時を越えた救い
「うっ……」
俊夫は肩の痛みで目を覚ました。ここ数年のお決まりの目覚めだ。自身の年齢を感じると共に肩で良かったと安堵する。
手早く着替えを済ませ、軽めの朝食を摂る。玄関の壁に掛けてある蛍光グリーンのジャンパーを着て、絆創膏や消毒液が入ったウエストポーチを締める。
「じゃあ、行ってくる」
俊夫の日課である『こども見守り隊』の活動をするための外出だ。
『こども見守り隊』とはボランティアによって組織され、隊員それぞれが都合の良い日を話し合い、シフトを組み交代で小学生の集団登校に付き添い、子供達の安全を守る集団である。
ボランティア達の中でも俊夫の熱心さは群を抜いていた。週五日、月曜日から金曜日まで欠かすことなく参加している。決して自分の都合や体調で休むことはない。目に見えて調子が悪そうな時には家族やボランティア仲間が心配して休むように言うのだが、頑なにそれを拒む。悔しそうに涙を滲ませる様子に彼らは、それ以上強く言えなくなってしまう。何が俊夫をこうまで必死にさせているのか。それを知っているからだ。
俊夫は子供たちの集合場所に定刻の少なくとも15分前には着くようにしている。早く来る子供もいれば、遅れて来る子供もいる。しかし、どんなに早い子供でも15分以上、早く来ることはなかったからである。
俊夫はぐるりと辺りを見回し、不審者はいないか、危ない物は落ちていないか、と確認していく。そうしている内に一番乗りの子供がやってきた。
「おはようございます。山岸さん」
「はい、おはようございます。大輔くん」
大輔の元気な様子に俊夫は自然と微笑んでいた。
「山岸さんはいつも早いな~。俺、今日は勝てそうな気がしてたのに」
「歳を取ると自然に早寝早起きになるからね。それに皆と一緒に学校へ行くのは楽しいから、つい早く来てしまう」
「ふ~ん。あ、宏斗くんだ」
大輔は友達の姿を見つけると俊夫から離れて行く。その後ろ姿を眺めながら、俊夫は苦笑した。
「明日からはもう少し早く出なくちゃな……」
集合時間を五分過ぎた頃に最後の一人がやって来た。総勢十一名の登校班メンバーに俊夫を加えた集団が学校へと出発する。
子供たちは大雑把な二列縦隊でふざけあいながら進む。俊夫はその最後尾について歩く。
子供たちがあからさまに危険な事をしない限り、口は出さない。子供たちを視界の中心に置きながら周囲を観察する。
「午後は役場へ行かないとな」
林道の急カーブにあるミラーが杉の枝葉で覆い隠されていた。昨日までその枝葉がもっと高い位置に在ったことを俊夫は覚えている。
「昨日は風が強かったからな……」
俊夫は通学路の変化に敏感だった。些細な変化も見逃さず、それが危険なものであれば直ぐに取り除く。自分の力で、対処できない場合には直ぐさま行政へ陳情していた。
頻繁にやって来る俊夫を知らない者は町役場にはいなかった。俊夫の陳情は玉石混交であり、誰が見ても危険だと思うものから、ほとんどの人が考えすぎだと思う物まで様々だ。だから、役場の人間の中には俊夫を煩わしく思う者も少なくなかった。しかし、だからと言って問題を放置する訳にはいかないので、危険度の高い順に問題点は改善されて行く。
俊夫は、ミラーの枝葉は直ぐに取り除かれるだろうと経験から判断した。
約二キロの道程を経て小学校が見えてきた。後は横断歩道を渡れば到着である。先頭を行く子供が横断を始めた時、大輔がしゃがみ込んだ。
「靴紐が解けた。先に行ってて」
子供たちは特に気にも留めずに渡って行く。その中で宏斗だけは立ち止まり、大輔と話を続けていた。
俊夫は二人に付いているべきか、他の子供たちの横断に付き添うべきなのか一瞬の迷いに襲われた。だが、すぐに横断中の方が危険だと結論を下した。
「しっかり結んでから右、左、ちゃんと確認してから渡るんだぞ」
俊夫が横断を終えた時、背後で大声が上がった。
「よし、オッケー!」
「ダッシュ!!」
俊夫は慌てて振り返る。すると大輔と宏斗がまさに駆け出していた。反射的に左右へ目を走らせる。左、右、左、右……、車が走っていた。ふらふらと小刻みに蛇行。速度を落とす様には見えない。
考えるよりの先に俊夫は駆け出す。
「危ない!」
俊夫の怒声に二人は立ち竦んでしまう。車が迫っていることに気付けずに俊夫の凄まじい形相に釘付けにされている。
チラリとも車を見ずに俊夫は駆け抜ける。
助ける。
その一念だけを胸に。
両手で二人を突き飛ばす。
ボンッと鈍い音。
金属の衝突音。
そして、クラクションがひたすらに鳴り響く。
目覚める前のような、眠りに落ちる寸前のような曖昧な意識の中で、焦燥感だけが俊夫の意識を繋ぎ止めていた。もっとも、その焦燥感すら明確には認識できていない。
響き渡る騒音の中、微かに混じる子供の泣き声。俊夫の意識が過去へと誘われて行く。
決して聞くことすらできなかった。その瞬間の声。存在しない声。しかし、俊夫の脳裏に刻み込まれた確かな声が時を遡らせる。
俊夫がその知らせを受け取ったのは、午前の外回りを終え帰社した時だった。
「おい、山岸。すぐにタクシーを呼ぶから中央病院へ行きなさい」
上司の沈痛な面持ち。病院と言う単語から直ぐに身内の不幸に思い至った。俊夫の父は、入退院を繰り返している。遂にこの時が来たかと驚きはなかった。
「父、ですか?」
答えはすぐには反ってこなかった。
「……娘さんだそうだ。なんでも交通事故らしい」
俊夫には上司の言葉が理解できなかった。
『娘』
『交通事故』
単語が意味することは分かる。しかし、その二つが繋がらない。繋がってはいけない。ましてや、そこに病院などという言葉まで連なるなど以ての外だ。
俊夫は思考を停止し、呆然と立ち尽くす。
気が付くとタクシーの後部座席に腰かけ、窓の外を眺めていた。見慣れた中央病院が見えてきた。
「そうだ。父さんが……」
病院のポーチにタクシーが到着すると俊夫の家族が待っていた。一様にうつむき加減だ。
「俊夫さん……アヤちゃんが、アヤちゃんが……」
君枝は娘の名前を嗚咽交じりに繰り返す。俊夫はその意味するところを理解できない。
「俊夫、俺は信じられない。なんでこんな事になったんだろうな。文子は今朝もあんなに元気だったのに……」
俊夫には父がいることが理解できなかった。母もいたし、長女もいた。しかし、文子だけがいなかった。
「どうなっているんだ。文子はどうしたんだ」
啜り泣きが支配するその場に俊夫は立ち尽くした。理性は状況を把握しつつあったが、感情がそれを認めない。それはあってはならない事なのだ。
「父さん、俺は父さんの件で呼ばれたんだよな?」
俊夫は父がこの場にいることに理不尽な怒りを覚えつつあった。
「俺の事で呼ばれたのならどんなに良かったか。代われるものなら今すぐにでも代わりたい……」
「じゃあ、代われよ。いや、俺が代わる。文子は一体どうしたんだよ……」
俊夫は自分でも何を言っているのか分からないままに泣き崩れる。
「とにかく、何時までも文子を一人にするのは忍びない。戻るぞ」
俊夫を半ば引きずるように一行は病院へ入る。病室のある方へは向かわず、地下駐車場の方へと降りていく。駐車場への扉を通り過ぎ、奥へと進む。通路の角を曲がった先に目的の部屋があった。
『霊安室』
表札を見るに至って、俊夫の感情は理性に完全に打ち負かされた。それでも信じたくはない。扉の中へ入りたくなかった。しかし、無常にも扉は開かれ家族たちが一人、また一人と飲み込まれていく。室内の照明は点灯しているにも関わらず、暗く見える。俊夫には不気味な洞穴に思えた。立ち尽くしていると俊夫の手を母が掴んだ。まるで幼子が手を引かれるように俊夫は入室した。
手狭な部屋の中央に文子がいた。俊夫は母の手を振り払い、文子の眠るベットへと縋り付く。顔に手を触れる。冷たかった。肌の感触が何時もと違って作り物めいている。だがそれでも、確かに文子であることを俊夫は認めた。
「今朝な、登校中に撥ねられたんだそうだ。……何で文子が、子供が死ぬんだ。俺のような爺さんじゃなくて……」
俊夫は文子の頭を抱きしめた。死。その言葉から文子を守るように。手におかしな感触が伝う。後頭部の感触がないのだ。ベコベコと凹む。およそ生きている人間からは感じられない感触。そして、死者の匂い。俊夫は文子の死を実感した。絶叫が霊安室に木霊する。
俊夫は叫びながら、文子の断末魔の声を聴いた気がした。その痛ましい声。文子の窮地を知りもせず、働いていた自分が許せなかった。文子の泣き声。俊夫は泣き止ませてあげたかった。助けたかった。決して届くことのない思いを抱いた。
「負傷者四名。内、子供二名は擦り傷等の軽傷。高齢の男性一名、運転手の男性が重症を負っています」
響く救急隊員の怒声。学校関係者や近隣住民のざわめき。事故現場は騒然としいる。
俊夫には最早、明瞭な意識などは存在していない。しかし、苦悶に歪んだ表情がわずかに緩み満足気な色を湛えていた。
「文子……良かった」
自分自身にさえ聞こえない呟きを最期に俊夫は静かに息を引き取った。
時を越えた救い