小さな宝箱
小さな宝箱
わたしは思わず息を呑んだ。呼吸も忘れて驚いている。わたしはただ唖然とするばかりで、目の前に現れたものを見つめた。
事の起こりは数時間前に遡る。わたしは今日、小物入れを買った。放課後のアルバイトを終えて家に帰る途中、少し奥まった路地の先で見つけたアンティーク店で見つけた物だ。
通い慣れた道だったはずなのに、今までその店もその路地も知らなかった。こじんまりとひっそり佇む店構えは古びていて、けれどどこかおしゃれで懐かしい洋館風の建物だった。もしもそこにガス灯でもあれば、明治時代に入り込んでしまったのではないかと思わせるようなレトロな雰囲気だ。
かじかんだ手に息を吹きかけながら、思わず見入ってしまった。
「こんな店、あったんだ……」
店を見つけたわたしは、早速道草を決め込んだ。黒いショートボブを耳にかけ、店先のショーウィンドウを眺める。そこに飾られている商品は、縁飾りに細かな彫刻を施された手鏡や、波打つような繊細な模様が美しいガラスの香水瓶など、どれもこれも手の込んだ凝った作りのものばかりだった。
わたしは俄に胸がときめく。こんなにも心が踊る感覚は久しぶりだ。刺すような寒く冷たい空気も、一瞬にして忘れてしまいそうだった。
その時、ショーウインドウから、店の真ん中に置かれた棚が見えた。そして、そこにあった小さな箱が目に留まる。それはやや薄暗い店内でも一際目を引いていた。まるでわたしを呼んでいるかのように、その瞬間から他の商品は一切目に入らない。わたしはそのまま吸い寄せられるようにして店に入り、その小箱を手に取った。
小箱は、例えば勇者が旅の途中で見つける宝箱を手のひらに収まるサイズに縮めたような造りだった。円柱を縦半分に切ったような形をした蓋と、長方形の箱の部分の外側にはキラキラ光る赤い小石がいくつも散りばめられている。
一見かわいらしく見えるが、古ぼけてくすんだような金色の縁取りは重厚感もある。開けて中を見ると、内側には深い緋色のビロードが張られていた。つやつやとした布の感触がなめらかで、何とも心地良い。その緋色とくすんだ縁取りの色合いが、開けた瞬間に中からモンスターが飛び出してきそうな怪しい雰囲気を醸し出していた。
わたしは、この宝箱がすっかり気に入ってしまった。一点物で少々値は張るが、意志は揺るがない。所謂「一目惚れ」、そして「衝動買い」である。けれど、後悔はしない確信がある。既に買う以外の選択肢はなかった。会計を済ませたわたしは、いそいそと帰宅した。
帰ってすぐに、わたしは鞄から宝箱の入った包みを取り出した。丁寧に包装紙を開き、宝箱を眺める。良い買い物をした満足感に浸り、宝箱を手に取ったままうっとりと見つめていた。
ひとしきり宝箱を眺めたあと、ワンルームの部屋の真ん中にあるコタツの上に宝箱をそっと置いた。いよいよ蓋を開こうとしたその時、箱の中からゴトリと音がする。重そうな何かを床に置いたような、鈍い音だった。
宝箱の中は、確かに空だったはずだ。けれど、空耳にはとても思えなかった。わたしは箱を持ち上げて、耳元に近づける。そのまま箱を上下に軽く降ってみると、今度はカシャカシャと金属が擦れたような音がした。それと同時に、「ぐえ」と潰れたカエルような声が僅かに聞こえた。
わたしはもう一度、宝箱をこたつに置いた。この中には何かが居る。恐らくそれは物ではない。生きている何かだろう――わたしの第六感が訴えている。
わたしは宝箱から目を離さずに大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。この行程を数回繰り返した後、何か武器になるものはないかと部屋の中を見渡した。玄関先に置いていた殺虫剤が目に留まり、それを手に取った。
「本当に、モンスターが出てきたりして」
思わず一人ごちて、牙を剥き出しにした竜が火を噴く姿をを想像してしまった。
「まさか、ね」
流石に竜はないだろう。わたしは期待を込めて、想像の竜を即座に打ち消した。いつの間に入り込んだのかはわからないが、せいぜいゴキブリやその類だろうと考え直す。わたしは宝箱の蓋をゆっくりと開いた。
しかし、箱の中から出てきたのはゴキブリでも竜でもなかった。甲冑を纏った剣士がぬっと顔を出し、その瞬間に彼としっかりと目が合った。わたしは慌てて宝箱から手を引っ込め、その勢いのまま尻餅をつく。
剣士は薄い紫色の瞳を見開いて、容赦ない視線でわたしを睨みつける。彼は左手で兜を抱え、右手に握るサーベルの切っ先を真っ直ぐにわたしの喉元へ向けた。その様子はとても勇ましいが、彼の身長は15センチほどだ。手のひらサイズの剣士である。
剣士は赤茶けた髪を高い位置で一つに結い、しっぽのように肩まで垂らしている。西洋風の鎧を身に付け、その下には和服のような群青色の襟が見えた。
鎧で隠れているが、裾を絞った袴ような形の薄い灰色のズボンを穿いている。その上にこげ茶色の膝下まであるブーツを履いていた。手には上着と同色の手甲を付け、その指には幾つかの指輪が光っている。
目つきは頗る悪いが、よく見ると整った顔をした少年だ。右の頬を怪我していて、そこから血が流れている。血が彼の肩を伝い、服や鎧を汚していた。けれど、それらを差し引いても綺麗な顔つきだ。
暫くの間、わたし達は睨み合いを続けた。お互いに目をそらすことのないまま数十秒経つ頃、遂に彼が口を開いた。
「……お前は誰だ。ここは、どこだ」
剣士はわたしを見張るように注視しつつ、周りの様子も窺っている。見慣れない場所への戸惑いと、焦りの色が色濃く見えた。敵に攻め込まれているかのような険しい表情で、今にも張り裂けそうな殺気を放っていた。その刺々しさは抜き身の刀を連想させる。だが、同時に彼の痛々しいほど張りつめた雰囲気からは、納めるべき鞘の無い、何かの拍子にポキンと折れてしまいそうな危うさも感じられた。
剣士の頬からは相変わらず血が流れていて、血の滴がぽたりと彼の肩に落ちた。
「あなたこそ、誰よ。何も入っていなかったのに……」
掠れる声を振り絞り、やっとのことで言い返した。とはいえ、わたしも困惑している。
心の準備はしたけれど、起こったのは「まさか」で片付けた事とそう変わらない。現れた本人は相変わらず目を吊り上げてかなり興奮しているし、どう接するべきかなど咄嗟には思いつかなかった。
「知るか。いきなり閉じこめられた身にもなれ」
「わたしだって知らないわよ。小物入れから人が出てくるなんて思わないもの」
小さな剣士は切っ先をわたしに向けたまま、素早く兜を被った。そしてわたしから目を離さずに少しずつ移動する。そして、箱から足をそろりと出して素早く跨いだ。流れるような身のこなしは、彼が相当な手練れのように見えた。
「お前、帝国の手の者か」
「……帝国? 」
わたしは眉をひそめて聞き返した。今時、帝国などという国などあっただろうか。考えを巡らせていると、剣士は少し苛立ったように畳み掛ける。けれど、知らないものは知らない。
「モルトベーネ帝国の者かと聞いている」
「そんなの知らないわよ。何だかわからないいけど、いい加減にしてよね。だいたい、剣なんか振り回して危ないじゃない」
まくしたてるように強く言い返したものの、ますます分からなくなるばかりだった。
帝国なんて知らないが、剣士はわたしがしらばっくれているとでも思っているのだろう。どうも会話が噛み合わなかった。その遣り取りのうちにも彼の頬の血が止まる気配はなく、ぽたぽたと顔や首を伝っている。わたしは帝国とやらよりも、彼の怪我の方がよほど気になっていた。
「それより、あなた。頬を怪我しているわ。手当てしないと」
「……え? 」
彼は左手で傷をさっと触れた。どうやら怪我に気付いていなかったらしい。ほんの少し、彼の纏う空気が緩んだ気がした。
「これくらい、ただのかすり傷だ。舐めておけば治る。気にするな」
彼はそう言うと構えていたサーベルを静かに下ろし、鞘に納めた。厳しい表情も少し和らいだが、目つきは据わったままで眼光も鋭い。
「舐めて治るような怪我には見えないわよ。ちょっと待ってて。救急箱を取ってくるから」
そう言ってわたしはこたつから離れ、部屋の隅にある押し入れの前に立った。
押入は一人暮らしのワンルーム唯一の収納場所だ。生活に必要な物は大抵ここに仕舞ってある。
押入の襖を開けて、中に積み上げていた物を一つずつ下ろしていく。あまり整理できていないので、ようやく目的の救急箱を取り出した頃には足元が物で溢れかえっていた。
コタツの上では、小人が次々と積み上げられていく生活用品をしげしげと興味深そうに見ている。コタツの脇に立てかけた掃除機を、サーベルの鞘でつついて様子を窺っていた。気になって仕方がないようだが、わたしは先に手当てをしようとこたつへ戻った。
剣士の頬からは今も血が流れ続け、ぼたぼたと赤い滴が落ちている。本人に傷口をティッシュで押さえさせている間にガーゼを小さく切り、わたしは彼の手当てを始めた。
「ねえ、どうして怪我したの?その剣は本物? 」
「ああ、そうだ。傷はさっきまで斬り合いをしていたから、その時に付けられたんだと思う」
気付かなかったな、と剣士はぽつりとこぼした。わたしが彼の顔を見ると、彼もこちらを見る。
「帝国でないなら、いい。悪かったな」
わたしがほほえんで頷くと、剣士も小さく笑った。
剣士の頬の血をを押さえるティッシュが、徐々に赤く染まってゆく。わたしは替えのティッシュを折り畳み、彼に手渡した。血みどろになったティッシュをポリ袋に捨てて、ガーゼ切りを再開する。
「あなた、どうしてそんなに小さいの? 」
「お前が大きいだけだろう」
わたしは再び剣士にギロリと睨みつけられてしまった。彼はふてくされたような顔をして、コタツの上にアグラをかいている。そして決まり悪そうに顔を逸らせて、ぶすっとしたままアグラの上に頬杖をついた。
どうやらわたしは、剣士を怒らせてしまったらしい。ハサミを動かしながら、なんとか場を取り持とうと次の話題を考える。
「ご、ごめん。そんなに怒らないでよ。ええと、そうだわ、あなたの名前は? 」
「……アベル・アグアイル」
アベルはそっぽを向いたまま、ぼそりと答えた。
「アベルは幾つなの?子供があんなもの振り回したら危ないわ。怪我しそうでヒヤヒヤしたわよ」
「15。もう元服したんだ。俺は子供じゃない」
アベルはそっぽを向いたまま、ますますむくれてしまった。どうやらわたしは更に彼の機嫌を損ねてしまったらしい。気まずくなった空気をどうしようかと一人焦っていたが、彼はちらちらとこちらの様子を伺いながら話してくれた。
「乱世に生まれた以上、致仕方ないだろう。戦わねば殺される」
アベルは腰のサーベルを見つめて、暗い顔で言った。彼の表情に、悲しい影が走る。わたしもつられてアベルのサーベルや鎧へ視線を移した。
鎧もその下の服も、どろどろに汚れていた。アベルの服には相当な量の血や泥が染み込んでいて、汚れた部分は黒っぽく変色している。
アベルは居心地が悪そうにし、渋い顔をし始めた。わたしはその表情に気付き、じろじろと見てしまったことを詫びる。視線を手元のガーゼに戻して、黙って彼の言葉を待った。
「君はどうなんだ。そんなにぼやっとしていると、すぐに殺されてしまうぞ」
「生憎そんな経験ないわ。だいたい、本物の武器なんて初めて見たもの」
少しムッとして答えると、アベルは小さく笑って続けた。
「そうだろうな、その調子なら。危なっかしくて、とても見てはいられん」
「まあ、失礼ね」
わたしは笑うアベルを軽く睨みつけながら、切り終えたガーゼを置いた。そして彼の頬からティッシュをはずし、消毒に取りかかる。
「目と口、瞑ってなさいよ。消毒液をかけるから、少ししみるわよ」
アベルの頬の血は止まったようだ。わたしはスプレータイプの消毒液を彼の頬に吹きかける。アベルは歯を食いしばり、顔を歪ませた。傷にしみるのだろう。けれど彼は一言も弱音は吐かず、さほど痛がりもせずにじっと耐えていた。
アベルの傷は浅かったが、思いのほか大きかった。右の頬骨から右の口角の近くにまで及んでおり、本当ならば縫うような怪我なのかもしれない。けれど、さすがに病院に連れて行けないし、わたしに医療の知識も技術もない。上から圧迫するだけではまた傷が開くかもしれないが、これ以上はどうすることもできなかった。
「君は多少危なっかしそうだが……それでも、いつも死ぬ心配をしなくても生きられる世の中なのだろう。良いことだ」
そう言って、アベルはにっこりと笑った。それまでの暗い影が払われたかのような、明るい笑顔だった。
わたしは思わず「この子はこんな顔もするのか」と思った。必死で背伸びして大人ぶっているように見える。けれど、彼の本当の顔はこちらなのかもしれない。
「そう、ね。今日死ぬかもしれないなんて、今まで考えたこともなかったわ」
わたしは、アベルの頬に張り付いて固まった血を濡れガーゼでふき取る。新しいガーゼを傷に当て、その上からテープで固定した。
「よし、これでいいわ」
「ありがとう。すまないな。すっかり世話になってしまった」
アベルは頬に手を遣り、ガーゼの感触を確かめている。
「わたしは、あおい。真田あおい。18歳だから、わたしの方が少しお姉さんね」
「あんまり変わらないだろう。偉ぶらないでくれ」
アベルは唇を尖らせて抗議した。けれど、そうしてすぐに拗ねるところが子供っぽくてかわいいと思う。
「あら、3年の差は大きいのよ」
わたしがそう言うと、アベルは不満そうにぷうと頬を膨らませた。傷が痛むらしく一瞬でやめてしまったが、随分拗ねてしまったようだ。
「ふふ、拗ねるな拗ねるな」
いちいちむくれるのがとにかく可愛い。わたしは指でアベルの頭を撫でてやった。今度は照れているのか、アベルの顔が少しばかり赤くなる。彼はまたそっぽをむいてしまった。けれど、決して怒っているわけではないようだった。
手当をした後、わたしはアベルのために寝室を用意した。台所で深めの皿を見繕い、タオルやフェルト、ハンカチを敷き詰めてベッドを作る。出来上がったのでアベルを呼ぶが、返事がない。
「アベルー?どこー? 」
わたしは台所を出ると深皿を抱えたまま、アベルを探し始めた。名前を呼びながら、こたつの周りを見渡すが一向に返事がない。
わたしはコタツの上に置いたままにしていた宝箱の脇を覗いた。すると、アベルは宝箱の壁に寄りかかるように座ったまま、サーベルを抱えて眠っている。よほど疲れていたのだろう。手当が終わるとすぐに寝てしまったらしい。起こしてしまうのも悪い気がして、わたしは慌てて口を噤んだ。
アベルの肩に上からタオルハンカチを掛けて、そのまま動かさないようにしておくことにした。
翌朝、元の世界に帰れないことに落胆するアベルを慰めるところから一日が始まった。彼は一旦は酷く落ち込んだ様子だったが、少し気持ちが落ち着いてからは気丈に振る舞っている。
アベルは朝食前に、日課だという朝の鍛錬を始めた。爪楊枝を木刀替わりに素振りをしている。汗を飛ばしながらひたすら爪楊枝を振るう姿は、まるでそこに相手がいるかのように激しかった。
わたしは剣のことは分からない。けれどアベルの一振り一振りが、彼の不安を振り払うかのように見えていたたまれなかった。
わたしはいつものように大学へ行き、夕方帰宅した。バイトは休みだったのでアベルと夕食を摂り、食後はお椀に湯を張って彼に風呂を勧めた。その間に彼の汚れた服を洗ってやることにし、アベルもそれに応じた。
アベルは返事をするや否や、その場で服を脱ぎ始める。わたしは目のやり場に困ってしまった。けれど、目を泳がせながらうっかり見てしまった彼の身体に、わたしは釘付けになった。
アベルのには、肩、背中、腕、足、腹に到るまで、身体のあちこちに幾つもの傷跡が残っていた。中には最近出来たであろう新しい傷もあり、彼の生活の激しさを物語っている。
アベルのこれまでの人生には戦いしかなかったのだろう。その姿に大きなショックを受けたわたしは、しばらくの間彼の身体の傷を見つめたまま動けなかった。
アベルはわたしの様子が変わった事に気付き、上半身の服を脱ぎ終えるとすまなさそうな顔で言った。
「すまない。驚かせてしまったな。俺は見られても構わないが……見てもあまり気分のいいものではないだろう」
「ごめんなさい。そうじゃないの。なんだか、悲しくなってきちゃって」
アベルに言われて、わたしは慌てて目を逸らした。
傷は確かに恐ろしい。けれど、それよりもわたしは彼に同情してしまったのだ。つらいことばかりだったのではないか、子供らしい生活をしたことなどないのではないか、などと考え始めるとキリがない。余計なお世話かもしれないが、そう思わないではいられなかった。
ふと、わたしは左肩に重みを感じることに気が付いた。すると、アベルがいつの間にかわたしの肩によじ登って来ている。そこに腰を下ろし、心配そうにわたしを見上げていた。彼はズボンのような袴のような服を、小さな拳できゅっと握っている。
「どうしてあおいが悲しむんだ」
「だって、身体中傷だらけじゃない」
「俺は気にしていない。どれもほとんど治っているし、今更どうという事はないよ」
アベルは困ったような曖昧な笑い方をして、ひとつ息をついた。
「ここにいると、本当に戦わなくていいんだな。俺はずっとこんなだから、どうもピンとこないんだ」
アベルはどこか遠い目をしてそう言った。
アベルが戦わない生活は、彼にとって普通ではない。けれど、決して望んで戦っているわけでもないのだろうとわたしは思う。
「ここにいる間くらいはゆっくりしてね」
「ありがとう。あおいは優しいな」
アベルは笑った。明るい方の、無邪気な笑顔だった。
それから数週間の間、わたしたちは穏やかに過ごした。その間にアベルの頬の傷は大方癒えたが、跡はくっきりと残ってしまった。
「ああ、きれいな顔なのに。勿体ない」
アベルの顔からガーゼをはずしながら、思わず口から本音が出た。役目を終えたガーゼをコタツに広げたビニール袋に入れて、袋の端をきゅっと結ぶ。
「そうか? それは、ない方がいいけど今更消せないし……」
コタツに胡座をかいたアベルは困ったように笑いながら、傷の真横の皮膚をポリポリと掻いた。
「そんなことよりも、世界の情勢が気になるよ。仲間達は今頃どうしているのか……」
アベルは深くため息をついた。悲しい顔で、遠くを見つめるような目をして下を向く。彼はコタツのテーブル板をじっと見つめたまま動かない。
「俺はいつまでこの生活を続けるのだろう。今もきっと、仲間は戦っているのに」
「帰る方法がわからないんじゃあ、どうにもならないわね。あの宝箱も調べてみたんでしょう? 」
「ああ。でもお手上げだ」
アベルは万歳するように両手を上げ、またため息をついた。
アベルはこの数日、宝箱の本体はもちろん、蓋の部分や箱の裏側までひっくり返して調べていた。けれど、出てきたものは隙間に挟まった埃くらいのもので、大した収穫はなかった。いくら彼が帰りたくても、どうにもならなかった。
アベルは立ち上がった。少し歩いてコタツ肘を付いていたわたしの左腕に手をかける。そのままするすると登り始めると、鮮やかにわたしの肩に腰掛けた。
いつしかわたしの左肩は、アベルの指定席になっていた。用事があるときや話がしたいときにはいつも、彼はここへよじ登ってくる。
「そういえば。あおいはよく出かけているな。とこに行っているんだ? 」
「大学よ」
「……なんだそれは」
アベルの顔にクエスチョンマークが浮かんだ。もしかすると、彼の国には大学が無いのかもしれない。別の言葉に言い換えられないかとわたしは思案する。
「学校ならわかる?勉強しに行っているのよ」
「学校……ああ、学問をするところだな」
アベルは合点がいった、というような顔で答えた。
「俺は学校に行ったことがない。でも、新時代が来たら学問が必要だから、お前も本を読んでおけと上司に言われた。何冊か借りていたんだが、全部置いて来てしまった」
アベルは仕方がないと、わたしに笑って見せた。いつか読破するのだと意気込んでいたとも言った。
「いつから戦ってるの? 」
「俺が生まれた頃には既に革命は始まっていた。父も4年前に殉じて死んだ」
「そうだったの……」
聞いてもよかったのだろうかと迷っていると、アベルは気にするなと言った。悲しいけれどどこかさっぱりとした面もちで、彼はこれまでの事を話し始めた。
アベルの住む国は、嘗てはイアサント王国と呼ばれていた。農業と産業で栄え、美しく平和な国だったらしい。けれど、20年ほど前にモルトベーネという政治家が現われると、国は大きく傾くことになる。
モルトベーネはクーデターを起こし、有らぬ罪をでっち上げて王族を抹殺した。国を崩壊させると、モルトベーネは自身を皇帝とするモルトベーネ帝国を興す。そこから彼の恐怖政治が始まった。
モルトベーネ皇帝は民衆に法外な重税を課し、とことん搾取した。自分に反抗する者は一族全員を捕えて処刑し、決して容赦しない。皇帝に近しい者や追随する者には貴族の身分を与えて従わせ、民衆を管理させている。町は荒れ果て貧困に喘ぐ者で溢れる一方、ごく一部の者だけが贅沢で怠惰な生活を送っている。
やがて耐えかねた民衆達は立ち上がり、反乱軍を結成した。秘密裏に作戦が練られ、遂に革命を起こした。しかし、それがもう20年も前の事だという。反乱軍は賛同者が多くすぐに戦いが始まったものの、現在も決着がついていない。今や国中で内乱が続いていて、安全な場所など皆無だということだ。
アベルの母親は彼が幼いうちに亡くなり、戦士だった父親と2人で生活していたそうだ。だが数年後、その父親も戦いに身を投じ、アベルを残して亡くなってしまった。
アベルはその後、父の遺志を継ぐために剣の修業に明け暮れた。そして自らも反乱軍に志願し、今ではその剣の腕を買われて遊撃隊として働いているそうだ。
「この戦いがいつまで続くかわからないし、今日どこで誰が死んでもおかしくないん。俺だって、もう何人の敵を斬ってきたかわからない」
アベルの中を深い闇が覆い尽くすように、深く沈んだ顔色だでうつむいた。
アベルはきっと、人を斬りながら自分も深く傷ついている。そして、数多の十字架を一生背負い続けるのだ。
「けれど、人々が人間らしい生活できる国を作りたい。親父の遺志も守りたいし、帝国に虐げられてきた人達の幸せも守りたい。子や孫の世代のためになるならばと、そう思って剣を取ったつもりだった」
アベルは、より暗い顔をする。彼は視線を落とし、続けた。
「でも、最近よくわからなくなってきたんだ。人間同士で、それも同じ国の者同士で殺し合って作る平和が、本当に正しいだろうか。本当に守れているのか、って」
15歳の少年にはとても残酷なことだ。大人にすら抱えきれないものをアベルは懸命に背負っている。必死で背伸びして、大人のフリをして、今にも潰されそうだ。それなのに、彼はさらに前へ進もうとしている。
「ここへ来た時も、砲撃されて慌てて近くの小屋に飛び込んだんだ。伏せた瞬間に兜が外れて、あたりが真っ暗になった。すると次は地震が起きて、小屋の床と天井に交互に叩きつけられた。天井が開いたから顔を上げると、君がいた」
恐らく、その地震はわたしのせいだ。宝箱を買った日、箱から音が聞こえて耳元で振ったのがそうだろう。
「ごめん。その地震、わたしだわ」
「地震が?」
アベルはわたしの肩に座ったまま、怪訝そうな表情でわたしの顔を見上げる。
「そう。振ったの。あの箱を」
説明すると、彼は地震の正体に驚いていた。だが、「君に悪気がないのはわかっているから」と言って笑った。
「ここで骨休めね」
「そうだな。こんなにも穏やかな生活をしたのは生まれて初めてだ。少なくとも、一日中鎧を着なかったことなんてこの数年で一度もなかった」
アベルは穏やで柔らかい、安堵に満ちた顔をしていた。
思えばアベルは、この頃よく笑うようになった。顔つきも幾分優しくなり、鋭く据わっていた目も今では優しい光を湛えている。
「でも、罪悪感もあるんだ」
そう言って、アベルは少し表情を曇らせた。彼は寝室になっている深皿を見遣る。皿の中には、彼の鎧一式とサーベルが隅に寄せて置かれていた。仲間や国のことは、そう簡単に忘れられないだろう。
「ここにいる間は、命の洗濯と思って休めばいいのよ。ね? 」
わたしがにっこりと微笑むと、彼は「そういうものなのか?」と言うかのような難しい顔をする。そのまま腕を組み、すっかり黙り込んでしまった。きっと根がまじめなのだろう。じっと一点を見つめて、思い悩んでいる。
わたしは何と声をかければ良いかわからなかった。けれど、何でもいいからアベルの力になりたいと思った。実際には何もしてあげられないのかもしれない。けれど、放っておくことはできなかった。
翌日、その日は午前で授業が終わった。その上バイトもない。こんな日は珍しい。わたしは足取りも軽く、うきうきしながら昼過ぎには家に帰った。
部屋に入ると、コタツが光っている。わたしは目を凝らした。強い光で見えにくいが、よく見るとコタツの上に置きっ放しにしていた宝箱が光っている。
「あおい、これ……」
困惑しきった顔のアベルが、宝箱の脇からひょいと顔を出した。そしてテーブル板を走ってわたしの方へやって来る。彼は最近は身に付けていなかった鎧一式を身に付けていた。
次の瞬間、わたしはまたもやアベルに驚かされる。アベルが普通サイズの人間に変化したのだ。あっという間に小人ではなくなり、バランスを崩したアベルはコタツから転げ落ちた。
アベルは身体を起こすと、バツが悪そうにして立ち上がる。一連の出来事に、わたしは目が点になった。呼吸を忘れるほど驚き、持っていた鞄を床に取り落とす。その音でわたしを振り向いた彼と目が合った。
飛び出るのではないかと思うほど心臓が胸で大暴れし、信じられない思いでただただアベルを見つめる。だが、同時に嬉しくもあった。もう会えないと思っていた友人に、ようやく会えような感覚を覚えたのだ。
「アベル、意外と背が低いのね」
「……放っておいてくれ」
アベルと並んで立ってみると、彼の目の高さはわたしとあまり変わらない。わたしも背の高い方ではないけれど、アベルも男性にしては小さい。骨格も華奢な方だろう。筋肉はしっかりしているようだが、小柄だった。
アベルはまたむくれた。身体ごと捻って、目と顔、腕組みした上半身をぷいと余所を向く。きっと本人は無意識だろうが、頬をが少し膨らんでいる。
「まだ15歳でしょ」
アベルは視線だけをこちらに寄越した。怪訝そうな顔つきだ。
「これから伸びるかもしれないわよ」
そうなだめておくと、アベルは少し機嫌を直したらしい。決まり悪そうにして、またわたしに向き直る。
「ねえ。さっき、何が起こったの……? 」
「わからない。ただ、今朝からそわそわして、どうも落ち着かった。ただ、何かに呼ばれている気がして」
アベルは目線を自らのサーベルに落とした。彼の瞳は鋭く光り、昨日までの穏やかさとは違う迫力がある。
「それで宝箱が気になって見に行ったら、中から剣戟が聞こえた」
アベルは宝箱から敵が出て来るのかもしれないと思い、慌てて装備を整えたらしい。けれど音はすぐに消えた。自分で宝箱を開けても、結局何も出て来ない。アベルが拍子抜けしていると、今度は宝箱が発光し始めたということだ。
そこまで話すと、アベルは宝箱を振り返る。彼につられてわたしも見た。宝箱は何事も無かったかのようにコタツの上にある。アベルのサイズ以外はいつも通りだ。
わたしは急に焦りを感じ始めた。理由はわからない。けれど無意識のうちに心の中は黒い靄に覆われ、火山灰が降り積もるようにじわじわと不安が広がっていく。
アベルが、遠い――そんな感覚が、わたしの頭を過ぎった。不確かな、けれどどこか確信めいたその予感が、急速にわたしを支配していく。深い霧を払いのけるかのように、わたしはアベルに提案した。
「ねえ、せっかくだから一緒に出掛けようよ。わたし、今日はもう用事ないんだ」
わたしは努めて明るい笑顔でアベルを誘った。彼は未だ落ち着かない様子で、少し驚いて聞き返す。
「出かけるって、どこに」
「うーん、そうねえ。街でぶらぶら買い物して、おいしいものを食べたいわ。一緒に写真を取ったり……とにかく、楽しそうなことは全部しましょう。たまにこういう日があったって、バチはあたらないわよ」
わたしは、どうしてもアベルを連れ出したかった。今日を逃してしまえば、永遠にその機会を失うような気さえする。
激しい焦燥感をでき得る限りひた隠しにして、どんどん話を進めた。
「しかし、今も同士達は戦っているんだ。俺ばかり遊んでいる訳には……」
「今すぐ戻る方法はないんでしょ。気晴らしになると思うの。行くわよ」
そう言って、わたしはアベルの上着をグイと引っ張り、歩き始めた。彼も足をもたつかせながら少し遅れて付いて来る。
「お、おいっ」
アベルは慌てた様子で声が裏返っていた。わたしは気にしないで、されるがままのアベルを玄関に向かってグイグイ引っ張った。
「あ、でも」
わたしはふと、アベルの服装を思い出す。彼を掴んだまま、玄関先でピタリと足を止めた。その勢いでわたしの背中にアベルがぶつかって、後ろで何やら恨み言を呟いている。わたしはくるりと振り返り、彼の出で立ちを確認した。
アベルは兜を被って鎧を着こみ、サーベルがしっかり腰に収まっている。どう見ても、現代の日本の街へ出かけられるような装いではない。
「サーベルも鎧も兜も全部外してね。変に目立っちゃうわ。警察沙汰はごめんよ」
アベルは意外と素直に応じ、鎧を脱ぎ始めた。
アベルの鎧の下は、洋服に着物の衿に紐をを付けたような上着と、スラックスのウエスト部分に袴のような構造を持たせたような格好だ。これはこれで悪目立ちしそうなので、その上からわたしの生成のパーカーを羽織ってもらうことにした。そして、頬の傷は肌色のテープを張って隠してしまう。アベルが鎧を外している間に、わたしも簡単に身支度をすることにした。
鏡の前に立ち、髪を手櫛で手早く撫でつける。前髪を右に寄せて、ピンク色の小さなリボンが付いたバレッタで留めた。ついでに淡いピンク色のグロスを塗り、服装を確認する。
今日はチャコールグレーのミニワンピースに、えんじ色のタイツを履いていた。黒い小さなカバンを肩から掛けて、黒いショートブーツを履いて出掛けよう。そう考えたところでアベルの準備も整ったようだ。玄関の壁際にアベルの鎧兜とサーベルが立てかけてあるのが見えた。
わたし達は街に出た。気になる店を冷やかしながら、ぶらぶら歩く。靴屋と靴下屋、お気に入りのアパレルショップ、雑貨屋……どちらかと言わなくても、わたしが行きたい店にアベルを連れ回している。けれど、彼もそれなりに楽しんでしるらしい。どこに行っても珍しそうにきょろきょろとあたりを見回して、あれはなんだこれはどうだと質問された。
アベルは雑貨屋で見つけたムーンストーンが付いた何かの紋章のようなストラップを、いたく気に入っようだった。せっかく出て来たのだからと、わたしはそれを彼にプレゼントした。
アベルは申し訳なさそうにしつつも喜んで、早速腰紐に括りつけている。ストラップを何度も嬉しそうに眺める姿を見ると、わたしも嬉しかった。
その後、クレープ屋の行列に並び、プリントシール機で写真を撮った。アベルはイチゴと生クリームのクレープを、わたしはチョコバナナのクレープ頬張った。
アベルは満面の笑みを浮かべて夢中で食べている。あちらの世界では甘いものを殆ど食べたことがなかったと言い、随分美味しそうに食べていた。
プリントシール機では、写真の技術にとても驚いていた。彼の世界には写真がないらしい。どんな顔をして撮ったらいいか分からないと言うので、撮る瞬間に脇をくすぐって笑せた。
そして、何種類か撮った内の写真の一つには、落書き機能を使ってアベルを女装させた。怒るだろうなと思いながらもリボンを描き、化粧を施しすと人形のようにとても可愛く仕上がった。アベルはまたむくれていたけれど、わたしは気に入っている。
アベルは家を出る時こそ渋っていたものの、出掛けてみると実に楽しそうに溌剌とよく笑った。こんなに遊んだことはないと言い、ずっとニコニコしている。
ただ、アベルはわたしが会計をする度にバツの悪い顔をして居心地悪そうにしていた。よその世界から来たのだから仕方がないとわたしは言っているのだが、彼は奢られ続けることが腑に落ちないらしい。
けれど、わたしにすればアベルが現れてから今までずっと、わたしが彼を養って来たのだ。そんなもの今更だった。そんな彼を引っ張って、今度はボウリング場に入った。
アベルによると、彼の世界にもボウリングに似たスポーツがあるらしい。彼は初めてだったそうだが、わたしよりもずっと上手だった。
幾度となくガーターに泣くわたしとは大違いで、アベルはストライクやスペア、さらにターキーまで決めて高得点を叩き出す。
アベルの何度目かのストライクに手を取り合って喜んでいると、2人組の男達が声をかけてきた。
「お姉さんたち。ボウリング上手いねえ。僕らともう1ゲームしない? 」
金髪で赤いシャツを着た男が、さも親しげに話しかけてくる。その男の隣にいる色白の男は鼻ピアスを光らせて、クチャクチャとガムを噛む。こちらを見てはニヤニヤしていて薄気味悪い。ナンパだろうとわたしが困った顔をしていると、アベルが不思議そうにわたしと2人組を見比べている。
「あいつら、あおいの知り合いか? 」
「ううん、知らない。関わりたくないから、返事しないで」
アベルとこそこそと耳打ちしていると、金髪赤シャツ男が勝手に話に割り込んできた。
「つれないなあ。いいじゃん。ちょっとくらい付き合いなよ」
鼻ピアスの方も値踏みするような目で、わたし達をじろじろ眺めている。わたしは卑しい笑いを浮かべる彼らに背を向けて、無視を決め込んだ。
淡々とボウリングの玉を転がして相手にしないようにしていたのだが、どうにもしつこい。あの手この手で無理やり関わろうとし、わたしはだんだん怖くなってきた。けれど、2人組はこの場を離れる気はないらしい。ついに同じベンチに腰を下ろした。
初めはきょとんとしていたアベルだったが、彼もこの状況に苛立ってきたようだ。顔つきがだんだん険しくなり、忌々く不機嫌な顔でベンチに座っている。
ゲームを切り上げて逃げようかと思案し始めた時、わたしの腕を赤シャツが掴んだ。わたしがアベルに目で助けを求めると、アベルは赤シャツを射抜くような目で睨みつけて静かに怒っていた。そこへ、鼻ピアスがさっと移動し、立ち上がろうとしたアベル目の前に立ち塞がった。
「ねえねえ、ポニーテールの君さ。そんなに怖い顔しなくてもいいじゃん。せっかくかわいいんだから」
「俺は男だ。いい加減にしろ」
アベルは鼻ピアスを押しのけて立ち上がり、低く唸るように言った。そして鼻ピアスの胸ぐらを掴んで、今にも切りかかりそうなほどの殺気をぶつけている。鼻ピアスの方がアベルよりも背が高いので、引きずられそうな格好だ。
鼻ピアスは必死の形相でもがいているが、アベルが上手く押さえ込んでいるらしい。全く抵抗できないでいた。
赤シャツは唖然として、わたしの腕をそっと放した。更にアベルが赤シャツにもひと睨みすると、彼は一瞬で青ざめてしまった。冷や汗をかきながら足をもつれさせて、鼻ピアスと共に一目散に逃げて行く。
殺気立ったアベルは、手のひらサイズだった時とは比べものにならないくらいの迫力と凄みを纏っていた。わたしも、そばに居るだけで腰も抜かしそうだ。
アベルそんなわたしの様子に気付き、「しまった」というような顔をした。
「あおい、ごめん」
「……なんで謝るの? 」
「いや、驚かせてしまったようだから……」
アベルは肩を落とし、下を向いてしゅんとしている。先ほどまでの殺気は嘘のように消え去って、すっかりしおれて落ち込んでいた。わたしは首をブンブンと横に振る。
「そんなことないわ。助けてくれてありがとう。アベルと一緒で良かったわ」
そう言ってにっこり笑うと、アベルは「そうか」と、ほっとしたように微笑んだ。
ボウリング場を後にし、近くの食堂で食事をした。帰宅する頃にはすっかり暗くなっていて、夜空に丸い月が浮かんでいる。
わたし達はいつの間にか手を繋いでいた。アベルの体温が心地よく、ごく自然に馴染んでいる。それはアベルも同じらしい。そのことに気付いてからもずっと手を繋いだまま、二人並んで帰路についた。
玄関に入るなり、アベルはわたしを呼んだ。慈しむような、とても優しい声だ。彼を振り返ると、陽だまりのように穏やかな、けれどひどく神妙な顔つきでわたしを見ている。まるで運命と取り組むかのような、真剣な表情だった。
「アベル? どうしたの? 」
わたしは声をかけたが、アベルは押し黙っている。アベルは、彼が身に着けている指輪の一つを外し、わたしにぎゅっと握らせた。
それは艶のある金色の細身の指輪で、外側の全面に唐草模様に似た美しい彫刻が施してある。よく見ると、指輪の内側に小さな白い石が一粒はめ込まれていた。
「あの、これは…… 」
戸惑ってアベルの顔を見ようすると、次の瞬間にはアベルに抱きしめられていた。そのことを理解するのに数秒かかり、わかった瞬間から血が逆流しそうなほど緊張し始めた。
「俺には返す物が何もないから……君は、あの根付けの石をむーんすとんと言ったか。イアサントにもよく似た石があって、守り石として身に付けるんだ。その指輪にも同じ石が付いている」
アベルは、わたしを抱きしめたまま話し続ける。耳元が彼の息でこそばゆい。けれど、ひどく心地よかった。
「今日は初めての事ばかりで楽しかった。根付の礼だ。この指輪は君が持っていてくれ」
抱き合ったまま、アベルがわたしの顔を覗き込む。顔が目の前にあるのが照れくさくて、どこを見ていいのかわからない。目を泳がせながら、ちらりと彼の顔を伺う。
「ありがとう……ムーンストーン、ね。そんなの気にしなくても、いいのに」
いや、とアベルは軽く首を横に振った。
「今までありがとう。君と出会って、俺が守ろうとしていた物の正体が分かった気がするんだ。幸せがどんなものかもわからずに、ただがむしゃらなだけだったから」
抱き合ったまま、アベルはわたしの頬を手のひらで撫でた。思わず彼の目を見ると、彼は幸せそうに笑っていた。けれど、彼の優しい微笑みが却って苦しかった。わたしはぎゅっと胸を締め付けられたような痛みに襲われる。
「けれど、俺はそろそろ帰らないといけないらしい」
「……なんで分かるの」
「呼ばれているんだ」
静かに、はっきりとアベルは言った。悟ったような、まっすぐな目をしている。
「そんなの、急すぎるわ」
「俺だって嫌だ。でも、俺はこの世界の人間ではない。俺たちはもともと、相容れない者同士なんだ」
気付くとわたしは泣いていた。涙が頬を伝って、アベルの肩を濡らしている。彼の赤茶けた髪が揺れて、わたしの頬に張り付いた。
「きっと、これが今生の別れになるだろう。だから、今だけはこのままで居させてくれ」
そう言って、アベルはわたしを抱く力をより一層強めた。
どのくらいそうしていただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったようにも思える。暖かくて離れがたくて、大事な時間だった。
やがてどちらからともなくそっと離れると、いつの間にかアベルの体が透け始めている。
つい先ほどまでアベルが着ていた筈のパーカーは、いつの間にか廊下に置かれていた。そればかりか脱いで立てかけてあったはずのサーベルや甲冑を、アベルは既に身に纏っている。頬のテープも消えてなくなり、傷以外は宝箱から現れた時と同じ姿になっていた。
アベルの周りの空気がきらりと輝いた。更にホタルが飛び交うような光も舞い始め、どんどん幻想的な雰囲気に変わっていく。その間にも彼はどんどん透けていき、もう触ることもできなくなっていた。
やがて微かに銃や刃物がぶつかるような音が聞こえ始める。遠くに悲鳴や怒号も聞こえ、それはあまりにも生々しい。
わたしは恐ろしくなってアベルを見た。彼は「大丈夫」と言ってふわりと笑った。けれどその瞬間、アベルは消えてしまった。音も悲鳴も、もう何も聞こえない。
わたしはしばらくの間、その場から動くことができなかった。長い夢をみていたかのような気持ちで、ぼんやりとアベルに貰った指輪を見つめた。上がり框に腰掛けて、ただじっと眺め続けた。
やっとの思いで部屋に上ると、宝箱がこたつの上にちょこんと乗っている。中を覗いても空っぽで、もう何も出てくる気配はない。
もはや別の物だったのではないかと思うほど、すっかり何の変哲もない小箱に変わったようにすら見えた。
わたしは鞄から2人で撮ったプリントシールを取り出した。並んで笑っていたのがつい数時間前の事なのに、ずっと遠い昔のような気がした。胸にぽっかり穴が空いたみたい、というのはきっとこの事をいうのだろう。アベルが今もどこかで戦争しているのかと思うとやりきれなかった。
翌日、わたしは宝箱を買ったアンティークショップのことを思い出した。そういえばアベルが現れて以来、ずっと忘れていた。あの店に行けば何か手がかりが見つかるかもしれない。
一縷の望みを懸けて、わたしはバイト帰りに店へ向かった。
しかし、アンティークショップだった筈の店はなく、変わりにケーキ屋が建っていた。奥まった路地も見当たらず、ケーキ屋は大通りに面して建っている。
店主に聞くと「アンティークショップなんて知らないし、そもそもここで10年前からケーキ屋をしている」と言っていた。
完
小さな宝箱