
 彼女の肉のないごつごつとした左薬指にはダイアモンドがまぶしく輝いていた。直視することができないくらいの輝き方だった。
「うわ、光ってる」
 信じられない。これが偽物だという意味ではなく、彼女が結婚するという事態が。
「綺麗でしょ。彼島根の人よ」
「……それはまた遠いところの人と」
 とはいったものの、僕はしまね、がどこにあるか把握できていなかった。ただ、ここよりもずっと南だとわかるだけで。
「毎晩電話してるわ。八つ年上ですっごく優しい人。インターネットで知り合ったのよ」
 僕は彼女が騙されているのではないかと直感で思った。だが、そんなことを口にできるわけがない。彼女は騙されているよ、といわれて、そうかしら、といったん信じた人を疑ってみる女ではないのだ。今彼女は幸せそうだった。また恋をしているのだ。だから結婚するのだろう。だが、あまりにも急じゃないか。こうしてやっと会えたのに。ほとんど、めぐりあえた、に近いのに。
「……じゃあ、島根に行くんだ」
「うん、来月ね」
 僕はなんといったらいいのかわからなかった。バスジャックのことや、入院したことを思い出したが黙っていた。
「ああ、そうだ。あなたのご主人様は元気?」
 僕は苦笑いして言った。
「もういないよ」
「え、捨てられちゃったの?」
 そうじゃない。なにもかもいやになったんだ。なにもかも、どうでもよくなったんだ。
「フミオ」
 僕はいたたまれなくなって立ち上がった。乗客は見ないふりをしながら、こそこそと見ていた。フミオが挑むように「なによ」と言ったとたん、電車が止まり、ドアがひらいて冷たい風が吹き込んできた。
 僕は「降りよう」と言った。彼女の体にはいっさい触れずに。
 フミオはなぜそうしたかはわからないが、僕について降りた。電車が音をたてて行ってしまってから僕はフミオに向き合った。
「もう二度と会えないかと思ってたよ」
 ちゃんとみるとフミオは前よりいくぶん太ったように見える。血色もいいような。それに短いまつげにマスカラまでつけている。それはしないほうがいいのに、と思ったが、本人はやったほうがいいと思っているのだろう。結婚相手はマスカラを好むのかもしれない。
「ルナパークで毎日待っていたけど、こなかったから」
「そうなの」
 びっくりしたような顔をしてフミオは僕を見た。そうなのって……でも、もういいや。
「でも、元気そうでよかったよ」
 僕はいろいろなことを頭に思い浮かべた。僕の頭の中であれほど汚してしまったフミオの体は、目の前に、少しも汚れずにあった。ほら、清潔すぎて、いたいたしくて、涙がでてきそうだ。
「今も薬はのんでるのよ」
「そうか」
「副作用は?」
「今はもう軽い薬だから。大丈夫よ。子供だってつくれるわ」
 子供という言葉をきいて、これほど母親が似合わない女の子もめずらしいな、と思う。結婚だってそうだ。あまりにもリアリティがなさすぎる。
「結婚するって、ほんと?」
「嘘ついてどうすんの」
「だって、あんまり唐突なんで」
「フン」とフミオは鼻先で笑った。ああ、懐かしいな、と思う。フミオは僕の目を、半年前と同じように、まっすぐに見て言った。
「ルナパーク行ってみようか」
「今から? デパートいくんじゃなかったの」
「べつにいい。せっかく会えたんじゃない。それにあなた暇なんでしょ」
 僕はまったく暇ではなく、次の職場までの一時間を電車での仮眠にあてていただけなのだ。だが、ここでフミオからの誘いを断るなんて僕にはできなかった。仕事をキャンセルすることにして携帯から電話をいれる。
「来てくれないと困るよ」「そんな突然言われてもねえ」と、困る困るを連発されたが、いいわけをしているうちにフミオがいなくなってしまいそうだったので、僕は「申し訳ありません」と最後に丁寧にあやまってから電話を無理やり切ってしまった。そして電源を落とした。フミオとの時間をだれにも邪魔されたくなかった。
「あんた、クビなんじゃない」
 フミオが愉快そうに言った。今、あんた、と言った。僕はなんだかはしゃぎたくなった。ちょっとカクテルでものんだときのような気持ちだった。もう少しで涙がでてきそうな、はかない楽しさ。
「たぶんね」
 僕らは次の快速に飛び乗って、ルナパークのある駅でおりた。電車がいってしまうと、早春らしいひんやりとした、だがどこかうわついた風に押し出されるように、フミオの骨張った体から洗濯物のにおいがしてきた。



