早春賦 第三幕

よしの かい

早春賦 第三幕

「早春賦」三幕

 夏休み中の平日、デパートはやはり混雑していた。
「─ほんとに久しぶりだわぁ。中はずいぶんと涼しいねえ」明菜が目を丸くして辺りを見回した。
「─ね、車椅子でだって、どこでも平気でしょ?」雅代が覗き込むように笑った。
「─うん。そうだね。こんな格好でちょっと恥ずかしいけど─ありがとね」明菜は素直に礼を言った。
二人は購入すべく新しいテレビを見に来ていた。
「あのさ、後で地下にもいってみようよ」明菜が弾んだ声で言うと、
「もう、最近ホントにくいしんぼうなんだから。はいはい、後でね」雅代が笑った。
家電売り場につくと明菜は子どものようにはしゃいだ様子で自ら車椅子を動かしてあちこちのコーナーを回り始めた。

ここ数日、頓(とみ)に足の調子が悪く、杖をついて歩くことも辛くなっていた。
「─だめだよ。ここんとこ少しも外に出ないんだからぁ。だから足もそんな風によけい悪くなっちゃうんだから」雅代が言っても、
「いいんだよ、別に。どうせもうじき施設に入っちゃうんだからさ。中に入っちゃえば後はいたれりつくせりなんだ」明菜はテレビのワイドショーを見ながら口を尖らせてそう言い取り合わないのだった。
「あのね、どこに行こうと、も少し社交的になんないと。いじめられちゃうんだから、他の人に。結構陰湿なんだってよ?お年寄りのいじめって─」雅代が眉を寄せて明菜を見下ろす。
「へっ、何言ってんだい。あたしを誰だと思ってんのさ。そんな奴ら逆にねじ伏せてやるさ」そう言ってせせら笑う老女に雅代は大きなため息をつくのだった。
宝くじで大きな額が当選し、その余韻に興奮冷めやらぬのか明菜はここ数日鼻息が荒く物言いもぞんざいになったように感じる。
「─ねえ早いとこ宝くじ換金しないと。もう二週間になるよ。銀行に持っていってもお金になるまで何日かかかるんだから」不安げに雅代が言うと、
「ああ、分かってるよ。けど持ってく日は大安って決めてんだ。今度の月曜が大安だからさ。あんた銀行に連れてっておくれ」明菜が応え、
「─ああ、悪いけどその後そのまま老人会に行くからさ。いつもの会館まで送っておくれよね」そう付け加えた時突然テレビの映像が乱れ、音声だけが聞こえる状態になった。
「ああ、何だよ、このポンコツ、─」眉をひそめてそう言い手元の杖でタンタン、と画面の横を叩いた。何度か叩くと画面は元通りに映ったが、
「─もうダメだね。あたしと同じでもう寿命だ。やっぱり新しいのを買おうかね」明菜はそう言うと雅代を見上げた。
「何でよ。施設には電化製品も全部部屋にあるんでしょ?いまさらそんな無駄遣いしなくたって─そのテレビだってそうやってだましだまし見てればいいじゃない。お金なんてあっという間に無くなっちゃうんだから─」説教じみた口調で雅代が言うと、
「いいんだよ。ちょっとくらい」明菜はそう応えてもう一度仏頂面で雅代を見返した。

「─うちの部屋にはこれくらいの大きさでいいかねえ?」満面の笑みを浮かべて明菜が振り返った。
「─うう、ん。ちょっと、大きすぎない?これ」大きなテレビの画面をしげしげ見て雅代が応えた。
「いやいいよ。これで。こんだけ大きいほうが見ごたえがあるさ。ちょっと、これでいいわ。これ買うから手続きして頂戴」後ろで愛想よく笑っている店員に向かって明菜が手招きした。
切り詰めて生活してきた雅代にはお金のありがたみと重さが十分に分かっている。
「─ねえホントにいいの?あんな大きいテレビ。半分くらいの大きさで十分じゃない?値段も結構したし─」半ばたしなめるつもりでそう言ったが、
「何だよ。いいじゃないか。あたしのお金で買うんだから」突っぱねた口調で明菜が返した。
「─あのさ、何だか変だよ。ここんとこのアッキーは。なんかいっつもけんか腰で突っかかってきて─」そう言って真顔で明菜の顔を覗き込むと、
「─別に。そんなんじゃないよ」雅代の目線を逸らして口ごもるようにそう応えるのだった。
地下の食品売り場でも明菜は散財を重ねた。
試食のコーナーで食べた物のほとんどを買い求めた。
「ちょっとちょっと、そんなに食べきれるわけないじゃない。この真夏に冷蔵庫でも日持ちのしないものばかり」そう言って幾度もたしなめる雅代の言葉にあえて反発するように、実にたくさんの出来合いの惣菜やら生鮮品を買い込んだ。
「─どうすんの?これ─ホントに一人じゃ食べきれないよ?」車椅子に掛けたぱんぱんに膨らんだ紙袋を指差し、呆れ顔を向けると、
「なんだい。あんたにもあげるつもりで買ったのに決まってるじゃないか─。あんたこそおかしいよ。いつも説教じみててさ。大体あぶく銭じゃないか、宝くじなんて。少しくらい余分に遣ったってバチは当たらないよ」不満げな顔をしてそう応えた。
「─あのねえ、お金なんてホントにあっという間だよ。ホームの入居費用って高いんでしょ?浪費を重ねてると今度は申し込みも出来なくなっちゃうよ?」納得できない風に雅代が口を尖らせると、
「─分かったよッ、もう遣わないよッ」明菜は急に大きな声を上げると下を向いて黙り込んでしまった。
それから老人会の集まりがある会館に着くまでの間、雅代がいくら話しかけても明菜は返答をしなかった。
「─帰りはどうすんの?連絡する?携帯は持ってんの?」介護仕様のタクシーから車椅子をおろしながら、明らかに苛立った様子で雅代がまくし立てるように訊いた。
「─ああ。連絡するよ」明菜はそれだけ応えると、会館のドアを開けてくれた雅代を見もせずに中へ入って行った。

 任された惣菜を抱えるようにして雅代は明菜の家へ急いだ。
明菜の家からデパートまでのタクシー料金が3,800円。液晶テレビが84,240円。惣菜5,890円。会館までのタクシー代2,560円─全部明菜が支払った。だが誰の金にしろこれ以上の散財はご免だった。
会館から明菜の家までは急いで歩けば30分ほどで着く。雅代は夏に持ち歩くビーチバッグから瞬間冷却機能のついた保冷剤を三つ取り出すとパンパン、と叩き二つは惣菜の入った紙袋へ、残りの一つは自分の首筋に当てて道を急いだ。
午後の太陽は容赦なくショートカットの首筋に照りつける。汗ばむ肌がちりちりと痛く少し気を抜くと気が遠くなってしまいそうな暑さだ。
アスファルトの道路の遠くにつくり出される逃げ水を追いかけるように雅代は進む先を急いだ。
住宅街のちょうど中央に明菜の家はある。
玄関口に立つと雅代は人目も気にせず、着ていたTシャツをたくし上げ汗まみれの顔を拭った。
「─え、と、鍵鍵、と」かわいいウサギのストラップに自分の家の鍵と明菜の家の合い鍵が一緒についている。ジャラジャラ、とGパンのポケットからストラップを引きずり出した時、ふと予感がして雅代は小首をかしげドアノブに指をかけ回してみた。
ノブは引っかかりもなく回り、ギギッと軋んだ音とともに開いた。
「─れ?鍵かけ忘れた?」雅代は斜めに顔をかしげた姿勢のまま怪訝に中を窺い思わず息をのみ込んだ。
玄関口に靴が散乱している。明らかに何者かの仕業だ。
「幸せの入り口だからね、玄関は。こことトイレはいつもきれいにしておかないとさ」明菜はそう言って細かく整頓を指示していた。
「─ヤダ。なに─?」状況が飲み込めず、雅代はしばらくその場に立ち尽くしていた。

案の定、家の中はしっちゃかめっちゃかに荒らされていた。
箪笥の引き出しは全部開けっ放しで着物も散乱し冷蔵庫の扉まで開きっぱなしにされていた。
台所にある食器棚も開閉できる引き出しはほとんど開かれているか放り出された状態だった。
だが仏壇だけは唯一荒らされていなかった。
明菜は少しだけほっとした様子でご先祖の位牌に掌をあわせ鈴をうつと何かを確かめるようにそっと引き出しを開けて見た。中から紫色の袱紗を取り出しそれを開いた途端一瞬その動きが止まり、明菜は蒼白に雅代を振り返った。
「─どうしたの?」見る見る表情を強張らせる明菜を見て雅代が訊いた。
「─な、ない、─なくなってる」明菜が口ごもった。
袱紗を落とし指が震えている。
「─え?なに?─何がないの?」雅代が聞き返すとしばらくの間の後、
「─当たりくじ」蒼白に目を落としたまま明菜がぽつり、と言った。
「─え?」雅代はもう一度聞き返した。
「─当たりくじ、だってばッ」明菜はそう繰り返すと仏壇の引き出しを次々開け中身を確かめ始めた。額から汗が滴り落ちていた。

「─んじゃ、初めに確認したのはあんたね?」騒然と部屋に出入りする警官たちを指示しながらぞんざいな物言いで年配の刑事が言った。
「─はい」雅代が応えた。
「その、宝くじはいつどこで買ったん?」刑事が明菜を見た。
「─ん?どうした、聞こえんか?」車椅子に掛け俯いたきり顔を上げようともしない明菜に刑事は問いを重ねた。
「─あ、ダメです。この人ちょっと今動転しきってるもんで。─え、と確か8月1日。─メガネを掛けたおばさんが売り子の、行きつけのスーパーです」代わって明菜が応えると、
「ほう。なるほど、─こりゃ人事不省になっとるんじゃねえか?これ、生きとるか?」刑事はそう言って明菜をのぞき込むようにすると目の前で手を振って見せた。
「そりゃショックよなあ。一千万かあ─」刑事は感嘆するように大きくうなずくと今度は雅代に向き合って、
「なあ?」と同意を求めるようにうなずいて見せた。
「─う、─うん」雅代も大きくうなずいたが、その目には大粒の涙が溢れんばかりに揺れていた。
「あんたと半分わけするつもりだったん?」刑事が言うと雅代は顔を歪め耐え切れずその目からぼろぼろと涙を流し始めた。天を仰ぎ大声で泣き出したいのを辛うじて我慢した。
「─あちゃあ、泣いたらあかん。なんも解決せんで?な、泣かんで犯人捕まえよ?な、も一度あたまから状況を説明して?」刑事は俄かに猫なで声でそう言うとしゃくり上げる雅代の頭を優しく撫でつけた。

検分の終えた刑事たちが帰った後、二人は押し黙って仏壇のある蒸し暑い部屋にへたり込んでいた。
「─あのさ、クーラー、つけない?」雅代が口を開いた。灯りもつけない真っ暗な部屋で二人は何故か互いの息遣いが聞こえるほどくっついて座っていた。
「─つけるよ?クーラー」雅代が繰り返した。
ピピッ、─と音がして、ゴーッ、とクーラーの作動音が響く。
「つけるよ?灯りも─」再び雅代が言った。
パチッ、と音がして部屋が煌々と照らされた。雅代は明菜を見下ろしてドキン、とした。
気づかなかったが明菜はふうふうと肩で息をしながら黙ってポロポロ涙を流していたのだった。
不自由な両足を小さく叩きながらギュッと目を閉じ歯を食いしばるようにしていた。
いたたまれない気持ちで明菜の横にのろのろと腰を下ろし悲しみにくれるその横顔を見つめながら雅代は一昨年前の秋、初めて家を訪れた日のことを思い出していた。

「─あ、あのこんにちは。今週からお手伝いさせていただきます。よ、よろしくお願いします」明菜の家が初仕事でもあり、雅代はぎこちなく挨拶をした。
「ああ。こちらこそね。あのね、前に頼んでたヘルパーさんはどうにも気が利かなくってねえ。こう見えてもあたしは江戸っ子でね。見ての通り足は思うように動かないけど口だけは達者でね、言いたいことははっきり言わせてもらうからね。初めに言っとくけどさ、安くない金を払ってんだからね。ちゃんといいようにして頂戴よ」椅子に座ったまま、吸いつけのタバコをくゆらせてそう言ったのが明菜の第一声だった。雅代は一瞬キョトンと明菜を見つめた。舞台で聞くような威勢のいい台詞に、
「は、─はい」雅代は不意にこみ上げる笑いたい衝動を辛うじて抑えてそう応えた。
「な、何だよ、え?何がおかしいんだい、え?」すぐに雅代の様子に気づいた明菜が眉を顰めた。
「あ、ご、ごめんなさい。江戸っ子だなんて、そう言う人って初めてなもんですから。ホントにごめんなさい」神妙に頭を下げて詫びると、
「別にいいんだけどさ。─あんたあれだね。素直だね。あたしゃ正直もんが好きなんだ」そう言ってまじまじと雅代の顔を見直した後、
「─ビリケンさんに似てるよ、あんた。うん、いい顔してる。福顔だね」俄かに笑ってそう付け加えた。
溜まった洗物をより分けている後ろで明菜はのんびりタバコをふかしていた。狭い部屋に充満し咳き込むほどのタバコの煙が鼻をついてくる。
「─あの、葛西、さん」思わず振り返り、雅代が口を開いた。
「ああ、アキナって呼んでいいから。その方が親しみがわくだろ?」鼻から煙を吐きながら明菜が応えた。
「あ、じゃ、─アキナ、さん」雅代が繰り返した。
「なんだい?」今度は口でポコポコ丸い輪っかを作りながら明菜が応えた。
「─それ、」雅代が明菜の手元を指差した。
「─へ?」明菜は言い自分の指に挟んだタバコを見て、
「これかい?」と軽く雅代に突き出す仕草をした。その途端にひょい、とタバコが床に落ち転がった。
「─あ、」明菜がポカン、と口を開いた時、落ちていた紙くずにタバコの火がくっついた。
「あ、あぶないッ、─」雅代が叫ぶと同時に明菜の足元に駆け寄った。
空気が乾燥しきっていたのか油を吸い込んでいたのか紙くずは一瞬でボワッ、と火を放ち次いで散らかっていた他のゴミに燃え移った。
「わあ!あららら、─」と呆然と目を丸くする明菜の横で雅代は咄嗟に自分のジャンパーを脱ぐと火に被せ上からドタンバタン、と物凄い勢いで足踏みし鎮火させた。
「─ほれッ、あぶないんだからッ!もうタバコはだめッ!」雅代は何度も激しく足踏みしながら頬を真っ赤に紅潮させ、
「分かったのッ!?アッキー!言うでしょ、タバコは百害あって千里を走るって!」と厳しい口調で言い、キッと明菜を振り返った。
「─違うよ。百害あって一利なし、だよ。それに何だよ、アッキー、って─」きな臭い匂いと煙が立ち込める中ぼんやりと明菜が言うと、
「そんなことはどうでもよろしいッ─!」と雅代は叱責を重ねた。
火が消えたのを確かめると雅代は台所の換気扇をつけ緩慢な動作で家の窓を開け始めた。
次いで床についた焦げ後を雑巾で拭きながら、
「─たばこ、おいしい?アッキー」床に目を落としたまま雅代が口を開いた。
「そうだねえ。癖んなっちゃってるからねもう何十年も。友達みたいなもんさ」たった今起きた騒ぎを悪びれもせず明菜が応えた。雅代は苦笑して少しの間の後、
「─あたし、おばあちゃん子だったんだ」そう言うと雑巾の手を止めて目を上げ言葉を続けた。
「家、小ちゃい頃お父ちゃんとお母ちゃんが朝から晩まで働いててね。ほとんどおばあちゃんに育てられたんだ─おばあちゃんもタバコが大好きで、なんて言ったっけな、橙色の包み紙の─」
「いこい、かい?」明菜が言葉を拾った。
「あ、そうそう、それ。いつもそのタバコを吸ってた─。貧乏性で、ホントに短く根元まで吸うの。喘息の気もあったのかな、時々咳き込んだりするんだけど止めようとしなかった─。ある日の夜遅く、すごく咳き込んでね─吐き出した痰の中に血が混じってた─たくさん」雅代はそこで言葉を止めると雑巾を洗いに台所に立った。水道の蛇口をひねりながら、
「─それから一月もしないで、死んじゃった。タバコの吸いすぎで肺に穴があいてたんだって、おばあちゃん」背を向けたままそう話した。
「─お醤油のおにぎり、よく握ってくれたんだ。大きな梅干が種ごと入ってて。─おいしかったぁ。─ねえ、アッキー」洗った雑巾をギュッと絞ると明菜を振り返り、
「ダメなんだよ、タバコって─。悪いことばっかりなんだから。アッキーが死んじゃったら悲しむ人がたくさんいるんだよ」子どもに諭すように優しくそう言った。
「いるでしょ?大切な人が、たくさん」雅代の言葉に、
「─あたしゃ独りだからね。子どももいなきゃ身寄りも親類もしゃしないんだよ。心配してくれてありがたいけどさ。へへへ、そうなんだ」明菜がそう応えると、
「─なら、あたしが悲しむんだから。ね?アッキーになんかあったら、あたしが泣いちゃうんだから」
眉を顰め本当に心配げに雅代が言った。
明菜はその顔をしげしげ見ていたがやがて、
「─分かったよ。あんた優しいんだね。下手したら火事になるとこを助けてももらったんだ。命の恩人、だしね。分かったよ。タバコ、止めるよ。なんかうまく言えないけどさ、ありがとね。まだ会ったばかりなのにさ、あたしなんかを心配してくれてさ─」少し恥ずかしそうにそう言って頬を赤らめたのだった。

「─心配してるよ、いつも。アッキー」雅代は改めて明菜に寄り添うとそっと頭を撫でた。
「─ごめ、ん。ごめ、んよ」明菜はぼろぼろ涙をこぼし、しゃくり上げながら詫びた。
「もう、いいよ。諦めようよ。言ってたでしょ、どうせあぶく銭だって。だからさ最初から無かったもんだって─ね、もう忘れよう、ね」雅代が言った。
「─う、ん。─ごめ、ん。ホン、トに、ごめ、んねえ─」優しい言葉に明菜はよりしゃくり上げると雅代の腕にしがみついた。不意に悲しさと切なさが一塊になって押し寄せ雅代の目からも涙が溢れ出した。
雅代は明菜の肩を引き寄せるとギュッと抱きしめた。抱きしめながら天を仰ぎ、オンオンと泣いた。

それから一週間後の朝早い時間、件の刑事が明菜の家を訪れた。
刑事は二人の警官を伴い別にうなだれた一人の老人を連れていた。
「─ほれ、あんた」刑事に促されて老人が顔を上げた。
「─あ、」明菜は思わず声を上げた。
老人は駅前の会館の老人会でよく顔を合わせる男だった。老いてはいるがグレーの頭髪をいつもきれいに整え、若い頃は美男子で通ったと思われる鼻筋の通った彫りの深い顔立ちをしていた。相席自由の会館で食事会の折りには偶然なのか良く明菜の隣席に座る。話し上手聞き上手なこともあり明菜も色々な話を男とした覚えがある。
「─どうしたんです?」男を見て明菜が訊いた。
「ほれ、きちんと話さんかい。あんたが望んだことだろが」刑事がぞんざいに促すと、
「─すんませんでした」男は悲痛な顔を明菜に向けそう言うと深く頭を下げた。
その時明菜は男の両手に手錠が掛けられていることを認めた。

「─まったく、入り口だけだね、何とかスロープがあるのは。お国の仕事のくせに、身体が不自由な人間のことなんざ何も考えてないんだから─第一あたしゃ昔っから、おまわりが大っ嫌いなんだ」案内された刑事課の部屋で明菜は雅代を見、額の汗をガーゼのハンカチで拭いながら小声で悪態をついた。
「シッ、聞こえるよ」口に人差し指を当て雅代が窘めた時、足音が近づき刑事が入ってきた。
「いや悪いねえ。暑いとこわざわざ来てもらったりして。ごめんなさいよ」車椅子の明菜の足を見て刑事は少しだけ申し訳なそうに頭を下げるとドスン、と向かいにあるデスクの椅子に腰を下ろした。少しの間、上に置かれた調書らしきものを確かめるとすぐに目を上げ、
「─いや、今回は災難だったねえ。けど犯人が捕まって良かったよ。ま、やつも根っからの悪人でもねえみたいで自首してきたんだけどね。─ところであんたさ、どこぞであん男に宝くじのこと話したべ?」のんびりした口調で刑事が明菜を見て言った。
雅代が明菜を見た。くじのことは絶対誰にも口外しない、と二人は堅く約束していた。
「─あ、」明菜はしばらくやかましい音を立てている古い空調の吐き出し口の方を見上げていたがやがて思い当たる節があったようで、ばつが悪そうに一瞬明菜に目を遣るとすぐに刑事に目を戻した。
先の老人会に出席した時食事の際出たビールに酔い、うっかり口を滑らせたことを思い返した。
「─けどあの人もかなり裕福な老後を送ってるって言ってたしさ。そん時も確か五百万かぁ、って笑ってたと思ったけどなあ」横目でチラチラ雅代を気にしながら言うと、
「うん。確かに金持ってんだわ、やつは。言うとおり金には全然困っとらん。あんたたちのくじ盗んだんは、また別の理由があったんだなぁ」刑事は言うと俄かに薄ら笑いを浮かべて明菜を見た。
「─なんです?」明菜が訊くと、
「あんた、口説かれとったでしょう?あん男に」さも可笑しそうに刑事が言った。
明菜は思いを巡らせた。
「─あ、そう言えば。どこに住んでるんだとか、身寄りはいるのかとか─」宙に目を泳がせて応えると、
「そうそう、それそれ。やつは惚れとったんだと、あんたに。一目惚れで。どうにかして交際できんもんかと。出来れば余生を共にしたい、とな。ところがあんたはくじの当選金で、どこぞのホームに入ると、そう話したでしょう?」刑事が言った。
明菜は男との会話を思い返した。
会合の度わざわざ自分の隣に席を取ることも含め言われてみれば確かに会話の端々にも自分への好意を感じさせるものがあったのかも知れない。浮名を流していた若い頃から年配の先輩芸妓の老いらくの恋、も実際見聞きしてきたがまさか喜寿をとうに過ぎた自分が恋心を抱かれるなど考えもしなかった。
明菜は自分の頬が紅らんでいくのを感じていた。
「─退いて、永いからねぇ」明菜は女の性から遠のいていた自分を自嘲するように呟いた。
「なあに?アッキーったら、あんなに他人に言っちゃダメだよって自分で言ってたくせに」雅代が不満げに口を挟んだ。
「─な?そんでよ、やつはくじが失くなっちまえばチャンスはまだある。そう考えた訳だ。高い金出して探偵雇ってな、あんたの家を突き止めて犯行に及んだ、つう訳だ。なんせ素人の仕事だからな。家中をめちゃくちゃに引っかき回しちまって申し訳ないって言ってたぜ」雅代の言葉を無視して刑事は話を続けた。
「で、やっちまった後な、眠れなかったんだと。目をつぶるとくじが失くなっちまって泣いてるあんたの顔が何度も何度も目に浮かんでな。いたたまれなかったんだと。そんで自首してきた。ウチに来た時、やつぁホントにげっそりしてたよ。一晩泊まって、どうしても直接詫びたいって。泣きながらそう言うもんでよ、あんたの家に連れてった。─ま、恋焦がれた末の過ち、だな。罪作りな女だな、あんたも」刑事はそう言うと声を上げてケタケタと笑った。

「へへへ、ねえ、あたしもまだまだ捨てたもんじゃないね?」帰りのタクシーの中で上機嫌で雅代を見たが雅代はムスッとしたまま口をきかなかった。
「ああ、ごめん、ごめんよ、あたしばっかり。けど大丈夫、あんたにもきっと春が来るって」明菜がそう付け加えると、
「─ふん、うそつきが」雅代はそう言ってプイ、と横を向いて頬を膨らませた。

当たりくじは無事二人の元に戻ってきた。
明菜は雅代とも話し合い被害届を取り下げることにした。
初犯でもあり被害者である明菜の口添えもあってか男の処遇は書類送検だけで済んだ。

「─あ、いらっしゃい。どうぞ、さ、上がって。アッキー、マアちゃんがきたよッ」いつもの通り愛想よく男が迎える。
「─うん。今日は、なんだい?」バリアフリーの広い玄関口に向かって明菜が車椅子に掛けたまま部屋から笑顔を覗かせる。
「鰻だよ。ちゃんとふっくら酒蒸ししてあるからね。今日のうちの定食」雅代が包みを上げて見せる。
「やったッ、じゃ、ちょっと一杯やろうよ。ツネちゃんッ、ちょいと用意しておくれ」明菜が振り返ると、
男は台所でいそいそとエプロンをつけ、
「はいはい。ちょっと、待っててね」そう応え食器棚から徳利を取り出す。
男の名は常吉(つねきち)と云う。件の住居不法侵入及び窃盗犯だ。

驚いたことに事件の後、明菜は老人会を通じて常吉と連絡を取り自ら交際を許諾したのだった。
『─へへへ、やっぱ独りじゃ寂しいからさ。ホームに行ったら他人ばっかりだしさ。やっぱ女だからね、死ぬまで女だから─いい人にそばにいて欲しいしね、出来れば旦那に。─あのね、宝くじなんて当たらなきゃ良かったって、ホントはそう思ってたんだ。─だって、あんたは自分で商売始めるって言うし、あたしゃホントはホームになんて行きたくもなかった。けどやっぱ他人だから、ね。あんたの行く道の邪魔んなっちゃいけないしさ─。これから結婚もして幸せんなるあんたの邪魔をさ。何だかずっとイラついててさ。苦しくてさ─だから当たりくじを盗まれた時、どっかでホッとしたんだよね』初めて常吉を雅代に紹介した後、明菜が胸のうちをそう吐露したのだった。

「─さ、燗がつかりましたよぉ。早速やりましょう」猪口を並べ自慢の自家製漬物を盛り付け甲斐甲斐しく常吉が食卓を整えた。
「─やっぱ几帳面だよねえ、ツネちゃんは男のくせにさ。どこ見てもきれいにしてる」ぐるりを見回して雅代が感心する。
「うん。アッキー喘息持ちだからね。気をつけてるんだ」常吉が応えた。
「─でかい家屋敷だからねえ。掃除も大変なんだけどさ、ホントによくやってくれてるよ」明菜が言った。
「なんもだぁ。無理言って家に来てもらったんだからさぁ」時々出る出身の北海道弁で常吉がのんびり応えた。明菜は前の家を払い常吉の家に来ていた。
『─さすがに苗字まで変えちまうのは年金の手続きやらなんやら、この歳じゃ色々面倒だしね』そう言っていたが本人は事実嫁いだような形に嬉しげに紅く頬を染めたりしていた。
「─よし、ほんじゃま、やろうか」明菜が猪口を取り上げるとすかさず常吉が酒を注いだ。
「─さ、マアちゃんも」常吉が雅代にも徳利を傾けると、
「─あ、たくさんはだめだよ。一口だけにしときな、ね」明菜が口を挟んだ。
「あ、そうだ、そうだったね」常吉が慌てて徳利を引っ込めた。
「そうだよ。お腹の子にさわりでもしたら大変なんだから。やっとめっけた大事な旦那さんにも叱られちまう。─ところでどうだい?お店の方は順調かい?」旨そうに猪口の酒を飲み干して明菜が言うと雅代は愛おしそうに自分のお腹をさすりながら目を細めて
「─うん。おかげさんで」そう応え頷いた後、明菜が一番お気に入りのビリケンさんの顔で笑った。


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