曖昧と邂逅
「お前の恋人は、そのノートか?」
馬鹿にしたように笑う人がいる。
「それって、妄想じゃないの?お前は言葉にこだわり過ぎだ。言葉ばかり探してさ、この人をちゃんと見ていると言える?」
その人はわたしの机によりかかってわたしのノートを取り上げた。
わたしは金切り声を上げてすぐにノートを取り返した。
その人はわたしの声に吃驚してノートを落としそうになっていた。
「お前は、おかしいよ」
その人は、気持ち悪い虫を見るような目でわたしを一瞥すると、そのまま廊下に出て行った。廊下は賑やかだった。その人にはたくさんの友人がいたようで、わたしの悪口やわたしの奇行についての論戦をこれからファミレスあたりで行うのかもしれないし、この気持ちの悪い出来事を早く記憶から消すべく楽しい買い物やカラオケなどに興じるのかもしれない。
今、わたしは各々に机と椅子が与えられている部屋にいる。この部屋はわたし以外誰もいない。わたしを馬鹿にした人が出て行ったことで、がらんとした。ここは、教室だろうか。
わたしは、自分が今何歳で、今何をしているのかよく分からなかった。
20代も後半になったような気もするし、10代を謳歌しているような気もする。いずれにせよ、今わたしを馬鹿にした人は、先ほどわたしのノートを覗き見て「読ませてよ」と微笑んだのだ。
その人は年下のようにも思えるが、この時に関してはやはり同い年、つまり同級生のような存在にも思えた。
ノートには、好きな人のことを綴っていた。何が好き、どこが好きなんて具体的で建設的なことではない。
宇宙に飛んで行った蜻蛉になぞらえてみたり、片思いを塔に見立てぼう然としていたり、ふいに命を落としたり、かと思えば蘇ったり。それは飛んだり跳ねたりする言葉の羅列であった。
構成も何もない。行き当たりばったりで、芸術性にも乏しい悲しい悲しいわたしの恋の断末魔。
その人は、ノートを見た瞬間に眉をひそめた。そしてわたしをどうにかしてやろうという親切心を働かせた。
そうして、ああいう馬鹿にした態度でわたしにお説教をしたのだ。
そう、見下した態度は、その人の優しさであり親切心であったのだ。
しかし、あのノートは、わたしの心臓でもあった。つまりあのノートの否定はわたしの生命の否定だった。
常々、わたしはわたしを否定して生きているし、わたしの命すら否定している。しかし、あのノートは否定してきた自分の否定してはいけない部分の避難所だったのだ。どんなに自分を嫌っても、どんなに自分を憎んでも、生きたいと願う感情があり、その感情は時に涙となってわたしの自己否定をたしなめる。
迷惑だと思いつつ、そんな感情を否定しては、もう人間でいられなくなる。
そう思ったわたしは、避難所を与えた。ここでは生きてもいい。死んでもいい。蘇ってもいい。好きな人に好きなだけ縋って、好きな人に何度も愛を叫んで、好きな人の体温に自分の掌を重ねても許される。
この感情が報われない故、わたしのブレーキ役も担えなくなれば、わたしはもはや本当に、終わりに向かって走り出す気がしたから。
わたしは先ほど叫んだせいで喉が痛いことに気がついた。
痛いということは夢ではない…?
わたしは、今何をしていたのだろうか。明日、数学の小テストがあった気もするし、仕事の打ち合わせがあった気もする。今日はこれまで授業を受けた気もするし、休日出勤をして仕事を片付けていた気もする。
わたしの好きな人はこの世界にいるのだろうか。好きな人とは出身地が違う。つまりわたしの年齢が10代だとすれば近くにいない。しかし10代のあの人ならこの世界にいるのかもしれない。わたしが自分の力ではたどり着けないぐらい遠いところにいるけれども。
そうだ、廊下は賑やかだ。
思い切って出て行こうか。
このノートを見て、馬鹿にする人がたくさんいると思うけれども。
明日は数学の小テストか仕事の打ち合わせか、どちらを行えばいいのだろうか。どちらもやりたくない。
好きな人に会いたいと思った。
その気持ちだけは、ぼんやりとした思考の中で、唯一はっきりとした願望であった。
ここが教室なら窓があるだろう。左側を向けば大きな窓があった。
白いカーテンがたなびく。
冷たい風が頬を撫でた。
空は青にも赤にも見える。
昼か夕かはっきりしない。
何もかも曖昧だ。
わたしが綴った、言葉のようで…
いつまでも確信にたどり着けない曖昧な世界だ。
曖昧と邂逅