 土曜日で天気がいいからか、久しぶりに訪れたルナパークはずいぶん混んでいた。特に子供連れが多かった。僕が最後にここにきたのは去年のクリスマスイブだったことを思い出す。フミオはすたすたと歩いてゆく。ずいぶんタイトなジーンズだったから足を踏み出すたびに、お尻が片一方ずつあがる。あいかわらず小さくて硬そうな、子供みたいな色気のないお尻だ。
 空は青いが空気は白っぽい。観覧車は少しずつ動いているのに、停止しているようにみえる。
 メリーゴーランドが見えてきた。僕らがいつも座っていたベンチにはすでに人が座っていた。とられた、というような感じがした。ここでフミオのもっていたナイフをとりあげた。「小市民」という叫びが立ち戻ってくるようだった。彼女はなにも感じないのだろうか。それとも、なにも覚えていないのだろうか。
 フミオは急に立ち止まると僕を振り返って、いたずらっぽく眉をあげた。
「ちょっと」
 彼女の言いたいことがわかった。係員を見ていたのだ。
「同じ人だね」
 まるで夢をみているようだった。もしかしたら、若く装っているがそれほど若くないのかもしれない。ここにずっといるということが、僕にはフミオと今いっしょにいることと同じくらいに不思議なことに思えた。彼はまだ僕らに気づいていない。客に気をとられている。
「でも帽子かぶってる」
 フミオは帽子をかぶり出してからのあの男には会っていないのだ。この仕事をほぼ一年続けたということになる係員は、前より痩せているように見えた。長いTシャツの上に短いTシャツを重ねている。毛糸だった帽子はコットンのものに変わっていた。
 かなり離れているのに、ジェットコースターから高い、切り裂くような人の叫び声がきこえてきた。フミオはその声のする方向を、首をひねらせてふりかえった。唇がかすかに開いている。僕は彼女が緊張しているように思えた。
 メリーゴーランドが止まると、子供たちは母親や父親といっしょに顎を突き出したり、自分が乗っていた木馬を指さしたりしながら、満足げにおりてきた。どこにもフミオのような緊張した顔をした人はいない。
 何回も同じことが繰り返されたあと、祭りの縁日がひけるように人がひいて、メリーゴーランドはむきだしになり、例の係員と僕らは結びつけられた。係員の顔が変わったとき、フミオが僕の手を握ってきた。どうしようもなく自然な握り方に、僕は泣きたくなった。でも僕は彼女の手を握りかえした。
 君の味方だよ。だれがなにを思っても、君の味方だよ。
 そう心で繰り返して。だが、係員が目をそらせると、フミオは急に恥ずかしそうに笑って、僕の手を振り払って言った。
「これに乗るわ」
「……メリーゴーランドに?」
「うん、だって、一人でのっても情緒があるでしょ」
 そうだろうか。でも、乗りたいっていってるんだから、しかたない。
「じゃあ、乗り物券買ってきてあげるよ」
「どこにあるの」
「いいよ。どれに乗るか決めときなよ」
 僕は自動販売機で六枚セットの回数券を買うと、急いでフミオのそばに戻った。足が回転するように早く動いた。思い切り走るなんて、いつからしてないだろう。フミオは財布を用意していた。
「いいよ。ほら、いいから乗ってきなよ」
 フミオは顔をしかめたが、「ありがと」といって財布をしまい、券を受け取って、係員のほうへ近づいていった。係員は顔をひきつらせてはいたが、知らぬふりを決め込んでいる。僕は彼女を見守っていた。他の客はだれもいなかった。フミオが券を渡すとき、彼は他の客と同じように頭を下げた。だが、その眼差しは、他の客にむけるものと違っていた。気づいているのかいないのか、フミオはたった一人で赤いシートで飾られた白いポニーによじのぼった。僕はメリーゴーランドを囲む柵にもたれかかり、手すりに腕を置いて始まるのを待った。ベルが鳴り響いて、係員がアナウンスした。
「はい、まわりまーす。しっかりバーを握っていてくださーい」
「そこで、見てて」
 フミオは馬の耳のそばにつけられたバーにむかってきつく前傾姿勢をとりながら、興奮をかくすように、ちゃんと抑制された低い声で言った。
 音楽が始まった。フミオ一人だけをのせて、ゆっくりとメリーゴーランドは回り始めた。フミオの木馬の丸いお尻が見えなくなって、僕は真ん中の動かない支柱に貼り付けられた鏡に自分がうつっていることに気づいた。鏡といってもガラスではないから僕の顔は横に引き延ばされてゆがんでいた。フミオは一周して戻ってきて、片手をあげて少し口を開けて、僕に手を振った。
 僕は飾りのついた柵から乗り出すようにして、手をあげて彼女にこたえた。フミオはアニメのテーマソングといっしょに回っていた。僕は止まっていた。空がさっとかげって僕の頬に下から乱暴に風があたった。フミオがまた見えなくなった。鏡の中の僕の髪が揺れた。

「まわるフミオ」

これもだいたい10年くらい前に書いたものだと思います。

パソコンを整理していたら、みつけて、本当に久々に読んでみると、そういえば途中で、これはだめだ、とか思って
ほっぽりだしてしまったことなど、思い出しました。
一応最後までたどりついていることに、驚きとちょっとしたうれしさを感じました。
(まあ、最後のほう萎え萎えになってますけど・・・)

「まわるフミオ」

精神的に問題のある女の子と女の人に養ってもらっている男の子(?)の物語です。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted